◎教皇連続講話「悪徳と美徳」⑲「世界はキリスト教徒の「希望」を必要としている」

(2024.5.8 Vatican News  Christopher Wells)

教皇フランシスコは8日の水曜恒例一般謁見で、「悪徳と美徳」をテーマとする連続講話をお続けになり、今回は、「希望」という神学的美徳について考察され、「私たちの最終的な運命の問題を考えるとき、その答えは『希望』です」と語られた。

人生の意味に関する問いに対する「否定的な答え」が悲しみにつながることを、教皇は認め、 「もし私たちが、人生の最後には何もない、と考えたら、それならなぜ歩かねばならないのか、と自問するようになり、絶望に陥るのです… 希望がなければ、多くの人は人生を諦め、他のすべての美徳も崩れ、灰になってしまう危険があります」と述べられた。

 

 

*「希望」が神学的美徳であるのは…

 

教皇は「しかし、キリスト教徒は『希望が自分自身の功績から来るものではない』ことを理解しています」とされ、 「もし、キリスト教徒が未来を信じるとしたら、それはキリストが死んで復活され、私たちに御霊を与えてくださったからです。『希望』が神学的美徳であるのは、まさに、希望が私たちから発せられるものではなく、神から直接与えられる賜物であるからなのです」と説かれた。

そして、聖パウロの有名な言葉-「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰は空しく、あなたは今もなお罪の中にいることになります」(コリントの信徒への手紙1.15章17節)を引用することで、信仰と不信仰を対比し、「 敗北も死も永遠ではない、という確信。 しかし、キリストの復活を信じないなら、使徒たちの説教さえも、すべてが空しいものになってしまいます」と語られた。

さらに教皇は、「神は慈悲深く、私たちの心よりも偉大である」ことを忘れたとき、「過去の幸福に対する”後ろ向きの郷愁”や罪に対する絶望など、希望に反する罪に陥る、と警告されたた。

 

 

*「希望」を求める世界には「忍耐」も必要

 

教皇はまた、「今日の世界は、このキリスト教の美徳を大いに必要としていますが、希望と密接に歩む美徳である『忍耐』もまた必要です。 忍耐強い人は『善を織る者』であり、常に固く、平和を希望しています」と指摘。「たとえ私たちの周りで多くの人が幻滅に負けても、希望に鼓舞され、忍耐強い人は最も暗い夜を乗り越えることができるのです」と強調された。

 

 

*「希望」は「心が若い人たち」の美徳

 

最後に教皇は、新約聖書にある、神殿で生まれたばかりのメシアに出会ったシメオンとアンナを思い起され、「『希望』は『(年齢ではなく)心が若い人たち』にとっての美徳です。私たちが人生の終わりに、シメオンとともに『主よ、今こそあなたはお言葉通り、この僕を安らかにさらせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民の前に備えられた救い…』(ルカ福音書2章29-31節)と宣言できるなら、大きな賜物になるでしょう」と語られた。

そして、信者たちに、「前進し、希望を持てるように恵みを求め、忍耐とともに希望を持ってください。いつも最後の出会いに目を向けてください。 主が常に私たちの近くにおられること、死が決して勝利しないことを、いつも確かめてください」と求められた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の翻訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

 

2024年5月8日

☩「5月はロザリオの月、聖地、ウクライナ、ミャンマーに平和が来るよう、聖母マリアに執り成しを願おう」

File photo of Pope Francis praying the RosaryFile photo of Pope Francis praying the Rosary  (AFP or licensors)
2024年5月8日

☩「主との友情を育み、皆で分かち合おう」教皇、 Regina Coeli の説教で

(2024.5.5 Vatican News  Thaddeus Jones)

 教皇フランシスコは5日、復活節第6主日のRegina Coeliの祈りに先立つ説教で、この日のミサで読まれた福音を取り上げ、イエスが使徒たちに語られた言葉-「私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない… 友と呼ぶ」(ヨハネ福音書15章15節)を引用して「主との友情を育み、それを分かち合うように」勧められた。また、先月末から続いているブラジルの洪水の被害者のために、そして理不尽な戦争に苦しめられ続けているウクライナや、パレスチナ、イスラエルで対話を通じて速やかに和平が実現するよう祈られた。

 説教で教皇は、この日読まれたヨハネ福音書で、イエスが使徒たちに「私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない… 友と呼ぶ」と言われたことを取り上げ、聖書に登場する モーセ、ダビデ王、預言者エリヤ、聖母マリアを思い起しながら、神が誰に宝を置いているかに注意を向け、さらに、「イエスがいかに私たちに対して、神と友情を結ぶことを望んでおられるか」を説明された。

*友情の素晴らしさ

 「友情の経験は、おそらく私たちが玩具や最も貴重な贈り物を友人と共有する幼少期に始まり、十代の頃に友人に打ち明けて忠誠を捧げ、そして大人になってお互いの重荷や思い出を分かち合うときに、人生の物語となる」と話された教皇は、「友人たちのことを思い起し、彼らについて主に感謝するように」と勧められた。

*友情は嵐を乗り越える

 そして、「本当の友情は、私たち共通の人間性を認識するものであり、計算や強制の結果ではなく、裏切りに直面しても崩れることはありません」とされ、箴言の「友はどのような時でも愛してくれる」(17章17節)を引用し、「真の友人は、間違いがあっても、見捨てず、正し、叱責するだけでなく、赦すのです」と説かれた。

*あらゆる期待を超えて

 また教皇は、今日の福音でイエスが、私たちをどれほど神の友であるかを語られ、「私たちを、あらゆる功績や期待を超えて、心から愛されており、手を差し伸べ、愛、恵み、御言葉を差し出し、ご自身にとって最も大切なもの、そのすべてを分かち合っている者とされていること」を、父から聞いて語っておられる、と指摘。「主は、私たちの手に御身を委ねてくださいます。それは、主が私たちを愛しておられ、私たちの善を望んでおられ、私たちがその恩恵にあずかれることを望んでおられるからです」と強調された。

