♰「神から委ねられた”資産”を善行のために使おう」教皇、第33日主日正午の祈りで

Pope Francis waves to the faithful at the Sunday AngelusPope Francis waves to the faithful at the Sunday Angelus  (Vatican Media)

 「このたとえ話は、すべての人に当てはまりますが、特にキリスト教徒に当てはまります… 今日の貧しい人々の世界祈願日に当たって、教会がすべての人に対して、貧しい人々に手を差し伸べるように促すとき、それは特にキリスト教徒に関係があります」と指摘。「私たち全員には、異なる能力が与えられています。そして、その”贈り物”は、神と私たちの兄弟姉妹への奉仕として、この人生で良いことをするために使われる必要があります」と強調された。

 そのために、教皇は、周りの多くの貧しい人たちに目を向けるように求め、「私たちの街の中心部にさえ、非常に多くの飢餓が存在します。私たちはしばしば無関心です。貧しい人はそこにいますが、私たちは他の方向を見ています」と注意され、「貧しい人たちに目を向け、手を差し伸べましょう。彼らは、キリストなのです… キリストは貧しい人たちのために、この世においでになり、私たちに貧しい人たちを話すことを教えておられます」と説かれた。

 最後に、教皇は、私たち皆の模範として聖母マリアに言及し、「彼女は、『イエスご自身』というすばらしい贈り物を受け取りましたが、独り占めにはしませんでした。彼を世界に与えました」とのべ、「貧しい人々に手を差し伸べることを、聖母マリアから学ぶことができますように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

 

 

 

 

 

 

教皇フランシスコは日曜日のアンジェラスでのタレントのたとえ話を振り返り、神は「贈り物を使って善を行った人々」に報いると述べています。

典礼年の最後から2番目の日曜日に、教皇フランシスコは聖マタイの福音書のタレントのたとえ話を振り返りました。

イエスは、彼の受難、死、そして復活の直前の終わりの時の彼の談話の中でこのたとえ話を共有しています。

それぞれの能力に応じて

たとえ話は、旅に出る主人から多額の金を預けられた3人の召使いについて説明しています。たとえ話の中で、教皇フランシスコは、主人は「彼らの能力に応じて」各使用人に与えます。

「主は私たち全員と共にそうします」と教皇は説明しました。神は「私たちをよく知っています。彼は私たち全員が平等ではないことを知っており、他の人に損害を与えるために誰かを支持したくないのですが、彼または彼女の能力に応じてそれぞれに資本を委託しています。

マスターが戻ってきて、召使いが彼らに預けられたお金の説明をするように呼ばれるとき、2人は「彼らの努力の良い成果」を提示し、マスターによって賞賛されます。しかし、彼の才能を隠していた3人目は、主人から非難され、彼の家族から追い出されました。

Using our gifts for good

“This parable,” the Pope said, “applies to everyone but, as always, to Christians in particular.”

He added that it is particularly relevant today, on the World Day of the Poor, when the Church urges everyone to stretch forth our hands to the poor.

We are all given different abilities – and “these gifts need to be used to do good in this life, as a service to God and to our brothers and sisters.”

Pay attention to the poor

Speaking off-the-cuff, Pope Francis urged everyone to look at the poor, of which there are many.

“There is so much hunger, even in the heart of our cities,” he said. “Often we enter into a mindset of indifference: the poor person is there but we look the other way.” Instead, he said, “stretch forth your hand to the poor: He is Christ.”

Jesus, added the Pope, taught us to speak to the poor. He came for the poor.”

Learning considerate love

Once again, Pope Francis pointed to the Blessed Virgin Mary as an example for all of us. She “received a great gift, Jesus Himself, but she did not keep Him to herself. She gave Him to the world,” he said.

“May we learn from her to stretch forth our hands to the poor,” he concluded.

 

2020年11月15日

◎教皇連続講話「祈りについて」⑥「粘り強く、あきらめず、謙虚に祈るところに失望はない」

教皇フランシスコ 2020年11月11日の一般謁見教皇フランシスコ 2020年11月11日の一般謁見  (ANSA)

(2020.11.11 バチカン放送)

 教皇フランシスコは、11月11日、バチカン宮殿より、ビデオ中継による水曜恒例の一般謁見を行われ、この中で「祈りについて」の講話を続けられた。

 講話の内容は以下の通り。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、

 祈りをめぐるカテケーシスを続けましょう。

 「祈りについての話が多すぎる。必要ないのでは」と言う人がいます。ところが、祈りは必要なのです。私たちが祈ることをやめたら、人生を前に進んでいく力が得られないからです。祈りは生活の酸素です。祈りは私たちの上に、私たちを前進させる聖霊の存在をひきつけます。それゆえに、私は祈りについて多く語るのです。

 イエスは、忍耐をもって続け、実践される祈りの模範を示してくださいます。沈黙のうちに専心して行われる、御父との絶え間ない対話は、イエスのミッションの頂点です。福音書は、疲れを知ることなく、辛抱強く祈るようにとの、イエスからの弟子たちに対する勧めも伝えています。教会のカテキズムは、ルカ福音書にある、イエスの祈りのこの特徴を強調する、3つのたとえ話を思い出させています(参照:「カトリック教会のカテキズム」2613項)。

 祈りは、まず何よりも、粘り強くなくてはいけません。それは、「友達が急に家に立ち寄ったが、何も出すものがないので、パンを貸して欲しい」と言って、真夜中に扉をたたく、「うるさく求める友人」のたとえ話のようにです。扉をたたかれた人が、もう寝ていることを理由に断っても、根気よく頼めば、起きてきてパンを与えるだろう、とイエスは言われます(参照:ルカ福音書11章5-8節)。

 粘り強く願うことが大切です。神は、私たちよりずっと忍耐強いお方です。信仰と粘り強さをもって扉をたたく者を決して失望させることはないでしょう。神は、いつでもお答えになります。私たちの御父は、私たちが必要なものを御存じです。諦めない態度は、神に思いを伝えて説得するためよりも、私たちの中に望みと待つ心を育むために役立ちます。

 次は、「うるさく訴えるやもめ」のたとえ話です。このやもめは裁判官のところへ来ては、相手を裁いて自分を守ってくれるように、と頼みます。この裁判官は神を恐れず人を人とも思わない人物ですが、最後にはそのうるささに根負けして、彼女のために裁判をしてやろう、と決意します(参照:ルカ福音書18章1-8節)。このたとえ話は、信仰とはただ一時の情熱ではなく、悪と不正義を前に諦めることなく、神に願い、神と議論さえする勇気を持つことであると教えてくれます。

 三つ目は、祈るために神殿に上った「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ話です。ファリサイ派の人は、神に向かって自分の功績を自慢します。それに対し、徴税人は、神殿に入ることさえも、自分にはふさわしくない、と感じていました。しかし、神は、ファリサイ派の人のように高ぶる者の祈りではなく、徴税人のようなへりくだる者の祈りを聞かれます(参照:ルカ福音書18章9-14節)。謙虚な精神のないところに、本物の祈りはありません。謙虚さこそが、祈りを通して神により頼むように、私たちを導くのです。

 福音が教えていることは明らかです。常に祈るということ、たとえすべてが虚しく思われる時も、「神が聞いても、話しかけてもくださらない」と思う時も、「時間の無駄だ」と思う時も、いつも祈るということです。たとえ空が暗くなっても、キリスト者は祈ることをやめません。キリスト者の祈りは、信仰と歩調を共にするものです。

