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Dr.南杏子の「サイレント・ブレス」日記⑧「ひばり、圭子、プレスリー」

静けさに満ちた中で、人生の最期をおだやかに過ごす――。終末期医療の現場を預かる医師の日常は、そうした患者や家族の願いに寄り添うことが第一に優先される。
しかし、病床に身を横たえながらも、自らを待つ「ステージ」に立ち続けることを希望する人たちが少なからずいる。
今年が生誕80年の節目の年でもある大歌手・美空ひばりは、1987年に慢性肝炎、大腿骨骨頭壊死、脾臓肥大などで福岡県の病院に緊急入院した。再びステージに立つことは絶望視されたが、翌年には東京ドームを舞台にしたワンマンショーで復活を果たし、89年6月に亡くなるまでコンサートに命を燃やし続けた。
復活後のステージの陰には、目に見えない医師たちのサポートがあった。
死去する4か月前の89年2月、福岡からスタートした全国公演でのことだ。容体は極めて深刻で、医師たちは公演のキャンセルを進言されたものの、本人は「どうしても、やる」と聞かない。静脈瘤破裂などに備えて緊急入院の準備を整え、楽屋にまで医師と看護師が付き添った。ひばりは極端に痩せ、声も低い。公演の休憩中には、楽屋のベッドに横になって点滴を受けた。
果たして、美空ひばりはステージをまっとうできるのだろうか? 周囲の者は、大きな不安を胸にしたまま歌姫を送り出す。以下は、楽屋で診療に当たった梶原医師が目撃したコンサートの様子だ。
<ところが、ひばりは何の異常も表に現わさない。医者の眼で、しかも凝らして見ていてもなおかつまったく分からない。おそらく必死に苦しさに耐えて唄っているのだろうに、と思うと、梶原は「素晴らしい!」と、感服してしまう気持ちを抑えられなかった>(鳥巣清典『美空ひばり最期の795日』より)
「圭子の夢は夜ひらく」などのヒット曲で知られる藤圭子にも、医師による支えがあった。連日連夜の仕事に追い回され、スケジュールがパンク寸前だったころだ。
<そんなときの藤圭子は、青ざめた顔をして、まったく声が出ない。だからといって、公演を中止にすることなどできない。地方公演には、主治医の村上一正先生に同行してもらい、必ず注射を打ってもらってステージにあがった>(大下英治『悲しき歌姫』より)
エルビス・プレスリーやマイケル・ジャクソン、また菅原謙次や三遊亭金馬、加瀬邦彦らにも、公演や楽屋で医師らのサポートを受けたという同様のエピソードが語り継がれている。
自らの病を押してなおステージを目指す人々と、それを支える医師の姿を小説にしてみたい――。そんな思いで書いた作品「赤黒あげて、白とらない」を5月22日発売の「小説現代6月号」(講談社)に発表した。誰にも晴れの舞台がある。人生にとって大切なステージがある。美空ひばり、藤圭子、エルビス・プレスリーら大スターの物語には及ばなくとも、生と死の舞台で輝く小さな人間模様を、シリーズの形で書きつづっていきたいと考えている。
(みなみきょうこ・医師、作家: 終末期医療のあり方を問う医療ミステリー『サイレント・ブレス』=幻冬舎=は5刷出来。5月24日発売の日本推理作家協会編『ザ・ベストミステリーズ2017』=講談社=に短編「ロングターム・サバイバー」が収録されました。アマゾンへのリンクは、https://www.amazon.co.jp/dp/4344029992?tag=gentoshap-22)
Sr阿部のバンコク通信 ⑩明日を思い煩わず、自由に今日を楽しむータイの国民性
ジリジリ燃える太陽の国、亜熱帯地方には原色で派手な色彩、奇抜なデザインが似合います。夫々に自分の好みの装いで賑わうバンコクの街中、地方では、各山岳民が特有の民族衣装で何の臆する事なく人々の中に入り混じって生活している様子、長年タイで生活していると頷かせられる大切な真実があるように思います。
周りの視線を気にしないで、自分自身で在る-居られるということでしょうか。タイ駐在の日本人が、当初は言葉や文化の違いで戸惑いながらも、干渉される視線から開放されて、パッと伸び伸び咲いている姿、嬉しく思います。
束縛されるのを嫌い、明日のことに思い煩わずに、自由に今日を楽しむタイ人、近隣の国々が植民地化しても属国化ぜずに、独裁者が政権を握るのを許さずにタイ国が今日に至った理由かもしれません。
信仰についても、自分が信奉する信仰を自由に表明して、お互いに敬意を払って生きていて信教の自由を感じます。日本の信者さんが憚りなく信仰を表明して生きている姿、何よりに思います。
暑いタイ国で、思いっきり汗流して心身の濁りを清め、パッとリセットして路肩の草花の様に咲いています。主に賛美と感謝!
