♰「神への信頼こそがキリスト者の希望」ー死者の日に

(2020.11.2 バチカン放送)

 教皇フランシスコは2日、カトリック教会の暦で死者の日を記念し、バチカンのテウトニコ墓地に付属する教会でミサを捧げられた。

 ミサは、新型コロナウイルス感染拡大予防措置に従い、私的な形で、わずかな関係者のみの参加をもって行われ、説教で教皇は、第一朗読「ヨブ記」(19章23-27a節)の、弱り切ったヨブが、絶望の淵から、贖い主に深く信頼を寄せる場面を取り上げられた。

 「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に塵の上に立たれる」(19章25節)。

 「私は肉を離れ、神を仰ぎ見る。この私が仰ぎ見る。ほかならぬ私のこの目で見る」(同26-27節)。

 ヨブのこれらの言葉に見られる「神への信頼こそ」が、人生の終わりを前にしたキリスト者の希望である、と教皇は話され、この希望は私たちの力で得られるものではなく、「主よ、希望をください」と願い求めるべき恵みである、と語られた。

 そして、人生には多くの困難があり、「すべてはもうおしまいだ」「死んでも後に何もない」と、時に絶望させられることもあるが、こうした時に、「私を贖う方は生きておられる…この私が仰ぎ見る。」というヨブの言葉がよみがえるだろう、と説かれた。

 次に、教皇は、第二朗読(ローマの信徒への手紙5章5-11節)中の、使徒聖パウロの「この希望が失望に終わることはありません」(5章5節)という言葉を掲げ、「私たちを人生へ、また永遠の喜びへと惹きつけ、意味を与える、神の恵みとしての希望」の大切さを示された。

 最後に教皇は、福音朗読(ヨハネ福音書6章37-40節)の「父が私にお与えになる人は皆、私のもとに来る」 (6章37節)、「私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである」(6章37-38節)というイエスの言葉を観想され、「主は私たちを天国で迎えてくださいます。そこに私たちの錨があります。綱を握りしめ、錨にしっかり繋がりながら、希望のうちに生きましょう」と呼びかけられた。そして、この死者の日、今は亡き多くの兄弟姉妹に思いを向けると同時に、天を見つめ、ヨブの「私を贖う方は生きておられ…この私が仰ぎ見る」という言葉を思い起こしましょう、と促された。

 ミサ終了後、教皇はテウトニコ墓地で祈りを捧げられた。

・・・・・・・・・・・・・

 バチカンの聖ペトロ大聖堂の脇のテウトニコ墓地は、かつてネロ帝の競技場があった一角に位置する。この競技場では多くのキリスト教徒が殉教したことで知られ、この場所の墓地としての起源は、当時にさかのぼるとも言われている。

 799年、カール大帝によってフランク人の巡礼者のための施設が建てられた。1450年、聖年に合わせて墓地が手入れされ、さらに1454年、ドイツ人の聖職者らによって完全な整備が行われた。同墓地には、伝統的に、ドイツ系の人々が葬られてきた。

 墓地に隣接してサンタ・マリア・デラ・ピエタ・イン・カンポサント・デイ・テウトニチ教会がある。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用部分は「聖書・聖書協会共同訳」を使用)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2020年11月4日