・菊地大司教の日記 ⑦⑧8日は「世界反人身売買、祈りと黙想と行動の日」3日は初の「福者ユスト高山右近の記念日」

2018年2月 8日 (木)「世界反人身売買、祈りと黙想と行動の日」、2月8日

  教皇フランシスコは、2015年に2月8日を、「世界反人身売買、祈りと黙想と行動の日」と定められました。

 この日、2月8日は聖ジョゼッピーナ・バキタの祝日です。彼女は1869年にスーダンのダルフールで生まれ、1876年、まだ幼い頃に奴隷として売買され、様々な体験の後イタリアにおいて1889年に自由の身となり、洗礼を受けた後にカノッサ会の修道女になりました。1947年に亡くなった彼女は、2000年に列聖されています。カノッサ会のホームページに聖バキタの次の言葉が紹介されていました。

「人々は私の過去の話を聞くと、「かわいそう!かわいそう!」と言います。でも、もっとかわいそうなのは神を知らない人です」

 聖バキタの人生に象徴されているように、現代の世界において、人間的な尊厳を奪われ、自由意思を否定され、理不尽さのうちに囚われの身にあるすべての人のために、またそういった状況の中で生命の危険にさらされている人たちのために、教皇様は祈ること、その事実を知ること、そして行動することをこの日を定めた2015年の世界平和の日のメッセージで呼びかけられました。

 人身売買や奴隷などという言葉を聞くと、現代の日本社会とは関係の無い話のように感じてしまうのかもしれません。実際は,そうなのではありません。一般に「人身取引議定書」と呼ばれる「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約を補足する人、特に女性および児童の取引を防止し、抑止し及び処罰するための議定書」には,次のような定義が掲載されています。

 「“人身取引”とは、搾取の目的で、暴力その他の形態の強制力による脅迫若しくはその行使、誘拐、詐欺、欺もう、権力の濫用若しくはぜい弱な立場に乗ずること又は他の者を支配下に置く者の同意を得る目的で行われる金銭若しくは利益の授受の手段を用いて、人を獲得し、輸送し、引渡し、蔵匿し、又は収受することをいう。搾取には、少なくとも、他の者を売春させて搾取することその他の形態の性的搾取、強制的な労働若しくは役務の提供、奴隷化若しくはこれに類する行為、隷属又は臓器の摘出を含める。」
(同議定書第3条(a)

 すなわち、売春の強制や安価な労働力として,自己の意思に反して強制的に労働に服させられている人たちは,日本にも多く存在していますし、日本は受け入れ大国であるという指摘すらあるのです。

 カリタスジャパンと難民移住移動者委員会は、現在「排除ゼロキャンペーン」と題して、国際カリタスが主導する難民移民のための国際キャンペーンに参加しています。今日の世界反人身売買、祈りと黙想と行動の日」に当たり、国際カリタスは、南シナ海で強制的な労働にかり出されているミャンマーの人たちにスポットライトを当てて紹介をしています。(英語ですが,こちらのリンクを参照ください

その記事の中で、世界中で4千万人もの人が人身取引の被害者となり、その取引によって年間1500億ドルもの利益が生み出されていると指摘します。 こういった状況に対処するためには,二つのことが必要です。十分な情報の提供によって多くの人がその現実を知ること。そして政府だけではなく民間をも巻き込んだ決まり事の制定。国際カリタスのキャンペーンはこの二つを目指して,現在進められています。詳しくは,カリタスジャパンのホームページをご覧ください

 世界中で,そして私たちの身の回りで,自分の意思に反した過酷な条件の下で働かざるを得ない状況にある人々のために、祈り、またその現実を知ろうとする努力を忘れないようにいたしましょう。

   

2018年2月 5日 (月) 3日は初の福者ユスト高山右近の記念日

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この2月3日は、福者ユスト高山右近の初めての記念日でした。禁教令の中、信仰を捨てることのなかった高山右近は、日本を追放され、マニラにおいて1615年2月3日に病死されました。その人生そのものが、信仰を守り抜いたあかしの人生であったとして、昨年2月に大阪において、殉教者として福者の列に加えられたことは記憶に新しいところです。

 その最初の記念日であるこの2月3日、右近終焉の地であるマニラにおいて、記念ミサが捧げられました。場所は、右近がマニラに上陸し、盛大な歓迎を受けてパレードをしたマニラの旧市街、イントラムロスにある、マニラ教区のカテドラルで、司式はマニラ教区大司教のルイス・アントニオ・タグレ枢機卿でした。

 このミサに合わせ、日本からも60名を超える巡礼団が組織され、司教団からも会長の高見大司教と列聖委員会の委員長の大塚司教をはじめ、押川、郡山、勝谷、そしてわたしと6名の司教が参加しました。

巡礼団は三つのコースに分かれ、わたしは高見大司教と勝谷司教とともに、一番短い三日間のコースに参加しました。金曜日に東京を出発し、その日はマニラ市内のパコの教会でミサ。翌日はマニラカテドラルで枢機卿ミサ。そして日曜日にはサントトーマス大学内の神学校聖堂でミサを捧げ、夜には東京へ戻りました。

日本とマニラの間には30度に近い温度差があり、時差はほとんどないものの、やはり少しばかり体に堪える強行軍でありました。

 巡礼団はマニラ教区からだけではなく政府の観光庁からも大歓迎を受け、空港からホテルまでの移動を始めすべての移動には白バイの先導付きとなりました。

 土曜日のマニラ大聖堂でのミサには、日本からの巡礼団を始め、フィリピンに在住する日本人信徒・司祭・修道者や日本の教会にゆかりのある方々が参加され、またタグレ枢機卿の人気を反映して、多くの地元の信徒の方が集まってくださいました。

 わたしは、何年ぶりでしょうか、本当に久しぶりに、マニラで活躍されている神言会のホルスト神父様に会うことができました。昔、まだ私が神学生だった頃にドイツから来日し、日本で司祭になり、名古屋で働いていた司祭です。現在は、マニラで神学生の霊的指導をしておられます。

 このミサの模様は、以下のリンクで、Youtubeにアップされています。是非ご覧ください。カテドラルの聖歌隊が歌ってくれていますが、入祭の歌は途中から日本語になっています。また閉祭は、高山右近の歌が日本語で歌われています。また祭壇前には右近の木像と、聖遺物が顕示され、ミサ後には参加者が列をなして崇敬に訪れていました。

 タグレ枢機卿の説教も、いつものようにわかりやすい説教です。苦しみの意味について解説しています。キリスト者は、十字架のキリストを掲げ、殉教者を崇敬するからといって、苦しむことや苦しみそれ自体を目的としているわけではなく、また苦しみを美化しているわけでもない。神から与えられた使命を果たす全体の中で、使命のために苦しみに意味を持たせているのであり、それは、キリストが「あなた方のために渡される私の体」、「あなた方のために流される私の血」と言われたように、他者への愛を具体化するための苦しみである。苦しみのその先の「他者への愛」という使命の実践があってこそ、はじめて苦しみには意味があるのだ、というような内容です。

 三日目の日曜は、一番短いコース参加者だけでマニラ市内のカトリック大学であるサントトーマス大学へ向かいました。ドミニコ会の運営する歴史のある(アジアで一番古い)大学です。この中にある神学校(諸教区立)の聖堂で、日本語のミサを捧げました。わたしが司式させていただきました。

 ミサ後、大学構内にある右近の像を訪れ、皆で祈りを捧げました。

Manila1806 これからも、日本とフィリピンの教会のつながりの中で、互いの教会にとって大きな意味を持つ福者殉教者の模範に習いながら、列聖に向けた運動を続けながら、信仰のあかしに努めたいと思います。福者高山右近の生き方が、現代社会に生きる私たちの生き方とどのように関係するのか。信仰の目から、それをしっかりと見極めることが大切です。そうしなければ、単に、その昔、すごいヒーローがいたのだ、という話で終わってしまいます。聖人は単なるあこがれではなく、信仰を生きる私たちに具体的な道を示す存在です。すべてを失っても守るべき価値が厳として存在するのだという、いうならば頑固なまでの信仰におけるこだわりこそが、風に流されてふらふら生きるような私たちに、福音をあかしする生き方の道を教えているのではないでしょうか。

 2月の予定など(2018.1.31「司教の日記」から)

  あっという間に1月は終わり、2月になります。東京で仕事を始めてから、多くの方から面会のリクエストや,教会訪問のリクエストをいただいています。リクエストは、どうぞ、東京教区本部事務局にお願いいたします。事務局長がお話を伺い、相談の上、お返事いたしますので。)

2月の主な予定を,ご参考までに記しておきます。

  • 2月2日から4日 司教団公式巡礼、高山右近列福感謝ミサ(マニラ)

  • 2月5日 東京教区責任役員会

  • 2月6日と7日 カリタスジャパン援助部会

  • 2月8日 常任司教委員会、神学院常任委員会

  • 2月10日 札幌教区司教館本部竣工式 (札幌)

  • 2月12日 那覇教区司教叙階式 (沖縄)

  • 2月13日 カリタスジャパン会議

  • 2月14日 灰の水曜日、カテドラル関口教会ミサ (10時)

  • 2月15日 新潟 聖母学園理事会 園長会 (新潟)

  • 2月16日 仙台教区サポート会議 (仙台)

  • 2月18日 新潟 共同洗礼志願式ミサ 新潟教会9時半

  • 2月19日から23日 定例司教総会 (潮見)

  • 2月26日 東京、司祭月例会、平和旬間会議

  • 2月28日 東京、生涯養成委員会

 