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
*書評*「証言・渡米一世の女性たち―明治、大正、昭和・日米の狭間に生きて」を読む
森川海守(カトリック横浜教区・戸塚教会信徒)
「証言・渡米一世の女性たち―明治、大正、昭和・日米の狭間に生きて―」(アイリーン・スナダ・サラソーン編、南條俊二・田中典子訳 燦葉出版社)は、明治時代に写真結婚、すなわち写真だけを見て生涯連れ添うパートナーと決め、ほとんど身一つでアメリカの西部、カリフォルニアやオレゴンといった州に渡った明治の渡米一世の女性たち11人の口述記録である。
日系人社会の歴史を記録するために行われたプロジェクトの一つだが、23歳も年の離れた夫婦の例もあり、相当苦労された事例ばかりである。
筆者も写真だけを見てお見合いしたことがある。実際に会ってみると、まるで相性のない相手と分かったことが何度あったことか。考えて見れば、写真だけを見て、アメリカに渡る。これを冒険と言わずして何と言おう。
しかし、年の差も性格も、「こんなはずではなかった」という美醜も、長年連れ添ううちに現実を受け入れ、家族を作っていく。その過程を、読者は読み進めていく。ほとんどの方がアメリカの広大な土地を手に入れ、事業を、店舗を起こしている。その途中で夫が病に倒れ、無我夢中で家政婦等をしながら家族を支えた方々もいる。お金を借りて何十人と雇って鉱山経営され、結局は文無しになってしまった人とかの例も出て来る。夫の留守中に身の危険を感じた方もいる。
日系人社会の最大の艱難辛苦は、日米開戦の突発により、ルーズベルト大統領のサイン一つで財産が没収され、強制収容所に収容されたことである。その11人の対応が詳述される。面白い、と言っては日系人に怒られるが、収容所では、江戸時代の踏み絵のように、アメリカに忠誠を誓うかどうかが問われ、その答え如何で待遇に差が出たことである。忠誠を誓った日系一世の方々の中には、日本軍と戦うのを嫌い、ヨーロッパ戦線で戦死した方々もおられる。
強制収容は後にアメリカ人によって謝罪され、損害賠償を受けることになるが、戦中の日本軍の捕虜の扱いとは雲泥の差があることが明らかにされる。なんと、強制収容中、様々な習い事に通うこともできたのだ。
読了感は、やはり広大な土地、広々とした家を彷彿とする。ちまちました日本とは違うなあ、というのが読み終わった後の感想である。
なかなか面白くて興味深い証言集である。特に、写真だけ見て結婚相手を選び、しかも渡米してしまうところは、現在の結婚高齢化、生涯独身率の高さとは裏腹の面がある。結婚する前に、完全に相手のことが分かる訳ではなく、本書の女性たちのように、結婚はある意味、エイヤー、と冒険の出で立ちのところがある。
しかし、不満はあっても、長年連れ添ううちにあるべき所に収まっていく。結婚相手探しでは「少しでも不満なところがあったら相手として選ばない」というのではなく、「ここで折り会えば後は我慢しよう」という、本書の渡米一世の女性たちの冒険心に習う必要があるのではないか。是非若い人に読んでもらいたい証言集である。社会学や人類学等を学ぶ学生の研究テーマともなり得る。
筆者と比較すれば、筆者はタイに4年間暮らし、仕事をした経験があり、文化と言語の違う場所に住み込む辛さを知っている。それだけに、渡米一世のパイオニアの女性たちの勇敢さや度胸、言語習得の苦労を想像するに余りある。
それにしても、11人の生涯、山あり谷あり。我が家も今後、どう家族の歴史をつづっていくのか。つづられていくのか。どんな精神があれば苦労を克服していけるのか。そんなことを考えた一冊になった。「苦労を乗り越えるにあたっては、キリスト教への信仰が、またアメリカ社会に受け入れてもらうのにも最適な宗教であった」との証言も貴重である。
三輪先生の国際関係論⑥修道院の机上の髑髏と米兵が集めた日本兵の頭骨
フィレンツェを巡る丘の一つフィエソーレに、ジョージタウン大学の海外施設のひとつがある。その丘にはカトリックの男子修道会、確かフランシスコ会だったとおもうが、がある。もう六十年も昔の事だ、私にはその修道会を訪れた記憶がある。白いスウタン姿の修道院長ともお話した。4年にわたるジョウジタウン大学での留学を終え、カレッジと大学院でそれぞれ学士と修士の学位を授与されて、帰国の途上であった。カミューも1930年代の事だったか、この修道院を訪れている。修道士の個室の机上に髑髏を認め、草花が咲き競い蜜蜂が乱舞する中庭で霊感に打たれたかのように、自分もカトリックの信仰に改修してもよいような気分になっていたと告白している。髑髏に対峙し人生を見極める生活に憧れたのである。
日本の修道者で、髑髏に対峙するということが日常的にある場合を私は知らない。死という生きとし生けるものの宿命は承知していても、それを髑髏という象徴の助けを借りて絶えず意識し続けるということを私は日本人の生活習慣として、身辺で目撃したことが無い。これは確かに異文化であり、キリスト教に特異なことと思われる。
ワシントン市内であったか、郊外であったか、確か海軍病院であったことだと記憶する。病院の倉庫というか、物置というか、あるとき、幾つか髑髏が転がっているのが見つかった。その由来は病院に収容されたとき、傷病兵が私物としてもっていたものである。私はそれを日本兵の物と、その新聞記事を読んだ時に勝手に考えていた。ヴェトコンの物だったかも知れなかったのに。というのは私には、日米戦争の最大の激戦地硫黄島で、戦後、遺骨収集に携わっていた、和智恒蔵元海軍大佐の話を知っていたからである。火山島の地熱のこもった地下壕などに累々と横たわる白骨化した遺体で、まともに頭骨の付いた遺体が少なかったというのであった。米兵が、敵の将兵の頭骨を戦闘の記念に持ち去るという習性があることを承知していたからである。
