2018年1月14日 (日)
この数日、新潟は大雪で、普段はそれほど雪が積もらない新潟市内でも、あまりの積雪に車が埋まったりして、新潟教区本部も臨時休業となったと、連絡をいただきました。普段あまり降雪がない分、新潟市内は,実は大雪には備えが手薄だったりして、こんなにどかんと降ると大変なことになります。一晩中、電車に留まることになった方々は,本当に大変だったと思います。東京でも何度もニュースで流れました。
とは言いながら、わたしは東京にいるわけで、大雪の新潟では全く考えられないほどの薄着で過ごしております。もちろん東京もそれなりに寒いことは寒いのですが、今朝、日曜の朝など、ジャケット一つでカテドラル構内を歩いていられるほどの暖かさ。考えられません。 で、朝からカテドラル構内を歩いていたのは、福島野菜畑の柳沼さんが、野菜などの販売に来られていたので、ご挨拶に。新潟でも,いくつかの教会で,福島野菜畑の活動に協力をしていますが、東京の関口教会では,月に二回ほど,定期的な販売があると聞きました。
柳沼さんによれば、教会の方々もそうですが、これまで何度も来ているので,顔なじみになった地元の方が常連さんのように購入してくださるそうで、そのため早朝からテントで開店しておられました。二本松から車で3時間ほどかけて来られます。大変な努力をしながら、福島の野菜を販売し続けることで、多くの方が福島を忘れずその現実に直接目を向けてくださるようになればと,心から願います。これからもできるだけ,柳沼さんたちの活動を応援していきたいと思います。
東京教区に着座して,ほぼ一ヶ月です。よくアメリカの大統領なんかが就任すると,ハネムーンの100日とか言われます。その間は,多少の試行錯誤は許されるが、100日を超えたら結果を出すことが求められるという意味でしょう。そうなると、100日は、聖週間が始まる3月25日の週ですね。
うーん。努力します。
でも少しずつですが、前進、いや漸進しております。 昨日、1月13日の土曜日には,初めての宣教司牧評議会を開催しました。宣教司牧評議会は,新潟教区にもありますが,教区によってその活動内容が異なっています。東京の宣教司牧評議会は、それぞれの宣教協力体からの代表の信徒の方で主に構成され、司祭評議会の代表も加わると伺いました。もっとも司祭評議会はまだ開催されていませんので、今回は司祭の代表は不在。それでも、司教が福音宣教の方向性を定めるために、各現場の現状からの報告や提言が活発になされる、教区司教を支えてくれる組織であると、今回の初めての宣教司牧評議会で感じました。なるべく多くの声をお聞きしたいというのがわたしの願いですので、これからも様々な課題について、信徒の方々の声を届けていただければと思います。
新潟教区では,宣教司牧評議会は一年に一度しか開催できませんでしたが、東京教区では,隔月で,年に6回の開催。回数の多さに,さすが大都会と驚きましたが、ありがたいことです。
どのくらいの頻度で,カテドラルでのミサを行うのか,何かまだ模索中ですが、すでに決まっている東京カテドラル関口教会での次回のわたし司式のミサは、灰の水曜日、2月14日午前10時の予定です。なるべく頻繁に、機会を見て、カテドラルでのミサも捧げたいと思います。
なお新潟教区では、また小教区には改めて教区本部からご案内しますが、四旬節第一主日の共同洗礼志願式を,今年もわたしの司式で,新潟教会で行います。今年は、2月18日(日)の午前9時半です。
先日、東京での着座式に合わせて、オリエンス宗教研究所から本を出していただきました。タイトルは、『「真の喜び」に出会った人々』で、B6版144ページ、税別で1,200円です。一冊お買い求めいただけたら幸いです。
この本は,先に,オリエンス宗教研究所から毎月発行されている『福音宣教』誌に連載された記事をまとめたものです。11回の連載で、わたしが直接知っている方々を中心に、福音の喜びに触発されて信仰の証しに生きている方々を紹介する内容です。
ほとんどの方が,ガーナでの宣教活動や,カリタスジャパンの仕事を通じて出会った人たちです。わたしの人生の歩む方向に,大きな影響を与えた人もいます。新潟教区の米沢の53福者殉教者や,福者オルカル・ロメロ大司教のような歴史上の人物もいますが、すべて何らかの形で,わたし自身とつながっている人たちです。
連載当時は、年に11本ですから、毎月締切り間近になると,苦しんでいたことを思い出します。想像では書けないので、存命の場合はご本人にメールを出したり、関係者にメールを出したり。かなり余裕を持ってメールを出しているのですが、なかなか返事がなくて気をもんだり、さらには返事がない場合に備えて,記事にはならなかった複数名の方に予備のインタビューをしておいたりと、編集部からの企画でしたので、間に合わせるのに苦労したことを覚えています。
