☩「干ばつによるソマリアの致命的な人道危機にも注意を向けて」ー教皇が訴え

Somalia facing a humanitarian crisisSomalia facing a humanitarian crisis  (AFP or licensors)

 

 

2022年8月15日

☩「信仰の炎を再び燃え立たせよう」年間第20主日・正午の祈り

(2022.8.14  Vatican News staff writer)

‎ 教皇フランシスコは14日、年間第20主日の正午の祈りの説教で、「福音は、私たちを神の愛で温め、利己心を燃やし去り、他の人たちと神の愛を分かち合うよう動かす『火』のように、変化をもたらし、私たちに回心するよう促します」と語られた。

 説教で教皇はまず、この日のミサで読まれたルカ福音書に書かれたイエスの弟子たちに対する言葉ー「私が来たのは、地上に火を投じるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか」(12章49節)を取り上げ、「これは、私たちに挑戦的する強い言葉です」と指摘。

 

*福音は、利己心を燃やし、偶像を焼き尽くす”火”

   そして、「イエスは福音ー私たち一人一人への神の愛についての良い知らせーもたらされました。そして、それが、『福音は火のようなもの』と主が言われるゆえんです。なぜなら、福音は、『歴史の中で突如わき起こり、従来の生き方を覆し、利己心を克服し、罪への依存を断ち切るよう私たちを助け、蘇られた方の中に新たな生き方を見出すよう導く、メッセージ』だからです」と説かれた。

 さらに教皇は、「福音が心の中で生き生きと働くとき、物事は以前と同じではなくなります。変化と回心を引き起こし、私たちを行動させ、神と私たちの兄弟姉妹に心を開くよう駆り立てる”躍動”の口火を切るのです… 福音はまさに”火”。福音は、神の愛で私たちを温めますが、同時に、私たちの利己心を燃やし、人生の暗い面を明るみに出し、私たちをとりこにする偽りの偶像を焼き尽くそうとします」と語られた。

 

 

*神の愛の炎に包まれたイエスが私たちを癒される

 続けて、「エリヤやエレミヤなど聖書に登場する預言者にならって、イエスは神の愛の炎に包まれ、愛することでご自身のすべてを最後まで捧げ、十字架の上で亡くなりました。 主は、『光と力を持つ火』である聖霊に満たされ、神秘的な神の顔のベールをお取りになり、”道”に迷ったとされる人たちに希望をもたらし、彼らを分け隔てる壁を打ちこわし、体と心を癒し、信心深さを新たにしてくださいます」と強調。

 

 

*信仰に再び火をつける

 そして、「イエスは、『信仰に再び火をつけるように』と私たちに呼びかけておられます」とされ、「それは、何よりも重要なこと。”個人的な幸せ”を得る手段以上のものです。私たちが”燃えている炎”のように行動することを、可能にします。夜であっても、目をさまし、生き生きとさせます」と述べられた。

*私たちは福音を証しする炎を燃やしているか?

 説教の終わりに、教皇は信徒たちに、「自分は、どれほど福音に情熱を注いでいるか?」「福音を頻繁に読み、真剣に受け止め、個人として、教会として、心の中に『福音を証しする炎』を燃やしているか?」を自らに問うように、さらに、「聖霊の火が心の中で燃え、信仰の喜びだけでなく、祈りと慈善への情熱を生み出しているかどうか?」と問うように促された。

 そして、「私たちもイエスのように、こう言うことができるようにしましょうー『私たちは、神の愛の炎に燃えています。それを世界中に広めたい、すべての人に広めたいと思っています。そうすることで、一人一人が御父の優しさを発見し、心を大きくし、人生を素晴らしいものにするイエスの喜びを体験できますように」と勧められた。

 最後に、聖霊の火を喜びをもって受け入れられた聖母マリアが方が、私たちを支え、主に執り成してくださるように、祈るよう励まされた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年8月14日

☩「ウクライナの人々がなお、”残虐な戦争”の犠牲になり続けている、平和への祈りと努力を」

ウクライナ東部トレツクの破壊された建物の瓦礫を見る男A man looks at the rubble of a destroyed building in Toretsk, eastern Ukraine  (AFP or licensors)

(2022.8.10 Vatican News staff reporter)

   ‎教皇フランシスコは10日の水曜恒例一般謁見で、6か月になろうとしているロシアの軍事侵略の犠牲になっているウクライナの人々のために祈りを続けるよう、改めて信徒たちに求められた。

 教皇は、「この”残虐な戦争”に苦しまされ続けているウクライナの人々」に改めて思いを向けられ、‎また国外に脱出した多くの移民・難民に祈りを捧げるとともに、すべての家庭と社会に平和をもたらす努力を、世界中のすべての人に、次のように訴えられた。

 ‎「家庭、教会、社会に一致と平和がもたらされるよう、すべての人に強く勧めます。家庭と教会の両方で平和を生み出し、一致を築くことは容易ではありません。しかし、それは重要な仕事です。私たちはそれをしなければなりません」。‎

 教皇は7日の年間第19主日の正午の祈りの説教の中で、ロシアによる半年にわたるウクライナの港湾封鎖の後、トルコの仲介でウクライナの穀物の輸出が再開したことを、「公正で永続的な平和を見つけることができる、という希望のしるし」として歓迎された。だが、ロシアは自国に対する経済制裁解除を交換条件として要求し、他地域での攻勢を続けるなど、楽観できない状況が続いている。

 ロシアのウクライナ侵攻は168日目に入り、近い将来に終結する兆しはない。10日も、ロシアの砲撃がウクライナの中央ドニエプロペトロフスク地域を襲い、一晩で少なくとも13人が死亡したと報じられている。一方で、前日9日には、ロシアが併合したクリミアの軍事空軍基地での大規模な爆発があり、14人が死傷。ロシア当局は、操作の誤りによるものとしているが、ウクライナ政府高官は、爆発はウクライナ特殊部隊によるもの、としている。‎

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年8月11日

◎教皇連続講話「老いの価値と意味について」⑯「老年期は、キリストを証しする実りの時だ」

Pope Francis at the weekly General AudiencePope Francis at the weekly General Audience  (Vatican Media)
(2022.8.10 Vatican News  Devin Watkins)

  教皇フランシスコは10日、水曜恒例の一般謁見で、「老年の価値と意味について」をテーマにした連続講話を1か月半ぶりに再開され、「人生が終わりを迎えつつあるときの、キリストの約束への心静かな信仰と信頼は、福音への実り多い証しを提供する」と語られた。

 教皇はこの講話でまず、ヨハネ福音書の最後の晩餐でイエスが弟子たちに別れの言葉を述べられる場面(14章1‐3節=「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい… 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える…」)を思い起こされた。

 そして「たくさんの人が最終的に、老年期の脆弱さと困難を経験しますが、それは『信仰のワクワクする祝福の時』でもあるのです」と語られ、「老年期に、自分と他の人たちと神の国に近寄せる信仰の働きは、青年期と壮年期のエネルギー、言葉、勢いの力を超えるものとなります」と強調された。

 教皇はまた、「私たちが晩年を迎え、人生の長い年月を振り返り、逃してしまった機会について考えるとき、苦々しい思いにとらわれることがあるかもしれません」とされたうえで、‎「優しさと実生活への敬意をもって老いを生きることは、世俗的な条件に合わせることで、完全で満ち足りたものにすることができるという、教会についての誤解を確実に解きます… なぜなら、老いそのものが神がくださる祝福であり、私たちの人生が死を経て永遠の命に行くように運命づけられていることを教えるからです」と説かれた。‎