和智大佐は、戦後の何十年だったか、アメリカに向けて、そうして持ち去った髑髏の返還をねがった。2年連続してアピールした後で、その結果を『中央公論』だったか『文芸春秋』に寄稿していた。最初の年に2個が帰ってきただけで、後はなしのつぶてであったと記憶する。
アメリカで赤く塗られたりしてローソク立てに細工されていた髑髏などについての新聞記事は、続けてこう書いていた。「もし日本で誰かが押入れを整理していたら奥から米兵のものと思しき髑髏が出てきたのなら、この日本兵のものと交換しようじゃないか」と。
私には日本人にそんな収集癖があるとは思えないのだが、どうだろう。(2017.5.4記)
(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)
Sr阿部のバンコク通信 ⑨危機が好機にーカトリックの学校教育
カトリック学校が幼小中高大学とも、各地で頼もしく活躍していることも、仏教国タイで特筆したいことです。今から100余年も前に、フランスからガブリエル会、シャルトルパウロ会、ヴェテラン会、パリ外国宣教会などが来泰し、教育に貢献する修道者を育て、着実に福音の苗床を拡げていきました。
先日、バンコク市内にあるカトリックの総合病院のパウロ書院で、カトリック信徒で日本語の堪能なタイの方に出会いました。彼は、名門、チュラロンコン大学の日本語教授。 都心部にあるチュラロンコン大学はラマ六世国王陛下が設立した大学です。ラマ六世はタイに教育制度を敷き、大学を父君のラマ五世に捧げ、チュラロンコン大学と命名しました。タイが海外に学校設立の協力を求めたその頃、フランスは革命後の大変な状況にあり、教育に貢献する各修道会は新天地に進出、タイの要請にも応じました。「フランスの教育修道会にとって、危機が好機になった」というのが、教授の説明でした。
私が24年前、タイに派遣されたのは、タイ政府の宣教師数制限令があった頃です。宣教師は、宣教師ビザを社会福祉や教育ビザに切り替え、宣教師のいない県に分散を余儀なくされましたが、それによって、福音の種は国全体に撒かれるようになりました。これも、教会にとって、危機が好機に転じる出来事だったわけです。
ところで、私はくだんの教授から「カトリック用語説明の講義をしてくれませんか」と頼まれ、「願ってもない宣教の機会」と引き受けました。大学での 私の講義は、学生たちの興味と好奇の目の輝きと集中力から察して、うまくいったようです。講義そのものは、別々のクラスに二回だけで、多くの学生たちのほんの一部に接しただけだったのですが、学生たちの学ぶ気力に未来を感じ、嬉しく思いました。
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
森司教のことば⑩教会の変化・改革を求めるフランシスコ教皇
教会の敷居は高い!?
フランシスコ教皇は、心の底から教会の改革、変化を求めている。教会は、人々の慰め、支え、癒やし、希望にならなければならないと願ってのことである。そうならなければ、教会には存在する価値がない、とまで思っているかのようである。
教会を愛し、教会の究極の使命は、人々と真実に向きあい、寄り添っていくことにある、と確信する教皇にとっては、確かに今日の教会の現状は物足りないに違いない。教会を手厳しく批判するのも、教会が、人々が生きている現実から遊離し、叫びをあげている人々に応えられていないという悲しい現実を、しばしば体験してきたからに違いない。
教会と聞いて一般の人々がイメージするものは、信者たちが集まって祈りを捧げる聖堂や典礼、それに教皇をピラミッドの頂点とする聖職者たちを中心とした組織、そして崇高な倫理・道徳にそって生きようとする人々の共同体というようなものである。
しかし、人々の目に映る教会が、教会のすべてではないし、教会の本質でもない。
歴史を振り返ってみれば、教会には、街中に聖堂を建てることさえ出来なかった時代もあったし、キリスト者と分かるだけで弾圧されてしまう時代もあった。さらにまた、崇高な倫理道徳や教義が確立していない時代もあった。それでも教会は、多くの人々の拠り所になってきていたのである。
歴史の中で形成されてきた教会の建物や崇高な教義や理念などの表面的な姿と教会の本質とを同一視してしまったり、それにこだわり続けていたりすれば、いつまで経っても、教会の敷居は高いままである。
本来の教会は、誰もが気安く近付くことができる存在だったはずである。
『エクレジア』として
「教会」についての思い込みや先入観を払拭し、教会の本来の姿を理解していくためには、「教会」と邦訳されているギリシャ語「エクレジア」と言う言葉に目を向けてみることである。「教会」という訳は、「教会」の中心があたかも「教え」にあるかのような印象を与えてしまうが、「エクレジア」という言葉には、「教え」や仰々しい儀式をほのめかすニュンスは全くない。
漢字の世界に生きる人々のためにギリシャ語「エクレジア」を最初に「教会」と訳してしまった者は、19世紀に中国に渡った宣教師たちである。日本語訳としては江戸時代の末期、マカオで宣教していたギュラッフ牧師の「寄り合い宿」と言う訳がある。この訳は、「教会」という訳とは違って、温もりを感じさせる。しかし、残念なことにギュラッフ訳聖書は、時代が幕末であったこともあって、日本にはほとんど影響を与えることはなかった。
