三輪先生の国際関係論 ㉒清沢冽のこと 

 ドナルド・キーンに『日本人の戦争』という、日本人の文筆家が戦時中から終戦直後ぐらいまで記し続けていた日記を分析したものがある。数多の高名、ベテランの作家からまだ学生であった若手まで、永井荷風から山田風太郎までと幅は広い。その中で絶賛されているのは清沢冽であり、厳しく批判されているのは若輩の山田風太郎である。

 山田は医学生で徴兵を免れていた。ちょうどキーンと同年配で、キーンと同じ英米文学書を読んでいたことがわかる。文系、法系などの同僚学生たちが、ビルマ戦線で戦病死したり、特攻機に座乗してフィリピン、沖縄戦線で必死の使命に立ち向かっていた時に、理系の恩典で国土に安在しつつ、最後の一兵まで、必敗の対米戦を戦えと唱えたり、敗戦後は、戦勝国アメリカに向けて復讐戦を準備せよと唱えている、と言って最大の批判対象者になっている。

 人は読んだ書物の影響で人格、精神を形成していく筈なのに、山田をはじめ、伊藤整にしても、全くそんな痕跡がないことに驚嘆している。だまし討ちのように始まった大東亜戦争の正義を信じて疑わない様子に唖然としている。日本人のインテリの精神構造の奇怪さは、にわかには信じがたいほどである。その中で日米開戦決定の愚かさを真正面から書き立てた清沢冽と平和愛好家平林たい子が、例外中の例外として光っている。

 上智大学の国際関係研究所で私の同僚だった蝋山道雄教授が、清沢冽についてこんなことをおしえてくれたことがある。「三輪さんね、戦前の言論人で本物のリベラルは唯一清沢冽だけですよ」と話し始めた。そして対米英戦争が勃発してしまった昭和16年12月8日の朝、東京帝国大学で政治学の教鞭をとっておられた、道雄さんには父君にあたる蝋山政道さんのところへ、真珠湾奇襲攻撃の大戦果のニュースに舞い上がってしまった、大勢の友人、論客が大挙して押しかけてきて、玄関先を埋め尽くし、日本の前途を祝して大歓声で万歳万歳を叫んだ、というのだった。

 その時、清沢冽だけはその大歓声とは反対に、醒めた声で「蝋山君、これは大変なことになった。手に入る食品は何でも買いだめしておきたまえ。缶詰、瓶詰などなど」と電話して来たとの事だった。戦争に向けられる経済力が平時でも日本の10倍とされていたアメリカに最後の勝利があることは、アメリカ通の清沢冽には、明明白白であったのである。

 宰相近衛文麿にも意思の疎通が出来ていた清沢淸であり、『中央公論』などで親しい論客仲間でもあった蝋山政道教授は、清沢と同じ心境であったろう。日本軍により占領されたフィリピンの現状を視察調査した政道教授は、フィリピン人の家族文化は日本人の場合とは違っていて、その結果、大東亜共栄圏の建設を戦争目的として喧伝していた日本国家であったが、共栄圏の要の一国フィリピンに日本人が期待するような家族国家的国体の盟邦が生成するのは難しいだろう、としていた。

 清沢冽の戦中日記は戦後刊行されている。そしてそれを手にした知識人たちに深甚なる感銘を与えている。しかし残念なことに終戦真際に没しているので、さまざまなドラマがあった終戦前後の日本の国情についての清沢の省察を読むことはできない。マッカーサー総司令官の日本占領統治について、その功罪について清沢冽の鋭い語り口を聞けないのは、いかにも口惜しい。

(2017・12・27)(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

このエントリーをはてなブックマークに追加