 そして、‎「私たちの安定した場所、私たちの目的地はここにはありません… その場所は、主のおそばにあり、そこに主が住んでおられます」と語られた。‎

 さらに教皇は、「私たちの地上での人生は『見習い期間』であり、その期間に、様々な困難が私たちに神の賜物を感謝し、それを他の人たちと分かち合うことを教えてくれます… 私たちが地上に存在する期間は、人生の始まり、神においてのみ成就される人生の始まりの時。私はこの地上に生を受けた初めから不完全であり、(地上での人生の)最後まで不完全なままです」とされ、‎また「老年は、『見習い期間』の終わりが近づき、私たちが直面する自分の時間の意味と限界を理解するのに役立ちます」と指摘された。‎

‎ 講話の最後に教皇は次のように締めくくられた。

 「老いを迎えた人は、周囲の人たちにキリストへの希望と信仰を証しする特権を持っています。イエスの約束を容易に分かるようにします… 老齢期は『人生は最終的な成就への始まり』という喜びに満ちたメッセージを広めるのに最も適した人生の段階です。そして至高のものの到来はこれからです」‎。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年8月10日

☩「先住民の家族と地域社会を大切にする感覚は、とても貴重」ー9日の「世界の先住民族の国際デー」に

教皇フランシスコは、先住民族に会うためにカナダへの「悔悟の旅」中にPope Francis during his “penitential journey” to Canada to meet Indigenous peopples  (Vatican Media)

‎(2022.8.9 Vatican News staff reporter)

   教皇フランシスコは9日、同日の「世界の先住民族の国際デー」に向けたツイートで、先住民たちに激励のメッセージを送られた。

 教皇はその中で、‎「皆さんの家族と地域社会に対する深く純粋な感覚は、なんと貴重なことでしょう。老いも若きも、絆をしっかりと育み、すべての被造物と、健全で調和のとれた関係を持つことは、なんと大切なことでしょう」と‎称えられた。

 教皇は先日、カトリック教会が当時のカナダ政府の先住民同化政策に協力し、全土に設けられた寄宿学校で彼らの子弟たちに虐待を繰り返していたことに対する”悔悟”のカナダ訪問をされた。今回のツイートは、その訪問を踏まえたものだ。

 「世界の先住民族の国際デー」は、先住民に対する世界の意識を高め、権利保護を促進するために、1994年12月の国連総会で創設が決められ、毎年8月9日がその日とされている。

 今年のテーマは「伝統的な知識の保存と伝達における先住民族の女性の役割」で、国連の‎グテーレス国連事務総長は9日の声明で‎「誰一人取り残さない、公平で持続可能な未来を築くためには、先住民族の女性の声を大きくせねばなりません」と訴え、欧州連合(EU)外務・安全保障政策上級代表も、「先住民族の権利に関する国連宣言と、国際法にうたわれている先住民族の権利を尊重し保護する」という欧州の「確固たるコミットメント」を再確認した。‎

 ‎今年はまた、世界中の多くの先住民族の言語が置かれている危機的な状況に注意を喚起し、その保存、活用、促進のための行動を促す、国連の「先住民族言語の10年」の始まりの年でもある。‎世界では、現在、約7000の言語が使われているが、そのうち少なくとも4割は程度の違いはあれ消滅の恐れがあり、特に先住民族の言語は、その多くが学校で教えられていないか、公共の場で使用されていないことが多く、消滅の危機に瀕している。‎

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年8月10日

☩「恐れることはない、だがいつも用心していなさい」年間第19主日・正午の祈り

(2022.8.7 Vatican News Thaddeus Jones)

 ‎教皇フランシスコは7日、年間第19主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたルカ福音書の中でイエスが弟子たちに話された「目を覚ましている僕」のたとえ話(12章35‐48節)を取り上げ、「私たちの人生は、神の愛と心配りを受けているので恐れることはありません。しかし、神と兄弟姉妹に仕える準備ができているように、いつも用心する必要があります」‎と語られた。

 そして、「イエスは、弟子たちに『あなたがたの人生は、しっかりと神の御手の中にある。だから心配しないように』と励ましておられます。私たちは、時として、不安、心配、不信、失敗や、愛されないことへの恐れで、自分の中に閉じこもっていると感じ、自分のことだけを考え、物や富を積むことで安心したいという誤った願望を抱くことがあります。そのような時、イエスのこの励ましの言葉は、私たちも勇気づけてくれます」と説かれた。

 ‎「イエスは私たちを安心させてくださいます。恐れることはない。あなたが本当に必要としているものをすべて与えたいと望んでおられる御父を信頼してください。御父はすでにあなたに、御子、神の王国を与えてくださっており、いつも摂理を伴って、日々、あなたの世話をしてくださいます」。‎

‎ また教皇は、「主がいつも見守ってくださっているので、私たちは安心できる。だからと言って、『眠りこけ』てしまったり、『怠惰に身を任せ』たりしていい、というわけではありません。いつも(そうならないように)警戒し、用心していなければなりません」と注意を与えられた。

 そして、「愛が、そうすることを求めます。愛を持つことで、私たちも、他者の求め、善にいつも注意を払い、彼らの声の耳を傾け、彼らを喜んで受け入れることができるからです」と説かれた。‎

‎  さらに教皇は「良い時も悪い時も、警戒心と備えが必要であることは、キリスト教の知恵を反映しています」とされ、「イエスは、たとえ話の中でこの勧めを何度か繰り返し、『私たちは目を覚ましていなければならない』、つまり、『気を散らしたり、内なる怠惰に身を任せたりしないようにせねばならない』というメッセージ送っておられるのです」と語られ、さらに次のように述べられた。‎

 ‎「私たちの生涯の終わりに、主は私たちに託された賜物を説明するために、私たちを召してくださいます。用心深くある、ということは、責任を持つこと、つまり、それらの賜物を忠実に守り、管理することも意味するのです」。‎

 最後に教皇は、「信仰、家族、人間関係、地域社会など、私たちの命と、人生で受けたものを振り返り、これらの主の賜物に感謝し、また、その賜物を大切にし、他者のことを考えずに自分のために使わない」よう自覚するよう、信徒たちに促され、改めて、「恐れることなく歩みましょう… 主が共にいてくださることを自覚し、主が私たちの傍に来られるときに、眠り込んでいることがないように」と強調された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條‎俊二)

2022年8月7日

♰「オンラインでキリストを説くのに、失敗を恐れるな」”デジタル福音宣教”国際会議に

 

ケベック州で教皇フランシスコのビデオを録画する女性(AFP or licensors)

   ‎教皇フランシスコは、5日から6日にかけメキシコのモンテレイで開がれた “Hechos 29”(デジタルによる福音宣教国際会議)の参加者にビデオメッセージを送り、

 「まだキリストに出会ったことのない”デジタル空間”の人々に手を差し伸べるように」と促された。‎

 メッセージで教皇は「主は私たちの家の中に入ろうと扉をたたかれますが、それとともに、私たちが主を表に出すように、家の中から何度、扉をたたかれることでしょう‎か」と問いかけられ、「今回の会議が、皆さんが新しい地平線やフロンティアに向かって進む助けとなり、創造力と勇気をもって神の憐れみと優しさを告げることを決して恐れなかい福音宣教者の共同体の一員であることを実感する場となりますように」‎と祈られた。

 また‎教皇は先日のカナダ訪問の経験から、‎「私たちは、まだキリストに出会ったことのない人たちに、福音を宣べ伝える新しい方法を見つけなければなりません」と語られ、「彼らが私たちのところに来るのを待っているのではなく、彼らのところに出かけて行って、出会い、手を差し伸べ、耳を傾け、言葉を交わすことを可能にする創造的な宣教の在り方を必要としています」と、オンラインなどを活用した”デジタル福音宣教”の重要性を指摘された。

