アーカイブ
☩「WYDリスボン大会は『キリストとの出会い』を体験する機会となった」水曜恒例一般謁見再開
恒例の7月の”夏季休暇”を終えられた教皇フランシスコは9日、水曜一般謁見を開会され、「世界青年の日(WYD)」リスボン大会出席を主たる目的としたポルトガル訪問を振り返り、大会が若者たちにとって、「キリストに出会い、信仰を発見し、神の愛を体験する機会」となったことを強調された。
バチカンのパウロ6世ホールで行われた一般謁見で教皇は、 「新型コロナの世界的大感染後のリスボンでの大会は、誰もが神の贈り物だと感じました… 神が若者たちの心を動かし、歩ませ、イエスを探しに行こうとされたのです」とされ、「WYDは、教会を通じた生けるキリストとの出会い、信仰を成長させ、多くの人が神の呼びかけを見つける出会い、そして、しばしば、結婚、奉献生活、司祭職への呼びかけの機会を提供します。… 大会に参加した一人ひとりにとって、それは、恵みにより、神の民の一員として召されていることを発見し…すべての民に喜びの福音を宣べ伝えるために遣わされた喜びです」と語られた。
また教皇は、この時代、そして歴史を通じての聖母マリアの臨在、特に、ポルトガル訪問中に、ファティマで聖母に祈られた時のことを思い起こされ、 「マリアは、私たち皆の母です。彼女は私たちを決して待たせることがありません」とされ、御出現の現場では、病気の若者たちとともに、「神が世界の魂の病、特に高慢、嘘、敵意、暴力の病を癒してくださるように祈りました。私たちは、自分自身、そした欧州と世界の、マリアの御心、マリアの汚れなき御心への奉献を新たにしました。 世界各地で非常に多くの戦争が起きている中で、私は平和を祈りました」と述べられた。
続けて、大会に参加したウクライナの若者たちが、他の参加者たちとは全く異なる辛い体験を持って参加したことについても思い起こされ、「彼らも多くの若者と同様に、『キリストに会うため』に大会にやって来ました。彼らが大会に出ている間も、ウクライナでは(ロシアによって起された)戦いが続いています」と、ウクライナの悲惨な現状を思いやられた。その一方で、 「WYDは、『恐怖、孤立主義や武器』などがない世界が可能であることを、私たちに示す集まりでもありました」と指摘された。
謁見での説教の最後に、教皇は、聖母マリアが世界中の若者と、ポルトガルの国民を祝福してくださるように祈るとともに、WYD大会やご自身のポルトガル訪問に関わったすべての人に感謝を表明された。
教皇は、海外訪問として、ポルトガル訪問の後、今月末から9月初めにかけてモンゴルを歴代教皇として初めて訪問され、さらに9月下旬に移民・難民に関する地中海会議参加のため、フランスのマルセイユを訪れられる予定だ。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「聖職者の性的虐待は”疫病”、”ゼロ・トレランス”で真剣に対応必要」教皇、帰国途上の機中会見で(Crux)
(2023.8.6 Crux Senior Correspondent Elise Ann Allen)
ポルトガル訪問を終えた 教皇フランシスコは6日夕、空路ローマへ帰国途上の機内で、同行記者団と会見して、ポルトガルでの聖職者による数多くの性的虐待、若者の精神的な健康問題、自身の健康状態など、様々な質問に答えられ、女性の司祭叙階を認めず、LGBTQ+の人々の同性婚や秘跡を制限しているカトリック教会の姿勢については、「これは、教会の心の狭さの表れではありません」と言明された。そして、今回の真夏の過酷ともいえるポルトガル訪問のご自身の健康への影響について、「私の健康状態は良好です」と強調された。
*女性司祭や同性婚の禁止は、教会が閉じられていることを意味しない
会見の中で、「女性やLGBTQ+コミュニティのメンバーが教会のすべての秘跡を受けられないことがあるが、なぜ教会が平等な場になっていないのでしょう」との問いに、教皇は、「教会は誰にでも開かれていますが、教会の内部における活動を規制する法があります」とされ、 教会の法規によれば、そうしたグループは秘跡に与ることができないが、「だからと言って、教会が閉じられているわけではありません。教会で、皆がそれぞれの道を歩む中で神に出会います。教会は母であり、教会はそれぞれの人の道を導いてくれます。 ですから、私は『みんな来なさい。でもあなたはそこにいてください』と言うのが好きではありません。誰でも歓迎します」と語られた。
祈りや内面的、司牧的な対話の中で、一人ひとりが「成熟の道を探求し」ており、 病気の人も健康な人も、老いた人も若い人も、善い人も悪い人も、教会は歓迎し、人々が成熟の道を一歩ずつ歩むのに同行します。私たちにはそのような経験があります。教会は母であり、すべての人を受け入れるのです」と述べ、「私たちの中で、人生において道徳的な間違いを犯さなかった人がいるでしょうか? 誰もが…私たちはそれぞれ、自分自身の失敗を経験しています。 人生はそのようなものであり、母なる教会は、慈しみの心をもって、すべての人を待っているのです」と強調された。
女性の司祭叙階とLGBTQ+コミュニティの歓迎と包摂の問題は、カトリック教会にとって長い間ホットな話題となってきた。女性の叙階と同性カップルの祝福を支持する結論を出したドイツ教会会議のプロセスは、過去18カ月にわたってバチカンから批判を受け、ドイツ教会内部で緊張が続いている。
*ファティマの聖母巡礼聖堂で、聖母に捧げたロシアとウクライナを祈られたか
また別の記者は、「教皇が5日にファティマの聖母巡礼聖堂を訪問された時に、なぜウクライナ和平について祈られなかったのか」と質問した。
教皇は、ロシアによるウクライナ軍事侵攻が始まって一か月後の2022年3月25日に、バチカンの聖ペトロ大聖堂で、ロシアとウクライナの「マリアの汚れなき御心への奉献」をされており、ロシアの奉献こそ、ファティマに出現された聖母が牧童に託されたメッセージの中で願われていることと、考えれられていたからだ。
この質問に対して教皇は、「私は聖母の前で平和を祈りましたが、(その内容を)公けにせず、祈りました… 私たちは平和への祈りを続けなければなりません。 第一次世界大戦のとき、聖母は、平和を求めました、そして今回も私は平和を求め、祈りました」と答えられた。
*教皇ご自身の健康は、スピーチを一部読み飛ばしたのは
教皇の健康状態について「視力低下や、腹部手術の直後のポルトガル訪問の過酷なスケジュールの影響を心配する声がありますが」との問いには、「私の健康状態は良好です… 手術後、私は普通の生活を送っています」とされ、「先の手術の後、筋肉が治癒するのを確実にするために、2~3か月間は特別な湿布を貼る必要がありますが、私は大丈夫です」と語られた。
ポルトガル訪問中の5日の朝、慈善団体関係者たちのために用意した講話の原稿の最初の数段落を読み上げられた後、「照明のせいで読むのが難しい」と言われて、原稿を脇に置かれた。ファティマでの講話の原稿についてもそうされたが、教皇は昨年、白内障治療の手術を受けており、その影響を懸念する声が出ていた。
