森司教のことば ⑫現代社会と向き合う教皇の軸足は・・

 教皇は、どのような軸足に立って現代社会と向き合おうとしているのか   

    ・・・排他性と格差のある経済を拒否せよ』(福音の喜び)・・・

 「『汝、殺すなかれ』という戒めが、人の生命の価値を保護するために明確な制限を設けるように、今日においては『排他性と格差のある経済を拒否せよ』と言わざるをえない。この経済は、人を殺します。」(福音の喜び、53、邦訳56ページ、傍線筆者)

 これは、教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜び』の中の一節である。

 教皇は、『この経済は人を殺す』と記すが、その発言の真意については慎重に受けとめる必要がある。というのは、資本主義経済は、かってないほどの快適で便利な生活を人類にもたらしてきており、『人を殺す』どころか、多くの人々に人間らしく生きる道を提供してきているからである。

 教皇も、その事実は認めている。認めているどころか、賞賛さえしているのである。それは、2014年、世界の経済界のリーダーたちが集まってスイスで開催されたダボス会議の際に送ったメッセージなどからも、明らかである。

 「今の時代は、教育、情報通信、ヘルス・ケア等の分野で生活の質の向上を実現する大きな歩みを残していく時代だとして、賛辞に値するでしょう。さらに言えば、その他様々な分野においても、近代ビジネス活動が果たした役割が、大きな変化をもたらしてくれた。その役割の重要さを認識すべきです。近代ビジネス活動が、人類知性という無尽蔵の資源を、喚起し発展させてくれたのです

 しかし、教皇は、賞賛しながら、そこに留まらず、会議の参加者たちに経済の仕組みがもたらした問題点をはっきりと指摘していくのである。それは、教皇として使命感からにほかならない。

 教皇の拠って立つ土台は福音である。教皇は、物質的な豊かさの中に幸せを求めいる一般の人々とも、利益を得ることを最優先する企業人とも異なる価値観の上に立っている。その土台の上に立って世界と向き合うとき、教皇が、現在の経済システムを手放しで賞賛することはできないのは、当然である。

 教皇は、ダボス会議の参加者たちにメッセージの中では、経済のシステムがもたらしたマイナス面を「社会的排除を蔓延させた」と表現し、参加者たちにその克服を願った会議を求めたのである。

 「とはいえ、それが成し遂げた成功、即ち、困窮者を大幅に減らしたという事実も含めて、近代ビジネス活動が成し遂げた成功が、社会的排除の問題を蔓延させたのも事実です。」(傍線筆者)と。

 この『社会的排除』という表現で、教皇が何を伝えようとしたのかを知るためには、「福音の喜び」を繙いてみれば良い。そこで教皇は、資本主義経済の仕組みの何が福音に逆らい、それが、どのような闇を世界にもたらしたか、詳しく語る。

 「飢えている人々がいるにもかかわらず、食料が捨てられている状況を、私たちは許すことが出来ません。これが格差なのです。現代ではすべてのことが、強者が弱者を食い尽くすような競争と適者生存の原理のもとにあります。

 この結果として、人口の大部分が、仕事もなく、先の見通しも立たず、出口も見えない状態で排除され、隅に追いやられるのです。(中略)また私たちは、『廃棄』の文化をスタートさせ、それを奨励さえしています。 (中略)多くの人々が、社会の底辺へ、隅へ、権利の行使が出来ないところへと追いやられるのではなく、社会の外に追い出されてしまうのです」(福音の喜び、53)

 教皇の拠って立つ論拠を理解していくためには、まずはここに引用した文章の冒頭の「飢えている人々がいるにもかかわらず、食料が捨てられている状況」という文言に注目してみることである。

 国連食糧農業機関(FAO)の報告書(2015年)によれば、世界では約8億人もの人たちが栄養不足の状態にあり、1日に4万人が餓死し、その多くが発展途上国の子どもたちだという。その支援のためには約400万トンの食料が必要となるにもかかわらず、世界では年間13億トンもの食品が廃棄されているという。日本では、2013年の農林水産省の調査報告によると、年間1700万トンの食品廃棄物が排出されており、そのうち本来食べられるのに廃棄される食品は、年間約500~800万トンになるという。それは、国際的な食料援助に必要な食品の2倍近くになるという。

 飢餓に苦しむ人に目を向けず、大量に食品を廃棄することは、明らかに福音の光に逆らう行為である。その背後には、利益を最優先しようとする経済の仕組みと自分たちの楽しみ・豊かさだけに目を奪われてしまっている現代人の生き様がある。

 キリストが私たちに伝えようとするものは、それぞれの周りに生きている人への目覚めである。生きることの厳しさや辛さに堪えられず、叫びを上げて助けを求めている人々の存在に目覚めていくことの重要性である。

 というのは、キリストのメッセージの中心にある人間の幸せは、富によってもたらされるものではなく、人の心と心が響き合うことによってもたらされる幸せにあるからである。そこにこそ人間の究極に幸せがあると言う確信のもとに、キリストは、私たちが、自分の世界だけの幸せに呑み込まれることなく、他者と心を通わせ、その求めに駆け寄り、寄り添っていくことの重要性を、私たちに伝えようとしたのである。

 教皇は、現代世界の人々の心が、福音の心とは逆に、隣人には閉じられ、自らの幸せ、利益の追求だけに向けられてしまっている現状に心を痛め、それが、経済の仕組みと無関係でないことを見抜き、使徒的勧告を発表したのである。

 福音の光に逆らう論理に現代世界がすっかり蝕まれてしまっていることは、世界の所得格差の拡大からも明らかである。

 2014年の貧困撲滅に取り組む国際NGO「オックスファム(Oxfam)」の報告によると、世界の富の半数は、億万長者と呼ばれる1%の富裕者層が所持していおり、その差は縮まることはなく、年々拡大の方向にあるという。

 教皇は、この格差をもたらしたものは、資本主義経済の根底に働いている強者が弱者を食い尽くすような競争と適者生存の原理」であると喝破し、その論理の徹底が、格差の拡大をもたらし、貧しいものを相手にしない「排他の文化」を生みだし、「排他の文化」を育ててしまっていると指摘するのである。

 確かに、資本主義経済が浸透してしまった社会にあって弱肉強食の論理は、能力に恵まれてないものを、人々の営みの外に負いやってしまう冷酷な側面をもっているのである。

 たとえば、就職活動にあたっても、選ばれる者は、能力のある者である。能力のない者はその門前で拒まれ、就職しても役に立たない者は、窓際に追いやられていく。利益優先という旗の下に弱者を排除する論理が正当化されているのである。また職につくことが出来ない者は、収入を得ることが出来ない。収入の保障がなければ、生活設計も立てられない。また金のない者は、必要なものさえ手にいれることが出来ず、店頭でも相手にもされない。軽視されたり無視されたりして、最後は社会の営みからの排除されていくことになる。

 こうして世界は、教皇が心を痛めているような、多くの人々が、社会の底辺へ、隅へ、権利の行使が出来ないところへと追いやられるのではなく、社会の外に追い出されてしまう」現実になってしまうのである。

 使徒的勧告の中で、信者たちに、現代世界の営みの中に、福音的な愛の息吹を吹き込んでいくことを呼びかけたのである。

(2017.6.29記 森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)