 そして、‎若い信徒たちが、そうした福音宣教のやり方をする際に「間違いを犯すことを、恐れないように」とされ、‎「私は『身の安全のために心を閉じ、病んでいる教会よりも、現実の”周辺社会”に身を投じ、傷つく教会を好む』と繰り返し、言い続けています」‎と強調。「”デジタル福音宣教”に携わる人たちが、インターネットやソーシャルメディアを『人間性に満ち溢れた場所』にし、他者に対して『良きサマリア人』として振る舞うことができるように」と希望を表明しました。‎

‎ さらに「オンラインを通じて他者と頻繁に接することで、現代文化は、あなたの中に神を感じることによって、神を知るようになるかもしれません… (オンラインを通じで)出かけて行って、人々、特に最も”遠く”にいる人々に、イエスの希望が得られるようにしてください」と励まされ、‎「言葉に慈愛が伴い、仮想性が存在感を強め、ウェブが聖体拝領を生み出し、イエスを、自分の文化に住まわすことができますように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條‎俊二)

2022年8月7日

☩「人類の傷への特効薬は、神の愛に根差した兄弟愛を生きること」世界の若者の集いに

メジュゴリエで開催された若者たちの集いメジュゴリエで開催された若者たちの集い 

 教皇フランシスコは2日、ボスニア・ヘルツェゴビナの巡礼地メジュゴリエで1日から始まった、若者たちの集い「メジュゴリエ・インターナショナル・ユース・フェスティバル2022」にメッセージをおくられた。

 メッセージで、教皇はマタイ福音書のイエスの言葉、「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」(11章28-30節)を観想するよう勧められた。

 そして、「愛する友の皆さん、心を開きイエスのもとへ行き、イエスの軛を負い、イエスから学んでください。師のもとへ行き、弟子となり、平和の約束を受け継いでください。イエスの軛を負い、神の御旨を発見し、十字架と復活の神秘に参与してください」と呼びかけられた。

 さらに、「イエスが言う軛とは、愛の掟です。それは、イエスが弟子たちに遺した『私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい』(ヨハネ福音書15章12節)という教えです。人類の傷に対する真の特効薬は、神の愛に根差した、兄弟愛に基づく生き方だからです」と説かれた。

 そのうえで、「愛する皆さん、恐れることはありません。心に抱くすべてをもってイエスのもとに行きましょう。イエスこそ、真の復活、真の平和をもたらす唯一の主です。私たちの母、マリアの模範に従いましょう。聖母は皆さんをイエスのもとに導くでしょう」と述べた教皇は、若者たちを聖母に託して祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

2022年8月4日

☩教皇一般謁見再開「カナダ訪問は前例のない”悔悛の巡礼”だった」

(2022.8.3 Vatican News Deborah Castellano Lubov)

 教皇フランシスコは3日、7月を”夏休み”にしておられた水曜恒例の一般謁見を再開。講話で、先のカナダ訪問を振り返られ、「何世紀にもわたって心身に傷を負わされた先住民の方への”悔悛の巡礼”だったこと」を強調された。

 講話の中で教皇はまず、カナダ訪問は「民族の文化と誇りを消し去ろうとする(カナダ政府とそれに協力したカトリック教会の)試みに苦汁を味わわされ続けた先住民の方々への癒しと和解のための”悔悛の巡礼”でした」とされた。

 そのうえで、このような不正行為は、「カナダの教会の多くの関係者が協力し、政府の資金による、悪名高い『寄宿学校制度』のもとでなされました」と指摘。特に不正行為の中心となったケベック州のエドモントン、そしてヌナブト準州の州都イカルイトへの訪問の体験を思い起こされた。‎

(以下、翻訳中)

A ‘penitential’ visit like no other

The Holy Father said it was “a visit like no other.”

“In fact, the main motivation was to meet the indigenous peoples to express to them my closeness and my sorrow, and to ask for forgiveness – to ask for forgiveness – for the harm done to them by those Christians, including many Catholics, who in. the past collaborated in the forced assimilation and enfranchisement* policies of the governments of the time.”

In this sense, the Pope explained, his journey “was undertaken in Canada to write a new page,” and continue to walk together, always closer, with the indigenous peoples.

The Pope pointed out how apropos the motto of ‘Walking Together’ was for the Journey.

Repentance and reconciliation

Much analysis, the Pope suggested, “shows that, on the one hand, some men and women of the Church have been among the most decisive and courageous supporters of the dignity of the indigenous peoples, coming to their defence and contributing to raising awareness of their languages and cultures.”

“But, on the other hand,” he added, “there was unfortunately no shortage of those participated in programmes that today we understand are unacceptable and contrary to the Gospel.”

In this sense, he reiterated, this visit was penitential, and even if there were many joyful moments, “the meaning and tone of the whole was one of reflection, repentance and reconciliation.”

Rejecting mindset of colonization and promoting indigenous

In Edmonton, he said, there was an honest and sorrowful remembrance of the past, which continued in Quebec with “a plea” for reconciliation born of hope through Christ, and concluded, in Iqaluit, with confident trust in the “healing” made possible by the power of the Risen Lord to make all things new.

The Church’s desire, as it explicitly acknowledged the wrongs of the past–the Holy Father suggested, rejects the mindset of colonization, and esteems and promotes the indigenous cultures.

Pope Francis concluded by praying, “May the fortitude and pacific action of the indigenous peoples of Canada be an example for all originary peoples not to close themselves up, but to offer their indispensable contribution for a more fraternal humanity, that knows how to love creation and the Creator, in harmony with creation, in harmony between you all.”

* (“Enfranchisement” was the process of changing the civil status of Indigenous peoples from “Indians” to full Canadian citizens – a process of assimilation that often came at the expense of their indigenous identity. Originally voluntary, enfranchisement became compulsory in 1876 and remained so into the 1960s.)

2022年8月3日

☩教皇「核兵器のない世界」実現を改めて訴えー核拡散防止条約・再検討会議へ

非核/

 (2022.8.1 Vatican News staff writer)

 教皇フランシスコは1日、同日からニューヨークの国連本部で始まった核拡散防止条約(NPT)再検討会議向けてツイートを送られた。

 教皇はその中で、「世界は誤った安心感を与えるだけの”テロの均衡”として核兵器を利用するのではなく、平和と安定のための”真の対話”に向かって進む必要がある」と訴えられ、「核兵器の使用、そして核兵器を保有すること自体が不道徳です」と改めて強調された。

 NPT再検討会議に日本の首相として初めて出席‎岸首相は日本時間2日未明の演説で、「ロシアによるウクライナ侵略の中で核による威嚇が行われ、核兵器の惨禍が再び繰り返されるのではないかと、世界が深刻に懸念している。『核兵器のない世界』への道のりは、いっそう厳しくなっている」と述べた。

 そのうえで、「NPTは、軍縮・不拡散体制の礎石として国際社会の平和と安全の維持をもたらしてきた。会議が意義ある成果を収めるため、協力しようではないか。わが国は、ここにいる皆さまとともにNPTをしっかり守り抜いていく」と述べ、NPT体制の維持・強化に向けて各国に建設的な対応を呼びかけている。

 教皇の1日のツイートは、このような日本などの前向きな姿勢を後押しするものだ。教皇は今年6月に開かれた核兵器禁止条約(TPNW)の第1回締約国会議にもメッセージを送られ、「核兵器の使用、そして保有すること自体が不道徳です」とされ、核兵器禁止条約の「勇気あるビジョン」を称賛し、締約国会議の開催は「これまで以上にタイムリーに見える」と語られていた。