だが、教皇は、慈善団体関係者への講話については「前に光があったため、原稿の字が見えなかった」ので、スピーチの一部をカットしたが、 他の原稿の一部をカットして話したのは、「(聴衆との)コミュニケーションをとるためであり、冗談をはさむためです」と説明。 「特に長いスピーチの場合、メッセージの本質を大切にしながら、コミュニケーションをとることに努めたのです… また、若い人たちが、私の講話に神経を集中できる時間は長くないので、彼らに問いかけることもしました。その反応から、私の話が正しい方向に進んでいるかどうかも知ることができるからです」とさらた。
*説教のメッセージは短く、明確に―”拷問”にならぬよう
また、教皇は2013年に出された使徒的勧告「福音の喜び」で説教について詳しく述べられているが、そこでは、司祭たちに良い説教の仕方についても助言しておられる。教皇は 「説教は往々にして”拷問”です。教会は説教の在り方について”回心”する必要があります」、さらに「説教で伝えようとするメッセージは短く、明確にすべきです」と指摘された。
海外訪問の一つとして、地中海国際会議出席のために9月下旬にマルセイユを訪問することについて、教皇は、「マルセイユに行くのは、地中海が心配だから。移民・難民が地中海を船で渡る途中で起きていることは、犯罪です」と語られ、記者たちに、以前話したことのあるスペイン人の作家が書いた『エルマニト』という本を読むよう勧められた。この本は、著者が出会った移民たちの物語を書いており、彼らが旅の途中で耐えた恐怖を詳しく語っている。
*聖職者の性的虐待は”疫病”、司牧者たちは真剣に対応必要
教皇は、ポルトガルの聖職者による性的虐待問題に関し、数十年の間に約5000人の子供たちが被害に遭っていたことが、独立調査委員会の2月の報告書で明らかにされ、ポルトガルの教会が批判にさらされていることについても、答えられた。教皇はリスポンに到着された日の夜、虐待被害者と支援団体の代表たちと私的に面談されたが、「この会合で、私は”疫病”に触れることができました。途方もない”疫病”です。教会はこの疫病への対応に成熟する必要があります」と言明。また、「虐待を受けた方々と話すのは非常につらい経験でしたが、私がこれから何をすべきかを知る助けとなりました」と語られた。
世界の教会では、2019年に未成年者保護に関する世界司教協議会会長会議が専門家や被害者も参加して開かれるなど対応が進んでいるが、「深刻な問題なので、真剣に対応を話し合わねばなりません。『ゼロ・トレランス(例外なしの厳しい対応)』いう言葉がよく使われますが、司牧者たちは、真剣に受け止め、対応に取り組まねばなりません」と強調された。
また最近の性犯罪の特徴の一つとして、小児性愛者が子供たちを聖的に虐待している様子をオンラインでライブ配信することまでされていることを挙げ、「オンラインでの性的搾取の増加」を嘆かれるとともに、「 このような犯罪は無くさねばならない。『誰が撮影したのか』『どこでなされたのか』などを追及せねばなりません」と訴えられた。
*あらゆる虐待の阻止に教会は努める必要
そして、「性的虐待が虐待の唯一のものではなく、児童労働や女性の虐待など、他の形態も存在します」とされ、「教会は、あらゆる形態の虐待を阻止するために努めねばならない。世界中に存在する”虐待の文化”を、人類は改める必要があり、対応は順調に進んでいます」と語られた。
*若者の自殺願望は深刻な問題
「教皇は、若者の間に目立っている、うつ病や自殺願望などの精神的健康問題について、WYD期間中のスピーチでも扱っておられる。カトリック教会の伝統的な教えから、『自殺者は地獄に送られるのではないか』と心配する信徒もいるが」との質問に対しては、「今日、若者の自殺は深刻な問題ですが、マスコミは、あまり話題にしないようです」とされる一方、「WYD期間中に出会ったある若者から1年前に自ら命を絶つかどうか考えていたことを打ち明けられたが、そのように 多くの若者が心理的に苦しんでいます。多くの若者が人生で成功せねばならない、というプレッシャーを感じているにもかかわらず、学校を卒業できず、職に就くこともできず、大きな恥辱を感じて自殺してしまう。 それは問題です」と述べられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。Crux is dedicated to smart, wired and independent reporting on the Vatican and worldwide Catholic Church. That kind of reporting doesn’t come cheap, and we need your support. You can help Crux by giving a small amount monthly, or with a onetime gift. Please remember, Crux is a for-profit organization, so contributions are not tax-deductible.
*Vatican Newsによる教皇の機中会見での記者団との一問一答は以下の通り。(英文)
Q: Aura Maria Vistas Miguel – Rádio Renascença:
Your Holiness, first of all thank you for your visit to Portugal. Everyone already considers it a success. Everyone is very happy, thank you for coming. I met a high-ranking police officer who told me that he had never seen such an obedient and peaceful crowd. It was beautiful. My question is about Fatima: We know that you went there and prayed in silence in the little chapel. But there was this great expectation, in the very place where Our Lady had made a request to pray for the end of the war (and we are at war at the moment, unfortunately) and the expectation was that the Holy Father would publicly pray for peace; the eyes of the whole world were fixed on you yesterday morning in Fatima. Why did you not do it?
