・「困難の中でも愛と慈しみを実践する者となろう」菊地大司教の年間第22日主日説教

年間第二十二主日:東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)

     8月29日、年間第二十二主日の午前10時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂から配信した大司教司式ミサの説教原稿です。前日土曜日午後6時配信の週刊大司教のメッセージは、この説教の短縮版ですので、多少重複するところがあるのはお許しください。

【年間第22主日B(配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年8月29日】

  緊急事態宣言は継続しており、社会生活にあって私たちには、感染対策として慎重な行動をとる必要がまだまだ求められています。すべての命を守る選択として、また隣人愛にもとづく行為として、教会は現在の選択を続けていきたいと思います。同時に病床にある方々の一日も早い回復と、命を助けるために日夜努力を続けておられる医療関係者の方々のために、改めて祈りたいと思います。

 私たちは、実際に教会に集まってともに感謝の祭儀にあずかることのできない今だからこそ、主イエスの私たちの間での現存について考えてみたいと思います。

 主は救いの業を成し遂げるために、「常にご自分の教会とともにおられ、特に典礼行為のうちにおられる」と記す第二バチカン公会議の典礼憲章は、続けて、「キリストはミサのいけにえのうちに現存しておられる」と指摘します。(7)

 その上で、主ご自身はミサのいけにえをささげる奉仕者のうちに現存し、「何よりも聖体の両形態のもとに現存しておられる」と強調します。

 しかし同時に典礼憲章は、「キリストはご自身のことばのうちに現存しておられる」とも記し、「聖書が教会で読まれるとき、キリスト自身が語られるからである」と指摘します。この指摘には重要な意味があります。ミサにおいて聖書が実際に声にして朗読される意味は、書かれている言葉が朗読されることによって、生きた神の言葉として、私たちの心に届くからです。ミサのいけにえにおいて、御聖体の秘跡を大切にするキリスト者は、同時に神の言葉の朗読をないがしろにすることはできません

 同じ公会議の啓示憲章は、「教会は、主の御身体そのものと同じように聖書を常にあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、絶えずキリストの体と同時に神の言葉の食卓から命のパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)と記して、命のパンとしての主イエスの現存である神の言葉に親しむことは、聖体の秘跡にあずかることに匹敵するのだ、と指摘しています。

 使徒ヤコブは、「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなた方の魂を救うことが出来ます」と書簡に記しています。

 その上で使徒は、その心に植え付けられた御言葉、すなわち主ご自身を「聞くだけで終わる」ような自分を欺いた者ではなく、「御言葉を行う人になりなさい」と呼びかけます。私たちは、典礼の中で語られる神の言葉に現存される主を心にいただき、常にその呼びかけに応える者でありたいと思います。

 朗読される御言葉を通じて、神が今日、私たちに何を呼びかけておられるのか、この喧噪に満ちあふれた社会のただ中で、心の耳を澄ます謙遜な者でありたいと思います。

 あふれんばかりに与えられ、私たちを取り囲む情報に翻弄され、時に私たちの心の耳は、神の御言葉を聞き逃してしまうことがあります。心の耳を研ぎ澄ます者でありたいと思います。

210829d さて、申命記は、イスラエルの民がモーセを通じて神の掟と法を与えられ、それに忠実に生きることで命を得るように、と命じられた話を記しています。さらに、「掟と法を守る」というその民の忠実さを通じて、諸国民が神の偉大さを知るようになる、とも記します。

 すなわち、神の掟と法を守ることは、自分自身の救いのためだけなのではなく、神の栄光をすべての人に対して具体的に表すためであります。

 マルコ福音では、ファリサイ派と律法学者が、定められた清めを行わないままで食事をするイエスの弟子の姿を指摘し、掟を守らない事を批判します。それに対してイエスは、ファリサイ派や律法学者たちを「偽善者」と呼び、掟を守ることの本質は人間の言い伝えを表面的に守ることではなく、神が求める生き方を選択するところにある、と指摘されます。

 この一年以上、私たちは、感染対策の基本として、手を洗ったりうがいをしたり、人と交わるときにマスクをしたりすることが、ある意味で当然、と考えられるような現実の中にいます。