明治になってからは、明治学院を創設した米国長老派教会の宣教師だったヘボン氏の「集会」と言う訳がある。その後、明治の半ばに結成された聖書翻訳委員会が「教会」と訳し、それが定着して今日に至っているのである。
ところが、当時のギリシャの世界では、「エクレジア」は、「誰かの呼びかけやある人の人柄に惹かれて集まった人々のグループ、党派、団体」と言う程度のものだったのである。キリスト信者たちは、それを、キリストに出会い、キリストに惹かれて集まった人々の集まりにあてはめたのである。
この「エクレジア」と言う言葉は、使徒たちの手紙の中では頻繁に使われているが、しかし、正確な定義は見当たらない。恐らく、それは、定義を必要とするまでもない、誰もが日常的に使っていた言葉だったからに違いないのである。
しかし、一カ所だけ、「エクレジア」についての定義らしきものを見出すことが出来る。それは、コリントの人々に宛てたパウロの手紙の冒頭である。「コリントにある神の教会へ、すなわち至る所で私たちの主イエスキリストの名を呼び求めている人々と共に、キリストによって聖とされた人々へ。」(コリント、一、1章の2、新共同訳)
パウロは「エクレジア」を「キリストの名を呼び求めるすべての人、キリストによって聖とされた人々」と明言しているのである。したがって「キリストの名を呼び求めている人々」が、どんな人々であったかを見極めていけば、本来の教会の姿が明らかになってくる。
どんな人々であったのか、パウロが、コリントの信徒に宛てた手紙が参考になる。彼は、初代教会のメンバーについて次のように語っている。
「兄弟たち、あなた方が召されたときのことを思い起こしてみなさい。人間的に見て、知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や家柄の良い者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵のある者に恥をかかせるために、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするために、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」(コリント一、1の26〜28)
つまり、キリストに魅せられ、キリストによって人生を変えられた人々の大半は、経済的にも貧しく、社会的な地位も低く、ほとんどの人が文字さえ読めない人々だったと言うことである。そうした人々が集まって生まれてきた共同体、それが『エクレジア』だったと言うことである。
それは、まさに、過酷な現実の中でもがき苦しむ人々を、理屈なしに、無条件に、あたたかく受け止め包み込む共同体である。教皇が改革を呼びかけて目指す教会は、そんな共同体なのである。
(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)
菊地功・新潟司教の日記 ⑪シャボン玉を突き破って、一歩踏み出そう
(2017.4.19)復活祭の日曜日、新潟はやっと暖かい春の日となり、ちょうど桜も満開となりました。新潟教会の復活の主日ミサには多くの方が集まり、前晩に洗礼を受けた方々と喜びを共にしました。ミサ中にはこの日だけ来られる方も多いことから、もう一度洗礼の約束の更新を行いました。また閉祭前には復活の卵を祝別。ミサ後には、信徒会館ホールで祝賀会を行いました。以下復活の主日のミサ説教の原稿です。
近頃、たまたま土曜日に予定がないときには、午前中に再放送される「こんなところに日本人」というテレビ番組を見ることがあります。世界の様々な国で生活している日本人をタレントさんが訪ねていくという企画です。いかにもテレビ番組の企画でちょっと大げさなところも感じますが、しかし、わたしにとってはある意味、懐かしい、かつて生活したアフリカの情景がしばしば登場することから、興味を持って拝見させていただいております。
こういった海外で生きる日本人を紹介したりする番組はいくつかあるようですが、時に「だから日本人はすごい」などと、何か自画自賛の内容となってしまうこともあり、そんなときはちょっと内向きな印象を受けることもあります。しかし同時に、番組のホームページに「世界にはまだ、わたしたち日本人が知らないような、小さな町や村があり、日本で暮らしていては想像も出来ないような暮らしを送る日本人がいます」と記されているように、見知らぬ国や人々に興味を持つことはとても重要で、それこそ内向きな態度を打破し、わたしたちの意識を外へ向かわせるという意味で、重要なきっかけとなる番組でもあると思います。
わたしたちは、神のもとで同じいのちを生きる兄弟姉妹として、一つの共同体に生きているなどと申しますが、その兄弟姉妹の現実を知らなければ、「共に生きる」はかけ声倒れに終わることでしょう。その視点からは、こういった番組が様々な国の様々な人々の現実を伝えてくれることには意味があり、重要であると思います。
ただ、はたしてこういった番組が、本当に外へと足を踏み出し、未知なる人々と交わりを持とうとする原動力となっているのかどうかが気になります。たしかに実際に冒険をしてみようという人が、いないことはないのでしょうが、そういった実際に海外へ出かけるのかどうかということではなく、心持ちの問題として、内向きではなく、外へ向かって開かれた心を持つ人の増加に、果たしてうまくつながっているのだろうか、気になります。
