☩教皇カナダから帰国途上の機内会見でー「先住民の人々にしたことは”ジェノサイド”だ、そして今も”植民地主義”が存在する」+一問一答全訳

教皇フランシスコ、教皇の飛行機に乗ってジャーナリストに語りかけるPope Francis speaks to journalists aboard the papal plane  (Vatican Media)

(以下の部分は、バチカン放送=日本語課による)

 会見で、一人のカナダ人記者は、「カナダの『真実と和解のための国立センター』が、先住民の子どものための寄宿学校制度の下で行われた行為を『文化的ジェノサイド(文化的集団抹殺)』と定義したが、後にこれを『ジェノサイド』に変えた。教皇の赦しを願う言葉を聞いた人々は、『教皇がこの言葉を使わなかったことに納得できない』と言っている」としたうえで、「『教会のメンバーがジェノサイドに関係した』と言うことができますか」と尋ねた。

*「民族の文化全体を変えようとする行為は”ジェノサイド”だ」

 これに対し教皇は、「私は『ジェノサイド』という言葉は使いませんでしたが、そのことを取り上げ、赦しを願いました。子どもたちを親から引き離し、文化や考え方、民族の伝統や言葉、風習、すなわち文化全体を変えようとする行為は、専門用語で『ジェノサイド』と言えます。お話している時に、この言葉は頭に浮かばなかったので、使いませんでしたが、そうした意味を込めて語ったのです。確かに、この行為は、『ジェノサイド』です」と答えられた。

*「今後の外国訪問は少し控えめに、だが人々に寄り添いたい」

 また、メキシコの記者から、「教皇にとってこのカナダ訪問は一つのテスト”でもありました。一週間の訪問を終え、将来もこのような形で旅を続けたいと思いますか」との質問には、「以前と同じようなリズムで訪問旅行に出かけることは、できないでしょう。私の年齢でこうした制約がある以上、教会に奉仕するために、(海外訪問を)少し控えめにしなくてはならないと思います」とされたうえで、「訪問を続け、人々に寄り添う方法を探したい。人々の近くに行って寄り添うこと、それは奉仕の一つのあり方だからです」とも語られた。

*「ウクライナ訪問は帰国後に様子を見る、カザフスタン、南スーダンにも行きたいが」

 カザフスタンやウクライナへの訪問について聞かれた教皇は、「私は、ウクライナに行きたい、と言っています。(バチカンに)帰ってから、様子を見ようと思います。カザフスタンにも、行けたらよい、と思っている。カザフスタン訪問は、宗教者会議への出席が目的で、あちこち動くことのない落ち着いた旅になるでしょう。ですが、今のところ保留の状態です」と答えられ、さらに、「コンゴと同様に、南スーダンにも行かなければなりません。英国国教会のカンタベリー大主教とスコットランド国教会の指導者と共に行く訪問となるからです。だが、雨季があるので、訪問は来年になるでしょう。私にはいきたい気持ちは強くあるのですが、足の具合も見なければなりません」と話された。

*「これまで引退は考えたことがない、(引退を)申し渡すのは神」

 また、ある記者からの「このところの健康問題などで、『もう引退の時か』と思ったことはありますか」との問いには、「(引退の”部屋”の)扉は開いている。それは、一つの普通の選択肢ですが、私は今まで、この扉を叩いたことはありません。『その部屋に入る』とは言っていないし、その可能性を考える気持ちもありません。ただし、『将来にわたって、それを考えない』という意味ではない。はっきり申し上げて、『今は考えていない』ということです」と答えられた。

 ただ、今回のカナダ訪問も、確かに”テスト”のような面があったことをお認めになり、「今の私の身体的な状態で、頻繁に旅行することはできない。訪問の仕方を変えるなり、回数を減らす必要がある。旅行の代償をこれから払い、(体調を)整えなくてはなりません。しかし、それ(引退)を私に申し渡すのは神です。扉は開いている、それは本当です」と語られた。

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 Vatican Newsによる会見での記者団と教皇の一問一答は以下の通り。

問:(Jessica Ka’nhehsíio DEER=CBC RADIO – CANADA INDIGENOUS) ‎寄宿学校の虐待の犠牲者の子孫として質問します。犠牲者とその家族はあなたに、謝罪に続いて、「doctrine of discovery(発見の教理)」の拒絶を含む具体的な行動をしていただきたい、と希望しています。カナダや米国の憲法や関連法を背景に、いまだに先住民族が土地をだまし取られ、権力を奪われ続けていることを考えると、カナダ訪問中に、これに関する声明を出す機会を、あなたは逸してしまったのではありませんか。‎

教皇:ご質問の後半部分がよく理解できないのですが。「doctrine of discovery」の意味を説明してくださいませんか?