マリア会創立200周年アジア・シンポジウム

  司祭に叙階されてからまもなく32年になります。東京大司教に着座してからのこの一ヶ月半は、その32年間で「最多忙」と言っても過言ではないほどに忙しくしています。わたしは「忙しい」と口にするのがあまり好きではないのですが、さすがにこの一ヶ月半は,忙しくて目が回りそうです。

 一番の理由は、東京へ移ることが決まる遙かに以前から約束していたことと、東京に移ったことで新しく取り組まなくてはならないことと,当分兼任している新潟教区の事柄の三つが,絶妙に絡み合ってしまっているためです。そのため、2月半ば頃までは,この超多忙な状態が続きそうであります。

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 その遙か以前から約束していたことのひとつが、1月半ばに行われたマリア会創立200周年のアジア地域シンポジウム。すでに2年も前から,マリア会の日本の責任者である青木神父様を通じてローマの本部から、このシンポジウムで話をするように依頼を受けていました。(上の写真は、会議参加者を迎えてくれた,現地の修道会志願者たちのダンス。ちなみにこの修道院の院長は韓国から派遣されてきたシスターでした)

 マリア会は,東京ではたとえば暁星学園などの運営母体です。マリア会のホームページにはこう記されています。

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 「マリア会は、福者ギョーム・ヨゼフ・シャミナード神父によって1817年10月2日フランスのボルドー市において創立された、ブラザーと司祭から成る国際的な男子修道会です。

 日本においては、今日まで主に教育の分野で活動し、暁星学園(東京)、海星学園(長崎)、明星学園(大阪)、光星学園(札幌)の経営母体として、教育の場を通しての信仰教育と信仰共同体の育成をめざして、教会に奉仕してきました。」(上の写真は,会場の修道院の聖堂前にある福者シャミナード神父の御像のまえで)

 そして今回初めて知りましたが、このマリア会のファミリーには、女子の修道会もあり、今回のシンポジウムにも参加されていました。それが、汚れなきマリア修道会。東京では、調布で晃華学園の経営母体です。

 さらにマリア会のファミリーには信徒の方々による,信徒マリアニスト共同体があり、日本にも会員がおられ,今回の集まりに代表が参加されていました。

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 シンポジウムの会場は,インドのラーンチーにある汚れなきマリア会の修道院。(上の写真)ニューデリーとコルカタ(カルカッタ)の間で,コルカタに近い方にある町ですが、カトリック教会では大司教区で、教区長はテレンス・トッポ枢機卿。ちなみに補佐司教のビルン師は,わたしと同じ神言会員です。

 ここで、カリタスアジアの体験から、貧困の撲滅と福音宣教の可能性について、1時間半ほど英語でお話をさせていただきました。

 参加者は,インドを中心に,日本、韓国、ベトナムから40名近く。日本語と韓国語の同時通訳を会員の方がしておられました。

 わたしの話の後には国別に分かれてグループディスカッション。マリア会のこれからの活動のために,様々な新しいアイディアが分かち合われていました。

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 わたしが講演した翌日は,インド人の神学者であるジェイコブ・パラパリィ神父の講演。アジアの現実の中で、諸宗教、そして諸文化の人々とどのように対話するのか。わかりやすく示唆に富んだ講演でした。

 日本からはニューデリーまで直行便(エアインディアで飛びました)で10時間。その後乗り換えて国内線で3時間。インドだから暑いかと思いきや、北部はこの時期寒い。しかも会場の修道院には暖房がない。日本の今の時期の格好でぴったりでした。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教に2018年12月16日着座)

 菊地大司教の日記 ⑥少しずつ、前進、漸進

2018年1月14日 (日)

 この数日、新潟は大雪で、普段はそれほど雪が積もらない新潟市内でも、あまりの積雪に車が埋まったりして、新潟教区本部も臨時休業となったと、連絡をいただきました。普段あまり降雪がない分、新潟市内は,実は大雪には備えが手薄だったりして、こんなにどかんと降ると大変なことになります。一晩中、電車に留まることになった方々は,本当に大変だったと思います。東京でも何度もニュースで流れました。

 とは言いながら、わたしは東京にいるわけで、大雪の新潟では全く考えられないほどの薄着で過ごしております。もちろん東京もそれなりに寒いことは寒いのですが、今朝、日曜の朝など、ジャケット一つでカテドラル構内を歩いていられるほどの暖かさ。考えられません。 で、朝からカテドラル構内を歩いていたのは、福島野菜畑の柳沼さんが、野菜などの販売に来られていたので、ご挨拶に。新潟でも,いくつかの教会で,福島野菜畑の活動に協力をしていますが、東京の関口教会では,月に二回ほど,定期的な販売があると聞きました。Yasaibatake1801

 柳沼さんによれば、教会の方々もそうですが、これまで何度も来ているので,顔なじみになった地元の方が常連さんのように購入してくださるそうで、そのため早朝からテントで開店しておられました。二本松から車で3時間ほどかけて来られます。大変な努力をしながら、福島の野菜を販売し続けることで、多くの方が福島を忘れずその現実に直接目を向けてくださるようになればと,心から願います。これからもできるだけ,柳沼さんたちの活動を応援していきたいと思います。

 東京教区に着座して,ほぼ一ヶ月です。よくアメリカの大統領なんかが就任すると,ハネムーンの100日とか言われます。その間は,多少の試行錯誤は許されるが、100日を超えたら結果を出すことが求められるという意味でしょう。そうなると、100日は、聖週間が始まる3月25日の週ですね。

 うーん。努力します。

 でも少しずつですが、前進、いや漸進しております。 昨日、1月13日の土曜日には,初めての宣教司牧評議会を開催しました。宣教司牧評議会は,新潟教区にもありますが,教区によってその活動内容が異なっています。東京の宣教司牧評議会は、それぞれの宣教協力体からの代表の信徒の方で主に構成され、司祭評議会の代表も加わると伺いました。もっとも司祭評議会はまだ開催されていませんので、今回は司祭の代表は不在。それでも、司教が福音宣教の方向性を定めるために、各現場の現状からの報告や提言が活発になされる、教区司教を支えてくれる組織であると、今回の初めての宣教司牧評議会で感じました。なるべく多くの声をお聞きしたいというのがわたしの願いですので、これからも様々な課題について、信徒の方々の声を届けていただければと思います。

 新潟教区では,宣教司牧評議会は一年に一度しか開催できませんでしたが、東京教区では,隔月で,年に6回の開催。回数の多さに,さすが大都会と驚きましたが、ありがたいことです。

 どのくらいの頻度で,カテドラルでのミサを行うのか,何かまだ模索中ですが、すでに決まっている東京カテドラル関口教会での次回のわたし司式のミサは、灰の水曜日、2月14日午前10時の予定です。なるべく頻繁に、機会を見て、カテドラルでのミサも捧げたいと思います。

 なお新潟教区では、また小教区には改めて教区本部からご案内しますが、四旬節第一主日の共同洗礼志願式を,今年もわたしの司式で,新潟教会で行います。今年は、2月18日(日)の午前9時半です。

  先日、東京での着座式に合わせて、オリエンス宗教研究所から本を出していただきました。タイトルは、『「真の喜び」に出会った人々』で、B6版144ページ、税別で1,200円です。一冊お買い求めいただけたら幸いです。

 この本は,先に,オリエンス宗教研究所から毎月発行されている『福音宣教』誌に連載された記事をまとめたものです。11回の連載で、わたしが直接知っている方々を中心に、福音の喜びに触発されて信仰の証しに生きている方々を紹介する内容です。

 ほとんどの方が,ガーナでの宣教活動や,カリタスジャパンの仕事を通じて出会った人たちです。わたしの人生の歩む方向に,大きな影響を与えた人もいます。新潟教区の米沢の53福者殉教者や,福者オルカル・ロメロ大司教のような歴史上の人物もいますが、すべて何らかの形で,わたし自身とつながっている人たちです。

 連載当時は、年に11本ですから、毎月締切り間近になると,苦しんでいたことを思い出します。想像では書けないので、存命の場合はご本人にメールを出したり、関係者にメールを出したり。かなり余裕を持ってメールを出しているのですが、なかなか返事がなくて気をもんだり、さらには返事がない場合に備えて,記事にはならなかった複数名の方に予備のインタビューをしておいたりと、編集部からの企画でしたので、間に合わせるのに苦労したことを覚えています。

本の表紙は、ガーナで働いていた30年前、一緒に苦労したカテキスタのデュマス氏と,一緒にいつも訪問していた病弱なダニエル氏のツーショット写真から、編集部が作成してくれました。二人の話も、もちろん本の中に記されています。

このデュマス氏の息子さんは,当時小学生で,わたしの教会の侍者をしていましたが、いまでは神言会の神父になって,日本管区で働いています。またこの本に登場するガーナのクモジ司教と、コンゴのチバンボ神父は、先日の東京での着座式に参加してくれました。

いろんな人がいて,いろんな状況の中で,いろんな生き方で,福音を証ししている。お互いに出会ったことのない人たち、生きている時間も異なる人たちは、それでも一致しているのです。福音に真摯に生きようとする姿勢において、多様性の中で一致している、神の民の一員です。

 (菊地功=きくち・いさお=東京大司教に12月16日着座)

 菊地大司教の日記⑤「教区内の多くの方の力を結集して社会の光に」東京教区新年の祝いのミサで

 昨日1月8日は、カテドラルの関口教会で、午後2時から、教区の新年の集いのミサが行われました。ミサは私が司式し、30名を超える司祭が共同司式してくださいました。聖堂も、教区内各地の小教区共同体の方々が大勢駆けつけてくださり、設置してある座席はいっぱいでした。(あれで、実際は何名くらい座れるのでしょう。そのうち調べてみます)