教皇フランシスコが就任直後に訪れたランペドゥーザ島でのミサの説教でいわれた言葉を思い出します。「居心地の良さを求める文化は、私たちを自分のことばかり考えるようにして、他の人々の叫びに対して鈍感になり、見栄えは良いが空しいシャボン玉の中で生きるようにしてしまった」。説教は、こう続きます。「これが私たちに、はかなく空しい夢を与え、そのため私たちは他者へ関心を抱かなくなった。まさしく、これが私たちを無関心のグローバル化へと導いている」
よく知っているようで、思いの外その知識は限定されている。関心を抱いているつもりで、その関心は、シャボン玉を突き破るだけの力はない。わたしたちには、シャボン玉を突き破り、外に向かって歩み出す姿勢が求められているのではないでしょうか。
本日の第一朗読で、復活の主にすでに出会ったペトロは、イエスが十字架につけられた日に恐れをなして隠れようとし、またイエスを三度知らないと裏切ってしまったあの夜の態度とは打って変わり、力強くイエスについて語っています。それは知識を教えているような姿ではなく、どうしても語らずにはいられないという姿です。すなわち、それほど多くの人に伝えたくて仕方がない話がある。自分には分かち合いたい宝のような話がある。そういうペトロの熱意が伝わってくるような姿です。
実際。わたしたちキリスト者には、伝えても伝えきれないほどの宝のような話が、たくさんあるのではないでしょうか。その宝を伝えたくて伝えたくて仕方がない思いに駆られて、多くの宣教者が歴史の中で迫害をもいとわず、苦難を乗り越えて、世界中へ出かけていきました。日本の教会は、そういった福音宣教者たちによって育てられてきました。いま現在でも、世界の至る所へ出かけていって、その宝物の話を分かち合おうとする人は多く存在し、日本の教会はそういった宣教者によって支えられています。
わたしたちはそういった福音宣教者の存在を、どのように見ているのでしょうか。あのテレビ番組を眺めているように、テレビの画面の向こうにいる、何か特別なストーリーを持った特別な存在であって、「すごい人もいるもんだなあ」などと傍観しているだけでしょうか。
あらためて言うまでもなく、わたしたち一人ひとりも、そういった福音宣教者になるようにと、召されているのです。司祭や修道者だけの話ではありません。それは、イエスをキリストと信じ、神の名において洗礼を受けたすべての人は、福音宣教者として召されています。
わたしたちには、語っても語り尽くせぬ宝のような話がたくさんあるはずです。わたしたちが語るようにと召されているのは、知識を教えることではありません。わたしたち一人ひとりが主との出会いの中で感じたことを、生きる中で分かち合っていくことです。
わたしたちの持っている宝とはどんなものでしょう。例えば、限りのない神のいつくしみと愛。徹底的に奉仕する心。他者を自分のように助けようとする心。支え合う存在としての人間の尊厳。ベネディクト16世の言葉を借りれば、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。」賜物であるいのちの尊厳。神の秩序の完全な回復。聖母が示す、神に対する徹底的な従順の生き方。聖人たちの模範。そして、放蕩息子を迎える父のように、わたしたちを包み込んでくださる、神の深いゆるし。挙げはじめたらきりがありません。わたしたちには、伝えていかなければならない宝が、本当にたくさんあります。
ただ考えなくてはならないのは、伝えるためには、まず知らなくてはならないことでしょう。まず教会共同体の中で、わたしたち自身がそれを学び体験しなくてはなりません。信仰は一人では深まりません。わたしたちの信仰は、人間関係の中で深められていきます。そのためにも何よりもまず、教会共同体こそが、こういった宝を実践する場でなくてはなりません。そこで学び、体験した宝を、わたしたちが大切にしている宝の話として、今度は教会共同体から外へと派遣されて、多くの人に伝えていくのです。
誰かすごい人がそうしてくれるのを傍観しているのではなく、わたしたち自身が、勇気を持って一歩踏み出し、主との出会いの宝の話を多くの人に分かち合っていきましょう。シャボン玉を突き破って、一歩踏み出しましょう。復活された主ご自身が、わたしたち一人ひとりといつも一緒にいてくださり、勇気を与えてくださいますように。
(菊地功=きくち・いさお=新潟教区司教、カリタス・ジャパン責任者)
Sr岡のマリアの風通信⑩ 独り言…聖母月…
五月は聖母月。今年は、東京のK教会に招かれて、マリアさまの話をすることになった。ありがたいことだ。
何といっても「マイナー」なマリア論Mariology。「一応」、カトリック教会の神学分野の一つで、しかも、そのルーツは、すでに「聖書」の中に、しかも、パウロ書簡の中にも見出すことが出来る、と、わたしの恩師たちを始め、近代マリア論学者たちは明言している。恩師の一人、聖書学者のAlberto Valentini教授は、パウロ書簡の中の、マリア論の「萌芽」について論文を書いているし、もう一人の恩師、Aristide Serra教授は、さらにさかのぼって、旧約聖書の中に「予表」されている、「メシア・救い主の母」の実現としての、ナザレのマリアについて、何冊もすばらしい論文を書いている。