問:(Jessica Ka’nhehsíio DEER)先住民の人たちと話していると、アメリカ大陸を植民地にするために来た人々は、「先住民は、われわれカトリック教徒よりも劣った民族だ」という考えのもとにdoctrine of discovery」があったのだ、と指摘します。その結果、カナダとアメリカは現在の国になったのだと。

教皇:分かりました。おっしゃる問題は、すべて「植民地主義」に帰結すると思います。現在に至るまで、このような”イデオロギー的な植民地化”は同じパターンをたどってきましたー「自分たち以外の者はすべて劣っている」という考え方です。「劣っているのだ」と考えるだけでなく、やや狂った神学者の中には、「彼らは魂を持っているのかどうか、疑わしい」と考えた人もいました。

 教皇ヨハネ・パウロ二世がアフリカに行かれ、奴隷が乗船させられた港を訪問された時、このドラマ、犯罪ドラマを理解するためのしるしを提示されました。‎

 当時、バルトロメオ・デ・ラス・カサスやピーター・クラバーのようにこうした先住民族の扱いに批判の声を上げる人もいましたが、少数派でした。人間は皆、平等である、という意識が広がるのはゆっくりでした。私が「意識」という言葉を使うのは、無意識の中に、まだ何かが残っているからです。私たちは、先住民族の人たちの文化を自分たちの文化に吸収するという、やや植民地主義的な態度を持ち続けています。それは私たち自身の生き方から生じるものであり、そのために私たちは時として、時々彼らが持っている価値を捨てようとします。先住民族は大きな価値、創造との調和の価値を持っており、私が知っている何人かは、‎‎それを「vivere bene‎‎(良い生活)」という言葉で表現しています。‎

‎ それは、私たち西洋人が理解しているように、うまく人生を過ごしたり、私たちの言葉でいう「 la dolce vita(良い生活)をすることを意味しません。「vivere bene‎‎(良い生活)」とは「調和を大切にすること」であり、本来の人間にとっての大きな価値です。

 「調和」。私たちはすべてを頭で考えることに慣れてしまっていますが、彼らは3つの言葉で自分自身を表現する方法を知っていますー頭の言葉、心の言葉、そして、手の言葉、です。この言葉すべてを一緒にする方法を知っています。対して、私たちが持っているやや誇張された、やや神経症的な発展の進歩主義を加速させています。‎  ‎私は「発展」に反対しているのではありません。「発展」は良いことです。良くないのは発展、発展、発展に対する不安…

 過度に発達した商業文明のなかで私たちが失ったものの一つは、詩的な能力です。先住民族はその詩的な能力を持っています。

 ”植民地化の教義”に戻りましょう。それは、真実であり、悪いことであり、不公正であり、今日でも使われています。”シルクの手袋”と同じで、今日でも使われているのです。例えば、ある国の司教たちは私にこう言いましたー「しかし、私たちの国が、国際機関から融資を受ける際、植民地主義的な条件さえも付けられます。融資を受けるために、自分の生き方を少し変えさせられるのです。

 南北アメリカ大陸の植民地化について申し上げましょう。イギリス人、フランス人、スペイン人、ポルトガル人がこの地を植民地化しようとした時、「我々は優れており、先住民はそうではない」という非常に危険な考え方をもっていました。それはとても重大なことです。だからこそ、私たちはあなた方のおしゃっていることに、取り組まなければなりません。原点に立ち戻って癒やすこと。現在も同じ植民地主義が存在するという認識のもとに、何が間違っていたのか、思い返すこと。アメリカ大陸だけではない。ミャンマーのロヒンギャで起きていることを考えましょう。彼ら少数民族は、ミャンマー人よりも劣っていると見なされ、市民権を得る権利を今でも与えられていないのです。‎

 