 またミサの後にはケルンホールを会場に茶話会が開催され、教区内の多くの方からご挨拶をいただきました。おいでくださった方々に感謝します。また準備してくださった宣教司牧評議会の皆さんにも感謝申し上げます。

 以下昨日のミサの説教の原稿です。

 大司教として着座をし、東京教区の牧者としての務めを任されて、まだ一月もたっていません。ですから私にとって、新しく始まったばかりのこの一年は、東京教区の全体像をしっかりと理解する一年になろうかと思います。できる限り多くの方にお話を伺う一年としたいと考えています。

 とはいえ、東京教区の教区共同体はその間も眠っているわけではなく、生きているキリストの体として歩み続けております。年の初めに当たり、教区共同体全体として、どこを向いて歩みを進めようとしているのか、その方向性だけでもお話ししようと思います。

 ご存じのようにわたしの司教職のモットーは、「多様性における一致」であります。一般的に考えて、多くの人が集まって生きている社会には、必然的に多様性が存在しています。一人一人が異なる人間であるから当然であります。ですから、人が多く集まるところには、必然的に何かしらの多様性があります。

 私たちの信仰は、旧約の時代から新約の時代に至るまで、私と神との関係を基礎にしつつも、常にその個人的な神との関係は共同体の中で生き、はぐくまれ、実践される信仰であります。まさしく、神の民という言葉が表しているとおり、私たちの信仰は共同体と切り離せない関係にあります。

 多くの人が集まったこの信仰共同体を一致させるのは、皆が同じように行動するといったたぐいの外面的な同一性ではなく、同じキリストに結びあわされて生かされているという意味での同一性であります。

 私が「多様性における一致」というモットーに掲げている一致は、一見それぞれがばらばらに生きてはいるのだけれども、それぞれが唯一のキリストにしっかりと結びあわされて生かされ、共同体全体としては神に向かって歩んでいる、そのような一致であります。

 ですから問題は、教区共同体の皆が、しっかりと同じキリストに結びあわされて生かされているのかどうかであります。わたしたちは、自分が出会ったことのないキリストに結ばれることはありません。教皇ベネディクト16世がしばしば強調されていたことですが、私たちの信仰にはキリストとの個人的な出会いが不可欠です。キリストとの出会いは、「個人的な出会い」と言いながらも、それは決してわたし個人のためだけなのではなく、皆が同じキリストに結ばれるようにと、共同体全体のために不可欠なことであります。

 教区共同体全体が多様性の中に一致することができるように、まず第一に、一人一人が個人的にキリストと出会うことができるように、祈りと学びを深めていきたいと思います。

 その意味でも、今生きている神の御言葉に、しっかりとつながっていることは重要です。聖書に親しみ、同時にミサの時に朗読される聖書に記された神の言葉を、是非とも大切にしていただきたいと思います。それは昔記された格言集なのではなく、告げられたときに今生きている神の言葉であります。ミサの聖書をよりよく朗読し、また神の求められていることを知るようにと耳を傾けることは大切であります。

 「私の口から出る言葉も、むなしくは、私のもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす」と預言者イザヤに語らせた神の思いが、今実現するように、私たちは神の言葉を通じて示される神の使命を知り、その実現に寄与する生き方を見いだしたいと思います。

 教会は、誰かが経営をしているお店にお客さんがやってくるようなそういう存在ではなく、その共同体に属するすべての人によって成り立つ存在です。それは教区共同体も、小教区共同体も同じことであります。信徒、司祭、修道者が、それぞれ共同体の中で役割を果たし、責任を分担していくことで、一つの体は成立いたします。その意味で、継続した信仰養成は重要であり、そのためのリーダーには、信徒の方々にも積極的に関わっていただきたい、と私は思います。できる限り多くの方の協力を得られる道を、これから模索したいと考えています。

 日本の司教団は、昨年、「いのちへのまなざし」のメッセージの増補新版を発表いたしました。私たちが生きているこの社会には、国家間の関係に始まり、身近な地域の関係まで含めて、様々な不安要素が存在し、私たちはある意味、先行きの明確ではない暗闇の中を手探りで進んでいるような漠然とした危機感の中で、何かしらの不安を抱えて生きております。そのような現実の中で、人間のいのちは、様々なレベルでの危機に直面しております。現実の紛争やテロの中で失われていく多くのいのち。国境を越えて移動する中で危機に直面するいのち。そうかと思えば、私たちの国でも、障害と共に生きている方々を殺害することが、社会にとって有益なのだと主張し、実際にそれを実行する人物が現れ、加えてその行為を肯定する人たちの存在すらも浮かび上がりました。

 神からの賜物であるいのちの価値を、人間が決めることができるのだという考えは、神を信じている私たちにとっては、人間の身勝手な思い上がり以外のなにものでもありません。

 世界の様々な現実の中で、多くのいのちが危機にさらされている、その背景には、世界が暗闇に取り残されてしまった不安から生じる自己保身と、その結果としての自己中心、利己主義が横たわっております。異質な存在を排除し、自分たちの周囲のこと以外には無関心になって目をつぶる。そのような自分中心の世界の中で、神からの尊い賜物であるいのちは、様々なレベルの危機に直面しております。

 マルコによる福音に記されている洗礼者ヨハネは、主イエスを評して「私より優れた方が、後から来られる。私は、かがんでその方の履き物のひもを解く値打ちもない」と述べています。その言葉は、主イエスが優れているのだという宣言である以上に、洗礼者ヨハネの自己理解がいかに謙遜であり、自己中心でないのか、ということを明確にしています。

 私たちは、この世界では人間ではなく神が中心なのだと主張したいのです。洗礼者ヨハネのように、私ではなく、神こそが中心なのだ、と主張したいのであります。しかしそう主張するためには、この現実のなかで多くの困難が伴います。ですから、皆さんの力が必要なのです。

 教会に属する多くの方が、それぞれの生きておられる現場で、それぞれの方法で、この利己的な価値観にあらがう活動を続けておられます。是非とも教区内のそういう力を結集し、ばらばらに個々人がではなく、教会が全体として、この社会の中にあって暗闇に輝く希望の光となることを目指したいと思います。いのちの大切さを説き、私たちの人生には本当の希望があるのだと主張する。社会の中にあってそういう光り輝く教区共同体であってほしいと思います。失敗を恐れずに挑戦してみましょう。教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び」に記された言葉を引用して終わります。

 「私は出て行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さ故に病んだ教会より好きです」(「福音の喜び」第49項)

 (菊地功=きくち・いさお=東京大司教に12月16日着座)

 菊地大司教の日記④元旦ミサの説教「困難に直面する一人一人に、思いをはせ、その心に寄り添おう」

2018年1月 1日 (月)神の母聖マリア、深夜ミサの説教

  1月1日は、神の母聖マリアの祝日であり、また世界平和の日でもあります。今年は、東京カテドラル関口教会で、新しい年の始まりと同時に、深夜ミサを捧げました。聖堂内は、深夜にもかかわらず、ベンチ部分はいっぱいになるくらい多くの方がミサに与り、一年の始まりを祈りのうちに過ごしました。

 以下、深夜ミサの説教の原稿です。

 お集まりの皆様、新年明けましておめでとうございます。

 新年の第一日目、これから新しい一年という時間を刻み始めるに当たり、教会はこの日を「世界平和の日」と定めています。かつて1968年、ベトナム戦争の激化という時代を背景に、パウロ六世が定められた平和のための祈りの日であります。

 同時に、主の降誕から八日目にあたる今日は、「神の母聖マリア」の祝日でもあります。
神の御言葉、平和の王である主イエスは、聖母マリアを通じて私たちと同じ人となられました。八日目に「イエス」と名付けられた幼子は、聖母マリアの愛情のうちに救い主としての道を歩まれ、神の望まれる道を具体的に私たちに示されました。

 新しい年の初めにあたり、聖母が信仰のうちにイエスと歩みをともにされたように、わたしたちも主の示される道をともに歩む決意を新たにしたいと思います。

 今日、世界の平和を考える時、私たちは日本近隣を含め世界各地で見られる緊張状態や、この十数年間に頻発しまた継続している様々な地域紛争、残忍なテロ事件のことを考えざるを得ません。それ以外にも、全く報道されることのない、ですから私たちが知らない対立や不幸な出来事が、世界各地には数多く存在していることを思うとき、その混乱に巻き込まれ恐れと悲しみの中にある多くの方々、とりわけ子どもたちのことを思わずにはいられません。この新しい年を、希望の見えない不安な状況の中で迎え、いのちの危機にすら直面している多くの人たちに、私たちの心を向けたいと思います。

 この新しい年には、日本をはじめとして、この地域の各国の指導者たちが、さらには世界の国々の指導者たちが、対立と敵対ではなく、対話のうちに緊張を緩和する道を見いだし、さらには相互の信頼を回復する政策を率先してとられることを期待せずにはおられません。一人一人のいのちが等しく大切にされる世界の実現に、一歩でも近づくように祈ります。

 さて激しくグローバル化する世界では、様々な理由から国境を越えて移動する多くの人たちがおります。観光旅行に始まって、留学やビジネスや学術研究や医療など、人が移動し続ける理由は数限りなくありますが、そこには自分が積極的には望まない理由で移動をせざるを得なくなる人たちも多く存在しています。

 一人一人のいのちが、神の前で等しく大切であり、誰一人として忘れられてよい人も無視されてよい人もいないのだと強調され続ける教皇フランシスコは、特に、様々な理由から母国を離れて移住するしか道のなかった人たちの、それぞれの心の悲しみと苦しみに目を向けられます。

