ドローンが捉えた自然保護地区での森林破壊
(2024.4.22 バチカン放送)
22日の地球環境について考える「EarthDay(地球の日)」に当たって、教皇フランシスコがX(旧Twitter)を通して、「私たちが共に暮らす家=地球」を危機から救うために、次のようなメッセージを投稿された。
“Our generation has bequeathed many riches, but we have failed to protect the planet and we are not safeguarding peace. We are called to become artisans and caretakers of our common home, the Earth which is “falling into ruin.” #EarthDay
( 私たちの世代は多くの豊かさを遺産として残しました。しかし、私たちは地球を保護することができず、また平和を守ることもできていません。私たちは地球という共に暮らす家を、「崩れかけている」その家を、建て直し、しっかりと管理する者となるように召されているのです。#EarthDay)
教皇2015年に、エコロジー的回心をテーマとした回勅「ラウダート・シ」を出され、2023年には、同回勅を補完する使徒的勧告「ラウダーテ・デウム」を発表するなど、これまで多くの機会を通し環境問題への提言をされいる。
(編集「カトリック・あい」)
(2024.4.21 Vatican News Francesca Merlo)
教皇フランシスコは21日、復活節第四主日のRegina Coeliの祈りに続いて、パレスチナ、イスラエル、ウクライナの「戦乱の影響を受けている人々の苦しみを忘れない」ことを強調されるとともに、和平に実現を心から訴え、そのための対話を改めて関係国指導者たちに求められた。
教皇は、中東地域で外交的解決に向けた対話、交渉が進むことへの期待を改めて表明され、「主張の論理」に屈しないよう、次のように訴えられた。
「私は中東情勢を懸念し、悲しみながら見守り続けています。戦争の主張に屈するのではなく、多くを達成できる対話と外交を優先するよう繰り返し訴えます。私は毎日、パレスチナとイスラエルの平和を祈り、この二つの民族が早く苦しみを終わらせられることを願っています」。
さらに、教皇は、ロシアの一方的な軍事侵攻で始まり、今なお続いているウクライナ戦争を思い起こされ、世界の指導者に対して、「(戦争によって)悲惨な苦しみを味わっている」この地をこれ以上”曇らす”ことのないよう努力を求められた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
ガーナの首都アクラで開催されたグローバル・クリスチャン・フォーラム国際集会
(2024.4.18 バチカン放送)
教皇フランシスコは18日、ガーナの首都アクラで開かれたグローバル・クリスチャン・フォーラムの国際集会にメッセージをおくられた。
グローバル・クリスチャン・フォーラムは、エキュメニカル対話の世界的な運動の一つで、カトリック教会、正教会、プロテスタントの諸教会、独立系教会、キリスト教の諸団体等が参加し、共通の問題を追求し、それに取り組むための、相互尊重の推進を目的としている。1998年にスイスの・シャトー・ド・ボッセで準備的会合を行なって以来、地域別の集いのほか、2007年にリムル(ケニア)、2011年にマナド(インドネシア)、2018年にボゴタ(コロンビア)で国際集会を開いてきた。
第4回目にあたる今集会は、「世が知るように」(ヨハネ福音書17章23b節)をテーマに、ガーナの首都アクラで16日から19日まで開催されている。
教皇から集会参加者に宛てたメッセージは、教皇庁キリスト教一致推進省次官、フラビオ・パーチェ大司教によって会場で読み上げられた。
この中で教皇は、「世が知るように」という今集会のテーマは、「三位一体の神の愛と交わりを個人と教会の生活の中で体現し、分裂と敵対に傷ついた世界に証しをもたらすようにとキリスト者たちを招いています」と述べられ、「一致は神の王国のビジョンを抱くために不可欠な要素と教皇は強調し、そこにエキュメニズムとキリスト教的使命の密接な関係があります」と指摘された。