本の表紙は、ガーナで働いていた30年前、一緒に苦労したカテキスタのデュマス氏と,一緒にいつも訪問していた病弱なダニエル氏のツーショット写真から、編集部が作成してくれました。二人の話も、もちろん本の中に記されています。
このデュマス氏の息子さんは,当時小学生で,わたしの教会の侍者をしていましたが、いまでは神言会の神父になって,日本管区で働いています。またこの本に登場するガーナのクモジ司教と、コンゴのチバンボ神父は、先日の東京での着座式に参加してくれました。
いろんな人がいて,いろんな状況の中で,いろんな生き方で,福音を証ししている。お互いに出会ったことのない人たち、生きている時間も異なる人たちは、それでも一致しているのです。福音に真摯に生きようとする姿勢において、多様性の中で一致している、神の民の一員です。
(菊地功=きくち・いさお=東京大司教に12月16日着座)
2018年1月15日
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カテゴリー : 菊地大司教
昨日1月8日は、カテドラルの関口教会で、午後2時から、教区の新年の集いのミサが行われました。ミサは私が司式し、30名を超える司祭が共同司式してくださいました。聖堂も、教区内各地の小教区共同体の方々が大勢駆けつけてくださり、設置してある座席はいっぱいでした。(あれで、実際は何名くらい座れるのでしょう。そのうち調べてみます)
またミサの後にはケルンホールを会場に茶話会が開催され、教区内の多くの方からご挨拶をいただきました。おいでくださった方々に感謝します。また準備してくださった宣教司牧評議会の皆さんにも感謝申し上げます。
以下昨日のミサの説教の原稿です。
大司教として着座をし、東京教区の牧者としての務めを任されて、まだ一月もたっていません。ですから私にとって、新しく始まったばかりのこの一年は、東京教区の全体像をしっかりと理解する一年になろうかと思います。できる限り多くの方にお話を伺う一年としたいと考えています。
とはいえ、東京教区の教区共同体はその間も眠っているわけではなく、生きているキリストの体として歩み続けております。年の初めに当たり、教区共同体全体として、どこを向いて歩みを進めようとしているのか、その方向性だけでもお話ししようと思います。
ご存じのようにわたしの司教職のモットーは、「多様性における一致」であります。一般的に考えて、多くの人が集まって生きている社会には、必然的に多様性が存在しています。一人一人が異なる人間であるから当然であります。ですから、人が多く集まるところには、必然的に何かしらの多様性があります。
私たちの信仰は、旧約の時代から新約の時代に至るまで、私と神との関係を基礎にしつつも、常にその個人的な神との関係は共同体の中で生き、はぐくまれ、実践される信仰であります。まさしく、神の民という言葉が表しているとおり、私たちの信仰は共同体と切り離せない関係にあります。
多くの人が集まったこの信仰共同体を一致させるのは、皆が同じように行動するといったたぐいの外面的な同一性ではなく、同じキリストに結びあわされて生かされているという意味での同一性であります。
私が「多様性における一致」というモットーに掲げている一致は、一見それぞれがばらばらに生きてはいるのだけれども、それぞれが唯一のキリストにしっかりと結びあわされて生かされ、共同体全体としては神に向かって歩んでいる、そのような一致であります。
ですから問題は、教区共同体の皆が、しっかりと同じキリストに結びあわされて生かされているのかどうかであります。わたしたちは、自分が出会ったことのないキリストに結ばれることはありません。教皇ベネディクト16世がしばしば強調されていたことですが、私たちの信仰にはキリストとの個人的な出会いが不可欠です。キリストとの出会いは、「個人的な出会い」と言いながらも、それは決してわたし個人のためだけなのではなく、皆が同じキリストに結ばれるようにと、共同体全体のために不可欠なことであります。
教区共同体全体が多様性の中に一致することができるように、まず第一に、一人一人が個人的にキリストと出会うことができるように、祈りと学びを深めていきたいと思います。
その意味でも、今生きている神の御言葉に、しっかりとつながっていることは重要です。聖書に親しみ、同時にミサの時に朗読される聖書に記された神の言葉を、是非とも大切にしていただきたいと思います。それは昔記された格言集なのではなく、告げられたときに今生きている神の言葉であります。ミサの聖書をよりよく朗読し、また神の求められていることを知るようにと耳を傾けることは大切であります。