 本日の「世界平和の日」にあたって発表された教皇様の平和メッセージのテーマは、「移住者と難民、それは平和を探し求める人々」とされています。

 ともすれば、移住者や難民は、平和を乱す混乱の原因であるかのように見なされます。しかし教皇はそれをあえて、「平和を探し求める人々」なのだといわれます。

 教皇フランシスコは、メッセージの冒頭で次のように指摘されます。
「世界中に2億5千万人以上いる移住者と、その内の2250万人の難民について再び話したいと思います。わたしの敬愛する前任者、ベネディクト十六世が断言しているように、彼らは『平和のうちに過ごすべき場所を求める、男性、女性、子ども、若者、高齢者です』。彼らの多くは平和を見いだすために、いのちをかける覚悟で旅に出ます。その旅は多くの場合、長く険しいものです。そして彼らは苦しみと疲れに見舞われ、目的地から彼らを遠ざけるために建てられた鉄条網や壁に直面します」

 その上で教皇は、聖ヨハネパウロ2世の言葉を引用してこう記します。
「もし、すべての人々が平和な世界という夢を分ち合い、また難民や移住者の貢献が正しく評価されるなら、人類はもっと世界的な家族となり、地球は本当の意味での共通の家となるでしょう」

 教皇フランシスコのこうした呼びかけに応えて、教会の援助救援団体である国際カリタスでは、昨年9月から、難民や移民として困難な旅路に出ざるを得ない人たちと、その旅路を分かち合おうという趣旨のキャンペーンを始め、日本の教会では、カリタスジャパンと難民移住移動者委員会が共同で、「排除ゼロキャンペーン」と題して実施中であります。

 私たちはニュースなどを耳にするとき、難民だとか移住者と、ひとくくりの集団として考えてしまいがちであります。しかしそこには一人一人の大切な存在があり、そこには一人一人のユニークな歴史と物語があります。一人一人の喜びと希望、苦悩と不安が存在します。

 どうしても第二バチカン公会議の現代世界憲章の冒頭を思い起こしてしまいます。
「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」

 教会は、困難に直面する一人一人に、思いをはせ、その心に寄り添いたいと願っています。

 世界平和の日にあたり、困難に直面している多くの方々の心に思いをはせましょう。平和を実現する道を歩まれたイエスの旅路に、聖母マリアが信仰のうちに寄り添ったように、私たちも神が大切にされている一人一人の方々の旅路に寄り添うことを心がけましょう。聖母マリアのうちに満ちあふれる母の愛が、私たちの心にも満ちあふれるように、マリア様の取り次ぎを求めましょう。

 この一年、いのちの与え主である神が、一人一人の存在を愛おしく思われるように、わたしたちも一人一人を大切にし、その心に寄り添って生きるように、とりわけ困難な状況のうちに生きておられる多くの人たちに寄り添うように、ともに心がけて参りましょう。

 (菊地功=きくち・いさお=東京大司教に12月16日着座)

 菊地大司教の日記③年頭挨拶・・「三つの務めをバランスよく分担して進めよう」

新年、明けましておめでとうございます。

 先日東京カテドラルで行われた着座式では、本当に多くの方に参加していただき、励ましのお祈りとお祝いの言葉をいただきました。また、当日は様々なところで、多くの方のお祈りもいただきました。お一人お一人に御礼を申し上げたいのですが、なかなか適いませんので、このブログでもって、皆様に心から感謝申し上げます。

 本来ですと御礼の言葉や、また新年のメッセージなどを用意すべきところです。申し訳ありません。何もできていません。年賀状すら用意することができませんでした。

 というのも、実はまだ新潟からの引っ越しが完全には終わっておらず、また新潟教区での残務整理に加えて、新しい司教が決まるまでの新潟教区管理者の仕事もあるため、東京に落ち着いておりません。一段落するまで、今しばらく時間をいただきたく思います。

 さて、年末最後の日には、都内でも雪がちらつきました。大晦日に初雪を観測したのは、130年ぶりだと、どこかで読みました。寒い一日でした。

 厳しい寒さで始まるこの2018年は、私にとっては大きな挑戦の一年です。「教区共同体とともにどこへ向かうのか、そのためには何をしたらよいのか」。まずこの二つを、全く新しい環境の中で見極めていかなくてはなりません。そのためには、現在の教区共同体の現実と可能性を識別しなくてはなりません。

 とはいいながら、教区共同体は生きています。教区共同体には、まさしく「多様性」そのものともいうべき、多様な教会の現実があり、その多様性は具体的な人として日々の信仰生活を生きておられます。ですから、完全に立ち止まり、いわばフリーズしてアイディアを練ることだけに集中することはできません。今まさしく動いている共同体を、動かし続けなくてはなりません。

 これまで続けられてきたことは、ひとまずそのまま継続していただきたいですし、その動きの中で、課題や可能性を一緒に学ぶことができればと思います。私にとっては新しく知ることですし、また教区共同体を形成しているお一人お一人にとっては、これまでの過去を振り返り新たな道を見いだす機会ともなり得るかと思います。

 そのような中にあっても、私にとっては明確なことを、二つだけ記しておきます。

 まず第1に、教会共同体は、積極的に参加される人も、そうではない人も含め、すべての信徒・修道者・司祭はその一部です。それはご自分が好むと好まざるとに関わらず、洗礼を受けてキリスト者となっている限りにおいて、すでに教区共同体の一部として招かれているからです。ですから、皆さんすべての存在が、教区共同体には不可欠です。

 そして第2に、教皇ベネディクト16世が、回勅「神は愛」に記された教会の本質的三つの務めを、教区共同体として具体化することが私の願いです。すなわち25番に次のように書かれています。

「教会の本質は三つの務めによって表されます。すなわち、神のことばを告げ知らせること(宣教ケーリュグマ)とあかし(マルチュリア)、秘跡を祝うこと(典礼レイトゥールギア)、そして愛の奉仕を行うこと(奉仕ディアコニア)です。これら三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことができないものです」

 福音宣教に励み、典礼を真摯に行い、愛の奉仕の務めに励む教会共同体。もちろん一人ですべてをすることができるはずがありません。だからこその多様性です。そしてそれら三つは、対立するものでも勝手なものでもなく、互いが互いの前提となり、切り離すことができないのです。だから、多様性における一致です。

 教区共同体の中で、この三つの務めがバランスよく、そして互いを支え合いながら具体化されるとき、教会は社会の中で、福音を具体的に生きる「しるし」となるのではないでしょうか。

 現代社会はめまぐるしく変化を続け、日本の社会構造もこれから大きな変化に直面しようとしています。社会が変わる中で、教会は変わらない福音を堅持しながらも、それを具体的に「あかし」する道は、常に時代の要請に応えて刷新し続けなければなりません。時代の流れに迎合するのではありません。そうではなく、神がこのすべての人に福音を伝えたいと願っている、その神の思いを、今の時代にどのように具体化するのかを、神の民は歴史の中で常に見極めてきたのです。それを私たちは、今も続けなくてはなりません。

 新しい年が、すべての信仰者にとって、教区共同体において自らが果たすべき役割を見いだし、異なる考え、異なる生き方、異なる信仰の表現にあっても、同じキリストから離れることなく、互いに受け入れ合い、支え合っていく一年となりますように。

2018年1月1日

(菊地功=菊地・功=カトリック東京教区大司教・カトリック新潟教区 教区管理者)(「司教の日記」より)

 菊地大司教の日記 ②主の降誕の祝日に「神の愛といつくしみとゆるしを、具体的に示すしるしとなろう」

2017年12月25日 (月)主の降誕の祝日

 今日もまた晴天に恵まれた東京でした。加えて乾燥してます。静電気も走ります。

 今日、主の降誕の祝日は、午前10時からのミサを司式させていただきました。昨晩ほどではないものの、カテドラル関口教会聖堂は、ベンチがほぼすべて埋まり、周囲のパイプいすに座る人たちもいたので、いったい何人おられたのでしょう。

 昨日の待降節団第4の主日に始まって、降誕の夜半のミサ、深夜ミサ、そして今日の朝のミサと、主任と助任司祭もフル回転でしたが、侍者の青年たちもフル回転。昨晩は深夜ミサの後に、信徒会館に泊まっていった強者も数名いたようでした。

 本日、主の降誕の祝日、日中のミサの説教原稿です。

「いかに美しいことか。山々を行き巡り、よい知らせを伝えるものの足は」

 本日の聖書と典礼の表紙には、クリスマスには欠かせない馬小屋での誕生の絵画が掲載されています。ところが、その聖書と典礼のページをめくり本日の朗読を読んでみても、そこには馬小屋も、飼い葉桶も、マリアもヨセフも登場してきません。本日の福音には、ただ、「はじめに言があった」とだけ記されておりました。

 日本語の訳は、「言葉」という普通の単語ではなく『言』と書いて『ことば』と読ませています。ギリシア語の『ロゴス』という単語を表現するために、いろいろ考えた結果だと思います。そこには単に私たちが普段口にしている言葉とは意味合いが異なる特別な意味があり、生きている神の言は、人格をもった神の思いそのものであり、それこそがイエスなのだと言うことを私たちに伝えるための、漢字の工夫であろうと思います。

 イエスの存在そのもの。イエスが人として語る言葉。イエスの行い。それこそが神の思いを具体的に見えるものとした事実であり、その存在にこそ命があり、光があり、暗闇の中に輝く希望なのだと、ヨハネは私たちに伝えています。

