・「弱者への慈しみに徹底的に生きる者でありたい」菊地大司教の年間第26主日・世界難民・移民の日メッセージ


2021年9月25日 (土) 週刊大司教第四十五回:年間第26主日

Rwanda95b 年間第26主日となりました。教会は9月最後の主日を、世界難民移住移動者の日と定めています。旧約の時代から、「寄留者」への配慮は、イスラエルの民自身がエジプトで「寄留者」であった記憶から、大切に教え伝えられ、実践されてきました。

 また主ご自身が、「私が旅をしていたとき宿を貸してくれた」と、すべての人の中に、特に助けを必要とする人のうちにおられるご自分の存在を明確にされたように、様々な事由でこの地上を旅する人への配慮は、主ご自身への配慮と考えられています。教皇様にとっても、特に難民への特別な配慮は、司牧の優先課題の一つです。(右の写真は、95年5月、ルワンダと旧ザイール国境のブカブで撮影した、ルワンダから逃れてきた人たち)

 今のところの予定では、9月末日をもって緊急事態宣言は解除となる模様です。10月1日からは、以前のように感染対策をとりながら、ミサの公開や教会活動を再開させたいと思います。これについては別途公示いたしましたので、教区ホームページをご参照ください。

 検査の新規陽性者数が減少している、という明るい数字もありますが、この後どのように推移するかは不確定ですから、しばらくは慎重な対応を続けたいと思います。

 以下、本日午後6時にカトリック東京大司教区のYoutubeアカウントから配信された、週刊大司教第45回目のメッセージ原稿です。

【年間第26主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第45回 2021年9月26日】

 民数記は、モーセ以外の70人の長老にも、聖霊の導きがあるときに限り、預言を語る力を授けたことを記します。モーセにだけ与えられていた特権を奪われた、という思いが、モーセに長年仕えるヨシュアにはあったのでしょう。やめさせるべきだと進言するヨシュアに対して、モーセは、「主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になれば良いと切望しているのだ」と述べて、大切なのは、神の民すべてが与えられた役割を忠実に果たし、互いに支え合いながら共に共同体を育てていくことだ、と指摘します。

 使徒ヤコブは、この世の富は、永遠の命を保証するものではないことを明確に指摘し、さらには、その富を蓄えるために犠牲となった多くの人の苦しみが、終わりの日には裁きとなって自分に返ってくることを、指摘します。

 マルコ福音は、神の国に入る者となるためには、「中途半端ではなく、徹底的に福音に生きる者となる必要があること」を、イエスが厳しい口調で語っている様を記します。同時にイエスは、その厳しさは自分自身に向かう厳しさであって、他人を裁く厳しさではないことを明確にします。弟子たちは、自分たちの仲間でないものを裁こうとしますが、イエスは「私に逆らわない者は、私の味方」と述べ、弱い立場にいる人への慈しみに徹底的に生きることこそが、救いにとって第一に必要であることを示します。

 9月最後の主日は、世界難民移住移動者の日であります。

 レビ記19章34節には、こう記されています。「あなたがたのもとにとどまっている寄留者は、あなたがたにとってはイスラエル人と同じである。彼を自分のように愛しなさい。あなたがたもエジプトの地では寄留者であった。私は主、あなたがたの神である」。

 教皇フランシスコは、今年の世界難民移住移動者の日にあたってメッセージを発表され、テーマを「さらに広がる“私たち”へと向かって」とされました。これは、「私たち」という言葉を使うときにイメージする範囲を「自分の知り合いの者たち」だけに限るのではなく、さらに広げて「、困難に直面するすべての人を包括するように」という呼びかけです。

 同時に教皇は、それを単なる慈善のわざとは見なしていません。聖座の難民セクションの関係者によると、教皇はしばしば会話の中で、「私の家は、あなたの家だ」と言われるそうです。それは単に、「私の家に困窮する人を迎え入れよ」という「慈善の勧め」に留まるのではありません。「私の家」と言うことで、「自分がその家における責任ある居住者であること」を表明するように、迎え入れた人も同じように「責任ある居住者」となることを意味しているのだといいます。つまり、援助の手を差し伸べた相手は、単なるゲストではない、ということであります。

 教皇はメッセージで、「神が望まれたその“私たち”は、崩壊してばらばらになり、傷つき損なわれています」と指摘されます。その上で教皇は、「内向きで攻撃的なナショナリズムや過激な個人主義は、世の中でも教会内でも、その“私たち”をばらばらにしたり、分裂させたりします。そして、最も大きな犠牲を払わされるのは、すぐに“あの人たち”となりうる人たち、すなわち、外国人、移住者、疎外された人、つまり実存的な周縁部に住まう人たちです」とされ、「人類家族」を修復するように、と呼びかけておられます。

 福音に徹底的に従おうとする私たちは、社会にあって弱い立場にいる多くの人たちへの慈しみに徹底的に生きる者でありたい、と思います。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用は、原書により忠実で、現代日本語としても正しい用法になっている「聖書協会・共同訳」にしています)

2021年9月25日

・「福音に生き、証しする人生に定年はない」菊地大司教の年間第25主日ミサ

 2021年9月19日 (日)年間第25主日:東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)

210912cathedralmass 年間第25主日の9月19日、午前10時から、非公開でささげられ配信された主日ミサの説教の原稿です。

 新規陽性者数が減少を続けていることが事態が好転している兆しだと信じていますが、このまま9月末日で緊急事態宣言が解除されるのであれば、10月1日からは、以前のステージ3に戻して、ミサを公開するようにしたいと思います。

 なお10月以降、小教区の主日ミサとは別に、教区内で土曜日などにミサを伴う行事がいくつか予定されていますが、それぞれの主催者にあっては、必ず聖堂を管理する主任司祭・責任者と相談し、その小教区などの定めている感染対策を遵守されるようにお願いいたします。

 以下、19日午前10時から関口教会のYoutubeチャンネルで配信されたミサの、説教原稿です。

【年間第25主日B(東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年9月19日】

公開ミサを自粛しているために教会活動が立ち止まってしまい、そのためどうしても忘れられがちなのが残念ですが、世界の教会は教皇様の回勅「ラウダート・シ」に触発された「被造物の季節」を、そして日本の教会は「すべてのいのちを守る月間」を、9月1日から10月4日まで、すなわちただいまの時期に過ごしております。

人類は常に何らかの発展を指向し、与えられた資源を活用することで、より良い生活を、そして社会を手に入れようと努めてきました。もとより生活が便利になり、健康や安全が保証される社会を実現することは、共通善により近づくことであるとも考え、研鑽を重ね、努力を積み上げてきました。

残念なことに、教皇が回勅「ラウダート・シ」の冒頭で指摘するように、その努力の過程で私たち人類は、自分たちこそが「地球をほしいままにしても良い『支配者』や『所有者』と見なすように」なり、「神から賜った善きものを私たち人間が無責任に使用したり乱用」してきました。その結果、「共通の家である地球を、深く傷つけてしまった」と指摘される教皇は、さらにこう述べておられます。

「神にかたどって創造された大地への支配権を、私たちに与えられたことが、『他の被造物への専横な抑圧的支配を正当化する』との見方は、断固、退けられねばなりません」(67)

その上で、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することのできる展望を」(137)必要とすると指摘され、「密接に結び合わされている森羅万象を俯瞰するような、総合的視点が不可欠」であることを強調されます。

私たちの心には、競争の原理が刻み込まれているのでしょうか。競争に打ち勝って、より良い人生を手に入れたい。そう願って、世界的な規模で続けられたさまざまな競争は、結果として、共通の家である地球を傷つけてしまった。それは、私たちの願いが、神の御心に適う願いではなかったため、ではないでしょうか。

「彼の言葉が真実かどうか見てやろう」という「神に逆らう者」の言葉が、知恵の書には記されています。神に逆らう者にとっては、「神による永遠の救い」でなく「この世での救いこそが現実」であって、それは、「神の慈しみ」と対立する「利己的な欲望」の実現でしかありません。しかし、神に従い、真実を追究する者の生き方は、この世が良しとする価値観に基づいた生き方と真っ向から対立することが、そこには記されています。

教皇は、私たちに命を与えられた創造主が、人類にどのような使命を与えたのかを記す創世記の話を引いて、「ラウダート・シ」にこう記されます。

「聖書が世界という園を『耕し守る』よう告げていることを念頭に置いたうえで、・・・『耕す』は培うこと、鋤くこと、働きかけることを、『守る』は世話し、保護し、見守り、保存することを意味します」

すなわち、私たちは、「被造物の上に君臨して、支配し、浪費する存在」ではなく、「被造物を管理し守り育てるように、と命じられた『奉仕する支配者』」でなければならないことが記されています。

心に刻み込まれた競争の原理は、利己的欲望と相まって、私たちを君臨する支配者にしてしまいました。しかし「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と述べられた主は、私たちに「奉仕する支配者」となることを求められます。それこそは、主イエスご自身が自ら示された生き方であります。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである(マルコ福音書10章45節)」と、マルコ福音の続きに記されています。

使徒ヤコブは、妬みや利己心が、混乱やあらゆる悪い行いの源であると指摘します。正しい動機、すなわち神が与える知恵に基づく価値観によらない限り、神の平和は実現せず、命を奪うような混乱が支配する、と使徒は指摘します。

使徒は、「得られないのは願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で求めるからです」と記します。「間違った動機」とは、すなわち、時空を超えたすべての人との繋がりに目を向けず、今の自分のことだけを考える利己心がもたらす動機です。「その利己的な動機による行動の選択が、被造界を破壊してきたのだ」と教皇は指摘されます。

受難と死へと至るイエスの生涯そのものが、人間の常識をはるかに超えた人生です。その人生にこそ、自らが創造された人類に対する、神の愛と慈しみが具現化しています。イエスの受難への道は、神の愛の証しであります。十字架は、神の愛の目に見える証しであり、十字架における受難と死こそ、具体的な行いによる神の愛の証しです。神の常識は、救いへの希望は、人間が最も忌み嫌う「苦しみと死」の結果としてあることを強調します。この世が常識的だとする価値観で信仰を理解しようとするとき、私たちは神の愛と慈しみを、そしてその心を、理解できない者で留まってしまいます。信仰は、常識をはるかに超えたところにあります。

主イエスは、その受難と死を通じて、私たちに君臨する支配者ではなく、奉仕する支配者としての生き方を明確に示し、私たちがその生き方を証しするように、と求められます。

繰り返し私たちを襲う大規模な災害は、そのたびごとに私たちに価値観と発想の転換を求めます。私たちの徹底的な回心を求めます。そして今、新型コロナウイルス大感染のただ中で、私たちは価値観と発想の転換を求められ、回心を求められています。

9月7日、教皇フランシスコは、正教会と英国国教会のそれぞれの代表とともに、環境に関するメッセージを発表されました。その中で、環境をめぐる持続可能性を具体化することが急務の課題であると指摘され、さらには環境問題が、特に貧しい人々に与える影響を考慮することや、こうした課題に取り組むための世界的な協力構築の必要性を真摯に考えるように、と求めておられます。その上で、このコロナ大感染は、私たちが短期的視点から目先の利益に捕らわれて行動するのか、はたまた回心と改革の時とするのか、の選択肢を与えているのだ、と呼びかけます。

今こそ、視点を転換し、常識を打ち破り、神の呼びかけに耳を傾け、その知恵に倣って生きる道を選び取る時であります。

日本では9月20日が「敬老の日」とされています。それに伴って、今日の主日を、特に高齢の方々のために祝福を祈る日としている教会も多いのではないでしょうか。何歳からを高齢者と呼ぶのかについては、さまざま議論があることでしょうが、人生の経験を積み重ね、命の時を刻んで来られた多くの方々のために、神様のさらなる豊かな祝福をお祈りいたします。

教皇様は今年から、7月の最後の主日を「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定められました。社会の常識は、年齢とともに人は役割を失い、社会の中心から離れていくことを当然としています。しかし、福音に生き、福音を証しする人生に定年はありません。どこにいても、どんな状況でも、この世に立ち向かう主の福音を証しするために、神の呼びかけに応える道を選択し、たゆみなく回心の道を歩みましょう。

