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◎教皇連続講話「使徒的熱意について」⑤聖霊に祈り求めなければ宣教の火は消える
☩「不条理で残酷なウクライナ戦争を終わらせよ」-ロシアの軍事侵攻開始1年で教皇が訴え

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「”常識では測れないこと ”をするよう努める」ー年間第7主日の正午の祈りで
(2023.2.19 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇フランシスコは19日、年間第7主日の正午の祈りの説教で、信徒たちに「自己満足ではなく、私たち罪人のために亡くなられたイエスに倣って『Extraordinary(仮訳:常識で測れないこと)』をするように常に努めるように」と促された。
説教で教皇は、この日のミサで読まれたマタイ福音書の箇所(5章38‐48節)を取り上げ、ここでイエスが弟子たちに命じられた言葉は、「…左の頬を持向けなさい…敵を愛しなさい」と言われたように、「要求が厳しく」、「逆説的に見える」ことから始められた。
そして、「自分を愛してくれる人を愛し、友人である人と友達付き合いをするのは、普通です」とされたうえで、「しかし、イエスは、このように言って私たちを”挑発”されます―『あなたがたがこのように振舞うなら、どのような”常識では測れないこと”をするのか?』と。この『どのような”常識では測れないこと”をするのか』が、この説教で皆さんに注目していただきたいポイントなのです」と指摘された。
続けて教皇は、「『常識では測れないこと』とは、通常の限界を超え、通常の慣行と予測を超え、思慮分別のうえで決められることを意味します」と説かれた。
*神は、私たちに「常識では測れないこと」を求められる
「一般的に言って、私たちは自分の期待に応えるようにすべてを整頓し、管理下に置こうとしますが、主は、『それでは十分ではない』と注意してくださいます。『与えること』と『受けること』のバランスを保ち、ながら、普通に暮らしていては何も変わりません。 もし神がこの論理に従われるのなら、私たちに救いの希望はないはずです」とされた。
そのうえで、「 しかし、幸いなことに、神の愛は、いつも『常識では測れない』もの、私たちが人と関係して生きるための『通常の基準』を超えているのです」と強調された。
*そして、私たちをどこまでも愛してくださる
さらに教皇は、「イエスの言葉は、私たちに挑戦しています…『功利主義的な尋常さ』にとどまろうとする私たちに、キリストは『”常識では計れない無償の愛』に心を開くことを求め、常に『平等』に生きようとする私たちに、キリストは『バランスを崩した愛』に生きるように、と勧められる… このことに驚かないようにしましょう」とされた。
そして、「神がご自身のバランスを崩されなかったなら、私たちが救われることは決してなかった。イエスは、私たちをどこまでも愛してくださらず、私たちのために十字架に就かれることはなく、私たちのために命をお捧げになることはなかったでしょう」と語られた。
*私たちのために命を捧げられたキリストのように生きる
教皇は続けて、「神は、罪人である私たちのためにキリストを捧げてくださったことで、私たちへの愛を示しておられます… 神の愛は、常に”過剰”で、常に”測り知れない”、常に”不釣り合い”な愛です。 そして今日、神は、私たちにも、そのように生きることを求めておられる」とされ、「私利私欲の論理」から抜け出し、「計算ずくと利便の尺度」で愛を「測らない」ようにしてのみ、「私たちは真に神を証しすることができるのです」と強調された。
*聖母マリアに倣い、神に「はい」と答えられるように
説教の最後に教皇は、「主は、『悪に対して悪で立ち向かうのではなく、見返りがほとんど、あるいはまったく得られなくても、善を成し、賜物を危険にさらすように』と、私たちに勧めておられます」とし、「そうすることが、争いを徐々に変化させ、互いの距離を縮め、敵意と憎しみを克服するための鍵なのです」と強調.。「私は自分の人生で、”見返りを求める論理”に従ってきたか、それとも”無償の論理”に従ってきたか」と各々が自分自身に問いかけるよう勧められたうえで、「 キリストの並外れた愛に倣うことはやさしいことではありませんが、可能です」と言明。
打算なしに神に”はい”と答えられ、自身を主の恵みのもっともすぐれたものとされるようにした聖母マリアに祈りを捧げるように、信徒たちを促されて、説教を締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「戦争が子供たちの笑顔を奪っている、だが希望を無くしてははならない」教皇在位10年を前に、イタリアのTV番組で

*だが希望を失わず、”地平線”に目を向ける
*富は罪ではない、虚栄心にまみれたライフスタイルが問題だ
富に関する質問に対して教皇は、「ある紳士が私に、『ローマには(高級)レストランがいくつもありますが、食事に2人招待すると 1700 ユーロ(約24万円)になります』と言っていました。飢えている人たちがいるのに、どうやってそのように高価な食事ができるのでしょう。そのように暮らすことができるでしょうか?… 『神父さま、共産主義者にならないでください…』と言う人がいたら、私は言います―『それが福音と言うものです』と」と答えられた。
そして「でも、金持ちが悪い、と言っているわけではありませんが、私たちの信仰を定義するのに役立つのは、私たちの『行動』です。私たちのライフスタイルが”異教徒”である場合、他の人は『あなたがたには信仰がないか』とか、『ニスのように薄い信仰だ』と言うでしょうー人生は、信仰というニスで塗られているが、根がない、と」とされた。
教皇は、バチカンのあるカメラマンがローマの路上で撮影した写真ーレストランから出てきた身なりの良い年配の女性が、施しを求める物乞いを無視して通り過ぎようとしているいる写真ーを取り上げ、「虚栄心や生き方の陰に隠れて、何か、あるいは誰かに気付かなければ、自分自身に閉じこもっていることになる… あなたの兄弟の肉は、あなたの肉と同じです。 もしかしたら、明日には、あなたがその立場にいるかもしれません… 傷ついた肉に触れることを恐れないように」と忠告された。
