Pope Francis’ arriving at weekly General Audience (ANSA)
(2022.6.8 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇フランシスコは8日、水曜恒例の一般謁見で「老年の価値と意味」についての連続講話をお続けになり、今回は、ヨハネ福音書のイエスとニコデモの出会いの箇所(3章1-21節)を考察された。
そして、「(ニコデモのように)年配者は、優しさと知恵、愛のメッセンジャーなのです」と強調。年配者と祖父母の優しさを思い起こされ、「神はそのような方。神は、相手に心地よく接する方を知っておられます」と語られた。
*「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」
福音書の中で、イエスはニコデモに「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3章3節)と語られている。
教皇は、「ここでイエスが言っておられるのは、私たちの地上での生活の価値を否定するのではなく、地上での生活を、永遠の命と天国の喜びを得るという目的に向けなさい、ということ」とされ、「”永遠の若さ”の神話を必死に追い求める私たちの現代は、イエスの言われるこの真理を学びなおし、人生のあらゆる段階を、私たちが造られた目的である永遠の幸せを得る準備の時だ、と知る必要があります」と説かれた。
*私たちの中におられる神を証しする
さらに教皇は「年配者は、その信仰、知恵、経験を通して、『私たちの中におられる神の王国の存在』と、『キリストと聖霊によって始められた新たな創造』の中で私たちを待っている『真の”永遠の若さ”』の前触れとして『私たちが地上に存在する本当の意味』を説得力をもって証しすることができるのです」と語られた。
そして、老いることの素晴らしさを強調され、 「老いるとは、目的地に向かって、神の国に向かって進んでいことです… ですから、老年期は、私たちの未来を、生物学的、機会人間的な生存の幻想から切り離す、特別な時期なのです。なぜなら、神の創造的で命を作り出す胎の優しさに、私たちを開くからです」とされた。
最後に、教皇はこのように祈られたー「聖霊が、私たちに、上から生まれた方と和解させる老年期の霊的、文化的使命の再開を賜物として与えてくれまるように」と祈られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2022.6.5 Vatican News Linda Bordoni)
聖霊降臨の主日の5日、教皇フランシスコは聖ペトロ大聖堂でのミサの説教で、「聖霊の学び舎に腰をおろし、世界に開かれた心で、教会として共に旅するように」と信徒たちに促された。
聖霊降臨の主日は、使徒たちの上に聖霊が下ったことを記念する日であり、復活節を締めくくり、世界に対する教会の福音宣教の開始を祝う日でもある。
教皇は、「聖霊に耳を傾け続けましょう。聖霊は私たちに、どこから歩みを始めるか、どの道を歩んだらいいかを教え、私たちの心に神の愛を再び灯し、そして、私たちの行き先を示してくれます」と話し始められた。
まず、ミサで読まれたヨハネ福音書の最後の箇所(14章26節)「父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたに、すべてのことを教え、私が話したことを、ことごとく思い起こさせてくださる」に注目され、「聖霊は、私たちに、イエスの目で、新たな方法ですべてを見るようにしてくれます… 人生の素晴らしい旅において、聖霊は、私たちに、『どこから歩き始め』『どの道を選び』『どのようにして歩むか』を教えてくれるのです」と説かれた。
*どこから歩みを始めるか
そして、「聖霊は、霊的生活の出発点を私たちに示し、イエスを愛することが、私たちの忠誠と献身を保つことだけでないことを思い起こさせてくれます… 愛が私たちの人生の基盤でなければ、残りすべては空しいものとになります。そして、その愛は、私たちの力量で、というよりも、聖霊の賜物としてもたらされるのです」と語られ、「愛なる聖霊は、私たちの心に愛を注ぎ込み、私たちに『愛されていること』を感じさせ、『どのように愛するか』を教えてくれます。聖霊は、私たちの霊的生活の”原動力”です」と強調された。
*神の記憶
続けて、教皇は「聖霊は、『神の記憶』。私たちに、イエスが語られた事すべてを思い出させ、私たちの心に、神の愛を絶えず灯し続ける」とされ、「私たちの罪が赦される時、私たちが主の平和、自由、慰めに満たされた時にその存在を体験します。そして、私たちの人生が失敗と失望だらけのように感じる時、聖霊は私たちに、神の息子、娘であることを気付かせます… あなたが自分自身に対する自信を失った時でも、神はあなたを信頼しておられるのです!」と訴えられた。