(編集「カトリック・あい)」

2021年9月19日

・菊地大司教の年間第25主日メッセージ「福音に生き、証しする生活に、定年はない」

2021年9月18日 (土)週刊大司教第四十四回:年間第25主日

Smmrome02 9月19日、年間第25主日です。

 この時期、9月の第3月曜日が敬老の日と定められているため、一番近い主日に、教会でも高齢の方への祝福などの行事を行ってきたところが多いかと思います。大変残念ですが、今年は公開ミサを自粛しているため、こういった行事も中止となっています。

 カテドラルから配信させていただく9月19日の主日のミサでは、いつも通り教区の皆さんのためにミサを捧げますが、特に敬老の日に因んで、人生の大先輩である兄弟姉妹の皆さんの上に神様の祝福と守りがあるようにお祈りいたします。(写真は、教皇様が海外などへ司牧訪問に出かける前後に必ず訪れて祈りをささげるサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂の「ローマ人の救い」の聖母)

 国民の祝日に関する法律には、この日は、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」日であると記されています。今日のメッセージでも触れていますが、教皇様は7月の最後の主日を、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定めておられます。

 教皇様の意図は、もちろん日本の敬老の日と同様の思いも込められていますが、それと同時に、一人ひとりのいのちに与えられている使命には定年はないことも強調されています。すなわち、年齢や健康や体力の面から、社会の中心から徐々に退いたとしても、福音を告げしらせることや福音に生きることには定年はない。その年代に応じた役割があることを指摘されています。

 この祈願日の典礼の手引きには、「若者も高齢者も、祖父母も孫たちも、同じ家庭に属していてもいなくても、わたしたち全員は「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです」ということを理解するため」に、この日は定められていると記されています。それぞれに与えられている使命を自覚し、今いのちを生きている状況に応じて、キリストの一つの体の部分としての役割を果たしていきたいと思います。

 政権を担っておられる自民党の総裁選が始まっており、その後には新しい首相の誕生とさらには衆議院議員の選挙も控えています。これまで積み重なってきた国内のさまざまな事情と、さらには国際的な関係など、リーダーが対処しなければならない課題は大きく、国家の舵取りは難しいことだと思います。共通善や人間の尊厳の実現に向かって少しでも近づく国家であるように、聖霊の照らしと導きを、そして政治のリーダーたちへの叡智と励ましを、この時期、特に祈りたいと思います。

 以下、本日午後6時配信の、「週刊大司教」第四十四回、年間第25主日のメッセージ原稿です。

【年間第25主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第44回 2021年9月19日】

「彼の言葉が真実かどうか見てやろう」という「神に逆らう者」の言葉が、知恵の書に記されています。神に従い真実を追究する者の生き方は、「この世が良し」とする価値観に基づいた生き方と真っ向から対立することが、そこには記されています。

使徒ヤコブは、ねたみや利己心が、混乱やあらゆる悪い行いの源であると指摘します。正しい動機、すなわち神が与える知恵に基づく価値観によらない限り、平和は実現せず、命を奪うような混乱が支配する、と使徒は指摘します。

マルコ福音は、「誰が一番偉いのか」と議論する弟子たちに対するイエスの言葉を記しています。「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい」というイエスの言葉は、弟子たちに対する回答と言うよりも、この世への警句であります。神が「良し」とされる価値観は、弟子たちがとらわれているような「この世の価値観」とは全く異なっているのだ、ということを悟らせようとされる言葉です。受難と死へと至るイエスの生涯そのものが、人間の常識をはるかに超えた人生です。

その人生にこそ、自らが創造された人類への愛と慈しみが具現化している、と頭では理解しても、心情的にそれを素直に、その通りだ、と認めることは難しい。もっとほかの方法があるだろうと思ってしまいます。しかし神の常識は、人間がもっとも忌み嫌う、苦しみと死の結果にこそ、神の愛と慈しみがある、とするのです。この世が「常識的」とする価値観で信仰を理解しようとするとき、私たちは神の愛と慈しみを、そしてその心を、理解できない者に留まってしまいます。信仰は、常識をはるかに超えたところにあります。

日本では20日が「敬老の日」とされています。それを前にして、19日の主日を、特に「高齢の方々のために祝福を祈る日」としている教会も多いのではないでしょうか。

教皇様は今年から、7月の最後の主日を、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定めておられます。この機会に、そう定められた教皇様の意向を振り返ってみたい、と思います。

教皇様はこの祈願日に向けたメッセージに、こう記しておられます。

「私たちの孤独は、主にとって、どうでもよいことではありません。イエスの祖父である聖ヨアキムも、子どもがいなかったために共同体から孤立していた、と伝えられています。彼の人生は、妻アンナ同様、無益なものとみなされていました。けれども主は天使を遣わされ、お慰めになりました」

そのうえで教皇様は、「この新型コロナウイルスの大感染が続く数か月のように、何もかも真っ暗に思える時でも、主は天使を遣わされ、私たちの孤独を慰め続け、『私はいつもあなたと共にいる』と繰り返しておられます」と述べておられます。

そして、主が共にいてくださる私たち一人ひとりには、「年齢に関係なく、使命があるのだ」として、こう記します。

「いくつであろうと、仕事を続けていようがいまいが、一人暮らしだろうが、家族と一緒だろうが、若くして孫を持とうが、老齢になってからであろうが、自立できていようが、支援が必要だろうが、関係ありません。福音を伝える務め、孫たちに伝統を伝える務めに定年などないのです」

社会の常識は、年齢とともに人は役割を失い、社会の中心から離れていくことを当然としています。しかし、福音に生き、福音を証しする生活には、定年はありません。どこにいても、どんな状況でも、この世に立ち向かう主の福音をあかしする業を続けてまいりましょう。

2021年9月18日

・「私たちには、主が生き、語られたように生きていく務めがある」菊地大司教の年間第24主日説教

年間第24主日:東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)

0912cathmass1 教皇様は、本日9月12日朝にローマを発ち、まずハンガリーのブダペストへ向かわれます。ブダペストでは、折から開催されている第五十二回国際聖体大会の閉会ミサを司式されます。

 その後、スロバキアの首都ブラチスラヴァへ移動され、15日(水)まで滞在され、さまざまな行事をこなされることになっています。先般手術を受けられたこともあり健康不安説も出たりしましたが、教皇様はいつもと変わらず司牧訪問へ出かけられました。先ほどブダペストへの到着の動画を拝見しましたが、お元気な様子でした。教皇様の今回の司牧訪問の安全と成功のために、お祈りください。

 今回の司牧訪問の詳しい日程は、英語ですが、こちらのバチカンのサイトをご覧ください

 先日来お知らせしている2023年秋のシノドスへの道程ですが、一番最初の準備文書が、9月7日の教皇庁でのシノドス事務局による記者会見で発表されました。翌日には英語版が、メールで届けられましたので、現在、中央協議会で翻訳中です。

 これに関しては、想像より長い文書でしたが、10月以降の教区での意見の聴取開始が求められていますので、間もなく内容についてお知らせするように、東京教区の担当者である小西神父様と準備を進めてまいります。また必要な情報は、適宜、教区のホームページに掲載します。

 以下、本日9月12日午前10時に東京カテドラル聖マリア大聖堂でささげられた配信ミサの、説教の原稿です。昨日の週刊大司教と重なるところが多々ありますが、ご容赦ください。

 

【年間第24主日B(配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年9月12日】

感染症の拡大を防ぎ、また自分のことだけではなく、隣人の命を守るために、愛の心を持って、教会の活動自粛に協力いただいている皆様に、心から感謝いたします。今日の主日も、教会共同体の霊的な絆に繋がれて、私たちは祈りのうちに一致しています。この配信ミサを一つの助けとして、互いの霊的な絆の存在に心を向けたいと思います。

またこうしてカテドラルで捧げられている大司教司式のミサは、ここにいるごく少数の方の個人的信心のためではなく、教区共同体の典礼行為として、教区のすべての皆様との霊的一致のうちにささげられていることを、改めて申し上げたいと思います。復活の主は、死に打ち勝ったその命の力をもって、いつも私たちと共にいてくださいます。

さて、この夏には、オリンピックとパラリンピックという世界的な行事が、東京を中心に開催されました。先週の日曜日9月5日は、パラリンピックの閉会式でありました。

感染症が終息しない中で一年延期されたこともあり、また緊急事態宣言のなかでもありましたので、先に開催されたオリンピックとともに、こうした状況下で国際的な行事を開催すること自体に賛否両論がありました。参加された方々や現場での運営にあたった方々には大きな苦労があったことだと思いますし、私自身も含め、開催を不安に感じた方も少なくないと思います。

教区としては、数年前から、選手村での宗教的サポートのために、他の宗派の方々と一緒になって協力する準備を進めていたところでしたが、このような状況下で、実際に選手村で活動することは出来なくなりました。また選手や関係者も外に自由に出てくることができないばかりか、宗教者が選手村に入ることも出来なくなり、結局いくつかの言語で霊的メッセージやロザリオの祈りのビデオを作成して、組織委員会に提供することしかできませんでした。

組織委員会では各宗派に公平を期すため、そのビデオがどのように公開されどのような反響があったのかは公表されていません。ですからわたしたちとしても、かなりの時間を掛けて準備したそういったビデオが、どのように役に立ったのかどうか、分からないのは残念です。少しでも、参加された方々の霊的な助けとなった事を願っています。

さて、障がいと共に生きる方々のスポーツ世界大会であるパラリンピックは、大会が象徴する価値観からも重要な意味をもつ出来事であると思います。しかし、オリンピックと比較すれば、報道などの面で特にそうですが注目度は高いとは言えず、加えて今回の感染症の事態で、さらにパラリンピックの存在がかすんでしまったのは、残念です。

パラリンピックに掲げられた重要な柱である価値観は、スポーツイベントを超えて社会全体へ重要なメッセージを発信していると言っても過言ではないと思います。日本パラリンピック委員会によれば、パラリンピックが重視する価値は、「勇気、強い意志、インスピレーション、公平」であります。

同委員会のホームページによれば、「マイナスの感情に向き合い、乗り越えようと思う精神力」が勇気であり、「困難があっても、諦めず、限界を突破しようとする力」が強い意志であり、「人の心を揺さぶり、駆り立てる力」がインスピレーションであり、「多様性を認め、創意工夫をすれば、誰もが同じスタートラインに立てることを気づかせる力」を公平としています。

教会はすべての命が神の目からは大切であることを強調し、誰ひとり排除されない社会の構築を提唱しています。また教会は、私たちの命は、その始まりから終わりまで、一つの例外もなくその尊厳が守られなければならない、と主張します。

残念ながら、命の多様性を認めながら共に支え合って生きる社会を目指すのではなく、互いの違いを強調して分断し、異なる存在を排除しようとする傾向が、昨今の世界では、さまざまな形態をとって見受けられます。

世界を巻き込んでいま発生している命の危機は、その解決のためにも、世界全体の視点からの強固な連帯が必要であることを明確にしています。しかし残念なことに、世界的規模の連帯は、この事態に直面しても実現せず、かえって、多くの国が自国の安全と利益だけを優先する事態にもなっています。資金的にも医療資源でも乏しい、いわゆる途上国の多くは取り残されようとしています。

教皇フランシスコは、新型コロナの世界的大感染の中で長らく中断していた一般謁見を2020年9月2日再開したとき、こう話されていました。

「このパンデミックは、私たちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。私たちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、共に協力しなければなりません。・・・一緒に協力するか、さもなければ、何もできないかです。私たち全員が、連帯のうちに一緒に行動しなければなりません。」

しかし今年の復活祭のメッセージで教皇は、国際的な連帯が実現していない事実を指摘し、「悲しいことに、このパンデミックにより、貧しい人の数と、数えきれないほど多くの人の絶望が激増しています」と述べられています。