 Dr.南杏子の「サイレント・ブレス日記」⑨ 二人の旅立ちに想う

 今年の梅雨は、雨の方が少し遅れてやってきた。

 そんな中で、涙を誘う二つの訃報が私たちの心をとらえて離さない。6月22日に乳癌で闘病中だった小林麻央さんが、さらに前週の13日には、肺腺癌を患っていた野際陽子さんが相次いで亡くなった。

 小林麻央さんは、癌と闘う日々をご自身のブログを通じて公開し、日本全国の癌患者やその家族を勇気づけてきた。23日に死去が報じられて以降は、お悔やみや感謝の思いを記した1万件以上のコメントの書き込みが集中し、翌日午前まで更新不能の状態が続いたとも伝えられた。

 <同じ癌になった者にとって励ましでした>。そうしたコメントであふれたブログは、日本人の2人に1人が癌になり、3人に1人が癌で亡くなる時代の状況を表しているとも言える。だからこそ、麻央さんの闘いぶりは多くの人にとって、希望の灯だった。

 麻央さんについては、私自身も想うところもある。

 公私ともに非常に忙しいスケジュールを送る中で麻央さんは、親しい方が入院された病院へ笑顔でお見舞いに訪れていた……。そんなエピソードを医療現場の知己から聞いたことがある。麻央さん自身が癌であることを公表する前の時期。だが、すでに主治医から癌の告知を受け、治療を始めていたのではないかと思われるタイミングでの出来事だ。

 周囲にいる者を救ってくれるような人――小林麻央さんという人は、そんな存在だったのではないだろうか。

 野際陽子さんは、最後まで現役だった。そしてご自身の病気については、寡黙だった。

 倉本聡さんが脚本を手がけ、テレビ朝日系で4月3日に放送がスタートした連続ドラマ『やすらぎの郷』の収録には、入院前日の5月7日まで参加したという。

番組収録の合間には、鼻にチューブをつけながらも毅然として演じきったと報じられている。亡くなった後に主要キャストを務めたテレビ番組が放送され、出演した映画『いつまた、君と』(6月24日公開)が封切られる。これはまた、多くのファンを魅了するプロの俳優として素晴らしい最晩年を飾ったと言える。

 小林麻央さんは享年34歳、野際陽子さんは同81歳。その年齢はもとより、癌という病との闘い方、家族や仕事、生涯はそれぞれに異なる。ただ、お二人とも、私たちに生と死の意味について考えさせてくれた忘れえぬ人であることは間違いない。

 お二人の人生には、奇妙な偶然もある。

 石川県出身で、立教大学からNHKにアナウンサーとして入局された野際陽子さん。かたや、新潟県出身で、上智大学を卒業後、日本テレビでキャスターとして活躍した小林麻央さん。ともに、日本海の香り豊かな地で生まれ、キリスト教の精神を伝える東京都心のキャンパスをさわやかに駆け抜け、放送局のスタジオで大きな花を咲かせたのだ。同じ6月に旅立たれ、まるで今年の梅雨空のように、悲しみの雨を後から連れてきたことを含めて、お二人の軌跡は私たちの心に重なり、これからも鮮やかな記憶として残るだろう。

(みなみきょうこ・医師、作家: 終末期医療のあり方を問う医療ミステリー『サイレント・ブレス』=幻冬舎=は5刷出来。5月24日発売の日本推理作家協会編『ザ・ベストミステリーズ2017』=講談社=に短編「ロングターム・サバイバー」が収録されました。アマゾンへのリンクは、https://www.amazon.co.jp/dp/4344029992?tag=gentoshap-22

2017年6月26日 | カテゴリー :

 Sr石野のバチカン放送今昔⑫教皇の言葉を聴いた日本の若者が「僕、医者になります」

 1970年中ごろから1980 年代初めにかけて日本では「BCLブーム」が起きていた。

 BCLとは、BROADCASTING LISTENING/LISTENERSの頭文字の略で、短波ラジオによる国際放送を聴くのを楽しむことだった。主に中学生や高校生を中心に若い男子の間に広がっていた。その頃の短波受信機は性能がよく、遠く外国からの電波もよく受信できたということで、多くの若者がこのブームに走った。たとえ受信機の性能は良くても、雑音の間からかすかに聞こえる日本語を聞き取るのは一種の冒険だったに違いない。

 当時、ヨーロッパからの日本語放送は、イギリスのBBC,ドイツのドイチェベレ、バチカン放送の三つだった。今は、BBCもドイチェベレも閉鎖され、バチカン放送だけが残っている。バチカン放送は一回15分という短い放送だったにもかかわらず、リスナーから月に1000通以上のレポートが寄せられていた。ベリ・カード欲しさに書いてくるものもあったが、番組に対する感想やリクエストを寄せてくるものもあった。ある日、次のような手紙が届いた。

 「僕は高校3年生です。これからの進路について迷っていました。どの道を行こうか。決心がつきかねていました。そんな時ラジオバチカンで教皇さまの話を聴きました。医者のグループに対するお話でした。それを聴きながら僕は医者の使命の重大さに感動し、医師になることを決めました。今から受験まで一生懸命、勉強して、医学部を受けます。そして良い医者になろう、と決心しました」。

 バチカンで語られた教皇さまのお言葉が遠い日本の、一人の青年の心に触れ、生涯の目標をつかむことができた。バチカン放送は、教皇の話を優先して放送する。日本語セクションでもそうだった。でも、「難しくて一般のリスナーには理解されにくいのではないか」という心配がいつも心の片隅にあった。

 ところが、そうではなかった。神の力は人間の力をはるかに超えるものだ。教皇はすべての人の父、教皇の教えは誰にでも通じることを再認識できた出来事だった。そして、私たちの働きは宣教だ、ということも。

 ( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2017年6月26日 | カテゴリー :

 三輪先生の国際関係論⑨ 地政学の今昔

 

 ドイツから地政学が日本の学界に流入したのは、まだヒトラーの現状打破が日常現象になる前のことであった。つまり侵略の御用学問視されるような状況下ではなかった。しかし日本の学者はそれを真剣に対応すべき学問の名に値するものとは捉えていなかったといえる。せいぜい床屋談義レベルの世間知に過ぎないと捉えていた節がある。その中で新しいものに知的刺激を敏感に感じる京都大学の教授がいた。東京では東大よりも、慶大の教授が速やかに反応した。

 ヒトラーが政権を掌握する頃には、京大では、ドイツ地政学の現状打破の侵略的傾向と一線を画すために、「皇道の地政学」などと天皇の徳治の学術的提言を目指すものとの位置づけがされた。

 そこに現実政治に満州事変という国際的に日本を孤立化させてしまう難題が関東軍の独走によって惹起した。その独走が満洲帝国の創設という暴走になった時、お鉢は東京帝国大学の教授に回ってきた。学術的弁明がきたいされたのである。

 政治学の教授、蝋山政道は、ドイツからたどり着いたばかりだった頃、地政学を胡散臭くかんじていたのだが、国際連盟で批判にさらされ、ついに脱退してしまった日本の救済に使ってみたらどうだろうと考えた。5カ年計画等で、日本の国防に脅威となりつつあるソ連に対処するのに、満州国という存在が肯定的に説明されなければならなかった。地政学の援用がそれを可能にするものと思われたのである。蝋山教授がどんな提言に達したものか、私は詳らかにしない。