*頑なになった心を和らげる
また教皇は「頑なになった心を和らげるのは非常に難しい。主は何度も、病気などの悪い状況を用いして、人の心を変えようとされます。 私たちはいつも主に願わねばなりません―『頑なな心になりませんように。人間的に振舞い、すべての人のそばにずっといることができますように』」とされ、「ウクライナの孤児のために、今日、何人が涙を流しているでしょうか?表に現わさなくても、心で泣いていますか? 何人が苦しんでいますか? 孤独ゆえに盗みを働くストリートチルドレンのために何人が苦しんでいますか?」と問いかけられた。
さらに、このインタビューが行われた教皇のお住まい、聖マルタの家のアトリウムに架けられた絵ーピエモンテの画家が、息子を連れて逃避するシリア人の写真をもとに描いた「Forced to Flee Like They」と題された絵ーを指して、「イエスとその家族のエジプトへの逃避は、『天使の乗った競走用二輪馬車』に乗ってなされたと考えられています。この絵のようだったのでしょう。このような逃避行はイエスによって経験され、非常に多くの人々によって経験されてきました」と語られた。
*悩みは尽きないが、必ずしも悪いことではない
インタビューの終わりに、教皇は、3月13日に、ご自分の教皇職就任10周年を迎えることに言及され、教皇に選出された時のことを思い起こされて、「可哀想なペトロ、なんという後継者を見つけたんだ!」 と笑いながら大声を上げ、 「こんなことになるとは想像もしていませんでした、それでも、当時大司教として働いていたブエノスアイレスからローマへの”移籍”は自然な形でなされました」と回想された。
そして、教皇就任から10年が経とうとしている今、「悩みが尽きることはない」としつつ、「それは必ずしも悪いことではありません。 むしろ、悩みは”気づき”のきっかけになり得るのです」と語られた。
そして最後に、視聴者たちに、 「私のために主に祈ってください。私が”異教”の教皇ではなく、キリスト教の教皇であるように、キリスト教徒として生き、神の聖なる忠実な民である教会を助ける恵みを、主が与えてくださるように」と願われた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩教皇、四旬節を前にメッセージ「私たちの四旬節の旅は、”シノドス”の旅でもある」

(2023.2.17 Vatican News Christopher Wells)
教皇フランシスコは17日、22日の灰の水曜日に始まる四旬節へのメッセージを発表された。
聖パウロの回心の聖パウロの回心の晩の祈りの中で教皇は署名されたメッセージのタイトルは「Lenten Penance and the Synodal Journey(四旬節の苦行とシノドスの旅」。
*四旬節の旅はイエスの弟子として”共に歩む”旅
教皇は、この二つの旅は伝統に根ざし、新しいものに開かれたもの、とされ、「個人として、また教会として、イエスの『変容』は、四旬節の禁欲的な旅の目標であり、シノドスの道の目標でもあります」と強調された。
メッセージで教皇は、毎年四旬節の第 2 主日に読まれるイエスの変容に関する福音書の箇所(マタイ福音書17章)を引用され、「ご自身の変容に当たって選ばれた弟子たちと同じように、イエスは四旬節の間、私たちを『離れた場所』に連れて行ってくださいます」と指摘。
そして、「四旬節の苦行は、信仰の欠如と、十字架の道でイエスに従うことへの抵抗を克服するための、恵みに支えられた責務。それを果たすためには努力、犠牲、集中力が必要ですが、それはシノドスの旅の要件でもあります。私たちの四旬節の旅は、師イエスの弟子として同じ道を共に歩むため、”sinodal(共働的)”な旅、と言えるのです」と語られた。
さらに「四旬節の旅とシノドスの旅の両方で、教会は救い主であるキリストの神秘にこれまで以上に深く、十分に浸ること以外、何もしないのです」と強調された。
*神の意志と私たちの使命を理解するのを助ける
また教皇は、(イエスについて)タボール山を登る弟子たちの旅のように、「シノドスの道が困難に見え、落胆につながる可能性があること」を認めつつ、「最後に私たちを待ち受けているのは、間違いなく素晴らしい体験。神の意志と世界における私たちの使命をよりよく理解するのを助けるものなのです」と信徒たちを励まされた。
そして、モーセとエリヤが律法と預言者を代表して、イエスの変容の場に登場したことを指摘され、「同じように、シノドスの旅は教会の伝統に根ざしており、同時に新しさにも開かれています… 伝統は、新しい道を模索するためのインスピレーションの源です」と説かれた。
*イエスと兄弟姉妹に耳を傾け、日々の暮らしの現実と向き合うこと
続けて教皇は、個人として、教会としての「変容あるいは回心」いう目標を達成するために、 2 つの方法を提案されている。
一つ目は、神の御言葉と兄弟姉妹に耳を傾けること。「キリストに耳を傾けるということは、教会の兄弟姉妹に耳を傾けることの中に生まれることがしばしばあります」と教皇は語られた。
二つ目は、特別な出来事や経験にとらわれず、日々の暮らしの現実に向き合うこと。「四旬節もシノドスの道も、それ自体が目的ではなく、主の復活の体験へと私たちを導く旅なのです」と強調され、メッセージの最後に次のように、世界の信徒たちに呼びかけられている。
「さあ、(注:イエスの変容を体験した山から)平地に降りて行きましょう。そして、体験した恵みが、周りの社会での日常生活の中で、私たちが”artisans of synodality(共働的生き方の職人)”となるよう励ましてくれますように」
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩◎教皇連続講話「使徒的熱意について」④謙虚さをもって神が近くにおられることを説け
(2023.2.15 Vatican News Devin Watkins)