さらに、「聖霊は、あなたの中で燃えている傷を変容させる”癒し手”、自分を傷つけた人々や環境のすべての記憶をいつまでも持ち続けないように、イエスが拭い去ってくださるようにしてくれます」とし、「それが、イエスが使徒たちになさったこと。彼らの失敗は彼ら自身の責任であり、逃げ場はなかった。しかし聖霊は、本当に重要なことー神の愛の記憶、愛の眼差しーを最上位に据えることで、『記憶』を癒やしました」。
そして、「同じように、聖霊は、私たちの人生を整えてくれる。私たちに、互いを受け入れ、赦し合い、過去と和解することを教え、そうして新たに歩み始めるようにしてくれるのです」と語られた。
*どの道を選ぶか
また教皇は「聖霊は私たちに、『どこから歩み始めればよいか』だけでなく、『どの道を歩むべきか』を教えてくれます」とし、この日のミサの第二朗読、ローマの信徒への手紙にある聖パウロの言葉「神の霊に導かれる者は、誰でも神の子です」(8章14節)に注目され、「そのような人たちは、肉に従ってではなく、霊に従って歩みます… 聖霊は、私たちの人生のあらゆる岐路において、私たちがとるべき最善の道を示してくれます。ですから、聖霊の声と悪霊の声を識別することが重要です」と説かれた。
さらに次のように説明された。「聖霊は,あなたの人生の旅路ですべてがうまくいく、とは決して言いません。聖霊は、あなたを正し、あなたが犯した罪のために涙を流させ、生き方を変え、嘘やごまかしに抵抗するようにさせます。激務や内的な葛藤、犠牲が求められるとしても、です」。
そうした聖霊の働きとは反対に、「悪霊は、あなたが思うこと、楽しいことをいつもするように誘います。あなたの自由を好きなように使う権利がある、と思わせます。そして、それに空しさを感じると、悪霊はあなたを責め、打倒します」。
だが聖霊は「あなたを地面に横たわったままには、決して、しておかない。あなたの手を取り、慰め、絶えず力づけてくれるのです」。
*聖霊は”理想主義者”ではない
教皇はまた、聖霊の行動の実践的な性格に着目され、「聖霊は、『私たちがいる場所』『今』に神経を集中させることを望んでいます。なぜなら、私たち自身が存在する時と場所そのものが、恵みに満ちているからです」と語られ、「聖霊は、『私たちが今いる場所、そして今の時』ー『理想的な世界、理想的な教会』でなく、何ごとも包み隠さず、率直に、白日の下に置かれた現実の世界、教会そのものを愛するように導きます… ゴシップと無駄話を煽り立てる悪霊とは、何と違うことでしょう」。
*どのように歩むか
続いて教皇は、聖霊が私たちに教えてくれる三つ目の働きー「どのように歩むか」について語られた。 「弟子たちは”上の部屋”に小さくなっていました。 そこに、聖霊が降り、表に出て行かせました。聖霊が降りなければ、彼らは孤独なまま、皆で籠り続けたことでしょう。彼らは、聖霊によって、すべての人に対して心を開くことができたのです」。
聖霊は「弟子たちの時代だけでなく、あらゆる時代に、私たちの先入観を覆し、聖霊の新しさに私たちの心を開かせます」と述べ、「聖霊は、教会に対して、福音を宣べ伝えるために外に出ていくことの死活的な重要性を、絶えず教えています… 教会が、安全が保障された”羊囲い”ではなく、全ての”羊”が神の素晴らしい”草”を食むことができる、開かれた”牧草地”となるように、求めています。仕切りの壁のない、開かれた”家”となるように、です」と語られた。
それは「自分自身の抱える問題と利益、要領よく振舞う必要、自分が属する国や集団を守ることを最優先する俗物根性とは、正反対のもの」であり、「聖霊は、自分自身のことを後回しにし、全ての人に心を開くように、私たちに勧めます。そうすることで、教会を若返らせる。聖霊は、教会を活性化させる」「聖霊は、急ぎのことへの執着から私たちを解放し、聖霊の道ーいつも古めかしい、いつも新しい、証しする、貧しさと使命を帯びた道-を歩むように導き、そうすることで、私たちを自分自身から解放し、世のなかに送り出します」と説かれた。
説教の最後に教皇は「聖霊の学び舎に腰を下ろしましょう。そうすれば、聖霊が私たちに、すべてのことを教えてくれます。毎日、聖霊を呼び覚ましましょう」と信徒たちに呼びかけられ、「そうすれば、聖霊は、私たちの出発点に神のまなざしが注がれること、私たちが神の声を聴いて判断すること、そして教会と共に旅すること、神に従順で、世界に心開くことに、私たちを気付かせてくれるでしょう」と語られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
Wheat grows on a farm in Ukraine’s southern Odessa region (AFP or licensors)