 私たちの人生の多くの日々の中で、信仰が単なる幻想のように、不毛な努力のように思われる時もあるかもしれません。しかし、祈りを実践することは、この努力を受け入れることでもあります。「祈っても何も感じない、心が乾ききっているように感じる」ということがあります。辛い時も、何も感じない時も、この祈りの努力を続けてなくてはなりません。多くの聖人たちが、信仰の闇と神の沈黙を体験しています。しかし、彼らは忍耐強く祈り続けました。

 詩編91番を思い出さないわけにはいきません。それは、信頼に満ち、神にすべての希望を託す心からほとばしり出るものです。「神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾。夜、脅かすものをも、昼、飛んでくる矢をも、怖恐れることはない。暗黒の中を行く疫病も、真昼に襲う病魔も」(詩編91章4-6節)

 そして、この素晴らしい祈りを完成させてくださるのはキリストです。キリストにおいて、その完全な真理を見出すのです。イエスなしでは、私たちの祈りは、人間的な努力に矮小化され、それは何度も敗北を味わうことでしょう。しかし、キリストはご自身に、あらゆる叫び、うめき、喜び、願いと、あらゆる祈りを引き受けられました。

 キリストは、私たちにとってのすべて、それは祈りの生活においてもです。このことを、聖アウグスチヌスは輝ける表現をもって語り、その言葉は教会のカテキズムの中にも見出すことができます。

 イエスが「私たちのために祈られるのは、私たちの祭司としてであり、私たちのうちにあって祈られるのは、私たちの頭としてです。また、私たちがキリストに向かって祈るのは、主が私たちの神だからです。したがって、主がなさる祈りの中に私たちの声があり、私たちの祈りの中に主の声があることを認めましょう」(「カトリック教会のカテキズム」2616項)。それゆえに、祈るキリスト者は、怖れを知りません。キリスト者は聖霊に信頼します。恵みとして、私たちに与えられた聖霊が、私たちの中で祈り、祈りを生じさせます。聖霊は祈りの師として、祈りの道を示してくださるのです。

(編集「カトリック・あい」)

 

2020年11月12日

♰「日々の行いを通して、主を迎える灯の”油”を蓄えよう」教皇、8日の正午の祈りで

(2020.11.8  Vatican News staff writer)

 教皇フランシスコは8日、年間第32主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたマタイ福音書の十人のおとめのたとえ話(25章1~13節)を取り上げ、キリストの愛に触発された毎日の善行は、死を超えた人生の祝宴を心穏やかに待つことを可能にする、と語られた。

 イエスの時代、結婚式は夜に祝われたため、祝宴の会場に行くには灯が必要だった。たとえ話では、花嫁介添人となったおとめたちの中で、”愚かな”ものは十分な油の用意をするのを忘れたが、”賢い”ものたちは灯と一緒に、壺に油を入れて持っていた。愚かなおとめたちは、油がなくなって灯が消えそうになったのに気付き、店に油を買いに行ったが、戻るのが遅すぎて、会場に入れてもらえなかった。

 教皇は、「イエスは、このたとえ話で、私たちがご自分の到来に備えねばならないことを、お伝えになりたいのです」とされたうえで、”最後の到来”の前に用意をするだけでなく、日々のイエスとの出会いの用意をすることの必要を指摘され、その用意には「”信仰の灯”だけでは十分ではありません。”慈善の灯”と善い行いが必要です」と強調された。

 そして、私たちをイエスと真に結びつける信仰は、「愛を通して働く信仰」であり、たとえ話に出てくる”賢い”おとめたちが灯と一緒に持っていた予備の油は「天の恵みと協働してなされる善行」を示している、とされ、「私たちが主との最後の出会いの準備をしたいのなら、私たちは今、主に協力し、主の愛に触発された善行を行わなければなりません」と説かれた。

 だが、「残念なことに、私たちは『神との決定的な約束』である人生の目的を忘れてしまい、期待する気持ちを失っています… そして、このような態度は、将来についてどのような展望を持つことも妨げ、人々は、別の命へ向けて旅立つことがないかのように、全てを行います」と警告。

 さらに、このために、「人々は、ものを所有し、歩き回り、地位を確立することだけに神経を使います… もしも、私たちが自分にとって最も魅力的と思われるものに引きづられるのを許せば、自分の利益を探し求めることで、人生は不毛になる。私たちは灯のための油を蓄えず、主がおいでになる前に灯はそれは消えてしまいます」と注意を与えられた。

 そのうえで教皇は説教の最後に「私たちが、油断せず、善行によって神の恵みに応えるなら、たとえ話で花嫁の介添え人となったおとめたちのように、私たちが眠っている間でさえも、主がおいでになることができる… それは、私たちが日々の善行を通して”蓄えた油”を持っているからです」と強調して、締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2020年11月8日

◎教皇連続講話「祈りについて」⑤「祈りは私たちの人生の船を導く舵」-イエスの示す4つの教訓

(2020.11.4 Vatican News  Devin Watkins)

  水曜恒例の一般謁見は、新型コロナウイルス大感染の再燃で公開を4日から中止、再びバチカン図書館からの動画配信の形で行われることになったが、教皇フランシスコは4日の一般謁見で、「祈りについて」の講話を続けられ、「イエスは私たちに、早い時期に、頻繁に、沈黙の中で祈るように、そうすることで人生を正しく秩序付けて送ることができる、と説かれておられる」と語られた。

   この日の謁見を前に、教皇は、「残念ですが、信徒の皆さんの参加なしの、バチカン宮殿の図書館からの動画配信にも取らねばなりません。これは、政府、保健衛生担当部局からの指示を守ることの重要性を確認するものでもあります」と語り、新型コロナウイルスに感染した人々、彼らの治療に懸命に働いている医療関係者のために祈るように求められた。

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 講話では、イエスの祈りについて取り上げ、「イエスの祈りは、神秘的な現実であり… それによってイエスの使命全体を正しい視点から解釈することができます」とされ、イエスはご自身をは、父なる神と一つになって「すべての人の心が渇望する愛」の中にお沈めになる、と語られた。

 続いて教皇は、マルコ福音書の箇所(1章32,34-38節)を取り上げられた。

 この箇所で、イエスはある夜、カファルナウムで多くの病人を癒し、翌日、朝早く起きて、寂しい所に出て行き、祈られる。弟子たちがイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言ったのに対して、イエスは「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、私は宣教する。私はそのために出て来たのである」と答えられた。 教皇は「祈りは、イエスが進む道を案内する舵です」とされ、このことは、道案内を、他の人々の欲望や称賛ではなく、神にお任せになることを意味する、と説かれた。

 続けて、イエスの祈りから学ぶべき4つの教訓を示された。

 まず、イエスは、祈りは何よりも「その日の最初の強い願い」であるべき、と教えておられる。

 教皇は「祈りのない生活をした日は、面倒で退屈なものになってしまうリスクがあります。私たちに起こることはすべて、我慢と先の見えない事態に変わってしまいかねません」と語られ、祈りは「まず第一に『神との出会い』であり、従順に耳を傾ける必要があることを、イエスは示されています。日常生活が抱える問題は障害ではなく、私たちの前にいる人々に耳を傾け、出会いを持つように、という神ご自身からの呼びかけです」と指摘された。