Pope Francis:
I prayed, I prayed. I prayed to Our Lady, and I prayed for peace. I did not advertise this, but I prayed. And we must continually repeat this prayer for peace.
She [Our Lady] made this request during the First World War. And this time I appealed to Our Lady and I prayed. I did not advertise.
Q: João Francisco Gomes – Observador:
Thank you very much Holy Father, I will speak in Spanish, I think it is easier for me. And if you could also answer in Spanish, it would be easier for Portuguese readers to understand. I would like to ask a question about the abuse of minors in the Church in Portugal. In February this year, a report published on the reality of abuse in Portugal said almost 5,000 children have been victims in the last decades. My question is: are you informed about this report that was handed over to the bishops? What do you think should happen with the bishops who knew about the cases of abuse and did not communicate them to the authorities? Thank you very much.
As you all know, in a very private setting, I received a group of people who had been abused. As I always do in these cases, we talked about this plague, this terrible scandal. In the Church, we followed more or less the same behaviour that is currently followed in families and neighbourhoods: we cover it up… We think that 42% of abuse takes place in families or neighbourhoods. We still have to mature and help discover these things. Since the Boston scandal, the Church has become aware that one could not go down random paths, but that one had to take the bull by the horns.
Two and a half years ago there was a meeting of the Presidents of the Bishops’ Conferences, where official statistics on abuse were also provided. And it is serious, the situation is very serious. In the Church there is a phrase we are using all the time: ‘zero tolerance, zero tolerance’. And the pastors who, in some way, have not taken responsibility have to take responsibility for this irresponsibility… The world of abuse is a very harsh one, and I urge everyone to be very open about it. Regarding the question of how the process is going in the Portuguese Church: it is going well. It is going well and with serenity; seriousness is being sought in cases of abuse. The numbers sometimes end up being exaggerated, a bit for the comments we always like to make, but the reality is that it is going well and this gives me a certain tranquillity.
I would like to address one point and I would like to ask you journalists to collaborate on this. Do you have a phone today? A phone. Well, on any of these phones, for a fee and with a password, you have access to child sexual abuse. This comes into our homes and child sexual abuse is filmed live. Where is it filmed? Who are the perpetrators? This is one of the most serious plagues, next to the whole world (…) but I want to emphasise this because sometimes you don’t realise that things are so radical. When you use a child to make a spectacle of abuse, it draws attention. Abuse is like ‘consuming’ the victim, isn’t it? Or worse, hurting them and leaving them alive.
Talking to people who have been abused is a very painful experience, which is also good for me, not because I like to hear it, but because it helps me to deal with this drama. That is, to your question I would say what I said: the process is going well, I am informed about how things are going. The news may have exaggerated the situation, but things are going well as far as that is concerned. But also, with that, I would say, in some way: Help out. Help so that all types of abuse can be resolved, sexual abuse, but it is not the only one.
There are also other types of abuse that cry out to heaven: the abuse of child labour, the abuse of child labour, and it is used; the abuse of women, no? Even today, in many countries, surgery is still done on little girls: their clitoris is removed, and that is today, and it is done with a razor, and goodbye… Cruelty… And the abuse of labour, that is within sexual abuse, which is serious, and all that: there is a culture of abuse that humanity must review and must undergo a conversion.
Q: Jean-Marie GUÉNOIS – Le Figaro
Holy Father, how are you? How is your health, how is your convalescence? You have not read, or have read only small parts of five speeches. It’s unprecedented in a journey: why? Have you had eye problems, tiredness? Are texts too long? How do you feel feel? And allow me a small question about France. You are coming to Marseille, but you have never visited France. The people don’t understand, maybe it’s too small or do you have something against France?
My health is fine. The stitches have been removed; I lead a normal life; I wear a band that I have to wear for two or three months until my muscles get stronger.
My sight. In that parish I cut off the speech because there was a light in front of me and I couldn’t read, the light was in my eyes and that’s why I cut it. Some, through Matteo, have asked why I shortened the homilies that you have. When I speak, I don’t do academic homilies, but I try to make it as clear as possible. When I speak I always seek communication. You have noticed that even in the academic homily I make some jokes, some laughs to control communication. With the young people the long speeches had the essential of the message, the essential of the message, and I selected according to how I felt the communication.
You noticed that I asked a few questions and immediately the feedback showed me where it was going, whether it was wrong or not.
Young people don’t have a long attention span. Think about it: if you make a clear speech with an idea, an image, an affection, they can follow you for eight minutes. Incidentally, in Evangeli Gaudium, my first Apostolic Exhortation, I wrote a long, long chapter on the homily. Here there is a parish priest (referring to Don Benito Giorgetta, parish priest of Termoli, ed:) he knows that homilies are sometimes a torture, torture, that they talk blah, blah, and people…
In some small towns, I don’t know about Termoli, men go out for a cigarette and come back. The Church must convert to this aspect of the homily: short, clear, with a clear message, and affectionate. That’s why I check how it goes with the young people and I make them speak. But I shortened it because… I need to leave the idea with young people.
Let’s move on to France. I went to Strasbourg, I will go to Marseilles, but not to France. There is a problem that concerns me, which is the Mediterranean. That’s why I’m going to France.
The exploitation of migrants is criminal. Not here in Europe, because it’s fine, we are more cultured, but in the concentration camps of North Africa… I recommend a book. There is a small booklet, a small one, written by a migrant who spent, I think, three years to come from Guinea to Spain because he was captured, tortured, enslaved. Migrants in those concentration camps in North (Africa): it’s terrible. At this moment – last week – the “Mediterranea Saving Humans” association was doing a job to rescue the migrants who were in the desert between Tunisia and Libya, because they had left them there to die. That book is called “Hermanito” – in Italian it has the subtitle “Fratellino” – but it can be read in two hours, it’s worth it. Read it and you will see the tragedy of the migrants before embarking.
