・「『平和』とは、『戦争がない』ことだけを意味しない」菊地大司教の年間第19主日説教

2021年8月 7日 (土)週刊大司教第38回:年間第19主日

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 暑い毎日が続いております。暑いとは言え、8月7日は立秋です。ですので、この場を借りて、教区の皆様に残暑お見舞い申し上げます。どうか暑さに気をつけて、同時に感染対策も怠らずに、安全にお過ごしください。

 現在東京教区が管轄する東京都と千葉県は、緊急事態宣言の対象となっています。この数日発表される、毎日の新規陽性者の数も高い数字が連続しています。加えて「感染力が高いと言われるデルタ株が、広まっている」という報道もありました。

 高齢の方を中心にワクチン接種が進んでおり、高齢者が感染しても重症化は避けられている、という話も耳にしますが、慎重な感染対策を続けることは必要です。

 マスクをすること、手洗いやうがいを徹底すること、互いの距離をとることは、絶対に忘れないでください。加えて、教会でお願いしている、一斉に歌ったり祈りを唱えないことを、徹底してくださるようにお願いします。6日の東京都知事の記者会見では、マスク着用や手指の消毒の徹底に加えて、施設の入場制限を徹底することや、互いの距離を1.8mはとることが強く求められています。聖堂の人数制限の厳守と、互いの距離の確保を、今一度、徹底してくださるように、お願いします。

 その上で、特にミサが終わった後のことですが、ミサの前も同様です。互いのおしゃべりを避けてください。そもそも聖堂では、日頃からいわゆる「おしゃべり」は避け、沈黙のうちに祈りの雰囲気を保っていただきたいのです。そして、対策への慣れもあるのだと思いますが、中にはよく聞き取れないからとマスクをずらしたり、互いに近づいたり、大声になったり、数名の方が密集したりされる方も見られるようです。今少し慎重に行動してくださるようにお願いします。

 私としては、安全を十分に確保しながら、できる限りミサの公開を継続し、秘跡にあずかっていただく機会を確保したい、と願っています。ですので、どうか今しばらくの間は、慎重な対策の徹底をお願いします。

 すでに何度もお知らせしているように、ミサ参加者の受付をしてくださる方や消毒を担当してくださる方の確保が難しい場合、またそういった方々から不安が聞かれる場合は、主任司祭は「ためらわず」に、公開ミサを中止してください。地域によって感染の事情が大きく異なっていますので、基本的には、「今はミサのために聖堂に集まることは難しいことなのだ」という認識を大前提にお考えください。

 少しでも体調のすぐれない方や、不安のある方は、どうか自宅でお祈りください。主日のミサの義務は、現在も教区全体に対して免除しています。

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以下、週刊大司教第38回のメッセージ原稿です。

【年間第19主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第38回 2021年8月8日】

列王記は、預言者エリヤがバアルの祭司たちと対峙し勝利した後、王妃イゼベルから恨みを買って、荒れ野へと逃れていく話を記します。

神の道に忠実であり、その義を貫徹しようとすることは命がけであることが明示されている一方、精根尽き果てた義の人エリヤを、神は励まし続けたとも記されています。神の与えた使命を果たそうとする人に、神は寄り添って励ましてくださいます。

パウロはエフェソの信徒への手紙で、私たちを生かし力づけてくださる聖霊に逆らうことなく、神に倣うものとして、「互いに親切にし、憐れみに心で接し… 赦し合いなさい」と勧めます。神の聖霊に満たされているものは、キリストご自身が愛ゆえにあがないのいけにえとなられたことに倣い、愛によって歩むのだとパウロは指摘します。

ヨハネ福音は、先週に続けて、主ご自身が「命のパン」であり、「天から降ってきた生きたパン」を食べるものは、「永遠に生きる」と宣言された言葉を記しています。

賜物である命を生かし続けようとする神の愛は、主ご自身が自ら十字架へと歩まれたその行為のうちに明示されています。私たちには、キリストをいただくものとして、その神の愛、すなわちすべての命を守り生かそうとする神の愛に応えて生きる務めがあります。

私たちにとって、すべての命を守るために行動することは、平和のための行動でもあります。パウロが指摘するように、「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど」は、「一切の悪意」」とともに、命を大切にする行動とは対極にあり、すなわち平和を破壊する行動につながります。しかし「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなた方を赦してくださったように、赦し合うこと」が、命を守る行動に繋がり、平和を築き上げます。

「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことです」と、教皇ヨハネパウロ二世は、1981年に広島で述べられました。

第二次世界大戦が終結してから今に至るまで、戦争の悲惨な現実が繰り返し多くの人によって語り続けられてきたのは、戦争が自然災害のように避けることのできない自然現象なのではなく、まさしく教皇ヨハネパウロ二世が広島で指摘されたように、「戦争は人間の仕業」であるからに、他なりません。そして、「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものでは」ないからこそ、その悲劇を人間は自らの力で避けることが可能です。

教皇フランシスコは、長崎の爆心地公園で、こう述べられました。

「軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来、それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは神に歯向かうテロ行為です」

教会にとって「平和」とは、「戦争がない」ことだけを意味してはいません。それは神の秩序が確立された状態であり、すべての命が大切にされている「共通の家」で、「誰も排除されることのない社会」を実現することであります。天上での完成の日を目指して、私たちは神が愛をもって創造されたこの世界を、日々、神の望まれる姿へ近づける努力を怠ってはなりません。その使命を果たす努力を続ける私たちに、なかなかゴールに到達できず疲れ切った私たちに、主は常に寄り添い、共に歩んでくださいます。

(編集「カトリック・あい」=表記を当用漢字表記にそろえています)

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2021年8月7日