☩◎教皇連続講話「使徒的熱意について」④謙虚さをもって神が近くにおられることを説け

(2023.2.15 Vatican News   Devin Watkins)

 教皇フランシスコは15日、水曜恒例の一般謁見で、アフリカ二か国歴訪などで中断していた「使徒的熱意」についての連続講話を再開され、イエスが12人の弟子を選んですぐに福音宣教に送り出されたマタイ福音書の箇所(10章7‐16節)を取り上げ、弟子たちに命じられた言葉を考察された。

 まず教皇は、イエスが、12使徒を選ばれ、彼らがご自身と共におられ、彼らを宣教のために送り出せるようにされたことに注目。イエスの召命における「共にいること」と「外に出ていくこと」の二重性を指摘され、「キリスト教の宣教活動は、キリストとの出会いから始まり、外に向かうものです」と語られた。

 そして、「イエスを証しすることは、イエスを輝かせることを意味します。 私たちがイエスの光を受け取らなければ、私たちは消滅してしまいます。 私たちがイエスに仕えなければ、私たちは彼ではなく、自分自身を抱くことになり、すべてが無駄になります」と説かれ、「イエスが弟子たちを選んだ後、すぐに送り出されました。これは、宣教の経験が、キリスト教徒として育成されるために欠かすことのできないことだ、と言うことを示しているのです」と付け加えられた。

   以下は「バチカン放送」訳による講話の要旨

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 「(イエスは弟子たちに命じられた)行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒やし、死者を生き返らせ、既定の病を患っている人を清め、悪霊を追い出しなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れてはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。 […] 私があなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り込むようなものである」(マタイ福音書10章7-10、16節)

 「福音宣教の情熱:信者の使徒的熱意について」の講話を続けましょう。イエスを福音の告知のモデル、師として見つめた後、今日は最初の使徒たちに視点を転じたいと思います。

 福音書は、イエスが「十二人を任命し、使徒と名付けられた」こと、そして、それは「彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ」るためであったことを(マルコ福音書3章14節参照)伝えている。これは一見、矛盾することのように思われます。

 自分のそばに置くために召しながら、宣教のために送り出すからです。別の言葉で言うなら、「いる」のか、それとも「行く」のか、ということです。しかし、イエスにとって、弟子たちがご自分のそばに「いる」ことなしに、宣教に「行く」ことはありえず、逆に宣教に「行く」ことなしに、ご自分のそばに「いる」ことはありえませんでした。これはどういうことなのでしょうか。

 まず、イエスのそばに「いる」ことなくして、宣教に「行く」ことはできません。イエスは弟子たちを宣教に派遣する前にご自分のもとに「呼び寄せ」られた(マタイ福音書10章1節参照)と福音書は言います。

 すべてのキリスト教生活がそこから生まれるように、福音宣教は、主との出会いから始まります。「主を証しする」とは、主の光を輝かせることですが、主の光を受けることがなければ、私たちは消えたままであり、その光を輝かせることができません。イエスと親しい関係を築かないならば、私たちはイエスを伝えるのではなく、自分自身を伝えるだけになります。福音をもたらす者は、イエスと共にいる者だけなのです。

 同じように、弟子たちが宣教に「行く」ことなしに、イエスのそばに「いる」ことはありえません。実際、イエスに従うとは、内面的なことではない。宣教や奉仕がなくては、イエスとの関係は育たない。イエスは、弟子たちの準備が完全になることを待たずして、宣教に送り出している。それは宣教経験が育成の一部であることを示している。

 キリストは弟子たちを呼び寄せ、宣教に派遣する前に、彼らに宣教に行く際の心得を説いておられます。マタイ福音書10章の「宣教に関する説教」は、いわば宣教のための「憲章」とも言えるもの。この説教から、なぜ宣べ伝えるのか、何を告げるのか、いかに告げるのか、を読み取りたいと思います。

 なぜ「宣べ伝える」のでしょう。その動機は、イエスの「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ福音書10章8節)という言葉にあります。福音宣教は、私たちから始まるのではなく、私たちが無償で受けたものの素晴らしさーイエスと出会い、イエスを知り、愛され、救われたことーの発見から始まるのです。

 私たちはこれほど大きな恵みを自分のものだけにしておくことはできず、自分が受けた時と同じように、それを無償で広めたい、と感じます。贈り物を受けた私たちは、今度は、自分を他者への贈り物にするように、と求められるのです。

 では、何を告げるのか。イエスは、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」(同10章7節)と言われます。それは、一番に伝えるべきことは「神は近くにおられる」ということです。私たちはしばしば説教の中で人々に「何々」をするようにと求められますが、「神は私たちのそばにおられる」という最も大切なメッセージを忘れてはなりません。

 神の愛を受け入れることは最も難しいことです。それは、私たちが常に、自分を主役として中心に置きたがるからです。これに対し、福音の告知では神を一番に置かなければならないのです。

 最後に、いかに告げるのか。これについてイエスは多くのスペースを割いておられます。これは、証しにおいて、その方法やあり方が重要であることを意味しています。

 イエスは「それは、狼の中に羊を送り込むようなものである」(同10章16)と言われます。イエスは私たちに、狼と闘えるように、すなわち、議論し、闘い、身を守るように、とはおっしゃいません。

 私たちは、「数の多い、重要な、目立つ存在になれば、世間は自分たちに耳を傾け、尊重するようになる」と考えがちです。しかし、イエスは私たちを羊や子羊のように派遣され、私たちが柔和で無垢なもの、犠牲もいとわない者であることを願われます。そして、牧者である主は、ご自分の子羊を見分け、狼から守られます。羊の皮を被った狼は、仮面をはがされ、引き裂かれます。それは、聖ヨハネ・クリゾストモが「主は、狼ではなく、羊を牧される」と言ったとおりです。

 「いかに告げるか」について、イエスが、「宣教の旅に持って行くものではなく、持って行ってはならないもの」を挙げておられるのは、驚くべきことです。イエスは「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」(同10章9-10節)と言われました。それは、「物質的な安心に頼らず、世俗性を捨てて、世に出ていくように」との教えです。「いかに告げるか」。それはイエスについて話すより、イエスを示すことにあるのです。

 最後に、「共に行く」ということが大切である。主はすべての弟子たちを派遣されるが、誰も一人で行くことはありません。使徒的な教会は、その全体が宣教的であり、宣教の中にその一致を見出すのです。

 子羊のように柔和で善良で、世俗性を持たず、共に行くーここに宣教の鍵があります。イエスのこれらの招きを受け入れ、イエスの言葉が私たちの指針となりますように。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の翻訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

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2023年2月15日