The bishops of the Mediterranean will hold this meeting, even with some politicians, to reflect seriously on the tragedy of migrants. The Mediterranean is a cemetery, but it’s not the biggest cemetery. The largest cemetery is North Africa. This is terrible, read it. I go to Marseille for this. Last week, President Macron told me that it is his intention to come to Marseilles and I will stay a day and a half: I arrive in the afternoon and staying the following day.
(Matteo Bruni repeats the question: You have nothing against France?)
No. No, on this it’s a policy. I am visiting small European countries. The big countries, Spain, France, England, I’ll leave them for later, at the end. But as an option I started with Albania and so I did with other small ones. It’s nothing. France, two cities: Strasbourg and Marseille.
Q: Anita Hirschbeck – KNA
Holy Father, in Lisbon you told us that in the Church there is room for everyone, everyone, everyone. The Church is open to everyone, but at the same time not everyone has the same rights, opportunities, in the sense that, for example, women, homosexuals cannot receive all the sacraments. Holy Father how do you explain this inconsistency between an open Church and a Church not equal for all? Thank you.
You ask me a question that concerns two different points of view: the Church is open for everyone, then there is legislation that regulates life inside the Church. He who is inside follows the legislation. What you say is a simplification: “They cannot participate in the sacraments.” This does not mean that the Church is closed. Everyone meets God on their own way inside the Church, and the Church is mother and guides everyone on their own path. That’s why I don’t like to say: everyone comes, but you, this one, but the other one… Everyone, everyone in prayer, in inner dialogue, in pastoral dialogue, looks for the way forward.
That’s why I ask the question: Why not homosexuals? Everybody! And the Lord is clear: the sick, the healthy, old and young, ugly and beautiful… the good and the bad!
There is a kind of gaze that doesn’t understand this insertion of the Church as mother and thinks of it as a kind of “corporation” that you have to do this, or do it in this way and not another way, in order to get in to.
The ministeriality of the Church is another thing. [It is] the manner of carrying forward the flock. And in ministeriality, one of the important things is patience: accompanying people step by step on their way to maturity. Each one of us has this experience: that Mother Church has accompanied us and accompanies us in our own path of maturation.
I don’t like reduction. This is not ecclesial; it is gnostic. It is like a Gnostic heresy that is somewhat fashionable today. A certain Gnosticism that reduces ecclesial reality, and that doesn’t help. The Church is “mother” receiving everyone, and everyone makes their own way within the Church, without publicity, and this is very important. Thank you for the courage of asking this question. Thank you.
Matteo Bruni: The Pope would like to share a thought about WYD.
I would like to say one thing about how I experienced WYD. This is the fourth one I’ve experienced. The first one was in Rio de Janeiro which was monumental, Brazilian-style, beautiful! The second was in Krakow, the third in Panama; this is the fourth. This is the most numerous one. The hard, concrete data said there were more than a million. More. In fact, at the Vigil at night, yesterday, it was estimated to be one million four hundred or one million six hundred thousand people. These are the government figures. The number is impressive. Well prepared, eh! Of the ones I have seen, this is the best prepared.
The young people are a surprise. Young people are young, they act youthful, life is like that. But they are seeking to look forward. And they are the future. The idea is to accompany them. The problem is knowing how to accompany them. And that they shouldn’t detach themselves from their roots. That’s why I insist so much on dialogue between old and young, between grandparents with grandchildren. This dialogue is important, more important than the parent-child dialogue. With grandparents, because it is precisely there that you find the roots. Then young people: they are religious, they are looking for a non-hostile, non-artificial, non-legalistic faith, an encounter with Jesus Christ. And this is not easy.
They say, “But young people don’t always live life in accordance with morality….” Who among us has not made a moral mistake in our lives? Everyone has! With the commandments or with someone, each of us has our own downfalls in our own history. Life is like that. But the Lord is always waiting for us because He is merciful and [He is] Father, and mercy goes beyond everything.
For me the WYD was beautiful. Before I caught the plane, I was with the volunteers who were 25,000! [It was] a mystical experience, an engagement that was really beautiful, beautiful, beautiful. That’s what I wanted to say about Youth Day.
Q: Justin McLellan – Catholic News Service (CNS)
You spoke about World Youth Day. We have heard during these days testimonies of young people who have struggled with mental health, with depression. Have you ever struggled with this? And if someone decides to commit suicide, what would you say to the family members of this person who, given Catholic teachings on suicide, suffer in thinking this person has gone to hell?
Youth suicide is a major issue today, the numbers are major. The media does not often say so much or inform (about the issue). I have been – not (in the context of) confession, no – in dialogue with young people, taking up occasions for dialogue.
A good young man said to me: Can I ask you a question? What do you think about suicide? He did not speak our language, but I understood well and we started to talk about suicide. And finally he said to me: Thank you, because last year I was undecided whether to do it or not to do it.
So many young people are anxious and depressed but not only psychologically. Then in some countries that are very very demanding at the university, young people who do not succeed in getting a degree or finding a job, (and) commit suicide because they feel great shame. I’m not saying it’s an everyday issue but it’s a problem. A problem of our day. It’s something that happens.
Matteo Bruni:
Thank you, Your Holiness, for your answers.
Thank you for what you have done and remember (the book) “Hermanito” or “Little Brother,” the book on the migrant. Thank you.
This is a working translation and transcription. Words and expressions in parenthesis are provided for clarity.