 第二に、イエスは私たちに、祈りは「執拗」に実践されねばならない巧みなわざ、であると教えている。

 教皇は、「誰でも、時折、ばらはらに祈ることはできますが、イエスは、祈りには規律、実践、そして絶え間ない努力が必要であることを、私たちに思い起こさせます。一貫した祈りは、前向きの変化を生み出し、苦難の時に私たちを強くし、私たちを愛し常にを守り支えてくださる神の恵みを与えてくれます」と説かれた。

 第三に、イエスの祈りは常に「孤独」である。

 「祈る人は、世界から逃げることはありませんが、人里離れた場所を好みます。祈りの沈黙の中で、私たちの心の奥の強い望みと真実が光の中に現れます」と教皇は語られた。そして、最も重要なことは「沈黙は、神が語られる場所」だということであり、 「すべての人は、行動が意味を見い出せるような内面の生活を養い育てることができるように、自分自身のための空間を必要としているのです」と語られた。

 最後に、教皇は、「イエスによって教えられた祈りは、『すべてが神から来て、神に戻る』ということを、私たちが見つけ出す場です」とされ、祈りは「『神、私たちの父との関係、そしてすべての被造物との私たちの関係における正しい側面』を再発見するのに役立ちます」と説かれた。

 そして、「平和と喜びは、私たちがイエスの祈りの模範に従うなら、見つかります」と締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用の和訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

 

2020年11月4日

♰「神への信頼こそがキリスト者の希望」ー死者の日に

(2020.11.2 バチカン放送)

 教皇フランシスコは2日、カトリック教会の暦で死者の日を記念し、バチカンのテウトニコ墓地に付属する教会でミサを捧げられた。

 ミサは、新型コロナウイルス感染拡大予防措置に従い、私的な形で、わずかな関係者のみの参加をもって行われ、説教で教皇は、第一朗読「ヨブ記」(19章23-27a節)の、弱り切ったヨブが、絶望の淵から、贖い主に深く信頼を寄せる場面を取り上げられた。

 「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に塵の上に立たれる」(19章25節)。

 「私は肉を離れ、神を仰ぎ見る。この私が仰ぎ見る。ほかならぬ私のこの目で見る」(同26-27節)。

 ヨブのこれらの言葉に見られる「神への信頼こそ」が、人生の終わりを前にしたキリスト者の希望である、と教皇は話され、この希望は私たちの力で得られるものではなく、「主よ、希望をください」と願い求めるべき恵みである、と語られた。

 そして、人生には多くの困難があり、「すべてはもうおしまいだ」「死んでも後に何もない」と、時に絶望させられることもあるが、こうした時に、「私を贖う方は生きておられる…この私が仰ぎ見る。」というヨブの言葉がよみがえるだろう、と説かれた。

 次に、教皇は、第二朗読(ローマの信徒への手紙5章5-11節)中の、使徒聖パウロの「この希望が失望に終わることはありません」(5章5節)という言葉を掲げ、「私たちを人生へ、また永遠の喜びへと惹きつけ、意味を与える、神の恵みとしての希望」の大切さを示された。

 最後に教皇は、福音朗読(ヨハネ福音書6章37-40節)の「父が私にお与えになる人は皆、私のもとに来る」 (6章37節)、「私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである」(6章37-38節)というイエスの言葉を観想され、「主は私たちを天国で迎えてくださいます。そこに私たちの錨があります。綱を握りしめ、錨にしっかり繋がりながら、希望のうちに生きましょう」と呼びかけられた。そして、この死者の日、今は亡き多くの兄弟姉妹に思いを向けると同時に、天を見つめ、ヨブの「私を贖う方は生きておられ…この私が仰ぎ見る」という言葉を思い起こしましょう、と促された。

 ミサ終了後、教皇はテウトニコ墓地で祈りを捧げられた。

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 バチカンの聖ペトロ大聖堂の脇のテウトニコ墓地は、かつてネロ帝の競技場があった一角に位置する。この競技場では多くのキリスト教徒が殉教したことで知られ、この場所の墓地としての起源は、当時にさかのぼるとも言われている。

 799年、カール大帝によってフランク人の巡礼者のための施設が建てられた。1450年、聖年に合わせて墓地が手入れされ、さらに1454年、ドイツ人の聖職者らによって完全な整備が行われた。同墓地には、伝統的に、ドイツ系の人々が葬られてきた。

 墓地に隣接してサンタ・マリア・デラ・ピエタ・イン・カンポサント・デイ・テウトニチ教会がある。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用部分は「聖書・聖書協会共同訳」を使用)

2020年11月4日

♰「”物欲、傲慢の文化”がはびこる今こそ、柔和、謙遜、慈愛が必要」教皇、諸聖人の祝日正午の祈り

Pope at AngelusPope at Angelus  (Vatican Media)

(2020.11.1  Vatican News staff writer)

   教皇フランシスコは諸聖人の祭日を迎えた1日正午の祈りの説教で、イエスの山上の説教(マタイ福音書5章1~12節)を取り上げ、キリストの復活を基礎に置いた”大きな希望”について深く考えるよう、信徒たちに求められた。

 説教で教皇は、冒頭で、聖人たち、福者たちが「キリスト教徒の希望の最も権威ある証人」であることを確認されたうえで、信徒たちに、「心の清さ、柔和、憐れみ深さを選び、自分自身を主に委ね、正義と平和に献身」するようにお勧めになった。

 そして、山上の説教でイエスが説かれた八つの幸いのうち、二つ目(悲しむ人)と三つ目(柔和な人)の幸いを振り返り、この二つが聖性への道を示すもの、とされた。

 二つ目の幸いを、イエスは、「悲しむ人は、幸いである。その人たちは慰められる」と語っておられる。教皇は、まず、「この言葉は、矛盾しているように見えます。なぜなら、悲しむことは、喜びと幸福のしるしではありませんから」とされたうえで、「しかし、イエスは、苦痛、罪、日々の生活の困難のために嘆き悲しんでいても、すべてを置いて主を信頼し、主の下に身を寄せる人を祝福されます」と述べ、「彼らは無関心でも、痛みを感じ時に心をかたくなにすることせず、神の慰めを辛抱強く望んでいます。そして、このような人生においても、安らぎを経験するのです」と説かれた。

 三つ目の幸いで、イエスは「柔和な人々は、幸いである」とされ、「その人たちは地を受け継ぐ」と言われる。教皇は、柔和はイエスの特徴であり、ご自身についても、「私は柔和で、謙遜な者だから」(マタイ11章29節)と語っておられる、と指摘。「柔和な人は、自分を制御する方法を知っており、他の人のために道をあけ、話を聴き、生き方、彼または彼女の求めているものを大切にする人」とされた。「そのような人は、他の人を圧倒したり、委縮させたりしません。自分の考えや関心をもっぱらにしたり、押し付けたりし、他の人に不利益をもたらすようなことを求めません」と強調された。

 さらに教皇は「このような人々は、世の中の人々やその考え方からは評価されないかも知れませんが、神の目には価値ある存在です。神は彼らに、恵みとして約束の地、つまり永遠の命をお与えになります。この無上の幸せも、この地上から始まり、天国で全うされるのです」と説かれ、特に現在のように、世の中が非常に攻撃的になっている時代には、「柔和は、謙遜と慈愛と共に、前に進むために選ぶべき道です」とされた。