 核保有国が参加しないTPNW第1回締約国会議に対して、5年ごとに開かれるNPT再検討会議には米、英、仏、露、中の主要核保有国5か国が参加しており、はるかに”実効性”が高い。 ロシアによる”核の脅し”を背景にしたすウクライナへの軍事侵攻で核の脅威が高まる中で始まった会議では、国際社会が核軍縮に向けて一致できるかどうかが焦点になっている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年8月2日

♰「飽くなき貪欲さでモノの奴隷となるな」年間第18主日・正午の祈りで

(2022.7.31  Vatican News staff writer)

 ‎ 6日間のカナダ訪問からお帰りになった翌日の31日、教皇フランシスコは、聖ペトロ広場の信徒たちを前に、年間第18主日の正午の祈りをなさった。 説教の中で、この日のミサで読まれたルカ福音書の「愚かな金持ち」(12章13-21節)を取り上げ、イエスが警告されている「 ‎‎神の愛と神の永遠の豊かな賜物を求めるよりも、物質的な欲望と金に仕えるよう誘う、すべての人の心にある”貪欲”」について考察された。

‎  教皇はこの福音書の箇所で、群衆の中の一人がイエスに、「私に遺産を分けてくれるように、兄弟に言ってください」と頼んだことに、注意を向けられ、彼の頼みに対して、イエスは『自分の役割は目先の家族問題に介入することではない』と断り、『それよりも、物をいくらでも持ちたいという人間の貪欲さが、家族を分裂させ、人生を破壊する病となることに注意しなさい』と警告されたのです」と語られた。

‎*「貪欲さ」のもつ危険性‎

 そして「物を持つことへの飽くなき欲望は、しばしば自己増殖し、ますます自分のために欲しがり、逆説的に言えば、その人にとって『自由で穏やかに生きるために役立つはずだった物』の奴隷にしてしまいます」と続けられ、「物に対する‎貪欲さは、社会にとって危険な病でもある。今日、私たちの世界には、巨大な不平等、歴史上かつて見たことのない不正義が存在し、巨大な富を持つ人はほんのわずかで、大多数の人は富をほとんど持たない、という状態になっている」と指摘され、次のように語られた。‎

 ‎「戦争や紛争についても、考えてみましょう。その背後には、ほとんどの場合、資源と富への欲望があります。戦争の背後には、なんと多くの権益があるのでしょうか! そして、その一つが、疑いもなく武器貿易です」‎。‎*自分自身の貪欲さと向き合う‎

 ‎教皇はさらに、「イエスは、貪欲さの誘惑は、『権力を持つ一部の人々や経済システムだけでなく、すべての人の心にある」ということを、私たちに示しておられます」とされ、「イエスは私たちに、自分の人生を振り返り、物や富に執着しすぎているのはないか、『もっと欲しい』と思い続け、あるいは、『まだ足りない』と不平をもらしていないか、点検することを提案されます。私たちは、人との関係、他の人のために、自分の富や時間を犠牲にしたり、貪欲さを改めるために、世間の常識を無視したりするでしょうか」と問いかけられた。‎

*「貪欲」が、カルト、偶像崇拝の形をとる可能性

 また、貪欲が、カルト、偶像崇拝の形をとる可能性を警告され、「イエスは、『あなたは、神と富の二人の主人に仕えることはできない』と強く警告されます。『富』は私たちに仕えるものであり、私たちが富に仕えるのではない。それは神への罪です」と説かれた。‎

*‎神に従う”金持ち‎”となれ‎

 教皇は「人が『裕福になりたい』と願うのは理解できるし、もっともなことですが、私たちは、そうではなく、『”神に従う金持ち”になりたい』と願うべきです。そして、これは、『慈悲と憐れみに富むこと』を意味します。この富は、誰かを貧しくしたり、争いや分裂を生んだりはしません」と強調。「神の豊かさは、与える方法、分配する方法、分かち合う方法を知っています」と付け加えられた。‎

*人を助け、良い『相続財産』を残すこと

 説教の最後に教皇は、「私たちはよく生きるために、『物質的な財の蓄積』以上のものを必要とし、神や他の人々との良好な関係を必要とします。私たちは皆、貪欲によってではなく、『忘れることのない善行、人々が成長し成熟するのを助けること』を通して、良い『相続財産』を残すことを通して、私たちの人生を豊かにするように努めましょう」と信徒たちを促され、「命の真の財とは何か、永遠に続くものが何であるかを、私たちが理解できるように助けてくださいますように」と聖母マリアに願われた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)‎

 

2022年7月31日

☩教皇カナダから帰国途上の機内会見でー「先住民の人々にしたことは”ジェノサイド”だ、そして今も”植民地主義”が存在する」+一問一答全訳

教皇フランシスコ、教皇の飛行機に乗ってジャーナリストに語りかけるPope Francis speaks to journalists aboard the papal plane  (Vatican Media)

(以下の部分は、バチカン放送=日本語課による)

 会見で、一人のカナダ人記者は、「カナダの『真実と和解のための国立センター』が、先住民の子どものための寄宿学校制度の下で行われた行為を『文化的ジェノサイド(文化的集団抹殺)』と定義したが、後にこれを『ジェノサイド』に変えた。教皇の赦しを願う言葉を聞いた人々は、『教皇がこの言葉を使わなかったことに納得できない』と言っている」としたうえで、「『教会のメンバーがジェノサイドに関係した』と言うことができますか」と尋ねた。

*「民族の文化全体を変えようとする行為は”ジェノサイド”だ」

 これに対し教皇は、「私は『ジェノサイド』という言葉は使いませんでしたが、そのことを取り上げ、赦しを願いました。子どもたちを親から引き離し、文化や考え方、民族の伝統や言葉、風習、すなわち文化全体を変えようとする行為は、専門用語で『ジェノサイド』と言えます。お話している時に、この言葉は頭に浮かばなかったので、使いませんでしたが、そうした意味を込めて語ったのです。確かに、この行為は、『ジェノサイド』です」と答えられた。

*「今後の外国訪問は少し控えめに、だが人々に寄り添いたい」

 また、メキシコの記者から、「教皇にとってこのカナダ訪問は一つのテスト”でもありました。一週間の訪問を終え、将来もこのような形で旅を続けたいと思いますか」との質問には、「以前と同じようなリズムで訪問旅行に出かけることは、できないでしょう。私の年齢でこうした制約がある以上、教会に奉仕するために、(海外訪問を)少し控えめにしなくてはならないと思います」とされたうえで、「訪問を続け、人々に寄り添う方法を探したい。人々の近くに行って寄り添うこと、それは奉仕の一つのあり方だからです」とも語られた。

*「ウクライナ訪問は帰国後に様子を見る、カザフスタン、南スーダンにも行きたいが」

 カザフスタンやウクライナへの訪問について聞かれた教皇は、「私は、ウクライナに行きたい、と言っています。(バチカンに)帰ってから、様子を見ようと思います。カザフスタンにも、行けたらよい、と思っている。カザフスタン訪問は、宗教者会議への出席が目的で、あちこち動くことのない落ち着いた旅になるでしょう。ですが、今のところ保留の状態です」と答えられ、さらに、「コンゴと同様に、南スーダンにも行かなければなりません。英国国教会のカンタベリー大主教とスコットランド国教会の指導者と共に行く訪問となるからです。だが、雨季があるので、訪問は来年になるでしょう。私にはいきたい気持ちは強くあるのですが、足の具合も見なければなりません」と話された。