【教皇ポルトガル訪問最終日】「大地が雨を求めるように、教会と世界はあなたがた若者を必要としている」WYD大会閉幕ミサ で

ポルトガル訪問最終日の6日朝、教皇フランシスコはリスボン市内のテージョ公園で、「世界青年の日(WYD)」大会の締めくくりのミサを、大会参加者たちと共に捧げられた。そして、説教の中で、若者たちに「輝き、耳を傾け、恐れない」ことを説かれた。
*「三つの動詞」を持ち帰ろう
「主の変容」の主日に当たるこの日のミサでは、福音朗読でマタイ17章のイエスの変容の箇所が読まれたが、教皇は、変容を目の当たりにしたペトロの言葉を引用され、「私たちが、ここ(このミサの会場)にいるのは素晴らしいことです!」と参加者たちに呼びかけて、説教を始められた。
そして、彼らに、「私たちは、”日常生活の谷間”に何を持って帰るのか」自問するように促され、福音の朗読箇所から引用する形で「輝く」「聴く」「恐れない」の三つの動詞を持ち帰ることを提案された。
*「輝く」
福音で読まれたイエスの変容の箇所で、イエスは、ゲツセマネとカルワリオで弟子たちが直面することになる辛い時に備えるために、ご自身の顔を太陽のように顔を輝かせ、衣服を光のように白くさせて、最も親しくしていた三人の弟子たちの前に現れた、と書かれている。
教皇は、「私たちも光を必要としています。私たちの人生を襲う多くの闇に立ち向かう希望となる、一筋の光が必要です。そして、 その光とは、イエスです。イエスは消えない光、夜の中でも輝く光だからです」とされ、「主の光で、いつも私たちの目を、心を、思いを照らし、人生で何かしたいという私たちの願望を照らしてくれるのは、イエスです」と強調。
「しかし、自分自身にスポットライトを当てても、私たちは明るくなるわけではありません。イエスを心から受け入れ、イエスのように愛することを学ぶとき、私たちは明るくなり、輝くのです。イエスのように愛すること-それが私たちを明るくし、愛の業を行うように導くのです」と説かれた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
【教皇ポルトガル訪問4日目】WYD大会参加の若者たちと夕の祈り「私たちの喜びは宣教にある、訓練を怠るな」

教皇フランシスコは5日、ポルトガル訪問4日目の最後に、リスボンのテージョ公園で「世界青年の日(WYD)」大会に参加した若者たちと夕の祈りをなさった。
祈りの中の説教で、教皇は「旅をして、歩いて、ここまで来てくれてありがとう」と若者たちに呼び掛けられ、「皆さんと同じように、聖母マリアも、いとこのエリザベトに会うために旅をしました。ルカ福音書に、マリアは急いで(エリゼべトのいる)山里に向かった、とあります。どうして急いだのでしょう」と問いかけられた。
そして「いとこが妊娠していることを知ったからですが、彼女自身も妊娠しています。誰にも頼まれなかったのに…義務ではありません。愛するから、出かけたのです。『愛する者は飛んで、走って、喜ぶ』(「キリストに倣う」Ⅲ・5)…マリアの喜びは2つです。「救い主を迎える」という天使のお告げ、そして、いとこが身ごもった、という知らせ、です。そしてこの喜びは、誰かのため、ではなく、何かがもたらされるからです」と説かれた。
さらに教皇は、「私たちの喜びは、宣教にあります。喜びは他の人にも届けねばなりません。そして、私たちも受け取ります。両親、祖父母、友人、司祭、修道者、カテキスタ、教師など、私たちの人生の光となった人々がいます。 今、私たちは一秒間の沈黙を持ち、人生において私たちに何かを与えてくれた、喜びの根源のような人たちのことを一人一人が思います。そして私たちもまた、他の人にとって喜びの根となることができます。 それはつかの間の喜び、瞬間的な喜びをもたらすことではありません。 それは根を生む喜びをもたらすことです」と語られ、「では、どうすれば私たちは喜びの根になれるのでしょうか? それは鍵をかけられた状態で保管されているのではなく、探求し、発見しなければなりません。 私たちは他者との対話の中でそれを発見し、そこで受け取った喜びの根源を与えなければなりません」とされた。
また、「私たちは時々、疲れます。 疲れたときに何が起こるかを考えてみましょう。何もする気がなくなり、やる気がなくなって、あきらめて、歩くのをやめて倒れます。 人生でつまずいたり、失敗したり、重大で重大な間違いを犯したりした人はもう終わったのだ、と思いますか… 山登りが好きなアルプスの人たちが良く歌う素敵な短い歌があります―『山を登る時に大切なのは、転ばないことじゃなく、転んだままにならないこと』です」と指摘。
「では、倒れた友がいたら、何をすべきでしょうか? その人を助け起こします。私たちにとって、 人を上から見下ろす唯一の機会は、彼が立ち上がれるように助ける時です。そうでないのに、他人を上から見下ろす人がいるのは 悲しいことですが」と述べられた。
また教皇は、「人生で、何かを達成するには、訓練が必要です。私たちは時々、歩く気がしない、努力する気がしない、勉強したくない、だから試験でカンニングをする… そして成功を収められないことがあります。 サッカーもそうですが、ボールをゴールに入れられるようになるには、たくさんのトレーニングをせねばなりません。また人生においては、いつも自分のしたいことができるとは限りませんが、大事なのは『自分の使命』を持っていることです… 転んだら、自分で起き上がるか、それができないなら他の人に助けてもらいましょう。 落ち込んではいけません。 そして、訓練です。人生の歩み方を教える(万能の)コースはありません。 それは学ぶこと、学ぶこと、です」と、若者たちに呼びかけ、説教を締めくくられた。
(バチカン報道局発表の教皇の説教原稿をもとにまとめました)
【教皇ポルトガル訪問4日目】「マリアはいつも私たちを歓迎し、急いで助けに来てくださる」ファティマの聖母巡礼聖堂で若い病者たちとロザリオの祈り
教皇フランシスコはポルトガル訪問4日目を迎えられた5日朝、滞在中のリスボンからヘリコプターでファティマに移動され、聖母巡礼聖堂の「ご出現の礼拝堂」で、病気の若者や受刑者と共にロザリオの祈りを捧げられ、説教の中で、「聖母マリアはいつも”急いで”私たちを助けに来られ、人生で進むべき道を示してくださいます」と強調された。