この状況の中でも、一人ひとりの命の尊厳をないがしろにするような行動や事件は相次いでいます。命を賜物として与えられた存在として、私たちすべては、互いに助け合い、支え合い、お互いの持つ命の驚くべき物語に耳を傾け、尊敬の念を持って、命を生きていかなくてはなりません。

この社会の現実に対して「勇気、強い意志、インスピレーション、公平」という価値観は、連帯のうちに共に支え合おうという、命を守る社会の実現を力強く呼びかけています。

使徒ヤコブは、信仰があるといっても行いが伴わないのであれば、「何の役に立つでしょうか」と問いかけます。そのうえで、「私は行いによって、自分の信仰を見せましょう」と宣言します。

マルコ福音は、イエスが弟子たちに、「人々は、私のことを何者だと言っているか」と尋ねた話を記します。弟子たちは口々に、各地で耳にしてきた主イエスについての評価を語ります。つまりそれは「うわさ話」であります。それに対してイエスは、「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか」と迫ります。私たちは、いま、主によって回答を迫られています。自ら決断して回答するように求められています。私たち一人ひとりは、一体何と答えるのでしょう。誰かから、どこかで聞いた話ではなくて、私にとって、主イエスとは何者なのでしょうか。

私たちは、命を与えられた神から愛されている存在です。守られている存在です。その神の慈しみを、愛を、具体的に私たちに示されるのは、共にいてくださる主イエスであります。「主こそ私たちの救い主」と、ペトロと一緒に答えるのであれば、私たちには主が生きたように、語ったように、生きていく務めがあります。それは信仰を具体的に行動に表すことであり、すべての命が神に愛される存在であることを、具体的に示すことであります。

 

2021年9月12日

・「私たちの務めは、主が生き、語られたように生きること」菊地大司教の年間第24主日メッセージ

2021年9月11日 (土)週刊大司教第43回:年間第24主日

Tutumi2109 残念なことに、現在の緊急事態宣言は9月30日までの延長となりました。緊急事態宣言とともに自動的に公開ミサの自粛に入る教区もある中、東京教区では、小教区の現場の皆さんのご協力で感染対策に取り組み、できる限りミサを続けるようにしてきました。

 昨年の最初の公開ミサ自粛以降は、原則として小教区でのミサの公開を継続してきました。感染対策にご協力いただいた小教区の現場の方々に、心から感謝いたします。

 しかしこの8月に、検査の新規陽性者が大幅に増加し、自宅療養や入院される発症者も増加し、さらには重症者も200名をはるかに超える人数が続いたこと、さらにはいわゆる変異株による感染が課題として浮かび上がってきたことなど諸要素を勘案し、今回の感染症が昨年初めに始まってから二度目となる、東京教区における公開ミサの自粛に踏み切りました。

 もとより、ワクチン接種に関しては、教皇様を始め私自身も受けていることや、教皇様の接種を強く勧める言葉もありますので、私としては接種を前向きに受け止めていますが、体調やアレルギーなどで受けることが出来ない方、さまざまな考えから受けないことを選択される方もおられますので、教区として接種を義務化するような判断はしていませんし、今後もするつもりはありません。接種の義務化を求めないのですから、ワクチン接種の有無を教会活動参加の可否に援用することもいたしません。

 全体として状況は良い方向に向かっている、という判断の声を多く聞くようになりました。今般、9月30日までの緊急事態宣言の延長が決定されたことで、東京教区におけるミサの公開に関して改めて判断することにしました。一昨日の時点では、全体の状況が徐々に好転しているのは確かですが、入院や療養が必要な方はまだまだ多く、重症者の方も多くは回復されていません。やはり今しばらくは慎重な行動が必要と判断いたしました。

 これまで幾たびも繰り返してきたことですが、教会はミサを放棄したわけではありません。ミサは続けられています。一人ひとりのキリスト者の霊的成長のために聖体祭儀は不可欠であると同時に、それは独り個人の信心ではなく、教会共同体としての行為であります。

 昨年3月9日に私はこのようなメッセージを記しました。

「ミサの中止は、上記のように『公開のミサ』の中止であって、教区内の小教区や修道院にあっては、「公開されない」形で、ミサが通常通り司祭によって毎日捧げ続けられています。教区共同体内から、ミサが消えてしまったわけではありません。司祭はたとえ一人でミサを捧げたとしても、すべては「公」のミサとして捧げるからです。教皇ヨハネパウロ2世の回勅『教会に命を与える聖体』に、こう記されています。『(司祭が祭儀を行うこと)それは司祭の霊的生活のためだけでなく、教会と世界の善のためにもなります。なぜなら「たとえ信者が列席できなくても、感謝の祭儀はキリストの行為であり、教会の行為だからです」』

 私がミサ公開自粛期間に、自ら司式する主日ミサをカテドラルから配信する一番の理由は、そのミサが、「東京教区という共同体全体のミサ」であることを象徴するためでもあります。私は共に祈ってくださる教区の皆さんと霊的に繋がれながら、教区の皆さんとともに、教区共同体の行為として、ミサを捧げます。

 どうか困難な状況からの解放を求め、教会共同体の霊的な繋がりの中で、ともに祈り求めましょう。この困難が、私たちの教会共同体をこれまで以上に堅固な存在としてくださるように、私たちをその体における一致へと招かれる主に信頼して、祈り続けましょう。

 以下、11日午後6時配信の、週刊大司教第四十三回のメッセージ原稿です。

【年間第24主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第43回 2021年9月12日】

先週の日曜日、9月5日に、パラリンピックが閉会式を迎えました。先に開催されたオリンピックとともに、感染症が終息しない中で国際的な行事を開催すること自体に賛否両論がありましたし、実際に参加された方々や現場での運営にあたった方々には大きな苦労があったことだと思います。私自身もかなりの不安を抱いておりましたし、感染症に関して社会への影響があったのかどうかは、後にならなければ判明しないのかもしれません。

障害と共に生きる方々のスポーツ世界大会であるパラリンピックは、その大会が象徴する価値観からも世界にとって重要な出来事であると思うのですが、オリンピックと比較すれば注目度は高いとは言えず、加えて今回の事態でそれがさらにかすんでしまったのは残念です。

パラリンピックに掲げられた重要な柱である価値観は、「スポーツイベントを超えて、社会全体へ重要なメッセージを発信している」と言っても過言ではないと思います。日本パラリンピック委員会によれば、パラリンピックが重視する価値は、勇気、強い意志、インスピレーション、公平であります。

同委員会のホームページによれば、「マイナスの感情に向き合い、乗り越えようと思う精神力」が勇気であり、「困難があっても、諦めず、限界を突破しようとする力」が強い意志であり、「人の心を揺さぶり、駆り立てる力」がインスピレーションであり、「多様性を認め、創意工夫をすれば、誰もが同じスタートラインに立てることを気づかせる力」を公平としています。

教会はすべての命が神の目からは大切であることを強調し、誰ひとり排除されない社会の構築を提唱しています。また私たちの命は、その始まりから終わりまで、一つの例外もなくその尊厳が守られなければならない、と主張しています。残念ながら、多様性を認めながら共に支え合って生きるのではなく、分断し排除しようとする傾向が、昨今の世界では、さまざまな形態をとって垣間見られます。その社会に対して、「勇気、強い意志、インスピレーション、公平」という価値観は、「連帯のうちに共に支え合おう」という、命を守る社会の実現を呼びかけています。

イザヤは、この世によって排除され迫害される命に対して、その命を愛し、守られる創造主が、常に共にいて守られることを記しています。

使徒ヤコブは、行いが伴わない信仰は、「何の役に立つでしょうか」と問いかけます。その上で、「私は行いによって、自分の信仰を見せましょう」と宣言します。

マルコ福音は、イエスが弟子たちに、「人々は、私のことを何者だと言っているか」と尋ねた話を記します。弟子たちは口々に、方々で耳にする主イエスについての評価を語ります。つまりそれは「うわさ話」であります。それに対してイエスは、「それでは、あなた方は私を何者だというのか」と迫ります。私たちは、いま、主によって回答を迫られています。私たち一人ひとりは、一体何と応えるのでしょう。私にとって、主イエスとは何者なのでしょうか。

私たちは、命を与えられた神から愛されている存在です。守られている存在です。その神の慈しみを、愛を、具体的に私たちに示されるのは、共にいてくださる主イエスであります。「主こそ私たちの救い主」と、ペトロと一緒に答えるのであれば、私たちには主が生きたように、語ったように、生きていく務めがあります。それは信仰を具体的に行動に表すことであり、すべての命が神に愛される存在であることを、具体的に示すことであります。

 

2021年9月11日

・菊地大司教の年間第23主日・「被造物を大切にする世界祈願日」ミサ説教

 9月第一の主日は、被造物を大切にする世界祈願日です。

 午前10時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、主日ミサを捧げ配信いたしました。本日の閉祭に歌われたのは、2019年に教皇様が訪日されたとき、東京ドームでのミサなどで歌われたものです。「すべてのいのちを守るため」のテーマに合わせての選曲です。この歌の譜面は、このリンクの中央協議会ホームページからダウンロードすることが出来ます。楽譜は一番下の「楽譜(伴奏つき)」からPDFで、録音も聞くことが出来ます。

 以下、本日主日配信ミサの説教原稿です。

年間第23主日B(配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年9月5日

 回勅「ラウダート・シ」を2015年に発表された教皇フランシスコは、翌年から9月1日を、「被造物を大切にする世界祈願日」と定められました。日本ではその直後の日曜日を、この特別な祈願日と定めています。今年は9月5日の年間第23主日、本日が、「被造物を大切にする世界祈願日」であります。また「ラウダート・シ」の理念の啓発と、それを霊的に深めるため、9月1日の「被造物を大切にする世界祈願日」からアシジのフランシスコの記念日である10月4日までを、すべての被造物を保護するための祈りと行動の特別な期間、「被造物の季節(Season of Creation)」と定められました。

 この祈願日にあたって、マルコ福音書に記された「エッファタ」の物語が朗読されることは、意義深いものがあります。なぜなら、「ラーダート・シ」で教皇フランシスコが呼びかけていることを理解するためには、私たちの心の耳が開かれる必要があるからです。時に現実だとか常識だとかしがらみだとか、さまざまに呼ばれている壁、すなわち「歴史における時間の積み重ねが生み出した結果」は、私たちの思考を縛り付けてしまっています。縛り付けるだけではなく、その壁は、思考の自由も行動の自由も奪ってしまいます。

 教皇フランシスコは、そういった壁をすべて打ち壊し、常識や人間関係のしがらみにとらわれることなく、命が育まれるこの共通の家をどうしたら守ることができるのか、総合的な視点を持って取り組むようにと呼びかけます。その呼びかけは、教皇個人の呼びかけではなく、私たちの共通の家からの叫びであり、神からの呼びかけです。その叫びは、呼びかけは、聞こえているでしょうか。心の耳を開いていただく必要が、ここにあります。

 教皇はこの祈願日について、2016年の最初のメッセージで、「被造物の管理人となるという自らの召命を再確認し、すばらしい作品の管理をわたしたちに託してくださったことを神に感謝し、被造物を守るために助けてくださるよう神に願い、私たちが生きているこの世界に対して犯された罪への赦しを乞うのにふさわしい機会」となる日であると述べています。

 教皇フランシスコが「ラウダート・シ」で語る被造物への配慮とは、単に気候変動に対処しようとか温暖化を食い止めよういう環境問題の課題にとどまってはいません。「ラウダート・シ」の副題として示されているように、教皇がもっとも強調する課題は「共に暮らす家を大切に」することであり、究極的には、「この世界で私たちは何のために生きるのか、私たちはなぜここにいるのか、私たちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、私たちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160)に真摯に向き合うことを求めているものです。

 そのために教皇は、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することのできる展望を」(137)必要とすると指摘し、それを総合的エコロジーの視点と呼んでいます。