そして、Serra教授の論文の内容が、あまりにもすばらしく、そして、あまりにも知られていない分野なので、わたしは、へたな翻訳ではあるが、せっせと訳している。マリア論が「マイナー」なのは、もったいない!と思うから。マリアこそ、神と、神の民とを結ぶ、また、旧約の神の民(イスラエル)と、新約の神の民(教会)を結ぶ、さらには「花婿・創造主」と、創造主によって造られた「花嫁・人間」を結ぶ、何というか、「交差点」、結び目、にいる。マリアは、キリスト教の「中心」ではない-中心は、唯一の救い主、イエス・キリストだ-。しかし、マリアは、キリスト教の中心であるイエス・キリストと、切り離せない絆で、一人の人間として最も緊密な絆で結ばれている。
…ということを、第二バチカン公会議の『教会憲章』(1964年)は、特にその第八章で、マリアに関する教会の教えを、もう一度源泉に戻って(聖書、教父たちの伝統、典礼…)再確認する中で、明言している。
さて…聖母月に、マリアさまの話。何を話すか?選択肢として、「伝説(おとぎ話)的話」、「当たり障りのない話」から、「チャレンジ的話」まで、ある。「チャレンジ的話」は、もしかしたら、訳の分からない、「だから、何なの?」と言われるかもしれない話-つまり、マリアの姿を、ますます分からなくさせるリスクのある話―。わたしの能力からいって、それを「分かるように」話せるか、と言われれば、「?」では、ある。
でも…敢えて、「チャレンジ的話」にも、まさに「チャレンジ」してみよう。そうしないと、いつまでたっても、マリア論Mariologyは、a pious devotion(敬虔な信心)の域を「超える」ことが、出来ない。敬虔な信心は、ひじょうに大切であり、この、民衆のpiety(敬虔、信心)があるからこそ、キリスト教は、「生ける神」の、まさに、わたしたちの日々の生活に「関係のある」宗教であり続ける。わたしたちの神は、本当に、「肉」に、「人間」になったのだから、わたしたちの「肉」、「人間性」は、キリスト教において大切な部分である。
それでは…K教会での、聖母月のマリアさまの話…。ここ、本部修道院のシスターたちの絶えざる祈りに支えられ、少し「チャレンジ」してみよう。わたしの栄光のためではなく、聞いてくださる人々が、マリアの真の姿―「わたしたちの一人」、わたしたちの「母」、わたしたちの「姉妹」、わたしたちの「模範」-を、少しでも知り、それによって、苦しみ、悩みの絶えない日々の生活の中で、希望と勇気をもつことができるように。…わたし自身、マリアのことを知れば知るほど、「わたし」が「誰」であるか(神のいのちを共有するよう招かれ、共に、一つの目的に向かって信仰の旅路を歩いている、神の民の一人)を知り、出口が見えないような困難の中にあっても、確かな希望を持ち続けることが出来る、と、日々、体験している。
K教会の信徒の方々の上に、復活の主の豊かな祝福を祈りながら。アーメン
(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)
漆原JLMM事務局長・共に生きるヒント⑥「 リバースミッション 」
レイミッショナリー(信徒宣教者)が派遣された地で学んだことを、その人の中だけに留めることなく、帰国した後に日本の社会、特に日本の教会を通して分かち合っていくことを「リバースミッション」と呼んでいます。
通常の場合、派遣地で働く時間よりも、帰国後の時間の方がはるかに長くなることを考えれば、この「リバースミッション」をどのように行っていくかということは、派遣地での働きと同様に、またはそれ以上に重要なことだと思います。それは帰国後の地域社会、職場、教会、友人関係、また身近なところでは家庭という様々な場面で行われます。
リバースミッションは、自分が派遣先で「いただいたこと」を送り出してくれたものに対して「返していく」というニュアンスで語られることが多いのですが、実はもっとダイナミックで広がりのある意味合いが含まれているように思います。
「ミッションは一方向ではなく、人と人の間に相方向に働くもの」とあるシスターから聞いたことがあります。確かに、神がイエスをキリストとして派遣したことを「ミッション(ミッシオ)」のもともとの意味だとすると、そのイエスから人々が派遣され、連綿と繰り返されて広がってきた派遣の動きの先に今の私たちがいると考えることもできます。神から出発した一本のミッションの線はイエスを通って、何本もの無数の線となり無数の人々を介してこの社会の中に広がっているというイメージを持つことができます。
そう考えると、ひとつの社会の中で私たちは「皆が派遣されている存在」なのであり、どこの誰との関係であっても「お互いのために派遣されている関係」なのかもしれないなと思います。そしてより人間的な社会の実現に向けて、「お互いに派遣しあう」という意識を持つこともできると思います。(2017年4月25日)
***JLMMについて***
JLMM は日本カトリック司教協議会公認団体、国際協力NGOセンター(J ANIC)正会員で、主にアジア・太平洋地域にレイミッショナリー(信徒宣教者) を派遣しています。派遣されるレイミッショナリーは、 派遣地において関わる人々とともに喜びや悲しみを分かち合い、地域の人々に向けたこどもの教育、衛生教育、栄養改善、 女性の自立支援などの活動を実施しています。1982年の設立以降、アジア・太平洋、アフリカ諸国16か国に 100名以上のレイミッショナリーを派遣されました。現在はカンボジアと東ティモールに3名を派遣しています。
