・菊地大司教の年間第23主日・「被造物を大切にする世界祈願日」ミサ説教

 9月第一の主日は、被造物を大切にする世界祈願日です。

 午前10時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、主日ミサを捧げ配信いたしました。本日の閉祭に歌われたのは、2019年に教皇様が訪日されたとき、東京ドームでのミサなどで歌われたものです。「すべてのいのちを守るため」のテーマに合わせての選曲です。この歌の譜面は、このリンクの中央協議会ホームページからダウンロードすることが出来ます。楽譜は一番下の「楽譜(伴奏つき)」からPDFで、録音も聞くことが出来ます。

 以下、本日主日配信ミサの説教原稿です。

年間第23主日B(配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年9月5日

 回勅「ラウダート・シ」を2015年に発表された教皇フランシスコは、翌年から9月1日を、「被造物を大切にする世界祈願日」と定められました。日本ではその直後の日曜日を、この特別な祈願日と定めています。今年は9月5日の年間第23主日、本日が、「被造物を大切にする世界祈願日」であります。また「ラウダート・シ」の理念の啓発と、それを霊的に深めるため、9月1日の「被造物を大切にする世界祈願日」からアシジのフランシスコの記念日である10月4日までを、すべての被造物を保護するための祈りと行動の特別な期間、「被造物の季節(Season of Creation)」と定められました。

 この祈願日にあたって、マルコ福音書に記された「エッファタ」の物語が朗読されることは、意義深いものがあります。なぜなら、「ラーダート・シ」で教皇フランシスコが呼びかけていることを理解するためには、私たちの心の耳が開かれる必要があるからです。時に現実だとか常識だとかしがらみだとか、さまざまに呼ばれている壁、すなわち「歴史における時間の積み重ねが生み出した結果」は、私たちの思考を縛り付けてしまっています。縛り付けるだけではなく、その壁は、思考の自由も行動の自由も奪ってしまいます。

 教皇フランシスコは、そういった壁をすべて打ち壊し、常識や人間関係のしがらみにとらわれることなく、命が育まれるこの共通の家をどうしたら守ることができるのか、総合的な視点を持って取り組むようにと呼びかけます。その呼びかけは、教皇個人の呼びかけではなく、私たちの共通の家からの叫びであり、神からの呼びかけです。その叫びは、呼びかけは、聞こえているでしょうか。心の耳を開いていただく必要が、ここにあります。

 教皇はこの祈願日について、2016年の最初のメッセージで、「被造物の管理人となるという自らの召命を再確認し、すばらしい作品の管理をわたしたちに託してくださったことを神に感謝し、被造物を守るために助けてくださるよう神に願い、私たちが生きているこの世界に対して犯された罪への赦しを乞うのにふさわしい機会」となる日であると述べています。

 教皇フランシスコが「ラウダート・シ」で語る被造物への配慮とは、単に気候変動に対処しようとか温暖化を食い止めよういう環境問題の課題にとどまってはいません。「ラウダート・シ」の副題として示されているように、教皇がもっとも強調する課題は「共に暮らす家を大切に」することであり、究極的には、「この世界で私たちは何のために生きるのか、私たちはなぜここにいるのか、私たちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、私たちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160)に真摯に向き合うことを求めているものです。

 そのために教皇は、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することのできる展望を」(137)必要とすると指摘し、それを総合的エコロジーの視点と呼んでいます。

 日本の教会も、2019年の教皇訪日に触発され、9月1日からアシジの聖フランシスコの祝日である10月4日までを、「すべてのいのちを守るための月間」と定めました。これは1981年に教皇ヨハネパウロ二世が訪日され、その平和アピールに触発されて8月の平和旬間を定めたように、教皇の「すべての命を守るため」という呼びかけに応えるためであります。

教皇フランシスコは、神がよいものとして与えてくださったこの共通の家を、わたしたちが乱用し破壊しているとして、「ラウダート・シ」の冒頭にこう記しています。

 「この姉妹は、神から賜ったよきものを私たち人間が無責任に使用したり濫用したりすることによって生じた傷のゆえに、今、私たちに叫び声を上げています。私たちは自らを、地球をほしいままにしてもよい支配者や所有者とみなすようになりました」(2)

 さらに教皇は、人間の命が成り立っている三つの関係、すなわち、「神との関わり、隣人との関わり、大地との関わり」が引き裂かれている状況を指摘し、こう記します。

 「聖書によれば、いのちにかかわるこれら三つのかかわりは、外面的にもわたしたちの内側でも、引き裂かれてしまいました。この断裂が罪です。私たちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことで、創造主と人類と全被造界の調和が乱されました」(66)

 すなわち、環境破壊や温暖化も含めて、共通の家である地球の危機は、この三つの関係の破壊による罪の結果であると教皇は指摘されます。そうであればこそ、私たちはその関係の修復に努めなければなりません。その意味で、「ラウダート・シ」は環境問題解決への問いかけの文書ではなく、被造物全体を包括した問題への取り組みへの呼びかけであり、罪の状態を解消するための回心の呼びかけの書でもあります。

 したがって「すべてのいのちを守るための月間」は、具体的なエコロジーの活動への招きと言うよりも、わたしたちの生き方の根本姿勢の見直しの呼びかけであり、神との関係、被造物との関係を見つめ直す具体的な行動への呼びかけを伴って、霊的な深まりと回心へとわたしたちを招いています。

 イザヤ書は、「心おののく人々に言え。雄々しくあれ、恐れるな。・・・神は来て、あなたたちを救われる」という神の励ましの言葉を記しています。

 感染症の状況の中で、普段通りの生活がままならず、また心の頼りである教会にあってもその活動が制限される中で、私たちは先の見通せない不安の闇の中で、恐れを感じています。

 不安におののく者に対してイザヤは、神の奇跡的力の業を記し、その力が「荒れ野に水が湧きいで」るように、不安におののく者に希望を生み出し、命が生かされる喜びを記します。

 使徒ヤコブは、外面的要素で人を判断する行いを批判します。確かにわたしたちは、外に現れる目に見える要素で、他者を判断し、裁いてしまいます。使徒はそれに対して、人間の価値は、神がその人に与えた恵みによって命が豊かに生かされていることにあるのだ、と指摘します。

 私たちは、いのちを生かされている喜びに、満ちあふれているでしょうか。そもそも私たちのいのちは、希望のうちに生かされているでしょうか。喜びに満たされ、希望に満ちあふれるためには、すべての恐れを払拭する神の言葉に聞き入らなくてはなりません。「恐れるな」と呼びかける神の声に、心の耳で聞き入っているでしょうか。

 私たちは、神の言葉を心に刻むために、心の耳を、主イエスによって開いていただかなくてはなりません。「エッファタ」という言葉は、私たちすべてが必要とする神のいつくしみの力に満ちた言葉であります。私たち一人ひとりの命が豊かに生かされるために、神の言葉を心にいただきたい。私たち一人ひとりの心には今日、主ご自身の「エッファタ」という力ある言葉が、福音朗読を通じて響き渡っています。神の呼びかけに、耳を傾けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

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2021年9月5日