 ただ判っている事は、太平洋戦争に敗れた日本で、占領軍に日本通の学者として意見を具申していたカナダ人外交官E.H.Normanは戦争協力をした学者の追放リストをつくるべく東京大学を調べたりしていた。

 そんな占領軍の動向に反応協力したのでもあろうか、プレスコードで、「大東亜共栄圏」「大東亜戦争」「八紘一宇」「英霊」のような、軍国主義や戦争を煽った言葉の使用を禁じたとき、東大教授で、「地政学」も止めようと提案した者があった。その結果、戦時中には旧制の高等学校のカリキュラムにまで正式に組み込まれていた「地政学」は、日本の高等教育の場から追放されてしまったのである。

 それは日本に限った事ではなく、本家本元のドイツではもっと徹底して抹殺されてしまったようである。私の講義を聞いていたドイツ語系スイス人の学生は、ハンブルクに行って、市内の図書館でハウスホーハーの地政学研究所のことを訊ねると、若い司書は「地政学」という言葉すら聞いたこともなく、「それってなんですか」と言ったそうである。

 日本の国会図書館の場合、占領軍が「地政学」を含み、軍国主義を煽った書籍類を「秘かに、パルプ化するべし」と極秘に通達してきた時、一応、従った振りはした。確かにカードファイルは除去され、閲覧する事は出来なかったが、占領が終結し、そして何年かたったころ、カードの撤去はそのままにしながら、蔵書を逐一記載した重厚な書籍として復活させた。

  その間に、私自身はアメリカはワシントンのジョージタウン大学に留学していた。学部の授業でも、地政学は政治学とか、国際関係論とか、近現代史のなかで触れられていた。平和を志向した日本は、地政学を侵略の学問として追放してしまったのである。その後プリンストン大学の大学院で学んだ時には、アメリカでは歴史科目の中に「軍事史」が含まれるのが当たり前、と知った。ヨーロッパ諸国でも、そうらしい。しかし日本では、軍事史を独立した科目として教えている大学はあったとしても、稀だろう。

 そんな次第で、欧米諸国とは異なった道をたどった日本の地政学は、ここへ来て、忽然と花形学問になったかに見える。

  それに関連して思い出すことがある。日本国際政治学会から派生したように、日本平和学会が発足していたが、何回目かの年次大会の折、理事会の若い学者に、大会の報告に平和が敗れて戦争になっていく過程を取り上げるものが無いのを訝って意見したことがある。戦争の原因を追究する研究を、平和構築の智恵の創出のためにしなければならないと、強く感じたからである。

 中東の歴史は紛争の歴史であり、三大一神教が誕生した地域である。聖書学者によると、旧約が出来た頃と、現代と、憎しみ、相互不信と報復、そして報復に対する報復、という紛争の連鎖は二千年前と変わりがない。彼らはこれを「原罪」のためとするのだろうか。日本人なら人間存在の「業」と言うのだろうか。

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)

 Sr岡のマリアの風⑫ 独り言…神学校の授業を終えて…

 2017年度の神学校での授業(マリア論)を終えて、ほっとしているのと同時に、主が望んでいることに、誠実に、単純に―自分の名誉とか利益とかを求めず―答えただろうかと、自問しているところだ。主イエスの母、マリアについて話すときは、いつも、そうだ。ある意味、自分自身の信仰と向き合うところから始まる。「あなた方のうちで一番の者になりたい者は、みなの僕(しもべ)となりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人の贖いとして、自分の命を与えるためである」(マコ10・44-45)というキリストの言葉を、わたしたちは何度聞いたことか、そして、何度口にしたことか―そして、それを何度、相手に(自分にではなく)要求したことか!-。でも、人間の本性―nature-は、弱い。それは、神学的理論というより、わたしたち自身が、経験をもって知っている。

 「学ぶ」という作業は、ひたすら忍耐を要求する。すぐに結果が出ない場合は、なおさらだ。「スピード・ラーニング」が魅力的なのは、わたしたちが、出来るだけ簡単に、手っ取り早く、知識を身につけたいからだ。パソコンやインターネットによって、以前、図書館に行き、本を捜し、頁をめくり、書き写し…と、ひじょうに時間のかかった一連の作業によるリサーチが、あっと言う間に出来るようになった。20年前、ローマで勉強していたとき、何かと「日本の人口は?国土の面積は?キリスト教徒の数は?…」と聞かれ、数字に弱いわたしは、手帳に書き留めて持ち歩いていたものだ。それが今は、インターネットで調べればすぐに答えが出てくる。

 そのような「学び方」に慣れている若い世代に、まず、「学ぶ」ことを教える。それは、「仕える」ことだと思っている。自分の満足を求めるのではなく、相手の善のために仕える。そして、その「善」は、たぶん、後になって分かる。

 マリア論の授業や講話を100人が聞いて、その中の1~2人が興味をもち、そこからさらに、生涯をかけてこの学問分野を深めたいと願ってくれればいい、と思っている。神学のどの分野でもそうであるように、マリア論も、それほど奥が深く、人生全部をかけても、知り尽くすことはないからだ。

 神学校で教え始めて、今年で11年目。マリア論を学んだ神学生たちのうち、何人くらいが、「面白い学問だ、もっと知りたい」と思っただろうか。時々、教え子が「ヘルプ・メール」をくれる。司牧の現場などで、マリアに関することで、どのように対応したらよいのか分からない時に。そういう時は、何を差し置いても、出来るだけ丁寧に返事を書くように心がけている。それが、わたしの「つとめ・仕えること」だと思うから。わたしの恩師、サルバトーレ・ペレッラ教授(神父)は、ひじょうに忙しい人であるが、わたしがマリア論に関して質問メールを出せば、ほとんど必ず、返事メールが来る。「神学者のつとめは、教会に奉仕すること。つねに、教会に忠実であるように」とは、ペレッラ教授が繰り返しわたしに叩き込んでくれたことだ。「わたしが…」ではなく、「教会」、「神の民」に仕えること。教会が、この世での、キリストの救いの「現場」となるように。

 毎年、神学校での短い講義のために、わたしなりに全力をかける。将来の司祭たちを通して、教会に仕えたい、という、わたしなりの理解だ。

 「仕える」こと、完全に他者のために尽くすことは、難しい。でも、それこそ、主イエス・キリストがわたしのために、わたしたちのためにしてくださったことだ。母マリアは、わが子の、その心を、自分の心としていった。「わたしは主のはしためです」と潔く宣言するマリアが、わたしは、本当に好きだ。この学問を学ぶことが出来たことに感謝しつつ…。

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2017年6月26日 | カテゴリー :

 漆原JLMM事務局長の「ともに生きるヒント」 ⑧「貧しい人のための選択を超えて」

 

 大学生時代の後半、私はIMCS-国際カトリック学生連盟アジアのメンバーとして、アジア各国のカトリック学生と出会い、各国のプログラムや会議に参加したり、合同で企画したりする機会に恵まれました。同じカトリック教会であっても、国が違えば活動がこんなに違うものかと大きなカルチャーショックを受けました。

 その時出会った言葉に「Option for the poor(貧しい人のための選択)」があります。香港では学生たちが港の貧しい船上生活者の家族を訪ね、ベトナム難民キャンプの生活改善のためのアピールを街頭で行い、韓国やタイでも農村の生活困窮の家族や施設を訪ねたりする支援活動をあたりまえのように行っていました。私がそれまで体験してきた日本のカトリック学生の活動は、教会内部での交流が中心だったので、大いに刺激を受けました。教会の使命や役割として貧しい人のための選択、行動があるということを学びました。