*「これまで引退は考えたことがない、(引退を)申し渡すのは神」

 また、ある記者からの「このところの健康問題などで、『もう引退の時か』と思ったことはありますか」との問いには、「(引退の”部屋”の)扉は開いている。それは、一つの普通の選択肢ですが、私は今まで、この扉を叩いたことはありません。『その部屋に入る』とは言っていないし、その可能性を考える気持ちもありません。ただし、『将来にわたって、それを考えない』という意味ではない。はっきり申し上げて、『今は考えていない』ということです」と答えられた。

 ただ、今回のカナダ訪問も、確かに”テスト”のような面があったことをお認めになり、「今の私の身体的な状態で、頻繁に旅行することはできない。訪問の仕方を変えるなり、回数を減らす必要がある。旅行の代償をこれから払い、(体調を)整えなくてはなりません。しかし、それ(引退)を私に申し渡すのは神です。扉は開いている、それは本当です」と語られた。

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 Vatican Newsによる会見での記者団と教皇の一問一答は以下の通り。

問:(Jessica Ka’nhehsíio DEER=CBC RADIO – CANADA INDIGENOUS) ‎寄宿学校の虐待の犠牲者の子孫として質問します。犠牲者とその家族はあなたに、謝罪に続いて、「doctrine of discovery(発見の教理)」の拒絶を含む具体的な行動をしていただきたい、と希望しています。カナダや米国の憲法や関連法を背景に、いまだに先住民族が土地をだまし取られ、権力を奪われ続けていることを考えると、カナダ訪問中に、これに関する声明を出す機会を、あなたは逸してしまったのではありませんか。‎

教皇:ご質問の後半部分がよく理解できないのですが。「doctrine of discovery」の意味を説明してくださいませんか?

問:(Jessica Ka’nhehsíio DEER)先住民の人たちと話していると、アメリカ大陸を植民地にするために来た人々は、「先住民は、われわれカトリック教徒よりも劣った民族だ」という考えのもとにdoctrine of discovery」があったのだ、と指摘します。その結果、カナダとアメリカは現在の国になったのだと。

教皇:分かりました。おっしゃる問題は、すべて「植民地主義」に帰結すると思います。現在に至るまで、このような”イデオロギー的な植民地化”は同じパターンをたどってきましたー「自分たち以外の者はすべて劣っている」という考え方です。「劣っているのだ」と考えるだけでなく、やや狂った神学者の中には、「彼らは魂を持っているのかどうか、疑わしい」と考えた人もいました。

 教皇ヨハネ・パウロ二世がアフリカに行かれ、奴隷が乗船させられた港を訪問された時、このドラマ、犯罪ドラマを理解するためのしるしを提示されました。‎

 当時、バルトロメオ・デ・ラス・カサスやピーター・クラバーのようにこうした先住民族の扱いに批判の声を上げる人もいましたが、少数派でした。人間は皆、平等である、という意識が広がるのはゆっくりでした。私が「意識」という言葉を使うのは、無意識の中に、まだ何かが残っているからです。私たちは、先住民族の人たちの文化を自分たちの文化に吸収するという、やや植民地主義的な態度を持ち続けています。それは私たち自身の生き方から生じるものであり、そのために私たちは時として、時々彼らが持っている価値を捨てようとします。先住民族は大きな価値、創造との調和の価値を持っており、私が知っている何人かは、‎‎それを「vivere bene‎‎(良い生活)」という言葉で表現しています。‎

‎ それは、私たち西洋人が理解しているように、うまく人生を過ごしたり、私たちの言葉でいう「 la dolce vita(良い生活)をすることを意味しません。「vivere bene‎‎(良い生活)」とは「調和を大切にすること」であり、本来の人間にとっての大きな価値です。

 「調和」。私たちはすべてを頭で考えることに慣れてしまっていますが、彼らは3つの言葉で自分自身を表現する方法を知っていますー頭の言葉、心の言葉、そして、手の言葉、です。この言葉すべてを一緒にする方法を知っています。対して、私たちが持っているやや誇張された、やや神経症的な発展の進歩主義を加速させています。‎  ‎私は「発展」に反対しているのではありません。「発展」は良いことです。良くないのは発展、発展、発展に対する不安…

 過度に発達した商業文明のなかで私たちが失ったものの一つは、詩的な能力です。先住民族はその詩的な能力を持っています。

 ”植民地化の教義”に戻りましょう。それは、真実であり、悪いことであり、不公正であり、今日でも使われています。”シルクの手袋”と同じで、今日でも使われているのです。例えば、ある国の司教たちは私にこう言いましたー「しかし、私たちの国が、国際機関から融資を受ける際、植民地主義的な条件さえも付けられます。融資を受けるために、自分の生き方を少し変えさせられるのです。

 南北アメリカ大陸の植民地化について申し上げましょう。イギリス人、フランス人、スペイン人、ポルトガル人がこの地を植民地化しようとした時、「我々は優れており、先住民はそうではない」という非常に危険な考え方をもっていました。それはとても重大なことです。だからこそ、私たちはあなた方のおしゃっていることに、取り組まなければなりません。原点に立ち戻って癒やすこと。現在も同じ植民地主義が存在するという認識のもとに、何が間違っていたのか、思い返すこと。アメリカ大陸だけではない。ミャンマーのロヒンギャで起きていることを考えましょう。彼ら少数民族は、ミャンマー人よりも劣っていると見なされ、市民権を得る権利を今でも与えられていないのです。‎

 

問(Brittany HOBSON=THE CANADIAN PRESS) ‎あなたはしばしば、「はっきりと、正直に、そして‎‎parrhesia‎‎(大胆)に語る必要がある」とおっしゃいます。カナダの「真実と和解委員会」が、寄宿学校制度を「文化的ジェノサイド」と表現し、その後ジェノサイドとして修正されたことをご存知でしょう。先週、あなたの謝罪の言葉を聞いた人々は、ジェノサイドという言葉が使われなかったので、失望を表明しました。教会員がジェノサイドに参加したと言うのに,この言葉を使いますか。‎

‎教皇:「ジェノサイド」というのは、本当です、その言葉が思い浮かばなかったので、私はその言葉を使いませんでした、しかし、私は事実上のジェノサイドであることを認め、赦しを請いました、集団虐殺であるこの活動に対する赦しを求めました。子どもを連れ去り、文化を変え、考え方を変え、伝統を変え、人種を変え、すべての文化全体を変えてしまおうとしたこと。それはジェノサイドです。先住民の方々に赦しを請おうとした時、私の頭にその言葉が浮かばなかったので、使いませんでしたが、私はそれを使ったと同じ内容の説明をしました…それは本当に、「ジェノサイド」です。安心してください。私が「ジェノサイドだと言った」と報告されて結構です。‎

 

問(Maria Valentina ALAZRAKI CRASTICH (TELEVISA):‎教皇フランシスコ、今回のカナダ訪問は、あなたが今朝「肉体的限界」と呼たものについての健康テストでもあったと思います。これからの海外訪問について教えてください。今回のような海外訪問をこれからもお続けになるお積りですか?れらの制限のために取れない旅行はありますか、または膝の手術が状況をさらに好転させ、以前のように頻繁に海外訪問ができると思いますか?旅行を許可すると思う場合?‎

教皇‎:私に分かりませんが、以前と同じペースで海外訪問を続けられる、とは思いません。自分の年齢で、身体的な制限がある中で、教会に仕えるためには、少しゆとりが必要です。その一方で、脇に退く可能性も考えられる。正直なところ、(教皇職を退くことは)”大惨事”ではありません。教皇を代えることは可能ですし、代わることは可能です、問題はありません! 今私に必要なのは、もう少し行動を抑えること。私の場合、膝の手術は、行動の選択の要因にはなりません。お医者さんは麻酔の問題が全てだ、というかもしれません。10か月前、私は6時間以上続く麻酔の措置を受けました。その痕跡があります。あなたは遊び回わってはいけない、あなたはやたらと麻酔を受けてはいけない… だから、私は(海外訪問を)が思い通り行うことはできない、と思うのです。でも、これからも旅を続け、人々の近くに行きたい。なぜなら、”寄り添うこと”が、私に求められる奉仕の仕方だと思うからです。それ以上、何も言うことはありません。祈りましょう。メキシコ訪問はまだ予定されていませんね?‎

 

問(Maria Valentina ALAZRAKI):いいえまだ予定されていません。知っています。それでは、カザフスタン訪問はどうでしょう。カザフに行かれるなら、ウクライナにも行くべきではありませんか?

