♰「日々の行いを通して、主を迎える灯の”油”を蓄えよう」教皇、8日の正午の祈りで

(2020.11.8  Vatican News staff writer)

 教皇フランシスコは8日、年間第32主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたマタイ福音書の十人のおとめのたとえ話(25章1~13節)を取り上げ、キリストの愛に触発された毎日の善行は、死を超えた人生の祝宴を心穏やかに待つことを可能にする、と語られた。

 イエスの時代、結婚式は夜に祝われたため、祝宴の会場に行くには灯が必要だった。たとえ話では、花嫁介添人となったおとめたちの中で、”愚かな”ものは十分な油の用意をするのを忘れたが、”賢い”ものたちは灯と一緒に、壺に油を入れて持っていた。愚かなおとめたちは、油がなくなって灯が消えそうになったのに気付き、店に油を買いに行ったが、戻るのが遅すぎて、会場に入れてもらえなかった。

 教皇は、「イエスは、このたとえ話で、私たちがご自分の到来に備えねばならないことを、お伝えになりたいのです」とされたうえで、”最後の到来”の前に用意をするだけでなく、日々のイエスとの出会いの用意をすることの必要を指摘され、その用意には「”信仰の灯”だけでは十分ではありません。”慈善の灯”と善い行いが必要です」と強調された。

 そして、私たちをイエスと真に結びつける信仰は、「愛を通して働く信仰」であり、たとえ話に出てくる”賢い”おとめたちが灯と一緒に持っていた予備の油は「天の恵みと協働してなされる善行」を示している、とされ、「私たちが主との最後の出会いの準備をしたいのなら、私たちは今、主に協力し、主の愛に触発された善行を行わなければなりません」と説かれた。

 だが、「残念なことに、私たちは『神との決定的な約束』である人生の目的を忘れてしまい、期待する気持ちを失っています… そして、このような態度は、将来についてどのような展望を持つことも妨げ、人々は、別の命へ向けて旅立つことがないかのように、全てを行います」と警告。

 さらに、このために、「人々は、ものを所有し、歩き回り、地位を確立することだけに神経を使います… もしも、私たちが自分にとって最も魅力的と思われるものに引きづられるのを許せば、自分の利益を探し求めることで、人生は不毛になる。私たちは灯のための油を蓄えず、主がおいでになる前に灯はそれは消えてしまいます」と注意を与えられた。

 そのうえで教皇は説教の最後に「私たちが、油断せず、善行によって神の恵みに応えるなら、たとえ話で花嫁の介添え人となったおとめたちのように、私たちが眠っている間でさえも、主がおいでになることができる… それは、私たちが日々の善行を通して”蓄えた油”を持っているからです」と強調して、締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

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2020年11月8日