 イエスの誕生にこそ、また神の言の受肉にこそ、神の愛といつくしみとゆるしの深さがはっきりと表れています。自らが創造された人間のいのちを、神は徹底的に愛しぬかれていたから、忍耐に忍耐を重ねて、しばしば預言者を通じて、その歩む道をただそうとしてきた。しかし人間はなかなかそれに従わない。そこで神はすべてを終わらせることも出来たであろうに、そうではなく、自ら人となり直接にわたしたちへと語りかけ、わたしたちが歩むべき道を示し、そして最後には人間の罪をすべて背負って十字架につけられました。それは、あがないの生け贄としてその身を捧げ、それによってすべての人のために永遠の生命への道を開かれるためでありました。これこそが、私たちの信仰の中心であります。そしてその原点は、はじめからあった神の言が人となって誕生した事実にあります。

 今日、イエスの誕生を祝ってここに集う私たちは、神のつきることのない愛といつくしみとゆるしの結果として、私たちに与えられた神の言にあらためて触れています。神の思いそのものである言に触れ、それに包まれる機会を与えられています。私たちがクリスマスに教会に集まって喜びの思いを抱くのは、単にイエスの誕生日を祝っているという喜びではなく、つきることのない神の愛といつくしみとゆるしに包み込まれて生かされているのだという事実を、この誕生の神秘のうちに改めて確認させられるからではないでしょうか。

 福音は、「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」と述べています。人となられた神の言を信じる私たちが、神の子となる資格を与えられるのであれば、それでは、神の愛といつくしみとゆるしに包み込まれ、神を信じるわたしたちは、どのように、何をもって、神に応えることで、神の子となっていくのでしょうか。

 本日の第一の朗読に、「いかに美しいことか。山々を行き巡り、よい知らせを伝えるものの足は」というイザヤ預言者の言葉が記されていました。

 わたしたちには、忘れることのできない使命が一つあります。あらためて言うまでもなく、それは福音宣教の使命です。素晴らしい恵みを受けて生かされているわたしたちは、それを自分のためだけに、自分のうちだけにとどめておくことは許されません。主ご自身が命じられたように、受けた恵みをわたしたちはすべての人たちに告げ知らせる使命を与えられていること、その事実を、イザヤの預言は今日、思い起こさせます。

 経済や政治の状況が厳しい中で、また少子高齢化が激しく進んで社会全体に明確な希望の光が見えてこないようなときに、人はどうしても自分の人生の護りに入ってしまいます。皆が護りに入る、社会全体から、『愛といつくしみとゆるし』は徐々に姿を消し、厳しく他人を裁き、批判し、異質な存在を排除し、最終的には対立し攻撃することさえ良しとしてしまいかねません。

 私たちはそういった社会に対して、裁きや批判ではなく、また排除や対立ではなく、互いに神から命を与えられ生かされているものだという謙遜な自覚の中で、互いに支え合い、受け入れあう慈しみ深さ、優しさを、見える姿で示していきたいと思います。それは声高に語る福音宣教ではなく、一人一人の、そして共同体としての、言葉と行いを通じた具体的なあかしによる福音宣教です。教会共同体は今、社会のただ中にあって、神の愛といつくしみとゆるしを具体的に示すしるしとなることが必要です。

 孤独のうちにある人、助けの声さえ上げることのできない人、存在さえ忘れ去られた人、様々な理由で排除される人。その叫びは小さな声だけれど、暗闇に響き渡る主イエスご自身の声、神の言であります。そこに神がおられる。

 神の言が人となられたことを祝う今日、私たちはあらためて神の思いそのものである言に生きることを、また神の言に生かされ、そして神の言を具体的に形で多くの人に伝えていく決意を新たにしたいと思います。私たちが生きているこの世界に、この現実に、神の言が、どうしても必要だと信じています。

2017年12月24日 (日)主の降誕、クリスマスおめでとうございます

 東京教区の皆様 新潟教区の皆様

 主の降誕のお喜びを申し上げます。

 着座式直後の日曜日には、荻窪教会でミサを捧げることができましたが、今日の主の降誕の祝日は、着座式以降初めてとなるカテドラルでのミサ司式です。さすがに緊張しました。さすがに東京です。さすがに関口教会です。ものすごい人です。しかもミサが夕方5時、7時、10時、深夜零時と4回もあり、しかも午前中は待降節第4主日であったわけですので、主任と助任のお二人は、フル回転です。私は、今夜は7時のミサを、そして明日の日中は10時のミサを担当させていただきます。また今日の日中は、韓人教会の皆さんのクリスマスのお祝いにも参加することができました。

 今夜の7時のミサで感動したのは、もちろん参加者が(信徒とそれ以外の方々)ものすごく多いことや聖歌隊がたくさんおられることでもありますが、それ以上に、侍者をつとめる子どもたちと青年がたくさんいること。

 というわけで、今夜の夜半のミサの説教の原稿です。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見た」

 お集まりの皆さん、主の降誕、クリスマスおめでとうございます。

 クリスマスと言えば、パーティなどのお祝いが欠かせません。それも、明るい昼間よりも、夜、暗くなってから行われるお祝いの方が、いかにもクリスマスという感じを受けます。それはたぶん、クリスマスには明るく輝くイルミネーションがつきものであり、そのイルミネーションが輝くためには、暗闇が必要だからなのかもしれません。

 でも実は、イエスの降誕という出来事と、暗闇との間には、意味のある関係が存在します。それはただ単に、イエスが誕生したのが夜だったと、先ほど朗読された福音書に記されているからではありません。イエスが誕生した意味、そしてその過去の出来事が現代社会に生きている私たちにいま語りかけていること、それを明らかにするのは暗闇であり、その暗闇を支配する静寂であり、その闇と静寂のうちに小さく輝く光であり、ささやく声であります。

 わたしは昔、30年ほど前、まだ若い神父であった時に、アフリカのガーナという国の山奥の教会で働いていました。8年間働いていた村は、今でもそうなのですが、電気が通じていない村です。近頃は、近隣の村には電気が通じたと聞きましたが、30年前は、大きな町に行かないと電気は通じておりませんでした。

 電気がないところで暮らしていると、夜の闇の深さを肌で感じます。そういった村での明かりは、昔ながらの灯油のランタンであります。小さくか細い光を放つランタンですが、深い闇の中では、そんな小さな明かりも力強く輝いているように感じられます。

 夜の道を歩かなくてはならないときなど、懐中電灯の光を頼りに道を探りながら山道を進んでいるとき、月が出ていなければ、周囲を包み込む暗闇は心に不安を生み出します。いったいこの先はどうなっているのか。目的の村はどこにあるのか。暗闇の中で、自分の心の疑心暗鬼に翻弄され、不安に駆られるとき、道の先に小さなランタンの明かりが見えたときの安心感。軒先に掲げてあるランタンです。小さな光ではありますが、暗闇が深ければ深いほど、どれほど小さな光であっても、不安と恐れを取り払い、小さいながらも希望と喜びを感じさせる光であります。

 第一朗読のイザヤの予言は、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見た」としるし、将来の救い主の誕生を告げ知らせます。ところがその「大いなる光は」、福音書に記されていたとおり、小さな生まれたばかりの幼子としてこの世界に現れたのです。

 小さないのちは、まさしく暗闇に輝く小さな光。しかし闇が深ければ深いほど、その小さな光であっても、大きな希望の光となり得るように、この小さないのちは、不安と疑心暗鬼の深い闇が広がる現実社会のただ中で、大きな喜びと希望の光となるのです。

 「いのち」は、神から与えられた、贈り物、「たまもの」です。神は、人類に喜びと希望を与える光を、小さないのちとして誕生させることで、一人一人に与えられたいのちが、同じ可能性を秘めていること、そしてそのためにこそ、一人一人のいのちがかけがえのない大切なものであることを示されました。 一人一人のいのちは、世界全体と比較すれば小さいものかもしれません。でもその小さないのちは、闇の中に小さな光を輝かせることができる。そしてそれは、世界全体に対する喜びと希望の光となり得る。だからこそ、一人一人は例外なく、神の目にあって大切なのだと、教えています。

 私たちが生きている現実は、残念ながら素晴らしいことばかりで満たされているわけではありません。そこには様々な意味での暗闇が存在します。その暗闇の中で、一人一人が真摯に小さな光を輝かせること。それがクリスマスの神からの呼びかけです。

 その晩の暗闇の中、野宿をしていた羊飼いたちに現れた天使は、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美していった、とも福音には記されていました。小さく輝く希望の光へと導く声であります。

 私たちが生きている現実は、様々な音で満ちあふれております。それは物理的に実際に鳴り響く音であったり、私たちの心を奪っているありとあらゆる情報という音でもあります。様々な音に支配され、静寂からはかけ離れた現実に生きている私たちは、ともすれば、希望の光へと導く声を聞き逃しているのかもしれません。クリスマスの出来事が私たちを招くもう一つのことは、静寂のうちに耳を澄ませてみることでもあります。それは実際に静かにするということ以上に、心を落ち着けて、神の声に耳を傾けようとする姿勢のことであろうと思います。イエスがご自身であるとまで言われた、困難に直面して助けを求めている人たちの声は、やはり社会の騒音の中に隠されてしまいます。助けを求める小さな声は、神からの呼びかけの声でもあります。心の静寂のうちに耳を澄ませることを忘れずにいたいと思います。

 天使たちは、御心にかなう人に平和があると告げました。平和の実現した世界、すなわち神の望まれる秩序が実現している完全な世界を生み出すことこそが、「御心に適う」ための私たちに与えられた使命ではないでしょうか。 御心に適うこととは、神が賜物として与えられた、この一人一人の小さないのちを、徹底的に大切にし、互いに助け合い、支え合いながら生きることに他なりません。