 カンボジアやフィリピン、タイの農村の教会を訪ねると、教会の中の活動と共に常に地域の社会活動があり、教会の「貧しい人への選択」というものを具体的に感じることができます。

 その中心には比較的裕福な人がいて、活発に活動しているカトリック学生たちも国の状況からすれば大学まで進学できる余裕のある世帯の子どもといえます。

 基本的には「裕福な人たちが貧しい人たちを見つけ、助ける」という姿勢、あり方なのであり、支援する側とされる側の間には明らかな立場の違いがあり、「別のものなのだ」という前提があるようです。こうしたあり方はこれまでの日本のみならずアジアの教会のスタンダードであり、いまだに推奨されているあり方のようにも見えます。

 ところで、このようなあり方、関係性というものには、どこか居心地の悪い感じもあって、「ともに生きる」ためにはもう一歩、姿勢や関わり方を変え、教会自体もまた、変わっていくことが求められているのではないか、と思います。

 教皇フランシスコは使徒的勧告「福音の喜び」の中で、「貧しい人を優先し選択する」という教会の伝統を強調しながらも、私たち教会自体が貧しくあれ、と述べています。「貧しい人のため、教会は貧しくあってほしいと思います」と。そして「私たちは皆、彼らから福音化されなければなりません」と続けています。

 これは私たちの姿勢、あり方に根本的な変革を求めるメッセージです。これまで、自分や教会の領域の「外」にある貧しい人々との関わりだったものを、自分の領域の「中」に、しかも隅の方ではなく「歩みの中心に置く」という全く違うアプローチを求めています。

 「ともに生きる」ということは人と人との何らかの関係性から始まるけれど、どこかの段階でその関係性を超えたときに実現するのかもしれないな、と思います。そのためにはまず、自分自身が変わることが求められているのだと感じます。

 (2017.6.25 JLMM 漆原比呂志 )

*JLMM は日本カトリック司教協議会公認団体、国際協力NGOセンター(JANIC)正会員で、主にアジア・太平洋地域にレイミッショナリー(信徒宣教者)を派遣しています。派遣されるレイミッショナリーは、派遣地において関わる人々とともに喜びや悲しみを分かち合い、地域の人々に向けたこどもの教育、衛生教育、栄養改善、女性の自立支援などの活動を実施しています。1982年の設立以降、アジア・太平洋、アフリカ諸国16か国に100名以上のレイミッショナリーを派遣されました。現在はカンボジアと東ティモールに3名を派遣しています。

 JLMMでは毎年、派遣候補者を募集しています。賛助会員としてのご支援やご寄付をお願いいたします。またカンボジアスタディツアーやチャリティコンサートの企画、活動報告会やカンボジアハンディクラフト販売にご協力いただけるグループや教会を募集しております。事務局(jlmm@jade.dti.ne.jp)までお問い合わせください。

 三輪先生の国際関係論 ⑧イラク―歴史に学んだ楽観主義の失敗

 「失敗は成功の母」というが、近頃は「失敗に学べ」とよく聞く。『文芸春秋』6月号の目玉も「朝鮮危機・太平洋戦争の失敗に学べ」である。朝鮮問題を離れて、単に「太平洋戦争に学べ」というのであれば、教訓というか選択肢は二つある。「戦争は馬鹿馬鹿しい、戦争はするな」、「今度するなら勝ち戦をしろ」である。

 つまり歴史の教訓はポジティブに学ぶか、ネガティブに学ぶか、二通りある。その上、歴史的事実を正確に認識した上での判断か、不正確な認識の下での決断かで、結果は月とスッポンだろう。二代目ブッシュ大統領はサダム・フセイン討伐に向かった時、米軍の日本占領統治の成果を誤って認識していた。

 わずか数年の占領統治でアメリカ文明の金科玉条である民主主義と自由主義を受け入れ、非キリスト教圏ではじめて日本で起ったアメリカ文明化を、一時も例外的とか特殊例である、とか考えたようすが無い。単純に、アメリカ文明の絶対的優位性ゆえに、普遍的適用性があるもの、と一点の疑いも抱かなかったようである。

 日本の軍国主義を倒したように、サダムの独裁を倒しさえすれば、アメリカ軍の占領統治の下で、日本で起ったと同じことが起り、イラクに、政治的には民主主義が、経済活動では自由主義が確立するはずだ、と信じていたとしか思えない。

 実際、ブッシュ自身ではなかったが、ニューヨークタイムズだったか英字新聞に、日本で起こったことが、イラクでも必ず起こる筈だ、とする見通しを、政治評論家かなにかが書いていた。多くのアメリカ人は同意見だったのだろう。そうしてブッシュ大統領の決断に賛同し、サダム・フセイン追放の戦争を支持したのだろう。

 だが日本のようには行かなかった。どこがどう違っていたのか。

 太平洋戦争にいたるまでの一年か半年の間、日本の思想界は「近代の超克」論で湧いていた。そしてその「近代」とは、日本の「アメリカニゼイション」の謂いであった。つまり日本はあまりにもハリウッド映画に代表されるアメリカの軽佻浮薄な物質文明に毒されている、というのであった。

 軍国主義の直接の敵であった。しかし、太平洋戦争の結果は、日本の敗北、であった。物質だけに負けたわけではない、日本に「大和魂」あれば、アメリカにはピューリタン以来の「ヤンキー魂」があり、アメリカ大陸を東海岸地域から西へ西へと進んだ「開拓者魂」があったのである。それを「天命」と考える強固な精神があったのである。

 占領軍総司令官マッカーサー元帥は、占領開始に当り、個々の将兵の胸にしっかりと刻み込まれる訓辞をした。「ここに偉大な使命がある。諸子の天命は戦いに敗れ、信ずるものを失った日本国民にアメリカ文明の誉れを伝達する事である・・・」

 日本国民にしてみれば、占領軍は軍国主義を追い払い、大正時代に栄えた豊な日常的なアメリカ文明への回帰であった。そこにたくまずして、占領政策への自発的、積極的協力者、いわゆるコラボレイショニストを排出することになったのである。言い換えれば、戦前にアメリカ文明化した日本社会があって、占領政策はその土壌の上に、花開き、いくつかの恒久的な実を結んだのである。

 イラクではサダムの銅像は巨大な台座から引き摺り降ろされた。それは世界に向けてサダムの独裁体制の終焉を告げる、ドラマチックなニュース映像にはなったが、日本で起ったような文明の変革を示すものとはならなかったのである。

(2017.6・3記)(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)

 理想の新校舎、修道院は閉鎖・司祭の減少の深刻さ目の当たりに+反響

 

 久しぶりに神奈川県の大船にあるイエズス会経営の母校に出かけてみた。横浜で開かれる山岳部のOB会の総会には毎年出席して旧交を温めているが、母校には十数年ぶりだった。目的は、オリンピックスタジアムの設計者としてすっかり有名人になった卒業生の隈研吾氏が設計を監修した新校舎の見学と講演を聴くこと。