問(Brittany HOBSON=THE CANADIAN PRESS) ‎あなたはしばしば、「はっきりと、正直に、そして‎‎parrhesia‎‎(大胆)に語る必要がある」とおっしゃいます。カナダの「真実と和解委員会」が、寄宿学校制度を「文化的ジェノサイド」と表現し、その後ジェノサイドとして修正されたことをご存知でしょう。先週、あなたの謝罪の言葉を聞いた人々は、ジェノサイドという言葉が使われなかったので、失望を表明しました。教会員がジェノサイドに参加したと言うのに,この言葉を使いますか。‎

‎教皇:「ジェノサイド」というのは、本当です、その言葉が思い浮かばなかったので、私はその言葉を使いませんでした、しかし、私は事実上のジェノサイドであることを認め、赦しを請いました、集団虐殺であるこの活動に対する赦しを求めました。子どもを連れ去り、文化を変え、考え方を変え、伝統を変え、人種を変え、すべての文化全体を変えてしまおうとしたこと。それはジェノサイドです。先住民の方々に赦しを請おうとした時、私の頭にその言葉が浮かばなかったので、使いませんでしたが、私はそれを使ったと同じ内容の説明をしました…それは本当に、「ジェノサイド」です。安心してください。私が「ジェノサイドだと言った」と報告されて結構です。‎

 

問(Maria Valentina ALAZRAKI CRASTICH (TELEVISA):‎教皇フランシスコ、今回のカナダ訪問は、あなたが今朝「肉体的限界」と呼たものについての健康テストでもあったと思います。これからの海外訪問について教えてください。今回のような海外訪問をこれからもお続けになるお積りですか?れらの制限のために取れない旅行はありますか、または膝の手術が状況をさらに好転させ、以前のように頻繁に海外訪問ができると思いますか?旅行を許可すると思う場合?‎

教皇‎:私に分かりませんが、以前と同じペースで海外訪問を続けられる、とは思いません。自分の年齢で、身体的な制限がある中で、教会に仕えるためには、少しゆとりが必要です。その一方で、脇に退く可能性も考えられる。正直なところ、(教皇職を退くことは)”大惨事”ではありません。教皇を代えることは可能ですし、代わることは可能です、問題はありません! 今私に必要なのは、もう少し行動を抑えること。私の場合、膝の手術は、行動の選択の要因にはなりません。お医者さんは麻酔の問題が全てだ、というかもしれません。10か月前、私は6時間以上続く麻酔の措置を受けました。その痕跡があります。あなたは遊び回わってはいけない、あなたはやたらと麻酔を受けてはいけない… だから、私は(海外訪問を)が思い通り行うことはできない、と思うのです。でも、これからも旅を続け、人々の近くに行きたい。なぜなら、”寄り添うこと”が、私に求められる奉仕の仕方だと思うからです。それ以上、何も言うことはありません。祈りましょう。メキシコ訪問はまだ予定されていませんね?‎

 

問(Maria Valentina ALAZRAKI):いいえまだ予定されていません。知っています。それでは、カザフスタン訪問はどうでしょう。カザフに行かれるなら、ウクライナにも行くべきではありませんか?

教皇:私はこれまでもウクライナを訪問するつもりだ、と言ってきました。これからバチカンに戻って、行けるかどうか様子を見るつもりです。今の段階では、カザフスタンの訪問。これは、身体的にそれほどきつすぎないでしょう。動き回ることがあまりありません。宗教会議への出席が主たる目的ですから。 ただ、現時点ではすべてが待機の状態です。私はまた、南スーダンにも行く必要があります。コンゴにもです。南スーダンには、(英国国教会の)カンタベリー大主教、スコットランド教会の主教と一緒に行くことになっているから。コンゴ行きは,雨期との関係で、来年になるでしょう。様子を見なければなりません。私には気持ちは十分ありますが、足の様子を見ましょう。

 

問(Carolina Pigozzi=PARIS MATCH)‎:‎あなたは今朝、これまでの外国訪問でなさっているように、イエズス会の現地の会士たちとお会いになりました。9年前、ブラジル訪問からお戻りになった時、私は、「あなたは、教皇になられた今も、イエズス会士だと思っておいでですか」とお尋ねしました。あなたの答えは「イエス」でした。昨年、ギリシャでイエズス会士たちとお会いになった際、「誰かが取り組みを始めるたら、イエズス会士はそれを発展させ、成熟させ、そして、脇に退く必要がある」と話されました。「すべてのイエズス会士は、そうせねばならない、私たちの働きは、主のものであり、自分のものではありません」と。これは、イエズス会士である教皇ご自身にもも当てはまるのでしょうか?‎