 日本の教会も、2019年の教皇訪日に触発され、9月1日からアシジの聖フランシスコの祝日である10月4日までを、「すべてのいのちを守るための月間」と定めました。これは1981年に教皇ヨハネパウロ二世が訪日され、その平和アピールに触発されて8月の平和旬間を定めたように、教皇の「すべての命を守るため」という呼びかけに応えるためであります。

教皇フランシスコは、神がよいものとして与えてくださったこの共通の家を、わたしたちが乱用し破壊しているとして、「ラウダート・シ」の冒頭にこう記しています。

 「この姉妹は、神から賜ったよきものを私たち人間が無責任に使用したり濫用したりすることによって生じた傷のゆえに、今、私たちに叫び声を上げています。私たちは自らを、地球をほしいままにしてもよい支配者や所有者とみなすようになりました」(2)

 さらに教皇は、人間の命が成り立っている三つの関係、すなわち、「神との関わり、隣人との関わり、大地との関わり」が引き裂かれている状況を指摘し、こう記します。

 「聖書によれば、いのちにかかわるこれら三つのかかわりは、外面的にもわたしたちの内側でも、引き裂かれてしまいました。この断裂が罪です。私たちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことで、創造主と人類と全被造界の調和が乱されました」(66)

 すなわち、環境破壊や温暖化も含めて、共通の家である地球の危機は、この三つの関係の破壊による罪の結果であると教皇は指摘されます。そうであればこそ、私たちはその関係の修復に努めなければなりません。その意味で、「ラウダート・シ」は環境問題解決への問いかけの文書ではなく、被造物全体を包括した問題への取り組みへの呼びかけであり、罪の状態を解消するための回心の呼びかけの書でもあります。

 したがって「すべてのいのちを守るための月間」は、具体的なエコロジーの活動への招きと言うよりも、わたしたちの生き方の根本姿勢の見直しの呼びかけであり、神との関係、被造物との関係を見つめ直す具体的な行動への呼びかけを伴って、霊的な深まりと回心へとわたしたちを招いています。

 イザヤ書は、「心おののく人々に言え。雄々しくあれ、恐れるな。・・・神は来て、あなたたちを救われる」という神の励ましの言葉を記しています。

 感染症の状況の中で、普段通りの生活がままならず、また心の頼りである教会にあってもその活動が制限される中で、私たちは先の見通せない不安の闇の中で、恐れを感じています。

 不安におののく者に対してイザヤは、神の奇跡的力の業を記し、その力が「荒れ野に水が湧きいで」るように、不安におののく者に希望を生み出し、命が生かされる喜びを記します。

 使徒ヤコブは、外面的要素で人を判断する行いを批判します。確かにわたしたちは、外に現れる目に見える要素で、他者を判断し、裁いてしまいます。使徒はそれに対して、人間の価値は、神がその人に与えた恵みによって命が豊かに生かされていることにあるのだ、と指摘します。

 私たちは、いのちを生かされている喜びに、満ちあふれているでしょうか。そもそも私たちのいのちは、希望のうちに生かされているでしょうか。喜びに満たされ、希望に満ちあふれるためには、すべての恐れを払拭する神の言葉に聞き入らなくてはなりません。「恐れるな」と呼びかける神の声に、心の耳で聞き入っているでしょうか。

 私たちは、神の言葉を心に刻むために、心の耳を、主イエスによって開いていただかなくてはなりません。「エッファタ」という言葉は、私たちすべてが必要とする神のいつくしみの力に満ちた言葉であります。私たち一人ひとりの命が豊かに生かされるために、神の言葉を心にいただきたい。私たち一人ひとりの心には今日、主ご自身の「エッファタ」という力ある言葉が、福音朗読を通じて響き渡っています。神の呼びかけに、耳を傾けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2021年9月5日

・「主に”心の耳”を開いていただこう」菊地大司教年間第23主日メッセージ

2021年9月 4日 (土)週刊大司教第四十二回:年間第23主日

2021_08_14 東京は涼しい9月の始まりとなりました。年間第23主日、週刊大司教は第42回目となります。

 政治はめまぐるしく動こうとしていますが、その間の感染症対策は継続しています。東京教区では、主に東京都において毎日発表される検査の新規陽性者数、発症日別の感染者数、重症者数、死亡された方々などの数字を参考にしながら、対応を検討していますが、現時点では収まる方向へ向かいつつあると思われます。

 緊急事態宣言は、予定では9月12日までとなっていますが、その後に延長されるという話も伝わってまいります。教区としての公開ミサの自粛を12日以降、どのようにするのかについては、教区のホームページで公示しておりますので、参照ください。

 以下、本日9月4日(土)午後6時に配信した週刊大司教第42回目のメッセージ原稿です。

【年間第23主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第42回 2021年9月5日】

イザヤ書は、「心を騒がせている者に言いなさい。『強くあれ、恐れるな… 神は来られ、あなたがたを救う』」(35章4節)という神の励ましの言葉を記しています。

 感染症の状況の中で、普段通りの生活がままならず、また心の頼りである教会にあってもその活動が制限される中で、私たちは先の見通せない不安の闇の中で、恐れを感じています。

 不安におののく者に対してイザヤは、神の奇跡的力の業を記し、その力が「荒れ野に水が湧き出でる」ように、不安におののく者に希望を生み出し、命が生かされる喜びを記します。

 マルコ福音は、このイザヤの予言の実現として、イエスがなさった奇跡の業を記しています。イエスは「エッファタ」の言葉を持って、耳を開き、口がきけるようにされた、と記されています。さまざまな困難を抱えて命を生きていた人に、希望と喜びを生み出した奇跡です。

 使徒ヤコブは、外面的要素で人を判断する行いを批判します。確かに私たちは、外に現れる目に見える要素で、他者を判断し、裁いてしまいます。使徒はそれに対して、人間の価値は、神がその人に与えた恵みによって、命が豊かに生かされていることにあるのだ、と指摘します。

 私たちは、命を生かされている喜びに、満ちあふれているでしょうか。そもそも、私たちの命は希望のうちに生かされているでしょうか。喜びに満たされ、希望に満ちあふれるためには、すべての恐れを払拭する神の言葉に聞き入らなくてはなりません。

 「恐れるな」と呼びかける神の声に、心の耳で聞き入っているでしょうか。私たちは、神の言葉を心に刻むために、「心の耳」を主イエスによって開いていただかなくてはなりません。

 「エッファタ」という言葉は、私たちすべてが必要とする神の慈しみの力に満ちた言葉であります。私たち一人ひとりの命が豊かに生かされるために、神の言葉を心にいただきたい。だからこそ、私たち一人ひとりには今日、主ご自身の「エッファタ」という力ある言葉が必要です。

 ところで、教皇フランシスコは2015年に回勅「ラウダート・シ」を発表され、教会が「共通の家」である地球環境のさまざまな課題に真摯に取り組むことの重要性を強調されました。その啓発と霊的な深まりのため、毎年9月1日を「被造物を大切にする世界祈願日」と定め、アシジのフランシスコの記念日である10月4日までを、被造物を保護するための祈りと行動の月間、「被造物の季節(Season of Creation)」としています。

 日本の教会も、2019年の教皇訪日に応える形で、この期間を「すべてのいのちを守るための月間」と定め、昨年からさまざまな呼びかけを行っています。

 教皇さまは「ラウダート・シ」において、「総合的エコロジー」という言葉をしばしば使われ、「環境への配慮とは、単に気候変動に対処しようとか、温暖化を食い止めようとかいう単独の課題への取り組みを意味するのではなく、全体としての「共に暮らす家」を大切にすることである」と強調されます。

 そのため、命に関わるさまざまな課題を総合的に考えなくてはならず、究極的には、「この世界で私たちは何のために生きるのか、私たちはなぜここにいるのか、私たちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、私たちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160項)に真摯に向き合うことが求められています。

 すべての命を大切にせよ、と命じられる神の言葉を心に刻むために、主の「エッファタ」という力強い言葉によって、心の耳を開いていただきましょう。神の言葉に心を向けましょう。

(編集「カトリック・あい」=表記は当用漢字表記で統一、聖書の引用な「聖書協会・共同訳」で統一しています)

 

 

2021年9月4日

・「困難の中でも愛と慈しみを実践する者となろう」菊地大司教の年間第22日主日説教

年間第二十二主日:東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)

     8月29日、年間第二十二主日の午前10時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂から配信した大司教司式ミサの説教原稿です。前日土曜日午後6時配信の週刊大司教のメッセージは、この説教の短縮版ですので、多少重複するところがあるのはお許しください。

【年間第22主日B(配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年8月29日】

  緊急事態宣言は継続しており、社会生活にあって私たちには、感染対策として慎重な行動をとる必要がまだまだ求められています。すべての命を守る選択として、また隣人愛にもとづく行為として、教会は現在の選択を続けていきたいと思います。同時に病床にある方々の一日も早い回復と、命を助けるために日夜努力を続けておられる医療関係者の方々のために、改めて祈りたいと思います。

 私たちは、実際に教会に集まってともに感謝の祭儀にあずかることのできない今だからこそ、主イエスの私たちの間での現存について考えてみたいと思います。

 主は救いの業を成し遂げるために、「常にご自分の教会とともにおられ、特に典礼行為のうちにおられる」と記す第二バチカン公会議の典礼憲章は、続けて、「キリストはミサのいけにえのうちに現存しておられる」と指摘します。(7)

 その上で、主ご自身はミサのいけにえをささげる奉仕者のうちに現存し、「何よりも聖体の両形態のもとに現存しておられる」と強調します。

 しかし同時に典礼憲章は、「キリストはご自身のことばのうちに現存しておられる」とも記し、「聖書が教会で読まれるとき、キリスト自身が語られるからである」と指摘します。この指摘には重要な意味があります。ミサにおいて聖書が実際に声にして朗読される意味は、書かれている言葉が朗読されることによって、生きた神の言葉として、私たちの心に届くからです。ミサのいけにえにおいて、御聖体の秘跡を大切にするキリスト者は、同時に神の言葉の朗読をないがしろにすることはできません

 同じ公会議の啓示憲章は、「教会は、主の御身体そのものと同じように聖書を常にあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、絶えずキリストの体と同時に神の言葉の食卓から命のパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)と記して、命のパンとしての主イエスの現存である神の言葉に親しむことは、聖体の秘跡にあずかることに匹敵するのだ、と指摘しています。

 使徒ヤコブは、「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなた方の魂を救うことが出来ます」と書簡に記しています。

 その上で使徒は、その心に植え付けられた御言葉、すなわち主ご自身を「聞くだけで終わる」ような自分を欺いた者ではなく、「御言葉を行う人になりなさい」と呼びかけます。私たちは、典礼の中で語られる神の言葉に現存される主を心にいただき、常にその呼びかけに応える者でありたいと思います。

 朗読される御言葉を通じて、神が今日、私たちに何を呼びかけておられるのか、この喧噪に満ちあふれた社会のただ中で、心の耳を澄ます謙遜な者でありたいと思います。

 あふれんばかりに与えられ、私たちを取り囲む情報に翻弄され、時に私たちの心の耳は、神の御言葉を聞き逃してしまうことがあります。心の耳を研ぎ澄ます者でありたいと思います。

210829d さて、申命記は、イスラエルの民がモーセを通じて神の掟と法を与えられ、それに忠実に生きることで命を得るように、と命じられた話を記しています。さらに、「掟と法を守る」というその民の忠実さを通じて、諸国民が神の偉大さを知るようになる、とも記します。

 すなわち、神の掟と法を守ることは、自分自身の救いのためだけなのではなく、神の栄光をすべての人に対して具体的に表すためであります。

 マルコ福音では、ファリサイ派と律法学者が、定められた清めを行わないままで食事をするイエスの弟子の姿を指摘し、掟を守らない事を批判します。それに対してイエスは、ファリサイ派や律法学者たちを「偽善者」と呼び、掟を守ることの本質は人間の言い伝えを表面的に守ることではなく、神が求める生き方を選択するところにある、と指摘されます。

 この一年以上、私たちは、感染対策の基本として、手を洗ったりうがいをしたり、人と交わるときにマスクをしたりすることが、ある意味で当然、と考えられるような現実の中にいます。