(2022.6.1 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇フランシスコは1日の一般謁見で、ロシアが侵略戦争の一環として行っているウクライナからの穀物の輸出封鎖を止めるよう訴えられた。
教皇は、講話の終わりに、ロシアが続けているウクライナ軍事侵攻に改めて目を向けられ、 「非常に懸念されているのは、ウクライナ産穀物の輸出封鎖によって、世界の人々、特に最貧国の何百万人もの人々の生活が脅かされていることです」と述べ、世界的な穀物供給の不足が軍事侵攻に関連して引き起こされていることを強く非難。
「この問題を解決し、食糧に対する普遍的な人権を保証するあらゆる努力をすることを、心から訴えます。主食である小麦を、戦争の武器として使わないでください!」と、ロシアのプーチン大統領を念頭に、強く訴えた。
国連は、世界的な食糧危機が迫っている、と警告している。ウクライナの港を封鎖することで世界を”人質”にしている、と欧米の指導者たちからも非難を受けているにもかかわらず、ロシアは、ウクライナの穀物輸出封鎖を、西側諸国の対ロ経済制裁解除の手段に使おうとしているのだ。
ロシアによる一方的なウクライナ軍事侵攻が長引き、西側諸国が経済制裁を強める中で、世界の穀物、食用油、肥料、原油、天然ガスの価格が高騰。品不足も発生している。世界有数の小麦など穀物生産国であるウクライナは、道路、河川、鉄道で穀物輸出を継続しようとしているが、肝心の黒海の積み出し港をロシアが封鎖していることから、ウクライナの農業当局は穀物輸出の年間目標はすでに達成不能になっている、としている。
ロシアがウクライナへの不正極まる軍事侵略を開始して以来、教皇は繰り返し、侵攻を中止するよう訴え、バチカン駐在のロシア大使のもとに自ら足を運び、プーチン大統領に影響力を持つロシア正教のキリル大主教にも大統領に侵攻停止を働きかけるよう求め、さらには外交ルートを通じてプーチン大統領と直接会談する場を作る試みを続けるるなど、可能な限りの努力を続けておられる。
また、カトリック教会としても、3月25日に、ロシアとウクライナを性ペトリ大聖堂の汚れ無きマリアの御心に奉献され、さらにロザリオの月の最終日に当たる5月31日には、ローマの聖マリア大聖堂で、世界中の信徒と共に、ウクライナを始めとする世界の戦争、紛争の停止、平和の回復へ聖母マリアの執り成しを願うロザリオの祈りを捧げられている。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
Pope Francis at the General Audience (Vatican Media)
(2022.6.1 Vatican News staff writer)
教皇フランシスコは1日の一般謁見で、「老年の価値と意味について」をテーマとする講話を続けられ、「年配者は、粘り強い祈りと希望に満ちた主への献身の模範を提供することができる」と語られた。
教皇はまず、詩編71章にある心からの祈りー「わが主よ、あなたこそわが希望。主よ、私は若い時からあなたを信頼し…」(5節)を取り上げ、詩編作者が、歳をとるとともに体が弱まり、傷付きやすくなるのを感じ、神がそのような自分を守り、面倒をみてくださるよう哀願している、と説かれた。
そして、この年配者の作者の不安は、「自分たち年配者を『役に立たない存在』『社会にとっての負担』と見なす”使い捨て文化”の蔓延によって、自分たちの尊厳や権利さえ脅かされている』と考える」という、多くの人々に共通するもの、と指摘。
「メディアさえも、いかに年配者が詐欺のターゲットになり得るか、家庭においてさえも、保護も世話も受けられずに放っておかれるのか、を日々、報じています」と語られ、同じように、自分たちの尊厳が失われるのを恐れて、私たちが病気や高齢からくる脆弱さを隠そうとする誘惑に陥る可能性も指摘された。
さらに、今日の”近代文明”は、「病気の人、高齢の人にとって、とても居心地の悪いものであり、病人、年配者と愛に満ちた共生することへの配慮を欠く一方で、尊厳ある存在の境界線を定めるのに躍起になっている」と批判されたうえで、「増加を続け、しかも、私たちが住むこの世界を毒している”使い捨て文化”によって、しばしば見捨てられている年配者」をケアすることを、社会全体として、急がねばならない、と強調された。
続けて教皇は、「詩編作者は、神の契約への忠実さと先を見据えたケアへの信頼を改めて確認し、老いを敗北と見なしていた年配の彼は、主に対する信頼を取り戻しました」と語られ、「彼は、助けられる必要があると感じ、神に顔を向けます」として、次のように説かれた。
「年配者は、粘り強い祈りと希望に満ちた主への托身で、私たちすべての世代にとっての待望の模範となれます。 その存在と模範によって、彼らは人々の心を開き、より公正で人道的な社会ー人生のあらゆる段階にある人々を尊重し、共通善への貢献に価値を置く社会ーの建設に力を与えることができます」。
