菊地大司教の日記 ②主の降誕の祝日に「神の愛といつくしみとゆるしを、具体的に示すしるしとなろう」

2017年12月25日 (月)主の降誕の祝日

 今日もまた晴天に恵まれた東京でした。加えて乾燥してます。静電気も走ります。

 今日、主の降誕の祝日は、午前10時からのミサを司式させていただきました。昨晩ほどではないものの、カテドラル関口教会聖堂は、ベンチがほぼすべて埋まり、周囲のパイプいすに座る人たちもいたので、いったい何人おられたのでしょう。

 昨日の待降節団第4の主日に始まって、降誕の夜半のミサ、深夜ミサ、そして今日の朝のミサと、主任と助任司祭もフル回転でしたが、侍者の青年たちもフル回転。昨晩は深夜ミサの後に、信徒会館に泊まっていった強者も数名いたようでした。

 本日、主の降誕の祝日、日中のミサの説教原稿です。

「いかに美しいことか。山々を行き巡り、よい知らせを伝えるものの足は」

 本日の聖書と典礼の表紙には、クリスマスには欠かせない馬小屋での誕生の絵画が掲載されています。ところが、その聖書と典礼のページをめくり本日の朗読を読んでみても、そこには馬小屋も、飼い葉桶も、マリアもヨセフも登場してきません。本日の福音には、ただ、「はじめに言があった」とだけ記されておりました。

 日本語の訳は、「言葉」という普通の単語ではなく『言』と書いて『ことば』と読ませています。ギリシア語の『ロゴス』という単語を表現するために、いろいろ考えた結果だと思います。そこには単に私たちが普段口にしている言葉とは意味合いが異なる特別な意味があり、生きている神の言は、人格をもった神の思いそのものであり、それこそがイエスなのだと言うことを私たちに伝えるための、漢字の工夫であろうと思います。

 イエスの存在そのもの。イエスが人として語る言葉。イエスの行い。それこそが神の思いを具体的に見えるものとした事実であり、その存在にこそ命があり、光があり、暗闇の中に輝く希望なのだと、ヨハネは私たちに伝えています。

 イエスの誕生にこそ、また神の言の受肉にこそ、神の愛といつくしみとゆるしの深さがはっきりと表れています。自らが創造された人間のいのちを、神は徹底的に愛しぬかれていたから、忍耐に忍耐を重ねて、しばしば預言者を通じて、その歩む道をただそうとしてきた。しかし人間はなかなかそれに従わない。そこで神はすべてを終わらせることも出来たであろうに、そうではなく、自ら人となり直接にわたしたちへと語りかけ、わたしたちが歩むべき道を示し、そして最後には人間の罪をすべて背負って十字架につけられました。それは、あがないの生け贄としてその身を捧げ、それによってすべての人のために永遠の生命への道を開かれるためでありました。これこそが、私たちの信仰の中心であります。そしてその原点は、はじめからあった神の言が人となって誕生した事実にあります。

 今日、イエスの誕生を祝ってここに集う私たちは、神のつきることのない愛といつくしみとゆるしの結果として、私たちに与えられた神の言にあらためて触れています。神の思いそのものである言に触れ、それに包まれる機会を与えられています。私たちがクリスマスに教会に集まって喜びの思いを抱くのは、単にイエスの誕生日を祝っているという喜びではなく、つきることのない神の愛といつくしみとゆるしに包み込まれて生かされているのだという事実を、この誕生の神秘のうちに改めて確認させられるからではないでしょうか。

 福音は、「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」と述べています。人となられた神の言を信じる私たちが、神の子となる資格を与えられるのであれば、それでは、神の愛といつくしみとゆるしに包み込まれ、神を信じるわたしたちは、どのように、何をもって、神に応えることで、神の子となっていくのでしょうか。

 本日の第一の朗読に、「いかに美しいことか。山々を行き巡り、よい知らせを伝えるものの足は」というイザヤ預言者の言葉が記されていました。

 わたしたちには、忘れることのできない使命が一つあります。あらためて言うまでもなく、それは福音宣教の使命です。素晴らしい恵みを受けて生かされているわたしたちは、それを自分のためだけに、自分のうちだけにとどめておくことは許されません。主ご自身が命じられたように、受けた恵みをわたしたちはすべての人たちに告げ知らせる使命を与えられていること、その事実を、イザヤの預言は今日、思い起こさせます。

