Dr.南杏子の「サイレント・ブレス日記」⑦学びの季節、学びの年

 春は、新たな学びの季節だ。真新しい制服に身を包んで街中を歩く中高生や、電車の座席で分厚いシラバスに目を落とす大学生た

ちを見かけると、心からエールを送りたくなる。

 人は、学びを通じて可能性を育てる。学びはまた、人生を変える。

 今から20年以上前の昔話である。夫の英国留学に同行した私は、英中部の地方都市で自治体が運営していた市民カレッジの門を叩いた。医師になる前、主婦として幼子の育児に明け暮れていたころの経験だ。

 英国では、「Further Education」(継続教育)の名の下、安価な授業料でさまざまな講座を自由に受講できる成人向けの公立学校やカレッジが各地にある。日本の専門学校とカルチャーセンターの性格を兼ね備えたイメージだ。

 そのカレッジで私は、当時の日本ではまだあまり知られていなかった「アロマセラピー」を学んだ。ハーブなどの植物から抽出したエッセンシャルオイル(精油)の香りに魅力を感じ、子育ての息抜きと趣味の時間を兼ねた楽しい教室通いだった。

 英国人の学生たちにまじり、慣れない英語で挑戦した新しい学びの世界は、驚くほど新鮮で、知的な刺激にあふれていた。ただ、そこで私の心を強く捉えたのは、香りの力や精油の効能ではなく、アロマセラピーの前提をなす基礎学問として教授されたヒトの生理学や組織学だった。

 「もっと学びたい――」。古びたレンガ造りの校舎の片隅で抱いた思いが、どんどんふくらんだ。

 日本への帰国後、私は大学の医学部に学士入学し、医師になる道を選んだ。会社員の夫と2歳の娘を抱え、30歳を過ぎての転身だった。異国の教場で経験した学びが、思いも寄らぬ新しい世界に自分自身を導いてくれたのだ。

 そのとき、私の背中を押してくれた懐かしい英語表現がある。それは、「Mature Student」。年齢を経てから大学・大学院や夜間クラスで勉強を積む学生を指す英語で、日本語では「成人学生」という訳があてはまるのだろう。

 実際、英国の大学や市民カレッジでは、非常に多くのMature Studentが学んでいた。それ以上に印象的だったのは、家庭や仕事などを持ちながら学ぶ彼らが、「成人学生」という無機質な響きを超えて、「mature」すなわち「成熟・円熟した」「分別のある」学生として扱われていた事実だ。はやりの言い回しで表現すれば、彼らは色々な意味で「リスペクトされる存在」だった。

 米国の自動車王として知られるヘンリー・フォードが残した名言がよみがえる。「20歳であろうが80歳であろうが、学ぶことを止めてしまった人は年老いる。学び続ける人はいつまでも若い。人生で最も素晴らしいことは、心をいつまでも若く保つことだ」(Anyone who stops learning is old, whether at twenty or eighty. Anyone who keeps learning stays young. The greatest thing in life is to keep your mind young)。

 学びとは、自分の可能性を育てる経験だ。自分自身を変える経験だ。新しいスタートを切る時期は、春とは限らない。ましてや年齢は関係ない。今でも私は、そう確信している。

(みなみきょうこ・医師、作家: 終末期医療のあり方を問う医療ミステリー『サイレント・ブレス』=幻冬舎=は5刷出来。日本推理作家協会編『推理小説年鑑ザ・ベストミステリーズ2017』=講談社=にも、短編「ロングターム・サバイバー」が収録予定。アマゾンへのリンクは、https://www.amazon.co.jp/dp/4344029992?tag=gentoshap-22

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2017年4月25日 | カテゴリー :