 そして、信徒たちに対して、心に清さ、柔和さ、そして憐れみのある人生を選ぶようにー心の貧しさと苦しみを神にお任せするように、と勧められ、「このようにすることは、世の中の考え方に”ついての、”所有欲、無意味な楽しみ、最も弱い者に対する傲慢”の文化”についての、現在の風潮に逆らうことを意味します」と心構えを説かれた。

 最後に教皇は、このような福音宣教の道は、聖人たちや福者たちが歩んだ道であること、今日の諸聖人を称える厳粛な祝いは私たちに「聖性への個人的、普遍的な使命を思い起こさせ、その旅ー一人一人が、聖霊の構想力に従って、唯一の、繰り返しのきかない道に踏み込む旅ーの確かな模範を示していること、を強調して、説教を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2020年11月1日

♰教皇、ニースのノートルダム大聖堂襲撃事件の犠牲者たちを悼む

(2020.10.29 バチカン放送)

 教皇フランシスコは現地時間29日朝、フランス南部ニースのノートルダム大聖堂で起きた襲撃事件を受けて、ニース教区のアンドレ・マルソー司教に犠牲者を悼むメッセージを送られた。

 メッセージで教皇は、無実の人たちの命を奪った行為を、「暴力的なテロ行為」であるとして「力のかぎり」非難されたうえで、犠牲者の冥福を祈り、遺族の苦しみに心を合わせられた。

 そして、教皇はフランスのカトリック教会共同体とすべてのフランス国民にご自身の寄り添いを伝えると共に、皆の一致を呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2020年10月31日

♰教皇水曜講話「私たちは決して一人で祈らない、イエスが共に祈ってくださる」

Pope Francis at General Audience Pope Francis at General Audience   (Vatican Media)

(2020.10.28 Vatican News staff writer)

   教皇フランシスコは28日の水曜恒例一般謁見での「祈り」をテーマとした講話で「祈りは御父との愛の対話の永遠の表現であり、人生のあらゆる瞬間において、最も困難な時、そして罪の重荷を感じている時でさえも、祈り続けるように」と信徒たちを促された。

 講話の前に、教皇は、新型コロナウイルスの感染がイタリアを含む欧州各国で再燃しており、一般謁見においても信徒たちのそばに寄ることができないことを悲しみながら、「私の心はあなた方のそばにいます。安全を第一にしてください」と語られた。

 「祈り」をテーマにした講話では、イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ、宣教活動を始められた場面を思い起こされた。

 教皇は、この箇所(マルコ福音書1章5節、マタイ福音書3章8節参照)で語られていることの根本的な重要性について二人の福音書記者は一致しており、人々がどのように祈りに集まって来たのかを語っている、とし、この集まりが明らかに悔い改めの性質を持ったもの、と教皇は指摘された。

 そして、「イエスの公生活で初めになさったことは、人々の唱和の祈り、悔い改めの祈りに参加すること、その祈りの中で、皆、一人ひとりが自分を罪人であると認識するのです」と述べられた。

 洗礼者ヨハネは、自分から洗礼を受けようとされたイエスに思いとどまられようと、「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私の所に来られたのですか」と言った(マタイ3章14節)が、イエスは、ヨハネに、これは、父の意思に従う行為、人間の姿をもって連帯する行為なのだ、として、洗礼を授けけるように求めた、と教皇は指摘。

 そうして、イエスは「神の民である罪人たちと祈られます。不従順な人々と違うこと、距離があることを示すために、ヨルダン川の向こう岸の方に行くことはせず、同じ清められた水に足を浸されたのです」とされ、「このように、イエスは”遠い神”ではありません。ご自分の使命を果たし始められた時、ご自身を悔い改めた人々の先頭に置かれ、「私たち全員が、イエスの後に従って、くぐる勇気を持たねばならない”突破口”を開かれたのです」と説かれた。

 また、教皇は、イエスが洗礼を受け、公生活を始められたその日、ヨルダン川のほとりに、すべての人間が「祈りへの暗黙の強い思いをもって」立っているのだ、と語られ、誰よりもそこにいるのは、罪人の群れー「神に愛されていないと思った人、神殿の敷居を跨ごうとしなかった人、自分にふさわしくないと考えて祈らなかった人です」とされた。

 だが、「イエスはすべての人のために、そうした罪人のためにさえも、この地上においでになり、まさに、その中に入ることから公生活を始められました」と述べ、さらに、「祈ることによって、「イエスは天の扉を開かれ、聖霊がそこから降りて来られる。私たちが祈る時、決して一人ではありません。イエスが私たちと共にお祈りになるのです」と強調された。

 また教皇は、「洗礼によって、私たちはキリストの兄弟姉妹になり、聖霊の賜物によって、私たちは、イエスご自身の祈りの中で、『御父との愛の対話の永遠の表明』を分かち合うことができるのです」とも語られた。

 さらに、イエスは、激動の生涯、激しい非難、そして耐え難いような辛く、悲しい経験を通して、「嫌悪や迫害に取り巻かれた時でさえも、イエスは決して住まいとしての避難所を持つことをせず、御父の中に永遠に住まわれるのです」とされた。

 最後に教皇は、「イエスは、私たちのためにこの贈り物を手に入れ、ご自身が祈られたように私たちにも祈るように招かれています」とし、「祈る時に、このようなことがあるかも知れません。面倒くさい、あるいは、空しい、と感じたり、人生はまったく無駄であるように思えたりするかもしれません。そのような時こそ、私たちは、イエスの祈りが私たち自身のものになるように、願わなければならないのです」と諭された。

 そして、このように締めくくられたー「そうすれば、天からの声を聴くでしょう。私たちの深みから沸き起こる声よりも大きく、優しい言葉で耳打ちしますー私たちは神の愛される子供たち、天には父の喜び、と」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2020年10月28日

♰「神と隣人を愛することは、キリスト教徒の人生の基本」教皇、30日主日正午の祈りで

(2020.10.25 Vatican News)

   教皇フランシスコは25日の第30主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれた福音書の箇所を取り上げ、「愛は、キリストの教えの”要石”」と話された。

 この箇所(マタイ福音書22章34~44節)では、律法の専門家の1人がイエスを試そうとして、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねる。イエスは、このように答えられるー「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、そして、「隣人を自分のように愛しなさい(注:岩波書店版・新約聖書翻訳委員会「新約聖書」によるギリシャ語原典に忠実な日本語訳は「お前の隣人をお前自身として愛するであろう」⇒ギリシャ語原文は二人称単数未来形)と。

 教皇は、イエスは2つの守るべき掟を示すことで、「すべての時代の信徒にとって欠かすことのできない2つの基礎を確立されます。第一の基礎は、道徳的、宗教的生活は、不安にさいなまれ、強制されで(注:掟に)服従するようなものではなく、愛を原理とすべきこと。第二は、愛は、神と隣人とに共に、分け隔てなく、向けられるべきだということ、です」と語られた。