教皇フランシスコは15日、水曜恒例の一般謁見で、アフリカ二か国歴訪などで中断していた「使徒的熱意」についての連続講話を再開され、イエスが12人の弟子を選んですぐに福音宣教に送り出されたマタイ福音書の箇所(10章7‐16節)を取り上げ、弟子たちに命じられた言葉を考察された。
まず教皇は、イエスが、12使徒を選ばれ、彼らがご自身と共におられ、彼らを宣教のために送り出せるようにされたことに注目。イエスの召命における「共にいること」と「外に出ていくこと」の二重性を指摘され、「キリスト教の宣教活動は、キリストとの出会いから始まり、外に向かうものです」と語られた。
そして、「イエスを証しすることは、イエスを輝かせることを意味します。 私たちがイエスの光を受け取らなければ、私たちは消滅してしまいます。 私たちがイエスに仕えなければ、私たちは彼ではなく、自分自身を抱くことになり、すべてが無駄になります」と説かれ、「イエスが弟子たちを選んだ後、すぐに送り出されました。これは、宣教の経験が、キリスト教徒として育成されるために欠かすことのできないことだ、と言うことを示しているのです」と付け加えられた。
以下は「バチカン放送」訳による講話の要旨
**********
「(イエスは弟子たちに命じられた)行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒やし、死者を生き返らせ、既定の病を患っている人を清め、悪霊を追い出しなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れてはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。 […] 私があなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り込むようなものである」(マタイ福音書10章7-10、16節)
「福音宣教の情熱:信者の使徒的熱意について」の講話を続けましょう。イエスを福音の告知のモデル、師として見つめた後、今日は最初の使徒たちに視点を転じたいと思います。
福音書は、イエスが「十二人を任命し、使徒と名付けられた」こと、そして、それは「彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ」るためであったことを(マルコ福音書3章14節参照)伝えている。これは一見、矛盾することのように思われます。
自分のそばに置くために召しながら、宣教のために送り出すからです。別の言葉で言うなら、「いる」のか、それとも「行く」のか、ということです。しかし、イエスにとって、弟子たちがご自分のそばに「いる」ことなしに、宣教に「行く」ことはありえず、逆に宣教に「行く」ことなしに、ご自分のそばに「いる」ことはありえませんでした。これはどういうことなのでしょうか。
まず、イエスのそばに「いる」ことなくして、宣教に「行く」ことはできません。イエスは弟子たちを宣教に派遣する前にご自分のもとに「呼び寄せ」られた(マタイ福音書10章1節参照)と福音書は言います。
すべてのキリスト教生活がそこから生まれるように、福音宣教は、主との出会いから始まります。「主を証しする」とは、主の光を輝かせることですが、主の光を受けることがなければ、私たちは消えたままであり、その光を輝かせることができません。イエスと親しい関係を築かないならば、私たちはイエスを伝えるのではなく、自分自身を伝えるだけになります。福音をもたらす者は、イエスと共にいる者だけなのです。
同じように、弟子たちが宣教に「行く」ことなしに、イエスのそばに「いる」ことはありえません。実際、イエスに従うとは、内面的なことではない。宣教や奉仕がなくては、イエスとの関係は育たない。イエスは、弟子たちの準備が完全になることを待たずして、宣教に送り出している。それは宣教経験が育成の一部であることを示している。
キリストは弟子たちを呼び寄せ、宣教に派遣する前に、彼らに宣教に行く際の心得を説いておられます。マタイ福音書10章の「宣教に関する説教」は、いわば宣教のための「憲章」とも言えるもの。この説教から、なぜ宣べ伝えるのか、何を告げるのか、いかに告げるのか、を読み取りたいと思います。
なぜ「宣べ伝える」のでしょう。その動機は、イエスの「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ福音書10章8節)という言葉にあります。福音宣教は、私たちから始まるのではなく、私たちが無償で受けたものの素晴らしさーイエスと出会い、イエスを知り、愛され、救われたことーの発見から始まるのです。
私たちはこれほど大きな恵みを自分のものだけにしておくことはできず、自分が受けた時と同じように、それを無償で広めたい、と感じます。贈り物を受けた私たちは、今度は、自分を他者への贈り物にするように、と求められるのです。
では、何を告げるのか。イエスは、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」(同10章7節)と言われます。それは、一番に伝えるべきことは「神は近くにおられる」ということです。私たちはしばしば説教の中で人々に「何々」をするようにと求められますが、「神は私たちのそばにおられる」という最も大切なメッセージを忘れてはなりません。
神の愛を受け入れることは最も難しいことです。それは、私たちが常に、自分を主役として中心に置きたがるからです。これに対し、福音の告知では神を一番に置かなければならないのです。
最後に、いかに告げるのか。これについてイエスは多くのスペースを割いておられます。これは、証しにおいて、その方法やあり方が重要であることを意味しています。
イエスは「それは、狼の中に羊を送り込むようなものである」(同10章16)と言われます。イエスは私たちに、狼と闘えるように、すなわち、議論し、闘い、身を守るように、とはおっしゃいません。
私たちは、「数の多い、重要な、目立つ存在になれば、世間は自分たちに耳を傾け、尊重するようになる」と考えがちです。しかし、イエスは私たちを羊や子羊のように派遣され、私たちが柔和で無垢なもの、犠牲もいとわない者であることを願われます。そして、牧者である主は、ご自分の子羊を見分け、狼から守られます。羊の皮を被った狼は、仮面をはがされ、引き裂かれます。それは、聖ヨハネ・クリゾストモが「主は、狼ではなく、羊を牧される」と言ったとおりです。