教皇:私はこれまでもウクライナを訪問するつもりだ、と言ってきました。これからバチカンに戻って、行けるかどうか様子を見るつもりです。今の段階では、カザフスタンの訪問。これは、身体的にそれほどきつすぎないでしょう。動き回ることがあまりありません。宗教会議への出席が主たる目的ですから。 ただ、現時点ではすべてが待機の状態です。私はまた、南スーダンにも行く必要があります。コンゴにもです。南スーダンには、(英国国教会の)カンタベリー大主教、スコットランド教会の主教と一緒に行くことになっているから。コンゴ行きは,雨期との関係で、来年になるでしょう。様子を見なければなりません。私には気持ちは十分ありますが、足の様子を見ましょう。

 

問(Carolina Pigozzi=PARIS MATCH)‎:‎あなたは今朝、これまでの外国訪問でなさっているように、イエズス会の現地の会士たちとお会いになりました。9年前、ブラジル訪問からお戻りになった時、私は、「あなたは、教皇になられた今も、イエズス会士だと思っておいでですか」とお尋ねしました。あなたの答えは「イエス」でした。昨年、ギリシャでイエズス会士たちとお会いになった際、「誰かが取り組みを始めるたら、イエズス会士はそれを発展させ、成熟させ、そして、脇に退く必要がある」と話されました。「すべてのイエズス会士は、そうせねばならない、私たちの働きは、主のものであり、自分のものではありません」と。これは、イエズス会士である教皇ご自身にもも当てはまるのでしょうか?‎

教皇:そう思います。‎

問(Carolina Pigozzi=PARIS MATCH)‎:‎イエズス会士のように、”脇に退く”ことができるということですか?‎

教皇:そうです。教皇職は天職ですから。‎

問(Carolina Pigozzi=PARIS MATCH)‎:あなたは教皇なのか、それともイエズス会士なのですか?‎

‎教皇:イエズス会士は、主の御心を行うために努めます。イエズス会士の教皇も同じことをせねばなりません。主が「先に進め」と言われれば、先に進み、「角を曲がれ」と言われれば、角を曲がるのです。‎

問(Carolina Pigozzi=PARIS MATCH)‎:‎それは、ある時点で予想される死についてもですか?

教皇:‎私たちは皆、いずれ死を迎えます。.

問(Carolina Pigozzi=PARIS MATCH)‎:それ以前にまず、”脇に退く”必要が出てくるのではないでしょうか?

教皇:主がおっしゃることに従います。主は「(教皇を)辞任せよ」と言われるかもしれません。主のご判断です。(イエズス会の創設者である)‎聖イグナチオ・ロヨラは疲労したり、病気になったりした人に祈りの義務を免除しが、日に二度の良心の糾明は免除しませんでした。私たちイエズス会士がせねばならないのは、今日一日、自分の心に何が起こったのか糾明すること。主が自分に何を語られたか、どのような聖霊の働きがあったかなど、主が自分に何を求めておられるかを見極めるために識別が必要です。主は、自分を”隅に追いやろう”とされるかもしれませんし。それがイエズス会士の修道者としての生き方。決断を下し、仕事の道、献身の道を選ぶために、霊的な識別を働かせること。識別する力は、イエズス会士の召命の鍵です。この分野で、聖イグナチオ・ロヨラは本当に専門家でした、彼を回心に導いたのは彼自身の霊的な識別の体験でした。そして、彼が編み出した「霊操」は、まさに”識別の学校”ともいえるものです。イエズス会士は、召命によって、状況を見極め、自分の良心を見極め、なすべき判断を見極めることのできる識別力をもつ人でなければならない。主が自分に求めておられることなら、何でも受け入れる、それが私たちイエズス会士の霊性です。‎

問(Carolina Pigozzi=PARIS MATCH)‎:あなたはイエズス会士である以上に教皇である、とお思いですか。それとも、その逆でしょうか?‎

‎教皇:私がそのようなことを考えたことは、一度もありません。私は自分自身を”イエズス会士のスタイルを持つ主のしもべ”だと考えています。「教皇の霊性」というものはありません。それぞれの教皇は自分の霊性を持っています。聖ヨハネ・パウロ二世が持っておられた美しい「マリアの霊性」について考えてみてください。彼は教皇になる以前から、それを持っていて、教皇になってからも持ち続けました。以前の教皇たちの霊性を引き継いできた多くの教皇のことを考えてください。‎そして、教皇庁は「霊性」の機関ではなく、「役割」「機能」「奉仕」の機関です。そこに働く一人一人が自分の霊性、自分の恵み、自分の忠実さ、そして自分の罪をもって、役割を果たします。教皇の「霊性」はありません。イエズス会士の霊性と教皇の霊性を比べることがないのは、教皇の霊性なるものが存在しないからです。お分かりになりましたか。‎

問(Severina Elisabeth Bartonitschek=CIC):‎昨日、あなたはまた、「the fraternity of the Church」(米国の信徒の団体)について言及され、他者の言葉に耳を傾け、対話をする方法を知っており、良質の関係を作るのに貢献している、と評価されました。その一方で、数日前、教皇庁は、ドイツ教会の”シノドスの道”の歩み方について批判する声明を出しています。このようなやり取りの仕方は、”シノドスの道”の対話に貢献していると思いますか、それとも障害になっていると思われますか?‎

教皇:ドイツの教会への声明でまず申し上げたいのは、それが国務長官から出された、ということです。それを明確にしなかったのは間違いです。なぜ、明確にしなかったのか、よく分かりません。国務長官として声明に署名しなかったのは間違いでしたが、それは悪意ではなく、行政手続き上の誤りでした。

 ”シノドスの道”の歩み方については、私が2年間に書簡を出しています。祈り、熟考、そして関係者の話を聞き、”シノドスの道”の歩みについて言わなければならないことを、すべて書きました。歩むべき道を模索する教会を代表して、司牧者として、師として、兄弟として、父親として、そして信者として、それをまとめました。私のメッセージです。すべてがその書簡の中にあります。ありがとう。‎

 

問(Ignazio Ingrao=RAI – TG1): ‎イタリアは困難な時期を過ごしています。世界的にも、経済危機、新型コロナ大感染、戦争があり、今、私たちのイタリアには事実上、政権がない状態です。あなたは、先日、イタリアの大統領の誕生日に、彼に宛てた手紙で、イタリアの現在の政治危機について取り上げましたが、退任に追い込まれたドラギ首相とお会いになったことがありますか。

‎教皇:まず申し上げたいのは、イタリアの内政に干渉したくない、ということです。それと、ドラギ前首相が国際的に優れた人物ではなかった、とは誰も言えません。欧州中央銀行総裁など要職を歴任されていました。彼に一つだけ質問したことがあります。「今世紀に入ってこれまでに、イタリアではいくつの政権ができましたか」と。彼は「20です」と答えました。前首相とのやり取りはそれだけです。‎

問(Ignazio Ingrao=RAI – TG1):ドラギ首相辞任で9月に総選挙が行われますが、強調されたいことは?