 経済や政治の状況が厳しい中で、また少子高齢化が激しく進んで社会全体に明確な希望の光が見えてこないようなときに、人はどうしても自分の人生の護りに入ってしまいます。皆が護りに入る、社会全体から、『愛といつくしみとゆるし』は徐々に姿を消し、厳しく他人を裁き、批判し、異質な存在を排除し、最終的には対立し攻撃することさえ良しとしてしまいかねません。

 私たちはそういった社会に対して、裁きや批判ではなく、また排除や対立ではなく、互いに神から命を与えられ生かされているものだという謙遜な自覚の中で、互いに支え合い、受け入れあう慈しみ深さ、優しさを、見える姿で示していきたいと思います。それは声高に語る福音宣教ではなく、一人一人の、そして共同体としての、言葉と行いを通じた具体的なあかしによる福音宣教です。教会共同体は今、社会のただ中にあって、神の愛といつくしみとゆるしを具体的に示すしるしとなることが必要です。

 孤独のうちにある人、助けの声さえ上げることのできない人、存在さえ忘れ去られた人、様々な理由で排除される人。その叫びは小さな声だけれど、暗闇に響き渡る主イエスご自身の声、神の言であります。そこに神がおられる。

 神の言が人となられたことを祝う今日、私たちはあらためて神の思いそのものである言に生きることを、また神の言に生かされ、そして神の言を具体的に形で多くの人に伝えていく決意を新たにしたいと思います。私たちが生きているこの世界に、この現実に、神の言が、どうしても必要だと信じています。

2017年12月24日 (日)主の降誕、クリスマスおめでとうございます

 東京教区の皆様 新潟教区の皆様

 主の降誕のお喜びを申し上げます。

 着座式直後の日曜日には、荻窪教会でミサを捧げることができましたが、今日の主の降誕の祝日は、着座式以降初めてとなるカテドラルでのミサ司式です。さすがに緊張しました。さすがに東京です。さすがに関口教会です。ものすごい人です。しかもミサが夕方5時、7時、10時、深夜零時と4回もあり、しかも午前中は待降節第4主日であったわけですので、主任と助任のお二人は、フル回転です。私は、今夜は7時のミサを、そして明日の日中は10時のミサを担当させていただきます。また今日の日中は、韓人教会の皆さんのクリスマスのお祝いにも参加することができました。

 今夜の7時のミサで感動したのは、もちろん参加者が(信徒とそれ以外の方々)ものすごく多いことや聖歌隊がたくさんおられることでもありますが、それ以上に、侍者をつとめる子どもたちと青年がたくさんいること。

 というわけで、今夜の夜半のミサの説教の原稿です。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見た」

 お集まりの皆さん、主の降誕、クリスマスおめでとうございます。

 クリスマスと言えば、パーティなどのお祝いが欠かせません。それも、明るい昼間よりも、夜、暗くなってから行われるお祝いの方が、いかにもクリスマスという感じを受けます。それはたぶん、クリスマスには明るく輝くイルミネーションがつきものであり、そのイルミネーションが輝くためには、暗闇が必要だからなのかもしれません。

 でも実は、イエスの降誕という出来事と、暗闇との間には、意味のある関係が存在します。それはただ単に、イエスが誕生したのが夜だったと、先ほど朗読された福音書に記されているからではありません。イエスが誕生した意味、そしてその過去の出来事が現代社会に生きている私たちにいま語りかけていること、それを明らかにするのは暗闇であり、その暗闇を支配する静寂であり、その闇と静寂のうちに小さく輝く光であり、ささやく声であります。

 わたしは昔、30年ほど前、まだ若い神父であった時に、アフリカのガーナという国の山奥の教会で働いていました。8年間働いていた村は、今でもそうなのですが、電気が通じていない村です。近頃は、近隣の村には電気が通じたと聞きましたが、30年前は、大きな町に行かないと電気は通じておりませんでした。

 電気がないところで暮らしていると、夜の闇の深さを肌で感じます。そういった村での明かりは、昔ながらの灯油のランタンであります。小さくか細い光を放つランタンですが、深い闇の中では、そんな小さな明かりも力強く輝いているように感じられます。