「いかに告げるか」について、イエスが、「宣教の旅に持って行くものではなく、持って行ってはならないもの」を挙げておられるのは、驚くべきことです。イエスは「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」(同10章9-10節)と言われました。それは、「物質的な安心に頼らず、世俗性を捨てて、世に出ていくように」との教えです。「いかに告げるか」。それはイエスについて話すより、イエスを示すことにあるのです。
最後に、「共に行く」ということが大切である。主はすべての弟子たちを派遣されるが、誰も一人で行くことはありません。使徒的な教会は、その全体が宣教的であり、宣教の中にその一致を見出すのです。
子羊のように柔和で善良で、世俗性を持たず、共に行くーここに宣教の鍵があります。イエスのこれらの招きを受け入れ、イエスの言葉が私たちの指針となりますように。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の翻訳は「聖書協会・共同訳」を使用)
☩「信仰は、私と神との”ラブストーリー”だ」年間第6主日・正午の祈りで
(2023.2.12 Vatican News Linda Bordoni)
教皇フランシスコは12日、年間第6主日の正午の祈りの説教で、「信仰を全うするために、自分自身を完全に捧げ、臆することなく神を愛するように」と信者たちに勧められた。
この日のミサで読まれたマタイ福音書では、イエスが「立法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(5章17節)と語られている。教皇は、「『完成する』は、イエスの私たちへのメッセージを理解するための、キーワードです」と指摘。
「律法を守って暮らすだけでは(完成には)足りません。言葉で人を殺さないが傷つけ、姦淫しないが『二枚舌と虚偽に汚れた』愛を生き、厳粛な誓いを立てても偽善的な振る舞いをするのでは、”完成した”ことにはならない」とされ、「神に捧げ物をすることは、神からいただいた賜物にお返しをすることなのです」と説かれた。
そして「イエスのメッセージははっきりしています。神はまず私たちを進んで愛され、私たちーその愛に値しない私たちーに向かって第一歩を踏み出された。そのお返しに、まず、私たちは、自分を傷つけた人々との和解に一歩踏み出すこと。そうしなければ、神の愛に応えることはできません」と語られ、「このようにして、神の目には『完成』がある。外見的で、形式的な律法の順守は意味がありません」と言明。
さらに、「宗教的なルールは必要であり、良いことですが、始まりに過ぎません。ルールを『完成』するためには、その文言を超え、その意図するところを生きる必要があります。神が私たちに与えてくださった戒めは、形だけを守る、”風通しの悪い金庫”にしまっておくものではないのです」と強調された。
また教皇は、「これは時代を超越した課題。信仰は、最低限のもので満足する形式的なルールの遵守ではない。イエスは、出来得る限り、最大限に求めるように、私たちを招いておられます」とされ、「神は”計算”や”表”では判断なさいません。神は私たちを、心奪われる者として愛してくださいます。最小限、ではなく、最大限にです! 『あなたを、ある程度までは愛していますよ』とは、おっしゃいません」と語られた。
続けて、「真の愛は、ある段階で十分ということはない。十分、と言うことは決してありません。 愛は限界を超えていくもの、それなしでは済まないものです」とされたうえで、「主は十字架で命を捧げ、殺人者を赦すことで、このことを私たちにお示しになり、『私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うように』という主にとって最も大切な戒めを、私たちに託されました。それが、律法、信仰、命を『完成』させる『愛』なのです!」と訴えられた。
最後に教皇は、信者たちに、「信仰をどのように生きているか」を自らに問うよう、強く勧められた。「信仰とは、計算ずくのものか、形式を守るものか、それとも神との”ラブストーリー”なのか?私は、他者に害を及ぼさないことだけで、うわべだけきちんとしていることだけで、満足しているのではないか、それとも、神と他者への愛を深めることに努力しているのか?というように」。
そして、「時々は、イエスの素晴らしい戒めで自分自身を確認し、『イエスが私を愛してくれているように、隣人を愛しているだろうか』と自分に問いかけましょう。なぜなら、私たちはたぶん、他人を判断する際に融通が利かず、神が私たちにしておられるように慈悲深くすることを忘れているからです」と述べ、説教を締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩教皇、ニカラグアの司教投獄を非難、政権指導者に「平和のための真摯な対話」求める

(2023.2.12 Vatican News Linda Bordoni)
中米ニカラグアで強権姿勢を強める左派オルテガ政権に批判的なロランド・アルバレス司教が 26 年以上の禁固刑を宣告され、司祭、神学生を含む220人以上が国外追放されていることから、世界中の司教たち、カトリック教会関係者はじめ多くの国、人々から批判の声が上がっている。
教皇フランシスコは12日の年間第六主日の正午の祈りの説教で、アルバレス司教に対する長期刑の宣告や、多くの人を国外追放していることを非難され、ニカラグアの政治指導者に対して、「平和への真摯な探求に心を開き、対話に参加する」ことを強く求められた。
教皇は説教で、アルバレス司教が長期刑を宣告されたことに強い悲しみと懸念を表明。司教、そして国外追放された人々、ニカラグアで弾圧され、苦しんている人々のために祈られ、次のように聖母マリアに執り成しを願う祈りをするよう、世界の信者たちに呼びかけられた。