そして、誕生以来25年を迎えた同フォーラムが、「共に祈りながら、各自の信仰をより深く生き、兄弟愛をより息づかせることができるように」、また「自分たちのストーリーを語り合うことで、世界のキリスト教共同体が直面する課題に立ち向かう力を得ることができるように」と願われ、この集いがすべてのキリスト者の間に目に見える一致を育てることを祈りつつ、参加者らに祝福をおくられた。
(編集「カトリック・あい」)
Rally in Kyiv calls for return of Ukrainian prisoners of war (ANSA)
(2024.4.17 Vatican News Linda Bordoni)
教皇フランシスコは17日の水曜恒例一般謁見の最後に、世界中の戦争捕虜に言及。彼らの多くが受けている拷問を強く非難するとともに、速やかな解放を訴えられた。
「私たちの思い、この瞬間、私たち全員の思いは、戦争中の人々に向けられています」とされた教皇は、「私たちは聖地、パレスチナ、イスラエルのことを考えます。 私たちはウクライナ、苦しむウクライナのことを考えます。 私たちは捕虜のことを考えています…」と語られた。
そして、「主が御心を動かされ、彼ら全員が解放されますように」と祈られた。
また、捕虜たちの多くが受けている拷問に思いを向けられ、「拷問は恐ろしい行為。人間のすることではない」と強調。拷問で苦しむ人々を神が祝福してくださるよう願われた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
教皇フランシスコ 2024年4月17日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場 (VATICAN MEDIA Divisione Foto)
(2024.4.17 バチカン放送)
教皇フランシスコは17日、水曜恒例の一般謁見で連続講話「悪徳と美徳」を続けられ、今回は「節制」の徳をテーマに取り上げられた。
講話の要旨は次の通り。
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今回は、基本的な徳目のうち4つ目の徳である「節制」について考えましょう。「節制」は、これまで取り上げた「賢明」「正義」「勇気」とともに、キリスト教以外の文化とも、大変古い歴史を共有しています。
古代ギリシャ人にとって、徳の実践は、「幸福」という目標を持っていました。哲学者のアリストテレスは、息子のニコマコスに生きる技術を教えるために、倫理学の本を著しました。「なぜ皆は幸福を求めるのに、わずかな人しか、それにたどり着けないのか」-この問いに答えるために、アリストレスは徳のテーマと向き合い、特に「enkráteia(節制)」について、この著作のスペースを割いています。「enkráteia」はギリシャ語で「自分自身に対する権力」を意味します。つまり「自己統治力」。反動的な情熱に巻き込まれない、マンゾーニ(アレッサンドロ・マンゾーニ、19世紀のイタリアの詩人、作家) 言うところの「人間の心の混乱に秩序を与える技術」です。
『カトリック教会のカテキズム』は、「節制」の徳について次のように述べています。
「節制とは、快楽の誘惑を抑え、この世の善を程よく用いさせる倫理徳です。本能に対する意志の支配力を保証し、欲求の中庸を保たせます。節制を保つ人は自分の感覚的欲求を善に向かわせ、健全な控え目を守り、欲望のままに生きることがありません」(1809項)。
「節制」はイタリア語でtemperanza-「節度の徳」です。どのような状況に置かれても、「節制」は人を、賢明さをもって行動させます。それは、人は常に衝動や活気に動かされ、結果的に信頼できない存在だからです。
多くの人が気まま勝手に話す世界にあって、節度のある人は、自分が話すことについて考えるのを好みます。出まかせの約束をせず、約束を守れるように努力します。快楽に対しても判断をもって行動します。衝動のなすままに、快楽の放縦を完全に認めることは、人を倦怠状態に陥らせ、最後には自分自身に害を与えることになります。いったい、どれだけの人が貪欲に望むままを求め、あらゆることに対する興味を失ってしまったことでしょう。そうなるより、節度を求めた方がいい。良いぶどう酒を味わうには、一気に飲むより、一口ずつ賞味したほうがいいのです。