ファティマの聖母巡礼聖堂前の広場には、若者たちをはじめ約20万人の巡礼者が集まり、 教皇は彼らを祝福された後、ご出現の礼拝堂で聖母像の前で、約100人の若い病人や数名の受刑者たちと共に、ロザリオの祈りを捧げられた。
教皇は、数カ国語による祈りの後の説教で、「このご出現の礼拝堂は、人々を喜んで迎え入れる開かれた教会の、素晴らしいイメージを提供しています」とされたうえで、「教会には扉がないので、誰もが中に入ることができます。そして、母なる教会は、自分の子供たちにも、誰に対しても、開かれた広い心を持っています」と説かれた。
続いて、教皇は、マリアが受胎告知を受けた後、どのようにして「最初に巡礼を行ったか」に注意を向けられ、「聖書にあるように、 年老いた、いとこのエリザベトが妊娠していると知るやいなや、マリアは、急いで出かけました。そのように、マリアは問題が起きると、いつも駆けつけてくださいます」と指摘。さらに、 「私たちがマリアを呼ぶたびに、彼女は私たちのところに来てくださいます。私たちの母親なので、急いで私たちの近くに来ようとされるのです」と強調された。
また、マリアはイエスの生涯に同行され、イエスが復活された後も、聖霊を待つ弟子たちに同行し、聖霊降臨後の教会共同体に同行を続けられたが、「マリアは、決して皆の注目の中心にはおられない。私たち全員を歓迎しながらも、イエスに従い、イエスが求められることを行うようにと、私たちに告げられます―『主の言うとおりにしなさい』と」と語られ、 「ここ(ファチマ)に来るたびに、私たちはこのことを思い起す必要があります。マリアは特別な、なさり方でここに来られ、私たちにイエスを指し示され、多くの不信仰の心をイエスに開いてくださったのです」と説かれた。
そして、広場に集まった若者たち、巡礼者たちに、「マリアに眼差しを向け、彼女が私たちに何を指し示しておられるのか、イエスが私たちに何を求めておられるのか、と自問する」よう促され、説教を締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
【教皇ポルトガル訪問3日目】「イエスは私たちと共に旅を続けておられる」WYD大会参加者と十字架の道行き
(2023.8.4 Vatican News By Christopher Wells)
ポルトガル訪問3日目の4日夕、教皇フランシスコは、リスボンのエドゥアルド7世公園で、世界青年の日(WYD)大会最大の行事に一つ「十字架の道行き」を主宰され、若者たちに、「イエスは今日も、私たち共に歩み続け、私たち一人一人が愛と希望に満たされていること」を伝えられた。
「祈りと共に歩む」
十字架の道行きを始めるに当たっての言葉で、教皇は「今日、皆さんはイエスと共に歩むことになります」と語りかけられ、イエスがこの地上におられた時、「歩かれ、病人を癒され、貧しい人々の世話をされ、正義を行われました… 歩き、説教し、私たちに教えられた」ことを、彼らに思い起させられた。
そして、「私たちの心に最も深く刻まれているイエスが歩まれた道は、カルヴァリオへの道―十字架の道、です。 そして今日、皆さんは、祈りとともに歩みます – 私たちは(祈りながら歩みます)、私もです – 祈りと共に、皆さんは十字架の道を新たにしようとしているのです」と説かれた。
「御言葉は肉となった」
また教皇は、「イエスの道とは、私たちの間を歩むために、神ご自身から生み出されるもの。ヨハネ福音書の冒頭の言葉(「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった…」)を覚えていますか」と参加者たちに問いかけられ、 「そして、言葉は人となり、私たちの間を歩まれました。神は、私たちを愛されるから、それをなさるのです」と強調された。
次に教皇は、参加者たちに「自分の人生に悲しみをもたらす事柄」を思い浮かべ、同時に、「イエスは私たちと悲しまれ、私たちと共に涙を流してくださる。悲しみをもたらす暗闇の中で、私たちに寄り添ってくださる」ことを思い起すように、「心の沈黙の中で、イエスと悲しみを分かち合う」ように、勧められた。
「イエスは私たちの涙をぬぐいに来られる」
そして、しばらく沈黙された後、教皇は、「イエスはその優しさで、私たちの隠された涙をぬぐってくださいます。私たちの孤独や恐れを和らげ、慰めで満たしてくださるために、いつもそばにいてくださいます。それだけでなく、イエスは、私たちに『愛するというリスク』を負うよう促されながら、私たちの人生を通して、いつも寄り添ってくださるのです」と説かれた。
二度目の沈黙の後、教皇は若者たちに「自分たちの苦しみ、不安、惨めさ、そして『もう一度、自分の魂のほほ笑みを取り戻したい、という願い』について、改めて考えるように促され、「私たちの魂が再びほほ笑むように、『十字架に向かって歩み、十字架上で亡くなられたイエス」に再度注目されて、慰めの言葉で締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
【教皇ポルトガル訪問3日目】「行動で愛を実践することは素晴らしい」障害者・高齢者支援事業関係者に

(2023.8.4 バチカン放送)
教皇フランシスコは、ポルトガル訪問3日目の4日、リスボン市内のバスコ・ダ・ガマ庭園で、世界青年の日(WYD)大会に参加する若者たちのために「赦しの秘跡」をなさった後、郊外セラフィーナ地区にある聖ビンセンシオ・ア・パウロ小教区センターを訪れ、障害者や高齢者などの支援事業に携わる人々との出会いを持たれた。
同センターは、地域の高齢者や、若者、子どもたちに安らぎの場を与え、困窮した家庭を支え、必要とする人に医療ケアを提供している。子どもたちのコーラスに迎えられた教皇は、同センターをはじめ、他のいくつかの支援組織の代表らの話に耳を傾けられた。
関係者への言葉で教皇は、「行動で愛を実践することは素晴らしい」と讃えられ、「愛(カリタス)は、キリスト者の歩みの出発点であり、ゴールでもあります」とされて、愛について「共に生き、助け合い、愛し合うこと」、「自らの手を汚して働く、抽象的ではない、具体的な愛」「最も弱い立場の人たちに寄り添うこと」の3つを強調された。