 もちろんそういった選択が法で定められているわけではありませんが、繰り返すうちに、「当たり前の行動」となり、そしてそれが長期に及ぶに至って、ルーティン化してしまうこともあり得ます。さすがに今の段階で、そういった行動の持つ意味が忘れられた、ということはないでしょうが、仮に何年も続けば、「なぜ手を洗うのか」「なぜうがいをするのか」の背後にある理由が顧みられなくなり、ただ手を洗うことやマスクをすることやうがいをする、という行為自体が大切だ、と思うようになる可能性もあります。

 マタイ福音の5章17節には、「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」というイエスの言葉が記されています。

 定められた掟の背後にある理由、すなわち「神の望まれる生き方に近づくための道しるべ」として与えられた法や掟の役割を思い起こし、人間の言い伝えではなく、神の望みに従って道を歩むことが、掟や法の「完成」であります。

 使徒ヤコブが記しているように、その掟や法を定められた背景にある神の呼びかけを、馬耳東風のごとく聞き流すのではなく、神の思いに忠実である者、すなわち「御言葉を行う人」になることこそが、求められています。

 あらためて言うまでもなく、私たちキリスト者は、すべからく福音宣教者として生きるように招かれています。教皇フランシスコは、「福音の喜び」にこう記します。

 「洗礼を受けたすべての人には例外なく、福音宣教に駆り立てる聖霊の聖化する力が働いています。(119)」

 その上で教皇は、「イエス・キリストにおいて神の愛に出会ったかぎり、すべてのキリスト者は宣教者です。・・・最初の弟子たちに目を向けてください。彼らはイエスのまなざしに出会った直後、喜んでそれを告げ知らせに行きます… 一体、私たちは何を待っているのでしょうか。(120)」と記し、福音宣教者としての召命に、私たち一人ひとりが目覚めるように促します。

 福音を告げるためには、私たち自身がそれに生きていなくてはなりません。私たちは、単に知識としての信仰を語り伝えるのではなく、信仰を具体的に生きることによって、私たちが人生で出会う人を、「キリストとの個人的出会い」へと招かなくてはなりません。

 そのためにこそ、私たちは、神の言葉をただ聞いて理解する者に留まらず、具体的に行う者となる必要があるのです。

 私たちは、聖体の秘跡を通じて、現存される主と出会いますが、同時に典礼において語られる神の言葉を通じても出会っていることを思い起こしましょう。そして、語られる御言葉に心の耳を傾け、主の語りかけを具体的に生きる者となりましょう。

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  以下は8月28日午後6時配信の、週刊大司教のメッセージ原稿です。

2021年8月28日 (土)週刊大司教第四十一回:年間第22主日

Mariapieta

   8月の最後の主日、年間第二十二主日です。土曜日夕方配信の週刊大司教も第41回目です。(上の写真は、師イエズス修道女会のシスター作品)

   ご存じのように、東京教区では9月12日(日)までの小教区でのミサを、非公開としています。大変申し訳ないと思いますが、どうかご理解ください。

   聖体拝領についてのご質問をいくつかいただいていますが、基本的に御聖体はミサの中でいただくのですが、病気の時など事情がある場合には、司祭に依頼して他の機会に拝領することが出来ます。

    現在は、ミサが非公開になっていますし、信徒の皆さんには主日のミサにあずかる義務を免除するという「通常ではない」状態であります。通常ではないのですから、信徒の皆様にあっては、ミサにあずかれない中で、聖体拝領を司祭に直接お願いすることができます。ミサ以外の時にも、司祭は個別に聖体を授けることが出来ますから、直接、小教区の司祭にご相談ください。

   それから聖歌に関するお問い合わせもいただいています。通常、youtubeの関口教会アカウントから配信される主日ミサは、原則として関口教会の信徒を対象としていますので、聖歌なども関口教会で通常歌われる聖歌が関口教会の聖歌隊によって歌われます。日本の教会では、典礼聖歌集とカトリック聖歌集が主に使われていますが、教会によっては他の歌集や独自の歌集を採用しているところも少なくありません。

    通常の日曜日の配信に関しては、関口教会の独自の配信ですので、配信ミサにあずかる方の手元に歌集がない可能性に関しては、御寛恕ください。譜面を画面上に出すことは、さまざまな制約があるため、出来ません。