節度のある人は、言葉の重みや程度を測ることができます。「節制」は、一瞬の怒りが人間関係や友情を壊してしまうことを防ぎます。一度壊れた関係を修復するには努力が必要です。抑制があまり利かい家庭生活のような場所では、皆が緊張や、苛立ち、立腹などを抑えられない危険があります。人には話すべき時と、沈黙すべき時がありますが、いずれにも節度が求められるのです。
節度のある人が、自分の怒りやすさを制御できたとしても、いつも平和的に微笑む顔をしていられるわけではありません。節度を保ちながらも、時々憤慨することも必要です。叱責のひとことが、辛辣で恨みがましい沈黙よりも、有益なことがあります。
「節制」は、他者の過ちを正すことが難しいと承知しつつ、そうすることが必要なことも理解しています。そうしないと、悪に自由な場を与えてしまうからです。時と場合によって、「節制」は両極を一緒に保つ―絶対的な原則や譲りがたい価値を強調しながら、他者を理解し、共感を示す―ことができるのです。
「節制」の恵みとは、すなわち貴重で得難い「バランス感覚」です。すべてが過剰に向かっている現代社会で、「節制」は、小ささ、思慮深さ、人から隠れた生き方、柔和さといった、福音的振る舞いとよく合います。節度ある人は、他者の評価を尊重しても、行動や発言の唯一の基準とはしません。感受性が高く、泣くことができても、悲劇の主人公を装うことはしません。負けた時は立ち上がり、勝った時は、元の隠れた生活に戻って行くことができます。喝采を求めず、「自分は他者のおかげで生きている」と自覚しています。
「節制」が、人を「精彩を欠いた喜びのない人」にする、と言うのは正しくありません。それは、皆で食卓に着くこと、友情の優しさ、賢明な人との信頼関係、被造物の美しさに対する驚異など、人生の善をより良く味わうのを助けます。「節度ある幸福」とは、人生で最も大切なことを認め、それに価値を与えることのできる人の心に花開く喜びです。
主が私たちに成熟の恵み―年齢による成熟、愛情の成熟、社会的成熟、そして節制の恵みをくださるよう祈りましょう。
(編集「カトリック・あい」)
Objects are seen in the sky above Jerusalem after Iran launched drones and missiles towards Israel, in Jerusalem
(2024.4.14 Vatican News)
教皇フランシスコは14日正午のRegina Coeli の祈りの後、中東で戦争拡大の恐れが強まっていることに対して、ただちに「暴力のスパイラル」を止め、関係する全ての国が和平の向けた対話の努力に全力を傾けるよう求めるとともに、ガザで苦しむ人々を支援するよう心から訴えられた。
教皇は、ここ数時間に届いたイラン介入後のイスラエル情勢悪化に関するニュースを「祈りと懸念、さらには悲しみ」をもって見守っている、と語られ、「どの国も他国の存在を脅かすべきではなく、すべての国が平和の側に立ち、イスラエル人とパレスチナ人が二つの国家で安全に並んで暮らせるよう支援すべきです」と強調された。 さらに、「隣り合う二つの国となることは、彼らの深く正当な願望であり、彼らの権利です!」とも付け加えられた。
そして、ガザでの停戦と交渉の道を「決意を持って」進めるよう改めて訴え、「人道的大惨事に陥った」ガザ地区の住民の苦しみを思い、「苦しみを軽減するためのあらゆる努力」を関係国の指導者たちに呼び掛けられ、「数か月前に誘拐された人質たちが解放されるように!」と祈られた。さらに、「このように苦しみを味わわされ続けているとは! 平和を祈りましょう。 これ以上の戦争、これ以上の攻撃、これ以上の暴力を続けてはなりません。 対話にYes、そして平和にYesです!」と訴えられた。
教皇はまた、世界中の戦争で苦しんでいる子供たち、特にウクライナ、パレスチナ、イスラエル、ミャンマーの子供たちへの祈りを新たにされ、「こうした子供たちのために、そして私たちの世界の平和のために祈ってください」と、世界の全ての人に呼び掛けられた。