 そのうえで教皇は、「私たちが自分の生活の中で、主をどのように見ているか」を考えるよう勧められ、私たちに対する神の無限の愛を受け入れ、それを自分の人生の中で兄弟姉妹、特に間違いを犯して赦しを必要としている人たちと分かち合うことができるように、私たちを御子との友情を育むのを助けてくださるように、聖母マリアに願われた。

*ユリウス暦の復活祭を祝う東方教会へ

 さらに、教皇は、ユリウス暦に従って復活祭を祝う正教会と東方カトリック教会に祝福の言葉を捧げ、「復活の主が、すべての地域社会を喜びと平和で満たし、逆境に直面している人々を慰めてくださいますように」と祈られた。

苦しみと世界平和への祈り

 Regina Coeliの祈りに続いて、教皇は、 大規模な洪水に見舞われたブラジル最南端のリオグランデ・ド・スル州に思いを向け、犠牲となった人々の魂の安らぎと、その家族や家を追われた人々に対する主の慰めを祈られた。

 さらに戦乱が続く世界の国や地域、特にパレスチナとイスラエル、そして、「苦悩のウクライナ」の平和のために祈り続けるよう、世界の人々に呼びかけられ、「戦争にノー、対話にはイエス!」と強調。和平が速やかに実現するように、対話が進み良い実を結ぶよう祈られた。。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年5月6日

☩「あらゆる償いは、自分の罪を認めることから始まる」-(性的虐待という)取り返しのつかない行為への対応を話し合う国際会議で

Pope Francis addressing participants in the International conference“Repairing the irreparable” in the Clementine HallPope Francis addressing participants in the International conference“Repairing the irreparable” in the Clementine Hall  (Vatican Media)

 

「教会が、虐待被害者を経済的、法的なレベルで支援するのは当然だが、精神面での償いも必要」と会議主催者

(2024.5.2 LaCroix  Gilles Donada

 教会における性的虐待がもたらした危機に対する適切な霊的対応とは何か?  これが、ローマで開かれた国際会議「修復不可能なものの修復」会議で提起された問題だ。

 この国際会議を企画・主催したフランスのエティエンヌ・カーン神父が会議の目的について、LaCroix に語った。神父は、「教会は、性的虐待がもたらした危機による霊的影響に対応し、必要な償いに取り組む必要がある。被害者を支援し、深く動揺したキリスト教共同体の間で信仰を回復する必要性を改めて確認することにある」と強調。

 「被害者の声に耳を傾け、心理的、経済的、法的なレベルで支援することは絶対に必要ですが、それだけでは十分ではない。被害者の中には、精神的にも傷を負っている人がおり、明らかに精神的な償いの側面を尊重するよう教会に求めている人もいます」と述べた。

 エティエンヌ・カーン神父はインタビューでラ・クロワのジル・ドナダに語り、会議の目的について語った。

 ローマで5月1日から5日まで開催された会議の参加者たちは、カトリック教会における性的虐待に対する適切な霊的対応と賠償について考えている。 教会における虐待の危機に対する適切な霊的対応とは何でしょうか? 会議で提起された質問です。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年5月5日

☩「あなたがたの努力と奉仕なしでは、教会は前に進めない」ー「シノドスのための小教区主任司祭」国際会議で

教皇フランシスコ 小教区主任司祭の国際ミーティング参加者と 2024年5月2日 バチカン・シノドスホール教皇フランシスコ、小教区主任司祭の国際ミーティング参加者とバチカン・シノドスホールで  (Vatican Media)

(2024.5.2 バチカン放送日本語版)

 教皇フランシスコは2日、バチカン主催の「シノドスのための小教区主任司祭」国際会議の参加者たちとお会いになった。

 会議は、教皇が主導して2021年から世界の小教区レベルから始められ、昨年10月の世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会・第1会期を迎えた”シノドスの道”の当面の仕上げとなる今年10月の同総会第2会期への準備の一環として開かれた。

 世界各国のカトリック教会から選ばれた小教区主任司祭300名が参加した会議は、4月29日から5月2日まで、ローマ郊外サクロファーノを会場に、傾聴と、祈り、識別の体験を共にし、最終日の2日、バチカンのシノドスホールで、教皇と会見した。

 教皇はこの席で、司祭たちと対話された後、書簡を発表され、その中でまず、「小教区の主任司祭たちの努力と奉仕なしには、教会は前に進むことができません」と念を押されたうえで、世界のあらゆる場所に福音の種を蒔く、司祭たちの日々の働きに深く感謝された。

 そして、「人口の多い大都会の郊外から、人口の少ない地方に至るまで、また欧州の都市中心部に見られるような高齢者の多い古い教会から、自然豊かで子どもたちの声が響く場所に至るまで、司祭たちが働く小教区の環境は様々ですが、皆さんは、ご自分の小教区が置かれた環境と人々の暮らし、その苦労や喜び、必要や豊かさを内側から知っておられる。シノダル(共働的)な教会は、共に歩むことを学ぶために、まさにあなたがたを必要としているのです」と強調。

 「小教区共同体のすべての信者たちが『福音を告げる』という唯一のミッションに参加しないなら、私たちは共に歩む宣教的な教会には決してなれません。小教区がシノダルで宣教的な性格を持たないなら、『教会』とは言えません」と言明された。

 

 

*「共に歩む宣教的教会の築き手」となるための三つの助言

 

 そのうえで、教皇はこの書簡で、小教区の主任司祭たちが「共に歩む宣教的教会の築き手」となるために、司祭生活と司牧活動に霊感を与える三つの助言をされた。

 一つ目は、「小教区の信者一人ひとりに与えられた様々な形の固有のカリスマを見出し、励まし、活かすこと」。それは、「人間的な現実世界を福音宣教する上で不可欠」とされた。

 二つ目は、「共同体的な識別の技術を習得し実践すること」。特に、現在歩んでいる”シノドスの道”で、そしてシノドス総会・第1会期でも、大いに役立った「聖霊における会話」を活かすよう促された。

 そして、最後に、「司祭間の、あるいは自分たちの司教との分かち合いと兄弟愛に、すべての基礎を据えること」。「何よりも自分たちが子となり、兄弟とならなければ、人々の真の父となることができず、司祭たちや司教との間に交わりや分かち合いがなければ、自分たちに託された共同体でそれを生み出すことができません」と説かれた。