  しかし、現在のようにミサの公開が中止となっている間は、関口教会のyoutubeアカウントから日曜10時のミサを配信しますが、これは大司教司式で、先唱、朗読、聖歌なども関口教会ではなくイエスのカリタス会のシスター方にお願いしています。こちらは、ミサの配信の対象をすべての方にしていますので、聖歌もできる限り、お手元に聖歌集がある歌にするよう努めます。

  ただ聖体拝領時には、一緒に歌うと言うよりも感謝の黙想の助けとして聞いていただきたいので、一般の歌集にない歌も使われます。できる限り譜面が手元にあるような聖歌を使うように努力いたします。なお譜面を画面上に映し出すことは、さまざまな制約があるため出来ません。

  なお、週刊大司教に関しては、始めの歌、途中の演奏、終わりの歌のすべてが、私の作曲ですので著作権の問題はありません。演奏者名は最後に短いですがクレジットされています。許可いただいた演奏者の皆さん、ありがとうございます。

( 年間第22主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第41回 2021年8月29日) 

   申命記は、イスラエルの民がモーセを通じて神の掟と法を与えられ、それに忠実に生きることで命を得るように、と命じられた話を記しています。さらに、掟と法を守るというその民の忠実さを通じて、諸国民が神の偉大さを知るようになるとも記します。すなわち、神の掟と法を守ることは、自分自身の救いのためだけではなく、神の栄光を具体的に表すためであり、新約の言葉で言えば、福音宣教の業であります。

   使徒ヤコブは、私たちの心に植え付けられた神の言葉こそが神からの賜物であり、その言葉は救いを与える真理の言葉であると記します。その上で使徒は、心に植え付けられた御言葉を「聞くだけで終わる」ような自分を欺いた者ではなく、「御言葉を行う人になりなさい」と呼びかけます。

   マルコ福音は、ファリサイ派と律法学者が、定められた清めを行わないままで食事をするイエスの弟子の姿を指摘し、掟を守らない事実を批判する様が描かれています。それに対して福音は、ファリサイ派や律法学者たちを「偽善者」と呼び、掟を守ることの本質は人間の言い伝えを表面的に守ることではなく、神が求める生き方を選択するところにあると指摘したイエスの言葉を記します。

    マタイ福音の5章17節には、「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」というイエスの言葉が記されています。さまざまな掟や法が定められた背後にある理由、すなわち神の望まれる生き方に近づくための道しるべとして与えられた役割を思い起こし、人間の言い伝えではなく、神の望みに従って道を歩むことが、掟や法の「完成」であります。すなわち、使徒ヤコブが記しているように、その掟や法を定められた神のことばを、馬耳東風のごとく聞き流すのではなく、「御言葉を行う人」になることこそが、求められています。

   改めて言うまでもなく、私たちキリスト者は、すべからく福音宣教者として生きるように招かれています。教皇フランシスコは「福音の喜び」にこう記しておられます。

 「洗礼を受けたすべての人には例外なく、福音宣教に駆り立てる聖霊の聖化する力が働いています」(119)

 その上で教皇は、「イエス・キリストにおいて神の愛に出会ったかぎり、すべてのキリスト者は宣教者です。・・・最初の弟子たちに目を向けてください。彼らはイエスのまなざしに出会った直後、喜んでそれを告げ知らせに行きます。・・・一体、私たちは何を待っているのでしょうか」(120)と記し、福音宣教者としての召命に、私たち一人ひとりが目覚めるように促します。

 福音を告げるためには、私たち自身がそれに生きていなくてはなりません。わたしたちは、単に知識としての信仰を語り伝えるのではなく、信仰を具体的に生きることによって、私たちが人生で出会う人をキリストとの個人的出会いへと招かなくてはなりません。

 そのためにこそ、私たちは、神の言葉を、ただ聞いて理解する者に留まらず、具体的に行う者となる必要があるのです。

 困難な状況が続く中で、不安の暗闇は、私たちを分断と対立へと誘います。私たちは神の言葉を行うものとして一致を実現するために、愛と慈しみを実践する者となりましょう。

 

(編集「かとりっく・あい」=漢字の表記は当用漢字表記に統一、聖書の引用は『聖書協会・共同訳』に)

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2021年8月28日