そして、「WYD大会にもこうした視点、体験が必要。他者に寄り添い、貧しい人々を助けるために、自らの手を汚し、働くることで、若者たちは新しい人生を創造し続けていくでしょう」と語られた。
(編集「カトリック・あい」)
☩「 第三バチカン公会議よりも、第二バチカン公会議の 決定事項の完全実施が必要」教皇、スペイン誌のインタビューに
(2023.8.3 Vatican News By Lisa Zengarini)
教皇フランシスコは3日発行のスペインのカトリック誌「Vida Nueva」創刊65周年記念・教皇特別号のインタビューで、「教会は、第三バチカン公会議を計画する前に、(60年前に開かれた)第二バチカン公会議の決定事項を完全実施する必要がある」と語られた。
インタビューで教皇は、第3バチカン公会議の召集をめぐる関係者たちの憶測、10年にわたる教皇職の回顧、世界の状況に関する懸念、今後の海外訪問の予定などについて質問に答えられた。
まず、現在進んでいる”世界に開かれた教会改革”の起点となった第二バチカン公会議に次ぐ、 第三バチカン公会議の召集の可能性について、教皇は「まだ機が熟していません。第二バチカン公会議の決定事項がまだ完全に実施されていない今の時点では、その必要すらありません」と答えられた。
ロシアによる ウクライナ軍事侵攻が長期化し、罪のない子供や市民に多くの犠牲者が出ていることについて、教皇は、和平への道を模索する特使に任命したイタリアのズッピ枢機卿が、キエフ、モスクワ、ワシントンを訪問した後、中国の北京を訪問する予定であることを確認。 ロシア軍に拉致されたウクライナの子供たちを取り戻すバチカンの外交努力にも言及し、「ロシアとウクライナ当局間の橋渡し役となる常任代表を任命すること』を明らかにされた。
さらに、アラブ首長国連邦のアブダビで宗教指導者を集めた平和サミットを開く方向で最終調整していることも明らかにするとともに、コソボとスペインを訪問することを考えており、さらに母国アルゼンチン訪問も「課題にある」と述べられた。
また、これまで繰り返し語られている「教会改革に対する夢」についての質問には、「時として”無力感”を感じることがありますが、それは良いことです。なぜなら、それが、自分が神だと慢心するのを妨げるからです」としつつ、「 いずれにせよ、福音なしに教会を改革することはできません」とされ、観念に走ることを警告された。
そして、「世界中で13億人を超えるカトリック信者の司牧者」としての責任について、「数々の問題が、私の睡眠を奪ったことは一度もありません」と断言された。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
【教皇ポルトガル訪問2日目】「神はあなたがた一人ひとりを愛し、名前でお呼びになる」WYD参加者による教皇歓迎式典で
(2023.8.3 Vatican News By Christopher Wells)
ポルトガル訪問中の教皇フランシスコは3日夕、首都リスボンのエドゥアルド7世公園で世界青年の日(WYD)大会に参加中の若者たちによって行われた教皇歓迎式典に出席され、「神はすべての人を愛しており、私たち一人一人を名前で呼びかけておられること」を強調された。
歓迎式典には、数十万人の若者たちが集まり、21カ国から約50人が壇上で歓迎のパーフォマンスを、WYDの聖歌隊、オーケストラ、その他多数の楽器の演奏者たちが、歌や音楽、踊りなどで会場を盛り上げた。聴覚障害者のために、手話で歌の歌詞を振りつけるなどの工夫もされた。
教皇が会場に到着された後、若者たちのグループが、教皇が毎日受け取られる何千もの手紙の中からいくつかを朗読した。手紙では、世界中の若者が抱いている疑問や懸念が率直に語られ、家庭や国、地元の教会に対するアドバイスや祈りを教皇に求めるものも目立った。
歓迎式典は、ポルトガルの作曲家がこの日のために作ったオリジナル曲「Um Dia de Sol」(「晴れた日」)が伴奏される中を、大会に参加するすべての国の国旗の行列の後、式典のハイライトである、ルカ福音書のイエスが72人の弟子を送り出された箇所に焦点を当てた「御言葉の典礼」が行われた。
典礼の中の説教で、教皇は、その福音の箇所を振り返り、大会に参加している若者たちに歓迎の言葉を述べるとともに、「神はあなたがた若者たち一人一人を愛しており、あなたがたを名前で読んでおられます。この事実を、このWYD大会で認識するように、互いに助け合いましょう。大会の日々が、神の愛の呼びかけの活気に満ちた響きとなりますように」と祈られた。
そして、「キリスト教会は『呼ばれた者の共同体』であり、『最も優れた人々の共同体』ではありません。優れた人どころか、私たちは皆、罪人であり、『問題と限界を抱えたありのままの私たち』が呼ばれているのです」とされたうえで、「私たちは、イエスの兄弟姉妹、同じ御父の息子と娘の共同体です。このことを、皆さんにはっきり申し上げたいのです」と言明された。
さらに、「教会には、すべての人のためのスペースがあります。イエスは、福音書のいくつものたとえ話で、老いも若きも、健康な人も病気の人も、正しい人も罪人も、すべての人が呼ばれていることを明言されています。皆、皆、皆、です」と説かれ、式典に参加したすべての若者たちに、ご自分に続いて「皆、皆、皆!」と繰り返すように促された。
教皇は、神が若者たちを愛しておられる、と繰り返し強調され、「神に問いを投げかけるのに、決して飽きてしまわないように。問いを投げかけるのはいいことです。答えることよりも良い場合がよくあります。なぜなら、質問する人は、一か所に落ち着くことがない。落ち着かないことは、魂を麻痺させてしまう惰性の病に最もよく効く治療法だからです」と説かれた。
また、教皇は、「神が私たちを愛してくださっていることが、どれほど素晴らしいことなのか」を考えるように促され、 「神はありのままの私たちを、愛してくださっているのです。私たちが、社会が、こうありたい、と望んでいる姿ではありません。 私たちは、欠点や限界を抱えながらも、前を向いて人生を歩もうとする、そのありのままの姿で呼ばれ、愛されているのです」と改めて強調。