 教皇は、国際会議「シノドスのための教区司祭」に参加した人々を、まず彼ら自身の間で、そして帰国後は仲間の教区司祭たちとともにシノドリティの宣教師となるよう招待した。 教区評議会などの聖体拝領の構造だけでなく、他の多くの分野でも同様に多くの良い実が結ばれている」と氏は語った。

 

 最後に教皇は、この会議に参加した主任司祭たちに、まず自分自身が、そして、それぞれの国に戻って、仲間の教区司祭たちとともに、「シノダルな宣教師」となり、小教区にとどまらず、多くの場でよい実が結ばれるように努めることを求められ、また、世界の司教はじめ教会指導者たちに、今回の会議にとどまらず、これからも小教区の司祭たちの声に耳を傾け続けることを強く求められた。

(編集「カトリック・あい」)

2024年5月3日

◎教皇連続講話「悪徳と美徳」⑱「信仰」はキリスト教徒の人生で最初の賜物

(2024.5.1  Vatican News  Christopher Wells)

   教皇フランシスコは1日の水曜恒例一般謁見で、「悪徳と美徳」をテーマにして連続講話を続けられ、今回は「theological virtues=対神徳(神学的な徳目)の最初のものである信仰」、人間が自由に神に身を捧げる行為である「信仰」について語られた。

 講話で教皇はまず、「3つの対神徳がなければ、私たちは暗闇でも見える目を持たず、愛されていなくても愛する心も持たず、あらゆる希望に立ち向かう希望も持たないだでしょう」と述べたうえで、アブラハムの例を取り上げ、「アブラハムは、神の命令により故郷を離れ、新天地へ向かい、神への信頼ゆえに息子イサクを喜んで犠牲にしようとしました」とされた。

 そして次に、モーセも信仰の人であり、「しっかりと立って主を信頼し、しばしば信仰を欠いた人々を擁護し続けました」と語られ、さらに、聖母マリアを取り上げて、「マリアは、天使のお告げに『私は主のはしためです』と謙虚に答え、神への信頼に心が満たされて、歩むべき道も、危険も知らずに旅を始めたのです」と語られた。

 また教皇は、「キリスト教徒を形成するのは、信仰です… キリスト教徒にとって重要なのは、(キリスト教の)文化を受け入れることではなく、神との関係を築くことです」と語られた。

 さらに、イエスがガリラヤ湖の嵐を静めたという福音書の記述を思い起こしながら、その時に弟子たちが味わった恐怖を強調され、「信仰の敵は理性や知性ではなく、恐怖です」と指摘。

 これが、「信仰こそ、キリスト教徒が人生で最初に歓迎すべき贈り物であり、子供たちが洗礼を受けるときに、親たちが、彼らのために求める贈り物である理由です」と述べられ、「親たちは、子供たちのために望んでいた贈り物を受け取ったことに気づき、『子供たちは、たとえ人生で試練に遭っても、恐怖に溺れることはない』ことを理解するのです」と語られた。

 講話の最後に教皇は、「誰もが信仰を持っているわけではなく、キリスト教徒であっても信仰が不足している場合があること」を認めたうえで、「信仰は、最も幸せな賜物であり、私たちが、うらやむことを許される唯一の美徳。それは、信仰が、私たちの中に恵みを引き起こし、神の神秘に心を開くからです」と説かれ、「ですから、私たちも弟子たちと同じように、主に向かって繰り返し、このように願いましょう―『主よ、私たちの信仰を増してください!』(ルカ福音書17章5節)」と信者たちに促された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2024年5月1日

☩「兵器産業は死から利益を得ている」と教皇が強く批判

A woman walks amongst the rubble in Rafah, PalestineA woman walks amongst the rubble in Rafah, Palestine  (AFP or licensors

(2024.5.1 Vatican News   Francesca Merlo)

教皇フランシスコは「聖母マリアの月」の初日、労働者聖ヨセフの祝日である1日の正午の祈りで、世界中の戦争で犠牲になっている人々に思いを寄せ、ウクライナ、パレスチナ、イスラエル、ミャンマーの犠牲者のために祈り、「戦争で最も利益をもたらす投資先は、兵器産業に関連したものになっている」と強く批判された。

特に教皇は、「現在、とても苦しんでいる」ウクライナのために、またパレスチナとイスラエルに住むすべての人々のために祈るよう求められ、ミャンマーのロヒンギャ難民にも思いを寄せられて、「平和を求めましょう。これらの人々と全世界に真の平和を求めましょう」と呼びかけられた。

そして最後に、残念なことに「今日、最も多くの収入を生み出す投資先は兵器工場です」と出席者全員に改めて注意を喚起され、「 死から利益を得ることは、ひどいことだ」とは繰り返された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年5月1日

☩「ベネチアは、友愛と”共通の家”への配慮のしるしとなることが求められている」聖マルコ広場での1万人ミサで

Pope Francis delivers his homily at Mass in St. Mark's SquarePope Francis delivers his homily at Mass in St. Mark’s Square  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

(2024.4.28  Vatican News  Linda Bordoni)

 ベネチア訪問中の教皇フランシスコは28日午前11時から、聖マルコ広場に参集した約1万500人の信者と共にミサを捧げられ、説教で「(主の賜物の)素晴らしさは、すべての人が手に入れられるものでなければなりません」とされ、出会い、包摂、そして私たちの”共通の家”、地球への配慮を呼び掛けられた。

 説教で教皇はまず、「ベネチアは、最後の人から始めて全て人が利用できる素晴らしさのしるし、友愛と私たちの”共通の家”への配慮のしるしとなるよう求められています」と語られ、「私たちは、キリストに結ばれ続けることによってのみ、福音の果実を私たちの日々の暮らしにもたらすことができます。その果実とは、 私たちの環境と人類の遺産を守るために慎重に選択された正義と平和の果実、連帯と相互配慮の果実です」と説かれた。