 また、教皇は、今日のミサで読まれた福音書で、「イエスは、改めて、私たちに、生きた、あふれ出る愛の源に行くのを助けてくださいます。この源泉は、神ご自身であり、何も、誰も壊すことのできないご聖体の拝領において完全に愛されるのです… 聖体拝領は、日々、呼び覚まされる賜物ですが、私たちの人生が、この世の偶像の奴隷にされないようにする誓約でもあります」と指摘。「私たちの回心と聖なるものの旅の証明は、常に私たちの隣人への愛にあります。心を閉ざす兄弟姉妹がいる限り、私たちは、イエスが願われるような弟子にはほど遠いことになります」とされた。

 最後に教皇は、「神の憐れみは、私たちを落胆させることはなく、福音を首尾一貫して生きる歩みを、再び始めるように、私たちに日々、呼びかけておられるのです」と語られ、説教を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)(聖書の引用箇所の日本語訳は原則として「聖書協会・共同訳」を使用)

2020年10月25日

◎教皇連続講話・新③「詩編は、神を崇め、神の子を愛するように私たちを導く」

(2020.10.21  Vatican News staff writer)

 教皇フランシスコは21日、水曜恒例の一般謁見で、先週に続いて詩編に関する講話をされ、詩編は私たちが「神の目で現実を考える」ことを可能にする、と語られた。

 教皇は冒頭、イタリアを含む欧州各地などでの新型コロナウイルスの感染者数増加を念頭に講話を始められ、聴衆に対して、「皆さんに近づきたいと思っていても、すべての人に伝染する危険があるので、近づくことはしません。申し訳ありませんが、これはあなたの安全のためです」とされ、握手する代わりに、距離を置いて挨拶することを提案しつつ、皆がご自身の心に近いことを保証された。

 続いて、教皇は「朗読者たちが聖書の箇所を読んでいる間、私の関心はあちらで泣いている赤ちゃんに惹きつけられました、そして私は、その赤ちゃんをあやしているお母さんを見て、こう言いましたー『これこそ、神がこのお母さんのように、私たちにされることです』」と述べ、母親の優しさの美しい姿は「教会の姿、私たちに対する神の優しさの象徴です。ですから、教会で泣いている赤ちゃんを黙らせないでください、絶対に。なぜなら、それは、神の優しさを引き付ける声だからです」と説かれた。

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*神の目で現実を見る

  このように話されたうえで、「祈り」に関する連続講話の中で、詩編に関する二回目で最後となる講話を始められた。「詩編は、私たちが”邪悪者”の誘惑、つまり、神が存在しないかのように、貧しい人々が存在しないかのように、生きること、そして祈ること、の誘惑に陥らないように、私たちを助けてくれます。

 そして「詩編の祈りは、人生の根本的な現実です。なぜなら、霊的な達人が『敬神の念』と呼ぶ、絶対者、超越者への言及が、私たちを完全に人間にするからです。祈りは、私たちが『略奪的で貪欲なやり方』で人生に挑むことを妨げます」とする一方で、他人の称賛を求める「偽りの祈り」や、イエスご自身が戒めておられる最新の流行を見せびらかすことに対して警告。「心の中での真の祈りのは、私たちがまさに神の目で現実を見つめられるようにしてくれます」とされた。

 また教皇は、オウムのように祈りに疲れ、機械的に祈ることに対しても警告し、「祈りは心からの、人生の中心であるべきです。祈りがあれば、兄弟、姉妹、そして敵でさえも、重要になります… 神を崇める人々は、神の子供たちを愛しています。神を尊ぶ人々は、人間を尊びます」と強調。さらに、祈りは「人生の不安を和らげる鎮静剤」と見なされるべきではない。それは、キリスト教徒の祈りの形ではありません。イエスが弟子たちに教えられた『私たちの父よ』に見られるように、祈りは、私たち一人一人を責任ある者とするのです」と語られた。

*祈りは神殿と世界を結びつける

 教皇は、詩編はしばしば「存在の傷跡を明らかにします」とされた。だが、「これらの祈りは、最も親密で個人的なものでさえ、最初に神殿で、次にシナゴーグで使われました。『カトリック教会のカテキズム』は、『詩編は…神殿の典礼においても人間の心の中でも、祈りとして用いることができる』(2588項)と述べています。このように、個人的な祈りは「最初にイスラエルの人々の祈りによって、次に教会の祈りによって養われるのです」と指摘。 さらに、「一人称単数の詩篇でさえ、すべての人によって、すべての人のために祈られる、という点で共同の財産です」「キリスト教徒の祈りには『息吹き』と『神殿と世界とともに捉える、という、霊的な緊張』があります」と述べた。

 また教皇は、「祈りは、聖堂の会衆席のあたりで始めても、街の通りで終えることができます… それとは反対に、一日の活動中に開花し、典礼で満開になることもできます… 教会の扉は、皆のうめき声を中に入れます」。「ですから、世界はいつも詩編の中に存在します。最も弱い者のための救いの神の約束を請け合い、世俗的な富の危険を警告し、あるいは歴史についての神の見方に視野を開きます」と説かれた。

*神の愛と隣人

 教皇は「要するに、神がおられるところに、人間もいなければなりません… 私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。『神を愛している』と言いながら、自分の兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える自分の兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができないからです」と、ヨハネの手紙(1=4章19~21節)を引用して語られた。

 そのうえで、「すべての人間に刻印されている神の姿を否定する人の『無神論』を、神は支持されません… 他の人を遠ざけ、憎みながら神を信じることは、”実践的な無神論”です。神殿と祭壇に向けられた冒瀆、嫌悪、最悪の罪です」と強く批判された。

 最後に教皇は、「詩編は私たちを、『神が存在しないかのように、貧しい人々が存在しないかのように生き、祈る』誘惑に陥るのを防いでくれるのです」と強調して、講話を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2020年10月21日

♰「善き市民は、社会に貢献し、福音の証人であらねばならない」29日主日正午の祈りで

    教皇フランシスコは18日、年間第29主日の正午の祈りの説教で、キリスト教徒には社会で生きた存在となり、社会を福音で元気づける義務と責任があり、「神と人生の意味を証しし、今日の世界における人間の尊厳の促進と擁護に惜しみなく献身するように」と呼びかけられた。


当時、パレスチナでは、ローマ帝国による支配は宗教的な理由からも我慢できない風潮があり、住民たちには、「硬貨に描かれた皇帝の像は、イスラエルの神への侮辱を象徴するもの」と受け取られていた。そうした背景の中で、彼らの問い掛けに、
「はい」、「いいえ」のいずれの答えしても、落とし穴に落とせる、と敵対者たちは考えていた。だが、イエスは彼らの悪意に気付いておられ、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われた。

 教皇は、イエスはこのように答えることによって、「この議論に勝たれました… 皇帝に敬意を払わねばならないことは認めましたが、同時に、それぞれの人が自分の中に、(注:敬意を払うべき)別の対象ー神の姿を持っており、『自分が生きているのは神の、神だけの、おかげだ』ということを思い起こさせました」とされ、「このイエスの言葉には、政治的領域と宗教的領域を区別するための基準だけではなく、現在の私たちを含めて、すべての時代のすべての信徒たちの使命の明確な指針を示しておられるのです」と強調。

 そして、「税金を支払い、法律を守ることはすべての人の義務ですが、同時に、人間の命と歴史にとって神が最も重要な存在だということを確認し、神に属するすべてのものに対する神の権利に敬意を払う必要があります」と述べられた。