「私の口から出る言葉も、むなしくは、私のもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす」と預言者イザヤに語らせた神の思いが、今実現するように、私たちは神の言葉を通じて示される神の使命を知り、その実現に寄与する生き方を見いだしたいと思います。
教会は、誰かが経営をしているお店にお客さんがやってくるようなそういう存在ではなく、その共同体に属するすべての人によって成り立つ存在です。それは教区共同体も、小教区共同体も同じことであります。信徒、司祭、修道者が、それぞれ共同体の中で役割を果たし、責任を分担していくことで、一つの体は成立いたします。その意味で、継続した信仰養成は重要であり、そのためのリーダーには、信徒の方々にも積極的に関わっていただきたい、と私は思います。できる限り多くの方の協力を得られる道を、これから模索したいと考えています。
日本の司教団は、昨年、「いのちへのまなざし」のメッセージの増補新版を発表いたしました。私たちが生きているこの社会には、国家間の関係に始まり、身近な地域の関係まで含めて、様々な不安要素が存在し、私たちはある意味、先行きの明確ではない暗闇の中を手探りで進んでいるような漠然とした危機感の中で、何かしらの不安を抱えて生きております。そのような現実の中で、人間のいのちは、様々なレベルでの危機に直面しております。現実の紛争やテロの中で失われていく多くのいのち。国境を越えて移動する中で危機に直面するいのち。そうかと思えば、私たちの国でも、障害と共に生きている方々を殺害することが、社会にとって有益なのだと主張し、実際にそれを実行する人物が現れ、加えてその行為を肯定する人たちの存在すらも浮かび上がりました。
神からの賜物であるいのちの価値を、人間が決めることができるのだという考えは、神を信じている私たちにとっては、人間の身勝手な思い上がり以外のなにものでもありません。
世界の様々な現実の中で、多くのいのちが危機にさらされている、その背景には、世界が暗闇に取り残されてしまった不安から生じる自己保身と、その結果としての自己中心、利己主義が横たわっております。異質な存在を排除し、自分たちの周囲のこと以外には無関心になって目をつぶる。そのような自分中心の世界の中で、神からの尊い賜物であるいのちは、様々なレベルの危機に直面しております。
マルコによる福音に記されている洗礼者ヨハネは、主イエスを評して「私より優れた方が、後から来られる。私は、かがんでその方の履き物のひもを解く値打ちもない」と述べています。その言葉は、主イエスが優れているのだという宣言である以上に、洗礼者ヨハネの自己理解がいかに謙遜であり、自己中心でないのか、ということを明確にしています。
私たちは、この世界では人間ではなく神が中心なのだと主張したいのです。洗礼者ヨハネのように、私ではなく、神こそが中心なのだ、と主張したいのであります。しかしそう主張するためには、この現実のなかで多くの困難が伴います。ですから、皆さんの力が必要なのです。
教会に属する多くの方が、それぞれの生きておられる現場で、それぞれの方法で、この利己的な価値観にあらがう活動を続けておられます。是非とも教区内のそういう力を結集し、ばらばらに個々人がではなく、教会が全体として、この社会の中にあって暗闇に輝く希望の光となることを目指したいと思います。いのちの大切さを説き、私たちの人生には本当の希望があるのだと主張する。社会の中にあってそういう光り輝く教区共同体であってほしいと思います。失敗を恐れずに挑戦してみましょう。教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び」に記された言葉を引用して終わります。
「私は出て行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さ故に病んだ教会より好きです」(「福音の喜び」第49項)
(菊地功=きくち・いさお=東京大司教に12月16日着座)
2018年1月9日
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カテゴリー : 菊地大司教
新年、明けましておめでとうございます。
先日東京カテドラルで行われた着座式では、本当に多くの方に参加していただき、励ましのお祈りとお祝いの言葉をいただきました。また、当日は様々なところで、多くの方のお祈りもいただきました。お一人お一人に御礼を申し上げたいのですが、なかなか適いませんので、このブログでもって、皆様に心から感謝申し上げます。
