三輪先生の国際関係論⑨ 地政学の今昔

 

 ドイツから地政学が日本の学界に流入したのは、まだヒトラーの現状打破が日常現象になる前のことであった。つまり侵略の御用学問視されるような状況下ではなかった。しかし日本の学者はそれを真剣に対応すべき学問の名に値するものとは捉えていなかったといえる。せいぜい床屋談義レベルの世間知に過ぎないと捉えていた節がある。その中で新しいものに知的刺激を敏感に感じる京都大学の教授がいた。東京では東大よりも、慶大の教授が速やかに反応した。

 ヒトラーが政権を掌握する頃には、京大では、ドイツ地政学の現状打破の侵略的傾向と一線を画すために、「皇道の地政学」などと天皇の徳治の学術的提言を目指すものとの位置づけがされた。

 そこに現実政治に満州事変という国際的に日本を孤立化させてしまう難題が関東軍の独走によって惹起した。その独走が満洲帝国の創設という暴走になった時、お鉢は東京帝国大学の教授に回ってきた。学術的弁明がきたいされたのである。

 政治学の教授、蝋山政道は、ドイツからたどり着いたばかりだった頃、地政学を胡散臭くかんじていたのだが、国際連盟で批判にさらされ、ついに脱退してしまった日本の救済に使ってみたらどうだろうと考えた。5カ年計画等で、日本の国防に脅威となりつつあるソ連に対処するのに、満州国という存在が肯定的に説明されなければならなかった。地政学の援用がそれを可能にするものと思われたのである。蝋山教授がどんな提言に達したものか、私は詳らかにしない。

 ただ判っている事は、太平洋戦争に敗れた日本で、占領軍に日本通の学者として意見を具申していたカナダ人外交官E.H.Normanは戦争協力をした学者の追放リストをつくるべく東京大学を調べたりしていた。

 そんな占領軍の動向に反応協力したのでもあろうか、プレスコードで、「大東亜共栄圏」「大東亜戦争」「八紘一宇」「英霊」のような、軍国主義や戦争を煽った言葉の使用を禁じたとき、東大教授で、「地政学」も止めようと提案した者があった。その結果、戦時中には旧制の高等学校のカリキュラムにまで正式に組み込まれていた「地政学」は、日本の高等教育の場から追放されてしまったのである。

 それは日本に限った事ではなく、本家本元のドイツではもっと徹底して抹殺されてしまったようである。私の講義を聞いていたドイツ語系スイス人の学生は、ハンブルクに行って、市内の図書館でハウスホーハーの地政学研究所のことを訊ねると、若い司書は「地政学」という言葉すら聞いたこともなく、「それってなんですか」と言ったそうである。

 日本の国会図書館の場合、占領軍が「地政学」を含み、軍国主義を煽った書籍類を「秘かに、パルプ化するべし」と極秘に通達してきた時、一応、従った振りはした。確かにカードファイルは除去され、閲覧する事は出来なかったが、占領が終結し、そして何年かたったころ、カードの撤去はそのままにしながら、蔵書を逐一記載した重厚な書籍として復活させた。

  その間に、私自身はアメリカはワシントンのジョージタウン大学に留学していた。学部の授業でも、地政学は政治学とか、国際関係論とか、近現代史のなかで触れられていた。平和を志向した日本は、地政学を侵略の学問として追放してしまったのである。その後プリンストン大学の大学院で学んだ時には、アメリカでは歴史科目の中に「軍事史」が含まれるのが当たり前、と知った。ヨーロッパ諸国でも、そうらしい。しかし日本では、軍事史を独立した科目として教えている大学はあったとしても、稀だろう。

 そんな次第で、欧米諸国とは異なった道をたどった日本の地政学は、ここへ来て、忽然と花形学問になったかに見える。

  それに関連して思い出すことがある。日本国際政治学会から派生したように、日本平和学会が発足していたが、何回目かの年次大会の折、理事会の若い学者に、大会の報告に平和が敗れて戦争になっていく過程を取り上げるものが無いのを訝って意見したことがある。戦争の原因を追究する研究を、平和構築の智恵の創出のためにしなければならないと、強く感じたからである。

 中東の歴史は紛争の歴史であり、三大一神教が誕生した地域である。聖書学者によると、旧約が出来た頃と、現代と、憎しみ、相互不信と報復、そして報復に対する報復、という紛争の連鎖は二千年前と変わりがない。彼らはこれを「原罪」のためとするのだろうか。日本人なら人間存在の「業」と言うのだろうか。

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)

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