JLMMでは毎年、派遣候補者を募集しています。賛助会員としてのご支援やご寄付をお願いいたします。またカンボジアスタディツアーやチャリティコンサートの企画、 活動報告会やカンボジアハンディクラフト販売にご協力いただけるグループや教会を募集しております。事務局(jlmm@jade.dti.ne.jp) までお問い合わせください。
Sr石野のバチカン放送今昔 ⑩名物神父J.C.、またの名を「ブルドーザー」
バチ
カン放送にJ.C.というスペイン人の神父がいた。中央編集局の局長。実にダイナミックでよく働く。誰言うともなく「ブルドーザー」のニックネームで呼ばれるようになった。
「空飛ぶ教皇」が外国を訪問されるときは、よい番組の準備ができるようにと、毎回、教皇が訪問する国々に関する資料が配られる。旅行中は、バチカン放送の特派員たちが送るニュースを直ちにコピーして各セクションに配布する。各言語セクションで、その原稿を翻訳して放送する。その時活躍するのが、中央編集局。もっとも編集局の働きはその時だけではないが。
J.C.神父はニュースの速報性を非常に重んじる人だった。大げさなまでに。情報は出来るだけ早く提供すること、「今すぐ、ではもう遅い」が口癖。教皇の外国旅行中は朝早くから、夜遅くまでよく働いた。時差の大きい国に教皇が行かれると、夜中も働いた。それほどスリムな体でもないのに、放送局の廊下を身軽によく動いていた。
朝の出勤時間、局員たちが出勤する時間、彼はもう働きの真最中。前には大きなハサミをぶら下げ、背中には「こんにちは!よい一日を祈ります。今、超多忙、声をかけないで」と大きく書いた厚紙を背負って、教皇の旅行先から着いたニュースの区分けをしたり、切り貼りして、私たちがデスクに就く前に、読みやすいようにしてくれていた。
明るくて寛大、働き者の神父さんだから、誰も彼のそのやり方に文句を言ったり、不満をこぼす人はいなかった。私たちは「こんにちは」と、笑いながら彼の背中の厚紙に向かって声をかけたり、「またやってる」と言って微笑みながら、そばを通り過ぎていく・・。
彼のすさまじいまでの働きで、私たちはずいぶん助けられた。私がバチカン放送をお役御免になった数年後、彼も辞めた。ある大学で、コミュニケーション学を教えていた。
( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女)
Dr.南杏子の「サイレント・ブレス日記」⑦学びの季節、学びの年
春は、新たな学びの季節だ。真新しい制服に身を包んで街中を歩く中高生や、電車の座席で分厚いシラバスに目を落とす大学生た

ちを見かけると、心からエールを送りたくなる。
人は、学びを通じて可能性を育てる。学びはまた、人生を変える。
今から20年以上前の昔話である。夫の英国留学に同行した私は、英中部の地方都市で自治体が運営していた市民カレッジの門を叩いた。医師になる前、主婦として幼子の育児に明け暮れていたころの経験だ。
英国では、「Further Education」(継続教育)の名の下、安価な授業料でさまざまな講座を自由に受講できる成人向けの公立学校やカレッジが各地にある。日本の専門学校とカルチャーセンターの性格を兼ね備えたイメージだ。
そのカレッジで私は、当時の日本ではまだあまり知られていなかった「アロマセラピー」を学んだ。ハーブなどの植物から抽出したエッセンシャルオイル(精油)の香りに魅力を感じ、子育ての息抜きと趣味の時間を兼ねた楽しい教室通いだった。
英国人の学生たちにまじり、慣れない英語で挑戦した新しい学びの世界は、驚くほど新鮮で、知的な刺激にあふれていた。ただ、そこで私の心を強く捉えたのは、香りの力や精油の効能ではなく、アロマセラピーの前提をなす基礎学問として教授されたヒトの生理学や組織学だった。
「もっと学びたい――」。古びたレンガ造りの校舎の片隅で抱いた思いが、どんどんふくらんだ。
日本への帰国後、私は大学の医学部に学士入学し、医師になる道を選んだ。会社員の夫と2歳の娘を抱え、30歳を過ぎての転身だった。異国の教場で経験した学びが、思いも寄らぬ新しい世界に自分自身を導いてくれたのだ。
そのとき、私の背中を押してくれた懐かしい英語表現がある。それは、「Mature Student」。年齢を経てから大学・大学院や夜間クラスで勉強を積む学生を指す英語で、日本語では「成人学生」という訳があてはまるのだろう。
実際、英国の大学や市民カレッジでは、非常に多くのMature Studentが学んでいた。それ以上に印象的だったのは、家庭や仕事などを持ちながら学ぶ彼らが、「成人学生」という無機質な響きを超えて、「mature」すなわち「成熟・円熟した」「分別のある」学生として扱われていた事実だ。はやりの言い回しで表現すれば、彼らは色々な意味で「リスペクトされる存在」だった。
米国の自動車王として知られるヘンリー・フォードが残した名言がよみがえる。「20歳であろうが80歳であろうが、学ぶことを止めてしまった人は年老いる。学び続ける人はいつまでも若い。人生で最も素晴らしいことは、心をいつまでも若く保つことだ」(Anyone who stops learning is old, whether at twenty or eighty. Anyone who keeps learning stays young. The greatest thing in life is to keep your mind young)。
学びとは、自分の可能性を育てる経験だ。自分自身を変える経験だ。新しいスタートを切る時期は、春とは限らない。ましてや年齢は関係ない。今でも私は、そう確信している。