 困難な社会の状況の中で、対立ではなく、排除ではなく、憎しみではなく、互いに理解を深め、支え合い、絆を強めあいながら、神からのたまものであるいのちがすべからく大切にされ、それぞれが豊かに生きることのできる世界を生み出して参りましょう。助けを求めているちいさな声に、耳を傾ける努力を怠らないようにいたしましょう。

 幼子イエスの小さく輝く光。今宵のミサでその光を私たちの心にともし、暗闇の中でそれ光を輝かせて参りましょう。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教に12月16日着座=の「司教の日記」より本人の了解を得て転載)

 菊地大司教の日記 ①「東京に着座しました。みなさまに感謝。少しづつ・・」

 12月16日、東京教区の大司教として着座式を無事終えることができました。着座式ミサには、事前の予想をはるかに超える二千人以上の方々が参加してくださり、司祭団も予想以上で入堂時に150人をはるかに超え、典礼担当者は司祭用のパイプいすの手配で大変な思いをされたと思います。また聖堂に入りきれずに、外のテントの中で参加されたり、ホールで参加された方々もおられました。寒い中、おいで下さり、本当にありがとうございます。

 参加してくださった方々、各地からお祈りくださった方々、メッセージを寄せてくださった方々、本当にありがとうございます。また典礼や祝賀会を用意してくださった東京教区、特に関口教会のみなさまには、本当に感謝いたします。

 着座ミサには駐日教皇大使や日本の司教団全員だけでなく、ソウルの大司教、アンドレア・ヨム枢機卿、韓国軍教区のフランシスコ・ザビエル・ユー司教、ドイツのケルン教区のウェルキ枢機卿様の名代として、補佐司教のドメニクス・シュヴァデラップ司教が参加してくださいました。

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加えて、ガーナでわたしが働いていた30年前、一緒に働いていた仲間が三人、今度は三人とも司教として今回参加してくださったことは、本当に名誉なことです。当時、まだできたばかりだった教区の司教でもあり、現在は首都のアクラ大司教区司教である,チャールズ・パルマー・バックル大司教。わたしが働いていた小教区を管轄するコフォリデュア教区のヨゼフ・アフリファ司教。一緒の教会で助任をしていた同じ修道会、神言会の仲間ですが、ケタ・アカチ教区のガブリエル・クモジ司教の三人です。(上の写真は参加してくれたガーナの司教三人と一緒に。一番右端の司祭は、神言会のマーティン神父。わたしがガーナで働いていた頃、小学生でわたしの侍者をしていました。現在は神言会員で、名古屋におります。)

 今回はそれに加えて、駐日ガーナ大使のパーカー・アロテイ氏ご夫妻が、ガーナの大統領からのメッセージを携えて参加してくださいました。感謝です。大使ご自身はバックル大司教と高校の同級生で、信徒の方です。ガーナをわたしの第二の故郷だと、大統領が言ってくださいました。8年間の山奥での司牧生活への最高の評価と、うれしく大統領メッセージを拝聴しました。

 その他にも、神言会の副総会長ロバート・キサラ神父や、国際カリタスの聖座顧問モンセニョール・ピエール・チバンボ師など、多くの方が国外から駆けつけて下さいました。

司教の杖(バクルス)が岡田大司教様からわたしに手渡され、司教座に着座して、これで「多様性における一致」を掲げた、わたしの東京での旅路が始まりました。

 即座に新しい動きがあることや大きな変革を期待するという声も聞こえてはおります。しかし、どうかそれには、わたしにもう少し時間を下さい。わたしは12月16日付で、新潟教区の空位期間の教区管理者にも任命されました。一日も早く新しい司教が新潟教区に任命されるように努めますが、どれほどの時間がかかるのかは予想がつきません。その間、二つの教区の兼任となりますので、どうしても出だしはゆっくりとならざるを得ません。どちらの教区とも、事務局長を始め司祭団が協力体制を持って控えていますので、互いに協力しながら、司祭団の力を借りて、少しずつ進んでいきたいと思います。

 どうかこれからも、みなさまのお祈りによる支えをお願い申し上げます。感謝のうちに。

 菊地・新潟司教の日記 *16日東京の着座式 *9日に新潟教会で教区離任のミサ

 先日教皇様からいただいた東京教区大司教の任命ですが、任命されますと2ヶ月以内に,その新しい司教座に「着座」をしなければならないと定められています。 わたしは東京教区司教座に,正式に着座をするまでは,新潟教区の教区司教です。その着座式は、12月16日土曜日の午前11時から、東京教区のカテドラルである関口教会で行われることになりました。お時間がありましたら,ご出席くださり、一緒にお祈りください。

 また、新潟教区の教区司教を離れるに当たり、新潟教区では離任ミサをしてくださることになりました。それは着座式の一週間前、12月9日土曜日の午後1時から、新潟教会で行われます。こちらも参加していただけると幸いですが、ただ東京とは異なり新潟教会の聖堂は300人ほどしか収容できませんので、そのことはご承知おきください。

 新潟教区の司教座は、12月16日から「空位」(教区司教が任命されていない状態)となります。しかし教区は生きていますから、教区管理者が任命されます。それについては、空位期間が始まってから、発表となります。

 なお、東京教区の皆さんにあっては、わたしが着座後即座に、ばりばりと東京で働くことをご期待いただくのやもしれませんが、もうしわけない。

 なにぶん年末から来年1月末までは,すでに数年前からお約束した事などが山積みで、それを順番に行っていかなくてはならず、そのため東京への引っ越しも着座式以降になろうかと思います。もちろん着座式前に,少しずつ東京に住むことができるようにはいたします。ですから何月何日をもって,きれいに新潟を去り,東京へ移りました、とはならないことをも,ご承知おきください。

 どうぞみなさまのお祈りによるお支えを,心よりお願いいたします。

12月9日、新潟教会で教区離任ミサ

  12月9日は、東京大司教への着座式の一週間前です。新潟教区では今日、まもなく新潟教区を離れるわたしのために、離任ミサを企画して下さいました。

 今にも雪が降りそうな寒い土曜日でしたが、教区各地から多くの方が参加してくださり、新潟教会聖堂は200人を超える方々で一杯となりました。

 また司祭団も、教区司祭団は他の先約があった数名を除いてほぼ全員が、また山形地区や秋田地区からも代表が駆けつけてくださいました。神言会からは管区長のジェブーラ神父が来て下さり、祭壇上では秋田の永山神父様と並ばれたので、新旧管区長のそろい踏みとなりました。ジェブーラ神父はポーランドから学生時代に来日され、わたしとは名古屋の神学院時代を一緒に過ごし、わたしの司祭叙階の日に助祭に叙階されました。また昨年司祭団の黙想会を指導していただいた縁で、サレジオ会の阿部神父さまもおいで下さいました。感謝です。

 ミサ後には、センター二階で感謝の集いを開いていただき、多くの方々と挨拶を交わすことができました。また本当に文字通り山のように霊的花束をいただきました。感謝します。これからもどうかわたしがふさわしく司教職を果たすことができるように、みなさまのお祈りをお願いいたします。あと一週間で、新潟教区の司教座は空位となります。一日も早く、ふさわしい司教が任命されるように、お祈り下さい。

(菊地功=きくち・いさお=司教・新潟教区長=12月16日に東京大司教に着座予定)

 菊地・新潟司教の日記 ⑯国際カリタス理事会@バチカン

(2017.12.2 菊地・新潟司教の日記)

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今週は,年に二回開催される国際カリタスの理事会にあたる地域代表会議(Representative Council)に出席するため、ローマに来ていました。

 国際カリタスは世界に160を超えるメンバー団体を持つ連盟組織です。連盟に参加が許されるためには,それぞれの国や地域のカトリック司教協議会の承認が必要です。日本からはカリタスジャパンが連盟に名を連ねています。

17novrepco04 国際カリタス事務局はバチカンのローマ市内にある飛び地のひとつ、サンカリスト宮殿にあり、ここには先般複数の社会福音化活動を担当する部署を統合して誕生した、総合的人間開発促進部署も本部を置いています。(写真左、サンカリストの国際カリタス入り口)

 国際カリタスは世界を7つの地域に分けており,わたしが責任者を務めるアジアは、24のカリタスがメンバーとなっています。アジアからこの理事会に参加するのは、わたしと、パキスタンとミャンマーの代表ですが,今回はわたし以外の二人は欠席(教皇様訪問や政治状況など)。アジアからはもう一人、オブザーバーでカリタスアジア事務局長も参加しています。

 今回の主な議題は、2015年から19年までの活動計画の中間評価と、19年以降の活動計画の基本方針の確認。そして18年の予算の承認などですが、途中、新しくできたお隣の総合的人間開発の部署の次官(秘書)に任命されたフランス出身のブルーノ・デゥユフェ師においでいただき、総合的人間開発について2時間ほどお話をいただきました。

 ちなみに,私の国際カリタス関係の関わりは,カリタスアジアの責任者(President)の任期が終われば終了します。任期は一期4年の現在2期目で、2019年5月までです。規定でそれ以上の再選はありません。(写真左下、朝霧のテベレ川。毎朝、途中でバスを降り、この川沿いを散策しながら会議に向かいます)

17novrepco03 カリタスの業は単なる愛の奉仕のとどまるのではなく、神から与えられた賜物であるこの尊厳あるいのちを、十全に生きることができる社会を生み出すことを目指して行われています。ですから,一部の心優しい人の特別な活動なのではなく、神を信じる人にとって当然取り組まなければならない業でもあります。