教皇:そう思います。‎

問(Carolina Pigozzi=PARIS MATCH)‎:‎イエズス会士のように、”脇に退く”ことができるということですか?‎

教皇:そうです。教皇職は天職ですから。‎

問(Carolina Pigozzi=PARIS MATCH)‎:あなたは教皇なのか、それともイエズス会士なのですか?‎

‎教皇:イエズス会士は、主の御心を行うために努めます。イエズス会士の教皇も同じことをせねばなりません。主が「先に進め」と言われれば、先に進み、「角を曲がれ」と言われれば、角を曲がるのです。‎

問(Carolina Pigozzi=PARIS MATCH)‎:‎それは、ある時点で予想される死についてもですか?

教皇:‎私たちは皆、いずれ死を迎えます。.

問(Carolina Pigozzi=PARIS MATCH)‎:それ以前にまず、”脇に退く”必要が出てくるのではないでしょうか?

教皇:主がおっしゃることに従います。主は「(教皇を)辞任せよ」と言われるかもしれません。主のご判断です。(イエズス会の創設者である)‎聖イグナチオ・ロヨラは疲労したり、病気になったりした人に祈りの義務を免除しが、日に二度の良心の糾明は免除しませんでした。私たちイエズス会士がせねばならないのは、今日一日、自分の心に何が起こったのか糾明すること。主が自分に何を語られたか、どのような聖霊の働きがあったかなど、主が自分に何を求めておられるかを見極めるために識別が必要です。主は、自分を”隅に追いやろう”とされるかもしれませんし。それがイエズス会士の修道者としての生き方。決断を下し、仕事の道、献身の道を選ぶために、霊的な識別を働かせること。識別する力は、イエズス会士の召命の鍵です。この分野で、聖イグナチオ・ロヨラは本当に専門家でした、彼を回心に導いたのは彼自身の霊的な識別の体験でした。そして、彼が編み出した「霊操」は、まさに”識別の学校”ともいえるものです。イエズス会士は、召命によって、状況を見極め、自分の良心を見極め、なすべき判断を見極めることのできる識別力をもつ人でなければならない。主が自分に求めておられることなら、何でも受け入れる、それが私たちイエズス会士の霊性です。‎

問(Carolina Pigozzi=PARIS MATCH)‎:あなたはイエズス会士である以上に教皇である、とお思いですか。それとも、その逆でしょうか?‎

‎教皇:私がそのようなことを考えたことは、一度もありません。私は自分自身を”イエズス会士のスタイルを持つ主のしもべ”だと考えています。「教皇の霊性」というものはありません。それぞれの教皇は自分の霊性を持っています。聖ヨハネ・パウロ二世が持っておられた美しい「マリアの霊性」について考えてみてください。彼は教皇になる以前から、それを持っていて、教皇になってからも持ち続けました。以前の教皇たちの霊性を引き継いできた多くの教皇のことを考えてください。‎そして、教皇庁は「霊性」の機関ではなく、「役割」「機能」「奉仕」の機関です。そこに働く一人一人が自分の霊性、自分の恵み、自分の忠実さ、そして自分の罪をもって、役割を果たします。教皇の「霊性」はありません。イエズス会士の霊性と教皇の霊性を比べることがないのは、教皇の霊性なるものが存在しないからです。お分かりになりましたか。‎

問(Severina Elisabeth Bartonitschek=CIC):‎昨日、あなたはまた、「the fraternity of the Church」(米国の信徒の団体)について言及され、他者の言葉に耳を傾け、対話をする方法を知っており、良質の関係を作るのに貢献している、と評価されました。その一方で、数日前、教皇庁は、ドイツ教会の”シノドスの道”の歩み方について批判する声明を出しています。このようなやり取りの仕方は、”シノドスの道”の対話に貢献していると思いますか、それとも障害になっていると思われますか?‎

教皇:ドイツの教会への声明でまず申し上げたいのは、それが国務長官から出された、ということです。それを明確にしなかったのは間違いです。なぜ、明確にしなかったのか、よく分かりません。国務長官として声明に署名しなかったのは間違いでしたが、それは悪意ではなく、行政手続き上の誤りでした。

