大学生時代の後半、私はIMCS-国際カトリック学生連盟アジアのメンバーとして、アジア各国のカトリック学生と出会い、各国のプログラムや会議に参加したり、合同で企画したりする機会に恵まれました。同じカトリック教会であっても、国が違えば活動がこんなに違うものかと大きなカルチャーショックを受けました。
その時出会った言葉に「Option for the poor(貧しい人のための選択)」があります。香港では学生たちが港の貧しい船上生活者の家族を訪ね、ベトナム難民キャンプの生活改善のためのアピールを街頭で行い、韓国やタイでも農村の生活困窮の家族や施設を訪ねたりする支援活動をあたりまえのように行っていました。私がそれまで体験してきた日本のカトリック学生の活動は、教会内部での交流が中心だったので、大いに刺激を受けました。教会の使命や役割として貧しい人のための選択、行動があるということを学びました。
カンボジアやフィリピン、タイの農村の教会を訪ねると、教会の中の活動と共に常に地域の社会活動があり、教会の「貧しい人への選択」というものを具体的に感じることができます。
その中心には比較的裕福な人がいて、活発に活動しているカトリック学生たちも国の状況からすれば大学まで進学できる余裕のある世帯の子どもといえます。
基本的には「裕福な人たちが貧しい人たちを見つけ、助ける」という姿勢、あり方なのであり、支援する側とされる側の間には明らかな立場の違いがあり、「別のものなのだ」という前提があるようです。こうしたあり方はこれまでの日本のみならずアジアの教会のスタンダードであり、いまだに推奨されているあり方のようにも見えます。
ところで、このようなあり方、関係性というものには、どこか居心地の悪い感じもあって、「ともに生きる」ためにはもう一歩、姿勢や関わり方を変え、教会自体もまた、変わっていくことが求められているのではないか、と思います。
教皇フランシスコは使徒的勧告「福音の喜び」の中で、「貧しい人を優先し選択する」という教会の伝統を強調しながらも、私たち教会自体が貧しくあれ、と述べています。「貧しい人のため、教会は貧しくあってほしいと思います」と。そして「私たちは皆、彼らから福音化されなければなりません」と続けています。
これは私たちの姿勢、あり方に根本的な変革を求めるメッセージです。これまで、自分や教会の領域の「外」にある貧しい人々との関わりだったものを、自分の領域の「中」に、しかも隅の方ではなく「歩みの中心に置く」という全く違うアプローチを求めています。
「ともに生きる」ということは人と人との何らかの関係性から始まるけれど、どこかの段階でその関係性を超えたときに実現するのかもしれないな、と思います。そのためにはまず、自分自身が変わることが求められているのだと感じます。
(2017.6.25 JLMM 漆原比呂志 )
*JLMM は日本カトリック司教協議会公認団体、国際協力NGOセンター(J
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