「ニカラグアの政治指導者とすべての国民が心を開き、真実、正義、自由、愛をもとにした対話を忍耐強く行い、平和への真摯な探求に向かうことができますように」。
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世界の司教たちがニカラグアの教会に対する不正な迫害を非難
(2023.2.12 Vatican News Felipe Herrera-Espaliat)
ラテンアメリカ・カトリック司教協議会連盟(CELAM)、およびチリとスペインの司教団は11日、ニカラグアのオルテガ政権下での人権侵害を批判するとともに、アルバレス司教の投獄と政敵の追放を非難した。
CELAMは議長のミゲル・カブレホス大司教が11日、声明を発表、ニカラグアにおけるカトリック信者の権利が迫害されていることについてオルテガ政権に警告するとともに、神の民とその司牧者たちと連帯し、祈ることを表明。”シノドスの道”の大陸レベルの歩みの一環として、聖オスカル・ロメロの遺物を収容するエルサルバドルのサン・サルバドル大聖堂でミサを捧げることを発表した。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「病者は神の民の中心、神の民は彼らとともに前進する」-2月11日「第31回世界病者の日」教皇メッセージ
(2023.2.11 カトリック・あい)
11日、カトリック教会は31回目の「世界病者の日」を迎えた。この日のための教皇フランシスコのメッセージは以下の通り。翻訳は、カトリック中央協議会を使用。
2023年第31回「世界病者の日」教皇メッセージ 「この人を介抱してください」ーシノドスの精神にかなう、いやしの実践としてのあわれみの心
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
病いは、人間である以上、私たちの経験の一角を占めるものです。しかし、ケアや憐みがなく、隔離され放置されたままであるなら、それは非人間的なものとなるでしょう。一緒に歩んでいれば、体調を崩したり、疲れや想定外のことで途中で動けなくなったりする人がいるのは当たり前のことです。そういうときにこそ、私たちは自分の歩みを確認できます。
つまり、本当に一緒に歩んでいるのか、それとも同じ道にはいても、それぞれ、自己の利益を優先し、他の人には「自分でどうにか切り抜けて」もらって、わが道を行っていないか、ということです。ですから、シノドスの旅の真っ最中のこの第31回世界病者の日に、皆さんによく考えてみて欲しいのは、まさに虚弱さや病を知ることで、近しさ、憐み、優しさという、神の流儀をもって共にに歩むことを学べるのだ、ということです。
預言者エゼキエルの書において、啓示全体の頂点の一つである偉大なお告げの中で、主なる神は、こう語っています。「私は自分の群れを養い、彼らを伏させる―主なる神の仰せ。私は失われたものを捜し求め、散らされたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病める者をものを力づける……私は公正をもって群れを養う」(34章15−16節)。迷い、病い、弱さの経験は、私たちの旅には付きものです。そうした経験によって、私たちは神の民から追い出されるのではなく、むしろ、主の一番の関心の的となるのです。主は御父であり、ご自分の子らが旅の途中で一人として失われることを望まない方です。ですから、使い捨て文化に毒されることなく、真に共に歩む共同体となるには、その神から学ばなければなりません。
回勅『兄弟の皆さん』は、ご存じのように、よいサマリア人の例え話を新たに読み直しています。私はこの例え話を、「閉ざされた世界の闇」から抜け出し、「開かれた世界を描き、生み出す」ための軸として、転換点として選びました(56項参照)。
実際、このイエスの例え話と、今日、友愛が否定されている多くの状況との間には、深いつながりがあります。なかでも、虐げられ身ぐるみはがされた人が道端に打ち捨てられている様子は、あまりに多くの兄弟姉妹が、最も助けを必要としているときに置かれる状態を表しています。命と、その尊厳に対する攻撃のうち、どれが自然な原因によるもので、どれが不正義や暴力によるものかが区別しにくくなっています。実際、著しい格差と少数者による利益独占は、すでに人間環境の隅々にまで影響を及ぼしており、どんな経験も「自然なこと」とは言えなくなっています。すべての苦しみは、一つの「文化」の中で、そこにあるさまざまな矛盾の中で生じているのです。
ともかく、ここで重要なのは、孤独な、見捨てられている境遇を認識するということです。その残忍さは、他の不正義よりも先に克服しうるものです。例え話にあるように、その根絶に必要なのは、目を向ける一瞬、つまり憐み、という心の動きだからです。宗教者とされている通りすがりの二人は、負傷した人を見ても立ち止まりません。一方、三番目の人物であるサマリア人は、侮蔑される側の人なのに、憐みに心動かされて、道端の見知らぬ人を介抱して、兄弟同然に接しました。そうすることでその人は、意図せずに変化をもたらし、世界をより友愛あるものにしたのです。
兄弟姉妹の皆さん。私たちは、病気に完全に備えておくことなどできません。年を取ることすら、受け入れられない人も少なくありません。脆弱さを恐れ、市場原理の支配する文化によって脆弱さを否定させられます。弱みを見せるわけにはいきません。そのため不幸に襲われ痛めつけられると、私たちはただぼう然とするのです。そうなると、他者から見捨てられてしまったり、また、他者の負担にならないよう、自分のほうから、「離れなければならない」と思い込んでしまったりします。
こうして孤独が始まり、私たちは、「天さえもが閉ざされた」と思えるような不正義に対する苦しみに毒されてしまいます。確かに、他者との関係、自分自身との関係が壊れてしまうと、神との平和を保つことが難しくなります。だからこそ、病いについても、教会全体が真の「野戦病院」となるために、よいサマリア人の福音的模範に照らして自らの歩みを判断していくことが非常に重要なのです。