戦争によって子どもたちが負う重荷について語る中で、カトリック教会が5月25日から26日にかけて、初めての「世界子供の日」を迎えることを思い起こされ、聖ペトロ広場に集まった会衆の中にいる子供たちと世界中で見守っている人々に対して、この日の準備に努めていることに感謝し、このイベントに向けて旅をする子供たちに祈りをもって寄り添うことを約束され、「私は皆さんを待っています。より良い世界、平和な世界への喜びと願いを分かち合うように」と励まされた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2024.4.14 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇フランシスコは14日、復活節第3主日正午のRegina Coeliの祈りに先立つ説教で、信者たちに、主との個人的な出会いを思い起こし、「私たちが信仰を分かち合い、伝えることが、どれほど素晴らしいことであるか」を考えるよう勧められた。
「主に出会うことは、何と素晴らしいことでしょう。主と出会ったら、私たちはその喜びを他の人に伝えなければなりません…」。
説教で教皇は、この日のミサで読まれたルカ福音書の箇所(24章35-48節)を取り上げた。この箇所は、弟子たちがエルサレムで上の部屋に集まっている時、二人がエマオから戻ってきてイエスとの出会いを語るところから始まる。
教皇は、この瞬間が彼らの人生をどのように変えたか、そして同様に、イエスとの出会いがすべての信者のすべてをどのように変えたか、について思いを巡らせられた。そして、主との出会いがどれほど人生を変え、「それは私たちが他の人々に語らねばならない最も素晴らしいこと」であるにもかかわらず、「私たちは、それについて話すのに苦労することが多い」と指摘。
そして、「私たち一人一人が、このことについて多くのことを語ることができます。他の人に講義をするのではなく、『主が生きておられ、近くにいて、私たちの心に喜びを燃え上がらせ、心の疲れを癒してくださった』という得難い瞬間を分かち合うことによってです」とされ、「 自信と慰め、強さと熱意、あるいは赦し、優しさ、平和を伝えた涙。これを家族、地域社会、友人らと共有すること」が、いかに重要であるかを強調された。
さらに教皇は、「私たちが神の御前に身を置いたときに生まれた考えや感情、また信仰の道を理解し、進むための努力や労苦について、自分の足跡をたどることは、とても有益です… もし私たちがそうすれば、イエスは、過ぎ越しの夜に弟子たちにされたのと同じように、私たちを驚かせ、私たちの出会いや環境をさらに素晴らしいものにしてくださるでしょう」と説かれた。
教皇はまた、「誰もが、主との出会いを経験している」とされ、すべての人にそれを思い起すように求められ、「あなたが主を見つけたのは、いつですか? 主はいつ、あなたに近づいたのですか?少し沈黙して、考えてみましょう」と促された。
そして、「私たちは、主とのこの出会いを経験したとき、それを他の人と分かち合い、この信じられないような経験を主の栄光を帰したでしょうか… 他の人がキリストとの出会いについて語るとき、それに耳を傾けるでしょうか」と信者たちに問いかけられた。
最後に教皇は、「私たちの地域社会が、主とのこれまで以上に素晴らしい出会いの場となるように、私たちが信仰を分かち合うことができるように」と聖母マリアの助けを願われ、説教を締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
An Israeli bombardment in Gaza City (AFP or licensors)
(2024.4.12 Vatican News Linda Bordoni)
イスラム教の断食月「ラマダン」が明けたのを受けて、教皇フランシスコが12日、国際アラビア語ニューステレビ「アル・アラビーヤ」に託した世界のイスラム教徒たちへのメッセージを発表。パレスチナ、イスラエルからイランなど中東全域への紛争拡大が強く懸念される中で、そうした事態をもたらすことのないよう、関係国指導者たちに強く訴えられた。
