◎教皇連続講話「老年の価値と意味について」⑪「年配者は、行動につながらない知識の誘惑に抗さねばならない」

(2022.5.25 Vatican News  Devin Watkins)

 教皇フランシスコは25日、水曜恒例の一般謁見で「老年の価値と意味について」の講話をお続けになり、この日は、旧約聖書の「コヘレトの言葉」を題材に、「知識を行動につなげずに蓄えたい」という誘惑に抗しつつ、正義への情熱を持ち続けるように、と年配の人々に勧められた。

 講話で教皇はまず、「コヘレトの言葉」の冒頭にある「空の空 空の空、いっさいは空である」(1章2節)という反復句が、現代における”誘惑”にどのように関係づけられるかに注目。

 「賢者のコヘレトは、人生経験を積もうとして、意味と無意味の間を行き来しました。”正義への情熱”と切り離された知識に傾くとき、それが無意味であると足を止めました」とされ、「コヘレトは、無意味の罠から抜け出す方法をこのように示して、言葉を締めくくっていますー『神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである』 (12章13節)」と語られた。

(2022.5.25 バチカン放送)

  教皇の講話の要旨は次のとおり。

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 「私は人生を厭う。太陽の下で行われる業は私にとって実に辛い。すべては空であり、風を追うようなことだ」(コヘレトの言葉2章17節)「私は、太陽の下でなされるあらゆる労苦を厭う。それは私の後を継ぐ者に引き渡されるだけだ」(同18節)「聞き取ったすべての言葉の結論。神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。神は善であれ悪であれ あらゆる隠されたことについて すべての業を裁かれる」(12章13-14節)・

 「コヘレトの言葉」も、また聖書の中の宝石の一つです。「すべては空しい」という言葉の繰り返しで始まるこの書は、私たちを驚かせます。しかし、意味と無意味の間を行き来する「コヘレトの言葉」は、神の裁きを土台とする正義への情熱から遠ざかった生き方に対する皮肉を込めた自省の表現です。そして、この書は、試練から抜け出す道として「神を畏れ、その戒めを守れ」という教えで締めくくっています。

 すべてが思うようにいかず、何をしても無駄に見える現実を前に、無関心でいることは、失意の苦しみに対する唯一の”特効薬”のようにさえ思われます。こうした時、自分たちの努力でいったい世界が変わるのだろう、正も不正もどうせ割り切れるものではない、という疑念が湧いてきます。

 このような否定的な考えは、私たちの生活の中でしばしば現れますが、特に高齢期の失望感は、ほとんど避けがたいものでしょう。それでも、高齢において、幻滅に対抗することは重要です。人生のすべてを見て来た年配者が正義への情熱を保ち続けることができるなら、そこに、愛と信仰に対する希望があるからです。

 今日、科学の名のもとに追求されるいわゆる「真理」は、正義への情熱を置き去りにしています。もはや約束や贖いは存在しません。

 コヘレトは、独特の皮肉で、「知識や科学を全能とみなす誘惑」の仮面を暴きます。昔のキリスト教の修道者たちは、知識や科学を絶対と考えようとする”魂の病”、信仰も道徳も失った”知の虚栄”、正義を伴わない”真理の幻想”、の危険を見抜いていました。その病を彼らは「無気力」と呼びました。それは単なる怠惰や憂鬱ではなく、もはや正義への情熱も、それに対して行動する熱意も持たず、この世の知識に降伏した状態です。

 あらゆる倫理的責任も、善への愛も拒む、このような知識によってもたらされた虚無は、有害です。善への意志を削ぐだけでなく、悪の力の攻撃に扉を開くこともあるからです。

 この愛と責任を伴わない理性は、真理を知ることの意味も、そのための活力も失わせてしまいます。今日、嘘ニュースや、集団的迷信、偽科学による情報などが見られることも、偶然の産物ではありません。

 年配者は、コヘレトの皮肉を込めた叡智から、「”愛と正義を欠いた真理の氾濫”に隠れた偽り」を暴き出す方法を学ぶことができるでしょう。知恵とユーモアあふれる年配者の存在は、人生の知恵を伴わない、悲しい世界観から、若い人たちを救うことができるでしょう。そして、「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる」(マタイ福音書5章6節)というイエスの約束を、彼らに思い出させることができるにちがいありません。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用箇所の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

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2022年5月25日