そして、「年配者は、その弱さによって、人生の他の段階にある人々に、主に自らを委ね、主の助けを呼び起こす必要があることを教えることができるのです」と付け加えられた。
講話の最後に教皇は、「老年には、生涯を通じて信頼できる方法について、私たちに教える”弱さの教導職”があります」とされ、「 老年は、共生とすべての善なるもののために不可欠な『私たち自身の文明の刷新のための決定的な地平を開く』ことについての教えを示すことができるのです」と強調された。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2022.5.31 Vatican News Linda Bordoni)
教皇フランシスコが31日、ローマの聖マリア大聖堂の「平和の元后マリア」像の前で、ロザリオの祈りを唱えられるでウクライナと世界の平和へ聖母マリアの取り次ぎを願うロザリオの祈りを捧げ、世界のキリスト教徒たちと共に祈った。
教皇は冒頭に、「神の母、平和の女王であるマリアよ。新型コロナの感染が続く中で、私たちはあなたの執り成しを願うために、あなたの周りに集まりました」と祈られた。そして、病いの人を助け、医療従事者を力づけることを願うキリスト教徒たちの祈りを思い起こされ、瀕死の人々に憐れみを、沈黙と孤独に苦しむ人々に慰めをくださるように、次のように懇願された。
「今宵、あなたに捧げられた月の終わりに当たって、私たちは改めて平和の女王であるあなたを前にして懇願します。平和という素晴らしい贈り物をお与えください、世界の様々な地域で何十年にもわたって引き起こされている戦争、欧州大陸を今、襲っている戦争を一刻も早く終わらせてください」
さらに教皇は、「平和は、交渉だけでも、政治的合意だけでも得られない、何よりも、聖霊のイエス復活の賜物であることを、私たちは知っている」とされ、戦争をしている国々をマリアの無原罪の御心に奉げ、回心という素晴らしい賜物をくださるように求められた。
「私たちは、祈り、断食、施し、そしてあなたの恵みの賜物によって、人々の心と全世界の運命が変えられる、と確信しています」
教皇はまた、暴力と復讐に満ちた心を和解に導き、安易な豊かさへの欲求に目がくらんだ思考を正し、「地球上にイエスの平和が永遠に続きますように」と、聖母に御子への執り成しを求められた。そして、「戦争と武力紛争によって残酷な試練に遭っている人類」をマリアに託し、「世界中の教会や家族と共に、平和のためのロザリオの祈りを捧げます」とされた。
さらに「戦争の犠牲になっている人たち、特に抵抗力の無い子供たち、高齢の人たち、病気に人たちのために祈りましょう。戦いの中で 引き裂かれた家族のために、 子供たちの帰りを待っている父親と母親、そして戦場からの父親と母親の帰りを待っている子供たちのために祈りましょう」と呼びかけられ、「誰も不当に苦しめられてはなりません」と言明された。
そして最後に、「戦争に苦しむ人々に希望の言葉と信仰の慰めをもたらす司祭、奉献された人々、そしてすべての人々のために祈りましょう… 彼らが、常に慈しみをもたらす道具となりますように」。
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「平和の元后マリア」像は、第一次世界大戦の終結を願う教皇ベネディクト15世により、1918年、聖マリア大聖堂の左側廊に設置されたもの。
ロザリオの祈りには、ローマ在住のウクライナ人やシリア人、ベネズエラ人の家族など、戦争による暴力や虐待の被害を直接、間接に受けている人々、避難民、移民、そして従軍司祭、被災者たちを助けるボランティアなども参加。
さらに、インターネットなどで結ぶ形で、ウクライナ・ザルバニツィアの神の母巡礼聖堂、イラク・バグダッドの救いの聖母大聖堂、シリア・ホムスの平和の元后大聖堂、バーレーン・アワリのアラビアの女王マリア大聖堂など、戦争や政情不安の中にある国々の巡礼聖堂はじめ、ルルド(フランス)、チェンストホバ(ポーランド)、ロレート(イタリア)、ポンペイ(イタリア)、ノック(アイルランド)、グアダルーペ(メキシコ)などの国際的な巡礼聖堂も、祈りに加わった。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2022.5.25 Vatican News Devin Watkins)
教皇フランシスコは25日、水曜恒例の一般謁見で「老年の価値と意味について」の講話をお続けになり、この日は、旧約聖書の「コヘレトの言葉」を題材に、「知識を行動につなげずに蓄えたい」という誘惑に抗しつつ、正義への情熱を持ち続けるように、と年配の人々に勧められた。
講話で教皇はまず、「コヘレトの言葉」の冒頭にある「空の空 空の空、いっさいは空である」(1章2節)という反復句が、現代における”誘惑”にどのように関係づけられるかに注目。