 「建築家は理念が先に立って頭でっかちになりがち。それは日本社会にも言える。戦後の高度成長の中で都市化し、自然とのつながりを忘れて、頭でっかちになってしまった。頭でっかちでない、自然とのつながりを取り戻す建築。木や竹など自然素材を、加工が必要な場合も、大工場でなく、どんな田舎の作業場でもできるようなやさしい技術を使って、設計・建築をするように心がけている」という隈氏の話や、実際に数社のコンペを勝ち抜いて新校舎を設計・監理した卒業生で日本設計の担当者の説明を聴き、彼らの案内で新校舎の内外を見て回った。

 「二階建て、木造と鉄筋コンクリートのハイブリッド構造、大地に近く自然に開かれた構造は、緑に囲まれた広大な立地と見事にマッチング。これからの時代、子どもたちが学ぶための理想の環境を追求した『みらいの学校』」と同校のホームページで説明された新校舎。太平洋戦争の終戦直後、横須賀-長浦湾の旧海軍・潜水艦基地の‶廃墟〟を改造し、冬は寒風吹きすさび、暖房なし、冷房なしの校舎で学んだ卒業生としては、まさに天国、理想の校舎のように思われた。

  だが、新校舎の向かい、見上げる形で小高い丘の上に立つ修道院の建物に案内され、入り口に「立ち入り禁止」の張り紙を見て、その感動は一変した。

 高校三年の時に横須賀の先々代の校舎から大船に引っ越し、最初の卒業生となった私たちの時代には、40代、50代のイエズス会士の司祭が10人近くもいて英語、理科、倫理などを教え、修道院は彼らの祈りの場であり宿舎。親しい司祭に会いに、この真新しい4階建ての建物をよく訪れた。その白く聳える修道院は、生徒たちを導く灯台のように思われたものだ。

 案内してくれた後輩によれば、数年前以前から修道院に住む司祭がゼロになり、新校舎建築中は建築・管理の関係者の事務所に使っていたが、完成後は、誰も使っていない。現在の建築基準による耐震構造になっていないのでそのままゲストハウスなどにも使えず、全面的に建て替えようとしても、修道院の敷地は修道会の所有で、学校法人所有の校舎の敷地とは別。出口が公道につながっていないため、建築許可が下りないのだ、という。

 日本を含む先進国では、カトリック司祭が減少を続けており、修道会も例外ではない。イエズス会は、この学校を含めて、日本全国に四つの中高一貫校を経営している。これまでそれぞれに修道院を置き、別法人の理事会を置いて独立経営の形をとってきたが、理事長を務めるべき司祭はいなくなり、修道院は閉鎖。経営も昨年春から、上智大学を経営する学校法人の上智学院に統合を余儀なくされたのだ。そのことは、頭では分かっていたのだが、実際に、修道院の入り口の「立ち入り禁止」を見て、問題の深刻さを肌で知る思いだった。

 同校のホームページにはこうある。「1549年にフランシスコ・ザビエルが日本に蒔いた種は各地で成長していき、16世紀の後半には日本で最初のイエズス会学校が長崎や安土に誕生します。その後キリスト教は弾圧され、『日本にイエズス会学校を』というザビエルたちの願いは300年以上も姿を隠していましたが、その間もまるで地下水脈のように流れ続けていました。1947年の栄光学園の誕生は、ザビエルたちのそうした願いが、再び形として地表にあらわれてきたものです。そして2017年。栄光学園は創立70周年を迎え、ザビエルたちの思いがさらに新しい実を結びます。それが、この新校舎です。この新校舎は、イエズス会教育の理念、21世紀という時代の要請、さらに栄光学園を愛する多くの方々の思いが重なったところに誕生します」。

  理想の新校舎は出来上がった。だが、その中身、肝心の「ザビエルの信仰、思い」を伝える教育は、これからどうなるのだろうか。「思い」は本当に新しい実を結ぶのだろうか。

 半世紀前、卒業を前にして、私に洗礼を授けて下さった司祭に問いかけたことがあった。「この学校は、強い信仰、『他者のために』という強い思いを持ち、社会の底辺を含めてさまざまな場でリーダーとなる人材を育てるところであるはずです。お金持ちの坊やを一流大学に入れることを誇りとするような学校なら、作った意味があるのでしょうか」と。困った顔をした司祭からは、納得いく答えはもらえなかった。だが、今やそのような‶青臭い〟議論を吹っ掛ける相手さえいなくなっているのだ。

 「みらいの学校」をうたい文句にする新校舎を見下ろし、改修もできず、建て替えの展望もなくたたずむ‶元〟修道院の建物。カトリック学校に関わる本質的な問題を象徴しているように思われる。

 (「カトリック・あい」南條俊二)・・・新校舎のカラーグラフは6月15日発売の「週刊新潮」6月22日号に掲載されています。

(閲覧者からの感想)

 この学校を卒業した者として、非常に残念なことですが、卒業生でもなく、信徒でもないような校長が指導する栄光学園には既にその「存在理由」がない、と思っています。新校舎の建設資金の呼びかけには寄付をしませんでした。その後、偶々卒業生が設計することになりましたが、単純なコンペでの選出方法は思想が無く、失望の限りでした。建設一般には興味があるので、どのような新校舎が建ったのかには興味がありますが、未だ新校舎を見ていません。しかし、設計に其れなりの思想と主張があるとのことで、その点は買えます。(横浜在住・X.Y.)

 

 森司教のことば ⑪「資本主義経済のシステム」に警鐘を鳴らす教皇

    教皇フランシスコは、現代世界の隅々にまで浸透し、人々の心に深く入り込んで人々の日常をすっかり支配してしまっている経済のありように、厳しい警鐘を鳴らしている。使徒的勧告『福音の喜び』の中で、次のように記している。

  「『汝、殺すなかれ』という戒めが、人の生命の価値を保護するために明確な制限を設けるように、今日においては『排他性と格差のある経済を拒否せよ』と言わざるをえない。この経済は、人を殺します。」(福音の喜び、53、邦訳56ページ、傍線筆者)と。

   使徒的勧告とは、全世界のカトリック信者に向けた教皇の指導書簡である。その中で、教皇は「この経済は、人を殺します」とまで断言してしまっているのである。カトリック教会の責任者としての教皇の言葉には、それなりに重さがある。教皇は、一体、何を根拠にし、どのような視点から、『この経済が、人を殺す』とまで断言しているのだろうか。その真意を慎重に確かめてみる必要がある。

    教皇の言葉とはいえ、「この経済は人を殺す」という教皇の言葉に素直に共感し、そのまま相槌を打つことができる者は、カトリック信者の中にどれほどいるのか、正直なところ、私には疑問である。というのは、大半の人は、現代社会の経済の仕組みにどっぷりと浸り、その恩恵にあずかって生活を楽しんでいるからである。

   たとえば、サラリーマンたち。彼らは、日々黙々と職場に通い、それで給料をもらって家族を支え、幸せな生活を築こうと懸命に生きている。彼らの多くは、経済の仕組みがその内にさまざまな矛盾や欠陥を抱えていることを薄々感じてはいても、教皇が指摘しているように『人を殺す』仕組みにまでなってしまっているとは、夢にも思っていないだろう。

 というのは、資本主義経済が登場してからの歴史を振り返ってみるとき、表面的にはマイナス面よりも、人々の生活を向上させてきた、というプラス面の方が目につくからである。