メッセージで教皇は、イスラム教徒の兄弟姉妹たちに挨拶された後、イスラエルとパレスチナで進行中の戦争と、シリア、レバノン、そして地域全体で起きている暴力を「中東の祝福された地で現在流されている血」と表現され、深い悲しみを表明。 「戦争は常に失敗でしかありません。どこへも続くような道ではない。すべての希望を押しつぶすもの」とのご自分の信念を繰り返し述べられた。
そのうえで、パレスチナ、イスラエル、シリア、レバノンの平和への願いを共有する善意のすべての男女に「不気味な風に煽られて恨みの炎を起こさないように」と訴えるとともに、戦争に関わる国々の指導者たちに、直ちに戦闘を停止し、戦争の拡大の可能性を防ぐよう呼びかけられた。
また教皇は、イスラム教の神聖な月であるラマダンが復活祭の直後に終わったことを挙げ、「どちらの行事も、信者たちが天に目を上げ、『慈悲深い全能の主』を崇拝します。それは、 地球を破壊する力を持つミサイルがもたらす惨状とは対照的なこと」と指摘。「神は平和であり、平和を望んでおられます。 主を信じる者は、戦争を認めることができません。戦争は解決にはならず、敵対関係を増大させるだけです」と強調。
パレスチナとイスラエルの紛争に対する苦悩を表明された教皇は、人道的大惨事が展開しているガザ地区での即時停戦を繰り返し訴え、「ひどい苦しみの中にあるパレスチナの人々に援助が届きますように、そして昨年10月に捕らえられたイスラエル人の人質が解放されますように!」と願われた。
さらに「戦争で荒廃したシリア、レバノン、そして中東全体」に思いをはせられ、「軍拡競争の恐ろしい風にあおられて、恨みの炎が広がるのを許さないように! 戦争の拡大を許さないようにしましょう! 悪の惰性を終わらせましょう!」と強く訴えられた。
そしてこれらの地域の家族、若者、労働者、高齢者、子供たちのことを思い、「彼らの心の中には、平和を求める大きな願いがある。暴力が蔓延する中、彼らの目からは涙が流れ、口からは『もうたくさんだ』という言葉が発せられています」とされ、「私はこの言葉を、国家を統治する重大な責任を負う人々に向けて言います。『もうたくさんだ!戦闘を止めて!』。あなたがたの子供たちと同じように、すべての子供たちのことを考えてください。差別や区別をしない子供の目で未来に目を向けてほしい。彼らに必要なのは、墓や集団墓地ではない。家、公園、学校なのです」と指導者たちに求められた。
メッセージの終わりに教皇は、「砂漠が花を咲かせるのと同じように、人々の心や国々の生活も、花を咲かせることができる」という確信で手紙を締めくくられた。「私たちがお互いに寄り添って共に成長する方法を学んだ場合にだけ、私たちが他人の信念を尊重することを学んだ場合にだけ、すべての人々の生存と独自の国家を持つ権利を認める場合にだけ、 私たちが誰も悪者扱いせずに平和に暮らす方法を学んだ場合にだけ、希望の芽が出るのです」。
そして、「少なからぬ困難の中にある」中東に住むキリスト教徒に向けて、「いつ、どこにいても、平和と友愛を語り、信仰を自由に告白する権利と能力を享受することができるように」と励まされた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
教皇フランシスコと子どもたち 2024年4月12日 ローマ、聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネ教会 (Vatican Media)
(2024.4.11 バチカン放送)
教皇フランシスコは11日夕、ローマ東部郊外の小教区を訪問、2025年の聖年を前に、初聖体を準備する子どもたち200名と「祈りの学校」と題する集いをもたれた。
教皇が訪問されたのは、ボルゲジアーナ地区にある聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネ教会。同地区に小教区が創立されたのは1963年、現在の教会は当初からの教会を1990年に改築した現代的な外観をもっている。教皇の訪問は、教会の要理講座を学ぶ子どもたちへのサプライズとして行われた。子どもたち、そして保護者や地域の住民たちは、教皇の訪問を驚きと喜びをもって迎えた。