私たちが今まさに経験している歴史的状況において、教会の使命は、まさしく、「ケアの実践」に表れます。私たちは皆、もろくて弱い存在です。立ち止まり、近づき、介抱し、起き上がらせる力のある、憐みの心で注意を向けてもらうことを、皆が必要としています。ですから病者の置かれている状況は、無関心を打ち破る呼び掛けであり、姉妹や兄弟などいないかのように突っ走る人々に、ペースを落とすよう訴えるのです。
世界病者の日は、実際、祈りや、患者への寄り添いを呼びかけているだけではありません。併せて、神の民と、医療機関と、市民社会の、共に歩むための新しい道についての意識向上も、目的としています。冒頭に引用したエゼキエルの預言は、経済的、文化的、政治的支配者層が優先するものへの、実に辛辣な裁きも含んでいます。
「あなたがたは脂肪を食べ、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。あなたがたは弱ったものを力づけず、病めるものを癒さず、傷ついたものを包まず、散らされたものを連れ戻さず、失われたものを捜し求めず、かえって力ずくで厳しく支配した」(34章3−4節)。
神の言葉は、常に照らしとなり、時宜にかなうものです。非難だけでなく、提案においてもそうです。事実、よいサマリア人の例え話の結末は、顔を寄せた出会いから始まる友愛の実践が、どのようにすれば機能的なケアに拡大できるかを示唆しています。宿屋、宿屋の主人、お金、状況を知らせ合う約束(ルカ福音書10章34-35節参照)ー、このすべてが、司祭の奉仕職や、医療従事者やソーシャルワーカーの働き、家族やボランティアの献身を思い起こさせます。こうした人々のおかげで、毎日、世界各地で、善が悪に立ち向かえるのです。
新型コロナの世界的大感染の数年に、私たちの間で、医療やその研究のために日夜働いている人々への感謝の思いが強まりました。ですが、これほどの大規模な集団的悲劇から抜け出すには、英雄たちをたたえるだけでは不十分です。新型コロナウィルス感染症は、専門技術と連携が生み出すその優れたネットワークを厳しい試練にさらし、既存の福祉制度の構造的な限界を明らかにしました。ですからその感謝の気持ちを、各国での保健政策と資源の積極的な追求につなげ、すべての人が医療を受け、健康を求める基本的権利が保障されるようにしていかねばなりません。
「この人を介抱してください」(ルカ福音書10章35節)ーこれは、サマリア人から宿屋の主人への依頼の言葉です。イエスはこれを、私たち一人ひとりにも繰り返し語り、最後には「行って、あなたたちも同じようにしなさい」と勧めておられます。『兄弟の皆さん』で強調したように、「この例え話は、……益が共有されるよう、他者の弱さを自らのものとし、排除する社会を作らず、かえって隣人となって倒れた人を起き上がらせて社会に復帰させる人々から成る共同体を再構築できるイニシアティブを示しています」(67項)。まさしく、「私たちは愛においてのみ、たどり着くことのできる充満のために造られた、ということです。『他の痛みに無関心で生きる』という選択はありえません」(68項)。
2023年2月11日には、現代世界のただ中で教会に託された、預言であり、教えであるルルドの聖所に目を向けましょう。働ける人だけに価値があるのではなく、生産性のある人だけが大切なのでもありません。病者は神の民の中心であり、神の民は、人類の預言である彼らとともに前進するのです。一人ひとりに尊い価値があり、だれも切り捨ててはならないという預言です。
病者の癒し手、マリアの執り成しに、皆さん一人ひとりを委ねます。病者の皆さん、病気の家族を世話する皆さん、仕事で、研究で、ボランティア活動で彼らを世話する皆さん、そして個人の、教会の、市民社会の友愛のきずなを築くために尽力する皆さん。すべての皆さんに、愛を込めて使徒的祝福を送ります。
☩「被災者支援、危機克服へ連帯を」トルコ、シリア双方に呼び掛け

トルコとシリア両国にまたがる形で起きた大地震の影響は深刻さを増しているが、教皇フランシスコは9日のツイートで、両国が被災者の支援、危機克服のために両国が連帯するよう呼びかけられた。
ツイートで教皇は、「今は憐れみの時、連帯の時です。悲しみのうちに一致し、自己崩壊をもたらす憎しみと、戦争、分裂を続けるのを止めましょう」と両国の指導者や国民に訴えられた。
そして、救援の手を差し伸べる世界の国々の人々に感謝するとともに、「トルコとシリアの苦しむ人々を助け、世界に平和と兄弟愛を築きましょう」と、さらなる支援、協力を願われた。
教皇は前日8日の水曜恒例一般謁見で、両国の震災の犠牲者や家族、けがを負った人々に寄り添われ、心からの祈りを捧げられている。
(編集「カトリック・あい」)
☩「私の”夢”は果たされた」-教皇、一般謁見でコンゴ、南スーダン訪問を振り返る
(2023.2.8 Vatican news Deborah Castellano Lubov)
☩被災者たちと連帯し、救いの手を差し伸べよう」教皇、トルコ、シリアの大地震で
(2023.2.8 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇フランシスコは8日の水曜恒例の一般謁見で、トルコとシリアで大地震によって壊滅的な被害を受けたすべての人々に救いの手を差し伸べるよう、世界の人々に強く呼びかけられた。
教皇は、今も捜索が続けられ、死傷者が増え続けている現地の窮状に思いをはせられ、「私は心を込めて彼らのために祈り、犠牲となった方々、その家族、そしてこの壊滅的な災害に苦しんでいるすべての人々の傍にいます」と語られるとともに、救援活動に取り組んでいる人々に感謝し、「長い戦いで既に破壊された地域もある被災地域の人々」と連帯するよう呼びかけられた。
そして、「このような悲劇に直面して私たちの兄弟姉妹が、苦難を乗り越えて前に進むことができるように。そして、聖母マリアに彼らを守ってくださるように、願いましょう」と共に祈るよう促された。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「世界全体が戦争と自滅の中にある。間に合ううちに止めねばならない」教皇、帰国途上の機中会見で警告

会見での質問に対する、教皇の主な答えは次の通り。
*アフリカは搾取されるために存在するのではない!