 しかし、教皇は、資本主義を根底で支える論理の中に、一人ひとりの人間へ敬意とあたたかな眼差しの欠如がもたらした悲惨な現実を直視して、教皇は『この経済は人を殺す』と、警鐘を鳴らしたのではないかと思われる。

 資本主義経済の原動力は、利益を上げることへの飽くなき欲望である。経営者の心の根底には、能力に恵まれてない者、役に立たない者は、相手にしない、無視し、排除してしまう冷酷な論理が生きている、ということである。

 貨幣経済が徹底した社会にあって、職につけなかったり、職を失ったりして収入の道を閉ざされた者にとっては、死活問題になる。食べていけない、生活していけない、人生設計を立てられないことにつながってしまう。

 能力に恵まれている者や富みに恵まれている者が、ますます豊かになり、そうでない者が、ますます底辺に追いやられて、経済格差、教育格差などが拡大していく世界の現実をみて、教皇は、次ようにも語っている。

 「現代ではすべてのことが、強者が弱者を食い尽くすような競争社会と適者生存のもとにあります。この結果として、人口の大部分が、仕事もなく、先に見通しも立たず、出口の見えない状態で排除され、隅に追いやられるのです。そこでは、人間自身もまた使い捨ての出来る商品同様に思われています。(中略)もはや単なる搾取や抑圧の現象ではない、新たなことが起きています。(中略)社会の底辺へ、隅へ、権利の行使できないところに追いやられるのではなく、社会の外に追い出されてしまうのです」。(福音の喜び 53、邦訳56ページ)

 また教皇は、飽くことなき利潤の追求に明け暮れる経営者たちの問題点を、次のように記しているのである、

 『他者の叫びに対して共感出来なくなり、他者の悲劇を前にしてもはや涙を流すこともなく、他者に関心を示すこともなくなってしまってしまいます。 (中略)可能性を奪われたことで先の見えない人々の生活は、ただの風景、自分の心を動かすことのないものとなってしまうのです』(福音の喜び54,邦訳57ページ)

 使徒的書簡『福音の喜び』から伝わってくるのは、教皇の、人間一人ひとりを守ろうとする真摯な心である。教皇は、資本主義経済のシステムに、人間一人ひとりへの敬意とあたたかな心が吹き込まれていくことを求めているように、私には思えるのである。

(2017.5.30記  森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)

2017年5月30日 | カテゴリー :

 三輪先生の国際関係論 ⑦子供のチャンバラ合戦で「マチオコシ」

     何処の街か知らない、子供のチャンバラ合戦で「マチオコシ」だという。ビニールの風船式の「刀」で運動会かなにかのように雄叫びをあげてたたかっていた。朝食のテーブルに着こうとした一瞬のテレビ画面であった。しかし私には深刻な想いを湧き立たせた。「平和」はこうして「崩れ」ていくのだと。

 太平洋戦争、当時は「大東亜戦争」が正式名称だったのだが、開戦と相前後して、学界には日本拓殖学会(日本植民学会といったかもしれない)、日本地政学会が生まれた。戦後日本国際政治学会へと発展的に解散再編された。政府の御用学会風な成り立ちは解消したと言ってよい。このメジャーな学界の異母兄弟のように日本平和学会が発足したのは、かなり後の事だったのではなかろうか。

   この学会そのものの大会ではなかったと思う。一部会かなにかの小規模な集会でのことだったと記憶する。場所は東京の三光町の聖心女子学院の講堂であったか、女性会員U氏が演壇からこう訴えた。「人間の闘争本能を駆り立てるスポーツは止めましょう。」平和の精神を醸成するのには、サッカーのようなスポーツは邪魔になるというのだ。

    そう、占領軍は復讐心をあおる「仇討もの」として恒例の歌舞伎の出し物「忠臣蔵」の興行を禁じたと。いや「禁じた」のではなく忖度した結果だったかもしれない。学校教育の中の、武道は廃止された。これも忖度であったか。はっきりしていることは、当時中学3年生だった柔道部員の私にも、いわゆる「終戦初段」と言う賤称で知られる免許が弘道館から正式に伝達されたのである。正式の免許状が私の手元に残っている。

 それから幾星霜、現政権の安倍晋三総理は、憲法改正の日程を、2020年には発効させるべく進めていると聞く。核心にある平和条項に、自衛隊を正規軍と位置づける文言を書き込むそうである。

   相呼応する如くに、肉体相打つ子供のチャンバラ戦でマチオコシを盛り上げようとしている自治体のニュースがテレビから朝の食卓にながれてくるのである。

(2017.5.30記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)

 Sr岡のマリアの風通信⑪独り言…大雨の中、聖母をたたえて…

 もう何年になるだろうか…修道会が母体となった、社会福祉法人の施設-心身障がい者施設―の中で働くシスターが少なくなってきて、聖母賛美をすることが難しくなった。…そうか、なら、本部修道院のシスターたちの方から、法人事務所、四つの施設を訪問して、「お出かけ聖母賛美」をしてみよう。つまり、「聖母行列」と言っても、車いすの利用者、同伴する職員たちは実際には行列が出来ないので、シスターたちが回って、賛美を「つなげていく」というイメージ。え~っ、無理じゃない?だいたい、職員たち(ほとんどキリスト教信者ではない)が乗って来ないでしょう~。と言われる中、いいです、いいです、「わたしたち、シスターたちが」、まず、マリアさまを賛美したいのだから。ちゃんと計画表とプログラム、なぜそのような行事をするのか、何を準備してほしいのか、を前もって法人事務局に出しますから…。ということで、この、「手作り賛美」、シスターたちの「お出かけ賛美」が始まった。

 やり方はシンプル。シスターたちが賛美を歌いながら行列して、各施設を回る。それぞれの場所で、一緒に聖母への賛歌を歌い、神のみことば(聖書)を聞き、聖母像(または聖母子像)に戴冠し、利用者、職員、家族の方々を、聖母の母のご保護に委ねて祈り、最後は父である神さまに、聖母とともに感謝を捧げて祈る。聖書の箇所、結びの祈りは、年間を通して祝われる聖母の祝日の典礼の中から、それぞれの場所で異なる箇所を選る。全部の場所を回るシスターたちには、出発点の法人事務所から、終着点のむつみの家の施設までで、聖母に関する、大切な聖書の箇所をすべて聞くことになる。

 聖書朗読と、聖母像への戴冠は、それぞれの施設の職員に任せる。朗読箇所を前もって知らせ、また、戴冠のやり方について簡単な説明をしておく。大事な瞬間なので、必ず練習をしてください。皆が見守る中で行われるので、聖母像の前からではなく、後ろか横から行ってください、と。

 第一回目、ふたを開けてみると…何と、わたしたちでさえ予想をしていなかった、職員、利用者の方たちの「乗り方」!それぞれの施設の聖母像に、その施設の職員たちが、沈黙の中で「戴冠」する、荘厳な瞬間は、みなが息をのみ、シスターたちの中には感動して涙を流す人も…。それくらい、職員の方たちが心を入れて準備したのだ。

 こうして、毎年、5月の聖母月と、10月のロザリオの聖母の月の二回、合同聖母賛美を行うことになった。

 そして、今年、2017年の5月。その日は、初めて雨が、しかも、雷を伴う「大雨」が降った。施設から、聖母賛美、どうするんですか~?と不安げな電話も。だいじょうぶ。もちろん、行います!施設の外にある聖母像の前では行えないので、プログラムにも書いておいたように、施設内に聖母賛美の場所を用意してください!朝食の時、シスターたちに言った。みなさん、大雨の中、マリアさまへの感謝、賛美、喜びを運びましょう!