 人間開発は,私たちの信仰的には,神から与えられたタレントを十分に生きることができ,それによって一人一人の使命が果たされるような状況を生み出すことであり、それは貧富の問題や飢餓の問題や難民問題にだけ留まるのではなく,人が生きるという現実のすべての課題に及ぶがために、総合的なのです。

 すべての信仰者が,カリタスの業に開かれている教会共同体を目指したいと願っています。

(菊地功=きくち・いさお=司教・新潟教区長=12月16日に東京大司教に着座予定)

 菊地・新潟司教の日記⑮「東京大司教の任命をいただきました」

(2017.10.26 司教の日記)

  教皇様は10月25日、東京教区のペトロ岡田武夫大司教の定年に伴う引退願いを受理されました。その上で教皇様は、後任の東京大司教に、わたしを任命されました。東京での着座式は12月中頃を予定していますが、決定次第、お知らせいたします。

 東京は信徒数から言えば9万人を超えて、日本で一番大きな教区です。わたしは東京に住んだことも、そこで働いたこともありません。まったく何をどうしたらよいのか見当もつかない中での任命で、教皇大使から内示を受けてからのこの数日、そして今でも、大きな困惑のうちにおります。どうぞ務めを忠実に、より良く果たすことができるように、みなさまのお祈りをお願いいたします。

 またこれまで13年間、司教として育ててくださった新潟教区の皆さんには、心から感謝申し上げます。以下、今回の任命にあたって、新潟教区の皆さんに向けた挨拶のビデオです。(菊地功=きくち・いさお=新潟教区)

 菊地・新潟司教の日記⑭フィローニ枢機卿「福音宣教の熱意が衰えたのではないか」 

2017年9月26日 (火)

  日本の教会を訪問されていた福音宣教省長官フェルナンド・フィローニ枢機卿は、本日火曜日の午後、日本を離れローマへの帰途につかれました。毎日、分刻みのようなプログラムを精力的にこなしてくださいましたが、視察の途中では「日本の人は時間の奴隷になっている」と冗談も言われたようです。

 24日の日曜日には、関口の東京カテドラルで、信徒や修道者との対話集会の後、日本の司教団や教皇大使と主日のミサを一緒にされ,その後、司教団との夕食会が催されました。

Filonishiomi02 25日の月曜日は、午前中から潮見の司教協議会で、昼食を挟んで,日本の司教団との話し合いが行われました。枢機卿は、教皇様からのメッセージに基づき、日本の福音宣教の現状を振り返り、熱意を新たにするように求められました。枢機卿は特に、30年前に開催された福音宣教全国会議(ナイス)の成果について触れ、「当時の福音宣教への熱意が今は衰えてしまったのではないか」と問いかけ、「守りの姿勢ではなく,積極的に福音を証しして生きるように」と,司教団に励ましをくださいました。

 枢機卿は,仙台を訪問された際に,わたしも同行して訪れた福島の被災地に非常に心を動かされた様子で、人間が自らの限界をわきまえて,神の前に謙遜に生きることの大切さを改めて強調されておられました。

 枢機卿の今回の訪問に,感謝したいと思います。

 菊地・新潟司教の日記 ⑬姫路から仙台まで・・カトリック教育・至難の業にどう応える

2017年8月26日 (土)

   今週は火曜日から姫路へ移動、そして金曜日が仙台と、移動の一週間でした。姫路は、水曜日の朝から木曜日の昼まで、姫路にある賢明女子学院中学・高等学校で、教職員の方の宗教研修会。そして金曜日は、仙台の元寺小路教会で、朝は全ベース会議、午後は仙台教区サポート会議でした。

Himeji1703  賢明女子学院は、設立母体が聖母奉献修道会。1796年にフランスで創立された修道女会です。日本には、1948年にカナダから大阪に会員が初めて派遣されてきています。学校は1951年の開校。姫路城のすぐ目の前に、カトリック姫路教会を挟んで、男子校の淳心学院と女子校の賢明があるという配置は、どこか、カトリック南山教会を挟んで、男子部と女子部が配置されている、名古屋の南山中学高校を思い起こさせました。

  教職員の宗教研修会は毎年この時期に行われているとのことで、参加者は、提出していただいたリフレクションペーパーの数から見ると61名。松浦司教のお兄様である松浦校長先生や、理事長のシスター山本も、全日参加してくださいました。

  そして残念なことに現代社会は、様々なレベルで、いのちよりも他の価値観を優先する選択を続けているように思いますし、その傾向はさらに強まっているように感じます。神が善いものとして創造し、完全である自らに似せて創造されたことによって尊厳を与えた賜物であるいのちを優先するとき、どのような社会を構築し、どのような人間関係を構築するのかは、定まってくるように思います。

  とはいえ、現実の社会の中で生きる若い世代に、そのことを直接伝えるのは至難の業であることもその通りだと思います。それでは具体的にどうしたらよいのだろうかという質問も、先生方からたくさんいただきました。

  もちろん人間は一朝一夕で変身はしないので、信仰の立場から主張していることがそのまますぐに受け入れられるとは思いません。でも繰り返しそれを伝え、言葉と行いで「あかし」続けることで、心の片隅に、大切すべき理想はどこにあるのかが残り続けてくれるなら、いざというときにどのような道を選ぶかの道しるべになるのではなかろうかと期待をしています。

Himeji1702  姫路まで招いてくださった先生方、ありがとうございます。真っ白になった姫路城、美しかったです。

  木曜日の夕方にはそのまま姫路から仙台へ移動。金曜日は仙台で、東北大震災の復興支援の定例会議でした。午前中は、各ベースでの活動に関して報告をいただき、午後は、平賀司教を中心に、全国の教会管区代表が集まって情報交換。今回は、平賀司教、幸田司教(東京教会管区)、諏訪司教(大阪教会管区)、浜口司教(長崎教会管区)と私を加えて、関係司教全員がそろいました。

  ところで、その会議でも話が出ましたが、聖座の福音宣教省長官、フィローニ枢機卿が9月末に来日され、一日だけですが仙台にもおいでになります。これは仙台教区から正式に発表されることでしょうが、9月22日(金)には、被災地視察の後、夕方18:30から、カテドラルの元寺小路教会で、枢機卿様も参加してミサが捧げられます。私もご一緒する予定です。

  福音宣教省は、世界の中で、いわゆる宣教地とされている地域を管轄する役所で、大雑把に言えばアジアではフィリピンを除くすべての国が、福音宣教省の管轄です。一般にそのラテン語旧称から「プロパガンダ」と呼ばれます。いわゆるキリスト教国に関しては、司教省が司教の任命などに関して権限を持っていますが、日本などの宣教国では福音宣教省が司教の任命を管轄しています。

  それ以外にも、宣教地での活動の資金的援助や、各地の神学院の管轄でもあります。(なお日本の教会は、すでに何年も前から、福音宣教省からの資金援助は申請していませんが、毎年、世界宣教の日の献金などを通じて、アジアやアフリカの宣教地支援に福音宣教省を通じて貢献しています。)

  バチカンの役所は、実際のローマにある役所本体と、それを支える委員会(メンバー)から成り立っており、枢機卿さんたちはすべて、どこかの役所の(複数の)メンバーとして教皇様から任命されています。それ以外のメンバーも多く任命されており、私も、現在、福音宣教省のメンバーとしての任命をいただいています。

 菊地・新潟司教の日記 ⑫いのちへのまなざし

   一年前、相模原で障がいと共に生きておられる19名の方々が殺害されるという事件が起こりました。26名の方も怪我をされたといいます。あらためて亡くなられた方々の永遠の安息を、心からお祈りし、また傷を負わされた方々に回復と心の平安がもたらされるように、祈ります。

 犯人の青年の、障がいを持った人たちに対する考え方、価値観、そしてなによりも人間のいのちに対する考え方には、まったく賛同することができません。それ以上に、事件後には、インターネット上などで「よくやってくれた」などという賛同の言葉が少なからず見られたことは、私たちが生きているこの社会が、人間のいのちをどう捉えているのかを象徴的に表しているものとして、わたしはすくなからずの衝撃を受けました。

 あらためて繰り返すまでもなく、キリスト者にとって、いのちは神から与えられた賜物であり、神はご自分の似姿として、そして善いものとして、人間のいのちを創造されたと、私は信じています。そしていのちの価値を計ることがゆるされているのは、その創造主である神のみであり、同じ被造物である人間がそうすることは、神に対する傲慢だと、わたしは思います。いのちは、この世界におけるその始まりから終わりまで、まもられなければなりません。一人一人のいのちの尊厳は、誰一人として奪われてはなりません。

 日本のカトリック司教団は、先般、「いのちへのまなざし」と題したメッセージの「増補新版」を発表しました。16年前に発表したメッセージを改定した内容です。旧版冒頭のあいさつに記されていることが、いのちの大切さを説いているこのメッセージ全体を貫くテーマの一つです。「この世界は人間だけのものではない。人間の幸せも、この世で完結するものではない。世界は神の手の中にあるものであり、人間の営みも、神とのかかわりの中で完成され充実していくものである」

 さらにいえば、「誰一人として排除されたり忘れ去られていい人はいない」。これが私たちの牧者である教皇フランシスコの様々な言動の中心にある考えだということを念頭におくとき、自ずと私たちの言動も定まってくるのではないでしょうか。

 是非一度、「いのちへのまなざし」を手にとって、読んでみてください。今年の9月2日と9日には、午後1時半から新潟教会で「いのちへのまなざし」を学ぶ信徒養成講座があります。講師は私です。