教皇:責任、国民の責任ですね。

 

問(Claire Giangrave=RELIGION NEWS SERVICE):‎多くの‎‎カトリック教徒。そして多くの神学者は、避妊薬に関する教会の教義に進歩が必要た、と考えています。ヨハネ・パウロ1世教皇も、避妊薬の使用の全面禁止は再考する必要があるのではないか、と考えておられたようです。あなたは、この問題について、再考する必要があるとお考えですか。カップルの避妊薬の使用について検討する可能性はありますか?‎

‎教皇:これは非常にタイムリーな問題です。教義、道徳は常に進歩していますが、進歩の方向は変わらない、ということを知ってください。私は、以前の機上会見でも申し上げましたが、道徳的あるいは教義的な問題の神学的な進歩のために、きわめて明確なルールがあります。多かれ少なかれ、レリンの聖ビンセントが作り上げたもの。彼は、真の教義が、前進し、進歩するために、静かにしていてはならない、時間と共に拡大し、統合され、常により確固としたものにする必要がある、としています。ですから、神学者の義務は研究であり、神学的熟考であり、「いいえ」で神学をすることはとはできません。それから、「ノー」と言うのは教導権ですー「行き過ぎました、戻って来てください」と。しかし神学的発展への道は開かれていなければなりません、それが神学者が目指すべきものです。そして、教導権は、彼らが限界を理解するのを助けねばなりません。‎

‎ 避妊の問題に関しては、これと他の婚姻問題に関する定めがあります。これは評議会が扱います。仮説を立て、議論し、提案にまとめます。教会的な意味では、メンバーたちは義務を果たしました。それを受けて、教導権が「はい、結構です」、あるいは「よくありません」と判断するでしょう。

 多くの問題が、これに該当します。核兵器について。最近、私は「核兵器の使用、保有は道徳に反する」と公式に宣言しました。‎死刑についても、今、私たちは、「道徳に反する」と明言する近くまで来ています。公式に宣言するのに必要な道徳的良心がまだ十分に発達していないからです。

 教義や道徳が発達するために、先のレリンの聖ビンセントの3つのルールがある。教義を発展させない教会は、後退している教会です。それは今日の問題であり、自分自身を「伝統的」とする多くの人々の問題です。彼らは「伝統的」ではなく、ひたすら過去を見つめ、後ろ向きで、根も持たない。それが前世紀のやり方です。‎「後ろを振り返る」ことは、教会と共に進歩しない。罪です。

 「伝統」はそうではない。「伝統」は「死んだ人々の生きた信仰」です。後ろを向き「伝統主義者」を自称する人々にとって、それは「生きている人々の死んだ信仰」です。「伝統」は、教会が前進するための根源であり、霊感であり、常に上に向いています。そして、「後ろを振り返る」ことは、常に心を閉じている。木が成長するうえでの「伝統」の役割をよく理解することが重要です…あるミュージシャンがとても美しいフレーズを使いました。グスタフ・マーラーは「『伝統』は未来の保証であり、博物館に置かれた作品ではない」とよく言っておられました。「伝統」を「閉鎖的」と考えるなら、それは「キリスト教の伝統」ではありません。「伝統」は常にあなたを前進させる「根」の樹液です。ですから、言っていること、考えていること、信仰と道徳を前進させることに関して、根が示す道、樹液の示す道に向かっている限り、大丈夫です。‎

問(Eva Fernandez=Cadena Cope):‎8月末には、枢機卿会議が予定されています。最近、多くの人があなたに「辞任を考えていますか」と尋ねていますが、心配なさらないでください。その質問はしません。でもお聞きしたいのは、ご自分の後継者にはどのような特質をもっていてもらいたいか、お考えになったことがありますか?‎

教皇:それは、聖霊の働きによるものですね。私はあえて考えることをしません。聖霊は、これを私よりも、私たち全員よりも、よい方法を知っておられます。教会に主は生きておられ、す。教会は聖霊なしには考えられません。聖霊降臨祭の朝を思い浮かべてください。 そして、聖霊は調和を創造します。「一致」ではなく「調和」について話すことが大切です。‎聖霊は進歩的な調和を与え、それは続きます。聖バジルが聖霊について語る言葉が、私は好きですー「Ipse armonia est」。彼は調和の人です。

 ですから、あなたの質問は、聖霊に任せましょう。あなたがたの一人が書かれた記事、私の辞任につながる可能性のあるすべての兆候を含めた書いた素晴らしい記事に感謝している、と言いたい。記者たちは、あるテーマで記事を書くときに、新聞発表や声明をもとにするだけでなく、すべての兆候を探しに行きます。しるしを読み取るか、少なくともあるしるしを別のしるしから解釈する努力をすることは、記者の仕事であり、私はそれに感謝しています。‎

 

問(Phoebe Natanson=ABC NEWS):ご自身の身体上の問題やほかのすべての要因から、引退する時が来たかもしれない、と考えさせられたことはありましたか。‎

教皇:‎(引退への)扉は開いていますが、今日まで私はその扉をたたいたことはありません。私は「その方向に進む」とは言っていないし、その可能性について考える必要性を感じていません。でも、だからといって明後日に考え始めない、というわけではありませんが、今現在、心から考えていない、と言えます。今回のカナダ訪問は、ちょっとした”テスト”でした。外国訪問を普通にこなすことができないのは事実です。訪問の回数を減らし、訪問のスタイルも少し変える必要があり、まだせねばならない司牧訪問の”借り”を返し、組み直しをでねばならないかも知れません。…しかし、それ(引退)を決めるのは主です。扉は開いています。それは本当です。

‎ ‎会見を終える前に、私にとって、とても重要なことについて話したいと思います。カナダ訪問は、聖アンナと深く関連していました。私は女性について、特に年配の女性、母親、祖母について、いくつかのことを語りました。その中で、一つの明確な点を強調しましたー「信仰はその地の言葉で伝えられねばならない」。 私はそれをはっきりと言いました。自分の 母方の地元の言葉、祖母の地元の言葉ー私たちは、女性たちの地元の言葉で信仰を受け取りました。このことは、信仰の伝達と発展における女性の役割は、とても重要です。祈り方を教えるのは母親や祖母です。信仰について、子供たちに最初に説明するのは母や祖母です。そして、この信仰の”方言的伝達”は女性的である、と言えるでしょう。‎

 「神学的にあなたはそれをどのように説明しますか?」と尋ねる方がおられるかもしれません。信仰を伝えるのは教会であり、教会は女性であり、花嫁。教会は「男性」ではなく「女性」です。そして、私たちは、男性的な聖職者への幻想、男性的な権力よりも重要な、「母なる教会」についての”思考の列車”に乗り込まねばなりません。その意味で、信仰の伝達におけるこの”母性方言”の重要性を強調することが重要です。‎

 ‎私は、例えば、(注:旧約聖書のマカバイ記にある紀元前二世紀にユダヤの民族的英雄)マカバイの殉教を読んで、これを発見しました。母が母方の方言を通して彼らを養った、と書かれています。信仰は方言(地元の言葉)で伝えられねばなりません。そして、その方言は女性によって話されています。なぜなら、教会は女性であり、教会は花嫁だからです。私はこのことを、聖アンナを念頭に置いて、はっきりと言いたかったのです。忍耐して聞いてくれてありがとう。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年7月31日