 もちろんそういった選択が法で定められているわけではありませんが、繰り返すうちに、「当たり前の行動」となり、そしてそれが長期に及ぶに至って、ルーティン化してしまうこともあり得ます。さすがに今の段階で、そういった行動の持つ意味が忘れられた、ということはないでしょうが、仮に何年も続けば、「なぜ手を洗うのか」「なぜうがいをするのか」の背後にある理由が顧みられなくなり、ただ手を洗うことやマスクをすることやうがいをする、という行為自体が大切だ、と思うようになる可能性もあります。

 マタイ福音の5章17節には、「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」というイエスの言葉が記されています。

 定められた掟の背後にある理由、すなわち「神の望まれる生き方に近づくための道しるべ」として与えられた法や掟の役割を思い起こし、人間の言い伝えではなく、神の望みに従って道を歩むことが、掟や法の「完成」であります。

 使徒ヤコブが記しているように、その掟や法を定められた背景にある神の呼びかけを、馬耳東風のごとく聞き流すのではなく、神の思いに忠実である者、すなわち「御言葉を行う人」になることこそが、求められています。

 あらためて言うまでもなく、私たちキリスト者は、すべからく福音宣教者として生きるように招かれています。教皇フランシスコは、「福音の喜び」にこう記します。

 「洗礼を受けたすべての人には例外なく、福音宣教に駆り立てる聖霊の聖化する力が働いています。(119)」

 その上で教皇は、「イエス・キリストにおいて神の愛に出会ったかぎり、すべてのキリスト者は宣教者です。・・・最初の弟子たちに目を向けてください。彼らはイエスのまなざしに出会った直後、喜んでそれを告げ知らせに行きます… 一体、私たちは何を待っているのでしょうか。(120)」と記し、福音宣教者としての召命に、私たち一人ひとりが目覚めるように促します。

 福音を告げるためには、私たち自身がそれに生きていなくてはなりません。私たちは、単に知識としての信仰を語り伝えるのではなく、信仰を具体的に生きることによって、私たちが人生で出会う人を、「キリストとの個人的出会い」へと招かなくてはなりません。

 そのためにこそ、私たちは、神の言葉をただ聞いて理解する者に留まらず、具体的に行う者となる必要があるのです。

 私たちは、聖体の秘跡を通じて、現存される主と出会いますが、同時に典礼において語られる神の言葉を通じても出会っていることを思い起こしましょう。そして、語られる御言葉に心の耳を傾け、主の語りかけを具体的に生きる者となりましょう。

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  以下は8月28日午後6時配信の、週刊大司教のメッセージ原稿です。

2021年8月28日 (土)週刊大司教第四十一回:年間第22主日

Mariapieta

   8月の最後の主日、年間第二十二主日です。土曜日夕方配信の週刊大司教も第41回目です。(上の写真は、師イエズス修道女会のシスター作品)

   ご存じのように、東京教区では9月12日(日)までの小教区でのミサを、非公開としています。大変申し訳ないと思いますが、どうかご理解ください。

   聖体拝領についてのご質問をいくつかいただいていますが、基本的に御聖体はミサの中でいただくのですが、病気の時など事情がある場合には、司祭に依頼して他の機会に拝領することが出来ます。

    現在は、ミサが非公開になっていますし、信徒の皆さんには主日のミサにあずかる義務を免除するという「通常ではない」状態であります。通常ではないのですから、信徒の皆様にあっては、ミサにあずかれない中で、聖体拝領を司祭に直接お願いすることができます。ミサ以外の時にも、司祭は個別に聖体を授けることが出来ますから、直接、小教区の司祭にご相談ください。

   それから聖歌に関するお問い合わせもいただいています。通常、youtubeの関口教会アカウントから配信される主日ミサは、原則として関口教会の信徒を対象としていますので、聖歌なども関口教会で通常歌われる聖歌が関口教会の聖歌隊によって歌われます。日本の教会では、典礼聖歌集とカトリック聖歌集が主に使われていますが、教会によっては他の歌集や独自の歌集を採用しているところも少なくありません。

    通常の日曜日の配信に関しては、関口教会の独自の配信ですので、配信ミサにあずかる方の手元に歌集がない可能性に関しては、御寛恕ください。譜面を画面上に出すことは、さまざまな制約があるため、出来ません。

  しかし、現在のようにミサの公開が中止となっている間は、関口教会のyoutubeアカウントから日曜10時のミサを配信しますが、これは大司教司式で、先唱、朗読、聖歌なども関口教会ではなくイエスのカリタス会のシスター方にお願いしています。こちらは、ミサの配信の対象をすべての方にしていますので、聖歌もできる限り、お手元に聖歌集がある歌にするよう努めます。

  ただ聖体拝領時には、一緒に歌うと言うよりも感謝の黙想の助けとして聞いていただきたいので、一般の歌集にない歌も使われます。できる限り譜面が手元にあるような聖歌を使うように努力いたします。なお譜面を画面上に映し出すことは、さまざまな制約があるため出来ません。

  なお、週刊大司教に関しては、始めの歌、途中の演奏、終わりの歌のすべてが、私の作曲ですので著作権の問題はありません。演奏者名は最後に短いですがクレジットされています。許可いただいた演奏者の皆さん、ありがとうございます。

( 年間第22主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第41回 2021年8月29日) 

   申命記は、イスラエルの民がモーセを通じて神の掟と法を与えられ、それに忠実に生きることで命を得るように、と命じられた話を記しています。さらに、掟と法を守るというその民の忠実さを通じて、諸国民が神の偉大さを知るようになるとも記します。すなわち、神の掟と法を守ることは、自分自身の救いのためだけではなく、神の栄光を具体的に表すためであり、新約の言葉で言えば、福音宣教の業であります。

   使徒ヤコブは、私たちの心に植え付けられた神の言葉こそが神からの賜物であり、その言葉は救いを与える真理の言葉であると記します。その上で使徒は、心に植え付けられた御言葉を「聞くだけで終わる」ような自分を欺いた者ではなく、「御言葉を行う人になりなさい」と呼びかけます。

   マルコ福音は、ファリサイ派と律法学者が、定められた清めを行わないままで食事をするイエスの弟子の姿を指摘し、掟を守らない事実を批判する様が描かれています。それに対して福音は、ファリサイ派や律法学者たちを「偽善者」と呼び、掟を守ることの本質は人間の言い伝えを表面的に守ることではなく、神が求める生き方を選択するところにあると指摘したイエスの言葉を記します。

    マタイ福音の5章17節には、「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」というイエスの言葉が記されています。さまざまな掟や法が定められた背後にある理由、すなわち神の望まれる生き方に近づくための道しるべとして与えられた役割を思い起こし、人間の言い伝えではなく、神の望みに従って道を歩むことが、掟や法の「完成」であります。すなわち、使徒ヤコブが記しているように、その掟や法を定められた神のことばを、馬耳東風のごとく聞き流すのではなく、「御言葉を行う人」になることこそが、求められています。

   改めて言うまでもなく、私たちキリスト者は、すべからく福音宣教者として生きるように招かれています。教皇フランシスコは「福音の喜び」にこう記しておられます。

 「洗礼を受けたすべての人には例外なく、福音宣教に駆り立てる聖霊の聖化する力が働いています」(119)

 その上で教皇は、「イエス・キリストにおいて神の愛に出会ったかぎり、すべてのキリスト者は宣教者です。・・・最初の弟子たちに目を向けてください。彼らはイエスのまなざしに出会った直後、喜んでそれを告げ知らせに行きます。・・・一体、私たちは何を待っているのでしょうか」(120)と記し、福音宣教者としての召命に、私たち一人ひとりが目覚めるように促します。

 福音を告げるためには、私たち自身がそれに生きていなくてはなりません。わたしたちは、単に知識としての信仰を語り伝えるのではなく、信仰を具体的に生きることによって、私たちが人生で出会う人をキリストとの個人的出会いへと招かなくてはなりません。

 そのためにこそ、私たちは、神の言葉を、ただ聞いて理解する者に留まらず、具体的に行う者となる必要があるのです。

 困難な状況が続く中で、不安の暗闇は、私たちを分断と対立へと誘います。私たちは神の言葉を行うものとして一致を実現するために、愛と慈しみを実践する者となりましょう。

 

(編集「かとりっく・あい」=漢字の表記は当用漢字表記に統一、聖書の引用は『聖書協会・共同訳』に)

2021年8月28日

・「主は常に、私たちを出会いへと招いておられる」菊地大司教の年間第21主日メッセ―ジ

2021年8月21日 (土)週刊大司教第四十回:年間第21主日

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 週刊大司教も、今回で通算40回目の配信となりました。ご視聴いただいている皆様の、何らかの霊的な手助けとなっているのであれば幸いです。現在のような社会の状況ですので、この週刊大司教の配信は、このままの形で、今年の待降節前あたりまでは継続する予定です。その後、同じ形で続けるかどうかは、状況を見ながら考えてまいります。

 なお8月16日から9月12日まで、東京教区では、小教区におけるミサの公開を中止にしています。東京教区でミサの公開中止は、昨年来のコロナ禍にあって、今回が2回目です。公開を中止している間は、関口教会の日曜日午前10時のミサを大司教司式ミサとして配信いたします。

 週刊大司教は、Youtubeのカトリック東京大司教区のアカウントから配信されます。このページに入って「動画」というところをクリックしていただくと、過去のすべての週刊大司教やロザリオの祈りをご覧いただくことができます。

 関口教会のミサの配信は、Youtubeのカトリック関口教会のアカウントです。こちらもそのページに到達して「動画」というところをクリックいただくと、過去の大司教司式ミサをご覧いただくことが出来ます。小教区のミサ配信動画は保存いたしませんが、大司教司式ミサに関しては動画を保存してあります。

 なお霊的聖体拝領ではなく、実際に拝領を希望される方は、それぞれの主任司祭にご相談ください。なおカテドラルの関口教会では、以前より、毎週木曜日の午後1時から聖体礼拝を行っていますが、その際にも、司祭にご相談くだされば、聖体拝領が可能です。

 以下、21日午後6時配信の、週刊大司教第40回目のメッセージ原稿です。

 【年間第21主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第40回 2021年8月22日】

 ヨシュア記は、イスラエルの全部族に対して、ヨシュアが決断を求める様子を記しています。主に仕えるのか、他の神々に仕えるのか、それは自由なのだから自分で決断せよ、とヨシュアは民に迫ります。もちろんイスラエルの民は、「主を捨てて、他の神々に仕えることなど、するはずがありません」と応えて、唯一の神への忠誠を誓います。神の偉大な力によって解放された救いの記憶が、心に刻み込まれていたからに他なりません。

 ヨハネ福音は、同じように自己決断を迫るイエスの姿が描かれています。自らを「命のパン」として示され、ご自分こそが、すなわちその血と肉こそが、永遠の命の糧であることを宣言された主を、人々は理解することができません。多くの人が離れていく中で、イエスは弟子たちに決断を迫ります。「あなた方も離れていきたいか」。

 ペトロの言葉に、弟子たちの決断が記されています。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」。日本の教会が、長年にわたって聖体拝領の前に唱えてきた言葉の一部です。その前には、マタイ福音の言葉から、「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧」が唱えられます。

 私たちは、「主こそが永遠の命の糧であり、主こそいのちの言葉であり、主こそが真理へと至る道である」と信じるように、決断を促されています。「救いへと至る命の希望は、主イエスにしかあり得ない」と信じるように、決断を促されています。「いつまでも共にいる」と約束されたのは主ご自身であって、ヨシュアがそう迫ったように、私たちはそれを信じると決断することも、離れていくことも、自由です。

 私たちが、主の現存を信じ、選び取る決断するためには、イスラエルの民の決断の根底に、エジプトからの解放の記憶があったように、私たち自身と主との出会いの体験の記憶が不可欠です。

 それでは私たちは、一体どこで主と出会うのでしょうか。

 「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたこと」と述べられる主は、生活の現実の中でのさまざまな出会いを通じて、とりわけ神の愛と慈しみを具体的に表す出会いを通じて、個人的に出会う機会を与えられます。