「賢者のコヘレトは、人生経験を積もうとして、意味と無意味の間を行き来しました。”正義への情熱”と切り離された知識に傾くとき、それが無意味であると足を止めました」とされ、「コヘレトは、無意味の罠から抜け出す方法をこのように示して、言葉を締めくくっていますー『神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである』 (12章13節)」と語られた。
(2022.5.25 バチカン放送)
教皇の講話の要旨は次のとおり。
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「私は人生を厭う。太陽の下で行われる業は私にとって実に辛い。すべては空であり、風を追うようなことだ」(コヘレトの言葉2章17節)「私は、太陽の下でなされるあらゆる労苦を厭う。それは私の後を継ぐ者に引き渡されるだけだ」(同18節)「聞き取ったすべての言葉の結論。神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。神は善であれ悪であれ あらゆる隠されたことについて すべての業を裁かれる」(12章13-14節)・
「コヘレトの言葉」も、また聖書の中の宝石の一つです。「すべては空しい」という言葉の繰り返しで始まるこの書は、私たちを驚かせます。しかし、意味と無意味の間を行き来する「コヘレトの言葉」は、神の裁きを土台とする正義への情熱から遠ざかった生き方に対する皮肉を込めた自省の表現です。そして、この書は、試練から抜け出す道として「神を畏れ、その戒めを守れ」という教えで締めくくっています。
すべてが思うようにいかず、何をしても無駄に見える現実を前に、無関心でいることは、失意の苦しみに対する唯一の”特効薬”のようにさえ思われます。こうした時、自分たちの努力でいったい世界が変わるのだろう、正も不正もどうせ割り切れるものではない、という疑念が湧いてきます。
このような否定的な考えは、私たちの生活の中でしばしば現れますが、特に高齢期の失望感は、ほとんど避けがたいものでしょう。それでも、高齢において、幻滅に対抗することは重要です。人生のすべてを見て来た年配者が正義への情熱を保ち続けることができるなら、そこに、愛と信仰に対する希望があるからです。
今日、科学の名のもとに追求されるいわゆる「真理」は、正義への情熱を置き去りにしています。もはや約束や贖いは存在しません。
コヘレトは、独特の皮肉で、「知識や科学を全能とみなす誘惑」の仮面を暴きます。昔のキリスト教の修道者たちは、知識や科学を絶対と考えようとする”魂の病”、信仰も道徳も失った”知の虚栄”、正義を伴わない”真理の幻想”、の危険を見抜いていました。その病を彼らは「無気力」と呼びました。それは単なる怠惰や憂鬱ではなく、もはや正義への情熱も、それに対して行動する熱意も持たず、この世の知識に降伏した状態です。
あらゆる倫理的責任も、善への愛も拒む、このような知識によってもたらされた虚無は、有害です。善への意志を削ぐだけでなく、悪の力の攻撃に扉を開くこともあるからです。
この愛と責任を伴わない理性は、真理を知ることの意味も、そのための活力も失わせてしまいます。今日、嘘ニュースや、集団的迷信、偽科学による情報などが見られることも、偶然の産物ではありません。
年配者は、コヘレトの皮肉を込めた叡智から、「”愛と正義を欠いた真理の氾濫”に隠れた偽り」を暴き出す方法を学ぶことができるでしょう。知恵とユーモアあふれる年配者の存在は、人生の知恵を伴わない、悲しい世界観から、若い人たちを救うことができるでしょう。そして、「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる」(マタイ福音書5章6節)というイエスの約束を、彼らに思い出させることができるにちがいありません。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用箇所の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)
(2022.5.22 Vatican News Thaddeus Jones)
教皇フランシスコは22日、復活節第六主日の正午の祈りで、ラウダート・シ週間(22日~29日)の始まりを告げられた。教皇は「今日、ラウダート・シ週間が始まります。私たちが、地球の叫びにもっと注意深く耳を傾け、”共通の家”を世話するために共に行動するように」と促され、この週間を担当するバチカンの人間開発の部署と多くの関係組織の働きに感謝するとともに、世界中の信徒の参加を呼びかけられた。(この部分は、バチカン広報発表)
また、この日のミサで読まれたヨハネ福音書の箇所を取り上げた説教で、教皇は、イエスが最後の晩餐で弟子たちに別れを告げられた場面を思い起こされ、イエスが、ご自分は間もなく世を去るが、「平和をあなたがたに残し、私の平和を与える」(14章27節)と語られたことに注意を向けられた。