本来ですと御礼の言葉や、また新年のメッセージなどを用意すべきところです。申し訳ありません。何もできていません。年賀状すら用意することができませんでした。
というのも、実はまだ新潟からの引っ越しが完全には終わっておらず、また新潟教区での残務整理に加えて、新しい司教が決まるまでの新潟教区管理者の仕事もあるため、東京に落ち着いておりません。一段落するまで、今しばらく時間をいただきたく思います。
さて、年末最後の日には、都内でも雪がちらつきました。大晦日に初雪を観測したのは、130年ぶりだと、どこかで読みました。寒い一日でした。
厳しい寒さで始まるこの2018年は、私にとっては大きな挑戦の一年です。「教区共同体とともにどこへ向かうのか、そのためには何をしたらよいのか」。まずこの二つを、全く新しい環境の中で見極めていかなくてはなりません。そのためには、現在の教区共同体の現実と可能性を識別しなくてはなりません。
とはいいながら、教区共同体は生きています。教区共同体には、まさしく「多様性」そのものともいうべき、多様な教会の現実があり、その多様性は具体的な人として日々の信仰生活を生きておられます。ですから、完全に立ち止まり、いわばフリーズしてアイディアを練ることだけに集中することはできません。今まさしく動いている共同体を、動かし続けなくてはなりません。
これまで続けられてきたことは、ひとまずそのまま継続していただきたいですし、その動きの中で、課題や可能性を一緒に学ぶことができればと思います。私にとっては新しく知ることですし、また教区共同体を形成しているお一人お一人にとっては、これまでの過去を振り返り新たな道を見いだす機会ともなり得るかと思います。
そのような中にあっても、私にとっては明確なことを、二つだけ記しておきます。
まず第1に、教会共同体は、積極的に参加される人も、そうではない人も含め、すべての信徒・修道者・司祭はその一部です。それはご自分が好むと好まざるとに関わらず、洗礼を受けてキリスト者となっている限りにおいて、すでに教区共同体の一部として招かれているからです。ですから、皆さんすべての存在が、教区共同体には不可欠です。
そして第2に、教皇ベネディクト16世が、回勅「神は愛」に記された教会の本質的三つの務めを、教区共同体として具体化することが私の願いです。すなわち25番に次のように書かれています。
「教会の本質は三つの務めによって表されます。すなわち、神のことばを告げ知らせること(宣教ケーリュグマ)とあかし(マルチュリア)、秘跡を祝うこと(典礼レイトゥールギア)、そして愛の奉仕を行うこと(奉仕ディアコニア)です。これら三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことができないものです」
福音宣教に励み、典礼を真摯に行い、愛の奉仕の務めに励む教会共同体。もちろん一人ですべてをすることができるはずがありません。だからこその多様性です。そしてそれら三つは、対立するものでも勝手なものでもなく、互いが互いの前提となり、切り離すことができないのです。だから、多様性における一致です。
教区共同体の中で、この三つの務めがバランスよく、そして互いを支え合いながら具体化されるとき、教会は社会の中で、福音を具体的に生きる「しるし」となるのではないでしょうか。
現代社会はめまぐるしく変化を続け、日本の社会構造もこれから大きな変化に直面しようとしています。社会が変わる中で、教会は変わらない福音を堅持しながらも、それを具体的に「あかし」する道は、常に時代の要請に応えて刷新し続けなければなりません。時代の流れに迎合するのではありません。そうではなく、神がこのすべての人に福音を伝えたいと願っている、その神の思いを、今の時代にどのように具体化するのかを、神の民は歴史の中で常に見極めてきたのです。それを私たちは、今も続けなくてはなりません。
新しい年が、すべての信仰者にとって、教区共同体において自らが果たすべき役割を見いだし、異なる考え、異なる生き方、異なる信仰の表現にあっても、同じキリストから離れることなく、互いに受け入れ合い、支え合っていく一年となりますように。
2018年1月1日
(菊地功=菊地・功=カトリック東京教区大司教・カトリック新潟教区 教区管理者)(「司教の日記」より)
2018年1月1日
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カテゴリー : 菊地大司教