三輪先生の国際関係論⑥修道院の机上の髑髏と米兵が集めた日本兵の頭骨

 フィレンツェを巡る丘の一つフィエソーレに、ジョージタウン大学の海外施設のひとつがある。その丘にはカトリックの男子修道会、確かフランシスコ会だったとおもうが、がある。もう六十年も昔の事だ、私にはその修道会を訪れた記憶がある。白いスウタン姿の修道院長ともお話した。4年にわたるジョウジタウン大学での留学を終え、カレッジと大学院でそれぞれ学士と修士の学位を授与されて、帰国の途上であった。カミューも1930年代の事だったか、この修道院を訪れている。修道士の個室の机上に髑髏を認め、草花が咲き競い蜜蜂が乱舞する中庭で霊感に打たれたかのように、自分もカトリックの信仰に改修してもよいような気分になっていたと告白している。髑髏に対峙し人生を見極める生活に憧れたのである。

 日本の修道者で、髑髏に対峙するということが日常的にある場合を私は知らない。死という生きとし生けるものの宿命は承知していても、それを髑髏という象徴の助けを借りて絶えず意識し続けるということを私は日本人の生活習慣として、身辺で目撃したことが無い。これは確かに異文化であり、キリスト教に特異なことと思われる。

 ワシントン市内であったか、郊外であったか、確か海軍病院であったことだと記憶する。病院の倉庫というか、物置というか、あるとき、幾つか髑髏が転がっているのが見つかった。その由来は病院に収容されたとき、傷病兵が私物としてもっていたものである。私はそれを日本兵の物と、その新聞記事を読んだ時に勝手に考えていた。ヴェトコンの物だったかも知れなかったのに。というのは私には、日米戦争の最大の激戦地硫黄島で、戦後、遺骨収集に携わっていた、和智恒蔵元海軍大佐の話を知っていたからである。火山島の地熱のこもった地下壕などに累々と横たわる白骨化した遺体で、まともに頭骨の付いた遺体が少なかったというのであった。米兵が、敵の将兵の頭骨を戦闘の記念に持ち去るという習性があることを承知していたからである。

 和智大佐は、戦後の何十年だったか、アメリカに向けて、そうして持ち去った髑髏の返還をねがった。2年連続してアピールした後で、その結果を『中央公論』だったか『文芸春秋』に寄稿していた。最初の年に2個が帰ってきただけで、後はなしのつぶてであったと記憶する。

 アメリカで赤く塗られたりしてローソク立てに細工されていた髑髏などについての新聞記事は、続けてこう書いていた。「もし日本で誰かが押入れを整理していたら奥から米兵のものと思しき髑髏が出てきたのなら、この日本兵のものと交換しようじゃないか」と。

 私には日本人にそんな収集癖があるとは思えないのだが、どうだろう。(2017.5.4記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)

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