◎教皇連続講話・新③「詩編は、神を崇め、神の子を愛するように私たちを導く」

(2020.10.21  Vatican News staff writer)

 教皇フランシスコは21日、水曜恒例の一般謁見で、先週に続いて詩編に関する講話をされ、詩編は私たちが「神の目で現実を考える」ことを可能にする、と語られた。

 教皇は冒頭、イタリアを含む欧州各地などでの新型コロナウイルスの感染者数増加を念頭に講話を始められ、聴衆に対して、「皆さんに近づきたいと思っていても、すべての人に伝染する危険があるので、近づくことはしません。申し訳ありませんが、これはあなたの安全のためです」とされ、握手する代わりに、距離を置いて挨拶することを提案しつつ、皆がご自身の心に近いことを保証された。

 続いて、教皇は「朗読者たちが聖書の箇所を読んでいる間、私の関心はあちらで泣いている赤ちゃんに惹きつけられました、そして私は、その赤ちゃんをあやしているお母さんを見て、こう言いましたー『これこそ、神がこのお母さんのように、私たちにされることです』」と述べ、母親の優しさの美しい姿は「教会の姿、私たちに対する神の優しさの象徴です。ですから、教会で泣いている赤ちゃんを黙らせないでください、絶対に。なぜなら、それは、神の優しさを引き付ける声だからです」と説かれた。

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*神の目で現実を見る

  このように話されたうえで、「祈り」に関する連続講話の中で、詩編に関する二回目で最後となる講話を始められた。「詩編は、私たちが”邪悪者”の誘惑、つまり、神が存在しないかのように、貧しい人々が存在しないかのように、生きること、そして祈ること、の誘惑に陥らないように、私たちを助けてくれます。

 そして「詩編の祈りは、人生の根本的な現実です。なぜなら、霊的な達人が『敬神の念』と呼ぶ、絶対者、超越者への言及が、私たちを完全に人間にするからです。祈りは、私たちが『略奪的で貪欲なやり方』で人生に挑むことを妨げます」とする一方で、他人の称賛を求める「偽りの祈り」や、イエスご自身が戒めておられる最新の流行を見せびらかすことに対して警告。「心の中での真の祈りのは、私たちがまさに神の目で現実を見つめられるようにしてくれます」とされた。

 また教皇は、オウムのように祈りに疲れ、機械的に祈ることに対しても警告し、「祈りは心からの、人生の中心であるべきです。祈りがあれば、兄弟、姉妹、そして敵でさえも、重要になります… 神を崇める人々は、神の子供たちを愛しています。神を尊ぶ人々は、人間を尊びます」と強調。さらに、祈りは「人生の不安を和らげる鎮静剤」と見なされるべきではない。それは、キリスト教徒の祈りの形ではありません。イエスが弟子たちに教えられた『私たちの父よ』に見られるように、祈りは、私たち一人一人を責任ある者とするのです」と語られた。

*祈りは神殿と世界を結びつける

 教皇は、詩編はしばしば「存在の傷跡を明らかにします」とされた。だが、「これらの祈りは、最も親密で個人的なものでさえ、最初に神殿で、次にシナゴーグで使われました。『カトリック教会のカテキズム』は、『詩編は…神殿の典礼においても人間の心の中でも、祈りとして用いることができる』(2588項)と述べています。このように、個人的な祈りは「最初にイスラエルの人々の祈りによって、次に教会の祈りによって養われるのです」と指摘。 さらに、「一人称単数の詩篇でさえ、すべての人によって、すべての人のために祈られる、という点で共同の財産です」「キリスト教徒の祈りには『息吹き』と『神殿と世界とともに捉える、という、霊的な緊張』があります」と述べた。

 また教皇は、「祈りは、聖堂の会衆席のあたりで始めても、街の通りで終えることができます… それとは反対に、一日の活動中に開花し、典礼で満開になることもできます… 教会の扉は、皆のうめき声を中に入れます」。「ですから、世界はいつも詩編の中に存在します。最も弱い者のための救いの神の約束を請け合い、世俗的な富の危険を警告し、あるいは歴史についての神の見方に視野を開きます」と説かれた。

*神の愛と隣人

 教皇は「要するに、神がおられるところに、人間もいなければなりません… 私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。『神を愛している』と言いながら、自分の兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える自分の兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができないからです」と、ヨハネの手紙(1=4章19~21節)を引用して語られた。

 そのうえで、「すべての人間に刻印されている神の姿を否定する人の『無神論』を、神は支持されません… 他の人を遠ざけ、憎みながら神を信じることは、”実践的な無神論”です。神殿と祭壇に向けられた冒瀆、嫌悪、最悪の罪です」と強く批判された。

 最後に教皇は、「詩編は私たちを、『神が存在しないかのように、貧しい人々が存在しないかのように生き、祈る』誘惑に陥るのを防いでくれるのです」と強調して、講話を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2020年10月21日