 ”シノドスの道”の歩み方については、私が2年間に書簡を出しています。祈り、熟考、そして関係者の話を聞き、”シノドスの道”の歩みについて言わなければならないことを、すべて書きました。歩むべき道を模索する教会を代表して、司牧者として、師として、兄弟として、父親として、そして信者として、それをまとめました。私のメッセージです。すべてがその書簡の中にあります。ありがとう。‎

 

問(Ignazio Ingrao=RAI – TG1): ‎イタリアは困難な時期を過ごしています。世界的にも、経済危機、新型コロナ大感染、戦争があり、今、私たちのイタリアには事実上、政権がない状態です。あなたは、先日、イタリアの大統領の誕生日に、彼に宛てた手紙で、イタリアの現在の政治危機について取り上げましたが、退任に追い込まれたドラギ首相とお会いになったことがありますか。

‎教皇:まず申し上げたいのは、イタリアの内政に干渉したくない、ということです。それと、ドラギ前首相が国際的に優れた人物ではなかった、とは誰も言えません。欧州中央銀行総裁など要職を歴任されていました。彼に一つだけ質問したことがあります。「今世紀に入ってこれまでに、イタリアではいくつの政権ができましたか」と。彼は「20です」と答えました。前首相とのやり取りはそれだけです。‎

問(Ignazio Ingrao=RAI – TG1):ドラギ首相辞任で9月に総選挙が行われますが、強調されたいことは?

教皇:責任、国民の責任ですね。

 

問(Claire Giangrave=RELIGION NEWS SERVICE):‎多くの‎‎カトリック教徒。そして多くの神学者は、避妊薬に関する教会の教義に進歩が必要た、と考えています。ヨハネ・パウロ1世教皇も、避妊薬の使用の全面禁止は再考する必要があるのではないか、と考えておられたようです。あなたは、この問題について、再考する必要があるとお考えですか。カップルの避妊薬の使用について検討する可能性はありますか?‎

‎教皇:これは非常にタイムリーな問題です。教義、道徳は常に進歩していますが、進歩の方向は変わらない、ということを知ってください。私は、以前の機上会見でも申し上げましたが、道徳的あるいは教義的な問題の神学的な進歩のために、きわめて明確なルールがあります。多かれ少なかれ、レリンの聖ビンセントが作り上げたもの。彼は、真の教義が、前進し、進歩するために、静かにしていてはならない、時間と共に拡大し、統合され、常により確固としたものにする必要がある、としています。ですから、神学者の義務は研究であり、神学的熟考であり、「いいえ」で神学をすることはとはできません。それから、「ノー」と言うのは教導権ですー「行き過ぎました、戻って来てください」と。しかし神学的発展への道は開かれていなければなりません、それが神学者が目指すべきものです。そして、教導権は、彼らが限界を理解するのを助けねばなりません。‎

‎ 避妊の問題に関しては、これと他の婚姻問題に関する定めがあります。これは評議会が扱います。仮説を立て、議論し、提案にまとめます。教会的な意味では、メンバーたちは義務を果たしました。それを受けて、教導権が「はい、結構です」、あるいは「よくありません」と判断するでしょう。

 多くの問題が、これに該当します。核兵器について。最近、私は「核兵器の使用、保有は道徳に反する」と公式に宣言しました。‎死刑についても、今、私たちは、「道徳に反する」と明言する近くまで来ています。公式に宣言するのに必要な道徳的良心がまだ十分に発達していないからです。

 教義や道徳が発達するために、先のレリンの聖ビンセントの3つのルールがある。教義を発展させない教会は、後退している教会です。それは今日の問題であり、自分自身を「伝統的」とする多くの人々の問題です。彼らは「伝統的」ではなく、ひたすら過去を見つめ、後ろ向きで、根も持たない。それが前世紀のやり方です。‎「後ろを振り返る」ことは、教会と共に進歩しない。罪です。

 「伝統」はそうではない。「伝統」は「死んだ人々の生きた信仰」です。後ろを向き「伝統主義者」を自称する人々にとって、それは「生きている人々の死んだ信仰」です。「伝統」は、教会が前進するための根源であり、霊感であり、常に上に向いています。そして、「後ろを振り返る」ことは、常に心を閉じている。木が成長するうえでの「伝統」の役割をよく理解することが重要です…あるミュージシャンがとても美しいフレーズを使いました。グスタフ・マーラーは「『伝統』は未来の保証であり、博物館に置かれた作品ではない」とよく言っておられました。「伝統」を「閉鎖的」と考えるなら、それは「キリスト教の伝統」ではありません。「伝統」は常にあなたを前進させる「根」の樹液です。ですから、言っていること、考えていること、信仰と道徳を前進させることに関して、根が示す道、樹液の示す道に向かっている限り、大丈夫です。‎