(みなみきょうこ・医師、作家: 終末期医療のあり方を問う医療ミステリー『サイレント・ブレス』=幻冬舎=は5刷出来。日本推理作家協会編『推理小説年鑑ザ・ベストミステリーズ2017』=講談社=にも、短編「ロングターム・サバイバー」が収録予定。アマゾンへのリンクは、https://www.amazon.co.jp/dp/4344029992?tag=gentoshap-22
三輪先生の国際関係論 ⑤歴史散策‐2
前回のこのコラムで取り上げたアイリス・チャンのことは、歴史学に素人の失策と微笑みで迎えてもいいのだが、次に取り上げるのはプロの問題なので、伊達や疎かにするわけにはいかない。アメリカの有名校、アイヴィー・リーグ中でも歴史学の訓練では特に優れていると、其処の大学院で博士号を取得した私の知人、同僚、弟子達から聞き及んでいる、誇らかな評価を聞かされていたものだから、こんな話を知った時には呆気にとられてしまった。二つある。
先ず一つはこうである。ナチ政権下のドイツの軍需産業とヒトラーとの関係を扱った博士論文である。新たに発見された一次資料をフルに活用した新解釈であった。付かず離れず、適当にサボタージュしたりした様子がこと細かく描き出されていた。審査は通過し、面接試験のディフェンスにも成功して、学位は授与され大学出版局から、立派な書物として世に問われた。
途端にこの論文の一大長所であった「新発見の資料」と称されたものが、実はフェイクであって、実在していないことが、学外の評者によって指摘されたのである。そこで大学当局は、この学生が就職先にするであろうアメリカ全国の大学宛に、彼の履歴書の博士号の記載はこれこれしかじかであるから、ご承知置きください、と書面で案内してまわったと、雑誌かなにかで読んだ記憶がある。
さてもう一つはこれほどまでに罪深くは無いが、論文の根拠が脆弱に過ぎる、という批判は真摯に受け止めねばならぬものであった。この批判を私はフィリピンで聞いた。マニラの国立大学史学部アゴンシーヨ(Teodoro A. Agoncillo)教授から聞かされた。上に掲げた贋作の史料による博士論文を受理し、審査し、口述試験も通過させて学位を授与してしまったあの有名大学が、今度の場合フィリピン人の対米観を分析総合し叙述した論文に学位を授与したことへの批判である。方法論的に出発点で既に欠陥があるというのである。
その批判が、フィリピン広しといえども、いまだタガログ語でフィリピン史を書き、講義する人が彼を除けば皆無といえた時代のアゴンシーヨ教授の口をついて出たものであったことの意義は重い。分析に使われたマスメディアの記事は、在マニラアメリカ大使館が、日々地元新聞から切り取り、貼り付けていたスクラップ帳に限られていた、というのであった。
本来ならば、マニラの図書館のみならず、地方都市の学校なども含めて、世論が表出している記録類をもチェックすることが求められて当然だろう。第一新聞全体のなかにそのスクラップ記事を位置づける事によって、その記事が発する「歴史」的意味が初めてクリティカルに読み取れるというものだろう。
私がプリンストン大学院のアメリカ史のゼミで体験した事のうちには、地方史をテーマにしていた学生に担当教授が、小さな教会のブレティン類も見落とさないように、と指導していた。同様のことは当然、フィリピン人の対アメリカ観研究にも応用されていい筈だろう。
以上二つの例は、アメリカの有名大学の場合であるが、博士論文審査の過程で。日本語の間違いのような欠陥が見逃されて、書籍として出版されてしまっている例は、私が関知しているものでも日本の有名大学の例がある。これら日本国内で起こった問題については、また機会があったら取り上げることにしよう。
(2017・4・20)
Sr阿部のバンコク通信 ⑧全村民カトリックのカレン族ナキヤン村訪問!
タイ国北部には、異なった言語文化を持つ山岳民が住んでいます。カレン、モン、ラフ、アカ、ヤオ、リス族など、特徴ある服装や習慣を持ち奥地に集落を成して住んでいます。チェンマイ教区のカトリック人口(7万2千)の半数以上がカレン信徒です。天地の創造主を畏れ敬うラウダートシの精神を持つ独自の精霊信仰が、カトリックの信仰に導かれる
のだと思います。
3月上旬、夙川教会の赤波江神父様の企画『タイ・山岳民族村訪問と教会巡礼の旅』で、全村民カトリックのカレン族ナキヤン村にカトリック青年•大学生達を同伴して入りました。
カレン民族は陸稲栽培を主に、家畜などを育てながら自給自足の生活を営み、大自然の恩恵の中で至極エコロジカルな生活をしています。
ナキヤン村の家族に1人ずつ迎えられ、衣食住を共にした青年達、臓腑がひっくり返ると言いたいほどの体験を、夕の祈りの後毎晩分かち合ったてくれました。村人と共に祈り、捧げるミサは、言語文化の違いを越えて心底結ばれる体験でした。毎日子供達と思いっきり遊び、家の手伝い、一緒にご飯を食べる… 、便利で豊かな日本から来て、必要最小限で不便な生活、しかしそこで幸福の醍醐味。満面の笑みと目の輝き、喜びが青年達の全身から溢れていました。『ここには幸せがある』青年達はそう言いました。
若者の柔軟さ、感性の鋭さ、あー連れて来てよかった、と思いました。大自然の懐で、主を敬い、人間同士だいじにし合って生きる…、村人と共に生きた思いを胸に、青年達キラキラ輝いて生きているでしょう。”Laudato Si”
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
森司教のことば ⑨教皇の、教会の現状に対する認識・・・・