 同時に、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」と約束された主は、共同体の交わりの中で出会いの機会を与えられます。しかしそれ以上に、主は御聖体における現存のうちに、私たちを個人的な出会いへと招いておられます。

 私たちの信仰にとって、キリストとの生きた関係が重要だ、と回勅「神は愛」に記された教皇ベネディクト16世は、2011年の主の晩餐のミサの説教で、こう述べておられます。

 「聖体は、一人ひとりの人が深く主に近づき、主と交わる神秘です… 聖体は一致の秘跡です… 聖体は主との極めて個人的な出会いです。にもかかわらず、聖体は単なる個人的な信心業ではありません。私たちは感謝の祭儀を共に祝わなければなりません。主はあらゆる共同体の中に完全なしかたで現存されます」

 主は常に、私たちと共に道を歩んでおられます。主は常に、私たちを出会いへと招いておられます。その主に留まるという私たちの決断を、共同体の決断を、待っておられます。

(編集「カトリック・あい」)

2021年8月21日

・「聖母の取り次ぎに信頼し、全被造界が神の望まれる状態となるように」菊地大司教の聖母の被昇天説教

2021年8月14日 (土)週刊大司教第三十九回:聖母の被昇天

  以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第三十九回聖母の被昇天のメッセージ原稿です。

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【聖母の被昇天(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第39回 2021年8月15日】

 「共に手を取り合って、友情と団結のある未来を作ろうではありませんか。窮乏の中にある兄弟姉妹に手を差し伸べ、空腹に苦しむ者に食物を与え、家のない者に宿を与え、踏みにじられた者を自由にし、不正の支配するところに正義をもたらし、武器の支配するところには平和をもたらそうではありませんか」

 1981年の2月25日、教皇ヨハネパウロ二世は、広島での平和メッセージの中で、特に若者に対して呼びかけて、このように述べられました。イデオロギーの相違からくる東西の対立が深刻となり、全面的な核戦争の可能性も否定できなかった時代に、教皇は「戦争は人間の仕業です。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」と、広島の地から力強く宣言されました。

 それから38年後、同じ広島の地から、教皇フランシスコはこう呼びかけられました。

 「だからこそ、私たちは、共に歩むよう求められているのです。理解と赦しのまなざしで、希望の地平を切り開き、現代の空を覆うおびただしい黒雲の中に、一条の光をもたらすのです」 人間は命の危機を避けるために、「友情と団結」のうちに「共に歩む」ことを通じて行動できるはずだ、と教皇たちは広島から平和のための行動を求めて声を上げました。

 教皇フランシスコは「Fratelli futti」にこう記します。 「新型コロナウイルスの大感染が突如、発生し、安全が見せかけであることが暴露されました… 国同士が協力できないことは非常に明白になりました。私たちがインターネットによって高度に緊密に結ばれている中で、私たち全員に影響を与える問題を解決することを、より困難にする断片化を目の当たりにしましたた… 私が強く希望するのは、この私たちの時代に、一人ひとりの尊厳を認めることによって、友愛への普遍的な願望の再生に貢献できることです」(7~8項参照)。

 神の秩序が確立された世界、すなわち平和を求めて、国際的な連帯が不可欠であることが浮き彫りになりました。残念ながら、「友情と団結」のうちに「共に歩む」連帯は実現していません。 聖母被昇天にあたり、ルカ福音は、聖母讃歌「マグニフィカト」を記します。聖母マリアは、全身全霊をもって神を褒め称える理由は、へりくだるものに目を留められる主の慈しみにあるのだ、と宣言されています。

 すなわち、人間の常識が重要だと判断している「当たり前の価値観」とは異なる、神ご自身の価値観に基づいて、自らが創造されたすべての命が、一つの例外もなく大切なのだ、と言うことを証しするため、神は具体的に行動された。そこに神の偉大さがあるのだ、と聖母は自らの選びに照らし合わせて宣言します。神ご自身の価値観は、「思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き降ろし」、排除された人々を兄弟愛のうちに連れ戻す価値観であり、まさしく「友情と団結」のうちに「共に歩む」連帯に支えられています。 教皇フランシスコは、「ラウダート・シ」の終わりに、こう記しておられます。

 「イエスを大切になさった母マリアは、今、傷ついたこの世界を、母としての愛情と痛みをもって心にかけてくださいます… 天に上げられたマリアは、全被造界の母であり女王です」(241項)

 聖母の悲しみに心をとめ、その取り次ぎに信頼しながら、全被造界が神の望まれる状態となるよう、神の平和の実現のために、共に歩んで参りましょう。

(編集「カトリック・あい」=表記は原則として当用漢字表記に統一、また回勅|Fratelli tutti(兄弟の皆さん)」の翻訳は公式英語訳から「カトリック・あい」が翻訳し、掲載中のものとさせていただきました)

2021年8月14日

・「ミャンマーの地に、神の望まれる平和が確立されますように」菊地大司教の「平和を願うミサ」説教

【2021.8.8 平和旬間「平和を願うミサ」@関口教会】 

 今年の平和旬間の諸行事は、感染症の状況のために中止となりましたが、8月8日、年間第19主日に、それぞれの小教区で「平和を願う」意向でミサを捧げていただきました。今年は、すでにお知らせしているとおり、姉妹教会であるミャンマーの教会のため、またミャンマーの人々のため、その平和のために特に祈り、特別献金もお願いしています。なおミサ以外の特別献金も受け付けていますので、こちらのリンクから、教区ホームページをご覧ください。

 平和旬間の「平和を願うミサ」として、8日午前10時の関口教会主日ミサを大司教司式ミサといたしました。またこのミサには、ミャンマーからの信徒の方や、ミャンマー出身のミラノ宣教会司祭で府中教会助任のビンセント神父様も参加してくださり、祈りのうちに連帯を強めました。

 以下、本日のミサの説教原稿です。

【東京大司教区「平和を願うミサ」2021年平和旬間 東京カテドラル聖マリア大聖堂】

 今年も8月6日から15日まで、日本の教会は平和旬間を迎えます。1981年に日本を訪問された教皇聖ヨハネ・パウロ2世は、広島での「平和アピール」で、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」と言われました。それ以来、日本の教会は、戦争を振り返り、平和を思うとき、平和は単なる願望ではなく具体的な行動が必要であることを心に刻み、この10日間を過ごしてきました。

 東京教区ではこれまで、平和旬間委員会を設け、平和旬間の企画運営を行ってきましたが、昨年に続き今年もまた感染症の状況の中、特に今年は緊急事態宣言の下、平和行進や講演会などのすべての企画を中止とせざるを得ない状態になっています。大変残念ですが、しかし、だからと言って、平和のために祈ることを諦める必要はありません。私たちは、この10日間を通じて、また特に今日のミサを通じて、神の望まれる世界の実現である平和が確立されるように、それぞれの場で、共に祈りをささげたいと思います。

 今年の平和旬間は、特に東京教区の姉妹教会であるミャンマーの教会に思いを馳せ、ミャンマーの人々のために、またその平和のために特に祈る時としたいと思います。

 2021年2月1日に発生したクーデター以降、ミャンマーの国情は安定せず、人々とともに平和を求めて立ち上がったカトリック教会に対して、暴力的な攻撃も行われています。ミャンマー司教協議会会長であるチャールズ・ボ枢機卿は、5月23日夜、ミャンマー東部、ロイコー県カヤンタヤルの聖心教会への攻撃によって4名が亡くなり、大勢が負傷した時に声明を発表され、そこにこう記しておられます。

 「私たちは、地域社会の文化財である礼拝所が、国際協定による保護対象となっていることに注目していただきたいと思います。教会、病院、学校は、ハーグ陸戦条約によって紛争時であっても保護されています。そもそも国際協定を持ち出すまでもなく、そこで流された血は、敵の血ではないことを忘れないでください。亡くなった方も負傷した方もこの国の国民です。彼らは武装さえしていませんでした。家族を守るために、教会の中にいただけなのです。この国のすべての心が、罪のない人々の死に涙しています。今、何百人もの人々が亡くなり、何千人もの人々が難民や国内避難民となっています」

 その上でボ枢機卿は、「平和は可能です。平和こそ唯一の道です」と呼びかけています。

 ボ枢機卿はクーデター直後の3月に発表したビデオメッセージで、現在のミャンマーの状況を克明に述べた後、次のように教会の使命を指摘しています。

 「しかし、このような暗い時代にあっても、私たちに呼びかける主の声が聞こえます。教会が証人となり、正義と平和と和解の道具となり、主の手と足となって貧しい人々や恐れている人々を助け、愛をもって憎しみに対抗するように、と」

 ボ枢機卿のこの呼びかけに応え、姉妹教会である私たちは、ミャンマーの地に神の望まれる平和が確立されるように、教会としての使命を果たしていきたいと思います。

 ところで教皇ヨハネ23世は、回勅「地上の平和」の冒頭に、教会が考える「平和」の意味を明らかにして、こう記しています。

 「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」

 教会が語る「平和」とは、「神の定めた秩序が実現している世界」、すなわち「神が望まれる被造物の状態が達成されている世界」を意味しています。神からの賜物である命が危機にさらされているような状況は、神が望まれる状態ではありません。恐れが支配する社会は、神が望まれる状態ではありません。憎しみが支配する社会は、神が望まれる状態ではありません。私たちは、神の望まれる社会の実現、すなわち平和のために働き続けたいと思います。

 このミサの第一朗読の列王記には、預言者エリヤがバアルの祭司たちと対峙し勝利した後、王妃イゼベルから恨みを買って、荒れ野へと逃れていく話が記されていました。神の道に忠実であり、その義を貫徹しようとすることは命がけであることが明示されている一方、精根尽き果てた義の人エリヤを、神は励まし続けたとも記されています。

 神の与えた使命を果たそうとする人に、神は寄り添って励ましてくださいます。私たちは、神が望まれる秩序の確立した世界、平和に満ちあふれた世界を実現しようとしています。しかしその神の望みに忠実であることは、たやすいことではありません。教皇ヨハネパウロ二世やオスカル・ロメロ大司教の人生がそうであったように、平和を求め行動することは、時に命の危機を伴います。それでも私たちは、主が共におられ、慰めを与えてくださることを信じています。

 パウロはエフェソの信徒への手紙で、私たちを生かし力づけてくださる聖霊に逆らうことなく、神に倣うものとして、「互いに親切で憐れみ深い者となり… 赦し合いなさい」(4章32節)と勧めます。

 ヨハネ福音は、先週に続けて、主ご自身が「命のパン」(6章48節参照)であり、「天から降ってきた生けるパン」(同52節参照)を食べるものは、「永遠に生きる」(同)と宣言された言葉を記しています。

 主ご自身が自ら十字架へと歩まれたその自己犠牲の理由は、賜物であるいのちを生かし続けようとする神の愛であることが、ここに明示されています。わたしたちには、キリストをいただくものとして、すべての命を守り生かそうとする神の愛に応えて生きる務めがあります。

 パウロが指摘するように、「恨み、憤り、怒り、わめき、冒瀆」(同4章31節参照)は、「一切の悪意」」(同)と共に、命を大切にする行動とは、対極にあり、すなわち平和を破壊する行動につながります。しかし「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなた方を赦してくださったように、赦し合う」ことは、命を守る行動に繋がり、平和を築き上げます。

 教皇フランシスコは、2019年長崎の爆心地公園を訪れ、命を守るために費やされるべき資源が、軍事的争いのために使われ続けている事実を指摘し、こう述べられました。

 「軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは神に歯向かうテロ行為です」

 その上で教皇は、「どうか、祈り、一致の促進の飽くなき探求、対話への粘り強い招きが、私たちが信を置く『武器』でありますように。また、平和を真に保証する、正義と連帯のある世界を築く取り組みを鼓舞するものとなりますように」と呼びかけられました。