 さらに教皇は、「教会とキリスト教徒の使命は、神について語り、現在の男性、女性に対して神を証しすること。洗礼によって、私たちは皆、社会の中で生きている存在であり、福音と聖霊の活力で、人生を奮い立たせる」ように求められている、とされ、謙遜と勇気をもって、この求めに応え、「正義と友愛が支配する愛の文明の建設に貢献する」よう促された。

 最後に教皇は、次のように聖母マリアに祈られたー「私たち皆が、あらゆる偽善から逃れ、正直で、建設的な市民になるよう、助けてください。そして、神が中心であり人生の意味であることを証しする使命を課せられたキリストの弟子である私たちを、支えてくださいますように」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2020年10月19日

♰18日「世界宣教の日」、教皇メッセージ「宣教は、神の呼び掛けに自覚をもって応えること」

2020年10月18日「世界宣教の日」

教皇メッセージ 「ここに私はおります。私を遣わしてください」(イザヤ書6章8節)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 昨年10月、教会全体が「福音宣教のための特別月間」に熱意をもって取り組んだことを神に感謝したいと思います。私はこの特別月間が、「洗礼を受け、派遣される──世界で宣教するキリストの教会」をテーマとする歩みを通して、多くの共同体で、宣教のための回心を促すことに貢献したと確信しています。

 新型コロナウイルス感染症の世界的拡大がもたらす苦しみや、さまざまな課題が著しい今年、教会全体は、預言者イザヤの召命物語にある次のことばに照らされながら、この宣教の歩みを続けています。「ここに私がおります。私を遣わしてください」(イザヤ書6章8節)。この言葉は、「誰を遣わそうか」(同)という主の問いかけに対する、常に新たにされる答えです。神の御心から、神の慈しみから出るこの呼び掛けは、今日の世界的な危機のただ中で、教会と人類に向けられています。

 「福音の中の弟子たちのように、思いもよらない激しい突風に不意を突かれたのです。私たちは自分たちが同じ舟に乗っていることに気づきました。皆弱く、先が見えずにいても、誰もが大切で必要な存在なのだと。皆で共に舟を漕ぐよう求められていて、誰もが互いに慰め合わなければならないのだ、と。この舟の上に……私たち皆がいます。不安の中で声をそろえて『溺れて』(マルコ福音書4章38節)しまう、と叫ぶあの弟子たちのように、私たちも自力で進むことはできず、共に力を出すことで、初めて前進できるのだ、と知ったのです」(「特別な祈りの式におけるウルビ・エト・オルビのメッセージ」2020年3月27日)。

 私たちは心底おびえ、途方に暮れ、不安にさいなまれています。痛みと死により、人間のもろさを痛感していますが、それと同時に、誰もが生きたい、悪から解放されたい、という強い思いを抱いていることに気づかされます。こうした状況においては、宣教への呼びかけと、神と隣人への愛のために自分の殻から出るようにとの招きは、分かち合い、奉仕し、執り成す機会として示されます。神から各自に託された使命は、おびえて閉じこもる者から、自分を差し出すことによって自分を取り戻し、新たにされる者へと、私たちを変えるのです。

 神は、イエスの使命が成し遂げられた十字架でのいけにえ(ヨハネ福音書19章28-30節参照)において、ご自身の愛が一人ひとりに、そして皆に向けられていることを明らかにされます(同26―27節参照)。そして、遣わされる覚悟ができているかと、私たちにお尋ねになります。なぜなら、神は愛であり、使命への絶え間ない働きの中で、命を与えるために、ご自分の外に常に出て行かれる方だからです。

 父なる神は、人間への愛ゆえに、御子イエスをお遣わしになりました(ヨハネ福音書3章16節参照)。イエスは御父から遣わされた方です。イエスの人となりとその業は、御父のみ旨に完全に従うものです(ヨハネ福音書4章34節、6章38節、8章12-30節、ヘブライ人への手紙10章5-10節参照)。そして、私たちのために十字架につけられて復活されたイエスが、同じように私たちをご自身の愛の躍動へと引き寄せ、教会を生き生きとさせるご自身の霊によって、私たちをキリストの弟子とし、使命のためにこの世界と諸国民へ派遣しておられるのです。

 「使命(ミッション)、『教会が出向いて行くこと』とは、ある種の計画でも、意思の力だけでなし遂げる意向でもありません。教会を外に出向かせておられるのはキリストに他なりません。福音を告げ知らせるという使命を果たそうとするのは、聖霊があなたを突き動かし、あなたを導いておられるからです」(教皇フランシスコ『この方無しには何もできないー現代世界で宣教者であること』16-17〔Senza di Lui non possiamo far nulla: Essere missionari oggi nel mondo, Libreria Editrice Vaticana-San Paolo, 2019〕)。

 神はいつも、まず先に私たちを愛してくださり、その愛をもって私たちに会い、私たちを呼んでおられるのです。一人ひとりの召命は、教会において私たちが神の息子、娘であり、神の家族であること、イエスが示した神の愛において兄弟姉妹である、という事実から生まれます。ただし、誰もが人間としての尊厳をもっています。その尊厳は、神の子になりなさい、洗礼の秘跡と自由意志による信仰によって、御心に常にかなう者になりなさい、という神の呼び掛けに根ざしています。

 既に無償で命を受けたということが、一粒の種として自分自身を差し出す、という力強い動きに加わるよう、招かれていることを示唆しています。洗礼を受けた人のうちでその種は、結婚生活や神の国のために独身で生きる中で、愛の応答として実ります。人間の命は神の愛から生まれ、愛のうちに成長し、愛に向かいます。誰も神の愛から排除されることはありません。

 そして神は、十字架上の御子イエスの聖なる犠牲のうちに、罪と死に勝利されました(ローマの信徒への手紙8章31-39節参照)。神にとって悪はー罪でさえもー愛するため、さらに深く愛するための機会となります(マタイ福音書5章38-48節、ルカ福音書23章33-34節参照)。ですから、神の慈しみは、過越の神秘を通して、人類の原初の傷を癒し、宇宙全体へと注がれているのです。

 この世界のための神の愛の普遍的秘跡である教会は、イエスの使命を歴史の中で引き継ぎ、あらゆる所へ私たちを派遣します。それは、私たちによる信仰の証しと福音の告知を通して、神がご自分の愛をはっきりとお示しになり、いつどこででも、人々の心に、思いに、身体に、社会に、文化に触れて、それらを変えられるようにするためです。

 宣教は、神の呼び掛けへの自由で自覚をもった応答です。しかし、その呼び掛けは、教会のうちに現存されるイエスとの個人的な愛の結びつきを生きている時にのみ、気づくことができるものです。次のように自らに問いましょう。

 聖霊を自分の人生に迎え入れる心構えができているだろうか。

 結婚生活を送るにせよ、独身での奉献生活や叙階による司祭職を生きるにせよ、日常生活の中で、宣教への呼び掛けに耳を傾ける備えができているだろうかか。

 慈しみ深い父なる神への信仰をあかしするために、イエス・キリストの救いの福音を告げ知らせるために、教会を築くことによって聖霊の聖なる命を分かち合うために、どこへでも派遣される覚悟ができているだろうか。