 そして、「私たちは、キリスト教徒の共同体、近隣の地域、都市が他者を心から迎え、受け入れ、もてなす場になるように努める必要があります」と付け加えられた。

 また教皇は、ミサで読まれたヨハネ福音書(15章1-8節)でイエスが、ご自身をぶどうの木、弟子たちをその枝だ、とされ、「あなたがたが私に繋がっており、私の言葉があなたがたの内にいつもあるなら、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結ぶ」と語っておられることを取り上げ、「主との繋がりを決して断ち切らないように… ぶどう畑が良い実を結ぶために熱心な手入れが必要であるのと同じように、私たちの人生も神の愛の樹液によって養われて実りあるものとなるのです」と強調された。

*イエスと繋がることで、私たちは自由になる

 教皇はさらに、ワイン生産に関わるベネチアの物理的および歴史的な活動は「島々や街の路地にある庭にあるたくさんのぶどう畑」を思い起こされ、 「ぶどうの木と枝のたとえ話のメッセージを理解するのは難しいことではない。イエスへの信仰、イエスとの絆は、私たちの自由な活動を阻害するものではありません。それどころか、私たちは、神の愛の樹液を受け取ることができ、私たちの喜びを倍増させ、熟練したワイン醸造業者のように私たちの世話をし、たとえ私たちの生活の土壌が乾いても芽が出るようにしてくれます」と語られた。

 そして、このことは、「世界で最も美しい場所の一つとして、独特の景観を持つ、水上に築かれたこの都市を思い浮かべながら考えることもできます… ベネチアは、そこにある海と一体です。 自然環境への配慮と保護がなければ、存在しなくなる可能性すらあります。このようなベネチアと同じように、私たちの人生も、神の愛の泉に永遠に浸かっているのです」と教皇は述べた。

*行動するの中で成長する

 また教皇は、今回のベネチア訪問のテーマ「キリストとの一致を保つ」に言及され、「これは、キリストとの繋がりで成長し、キリストと対話し、神の言葉を受け入れ、神の王国へのキリストの道を歩むことを意味します」と説明され、「それは私たちに継続的な成長、関与、そして行動を求めます。『 主のうちに留まる』ということは、弟子としての旅に出ることであり、そこで私たちは主の教えを受け入れ、主の愛を体現し、地域社会で正義、平和、連帯の実を結ぶのです」と強調。

 そのうえで、ベネチアの独特の素晴らしさを守り、育てるために、教皇は、ベネチアの信者たちに緊急の行動を提起され、「 気候変動や環境悪化から社会の分断や文化の浸食に至るまで、ベネチアが直面する多くの課題」の解決に向けて、「環境と人類の遺産を保存するための慎重な選択」を求められて、説教を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年4月29日

☩「スマホをやめて、他の人たちに注意を向けよう」ベネチアでの若者たちとの集いで

Pope Francis speaks to young people in Venice

(2024.4.28 Vatican News  Devin Watkins)

    教皇フランシスコは28日朝、ベネチアのサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会(通称:サルーテ聖堂)前の広場で若者たちとの集いを持たれた。

 ベネチアで最初の訪問先となったジュデッカ島から船で広場に入られた教皇はあいさつで、「私たちは皆、神の愛される子供たちという偉大な賜物を受けており、神の喜びを他の人たちと分かち合うよう招かれています。孤独や誤解について不平を言うのではなく、どうすれば他の人を助けることができるかを考え、自分自身を他の人への贈り物にするように」と集まった約1500人の若者たちに呼び掛けられた。

*受胎告知を受けて聖母マリアがとった行動は「立ち上がって」「行く」

 あいさつで教皇は、「私たちが今日ここに集まったのは、主にあって私たちの美しさを再発見し、『若者を愛し、常に私たちを驚かせてくださる若々しい神』であるイエスの御名において喜ぶためです」とされたうえで、聖母マリアが神の母になると聞かされてすぐにとった二つの行動、「立ち上がって」「行った」(ルカ福音書1章39節参照)を取り上げ、「立ち上がってください、私たちは天国のために作られているのですから。 悲しみから立ち上がり、視線を上に上げてください。 ソファに座るのではなく、立ち上がって自分の人生の前に立ってください」と促された。

 そして、「立ち上がる」について、「毎朝、起きて、私たち一人ひとりが最初にすべきことは、小さな祈りを唱え、人生の賜物を神に感謝することです―神よ、私を自分の人生に夢中にさせてください。あなたは私の人生そのものです、と」と語られた。

 また教皇は、若者たちが世界を灰色に変える「抑圧的な惰性」と戦わなければならないことを認めたうえで、「主に私たちの手を取っていただけますように。主はご自分を信頼する人たちを決して失望させず、常に心を高めて赦してくださるからです」とされ、「私たちがつまずいたり間違いを犯したりしても、神は、私たちを『罰すべき悪人』としてではなく、『立ち上がらせるべき子供』と見ておられる。神は父として、私たちを迎えに来てくださるのです」と説かれた。

*スマホではなく他の人たちを見、テレビを消して福音書を開こう

 教皇はさらに、「私たちが眠りや罪から立ち上がった後は、忍耐の美徳によってイエスのうちに留まる必要があります。キリスト教徒は、一時的な感情や一時的な満足感に頼って生きるのではなく、ミサで共同体の中で祈ることによって、信仰と愛において共に耐え忍ぶよう求められています」とされた。

 そして、「あなたはこう言うかもしれません―『私の周りでは、皆が自分の携帯電話を持ち、ソーシャルメディアやビデオゲームに釘付けになっています』と。それでも、恐れることなく、流れに逆らわねばなりません。人生を自分の手に取り、関わってください。 テレビを消して福音書を開いてください。 携帯電話をやめて、人々と出会うようにして!」と強く求められた。

 さらに「ベネチアの運河を行き来するゴンドラのように、あなたがた若者は神の助けに任せ、流れに逆らって漕ぐべきです…。たとえその道が困難であっても、忍耐は報酬をもたらします」と説かれた。

*私たちは他の人たちへの贈り物だ

 次に教皇は、マリアの行動を表す2番目の動詞「行く」に目を向けられ、「『立ち上がる』ことが『自分自身を贈り物として喜んで受け入れる』ことなら、『行く』ことは『自分自身を贈り物にする』ことを意味します」とされ、 「もし人生が贈り物だとしたら、私は他人のために自分を捧げて生きるよう求められている、と言えます」と述べられた。