 夜の道を歩かなくてはならないときなど、懐中電灯の光を頼りに道を探りながら山道を進んでいるとき、月が出ていなければ、周囲を包み込む暗闇は心に不安を生み出します。いったいこの先はどうなっているのか。目的の村はどこにあるのか。暗闇の中で、自分の心の疑心暗鬼に翻弄され、不安に駆られるとき、道の先に小さなランタンの明かりが見えたときの安心感。軒先に掲げてあるランタンです。小さな光ではありますが、暗闇が深ければ深いほど、どれほど小さな光であっても、不安と恐れを取り払い、小さいながらも希望と喜びを感じさせる光であります。

 第一朗読のイザヤの予言は、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見た」としるし、将来の救い主の誕生を告げ知らせます。ところがその「大いなる光は」、福音書に記されていたとおり、小さな生まれたばかりの幼子としてこの世界に現れたのです。

 小さないのちは、まさしく暗闇に輝く小さな光。しかし闇が深ければ深いほど、その小さな光であっても、大きな希望の光となり得るように、この小さないのちは、不安と疑心暗鬼の深い闇が広がる現実社会のただ中で、大きな喜びと希望の光となるのです。

 「いのち」は、神から与えられた、贈り物、「たまもの」です。神は、人類に喜びと希望を与える光を、小さないのちとして誕生させることで、一人一人に与えられたいのちが、同じ可能性を秘めていること、そしてそのためにこそ、一人一人のいのちがかけがえのない大切なものであることを示されました。 一人一人のいのちは、世界全体と比較すれば小さいものかもしれません。でもその小さないのちは、闇の中に小さな光を輝かせることができる。そしてそれは、世界全体に対する喜びと希望の光となり得る。だからこそ、一人一人は例外なく、神の目にあって大切なのだと、教えています。

 私たちが生きている現実は、残念ながら素晴らしいことばかりで満たされているわけではありません。そこには様々な意味での暗闇が存在します。その暗闇の中で、一人一人が真摯に小さな光を輝かせること。それがクリスマスの神からの呼びかけです。

 その晩の暗闇の中、野宿をしていた羊飼いたちに現れた天使は、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美していった、とも福音には記されていました。小さく輝く希望の光へと導く声であります。

 私たちが生きている現実は、様々な音で満ちあふれております。それは物理的に実際に鳴り響く音であったり、私たちの心を奪っているありとあらゆる情報という音でもあります。様々な音に支配され、静寂からはかけ離れた現実に生きている私たちは、ともすれば、希望の光へと導く声を聞き逃しているのかもしれません。クリスマスの出来事が私たちを招くもう一つのことは、静寂のうちに耳を澄ませてみることでもあります。それは実際に静かにするということ以上に、心を落ち着けて、神の声に耳を傾けようとする姿勢のことであろうと思います。イエスがご自身であるとまで言われた、困難に直面して助けを求めている人たちの声は、やはり社会の騒音の中に隠されてしまいます。助けを求める小さな声は、神からの呼びかけの声でもあります。心の静寂のうちに耳を澄ませることを忘れずにいたいと思います。

 天使たちは、御心にかなう人に平和があると告げました。平和の実現した世界、すなわち神の望まれる秩序が実現している完全な世界を生み出すことこそが、「御心に適う」ための私たちに与えられた使命ではないでしょうか。 御心に適うこととは、神が賜物として与えられた、この一人一人の小さないのちを、徹底的に大切にし、互いに助け合い、支え合いながら生きることに他なりません。

 困難な社会の状況の中で、対立ではなく、排除ではなく、憎しみではなく、互いに理解を深め、支え合い、絆を強めあいながら、神からのたまものであるいのちがすべからく大切にされ、それぞれが豊かに生きることのできる世界を生み出して参りましょう。助けを求めているちいさな声に、耳を傾ける努力を怠らないようにいたしましょう。

 幼子イエスの小さく輝く光。今宵のミサでその光を私たちの心にともし、暗闇の中でそれ光を輝かせて参りましょう。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教に12月16日着座=の「司教の日記」より本人の了解を得て転載)

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