問(Eva Fernandez=Cadena Cope):‎8月末には、枢機卿会議が予定されています。最近、多くの人があなたに「辞任を考えていますか」と尋ねていますが、心配なさらないでください。その質問はしません。でもお聞きしたいのは、ご自分の後継者にはどのような特質をもっていてもらいたいか、お考えになったことがありますか?‎

教皇:それは、聖霊の働きによるものですね。私はあえて考えることをしません。聖霊は、これを私よりも、私たち全員よりも、よい方法を知っておられます。教会に主は生きておられ、す。教会は聖霊なしには考えられません。聖霊降臨祭の朝を思い浮かべてください。 そして、聖霊は調和を創造します。「一致」ではなく「調和」について話すことが大切です。‎聖霊は進歩的な調和を与え、それは続きます。聖バジルが聖霊について語る言葉が、私は好きですー「Ipse armonia est」。彼は調和の人です。

 ですから、あなたの質問は、聖霊に任せましょう。あなたがたの一人が書かれた記事、私の辞任につながる可能性のあるすべての兆候を含めた書いた素晴らしい記事に感謝している、と言いたい。記者たちは、あるテーマで記事を書くときに、新聞発表や声明をもとにするだけでなく、すべての兆候を探しに行きます。しるしを読み取るか、少なくともあるしるしを別のしるしから解釈する努力をすることは、記者の仕事であり、私はそれに感謝しています。‎

 

問(Phoebe Natanson=ABC NEWS):ご自身の身体上の問題やほかのすべての要因から、引退する時が来たかもしれない、と考えさせられたことはありましたか。‎

教皇:‎(引退への)扉は開いていますが、今日まで私はその扉をたたいたことはありません。私は「その方向に進む」とは言っていないし、その可能性について考える必要性を感じていません。でも、だからといって明後日に考え始めない、というわけではありませんが、今現在、心から考えていない、と言えます。今回のカナダ訪問は、ちょっとした”テスト”でした。外国訪問を普通にこなすことができないのは事実です。訪問の回数を減らし、訪問のスタイルも少し変える必要があり、まだせねばならない司牧訪問の”借り”を返し、組み直しをでねばならないかも知れません。…しかし、それ(引退)を決めるのは主です。扉は開いています。それは本当です。

‎ ‎会見を終える前に、私にとって、とても重要なことについて話したいと思います。カナダ訪問は、聖アンナと深く関連していました。私は女性について、特に年配の女性、母親、祖母について、いくつかのことを語りました。その中で、一つの明確な点を強調しましたー「信仰はその地の言葉で伝えられねばならない」。 私はそれをはっきりと言いました。自分の 母方の地元の言葉、祖母の地元の言葉ー私たちは、女性たちの地元の言葉で信仰を受け取りました。このことは、信仰の伝達と発展における女性の役割は、とても重要です。祈り方を教えるのは母親や祖母です。信仰について、子供たちに最初に説明するのは母や祖母です。そして、この信仰の”方言的伝達”は女性的である、と言えるでしょう。‎

 「神学的にあなたはそれをどのように説明しますか?」と尋ねる方がおられるかもしれません。信仰を伝えるのは教会であり、教会は女性であり、花嫁。教会は「男性」ではなく「女性」です。そして、私たちは、男性的な聖職者への幻想、男性的な権力よりも重要な、「母なる教会」についての”思考の列車”に乗り込まねばなりません。その意味で、信仰の伝達におけるこの”母性方言”の重要性を強調することが重要です。‎

 ‎私は、例えば、(注:旧約聖書のマカバイ記にある紀元前二世紀にユダヤの民族的英雄)マカバイの殉教を読んで、これを発見しました。母が母方の方言を通して彼らを養った、と書かれています。信仰は方言(地元の言葉)で伝えられねばなりません。そして、その方言は女性によって話されています。なぜなら、教会は女性であり、教会は花嫁だからです。私はこのことを、聖アンナを念頭に置いて、はっきりと言いたかったのです。忍耐して聞いてくれてありがとう。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2022年7月31日