 続いて、教皇は、若者たちに、ご自分の創造に参加するように、という神の呼びかけを受け入れるよう求められ、「主の創造は、私たち自身が美の創造者となり、これまで存在しなかったものを創造するよう促しています… 人生は管理されることではなく、与えられることを求められます。 私たちは魂を麻痺させるソーシャルメディアの催眠術のような世界から抜け出さなければなりません」と強調された。

*人生の街路を福音で彩ろう

 

あいさつの最後に、教皇は若者たちに対し、心からの簡単な祈りを作り、「報われない人への愛のしぐさ」を捧げるよう促され、「神に心を開き、神に感謝し、自分がいただいた素晴らしさを受け入れてください。 自分の人生を好きになってください」とされたうえで、こう締めくくられた― 「では、行きましょう! 外に出て、他の人たちと一緒に歩きましょう。 孤独な人を探し、あなたの創造力で世界を彩り、福音で街路を彩ってください。立ち上がって、行きなさい!」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2024年4月29日

☩教皇・ベネチア訪問ー「今こそ、恵みの時、今こそ救いの日、今から再出発しよう」-ジュデッカ島の女子刑務所で

 教皇フランシスコは28日朝からイタリア北部ベネチアを司牧訪問された。

 今回の訪問は、「第60回ベネチア・ビエンナーレ国際美術展」のバチカン館を訪れ、会場のジュデッカ島の女子刑務所で受刑者やアーティストたちと集いを持つとともに、若者たちとの集いやミサを通して、ベネト地域の教会を信仰面から励ますことを目的としている。

 訪問の最初にジュデッカ島の女子刑務所の受刑者たちとお会いになり、参加した受刑者をはじめ刑務官、ボランティアに対して、愛情を込めた挨拶をおくられ、「今回のベネチア訪問でまず初めにこちらを訪れたのは、私の心の中で皆さんの存在が特別な位置を占めているからです」と強調。この出会いが、「神の恵みのもとに、互いに時間と祈りと兄弟的な愛情を与え合う出会いの時となること」を希望された。

 さらに、この刑務所が、「過密な収容状況や、設備や予算の不足、暴力の発生など、多くの苦しみに満ちた厳しい現実を抱える一方で、相互の尊重と、それぞれの才能や能力を育てる配慮を通して心身の再生を可能にする場所でもあります」と指摘。この刑務所を会場にして行われ、受刑者たちも関わっている美術展のように、「自分や他者の思いがけない素晴らしさを再発見することで、刑務所生活を、勇気を持って自己を見直し、未来の計画を立て、忍耐強く再出発への基礎を一緒に築くきっかけとすることができます」と励まされた。

 また、職員や刑務官たちに「そうするためにも、刑務所のシステムは、受刑者たちに、人間的・精神的・文化的・職業的な成長の機会を提供する必要があります」と希望され、「尊厳を閉じ込めるのではなく、新しい可能性を与える」ことの重要性を説かれた。

 あいさつの最後に教皇は、「私たちの誰もが、赦され、癒されるべき過ちを持ち、誰もが、癒しをもたらす癒された者に、赦しをもたらす赦された者に、再生をもたらす再生された者になることができるのです」と述べられ、「今日、未来への信頼を、皆で共に新たにしましょう。『今こそ、恵みの時、今こそ救いの日』(コリントの信徒への手紙2・6章2節)と声をあげながら、一生を通して、日々、今から再出発しましょう」と呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

 

2024年4月28日

◎教皇連続講話「悪徳と美徳」⑰ 永遠の命にふさわしい「信仰」と「希望」と「愛徳」を生きよう

教皇フランシスコ 2024年4月24日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場教皇フランシスコ 2024年4月24日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

 

(2024.4.24 Vatican News  Deborah Castellano Lubov)

 教皇フランシスコは24日、水曜恒例の一般謁見で、「悪徳と美徳」の連続講話を続けられ、これまでの「cardinal virtues =人間的徳(基本的な徳目)」から「theological virtues=対神徳(神学的な徳目)」に考察を移され、「信仰、希望、そして愛徳が、キリストに従い、共に聖性を目指す私たちの旅を導き、その途上で、たとえ倒れても立ち直るのを助けてくれること」を強調された。

 バチカン放送(日本語課)による講話の要旨は次の通り。

**********

 これまでの数週間、私たちは、賢明、正義、勇気、節制という、「人間的徳」について考えてきました。何度か強調したように、この4つの徳はキリスト教よりも昔の、古代の叡智に属していまする。キリスト以前から、「正義」は市民の義務として、「賢明」は行動の基準として、「勇気」は善を目指す生活の本質的要素として、「節制」は過剰にとらわれないための尺度として、奨励されてきました。キリスト教はこの人類の遺産に取って代わるのではなく、それに焦点を当て、価値づけ、純粋化、補完したものとしてきたのです。

 あらゆる人の心には、「善」を求める力が備わっています。それを受ける者がはっきりと善悪を区別し、悪を退け、善に従う力を得ることで、完全な自己実現ができるよう、聖霊から与えられました。

 しかし、すべての人がたどるべく招かれた、命の充満に向けた歩みの中で、キリスト者はイエス・キリストの霊の特別な助けをいただいています。それは、しばしば新約聖書で言及される、他の3つの徳の賜物を通して実現されるものです。キリスト者の生活を特徴づけるこれらの基本的態度とは、「信仰」「希望」「愛」です。キリスト教の著作家たちは、それを「対神徳)」と呼ぶようになりました。「人間的徳」が善き生活の要(かなめ)を構成するように、「対神徳」は、神との関係の中で受け取り、生きるべきものを表しています。

 『カトリック教会のカテキズム』は、「対神徳」の働きを次のように定義しています―「対神徳はキリスト者の倫理的生活の土台であり、源であり、これを特徴づけるものである。あらゆる倫理徳に生気を与え、活気づける。神の子供としてふるまい、永遠の命いのちに値する行為をすることができるように、信者の心に神から注がれたものである。それは、人間の諸能力のうちに聖霊が共におり、働いておられる、ということの保証である」(1813項)。

