・「ミャンマーの地に、神の望まれる平和が確立されますように」菊地大司教の「平和を願うミサ」説教

【2021.8.8 平和旬間「平和を願うミサ」@関口教会】 

 今年の平和旬間の諸行事は、感染症の状況のために中止となりましたが、8月8日、年間第19主日に、それぞれの小教区で「平和を願う」意向でミサを捧げていただきました。今年は、すでにお知らせしているとおり、姉妹教会であるミャンマーの教会のため、またミャンマーの人々のため、その平和のために特に祈り、特別献金もお願いしています。なおミサ以外の特別献金も受け付けていますので、こちらのリンクから、教区ホームページをご覧ください。

 平和旬間の「平和を願うミサ」として、8日午前10時の関口教会主日ミサを大司教司式ミサといたしました。またこのミサには、ミャンマーからの信徒の方や、ミャンマー出身のミラノ宣教会司祭で府中教会助任のビンセント神父様も参加してくださり、祈りのうちに連帯を強めました。

 以下、本日のミサの説教原稿です。

【東京大司教区「平和を願うミサ」2021年平和旬間 東京カテドラル聖マリア大聖堂】

 今年も8月6日から15日まで、日本の教会は平和旬間を迎えます。1981年に日本を訪問された教皇聖ヨハネ・パウロ2世は、広島での「平和アピール」で、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」と言われました。それ以来、日本の教会は、戦争を振り返り、平和を思うとき、平和は単なる願望ではなく具体的な行動が必要であることを心に刻み、この10日間を過ごしてきました。

 東京教区ではこれまで、平和旬間委員会を設け、平和旬間の企画運営を行ってきましたが、昨年に続き今年もまた感染症の状況の中、特に今年は緊急事態宣言の下、平和行進や講演会などのすべての企画を中止とせざるを得ない状態になっています。大変残念ですが、しかし、だからと言って、平和のために祈ることを諦める必要はありません。私たちは、この10日間を通じて、また特に今日のミサを通じて、神の望まれる世界の実現である平和が確立されるように、それぞれの場で、共に祈りをささげたいと思います。

 今年の平和旬間は、特に東京教区の姉妹教会であるミャンマーの教会に思いを馳せ、ミャンマーの人々のために、またその平和のために特に祈る時としたいと思います。

 2021年2月1日に発生したクーデター以降、ミャンマーの国情は安定せず、人々とともに平和を求めて立ち上がったカトリック教会に対して、暴力的な攻撃も行われています。ミャンマー司教協議会会長であるチャールズ・ボ枢機卿は、5月23日夜、ミャンマー東部、ロイコー県カヤンタヤルの聖心教会への攻撃によって4名が亡くなり、大勢が負傷した時に声明を発表され、そこにこう記しておられます。

 「私たちは、地域社会の文化財である礼拝所が、国際協定による保護対象となっていることに注目していただきたいと思います。教会、病院、学校は、ハーグ陸戦条約によって紛争時であっても保護されています。そもそも国際協定を持ち出すまでもなく、そこで流された血は、敵の血ではないことを忘れないでください。亡くなった方も負傷した方もこの国の国民です。彼らは武装さえしていませんでした。家族を守るために、教会の中にいただけなのです。この国のすべての心が、罪のない人々の死に涙しています。今、何百人もの人々が亡くなり、何千人もの人々が難民や国内避難民となっています」

 その上でボ枢機卿は、「平和は可能です。平和こそ唯一の道です」と呼びかけています。

 ボ枢機卿はクーデター直後の3月に発表したビデオメッセージで、現在のミャンマーの状況を克明に述べた後、次のように教会の使命を指摘しています。

 「しかし、このような暗い時代にあっても、私たちに呼びかける主の声が聞こえます。教会が証人となり、正義と平和と和解の道具となり、主の手と足となって貧しい人々や恐れている人々を助け、愛をもって憎しみに対抗するように、と」

 ボ枢機卿のこの呼びかけに応え、姉妹教会である私たちは、ミャンマーの地に神の望まれる平和が確立されるように、教会としての使命を果たしていきたいと思います。

 ところで教皇ヨハネ23世は、回勅「地上の平和」の冒頭に、教会が考える「平和」の意味を明らかにして、こう記しています。

 「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」

 教会が語る「平和」とは、「神の定めた秩序が実現している世界」、すなわち「神が望まれる被造物の状態が達成されている世界」を意味しています。神からの賜物である命が危機にさらされているような状況は、神が望まれる状態ではありません。恐れが支配する社会は、神が望まれる状態ではありません。憎しみが支配する社会は、神が望まれる状態ではありません。私たちは、神の望まれる社会の実現、すなわち平和のために働き続けたいと思います。

 このミサの第一朗読の列王記には、預言者エリヤがバアルの祭司たちと対峙し勝利した後、王妃イゼベルから恨みを買って、荒れ野へと逃れていく話が記されていました。神の道に忠実であり、その義を貫徹しようとすることは命がけであることが明示されている一方、精根尽き果てた義の人エリヤを、神は励まし続けたとも記されています。

 神の与えた使命を果たそうとする人に、神は寄り添って励ましてくださいます。私たちは、神が望まれる秩序の確立した世界、平和に満ちあふれた世界を実現しようとしています。しかしその神の望みに忠実であることは、たやすいことではありません。教皇ヨハネパウロ二世やオスカル・ロメロ大司教の人生がそうであったように、平和を求め行動することは、時に命の危機を伴います。それでも私たちは、主が共におられ、慰めを与えてくださることを信じています。

 パウロはエフェソの信徒への手紙で、私たちを生かし力づけてくださる聖霊に逆らうことなく、神に倣うものとして、「互いに親切で憐れみ深い者となり… 赦し合いなさい」(4章32節)と勧めます。

 ヨハネ福音は、先週に続けて、主ご自身が「命のパン」(6章48節参照)であり、「天から降ってきた生けるパン」(同52節参照)を食べるものは、「永遠に生きる」(同)と宣言された言葉を記しています。

 主ご自身が自ら十字架へと歩まれたその自己犠牲の理由は、賜物であるいのちを生かし続けようとする神の愛であることが、ここに明示されています。わたしたちには、キリストをいただくものとして、すべての命を守り生かそうとする神の愛に応えて生きる務めがあります。

 パウロが指摘するように、「恨み、憤り、怒り、わめき、冒瀆」(同4章31節参照)は、「一切の悪意」」(同)と共に、命を大切にする行動とは、対極にあり、すなわち平和を破壊する行動につながります。しかし「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなた方を赦してくださったように、赦し合う」ことは、命を守る行動に繋がり、平和を築き上げます。

 教皇フランシスコは、2019年長崎の爆心地公園を訪れ、命を守るために費やされるべき資源が、軍事的争いのために使われ続けている事実を指摘し、こう述べられました。

 「軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは神に歯向かうテロ行為です」

 その上で教皇は、「どうか、祈り、一致の促進の飽くなき探求、対話への粘り強い招きが、私たちが信を置く『武器』でありますように。また、平和を真に保証する、正義と連帯のある世界を築く取り組みを鼓舞するものとなりますように」と呼びかけられました。

 慰め主である主が、常に共におられ、力づけてくださることを心に刻みながら、神の平和の確立を求めて、神の愛が支配する世界の実現を目指して、祈り、語り、行動して参りましょう。

(編集「カトリック・あい」=漢字表記は当用漢字表記に統一、聖書の引用は、原典に最も近く、正確な現代日本語訳であるカトリック、プロテスタント共同制作の「聖書協会・共同訳」にさせていただきました)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2021年8月8日