◎教皇連続講話「祈りについて」⑤「祈りは私たちの人生の船を導く舵」-イエスの示す4つの教訓

(2020.11.4 Vatican News  Devin Watkins)

  水曜恒例の一般謁見は、新型コロナウイルス大感染の再燃で公開を4日から中止、再びバチカン図書館からの動画配信の形で行われることになったが、教皇フランシスコは4日の一般謁見で、「祈りについて」の講話を続けられ、「イエスは私たちに、早い時期に、頻繁に、沈黙の中で祈るように、そうすることで人生を正しく秩序付けて送ることができる、と説かれておられる」と語られた。

   この日の謁見を前に、教皇は、「残念ですが、信徒の皆さんの参加なしの、バチカン宮殿の図書館からの動画配信にも取らねばなりません。これは、政府、保健衛生担当部局からの指示を守ることの重要性を確認するものでもあります」と語り、新型コロナウイルスに感染した人々、彼らの治療に懸命に働いている医療関係者のために祈るように求められた。

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 講話では、イエスの祈りについて取り上げ、「イエスの祈りは、神秘的な現実であり… それによってイエスの使命全体を正しい視点から解釈することができます」とされ、イエスはご自身をは、父なる神と一つになって「すべての人の心が渇望する愛」の中にお沈めになる、と語られた。

 続いて教皇は、マルコ福音書の箇所(1章32,34-38節)を取り上げられた。

 この箇所で、イエスはある夜、カファルナウムで多くの病人を癒し、翌日、朝早く起きて、寂しい所に出て行き、祈られる。弟子たちがイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言ったのに対して、イエスは「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、私は宣教する。私はそのために出て来たのである」と答えられた。 教皇は「祈りは、イエスが進む道を案内する舵です」とされ、このことは、道案内を、他の人々の欲望や称賛ではなく、神にお任せになることを意味する、と説かれた。

 続けて、イエスの祈りから学ぶべき4つの教訓を示された。

 まず、イエスは、祈りは何よりも「その日の最初の強い願い」であるべき、と教えておられる。

 教皇は「祈りのない生活をした日は、面倒で退屈なものになってしまうリスクがあります。私たちに起こることはすべて、我慢と先の見えない事態に変わってしまいかねません」と語られ、祈りは「まず第一に『神との出会い』であり、従順に耳を傾ける必要があることを、イエスは示されています。日常生活が抱える問題は障害ではなく、私たちの前にいる人々に耳を傾け、出会いを持つように、という神ご自身からの呼びかけです」と指摘された。

 第二に、イエスは私たちに、祈りは「執拗」に実践されねばならない巧みなわざ、であると教えている。

 教皇は、「誰でも、時折、ばらはらに祈ることはできますが、イエスは、祈りには規律、実践、そして絶え間ない努力が必要であることを、私たちに思い起こさせます。一貫した祈りは、前向きの変化を生み出し、苦難の時に私たちを強くし、私たちを愛し常にを守り支えてくださる神の恵みを与えてくれます」と説かれた。

 第三に、イエスの祈りは常に「孤独」である。

 「祈る人は、世界から逃げることはありませんが、人里離れた場所を好みます。祈りの沈黙の中で、私たちの心の奥の強い望みと真実が光の中に現れます」と教皇は語られた。そして、最も重要なことは「沈黙は、神が語られる場所」だということであり、 「すべての人は、行動が意味を見い出せるような内面の生活を養い育てることができるように、自分自身のための空間を必要としているのです」と語られた。

 最後に、教皇は、「イエスによって教えられた祈りは、『すべてが神から来て、神に戻る』ということを、私たちが見つけ出す場です」とされ、祈りは「『神、私たちの父との関係、そしてすべての被造物との私たちの関係における正しい側面』を再発見するのに役立ちます」と説かれた。

 そして、「平和と喜びは、私たちがイエスの祈りの模範に従うなら、見つかります」と締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用の和訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

 

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2020年11月4日