「このイエスの言葉は、イエスの愛情と沈着を表していますが、その心は決して穏やかなものではありませんでした。なぜならユダが、イエスを裏切るために席を立ち、ペトロは間もなくイエスの弟子であることを否定し、他のほとんどの弟子たちもイエスを捨てて逃げてしまうのですから。それでも、イエスは最後まで平静を保ち、優しかった」と語られた。
そして、教皇は、「イエスの人生の最後の数時間は、その人生全体の本質を要約しています… イエスは、この時に恐れと痛みを感じますが、苦しみや怒りに身を任すことはありません。イエスは平和でした。それは、天の父への信頼からくる柔和な心がもたらす平和です」とされ、「自分の心の中に平和がなければ、他の人に平和をもたらすことはできない」と指摘。
「イエスは、どのような時にも従順な心を持つことが出来るのを示しておられます。イエスは、最も困難な時でさえも、それを実行されました。私たちがイエスの平和の”相続人”なのですから、私たちにもそのように振る舞うことをイエスは望んでおいでです」と強調された。
さらに、「柔和で、開かれた心をもち、他の人の話を聴き、緊張を和らげ、調和をもたらすことができるように」と信徒たちに求め、「多くの言葉や説教よりも価値のある、最も重要なものは、私たちの行動です」と強調。「イエスの弟子である私たちは、人々の間で緊張を和らげ、葛藤を解きほぐし、怒らず、親切に対応しようとしているでしょうか」と問いかけられ、このように振る舞うことは、「私たちにとって大きな課題」とされた。
また教皇は、「平和をあなたがたに残し、私の平和を与える」という言葉は、「私たちが平和を実現しようと懸命に努力するとき、助けとなります… 平和は何よりも神の賜物です」と語られ、さらに、イエスがこれに続いて、「私は、これ(平和)を、世が与えるように与えるのではない」と語られたのは、「主が私たちに与えられた、この世が知らない平和が聖霊ーイエスと同じ霊だということを意味しているのです」説かれた。
そして「私たちの中におられる神の霊は、心を武装解除し、平静さで満たす、神の”平和の力”です。主が私たちに与える平和は、私たち皆が、敵ではなく、兄弟姉妹だということを、私たちに気付かせます… 私たちが平和の男と女となることができるように、私たちが赦し合い、新たに歩み始めるのを助けてくれるのは、主なのです」と念を押された。
最後に教皇は、「私たちは絶えず、聖霊から平和の賜物をいただくようにしなければなりません。特に私たちが動揺したり、焦ったり、怒ったりするとき、主に平和の霊を求める必要があります」と促され、こう締めくくられた。
「毎日、このように祈りましょうー『主よ、あなたの平安を、あなたの聖霊を、私にください』。そして、私たちの隣人、私たちが毎日、出会う人たち、そして世界の国々の指導者たちにも、これを願いましょう。聖母マリアが、私たちが聖霊を喜んで迎えるのを助け、私たちが平和を築くことができますように」。
Pope Francis’ in St Peter’s Square during Wednesday’s general audience (ANSA)
(2022.5.18 Vatican News staff reporter)
教皇フランシスコは18日、水曜恒例の一般謁見で、「老年の意味と価値について」の講話を続けられ、今回は旧約聖書のヨブ記を取り上げられ、ヨブは、大きな苦しみの中にあっても信仰を貫くことで、「神は、自分が悪に直面する際、しばしば沈黙されるが、神は贖罪の恵みと愛をもって、そこにおいでになる」ことが分かった、と指摘された。
説教で教皇は、「私たちは、信仰を証しする人としてのヨブと出会います。彼は、神の”戯画”を受け入れず、悪魔に直面して、神がお応えになり、顔をお見せになるまで大声で訴える… そして、神は、ヨブを抑えつけず、あるいはじっとしておらず、最高の優しさをもって、彼に栄光を表されるのです」と説かれた。
悪魔によって酷い苦しみを受ける中で、ヨブは、悪魔についての友人たちのあまりにも短絡的な説明を否定し、ひどい痛みを訴え、神に抗議する。
「父なる神は、ご自分のことも、苦しみのことも、全て知っていると思い込んでいるヨブの友人たちを叱責され、ヨブを慰めに来られた、それでヨブは、友人たちの思い込みをもって神のことを判断するのを止めました。そしてヨブは、後に明らかにされる神の正義を信頼します」と語られた。
そして、「ヨブ記の寓話は、人生で本当に起きることー身分の低さや脆弱さと釣り合わない、実に厳しい試練が、ある人に、ある家族に、ある人々に、降りかかりることを、典型的な形で劇的に語っています」とされ、「不公平で忍び難い苦しみに耐え、それでもヨブのように神の約束を信頼し続ける状況にある人々を、私たち皆が知っています。とくに、重い障害を抱えた子供たちをもつ親たち、慢性の病いに侵された親たち、あるいは家族のうちの1人を介護している親たちの中に、そのような例をいくつも知っています」と述べられた。