 14時前、修道院玄関に、傘、雨がっぱ、長靴で完全装備したシスターたちが集まった。皆で十字架のしるしを切り、ロザリオを唱えながら、最初の目的地、法人事務所に向けて出発。雨に負けじと、大声で賛歌を歌いながら歩く。不思議と、誰も文句を言わない。びしょ濡れになりながらも、喜んで歩く。今までにない経験もした。ある施設に着くと、大雨の中に現れたシスターたちを見て、思わず利用者の方々が拍手で迎えてくれる。ある施設では、わたしたちが入り口の端に脱いだ長靴を、職員の方々が、中央にきれいに並べてくださった。行列の全行程に参加したシスターたちは、一時間半、ほとんど「歌いっぱなし」。それでも、何と幸せだったことか!

 この「幸せ」の秘密は…わたしたちの思い通りにならなかったこと(大雨!)を、みなで心を一つにして、安らかに受け入れて、利用者、職員の方々を喜ばせるために、出来る限りのことをした。まったく、自分たちの好み、プロジェクトから「脱出」し、人々の喜びのために、自分の時間を差し出した。だから…神さまは喜んで、わたしたちのささげものを受け入れてくださった。神さまの懐で、わたしたちのお母さん、マリアさまも喜んでくださった。だから、幸せだった。

 最後の施設で賛美が終わると、びしょ濡れのわたしたちに、職員の方々が、飲み物とアイスクリームを用意してくださった。天の糧と、地の糧に養われて…Deo Gratias(神に感謝)!

 

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2017年5月28日 | カテゴリー :

 菊地功・新潟司教の日記 ⑫新しい5人の枢機卿任命

 先週は国際カリタスの会議でバチカンにいました。いろんな人と出会って話をする中で、教皇さまは次に「いつ」、枢機卿を任命するだろうか、というトピックで、少し盛り上がりました。ご存じのように教皇選挙権を持つのは80歳未満の枢機卿で、その人数は120名と定められています。

 教皇フランシスコは、様々に改革を進めているので、「この人数を150名に拡大するのではないか」といった類いの噂もありました。120名というのは、パウロ6世によって定められた人数です。しかし、先日教皇さまと直接話したある関係者によれば、教皇さまは「任命したい人はまだ多いが、定員があるから」と言明し、この120名枠は今のところ変更しない方針を示唆されたそうです。というわけで、この話をしていた時、80歳未満の枢機卿は116名。そのため「今年は新たな枢機卿の任命はないのではないか、早くても来年の2月ではないか」というあたりで、話は終わっていました。

 ところが、会議が終わってローマからトルコ航空に乗り、イスタンブールを経由して21日の日曜夜に成田空港へ到着し、携帯の電源を入れると、なんと、その数分前に、教皇さまが日曜日のレジナ・チェリの祈りの後に、新しい枢機卿の任命を発表されていたのです。

 以前のバチカンの他の会議で、ニュージーランドの枢機卿が「自分が枢機卿に任命されたこと知ったのは、友人から突然、『おめでとうメール』が来たからだった。それまではまったく知らなかった」と語っていましたが、今回任命された方々も、さぞ驚かれたことでしょう。

 というわけで、このたび5名の方が、枢機卿に任命され、親任式は6月28日に行われることになりました。

 5人のうち、ロサ・チャベス司教は、カリタスエルサルバドルの責任者で、以前はカリタスラテンアメリカの総裁を務められていました。彼は、昨年福者に上げられたオスカル・ロメロ大司教の協働者で、ロメロ大司教の列福運動で大きな役割を果たした一人です。首都サンサルバドルの司教であった福者ロメロ大司教が、ミサを捧げている最中に暗殺され殉教を遂げた後に、ロサ・チャベス司教は同教区の補佐司教に任命され、現在に至っています。ロメロ大司教の殉教は1980年3月24日。ロサ・チャベス司教が補佐司教に任命されたのは1982年2月です。

 何度もカリタスの理事会で一緒になりました。会議で一緒になったときのイメージは「正義のためのファイター」です。ロメロ大司教に倣って、恐れることなく、常に正しい道を押し進んでいくファイターです。

 教皇フランシスコは、今回もそうですが、これまで枢機卿のいなかった国や、従来の慣例にとらわれずに、人物本位で枢機卿を任命されます。今回も、アフリカのマリや、アジアではラオスの司教が任命されました。スエーデンに至っては、この国に1人しかいない司教です。カルメル会士で、研修会で三度ほど一緒になったことがありますが、とても心優しい方です。いずれにしろ、そうした教皇フランシスコの方針からすれば、サンサルバドル教区の補佐司教を枢機卿に任命したのは、やはり、「福者ロメロ大司教のような生き方を、教皇様が現代社会に模範として示したい」と願われているからではないでしょうか。(2017.5.24記)

(菊地功=きくち・いさお=新潟教区司教、カリタス・ジャパン責任者)

 萩巡礼・禁教令下でキリシタンを寺にかくまった僧侶がいた!

 

(この須弥壇の裏の床下に、秘密のキリシタン祈りの場があった=萩・報恩寺で、難波住職)

 所属している東京郊外のカトリック小金井教会で有志による巡礼を始めて今年で18年目、日本で最後の殉教となった「浦上四番崩れ」の始まりから150年ということで〝流刑地〟となった津和野・萩を中心にした巡礼を、5月なかばに行った。

 禁教令を引き継いだ明治政府によって迫害され、転向を迫られながら、命を懸けて信仰を守り通し、信教の自由を勝ち取った人々が幽閉された乙女峠のその場所に立つなどして、大いに心が動かされたのだが、とくに印象深かったのが、萩の報恩寺という寺院を訪れた時だ。

 江戸幕府の禁教令のもとで、厳しい摘発、迫害をのがれて信仰の灯をともし続けたキリシタンに、この寺の住職が祈りの場所を提供していた、というのだ。案内してくださったのは、カトリック萩教会主任司祭でイエズス会士の恩地誠師。この寺の現在の住職、難波俊明師のご母堂が本堂改築の際、須弥壇の裏の床下の空間で片づけをしていて、偶然落ちてきたのが手の中に入るほどの金属の折り畳み式の板。中央にキリスト、右に六人の使徒と思われる像が彫り込んであった。

 この話を恩地師が、萩で定期的に行われている宗教間対話の場で、難波師から聞き、現地を調べ、その空間がキリシタンの集会の場、祈りの場として使われていたことを確認した。現在、友人のイエズス会士で上智大学史学科教授の川村信三師の協力を得て、調査を続けているというが、寺の裏の浜から畑を通って、この空間に入ることのできる秘密の入り口も本堂の裏側に見つかっている。報恩寺には、えらいお坊さんがいて、キリシタンを匿い、彼らが祈りを唱えている間は、自分もお経を大声で唱えて、外部にキリシタンがいることを知られないようにしていた、という言い伝えも残っているという。のちのちの関係者に危害が及ぶのを避けようとしたためか、いつ、誰が、どのような動機から、このようなことをしたのか、を示す記録や文書は今のところ見つかっていない。だが、いずれにしても、自らの命の危険をも顧みず、キリシタンの人たちにひそかに祈りの場所を提供した僧侶がいたのは、確かだ。