2025年の聖年を前にした今年の「祈りの年」にあたって、教皇は「祈りの学校」と題したこの集いで、およそ1時間にわたる自由な対話を通して「祈りの学校」の初めて「授業」を行われ、子どもたちに祈ることの大切さを教えられた。
教皇は、まず、「ありがとう」「ごめんなさい」「…をしてもいいですか」という言葉を毎日の生活の中で忘れないようにと、子どもたちに願われ、特に「ありがとう」という言葉の重要さを強調。「いつも感謝すること、特に神に感謝することが大切です」と話された。
また、「どんなに暗い時でも祈り、感謝するように。病気や、死、孤独、戦争などを前にしても、困難を耐える力をくださるように、神に祈らねばなりません」と説かれ、 「皆さんは祈っていますか。祈り方を知っていますか。神様に何を話しかけていますか」と問いかけられた。
この問いかけに、ある児童が「毎日、食事の時に家族と祈っています」と答えると、教皇は「あなたは大切なことを言いました。でも、世界のたくさんの子どもたちには、食べる物もないことを知っていますか。食べる物があることを神様に感謝してください。家族があることを神様に感謝してください」と話された。
最後に教皇は、「皆さんは信仰を持っていますか」と尋ねられ、「神様が信仰をくださったことにお礼を言いましょう」と子どもたちに呼びかけられた。
(編集「カトリック・あい」)
(2024.4.10 バチカン放送)
教皇フランシスコは10日、水曜恒例の一般謁見で、「悪徳と美徳」をテーマとする連続講話を続けられ、今回は、「勇気」の特について話された。
連続講話の要旨次の通り。(バチカン放送訳、「カトリック・あい」編集)
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今日のカテケーシスでは、基本的徳目の三つ目、「勇気(剛毅)」を取り上げたいと思います。『カトリック教会のカテキズム』は、勇気の徳を次のように定義しています。
「勇気とは、困難にあっても断固として粘り強く善を追求させる倫理徳です。誘惑に抵抗したり、倫理生活の障害を克服したりする決心を固めさせてくれるものです。勇気の徳は、死の恐怖さえも克服し、試練と迫害とに耐えることができるようにしてくれます」(1808項)。
このように、「勇気」は徳の中でも最も「闘う徳」です。基本的徳目のうち、「賢明」が「人間の理性」と結びつき、「正義」が「意志の中に宿る」とすれば、「勇気」は、古代の人が「激情」と呼んだものと関係づけられてきました。古代思想にとって、情熱のない人間など石のようなものであり、想像できないものでした。情熱は、必ずしも「罪の名残りだ」とは言えませんが、教育され、方向づけられ、洗礼の水、あるいは聖霊の火によって清められねばなりません。
勇気のない、自分の力を善に従わせることのできない、誰にも迷惑をかけないキリスト者は、「無用なキリスト者」です。イエスは、人間の感情をご存じない、禁欲的な神ではありません。ご自分の友であったラザロの死を前に涙を流された方です。
そして、イエスの言葉や振る舞いから、ご自身の情熱的な心が浮かび上がってきます。たとえば、こう言われます―「私が来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」(ルカ福音書12章49節)。また神殿から、厳しい言葉で商人を追い出された場面@(マタイ福音書21章12-13節)もそうです。
それでは、人生に実りをもたらすのを助ける「勇気」の徳の実存的な説明を試みましょう。古代の人々、ギリシャの哲学者、あるいはキリスト教の神学者たちは、「勇気」の徳に、受動的、そして能動的な二つの動きを認めていた。
「受動的」な勇気は、私たち自身の心に向けられています。不安や、苦悩、恐れ、罪の意識など、私たちには打ち負かすべき内的な敵がいます。これらは私たちの心を乱し、場合によって、私たちを動けなくさせる力です。どれほど多くの運動選手が挑戦を始める前にくじけてしまうことでしょう。勇気とは、何よりも自分自身に勝つことです。私たちの心に生まれる恐れの大部分は、非現実的なものと言えます。そうであるなら、聖霊に祈り、忍耐強い勇気をもって立ち向かいましょう。できることから一つずつ、一人ではなく、協力して問題に対処しましょう。主は私たちと共におられます。主に信頼するなら、私たちは誠実に善を追求することができます。すべての状況を、盾となり、鎧となってくださる神の摂理に委ねることができるようになるのです。