さらに、「歴史上のいつくかの重要な時点で、人々への重荷が何倍にもなると、一時期に集中して負わされている印象を与えます。この何年か、それが、新型コロナウイルスの世界的大感染、として今続いているウクライナにおける戦争、という形で起きています」と指摘。
「しかし、神は、そうした敵対から距離を置くことをなさいません。初めの時から、ヨブに抗議の火を付けることをお許しになります。祈りは、自然に湧き出るように、子が父にするように、言いたいことを全て話さねばなりません。子は、父が自分を理解してくれることを知っています」と教皇は語られた。
教皇は、「ヨブの信仰告白は、神への、卓越した正義への倦むことのない嘆願から出て来るもの」とされ、ヨブの神への言葉を引用されたー「私は耳であなたのことを聞いていました。しかし今、私の目はあなたを見ました」(ヨブ記42章5節)。
そして、「この証しの言葉は、老境において、弱さが進み、色々な機能が失われていく中で、語られるときに、格別に信用できるものとなります。年配者たちは、このような経験を数多く目にして来たのです」とされ、最後に、「証しの道を見出だし、失うことの悲しみを、神の約束が果たされるのを待つ根気のよさに変える年配の人たちは、邪悪の氾濫に対しする、共同体社会にとってのかえがえのない”守備隊”なのです」と強調。
「年配者たち、祖母たち、祖父たちは、神への祈りと信頼という模範によって、十字架につけられたイエスに向けて自分たちを一致させるように、私たちに教えくれる力があるのです」と締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
A migrants holds Pope Francis’ hand during his visit to Lesbos in 2016
(2022.5.12 Vatican News Devin Watkins)
教皇フランシスコが12日、 9月25日の「世界難民移住移動者の日」に向けたメッセージを発表。 「より良い生活を求めて家を出た人々の助けを受けて、私たちの未来を築くこと」の必要を説かれ、「難民、移民の人たちと共に未来を築くということは、彼ら一人ひとりが未来構築の過程にどれほど多く貢献できるかを認め、評価することを意味します」と述べられた。
「世界難民移住移動者の日」は1970年に当時の教皇パウロ6世が、バチカンに移住・移動者司牧評議会を設置したのを受け、毎年9月第四日曜日を「世界の各小教区とカトリック施設が、国籍を超えた神の国を求めて、真の信仰共同体を築き、全世界の人々と『共に生きる』決意を新たにする日」としたもの。
教皇はメッセージで、真の天の故郷に向けた人類の「旅」について考察され、「神の王国は、イエス・キリストによる救いを受け入れた人々の中にすでに存在しています」とされたうえで、「私たちが神の王国の実現へ旅するとき、一人ひとりが回心に努め、私たちの世界を変革し、これまで以上に神の計画と調和したものとなるようにせねばなりません」と説かれた。
*『人類と共に神が住まう場所』への道は遠い
そして、人類の歴史において悲劇が続いていることを嘆かれ、「それは、私たちが『人類と共に神が住まわれる場所』への道をまだ歩んでいないことを、思い起こさせます」と述べられたうえで、「近年の数々の苦難で学んだことを踏まえ、『誰もが平和と尊厳の中で生きることができる世界」という神の計画に一致する未来を築く約束を新たにすることが求められています」と強調。「『王国の義』を求め、キリストの救いの『愛の福音』を受け入れることで、その旅を進めることができるのです」と語られた。
*すべての不平等と差別は排除せねばならない
さらに教皇は、「すべての不平等と差別は、社会から排除されねばならず、いかなる人も排除されてはならない」とされ、「神の計画は、本質的にすべての人を包むものであり、中でも社会の周辺に置かれた人々を優先します。そして優先すべき人の中に、移民や難民、避難民、人身売買の犠牲者がいます」と指摘。キリスト教徒は「自分たちの住む家を追い出された人々」と共に神の王国を築ねばならず、「最も弱い立場にある人々を仲間に入れることは、神の王国で完全な市民権を得るための必要条件です」とされた。
*移民・難民の受け入れ国での価値と可能性
教皇はまた、「移民・難民と共に未来を築くために、彼らの新しい住まいとなる国において、彼らの価値と可能性を認めることも必要」と語られ、預言者イザヤが「シオンの栄光」(イザヤ書60章)で語っているように、「異国の子ら」は「『侵略者』や『破壊者』ではなく、より良い社会への『意欲的な働き手』と見なされるべきです」と強調。