 慰め主である主が、常に共におられ、力づけてくださることを心に刻みながら、神の平和の確立を求めて、神の愛が支配する世界の実現を目指して、祈り、語り、行動して参りましょう。

(編集「カトリック・あい」=漢字表記は当用漢字表記に統一、聖書の引用は、原典に最も近く、正確な現代日本語訳であるカトリック、プロテスタント共同制作の「聖書協会・共同訳」にさせていただきました)

2021年8月8日

・「『平和』とは、『戦争がない』ことだけを意味しない」菊地大司教の年間第19主日説教

2021年8月 7日 (土)週刊大司教第38回:年間第19主日

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 暑い毎日が続いております。暑いとは言え、8月7日は立秋です。ですので、この場を借りて、教区の皆様に残暑お見舞い申し上げます。どうか暑さに気をつけて、同時に感染対策も怠らずに、安全にお過ごしください。

 現在東京教区が管轄する東京都と千葉県は、緊急事態宣言の対象となっています。この数日発表される、毎日の新規陽性者の数も高い数字が連続しています。加えて「感染力が高いと言われるデルタ株が、広まっている」という報道もありました。

 高齢の方を中心にワクチン接種が進んでおり、高齢者が感染しても重症化は避けられている、という話も耳にしますが、慎重な感染対策を続けることは必要です。

 マスクをすること、手洗いやうがいを徹底すること、互いの距離をとることは、絶対に忘れないでください。加えて、教会でお願いしている、一斉に歌ったり祈りを唱えないことを、徹底してくださるようにお願いします。6日の東京都知事の記者会見では、マスク着用や手指の消毒の徹底に加えて、施設の入場制限を徹底することや、互いの距離を1.8mはとることが強く求められています。聖堂の人数制限の厳守と、互いの距離の確保を、今一度、徹底してくださるように、お願いします。

 その上で、特にミサが終わった後のことですが、ミサの前も同様です。互いのおしゃべりを避けてください。そもそも聖堂では、日頃からいわゆる「おしゃべり」は避け、沈黙のうちに祈りの雰囲気を保っていただきたいのです。そして、対策への慣れもあるのだと思いますが、中にはよく聞き取れないからとマスクをずらしたり、互いに近づいたり、大声になったり、数名の方が密集したりされる方も見られるようです。今少し慎重に行動してくださるようにお願いします。

 私としては、安全を十分に確保しながら、できる限りミサの公開を継続し、秘跡にあずかっていただく機会を確保したい、と願っています。ですので、どうか今しばらくの間は、慎重な対策の徹底をお願いします。

 すでに何度もお知らせしているように、ミサ参加者の受付をしてくださる方や消毒を担当してくださる方の確保が難しい場合、またそういった方々から不安が聞かれる場合は、主任司祭は「ためらわず」に、公開ミサを中止してください。地域によって感染の事情が大きく異なっていますので、基本的には、「今はミサのために聖堂に集まることは難しいことなのだ」という認識を大前提にお考えください。

 少しでも体調のすぐれない方や、不安のある方は、どうか自宅でお祈りください。主日のミサの義務は、現在も教区全体に対して免除しています。

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以下、週刊大司教第38回のメッセージ原稿です。

【年間第19主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第38回 2021年8月8日】

列王記は、預言者エリヤがバアルの祭司たちと対峙し勝利した後、王妃イゼベルから恨みを買って、荒れ野へと逃れていく話を記します。

神の道に忠実であり、その義を貫徹しようとすることは命がけであることが明示されている一方、精根尽き果てた義の人エリヤを、神は励まし続けたとも記されています。神の与えた使命を果たそうとする人に、神は寄り添って励ましてくださいます。

パウロはエフェソの信徒への手紙で、私たちを生かし力づけてくださる聖霊に逆らうことなく、神に倣うものとして、「互いに親切にし、憐れみに心で接し… 赦し合いなさい」と勧めます。神の聖霊に満たされているものは、キリストご自身が愛ゆえにあがないのいけにえとなられたことに倣い、愛によって歩むのだとパウロは指摘します。

ヨハネ福音は、先週に続けて、主ご自身が「命のパン」であり、「天から降ってきた生きたパン」を食べるものは、「永遠に生きる」と宣言された言葉を記しています。

賜物である命を生かし続けようとする神の愛は、主ご自身が自ら十字架へと歩まれたその行為のうちに明示されています。私たちには、キリストをいただくものとして、その神の愛、すなわちすべての命を守り生かそうとする神の愛に応えて生きる務めがあります。

私たちにとって、すべての命を守るために行動することは、平和のための行動でもあります。パウロが指摘するように、「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど」は、「一切の悪意」」とともに、命を大切にする行動とは対極にあり、すなわち平和を破壊する行動につながります。しかし「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなた方を赦してくださったように、赦し合うこと」が、命を守る行動に繋がり、平和を築き上げます。

「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことです」と、教皇ヨハネパウロ二世は、1981年に広島で述べられました。

第二次世界大戦が終結してから今に至るまで、戦争の悲惨な現実が繰り返し多くの人によって語り続けられてきたのは、戦争が自然災害のように避けることのできない自然現象なのではなく、まさしく教皇ヨハネパウロ二世が広島で指摘されたように、「戦争は人間の仕業」であるからに、他なりません。そして、「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものでは」ないからこそ、その悲劇を人間は自らの力で避けることが可能です。

教皇フランシスコは、長崎の爆心地公園で、こう述べられました。

「軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来、それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは神に歯向かうテロ行為です」

教会にとって「平和」とは、「戦争がない」ことだけを意味してはいません。それは神の秩序が確立された状態であり、すべての命が大切にされている「共通の家」で、「誰も排除されることのない社会」を実現することであります。天上での完成の日を目指して、私たちは神が愛をもって創造されたこの世界を、日々、神の望まれる姿へ近づける努力を怠ってはなりません。その使命を果たす努力を続ける私たちに、なかなかゴールに到達できず疲れ切った私たちに、主は常に寄り添い、共に歩んでくださいます。

(編集「カトリック・あい」=表記を当用漢字表記にそろえています)

2021年8月7日

・「コロナ禍の中で平和を祈る、特にミャンマーの人々のために」菊地大司教・平和旬間に

【菊池大司教の日記 2021年8月 6日 (金) 2021年の平和旬間】

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 8月6日は主の変容の主日であるとともに、広島における原爆投下を記憶する日でもあります。多くの方が一瞬にしていのちを奪われ、その後も影響を残した破壊的な核兵器は、決して使われてはならないという思いを新たにし、戦争で亡くなられた多くの方の永遠の安息を祈ります。

 教皇ヨハネパウロ二世が、1981年に広島の地から世界に向けて発信された言葉が響きます。

「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。この広島の町、この平和記念堂ほど強烈に、この真理を世界に訴えている場所はほかにありません」

「過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです。1945年8月6日のことをここで語るのは、われわれがいだく『現代の課題』の意味を、よりよく理解したいからです。あの悲劇の日以来、世界の核兵器はますますふえ、破壊力をも増大しています」

 同じ広島の地で、2019年、教皇フランシスコは世界に向けてこう語りかけておられます。

「私は謹んで、声を発しても耳を貸してもらえない人たちの声になりたいと思います。現代社会が置かれている増大した緊張状態、人類の共生を脅かす受け入れがたい不平等と不正義、わたしたちの共通の家を保護する能力の著しい欠如、あたかもそれで未来の平和が保障されるかのように行われる継続的あるいは突発的な武力行使を、不安と苦悩を抱いて見つめる人々の声です」

「戦争のために原子力を使用することは、現代においては、これまで以上に犯罪とされます。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反する犯罪です。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています」

 日本の教会は、教皇ヨハネパウロ二世の平和への願いに触発されて、日本訪問の翌年から、8月6日の広島の日に始まり、9日の長崎の日、そして15日の終戦の日にいたる10日間を「平和旬間」と定めて、亡くなられた方々の永遠の安息を祈り、戦争の記憶を伝え、平和のために祈る時としてきました。

 私たちが語る平和は、単に戦争や紛争がない状態なのではなく、神が望まれる世界が実現すること、すなわち神の秩序が支配する世界の実現です。私たちは日々、主の祈りにおいて、「御国が来ますように」と祈りますが、それこそは神の平和の実現への希求の祈りです。求めて祈るだけではなく、私たちがそのために働かなくてはなりません。その意味で福音宣教は平和の実現でもあります。

 毎年、8月5日には、広島教区で開催される平和記念行事に全国の司教が参加してきましたが、今年は現在のような状況であるため、私は参加を取りやめました。本来は平和公園からカテドラルまで平和行進も行われてきたのですが、昨年に続いて今年も中止となりました。

 東京教区でも例年は平和旬間委員会を設け、平和旬間の企画運営にあたり、教区全体として、また宣教協力体として、さまざまな企画を行ったり、祈りの時を設けたり、平和行進をしたりして、この10日間を過ごしてきました。しかし昨年に続き今年もまた感染症の状況の中、特に今年は緊急事態宣言の下、また毎日報告される新規陽性者の数も増加する中で、すべての企画を中止とせざるを得ない状態になっています。

 すでにお知らせしていますが2021年の平和旬間は、特に東京教区の姉妹教会であるミャンマーの教会に思いを馳せ、ミャンマーの人々のために、またその平和のために特に祈る時としたいと思います。東京教区のホームページに、特設サイトを設けたりますのでご覧ください。Myanmarb2

 ミャンマーは2021年2月1日に発生したクーデター以降、平和からはほど遠い状況にあります。また感染症への対策も後手に回り、先日も、以前からよく存じ上げているパテイン教区のJohn Hsane Hgyi司教様が、67歳で、新型コロナ感染症のために亡くなられました。

 人々とともに平和を求めて立ち上がったカトリック教会に対して、暴力的な攻撃も行われています。シスターが軍隊の前に跪いて手を広げ、暴挙を自分の体で止めようとした姿が、写真で広まりました。その思いに、私たちも心をあわせたいと思います。

 東京教区は、長年にわたって、主にミャンマーにおける神学生養成を支援してきました。教区ではレオ神父様と高木健次神父様が中心になって、ミャンマーの教会と交流を続け、私も昨年2月、コロナ禍の寸前に、現地の神学生たちを訪問することができました。そのような関係を通じて培われたミャンマーの教会との関係です。ミャンマー司教協議会会長であるチャールズ・ボ枢機卿の平和への呼びかけに、私たちも応えたいと思います。

 聖霊の導きのもとに、政府や軍の関係者が平和のために賢明な判断ができるように、弱い立場に置かれた人々、特にミャンマーでの数多くの少数民族の方々の命が守られるように、信仰の自由が守られるように、神の平和がもたらされるように、この平和旬間にともに祈りましょう。

(漢字表記は当用漢字表記に統一しています「カトリック・あい」)

2021年8月7日

・「すべての人が神の救いの計画にあずかれるように」-平和旬間を前に-菊地大司教の年間第18主日説教

( 週刊大司教第三十七回:年間第18主日 )

Kegarenakipv2    もう8月です。オリンピックが開催される中、東京圏における検査陽性者数は増加を続け、政府はこの金曜日に、緊急事態宣言の8月31日までの延長と、新たな地域への発令を決められました。

  東京教区においては、東京都はこれまでの緊急事態宣言が8月末までの延長、千葉県がこれまでのまん延防止等重点措置から緊急事態宣言へと移行することになりました。教区としての対応は、現在の緊急事態宣言下でお願いしている感染対策をさらに徹底していただきたいと思います。今一度、教区ホームページから、現在の対応をご確認ください。

 対策への「慣れ」も見られるようになりましたし、主に高齢の方々のワクチン接種率が高まるにつれて、安心してしまう傾向もあろうかと思います。慎重な対応は、まだまだ必要だと判断していますので、ご協力をお願いいたします。

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  土曜日7月31日の午前中に、調布にある晃華学園聖堂で、汚れなきマリア修道会のお二人のシスターの、終生誓願式が行われました。お二人はベトナム出身です。シスター・マリア・レ ティ チャウ、シスター・テレサ・ファン ティ トゥ ニュオン、おめでとうございます。