「勇気」の徳のもう一つの動きは、より能動的な性格を持っています。内的な敵のほかに、人生の様々な試練、迫害、私たちを脅かす想定外の困難など、外的な敵があります。私たちは起こるかも知れないことを予測しようとしますが、現実の大部分は不確定な出来事から成っているのです。その”海”の中で、私たちという”船”は波に翻弄されます。それに対して、「勇気」は私たちを、驚いたり、気落ちすることのない、耐久力のある”船乗り”にしてくれます。
「勇気」は、世界の課題の”海”と真剣に向き合うために、不可欠な徳です。このような多くの問題を無視し、「すべては順調で、歴史の中で死をもたらす闇の力が働くことなどない」と言う人もいますが、歴史の本を紐解けば、あるいは日々のニュースに接すれば、私たちが被害者、あるいは主役として多少は関わっている非道な出来事、たとえば、戦争、暴力、奴隷制、貧しい人への抑圧、血を流し続け、癒されない傷などを知ることができるでしょう。「勇気」の徳は、私たちをこれらすべてに対して反応させ、はっきり「ノー」と叫ばせます。
私たちの周りの一見、快適な世界では、すべてが水で薄められ、同じに見え、闘う必要もないように思わせられます。しかし、そこに良い意味での「預言者」の必要を、私たちは再び感じているのです。居心地のいい、ふわふわするような場所から、私たちを引きずり出し、悪に対して、また私たちを無関心に導くすべてに対して、はっきりと「ノー」を繰り返すことのできる人、そのような人が求められているのです。
福音書の中に、イエスの「勇気」を再発見しましょう。そして、聖人たちの証しから「勇気」を学びましょう。
FILE PHOTO: Scenes of destruction in Gaza amid the ongoing conflict between Israel and Hamas
(2024.4.7 Vatican News Linda Bordoni)
教皇フランシスコは7日正午の Regina Coeliで、ウクライナ、そしてレスチナ、イスラエルで進行中の戦争に対して、関係国の政治指導者に対し、戦闘を一時停止し、和平のための交渉を開始するよう、改めて呼びかけられた。
教皇は聖ペトロ広場に集まった信徒たちに、平和を、特に「苦悩するウクライナとパレスチナ、イスラエル」に公正で永続的な平和が実現するように祈り続けるよう促された。
そして、これらの国、地域でなお進んでいる戦闘を止めるために可能な限りの努力をするように、政治指導者たちに繰り返し求め、「政治的解決策を交渉する努力を重ねている人を支えてくださるように」と復活の主に願われた。
さらに教皇は、「復活された主が、緊張を和らげようと努力するすべての人々を励まし、支え、交渉を可能にする行動を促されますように」、また、「主が、関係国の政治指導者たちに、歩みを止め、調停し、交渉する力を与えてくださいますように」と祈られた。
教皇はこれまで、あらゆる機会をとらえて、関係国指導者たちに戦いの継続へ自制を求め、和平の実現を求めるとともに、世界の人々に、世界中で起きている紛争に巻き込まれた何百万もの罪のない人々のために祈るよう、繰り返し訴えてこられた。
特に、2022年2月のロシアによるウクライナへの全面侵攻以来、そしてハマスによる殺害に端を発したイスラエルとハマスの戦争開始以来、毎日のように、世界の人々に和平の実現を人々に呼びかけ、指導者たちにそのための交渉を促してこられた。 2023年10月7日に1300人以上のイスラエルの人々が殺害され、250人が拉致されたのをきっかけに始まったイスラエルによるガザ地区への容赦ない爆撃で、これまでに3万3000人以上のパレスチナ人が殺害されている。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)