 イエスの母マリアのように、何のためらいもなく、み旨に仕える備えができているだろうか(ルカ福音書1章38節参照)。

 こうした心構えは、「ここに私がおります。私を遣わしてください」(イザヤ書6章8節)と神に答えるために欠かせないものです。しかも、それは抽象的なことではなく、教会と歴史の今この瞬間にあることなのです。

 このコロナ大感染の時に、神が何を語っておられるかを理解することもまた、教会の宣教に課せられた挑戦です。病、苦しみ、恐れ、孤立が、私たちに挑んでいます。看取られずに亡くなった人、独りで置き去りにされた人、仕事も収入も失った人、家や食べ物のない人、そうした人々の窮状が私たちを問いただします。社会的距離を守ることや自宅に留まることが要請される中で、私たちは社会的な関わりだけでなく、共同体としての神との関わりも必要としていることを再認識するよう招かれています。こうした事態によって促されるのは、不信感や無関心を増幅することなどではなく、他者との関わり方にこれまで以上に心を配ることであるべきです。

 また、祈りーその中で神は私たちの心に触れ、働きかけておられますーを通して、私たちの心は、兄弟姉妹が求める愛と尊厳と自由へ、すべての被造物の保護へと開かれます。感謝の祭儀を祝うために教会として集うことができなくなったことで、私たちは、主日ごとにミサを行えない多くのキリスト教共同体の境遇に触れることができました。

 こうした状況の中で、神は再び私たちに問い掛けておられます。「誰を遣わそうか」。そして、物惜しみしない確信に満ちた答えを待っておられます。「ここに私はおります。私を遣わしてください」(イザヤ書6章8節)。神は、ご自分の愛と、罪と死からの救いと、悪からの解放を証しするために、世界と諸国民のもとに遣わす人を、探し続けておられます(マタイ福音書9章35-38節、ルカ福音書10章1-12節参照)。

 「世界宣教の日」を記念することは、いかに皆さんの祈り、黙想、物的支援が、教会におけるイエスの使命に積極的にあずかる機会となっているかを、再確認することでもあります。10月の第三主日の典礼祭儀での献金として行われる愛の業は、教皇庁宣教事業が私の名で行う宣教活動を支えています。それは、すべての人を救うために、世界中の人々と教会の霊的・物的な必要に応えるための活動に使われます。

 福音宣教の星、悲しむ人の慰め、御子イエスの宣教する弟子である至聖なる乙女マリアが、私たちのために執り成し、私たちを支え続けてくださいますように。

ローマ サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2020年5月31日 聖霊降臨の主日 フランシスコ

2020年10月16日

◎教皇一般謁見講話「神は、苦しみの時、祈る私たちの側にいてくださる」

Pope Francis holds the weekly General Audience in the Paul VI HallPope Francis holds the weekly General Audience in the Paul VI Hall  (Vatican Media)

(2020.10.14 Vatican News Devin Watkins)

 教皇フランシスコは14日の水曜恒例の一般謁見での講話で、旧約聖書の詩編に示されている祈りの証しを取り上げ、「神の心の扉は、私たちの痛みの時に、常に開かれている」と話された。

 教皇は旧約聖書を「数えきれない男性と女性の祈りの体育館であり家」と呼ばれた。

*どのように祈るか

 知恵の書物の一部として、詩篇は「祈り方を知っている」信徒たちに伝わる。

 教皇は、「私たちは、詩篇の中に、私たちの生活を彩る喜び、悲しみ、疑い、希望、苦味など、すべての人間の感情を見出します… 神は、それらを読む人々が神を賛美し、感謝し、懇願し、そして呼び出す方法を学ぶことができるように、この中で祈りの言葉に閃きを吹き込みました」と述べ、「つまるところ、詩篇は、私たち人間が神と話すために使う神の言葉なのです」と語られた。

 そして、詩篇の祈りは「象的な考えではなく、生きた経験から生まれたもの。詩編を祈ること、それは、私たちにとって、問題と不確実性のすべてと共に、自分であることで十分なのです」と述べられた。

*苦しみについて

 教皇はさらに、詩編作者が苦しみの問題にどのように立ち向っているかについて考察し、苦しみが人生の一部として受け入れられ、そうして「問い」に変えられた、とされた。「『いつまで?』という問いには、答えがないままです。すべての苦しみは、それからの解放を求め、すべての涙は慰めを求め、すべての傷は癒しを待ち、すべての誹謗中傷は赦免の判決を待ちます」。 また教皇は、詩篇は、「苦しみが癒されない限り、命は救われないことを、私たちに思い起こさせます」とし、祈る人は「自分たちが神の目にはかけがえのない存在であり、叫ぶのは理にかなっていることを知っています」と説かれた。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

Pope Francis: God is close to us when we pray

2020年10月14日

♰教皇28主日正午の祈り「神は、すべての人を『救いの恵みの婚宴』に招いてくださる」

Pope Francis greets pilgrims from the window of the Apostolic LibraryPope Francis greets pilgrims from the window of the Apostolic Library  (Vatican Media)

(2020.10.11 Vatican News  Devin Watkins)

 教皇フランシスコは11日、年間第28主日の正午の祈りの説教で、私たちは主の婚宴への招きに応じるには「心を改める回心の旅をする」決意も必要とされる、と強調された。

 正午の祈りのために聖ペトロ広場に集まった人々を前に、教皇は、この日のミサで読まれたマタイ福音書の「自分の息子の婚宴に人々を招いた王のたとえ話」(22章1~14節)から、神の人類救済の計画について思い起こされ、「父である神の心の広さと人類への途方もなく大きな愛を表わしています」と述べられた。

 だが、このたとえ話では、婚宴に最初に招待された人たちの多くは、宴会に出るのを断ったー教皇は「彼らのように、私たちも、自分を招いてくださっている神より、自分の興味や物質的なものを優先することがよくあります」と反省された。

 それでも王は、自分の国の賜物を分かち合いたい、と強く願い、家来たちに、「limits of the roads(道の限界)」まで出かけ、そこにいる人たちを宴会に招くよう指示したー「これが神のなさり方です。あきらめるのではなく、相手に拒まれた時、最初からやり直して、大通りで見つけたかった人に、一人の例外もなく、宴会に連れて来るよう求めるのです」と教皇は説かれた。

 また、教皇はマタイが使う「limits of the roads(道の限界)」という言葉について、聖書で使われているギリシャ語では「町の大きな通りが終わり、住宅街の外、生活が不安定な田舎のに通じる小道が始まる所」を示しており、「社会からのけ者にされているのは、このような場所に住む人々。そのような彼らを、王は自分の宴会に招きます」とされたうえで、「教会も、日々、”通り抜けの道”-人々が地理的に、そして実際に生活を営んでいる”周辺の地域”、末端の場所、人間的な暮らしへの希望を失った余計者たちが住んでいる所に通じる道ーに出掛けるように求められているのです」と強調。

 さらに、「私たちが福音宣教と慈善を行う際に、自分たちに与えられた栄誉に頼らないように求められています… 私たちは、社会から見捨てられている人たちはもちろん、すべての人と福音を分かち合うために、自分の心と教会共同体の扉を開かねばなりません」と訴えられた。「神は、すべての人のためにご自分の宴会を用意されますー正しい人も罪人も、善い人も悪い人も、知性のある人も無学な人も、です」。