問:あなたはコンゴ民主共和国訪問を切望されていました。あなたはその喜びを経験されました。2016年にバチカンはコンゴとの間で、教育と健康に関する合意をしていますが、これをどの程度重要とお考えですか?
教皇:その合意については詳しくありません。協定の専門家のギャラガー国務省外務局長にお任せしています。コンゴ民主共和国の訪問では、前進することへの大きな願望と、たくさんの文化を知りました。私は数ヶ月前にとても優秀なアフリカの大学生のグループと Zoom ミーティングを行いました。あなたがたの中には、優れた知性を持つ人たちがいます。あなたがたが持つ富の 1 つです。知的な若者たちに扉を閉ざさず、彼らのために空間を作らねばなりません。 コンゴには、その富を搾取しようとする人々を引き付ける非常に多くの自然の豊かさがあります。「アフリカは、搾取されるために存在する」という考えを捨て去らねばなりません。 そして、搾取に関して、コンゴの東部地域が抱える問題は、私に苦痛をもたらします。 私は今回の訪問で、東部地域で犠牲になった人、ケガを負った人、さらには四肢を切断された人に会うことができました。そこには、 大きな痛みがあり富が奪われました。 あってはならないことです。コンゴには多くの可能性があるのです。
*武器取引は最大の”疫病”、少年たちも戦争に巻き込んでいる
問: コンゴ民主共和国と南スーダンの両方で、2 つの国連ミッションが何十年にもわたって活動しているにもかかわらず、暴力が広がっています。 このことに失望したアフリカ諸国の多くが、国際法を尊重しない可能性のある国や組織ー例えばロシア、民間会社、サヘル地域などーを安全保障のパートナーにする誘惑に遭っている。そうした現状で、新たな対応策をどのように考え、支援することができるでしょうか。
教皇:暴力は日常的なテーマになっている。私も、 南スーダンで見たばかりです。 暴力がどのように引き起こされるかを知るのは辛い。 問題の1つは武器取引です。 ウェルビー大司教もこれについて言っておられましたが、武器取引は、世界最大の疫病の一つだと思います。 商売… 武器の販売。 ある人は私に「武器取引を1年止めれば、世界の飢餓はなくなるだろう」と言いました。 それが本当かどうかは分かりませんが、今日の最大の問題は武器取引です。 大国の間だけではありません。 貧しい人々の間でさえ… 争い合っています。 残酷です。 彼らは「戦争に行け!」と言われ、武器を与えられる。 その背後には、土地、鉱物、富を搾取する(人々の)経済的利益があります。
アフリカの部族主義が戦いを止めるのに役に立たないのは事実です。 南スーダンでも事情は同じではないでしょうか。だが、異なる部族間の対話が必要です。 ケニアを訪問した時、満員のスタジアムで 誰もが立ち上がり、「部族主義に反対」と声を上げたのを覚えています。 それぞれに独自の歴史があり、昔からの敵意や異なる文化があります。 しかし、武器売買で部族間の争いを誘い、武器売買に部族間の戦争を利用する動きがあることも事実です。 これは悪魔的ー 他の言葉が思いつきません。破壊ですー被造物を破壊し、人を破壊し、社会を破壊します。
南スーダンでも同じことが起きているかどうかは分かりませんが、一部の国では起きているのは、少年たちを徴兵し、民兵に加わえ、敵対する集団の少年たちを戦わせている。 最大の問題は、一国の富ー例えば、コルタン、リチウムなどの貴重な鉱物資源を奪おうとする熱望。そして、戦争に武器を売りつけること、戦争を通して、子供たちも搾取すること、です。
*ウクライナ、ロシアの両国大統領と会う用意…ミャンマー、ラテンアメリカ、至る所で人々が苦しんでいる
問: ウェルビー大司教が2019年に、南スーダンの指導者の前でひざまずいて平和を求める、という信じられない瞬間を思い出しています。あと 2 週間で、ロシアによるウクライナ軍事侵攻から 1年たちますが、 プーチン大統領に会う機会があれば、同じジェスチャーをなさる用意はありますか? 彼は、これまでの平和への訴えに耳を貸しませんでした。英国国教会、スコットランド国教会、そしてカトリック教会の代表が一堂に会することはめったにありません。この機会に、ウクライナ和平を求める共同アピールを出されてはどうでしょうか。
教皇:ウクライナ、ロシアの両国大統領と会う用意は常にあります。(軍事侵攻が始まった当初)私がキエフに行かなかったのは、当時、モスクワに行くことができなかったからです。 しかし、私は対話をしていました。侵攻が始まって2日目に、私はロシア大使館に出向き、「交渉するための小さな窓があれば、プーチン大統領と話をするためにモスクワに行きたい」と伝えました。 すると、ラブロフ外相は「検討する」と答え、「また後で会おう」と言いました。
しかし、2019年の(ウェルビー大司教の)取られた態度は、どのように起こったのか、私には分かりません。 考え抜かれたものではないようですし、考え抜かれたものではないことを繰り返すことはできません。そうさせるのは聖霊の働きです。 説明は不可能です。計画されたものではなく、内なる衝動によるものでした.