そして、移民・難民が、受け入れられた国で、社会的、経済的成長にための貴重な資源を提供してきたことを歴史が示しており、「彼らの働きぶり、若さ、熱意、そして犠牲を厭わない高い意欲は、彼らを受け入れる共同体社会を豊かにします。しかも、念入りに作られたプログラムとその実行でそれが最適な形で支援されれば、彼らの貢献はさらに大きいものとなる可能性があります。チャンスが与えられれば、大きな可能性があり、すぐに活用できるようになるのです」と説かれた。
*霊的刷新にも貢献する
さらに教皇は、数多くの問題を示される一方で、移民・難民は「いくつもの共同体社会が世界をよりよく理解し、精神的な成長に貢献するのを助けることができます」とし、カトリックの移民・難民は「彼らを受け入れる共同体社会で教会活動を活気づけることができる… 信仰と献身のさまざまな表現を共有することは、神の民の普遍性をより完全に体験するための特別の機会を私たちに与えてくれます」とされ、海外から入国してくる兄弟姉妹を暖かく迎えるように勧めることで、メッセージを締めくくられた。
【世界難民移住移動者の日のための祈り】
最後に教皇は、「世界難民移住移動者の日」のための特別な祈りに、信徒たちを招かれた。
主よ、私たちを希望の担い手にしてください
闇があるところに あなたの光が輝くように
落胆があるところに 将来への自信が生まれるように
主よ、私たちをあなたの正義の道具にしてください、
排除があるところに 友愛が栄えるように 貪欲があるところに 分かち合いの精神が育つように
主よ、私たちをあなたの王国の建設者にしてください
移民や難民と共に
そして、周辺に住むすべての人と共に
主よ、兄弟姉妹として一緒に暮らすことが どれほど美しいかを 私たちが学ぶようにしてください アーメン。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
教皇フランシスコの一般謁見(2022.5.11 バチカン・聖ペトロ広場 =Vatican Media)
(2022.5.11 バチカン放送)
教皇フランシスコは11日の水曜恒例一般謁見で、「老年の意味と価値について」の講話をお続けになり、今回は旧約聖書続編の「ユディト記」をもとに、「ユディト、感嘆すべき若き日、寛大な晩年」をテーマにお話しになった。
講話の要旨は次のとおり。
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今日は旧約聖書のヒロインの一人、ユディトについて話したいと思います。若く徳の高いイスラエル人の寡婦、ユディトは、自分が住んでいたベトリアの町がアッシリア軍に包囲され、崩壊の危機に遭った時、その信仰と美しさ、賢さによって、アッシリア軍を打ち破るのに大きく貢献し、町を救いました。
ユディトは勝利を神に感謝する為、エルサレムに上った後、ベトリアに戻り、そこで百五歳まで立派な人生を送りました。それは彼女にとって、いわゆる”引退生活”でした。100歳以上まで生きる、という長寿の恵みを得ました。
今も、たくさんの人々が引退後も長い年月を過ごしていますが、この自由に使える時間をどのように解釈し、どのように活かすべきでしょうか。ユディトは若くして夫を失い、子はありませんでしたが、主から託された使命を最後まで果たした、という自覚のもとに、晩年を、充実した平安な時として生きることができました。それは彼女にとって、物質的な財産だけでなく、賢明さ、優しさといった財産を、一族や共同体に遺すべき時でもあったのです。
ユディトは晩年に「侍女を自由の身に」(16章23節)しました。これは自分に仕えてくれた人に対する、配慮ある人間的な眼差しのしるし、です。私たちは歳をとると視力は衰えますが、心の眼差しは、若い時よりも深くなります。以前は見過ごしていた物事が、見えるようになります。
主は、若い人や強い人にだけ才能を託されるのではありません。それぞれに応じて、皆に与えられているのです。私たちの共同体は、多くの年配者の才能とカリスマを享受すべきです。年配者は、引退生活を送っても、活かすべき豊かさそのものなのです。
また、豊かさを生かすために、年配者自身に求められるのは、創造的な新しい視点と寛大な奉仕の心です。現役時代の能力は、「教え、助言し、築き、世話し、耳を傾けること」を通して、他者に与えるための財産となります。そして、その能力は可能であれば、習得の機会を持たない人々や、孤独に陥っている人々のために用いられるべきでしょう。
ユディトは侍女を自由の身にし、皆に配慮を尽くし ました。ユディトは、若い時、その勇気のために共同体の尊敬を得ました。晩年には、その優しさによって共同体を自由と愛情で満たしました。ユディトは、憂鬱にむなしく時を過ごす”引退生活者”ではありませんでした。神が与えてくださった時を恵みで満たす、”情熱的な高齢者”だったのです。
(編集「カトリック・あい」)