 「人間的徳」では、英雄的な人々が善を生み出す時、大抵一人の孤立した行いになりがちであることに対し、「対神徳」の偉大な恵みは、聖霊を通して体験されるものです。キリスト者は決して独りではありません。善は、個人の膨大な努力によってではなく、謙遜な弟子として師イエスに従って歩むことによって実現されるのです。「対神徳」は自己完結に対する偉大な薬です。道徳的に非の打ち所がないある種の人たちが、他者の目には、うぬぼれた尊大な人に見える危険がいったいどれだけあることでしょうか。

 福音書は、こうした危険を前に、私たちに注意を促している。イエスは弟子たちにこう教えられました。「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『私たちは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(ルカ福音書17章10節)。

 「高慢」は猛毒です。ただ一滴で善に満ちた人生全体を破壊してしまいます。ある人が山のような善業を果たし、人から認められ、称賛を集めたところで、それを自己の称賛のためにしたとすれば、これでも有徳の人と言えるでしょうか。

  善を行うには目的だけでなく、方法も重要である。善には大いなる控え目さと思いやりが必要です。善は時に自分という嵩張る存在を脱ぎ捨てることを要求します。人生のあらゆる行為を自分のためだけにするとしたら、その動機づけは本当に重要でしょうか。

 これらのしばしば苦しい状況を正すために、「対神徳」は大きな助けになります。特に過ちを犯した時に役立ちます。毎日徳を実践する人でさえも、過ちに陥ることがあるからです。必ずしも常に知性が的確に働き、意志が堅固で、熱情が抑えられ、勇気が恐れに勝つとは限りません。しかし、心を聖霊に開くなら、聖霊は私たちの内に「対神徳」を息づかせるでしょう。そうするなら、信頼を失った時、神は私たちを再び信仰に開かせ、意気消沈した時、私たちを新たな希望に目覚めさせ、心が頑なな時、神はご自身の愛によってそれを和らげてくださるに違いありません。

(編集「カトリック・あい」)

2024年4月25日

☩「私たちは”崩れかけている共通の家”を直し、守るよう召されている」EarthDayにメッセージ

ドローンが捉えた自然保護地区での森林破壊ドローンが捉えた自然保護地区での森林破壊 

(2024.4.22 バチカン放送)

 22日の地球環境について考える「EarthDay(地球の日)」に当たって、教皇フランシスコがX(旧Twitter)を通して、「私たちが共に暮らす家=地球」を危機から救うために、次のようなメッセージを投稿された。

 “Our generation has bequeathed many riches, but we have failed to protect the planet and we are not safeguarding peace. We are called to become artisans and caretakers of our common home, the Earth which is “falling into ruin.” #EarthDay

私たちの世代は多くの豊かさを遺産として残しました。しかし、私たちは地球を保護することができず、また平和を守ることもできていません。私たちは地球という共に暮らす家を、「崩れかけている」その家を、建て直し、しっかりと管理する者となるように召されているのです。#EarthDay)

 教皇2015年に、エコロジー的回心をテーマとした回勅「ラウダート・シ」を出され、2023年には、同回勅を補完する使徒的勧告「ラウダーテ・デウム」を発表するなど、これまで多くの機会を通し環境問題への提言をされいる。

(編集「カトリック・あい」)

2024年4月23日

☩「良い羊飼いイエスは、両手を広げて私たちを待っていてくださる」21日Regina Coeliの説教で

(2024.4.21 Vatican News  Thaddeus Jones)

     21日、「良い羊飼い主日」の正午、Regina Coeliの祈りに先立つ説教で、教皇フランシスコは「イエスが私たちを限りなく愛され、私たちのために命を捧げてくださっていること」を思い起され、「私たちの牧者の愛の腕によって歓迎され、高められるように」と願われた。

 説教で教皇はこの日読まれた福音(ヨハネ10章11-18節)を取り上げ、この箇所で、主が「(良い羊飼いである)私は羊のために命を捨てる」と三度繰り返して述べ、「私たち一人ひとりを限りなく愛し、私たちのために命を犠牲にされたこと」を強調された。

 教皇は、「キリストの時代の羊飼いは、1日に数時間だけではなく、昼も夜も羊の世話をする必要がありました。良い羊飼いは自分の羊一頭一頭のことを知っており、羊たちに気を配り、迷子になった場合は探し、羊たちと共に生きることで安全を確保し、必要を満たしました」とされ、「イエスは、私たち群れの命を自分のものとし、一人ひとりの名前を知っておられます。私たちが迷ったときは見つかるまで探してくださり、そればかりか、私たちのために命を犠牲にし、復活を通して私たちに聖霊を与えてくださった『良い羊飼い』なのです」と説かれた。

 そして、「良い羊飼い」のたとえを通して、「主が、私たちの導き手、群れの頭であるだけでなく、何より私たち一人一人をご自分の命への愛として考えておられることを、私たちに示しておられるのです.…  私たち一人ひとりを、重要で、かけがえのない、無限の命の代価を払う価値のある存在と考えておられます」、さらに、「これは単なる言葉ではなく、実際に主は、私たちのために命を捧げ、私のために死んで復活されました。それは、主が私たちを愛し、私たちが自分ではなかなか気づかない素晴らしさを、私たちの中に見出してくださったからです」と語られた。

 また教皇は、「多くの人が、自分のやってきたことを自分の価値観、あるいは世界が自分をどう見ているか、あるいは他者がどう見ているかで判断し、『不十分だ、あるいは間違っている』と考えます。 しかし、イエスは、私たちが彼にとってとても価値がある存在だ、と教えて下さいます。ですから、真に自分自身と幸福を見つけるためには、私たちは主の御前に立ち、”良い羊飼い”の愛の腕によって受け入れられ、高められるように努めなければなりません」と信者たちを促された。

 さらに教皇は、「自分自身の人生を振り返り、人生に価値と意味を与えてくださる主の無限の愛を本当に受け入れているかどうか、考える」ように勧められ、「それは、祈り、崇敬、賛美の瞬間に、主を思い起し、愛ある主の御前に立とう努めることで可能です。 私たちが人生でこのことを実践しようと努めるなら、人生の”秘密”を再発見するでしょう。神が私のため、そして私たち全員のために、命を捧げられたことを思い起こすでしょう。神にとって、私たちは皆、私たち一人ひとりが重要なのです」と強調して、説教を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2024年4月21日