 お二人の誓願式は、感染症のために何度か延期されてきました。有期誓願を延長するにも限度があるので、本日行うことになったとうかがいました。

 現在の状況で、ベトナムのご家族などの参加は適いませんでしたし、多くの方に集まっていただくこともできませんでした。聖堂には、近隣の司祭と、マリア会の司祭、そして主に同じ修道会の姉妹たちと、一部の人だけが参加し、ベトナムにいるご家族のためには、オンラインでの配信が行われました。また誓願式後の祝賀会もキャンセルとなりました。

 厳しい状況での誓願式となりましたが、これからのお二人の修道会での、そして教会での活躍をお祈りしています。

 以下、週刊大司教第37回目のメッセージ原稿です。

【年間第18主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第37回 2021年8月1日】

 「私が命のパンである」と宣言される主イエスの言葉を、ヨハネ福音は記しています。集まっている人々は、この世の命を長らえるために、実際に空腹を満たしてくれるパンを求めているのですが、イエスは永遠の命を与えるパン、すなわちご自身のことを語っておられます。

 出エジプト記は、荒れ野でさまようイスラエルの民が、空腹のあまり、モーセとアロンに不平を述べ立て、エジプトでの奴隷状態の方がまだましだった、とまで言いつのる姿を描いています。ここでも人々が求めるのはこの世の命を長らえるために、実際に空腹を満たしてくれる食料のことですが、神の視点は救いの計画の実現という永遠を視野に入れたところにあり、全能の神は天から降らせた食物によって、選ばれた民にそれを示唆します。

 パウロはエフェソの教会への手紙で、こういった事柄を念頭に、キリストに結ばれている私たちは、「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たに」されるようにと呼びかけます。

 どうしても私たちの視点はこの世の命に縛られており、永遠にまで至る神の計画の中で、どのように生き、どのように行動し、どのような道を進むべきなのか、という視点を欠いてしまいます。私たち自身の望みや欲望を優先させている限り、神の真理に近づくことはできません。

 御聖体を、霊的にまた直接いただく私たちは、御聖体のうちに現存される主との一致を願いながら、主が教えてくださる道を歩むように努めることで、自分自身の救いのためだけではなく、人類全体の救い、すなわち神の救いの計画にあずかる者となります。視点を自分のうちだけに留めることなく、常に新たにされて、真理であるイエスに倣っていきたいと思います。

 さて8月は、広島、長崎における原爆投下や太平洋戦争の終結という戦争の歴史をたどる月でもあり、そのため平和について考え、平和を祈り求める月でもあります。日本の教会は、広島の原爆の日である今週金曜日、8月6日から、終戦記念日、8月15日までを、平和旬間と定めています。改めて、教皇フランシスコの広島における言葉を思い起こしたいと思います。

 「確信をもって、改めて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代において、犯罪以外の何ものでもありません。人類とその尊厳に反するだけでなく、私たちの”共通の家”の未来におけるあらゆる可能性に反します。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています」

 教皇様は、真の平和は「正義の結果であり、発展の結果、連帯の結果であり、私たちの”共通の家”の世話の結果、共通善を促進した結果生まれる」と指摘されました。 東京教区の宣教司牧方針の三本の柱の三つ目は、「すべての命を大切にする共同体」です。これは単に環境問題への取り組みを促しているだけではなく、「神からいただいた命を大切にし、それぞれの命を尊重し合う共同体」を目指している柱です。

 開発と発展は、社会の多様化と大きな変化をもたらし、結果として共通の家である地球を傷つけながら、命を危機にさらしています。神の救いの計画は、永遠の命を目指す道程にあって、この共通の家において、賜物である私たちの命が十全に生かされその尊厳が守られる世界の実現を求めます。世界における平和の実現はその道の一つであり、貧困や飢餓の撲滅、さまざまな疾病への公平な対策の実現など、いわゆる「社会正義」の実現は重要な福音的課題です。神の計画にあずかり、私たちの欲求ではなく、神の望みに従い、真理であるイエスに倣いましょう。

(編集「カトリック・あい」=お話の内容をより的確にお伝えするために、漢字表記を当用漢字に倣うなど、若干修正させていただいています。また、なぜか教会では『いのち』を多用する傾向がありますが、漢字の「命」の成り立ちは「令」に「口」をつける形で出来ており、この漢字の「命」そのものに、「祈りを捧げる人に神から与えられるもの」の意味が込めらている、というのが定説です。「カトリック・あい」では、そうした意味を込めて、原則として、漢字表記に統一させていただいています。)

2021年8月1日

・「神からいただいた命を互いに尊重し合う共同体に」ー菊地大司教の「祖父母と高齢者のための世界祈願日」年間第17主日説教

2021年7月24日 (土) 週刊大司教第36回:年間第17主日

Gotairiku21

 7月も終わろうとしています。暑い毎日が続いています。

 週刊大司教のメッセージでも触れていますが、教皇様は今年から、7月26日の聖ヨアキムとアンナの記念日に近い主日を「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定められました。今年は7月25日がこの祈願日となります。

 教皇様は、今年の1月31日のお告げの祈りで、次のように述べて、この祈願日の制定を告知されました。

 「2月2日は、イエスが神殿で捧げられたことを記念する、主の奉献の祝日です。そのとき、シメオンとアンナは二人とも年老いていましたが、聖霊に導かれ、イエスがメシアであると認めました。聖霊は、知恵に満ちた考えやことばを高齢者の内にわき上がらせます。高齢者の声はかけがえのないものです。神を讃えて歌い、人々のルーツを守っているからです。年を重ねることはたまものであり、祖父母はその人生体験や信仰を若者に伝えることにより、世代を結び付ける輪となっていることを、この二人は思い起こさせてくれます。祖父母は忘れられがちですし、ルーツを守り、伝えるというその宝もないがしろにされています。だからこそ、7月第四主日を「祖父母と高齢者のための世界祈願日」とし、教会全体で毎年祝うことにしたのです。この日の頃には、イエスの「祖父母」にあたる聖ヨアキムと聖アンナの記念日があります」

 今年は初めてのことでもあり、どのようにこの祈願日を祝うのか、定まってはいないのですが、私たち自身の祖父母に限らず、教会や社会に多数おられる高齢の方々に思いを馳せ、御父の祝福と守りを祈る日曜にしたいと思います。

 なお今年の祈願日のテーマは「私はいつもあなたと共にいる」と定められており、教皇様のメッセージの翻訳は、こちらの中央協議会のホームページへのリンク先に掲載されていますので、ご一読ください

 メッセージの中で、教皇様は、特にパンデミックの状況に置かれている現在、孤独のうちに取り残されている人が多くいる中で、特に高齢者の状況には厳しいものがあるとして、次のように希望の言葉を記しておられます。

「この新型コロナの世界的大感染の数か月のように、何もかも真っ暗に思えるときでも、主は天使を遣わし、私たちの孤独を慰め続け、「私はいつもあなたと共にいる」と繰り返しておられます。そう、あなたに言っておられ、私に、皆に、言っておられるのです。これこそが、長い間の孤独と、いまだ時間がかかっている社会生活の回復とを経て、まさに今年に、初回を迎えるこの祈願日の意義です。祖父母の皆さん、高齢者のお一人お一人が、とくに孤独に苦しむ方々が、天使の訪問を受けられますように」

2013_img_1019b 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第36回のメッセージ原稿です。

【年間第17主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第36回 2021年7月25日】

 列王記は、飢饉に見舞われた地にあって、預言者エリシャのもとへ持ってこられた少ないパンが、召使いの常識を越えて、百名の人の空腹を満たした奇跡的な話を記しています。

 ヨハネ福音も、いわゆる「五つのパンと二匹の魚」の物語を記し、少年がささげた少ないパンと魚が、イエスのみ言葉を聞くために集まっていた五千人を超える人たちの空腹を満たした、奇跡物語を記しています。

 どちらにも通じるのは、もちろん「少ない食べ物が多くの人を満たした」という奇跡の物語であり、御父である神の、また主イエスの偉大な力を示しています。

 同時にそれは、自分が持つ、数少ないものを守るのではなく、他者のために惜しみなく分かち合ったときに生まれる愛の絆の物語でもあります。そしてそれは、ミサを通じて主の食卓にあずかり、主イエスご自身の現存である御聖体によって生かされることで教会共同体にもたらされる、霊的な一致の意味を改めて考えさせるものでもあります。主の十字架上での自己犠牲は、神による最大の愛の証しであります。

 パウロはエフェソの教会への手紙で、まさしくこの霊的一致について語ります。パウロは、例えばローマ書など他の書簡で一致について、一つの体とその部分である私たちのような例えを記しますが、一致は決して皆が全く同じように考え、同じように行動するのではないことを明確にしています。

 それぞれはそれぞれが与えられた使命に自らの決断を持って生きているのであって、一致は同じ霊によって生かされ、同じ主における「一つの希望にあずかるように」と招かれている生き方にあります。「主イエスを中心とした愛の絆に結ばれていること」こそが、私たちの語る一致であります。

 さて教皇様は、今年から、7月26日の聖ヨアキムとアンナの記念日に近い主日を、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定められ、メッセージを発表されています。今年は7月25日のがこの祈願日となります。

 教皇様のメッセージのテーマは、「私はいつもあなたがたと共にいる」(参照:マタイ福音書28章20節)とされています。教皇様はメッセージの中で、今回の「新型コロナウイルスの世界的大感染は思いがけない嵐のように、それぞれの生活に試練を与えましたが、とりわけお年寄りに与えた影響は厳しいものでした」と述べられ、亡くなられた多数の高齢者への思いを記されています。その上で、「主は私たち一人ひとりの苦しみを知り、痛ましい経験をした人々のそばにおられ、その孤独を心にかけておられます」と語られます。私たちが招かれている霊的一致は、命が忘れ去られ孤独のうちにあることを良し、としません。すべての命に主が共にいることを、証しするよう、私たちは招かれています。

 教皇様の回勅「Fratelli tutti」にもこう記されています。「私たちはあまりにも早く、歴史の教訓ー「人生の教師」を忘れてしまいます… 毎年、医療制度が壊され続けたことが一つの理由となって、人工呼吸器が不足したことで亡くなった多くの高齢者の方々のことを、肝に銘じることができればいい… 私たちが互いを必要としていることを再発見し、そのようにして、私たち人間家族が、自分が立てた壁を乗り越えて、皆の顔、皆の手、そして皆の声とともに再生できればいい」(35項)。

 東京教区の宣教司牧方針も、「私はいつもあなた方と共にいる」という御言葉に導かれます。私たちは、三つの柱の一つである「すべての命を大切にする共同体」も目指しています。社会の多様化の中で、より小さないのち、より弱い命がないがしろにされつつあります。神からいただいた命を大切にし、それぞれの命を尊重し合う共同体を目指しましょう。

(「カトリック・あい」よりお断り=表記は、文章として読みやすく、理解しやすくするために、これまで通り、新聞各紙や社会一般で使われている当用漢字表記にしています。また、回勅「Fratelli tuitti」の引用は、公式英語訳に近い現代日本語による翻訳を心がけた「カトリック・あい」の日本語訳にさせていただきました。回勅のタイトル「Fratelli tutti」は、教皇がアッシジの聖フランシスコの説教集(Admnitiones)第6項の冒頭の呼び掛けの言葉「omens fratres(ラテン語=イタリア語でFratelli tutti、英語ではall borothers)」から採っておられることから、「カトリック・あい」では、「兄弟の皆さん」と訳しています。回勅の本文で、教皇は「この言葉を持って、アッシジの聖フランシスコは、兄弟姉妹に話しかけ…」とされており、Fratelli tuitti  の「兄弟」が決して男性だけの呼びかけでないことを示しておられます。一部には、わざわざタイトルを「皆、兄弟姉妹」と意訳する向きもあるようですが、それでは、教皇のこのタイトルに込めた思いが伝わりません。「兄弟の皆さん」とするのが、日本語訳として適当、と判断しました。)

 

2021年7月24日