今起きている戦争は、ウクライナだけではありません。世界中で起きています。 故郷を追われ、世界中を放浪する貧しいロヒンギャの人たちのミャンマーを考えてみてください。 ラテンアメリカの至る所に… 戦争の温床がどれほどあることでしょう。 世界すべてが戦争のただ中にあり、自滅しようとしています。 私たちは真剣に考えなければなりません。自己破壊です。 1 つの爆弾がさらに大きな爆弾を次々と引き寄せている。まだ間に合ううちに、止める必要がある。 私たちは頭を冷やす必要があります。
*女性は単なる”化粧品の広告”ではない
女性問題についてですが、 私は南スーダン訪問中に女性たちと会いました。彼女たちは子供を産み、国を作る力を持っています。 女性は素晴らしい。 男性は戦いに行き、2 人、3 人、4 人、5 人の子供を持つ女性たちは前に進みます。今起こっている事態に身を投じている修道女たちについても言及したい。南スーダンで彼女たちの何人かに会いました。 多くの修道女が殺されれいます… 女性の強さについて話をもどしましょう。女性を、単なる化粧品の広告として使わないでください。 女性は、もっと大きなもののために造られています!
*同性愛の犯罪扱いは不当ーそうした「人々」を疎外してはならない
問: 今回の司牧訪問に出発される前に、同性愛が南スーダンでもコンゴでも家族に受け入れられず、犯罪扱いされていることを非難されました。私はキンシャサで 5 人の同性愛者から話を聞きましたが、家族から拒絶され、追放された人さえいました。 彼らは、そうした行為は、両親の宗教的な生い立ちから来ている、と説明しました. 彼らの何人かは、「汚れた霊に取り憑かれている」と信じている家族の手で、悪魔払いの司祭のところに連れて行かれまました。このように、同性愛を理由に子どもたちを拒絶する家族に何と言いますか?司祭や司教に何と言いますか?
教皇:この問題について私は、2 つの司牧訪問の機会に話しています。 ブラジル訪問の際、こう言いましたー「同性愛の傾向を持つ人が信者で、神を求めている場合、どう対応するか判断するのは誰ですか?(誰も判断できない)」。アイルランド訪問で、ある若者から手紙をもらい、その両親に私は明言しましたー「家から、彼を追い出すことはできません」と。
同性愛の犯罪扱いは、見逃してはならない問題です。 世界の50か国では、何らかの形で犯罪扱いを促進していると推定されています。同性愛者に罰則を適用するのは正しくありません。同性愛の傾向を持つ人々も神の子であり、神は彼らを愛し、神は彼らと歩みを共にされます。 さまざまな望ましくない状況のために、このような状態にある人がいるのは事実ですが、彼らを非難することは罪です。 同性愛の傾向のある人を犯罪者にするのは不当です。 このことを、私は「集団」について話しているのではありません。「人々」について話しているのです。
ある人は言いますー「彼らは”うるさい騒音”を発生させる集団に参加している」と。 私は「人々」について話している。 集団で政治的圧力をかけるのは別問題です。 私は「人々」について話しており、「カトリック教会のカテキズム」は、彼らを疎外すべきではない、と言っている、と私は判断しています. この点は明らかだと思います。
*ベネディクト16世の死が”政党”に属する人々に悪用されている
問:ここ数日、教会一致に関する多くの話がありました。 南スーダンでも、キリスト教徒の一致が示され、カトリック教会自体の一致も示されています。 ベネディクト 16 世の死後、感じておられることはありますか?
教皇:教皇ベネディクトとは、生前に、すべての問題を話すことができた、と言いたい。 彼はいつも私のそばにいて、私をサポートしてくれました。 問題はありませんでした。 同性愛者の結婚について、「結婚は秘跡であり、私たちは秘跡を授けることはできないが、フランスで始まった『財産権の法的保護』を確保する可能性がある」という具体的なことについて話したこともあります。民法上の一致は、カップルでなくても、誰でもできます。 例えば、定年退職された女性も… 収入の多い人も、です。
自分を偉大な神学者だと思っているある人が、友人を介して教皇ベネディクトのところに行き、私について苦情を言いました。 ベネディクトは 4 人のトップレベルの枢機卿の神学者に電話をかけ、「この問題について説明してください」と頼み、それで話は終わりました。苦情を受けて時にベネディクトがどのように行動されたかを示す逸話です。 ベネディクトが、後任の教皇のしたことに腹を立てたという話は”電話のゲーム”です。 私はいくつかの決定を下すためにベネディクトに相談しました. そして彼は同意してくれました。
ベネディクトの死は、”製粉所に粉を加えたい人々”によって悪用されてきたと思います. そして、彼のような「善良な人、神の人、教会の聖なる父」を搾取する人々は非倫理的な人々であり、教会ではなく”政党”に属する人々です。このように 神学的見解を政治化する傾向は、至るところに見られます。
*「無関心のグローバル化」が司牧訪問先の選択基準