☩「中東地域そしてウクライナの和平のための対話実現を祈る」21日のRegina Coeliの祈りで

At Regina Coeli the Pope appeals for an end to the violence in the Middle East and Ukraine

(2024.4.21 Vatican News  Francesca Merlo)

教皇フランシスコは21日、復活節第四主日のRegina Coeliの祈りに続いて、パレスチナ、イスラエル、ウクライナの「戦乱の影響を受けている人々の苦しみを忘れない」ことを強調されるとともに、和平に実現を心から訴え、そのための対話を改めて関係国指導者たちに求められた。

教皇は、中東地域で外交的解決に向けた対話、交渉が進むことへの期待を改めて表明され、「主張の論理」に屈しないよう、次のように訴えられた。

「私は中東情勢を懸念し、悲しみながら見守り続けています。戦争の主張に屈するのではなく、多くを達成できる対話と外交を優先するよう繰り返し訴えます。私は毎日、パレスチナとイスラエルの平和を祈り、この二つの民族が早く苦しみを終わらせられることを願っています」。

さらに、教皇は、ロシアの一方的な軍事侵攻で始まり、今なお続いているウクライナ戦争を思い起こされ、世界の指導者に対して、「(戦争によって)悲惨な苦しみを味わっている」この地をこれ以上”曇らす”ことのないよう努力を求められた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年4月21日

☩「喜びを告げ知らせ、新しい命を生み出し、友愛と平和を作る職人になろう」ー4月21日・世界召命祈願の日教皇メッセージ

2024年「第61回世界召命祈願の日」教皇メッセージ 2024年4月21日 「希望の種を蒔き、平和を築くよう呼ばれて」

 

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 世界召命祈願の日には毎年、主が旅を続ける忠実な民一人ひとりにあてた、召し出しという尊い賜物について考えるよう招かれます。私たちが主の愛の計画に加わり、福音の素晴らしさを、さまざまなあり方の中で具現化するためにです。神の呼びかけに耳を傾けることは、宗教的理想の名のもとであったとしても、外部から課される義務とはまったくの別物で、むしろ私たちの内にある幸福への望みをかき立てる、もっとも確かな方法です。私たちの人生に輪郭が与えられ、それが十全なものとなるのは、自分は何者なのか、どんな資質があるのか、どのような分野でそれを生かせるのか、どのような道を進めば、置かれた場にあって、愛、受容、美、平和のしるしとなり、道具となれるのか、に気づけたときです。

 そのためこの世界祈願日は毎回、全生涯に及ぶ召し出しを受け止めた人々の、忠実で、日常的で、そしてしばしば目立たぬ献身を、主への感謝をもって思い起こす絶好の機会です。心に浮かぶのは、自分のことは顧みずに後回しで、うわべだけのことに流されず、人と人との関わりを大切にして生き、愛と無償の心をもって、命の賜物へと自らを開き、子とその成長のために尽くす母親、父親です。献身的に協力の精神で仕事を果たす人々、様々な分野で、色々なやり方で、より公正な世界、より連帯ある経済、より平等な政治、より人間らしい社会を築くために専心する人々、共通善のために懸命に働く、善意あるすべての人のことを思い起こします。

 使徒的行為としての祈りの沈黙を通して、時には辺境の地で労力を惜しまずに、創造性をもって自分のカリスマを生かし、出会う人々のために用いることで、自身を主に捧げる奉献生活者のことを思います。叙階される祭司職への召命を受け入れて、福音をのべ伝えることに自らをささげ、兄弟姉妹のためにエウカリスチアのパンとともに自らを裂き、希望の種を蒔(ま)き、神の国の素晴らしさを全ての人に示す人のことを思います。

 若者たち、とりわけ教会に距離を感じたり不信感を抱いている若者たちに申し上げたいと思います。イエスに心をつかまれるがままになってください。福音書を開き、あなたがたにとって大事な問いを、イエスに投げかけてください。いつも私たちのためを思って危機に立たせるイエスの存在に、心を揺さぶられてください。イエスは誰よりも私たちの自由を尊重し、押しつけることはなさらずに、ご自分を示しておられます。イエスに場を空けてください。そうすれば、イエスに従うことで、そして主に求められるならば主に完全に自身を捧げることで、幸福を得るでしょう。

旅する民

 キリスト教が認識し伴奏する、さまざまなカリスマとさまざまな召命によるポリフォニー(多声音楽)は、キリスト者としてのアイデンティティを十全に理解する助けとなります。世の道を歩む神の民として、聖霊に駆り立てられ、生きた石としてキリストの体に組み込まれながら、私たち一人ひとりは、自分たちが大きな家族の一員であり、御父の子どもであり、同じ神の似姿である兄弟姉妹だということに気づかされます。私たちは、自分という存在の中に閉ざされている孤島ではなく、全体の一部です。だから世界召命祈願の日は、シノダリティの音色を帯びています。カリスマは多様です。そのカリスマに気づき、全ての人の益のために何をなすよう聖霊が求めておられるのかを識別すべく、互いに耳を傾け、共に歩むように、私たちは求められています。

 現在、共同の道は、2025年の聖年へと私たちを導いています。自分に固有の召命を再発見しつつ、聖霊の多様な賜物を結び合わせ、世にあって、イエスの夢の運び手となり、証人となるために、聖年に向かって「希望の巡礼者」として歩みましょう。そうして私たちは、神の愛に結ばれ、そして慈しみと分かち合いと兄弟愛のきずなで結ばれた一つの家族を形づくるのです。

 この世界祈願日にはとくに、御国を建設するための尊い召命の賜物を、御父に切願する祈りを捧げます。「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(ルカ福音書10章2節)。そして祈りとは、ご承知のとおり、神に語る言葉よりも、耳を傾けることによってなされるものです。主は私たちの心に語りかけ、心が開かれ、誠実で、寛大であるよう願っておられます。御言葉は、イエス・キリストにおいて受肉し人となった御言葉は、御父の御心を余すところなく私たちに啓示し、知らせてくださいます。