 織田信長の時代に地方領主も含めて西欧との貿易などに魅力を感じた時の支配者がキリスト教の布教を認め、その後ろ盾を得た宣教師や信徒の中に、仏教寺院を破壊したり、僧侶に危害を加えたりした者がおり、後に豊臣秀吉の時代に禁教令が発布され、キリシタン弾圧が始まるとともに、今度は僧侶や仏教信徒がキリシタンに意趣返しをした、というのは、歴史的事実として知っている。

 しかし、僧侶の中に、キリシタンを保護し、助けた者がいた、というのは、これまで聞いたことがなく、強い衝撃を受けた。彼、いや彼らは、自らを存在させている大きな力に向き合っているということにキリシタンと共感し、ひたむきな信仰心に心を打たれ、危険な橋を渡りつつ、彼らを受け入れたのではなかったか。

 小著書「なぜ『神』なのですか‐聖書のキーワードのルーツを求めて」(燦葉出版社刊)の中で、私は、チベット仏教の最高指導者、ダライラマ14世の言葉を引用して、キリスト教のいわゆる「神」を「宇宙、人間の存在の究極的な基底、と理解すると、仏教の考え方や修行との共通点があらわになってくる」と強調したのだが、この僧侶、あるいは僧侶たちには、これと通底する認識、あるいは信仰があったのではないだろうか。・・巡礼を終えた今、一段と感慨を深くしている。

(「カトリック・あい」南條俊二)

2017年5月26日

 漆原JLMM事務局長・共に生きるヒント⑦「ともに踊れば 」  

 先日の5月15日は東ティモール独立15周年記念日でした。

 私はその日、東京・四ツ谷で開催されていた「東ティモールフェスタ2017」で、東ティモール留学生やティモールで活動するNGOの人々と一緒に、ティモールのダンス「テベテベ」を踊っていました。手をつなぎ輪になってまわる、とてもシンプルで明るいダンスです。楽しく踊り続けながら、ティモールの学生たちや長年ティモールと関わってきた人たちの笑顔を眺めていると、じわりと何か特別な思いがこみ上げてきました。

 「こうして楽しく踊れるってことは、実は、あたりまえのことじゃなかった。15年前の主権回復のさらに3年前までは、インドネシア支配下に置かれていたティモールでも、たとえ日本であっても、こんな風に、公の場でティモールの踊りを、堂々と楽しく踊れるなんて、あり得なかった」ということ。

 1999年、まだ東ティモールが騒然としていた頃、現地で出会ったひとりの日本人神父が私に言いました。「ここでは今何もできないが、とにかくここにいることに意味がある。私たち外国人がここにいるだけで、暴力や略奪の抑止力になるから。たくさんの外国人の眼があることが大事なんだ!」

 なるほど、ただここに存在しているというだけでも何かの役に立つこともあるんだな、と教えられました。しかしその後、独立か否かを問う住民投票の前後、東ティモール全土では併合派の民兵たちによってほとんどの建物が焼かれ、大勢の人びとが殺され、大混乱となりました。

 主権回復の直ぐ後には、私たちが保健教育を行ってきたティモール島の北部のコムという地域で、コミュニティヘルスワーカー(村の保健ボランティア)の研修修了式があり、参加しました。修了式の後は地元の人々と賑やかなパーティーだったのですが、参加してびっくりしました。ほとんど休むことなく、明け方までひたすら一緒に踊るのです。海岸線にある集落だったので、私も砂浜で時々仮眠をとりながら、朝までおつきあいさせてもらいました。

 このパワーはどこから来るのか・・・。くたくたになりながら考えました。

 やはり、それまで24年間にわたるインドネシアの支配のもとで、傷つけられ苦しめられてきた経験、多くの人たちが森の中に隠れ、怯えながら不安の中で暮らしてきた、という背景があるのだと感じました。みんなで大地を踏みしめる伝統的なダンス「テベテベ」に、ひときわ大きく深い意味合いが、自由を取り戻しあふれ出る喜びが表現されているのだと思いました。

 そこにいること、ともに手をつなぎ踊っていること・・・。ただそれだけのことが、そこで交わる人とほんのわずかでも苦しみや喜びを分かち合う時間につながっているのだと感じることができました。

(JLMM 漆原比呂志 2017年5月25日)

*JLMM は日本カトリック司教協議会公認団体、国際協力NGOセンター(JANIC)正会員で、主にアジア・太平洋地域にレイミッショナリー(信徒宣教者)を派遣しています。派遣されるレイミッショナリーは、派遣地において関わる人々とともに喜びや悲しみを分かち合い、地域の人々に向けたこどもの教育、衛生教育、栄養改善、女性の自立支援などの活動を実施しています。1982年の設立以降、アジア・太平洋、アフリカ諸国16か国に100名以上のレイミッショナリーを派遣されました。現在はカンボジアと東ティモールに3名を派遣しています。

 JLMMでは毎年、派遣候補者を募集しています。賛助会員としてのご支援やご寄付をお願いいたします。またカンボジアスタディツアーやチャリティコンサートの企画、活動報告会やカンボジアハンディクラフト販売にご協力いただけるグループや教会を募集しております。事務局(jlmm@jade.dti.ne.jp)までお問い合わせください。

 Sr石野のバチカン放送今昔 ⑪教皇狙撃事件

 

 「教皇が撃たれた!」階段を二段跳びに勢いよく昇ってきた一人のミキサーが、すれ違いざまに吐き出すように言った。

 「えっ!」顔を見合わせたわたしたち二人に言葉はなかった。特別放送室では二人の神父が二か国語で事件を速報している。だが、未だ詳細は分からない。事件の全体像をつかむことも出来ず、断片的なニュースの提供にすぎない。

でも、「教皇暗殺未遂」は確かだった。このニュースは電光石火のごとく、世界中を駆け巡った。1981年5月13日、イタリア時間で午後5時24 分、一般謁見中に起きた教皇ヨハネ・パウロ二世狙撃事件である。

 犯人はトルコ人のアリ・アジャ。彼は、ジープでゆっくりと会衆の間を巡る教皇をめがけて二発を発射した。一発目は、教皇の腹部をめちゃくちゃにして貫通し、二発目は、教皇の右肘を傷つけ、左手の人差し指を骨折させた。意識がもうろうとする中で教皇は「マリア、わたしの母マリア」と唱え続けられたという。

 教皇は救急車でローマのジェメッリ病院に運ばれ、すぐに手術を受けた。手術は7,8時間かかった。その間、30分おきくらいに、4、5行のニュースが入る。ほとんどが「手術は順調に進められています」という内容。バチカンの日本語放送のオン・エアはイタリア時間で午後10時45分。できるだけ新しい情報を提供したくて、1人、オン・エアの時間ぎりぎりまで局で仕事を続けた。

 「これ以上は待てない」というニュース締め切り時間を迎え、「まだ、手術は続いています」という言葉でニュース原稿を書き終え、放送し、教皇さまのご無事を祈りつつ、暗いローマの夜道を一人、修道院に向かった。普段でも静かなローマの町全体が静まり返り、寂しさと悲しみに覆われていた。

( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2017年5月25日 | カテゴリー :