「これが私があなたに言いたかったことです。恐れることはありません。勇気を持って、私たちが、神に愛されていることを知って、前進してください…」と説教を締めくくられ、若者たちに「神は、私たちを愛してくださいます」と繰り返すよう呼び掛けられた。
教皇の説教に続き、聖ヨハネ・パウロ二世、聖ヨハネ・ボスコ、ピエール・ジョルジョ・フラッサティ神父、カルロス・アクティス神父などWYDの後援者たちと、聖アントニオなどポルトガルの聖人や福者たちを呼び起こす連祷がされ、主の祈りと教皇の閉幕の祝福で式典は終了した。
【教皇ポルトガル訪問2日目】「神のいない世界に未来はない」ポルトガル・カトリック大学の学生たちとの集いで
(編集「カトリック・あい」)
【教皇ポルトガル訪問初日】☩「数々のスキャンダルで傷ついた教会は、新たな歩みを求められている」教会指導者、司祭、信徒たちに
*使徒的熱意が冷め、単なる「聖なる者の管理者」になってはならない
そして、「私たちが落胆を感じ、使徒的熱意を冷ましてしまうと、単なる『聖なものの管理者』になってしまう危険があります」と注意され、「自分の人生を神に捧げた人が、”役人”―物事の単なる管理者になってしまうのは、とても悲しいことです… 気落ちすることがあっても、イエスの繰り返しの呼びかけを受ける場を作る『ある種の仕事』として、使命を果たすように訴えられた。
さらに、「私たちは確かに困難な時代に生きていますが、主は、教会に問いかけおられます-『あなたは船を降りて、幻滅に浸りたいですか、それとも私を中に入れ、新しさを受け入れてくれますか』 『私の言葉がもう一度、舵を取るようにしますか?』『 自分の過去を守りたいだけですか、それとも、もう一度、魚を捕る熱意を持って網を下ろしたいですか?』と。主は、福音を伝える『休むことのない』熱意を再び取り戻すように、私たちに求めておられるのです」と福音宣教への新たな熱意の必要性を繰り返され、「親愛なるポルトガルの友人たち」に海に漕ぎ出すことを求められた。
「それは、世界を征服するためではなく、福音の慰めに世界を歓喜させるためです。今は、立ち止まって諦めたり、舟を岸に引き上げたり、振り返ったりする時ではない。恐れから、現在から逃げ出したり、過去の形式や慣習に逃げ込んだり、してはなりません。 今こそ、福音宣教の海に果敢に乗り出す、神が与えた恵みの時なのです」と訴えられた。
*福音宣教の海に果敢に乗り出そう―聖職者主義は、教会の最も深刻な悪の一つ
そして、教皇は、「新たな漁のために福音宣教の海に果敢に乗り出す際の三つの要点」を示された。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
【教皇ポルトガル訪問初日】性的虐待被害者代表13人と非公式会見、訴えを熱心に聴かれる

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「欧州よ、希望の光を灯せ・『世界青年の日』大会が未来へ漕ぎ出す機会となるように」リスボンで各界代表、外交団に
ポルトガル訪問初日の2日昼、教皇フランシスコは首都リスボンのベレン文化センターで、ポルトガルの各界代表、外交団と会見された。
教皇はあいさつで、多様な民族と文化を擁する出会いの都市リスボンを訪れた喜びを表された教皇は、世界青年の日(WYD)大会が開かれるこの週、「リスボンはいっそう世界的な都市、ある意味で世界の首都になりました」と語られた。
また、「ポルトガルの多民族・多文化な性格、国際性は、より新しく広い水平線に向かって探索、航海しながら『世界に対し自らを開きたい』という情熱に、その根源を持っています」とされたうえで、「ヨーロッパ」という名称の語源に諸説ある中で、まさに「西方」を表す言葉にそれが由来している、という説を取り上げ、「その西方、ヨーロッパの中で。さらに最も西にあるリスボンは、ポルトガルが共通の言語を通じて、他の大陸ともつながっているように、いっそう大きな出会いに導く道を切り開いていくよう呼びかけているのです」と強調された。
教皇はさらに、「ヨーロッパが、東方と地中海地域、中東とアフリカとの橋を架ける者、調停者としての役割を果たすことを、世界は求めています」とされ、「今開かれている世界青年の日(WYD)リスボン大会が、この”古い大陸”にとって、改めて、世界へと大きく開く動力となること」を願われた。
そして、「歴史の大海の中で、今、嵐の中を航海している私たちは、平和に向かう勇気ある針路が欠如していることに、気が付いています。ヨーロッパよ、ウクライナにおける戦争と世界各地の流血の紛争を終結させるための平和のプロセスを、創造的な道のりを、示さないで、いったい、どこに行こうとしているのですか」と問いかけられ、「西洋の中心であるヨーロッパが創意を生かし、戦争の火種を消し、希望の光を灯すことを、私は夢見ています」と語られた。
また教皇は、現在の発展したはずの世界が、「人の命を守る」という最優先課題とは裏腹の、利益至上主義による「命の使い捨て」の危険を冒している現実を指摘、「ヨーロッパよ、西洋よ、高齢者を排除し、鉄条網を張り、海での悲劇や、空の揺りかごと共に、どこに向かって航海するのですか。生きづらさを感じる人々に対して、死への安易な方法や、甘いように見えて実際は海の水より苦い、安易な解決法など、性急で誤った手段を差し出しながら、どこに行こうとしているのですか」と再び問いかけられた。
「WYD大会に参加するために世界中から集まった若者たちは、一致と平和と兄弟愛への情熱を育みつつ、彼らの夢である善を実現するように、私たちを招いています。怒りを叫ぶ道ではなく、福音の希望を分かち合う道です」とされ、世界各地に蔓延する抗議と不満の空気、大衆迎合主義や陰謀論の土壌を感じる今日、WYD大会を、「共に構築する」ための機会、新しい創造の熱意を取り戻し、岸辺を離れ、「未来に漕ぎ出すための機会」となることを強く期待された。
(編集「カトリック・あい」)
☩「人類の飢えを癒す小麦の”破壊”は神に対する重大な冒涜」教皇、ウクライナ産穀物の輸出協定回復を訴える