 今年2024年はまさに聖年の準備として、祈りにあてられる年です。私たちは、主と心と心をもって対話できるという測り知れないほど尊い賜物を再確認し、希望の巡礼者となるよう求められています。なぜなら、「祈りは、希望の最初の力です。祈れば希望は膨らみ、増幅していきます。祈りは希望への扉を開く、とも言えるでしょう。希望は、あるものですが、祈りによってその扉を開くのです」(教皇フランシスコ「キリスト者の祈りについての連続講話―創造の神秘」2020年5月20日)。

希望の巡礼者、平和の建設者

 では、「巡礼者である」とはどういう意味でしょう。巡礼を始める人は、まず目的地をはっきりと設定し、それを心と頭に常に置いています。同時に、その目的地に達するには、目の前の一歩に集中することが必要で、足取りが重くならないよう無駄な荷を下ろし、必要なものだけをもち、疲れ、恐れ、不安、暗闇が、歩み始めた道の妨げにならないように、日々、頑張らなければなりません。このように巡礼者であるとは、毎日新たに出発すること、再出発を続けること、旅路にある様々な道を進むための熱意と意欲を新たにし続けるということです。疲労や困難はあっても、それによって常に新たな地平と、見たことのない光景とが広がるのです。

 キリスト者にとっての巡礼の意義は、まさに次のとおりです。私たちが旅に出るのは神の愛を発見するためであり、と同時に、内なる旅によって自分自身を見いだすためでもあります。「内なる旅」とは言え、それは、多様な関わりに刺激され続けるものです。つまり、呼ばれているから巡礼者なのです。神を愛し、互いに愛し合うように呼ばれています。ですから、この地上における私たちの旅が徒労に、あるいは無意味な放浪に終わることは決してありません。その逆で、日々、呼びかけにこたえつつ、平和と正義と愛を生きる新たな世界に向かうはずの一歩を踏み出そうとしているのです。私たちは希望の巡礼者です。より良い未来に向かおうとし、その道すがら、よりよい未来を築くことに全力を尽くすからです。

 結局のところ、あらゆる召命が目指すのは、希望の人となることです。個人として、また共同体として、多様なカリスマと奉仕職をもって、私たちは皆、新たな時代の課題を負った世界にあって、福音の希望に「体も心も捧げる」ように呼ばれています。新時代の課題とは、散発的な第三次世界大戦の脅威の拡大、よりよい未来を求め故郷を逃れる移住者の大群、増加の一途をたどる貧困層、この地球の安定を不可逆的に損ねる危険などです。こうした全てに加え、日常でぶつかる困難もあり、それらは私たちを、時に諦めや悲観に陥らせかねないのです。

 それゆえこの時代において、私たちキリスト者こそ、希望に満ちたまなざしを養わなければならないのです。神の国のため、愛と正義と平和の国のために、私たちに託された召命にこたえることで、実り豊かな働きがなせるようにです。聖パウロが確約するように、この希望は「私たちを欺くことがありません」(ローマの信徒への手紙5章5節)。主イエスが、いつも私たちと共におられ、あがないの業に私たちを加える、と言われた約束だからです。

 イエスは贖いを、一人ひとりの心、被造物の「心」において、成し遂げたいと願っておられます。この希望の原動力は、キリストの復活にあります。キリストの復活は、「世界を貫いた命の力を帯びています。すべてが死んだかのように思われるところにはどこにでも、復活は再び芽生えるのです。この力を止めることはできません。しばしば、神はいないかのように思われることが確かにあります。不正も悪意も無関心も、残酷な行為も減ることはなく、私たちはそれを目にしています。

 しかし、闇のただ中にあっても、新しい何かが必ず芽生え始め、ついには実りをもたらすこともまた確かなことです」(教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び』276項)。使徒パウロも、「私たちは、このような希望によって救われているのです」(ローマの信徒への手紙8章24節)と断言しています。復活において果たされた贖いが希望をもたらします。それは、現在の試練に立ち向かうための、確固たる、信頼すべき希望です。

 ですから希望の巡礼者であり平和の建設者であるということは、キリストの復活という岩の上に自己を確立することであり、応えて生き続ける召命を通して行うすべての取り組みが水泡に帰すことはない、と心得ることです。失敗や挫折があっても、私たちが蒔いた善は静かに成長し、何ものも、私たちに究極の目的地を見失わせはしません。そこは、キリストとの出会いがあり、皆が友愛のうちに永遠に生きる喜びがある場です。

 この究極の招きを、私たちは日々待っていなければなりません。神との愛ある関係、また兄弟姉妹との愛に満ちた関係によって、神の夢、すなわち一致、平和、友愛の夢が実現し始めるからです。自分はこの呼びかけの対象外だと感じる人が誰もいないように。私たちは一人ひとり、それぞれのささやかなやり方で、置かれた場にあって、聖霊の助けを受けて、希望と平和の種を蒔く人となることができるのです。

 

賭けてみる勇気を

 ワールドユースデー・リスボン大会で申し上げたことを、もう一度、今度は皆さんに向けて申し上げます―「起き上がりなさい」。眠りから覚めましょう、無関心から抜け出しましょう、閉じこもりがちな牢獄の鉄格子を開けましょう。そうすることで私たち一人ひとりが、教会で、世界の中で、自分の召命を発見し、希望の巡礼者、平和の建設者となれますように。熱意をもって生きましょう。周囲の人々と、私たちが暮らす環境とを、愛をもってケアするよう力を尽くしましょう。繰り返します。賭けてみる勇気を持ちなさい。

 慈しみの不屈の使徒、オレステ・ベンツィ神父は、「底辺にいる人、誰にも守ってもらえない人の味方で、貧しい人からも与えられるものがあり、裕福な人にも受け取るべきものがある」と、いつも語っておられました。ですから起き上がって、希望の巡礼者として旅立ちましょう。そうして聖エリサベトに対するマリアのように、私たちも喜びを告げ知らせ、新しい命を生み出し、友愛と平和を作る職人となりましょう。

ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2024年4月21日、復活節第4主日 フランシスコ

(カトリック中央協議会訳、「カトリック・あい」編集)

2024年4月20日