 ただし、イエスは婚宴に出席する人々に一つの条件を課しており、それは、礼服を着ることを拒んで外に投げ出された男のたとえ話にあるように、「婚宴の場に入る時、いただいた礼服を身につけねばならない、ということです」とされた。

 そして、「婚宴の礼服は、神が私たちに自由に与えてくださる憐れみを象徴しています… 主に従うように、という誘いを受け入れるだけでは十分ではありません。人は心を改める回心の旅をすることを決意する必要があります」と指摘。「神は常に私たちに恵みである『憐れみの着物』をくださいます。そして、それを驚きと喜びで迎え入れることが、求められるのです」と念を押された。

 最後に、教皇は、聖母マリアにこのように祈られたー「私たちが、自分の枠、狭い視野から抜け出し、『主が、私たちに救いの恵みをくださる為に、ご自分の宴会に招いてくださっている』ということを全ての人に伝えることができるよう、助けてくださいますように」。

 

 

2020年10月11日

・バチカンの金融財政運営見直しで、教皇が”新自由主義経済”の崇拝”を批判(Crux)

(2020.10.8  Crux

As Vatican faces financial review, pope condemns ‘idolatry’ of neoliberal economy

Pope Francis delivers his blessing in the Paul VI hall on the occasion of the weekly general audience at the Vatican, Wednesday, Oct. 7, 2020. (Credit: Gregorio Borgia/ AP.)

 ROME –教皇フランシスコは8日、人間よりもお金を優先する風潮を批判するとともに、財政運営の透明性を確保するためにバチカンが取ったいくつかの措置を高く評価した。

 欧州評議会の不正資金洗浄規制機関である「資金洗浄対策・テロ資金供与の評価 に関する専門家委員会(MONEYVAL)は、バチカンにおける過去一年間にわたる財政金銭に関する不祥事を受けて、ローマで年次評価を実施しているが、教皇が同日、その代表者たちと会見して語ったもの。

 教皇は、代表者たちが訪問してくれたことに感謝し、MONEYVALの働きは、「自分にとってとても大切」であり、それは「生命の保護、地球上の人々の平和的共存、そして最も弱く、助けを必要と強いる人々を抑圧しない金融システムと密接に結びついてからです」と語られた。

 そして、「金融システムはすべてと繋がっている」とし、4日に発表した新回勅「 Fratelli Tutti「」を取り上げ、「新型コロナウイルスの大感染で失敗が明らかになった」として、「新自由主義の経済構造」を強く批判。「恐怖、あるいは核兵器、生物化学兵器」にではなく、飢餓をなくし、市民に尊厳ある生活を保障するために貧困国の経済発展に投資する必要性を強調した。

 教皇は、カトリック教会の社会教説は「『経済的秩序と道徳的秩序は完全に異なるため、前者は決して後者に依存しない』という新自由主義の考え方の誤りを強調しています」と指摘。現在の世界の状況を見ると、旧約聖書に出てくる「金製の牛の崇拝」が、「お金の崇拝と、人間の真の目的を見失った非人間的な経済による支配」という、「新たな、冷酷な装いで戻ってきたように思われます。そして、目先の利益を求める金融投機は混乱を引き起こし続けています」と非難した。

 この教皇の発言は、新回勅に述べられた、「多くの国で、さまざまなイデオロギーによって影響された大衆的、国家的な一致の考え方は、国益を守るという口実の下に、新しい形の利己主義と社会的感覚の喪失を生み出している」という見方につながるものだ。

 貧しく弱い立場の人々に対する配慮の欠如は「支配する側が自身の目的のために、そうした人々を搾取するポピュリズム、あるいは権力を持つ人々の経済的利益に役立つ自由主義」と表裏をなしており、どちらの場合も「最も弱い立場の人々を含むすべての人のための場を作り、異なる文化への敬意を示す開かれた世界を考えることを難しくします」と指摘。

 「多くの所で、人間に対するお金の優位性は当然のこと、と考えられているようです… 富を蓄積するため努力するが、富がどこから来るのかについてはほとんど考えない。富を生み出した多かれ少なかれ合法的な活動と、その背後にある可能性のある搾取のメカニズムを考えることがないのです」「したがって、お金に触れると、私たちの手に血ー兄弟姉妹の血ーが流れることになる可能性があるのです」と警告した。

 Moneyvalによるバチカンに対する現地評価は、ここ一年の金融取引を巡る不祥事で、バチカンが国際金融市場で”ブラックリスト”に乗るーつまり、国際金融市場から締め出され、金融取引を続けようとすると極めて高いコストを払わねばならなくなる可能性に強い懸念を持たれる中で、実施されている。

 バチカンは2009年に欧州連合の金融に関する条約に署名し、長年、不祥事にまみれた租税回避地と見なされてきた金融上の汚名返上を目指して、第三者評価をMONEYVALに委ねた。MONEYVALは過去に、バチカンの金融監視機関(AIF)からの数十件の疑わしい取引報告の取り扱いを誤った、とバチカンを批判したことがある。

 この反省からかて、バチカンの検察当局は昨年、バチカン国務省が教皇の慈善団体に寄付された資金を不正流用し、約3億5000万ユーロ(約4億ドル)をロンドンの不動産投資に使った疑いで捜査に着手した。今年初めに教皇フランシスコが布告した新しい金融財政透明化に関する規則にもとずく報告がされなかった、といわれ、捜査の過程で、国務省職員数人が解雇または停職処分となった。

 捜査の一環として、バチカン警察はAIFの事務所から書類を押収し、世界的な国際資金洗浄防止機関であるエグモントグループから、バチカンは一時的に資格を停止された。今年1月に資格停止は解除されが、それより前、昨年11月に、AIFの責任者でスイス人弁護士が職を解かれている。

 さらに、今年9月には、バチカンの列聖省長官で、以前は国務省の次官で教皇の補佐官の立場にあったアンジェロ・ベッチウ枢機卿が、教皇の手で解任されている。ロンドンでの不動産投資がされた際に責任を負う立場にあったことや、本人は否定しているが、自分の兄の会社がバチカン取引できるよう便宜を図ったことなどが、解任の理由とされている。

 MONEYVALの代表者との会見で、教皇は、資金洗浄や金融テロに対抗することを目的とした政策により、「資金の動きを監視し、規則違反ないしは犯罪行為を見つけた際には、これに対処する」と強調。

 イエスが物売りを神殿から追い出した福音書の箇所を引用し、「経済が人間の顔を失うと、私たち自身がお金の僕になる… これは、私たちが道理をわきまえた秩序を再建しようと求められること、お金が支配するのではなく、奉仕せねばならない共通善に訴えることに逆らう『偶像崇拝』の一つの形です」と述べた。教皇はこうした考えのもとに、金融犯罪を防止し、バチカンの財政金融の「透明性を確保する」ためにいくつかの新しい規則を導入し、管理、監視体制を強化したことを説明した。

 また、この会見では言及しなかったが、教皇は今月5日、バチカンの金融財政活動の中で、機密にしておくべき事項を時々で判断する権限を持つ委員会を新設している。

 教皇は8日のMONEYVAL代表との会見を次のような言葉で締めくくった。「皆さんが評価作業をされているバチカンの措置と体制は、清浄な金融活動を促進するために計画されました。”物売り”が”聖なる神殿”で目先の利益を追う危険を冒さないように、創造主の愛の計画に従った、人間らしいものとなるようにです」。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2020年10月9日