☩「若者と高齢者の交わりを大切にしよう」教皇、カナダ行きの機内で

教皇フランシスコと記者団 カナダ行きの機内で 2022年7月24日教皇フランシスコと記者団 カナダ行きの機内で (2022年7月24日) 

(2022.7.24 バチカン放送)

 教皇フランシスコは24日午前、カナダ訪問に向かう機内で同行記者団にあいさつされ、同日の「祖父母と高齢者のための祈願日」に触れ、若者と高齢者との交流の大切さを強調された。

 あいさつの中で教皇は、高齢者の歴史や伝統やしきたりを次世代に伝える役割の重要性を指摘され、「若い人たちが、自分の祖父母と触れ合い、そこから自身のルーツを汲み取り、前進していく力を得るように」と希望された。

 そして、アルゼンチンの詩人、フランシスコ・ルイス・ベルナルディスの詩を思い起こしながら、「『木に咲く花は地の中から来るもの』であり、その根は、すなわち祖父母です」と語られた。

 また、ご自身の修道者の立場からの助言として、男女の修道生活において、「高齢の会員を『修道会の叡智』『奉献生活の祖父母』として大切にし、若い修道者や志願者が高齢の修道者たちから多くの経験を学び、豊かな支えを得ることができるよう二」とも願われた。

 最後に教皇は、皆それぞれが、自分の祖父母、天国にいる、あるいは健在でいる祖父母たちを思い、彼らから受けた多くのことに感謝するように、と促された。

(編集「カトリック・あい」)

2022年7月24日

☩「被造物の苦い叫びを聞く私たちは個人として、共同体として回診が必要」ー9月1日の「被造物を大切にする世界祈願日」に向けて

教皇フランシスコ、9月1日の「被造物を大切にする世界祈願日」に向けメッセージ  (AFP or licensors)

(2022.7.21 バチカン放送)

 教皇フランシスコが21日、9月1日のカトリック教会の「被造物を大切にする世界祈願日」に向けたメッセージを発表された。

 カトリック教会は、毎年9月1日に「被造物を大切にする世界祈願日」を記念し、また同祈願日から、アッシジの聖フランシスコの日である10 月 4 日まで、約1ヵ月間を被造物の保護のために祈り行動する期間である「被造物の季節」(Season of Creation) とし、多くのキリスト者が参加する。

 今年のテーマは「被造物の声に耳を傾けよう」で、教皇はメッセージでまず、このテーマを取り上げ、「被造物の声に耳を傾けるなら、私たちは創造主である神を称える甘美な歌を聞く一方で、人間の酷い仕打ちを嘆く、苦い叫びを聞くでしょう」とされた。

 そして、「被造物が上げる苦い叫びは、母なる大地の叫びであり、生態系から消えゆく多くの生物の叫び、また、気候危機の影響を最も強く受けている貧しい人々の叫び、先祖からの土地を経済的利益のために搾取される先住民たちの叫び、そして地球のエコシステムの崩壊を食い止めるために可能な限りの努力を望む若者たちの叫びでもあります」と指摘。

 「これらの叫びを聞く私たちは、自らを深く反省し、被造物にダメージを与える生活様式や習慣を変えなくてはなりません。そのためには個人的な回心だけでなく、共同体的な回心が必要です」と説かれた。

 さらに、今年11月にエジプトで開かれる「国連気候変動枠組み条約第27回締約国会議」(COP27)、そして、同じく12月にカナダで開かれる「国連生物多様性条約第15回締約国会議」(COP15)にも言及され、「被造物の季節」を記念する間、「COP27、COP15の二つの会議が、気候変動と生物多様性の減少という二重の危機に立ち向かうため、人類を一致させることができるよう祈りましょう」と呼びかけられた。

 そして、これらの一連の会議の機会に、鉱山・石油・森林・不動産・農業・食料に関わる大企業に対し、「森林・湿地帯・山々の破壊や、海や河川の汚染、住民や食料への有毒な影響を引き起こすことをやめるように」と改めて求められるとともに、「過去に環境をより汚染した経済的に豊かな国々の”環境負債”の存在を認めざるを得ない」として、「COP27、COP15会議がこれらの国々にいっそう高い目標への一歩を促すとともに、こうした国々が気候危機の重荷を最も負う経済的に恵まれない国々の財務的・技術的支援を支援する約束を守るように」と願われた。

 最後に教皇は、「喜ぶ人々とともに喜び、泣く人とともに泣く」ようにと促す聖パウロの言葉(ローマの信徒への手紙12章15節)を思い出すように求めつつ、「被造物の苦い叫びを聞いて共に泣き、それに実際の行いをもって応えるなら、私たちと未来の世代は、これからも被造物の命と希望の甘美な歌を耳にして、ともに喜ぶことができるでしょう」と希望を述べられた。

(編集「カトリック・あい」)

2022年7月22日

☩「夏休みの機会に、福音書のイエスの言葉にゆっくりと耳を傾けよう」年間第16主日・正午の祈りで

(2022.7.17 Vatican News  Francesca Merlo)

  教皇フランシスコは17日、年間第16主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたルカ福音書の箇所(10章38-42節)を取り上げ、なぜ、イエスの言葉に耳を傾けることを、私たちがいつも最優先せねばならないか、について説明された。

  この箇所では、マルタとマリアがイエスを家に迎え入れた場面が語られている。妹のマリアが主の足元に座って、その話を聞いている。姉のマルタはもてなしのために忙しくしていたが、そのようなマリアを見て、イエスに、「マリアに手伝うように言ってください」と頼む。

 教皇は「このようなマルタの訴えは、場違いには思えません。実際のところ、私たちも彼女の言うとおりだと感じるでしょう」とされたうえで、「しかし、イエスは、こう答えますー『マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない』と」と指摘。

 そして、「マルタの”哲学”では、義務が第一で、喜びは第二であるように、思われます。『もてなし』は義務であり、客人が『歓迎されている』と感じるために必要なことは何でもすることを含みます」と述べ、「イエスはこのことをよくご存じです。マルタの努力を認めておられるのですが、優先順位に新しいつけ方があることを、彼女に理解させようとされました」と説かれた。‎

 さらに、「マリアは、イエスに対してせねばならない”より良いこと”があると、最初に気付きました」と語られ、「他のすべては、その後に来ます。”より良いこと”とは、『イエスの言葉を聞くこと』なのです」と強調された。‎

 また教皇は、‎「イエスの言葉は抽象的なものではなく、他の人の人生に触れ、形作り、変え、悪への鈍感さから解放し、過ぎ去ることのない喜びを注ぎ、満たす教えです。それが”より良いこと”です」とされ、「マリアがそれを優先するのはこのためです。彼女は立ち止まって耳を傾け、残りのことは後で来るでしょう」と説かれた。‎

 ‎ 説教の最後に教皇は、信徒たちに、「この夏休みのシーズンを利用し、立ち止まってイエスに耳を傾ける」機会を持つように促された。

 教皇は、「現代では、静かに祈り、思いめぐらす自由な心の時を見つけることは、以前よりも難しくなっている。その中で、夏休みは福音書を開き、ゆっくりと読む貴重な機会となります」。

 そして「福音書のページから”挑戦”を受け、私たちの人生がどうなっているのか、イエスのおっしゃることと一致しているかどうかを、自問しましょう。特に、一日の生活をを始める時、私はなすべきことに真っ向から取り組もうとするのか、それとも、まず、神の言葉に霊的助言を求めるのか、自問しましょう」と提案された。‎

‎ 締めくくりに、教皇は「私たちから決して奪われることのない最良のものを選ぶように、教えてくださいますように」と聖母マリアに祈られた。‎

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年7月17日