 以下は、国際ラルシュが公開している短編映像です。静岡にあるラルシュかなの家で暮らすある女性を中心に、相模原の事件に対する考えと行動を短い物語にしたものです。オリジナルは日本語ですが、国際ラルシュのフェイスブックには、英語とフランス語の字幕版が公開されています。(L’Arche Internationale)

(菊地功=きくち・いさお=新潟教区司教、カリタス・ジャパン責任者)

 菊地・新潟司教の日記⑬‶若者シノドス”に向けて・「小共同体育成」秋田地区信徒の集い

2017年6月28日  来年のシノドスに向けて

   来年、2018年の10月に、バチカンにおいてシノドス(世界代表者司教会議)が開催されます。第二バチカン公会議以降に始まった世界から司教の代表を集める会議ですが、今回はその通常総会の15回目となります。テーマは「若者、信仰そして召命の識別」とされており、日本の司教協議会の代表は、札幌教区の勝谷司教です。

 こういったシノドスの開催前には、バチカンのシノドス事務局によって準備書面が用意され、期限が定められて各国の司教団に回答が求められ、その回答をもとに、実際の会議の基本となる作業文書が定められるという手続きがあります。今回は、教皇様の意向もあり、「出来るだけ多くの方の意見を聴取したい」として既に各国語で準備書面が発表され、様々な質問事項が添付されています。準備書面の日本語訳は、こちらのリンクの中央協議会サイトで公開されています。A4で30ページです。

 質問事項については、それぞれの国の状況に応じて回答することが求められているので、司教協議会の事務局が作成しました。この質問への回答に基づいて、参加する勝谷司教が日本の報告をまとめることになります。すでに新潟教区で働いている神父さま方には、先日の胎内における司祭の集いでお願いしたところですが、できる限り多くの方に回答を寄せていただければと思います。すべての設問ではなく、ご自分に関係のある一部で構いません。質問事項はこちらのリンクです。

 回答は直接メールで送付できるようにも記してありますが、大量になると混乱することも予想されますので、ご自分の回答を主任司祭にお持ちになる方がよろしいかと思います。7月末が勝谷司教のもとに必着の締めきりです。「若者、信仰そして召命の識別」というテーマに関心のある新潟教区の信徒の方々、是非、シノドスの質問事項に挑戦してみてください。

 なお、バチカンの2018年シノドスの公式サイト(英語)も開設されました。興味のある方はどうぞ、こちらのリンクから、ご覧ください。このサイトからは、英語などのバチカン側で準備されている言語であれば、直接回答を送ることも出来るようです。

 2017年6月26日 秋田地区信徒の集い@土崎教会

  第27回目となる、新潟教区の秋田地区信徒の集いが、昨日、6月25日の日曜日、午前11時から午後3時まで、秋田市内の土崎教会を会場に開催されました。秋田地区には、北から、鹿角、大館、能代、秋田、土崎、本荘、横手の小教区がありますが、そこから170名の信徒の方が参加されました。

 秋田地区は全体が神言会に宣教司牧が委託された地区となっていおり、神言会の司祭団も参加。教区の中で常に一番若い司祭が働いているのも、秋田地区の特徴です。会場は、先日竣工式を迎えたばかりの、こども園の新しい園舎二階ホール。これまでの幼稚園は、聖堂や司祭館と同じ敷地内にありましたが、こども園の新園舎は隣接する用地に新築されました。

 今回の信徒の集いは、小共同体の育成をテーマに、これまで長年にわたって長崎教区で小共同体作りに取り組んでこられた信徒の長野宏樹さんを講師として招きました。長野さんは長年、長崎教区の事務局で信徒養成を担当して働かれ、現在は26聖人記念館の副館長を務めておられます。神言会が担当する長崎市内の西町教会の信徒の方で、わたし自身も司教になる前、名古屋教区で7年ばかり、信徒養成委員会のメンバーとして小共同体の育成についての出前研修などを行ってきたこともあり、その後も、長野さんからいろいろと資料をいただいたりしていたこともあって、興味深くお話を伺いました。

 長野さん自身も言われたように、小教区は「様々な役割を担った多くの小共同体が集まって一つの共同体を生み出している」のが理想的であり、その小共同体は単に機能を果たす集まりではなく、御言葉を中心にした分かち合いの共同体でもあることが理想です。しかし、どこでも簡単に実現できるものではなく、一朝一夕に実現できるものでもありません。長野さんは講話の中で「実現には40年はかかる」と言われましたが、私もそう思います。

 長野さんが紹介くださった手法は、FABC(アジア司教協議会連盟)の信徒局に所属するAsIPA(Asian Integral Pastoral Approach)デスクが長年にわたって導入を進めてきた教会共同体育成の手法。基本的には南アフリカにあるルムコ研究所がアフリカ全土で導入を進めてきた共同体育成の手法を、アジア的に手直ししたものです。ちなみにこのルムコ研究所の現在の所長はガーナ人の神言会員ですが、わたしもガーナで働いていた当時、ルムコの方法を取り入れて、小共同体育成を試みては挫折を繰り返しました。

Akitataikai1702 小共同体育成の基本は「御言葉の分かち合いによる定期的な小共同体の集い」にあります。まず、この「御言葉の分かち合い」がなかなか定着しません。今回も長野さんのお話で紹介されていましたが、いわゆる「セブンステップ(七つの段階)」という方法があります。挑戦されたらいかがでしょう。長野さんが紹介されたものは、もっと具体的な集まりの進め方でしたが、セブンステップについてはこちらに一度書いたことがあります。参照ください。

 信徒数が極端に少ない地域や、家族の中で信徒がお1人だけの場合は、小共同体の御言葉の分かち合いに限界があり、日本の現実に合わせて他の方法を考えなければ難しい、と私は考えています。ただ、御言葉の分かち合いそれ自体を行うことには、意味がありますから、専門家でもある神言会(神の御言葉の修道会)の会員に率先していただければ、と期待しています。

 昼食後、ミサの前に、土崎教会の聖歌隊の皆さんによる、歌劇(?)の披露が。この土崎教会聖歌隊は、なんというか、特別なタレントが集まったグループだと、いつも感心させられますが、今回も、「武士たちの生きる道が、神への道ではなかったか」というテーマの、素晴らしい歌でした。衣装も、なかなか・・・。最後にわたしが司式するミサで終わりとなりました。秋田地区の皆さん、土崎教会のみなさん、ご苦労様でした。

 菊地功・新潟司教の日記 ⑫新しい5人の枢機卿任命

 先週は国際カリタスの会議でバチカンにいました。いろんな人と出会って話をする中で、教皇さまは次に「いつ」、枢機卿を任命するだろうか、というトピックで、少し盛り上がりました。ご存じのように教皇選挙権を持つのは80歳未満の枢機卿で、その人数は120名と定められています。

 教皇フランシスコは、様々に改革を進めているので、「この人数を150名に拡大するのではないか」といった類いの噂もありました。120名というのは、パウロ6世によって定められた人数です。しかし、先日教皇さまと直接話したある関係者によれば、教皇さまは「任命したい人はまだ多いが、定員があるから」と言明し、この120名枠は今のところ変更しない方針を示唆されたそうです。というわけで、この話をしていた時、80歳未満の枢機卿は116名。そのため「今年は新たな枢機卿の任命はないのではないか、早くても来年の2月ではないか」というあたりで、話は終わっていました。

 ところが、会議が終わってローマからトルコ航空に乗り、イスタンブールを経由して21日の日曜夜に成田空港へ到着し、携帯の電源を入れると、なんと、その数分前に、教皇さまが日曜日のレジナ・チェリの祈りの後に、新しい枢機卿の任命を発表されていたのです。

 以前のバチカンの他の会議で、ニュージーランドの枢機卿が「自分が枢機卿に任命されたこと知ったのは、友人から突然、『おめでとうメール』が来たからだった。それまではまったく知らなかった」と語っていましたが、今回任命された方々も、さぞ驚かれたことでしょう。

 というわけで、このたび5名の方が、枢機卿に任命され、親任式は6月28日に行われることになりました。

 5人のうち、ロサ・チャベス司教は、カリタスエルサルバドルの責任者で、以前はカリタスラテンアメリカの総裁を務められていました。彼は、昨年福者に上げられたオスカル・ロメロ大司教の協働者で、ロメロ大司教の列福運動で大きな役割を果たした一人です。首都サンサルバドルの司教であった福者ロメロ大司教が、ミサを捧げている最中に暗殺され殉教を遂げた後に、ロサ・チャベス司教は同教区の補佐司教に任命され、現在に至っています。ロメロ大司教の殉教は1980年3月24日。ロサ・チャベス司教が補佐司教に任命されたのは1982年2月です。

 何度もカリタスの理事会で一緒になりました。会議で一緒になったときのイメージは「正義のためのファイター」です。ロメロ大司教に倣って、恐れることなく、常に正しい道を押し進んでいくファイターです。

 教皇フランシスコは、今回もそうですが、これまで枢機卿のいなかった国や、従来の慣例にとらわれずに、人物本位で枢機卿を任命されます。今回も、アフリカのマリや、アジアではラオスの司教が任命されました。スエーデンに至っては、この国に1人しかいない司教です。カルメル会士で、研修会で三度ほど一緒になったことがありますが、とても心優しい方です。いずれにしろ、そうした教皇フランシスコの方針からすれば、サンサルバドル教区の補佐司教を枢機卿に任命したのは、やはり、「福者ロメロ大司教のような生き方を、教皇様が現代社会に模範として示したい」と願われているからではないでしょうか。(2017.5.24記)

(菊地功=きくち・いさお=新潟教区司教、カリタス・ジャパン責任者)