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森司教のことば⑯離婚者への対応- 人の弱さを理解し、寄り添い、支えるのも教会の役割
日本の教会の宣教司牧第一線に立つ司祭たちを悩ませている問題の一つに、離婚した人たちに対する教会の姿勢がある。その厳しい姿勢が、一度人生に挫折して、光と支えを得たいと願って教会に近づこうとする善意の人々に、教会は近寄り難い存在であると思わせてしまっているからである。
ここ数年来、日本でも、離婚は、増加傾向にある。ちなみに、1970年代には10%前後だった離婚率(年間の婚姻件数を分母に離婚件数を分子にしたもの)が、一時は30%を超えることもあったが、ここ数年は、25%前後になって落ち着いている。単純に計算すると、今の日本社会は3組に1組、約3〜4秒に1組が離婚するという状態にある。
特に目立つのが、若い世代の離婚率の高さである。最近の統計によると、10代で結婚した女性の約60%、20~24代で結婚した女性の約40%が、離婚していることになる。
若年層の離婚率が高いことの理由として、彼らの人格的な未熟さや性衝動に走ってしまう安易さが指摘されるが、その背後には,家庭の崩壊と競争社会の中で,正規の職を得ることが出来ない経済的な不安定さがある。
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それはともかくとして、離婚した若者たちは、あたたかな居場所を失い、孤独に晒されることになる。そんな彼らが、離婚した後、独りで生きて行けるわけがない。新たな伴侶を求めようとすることは、当然なことである。
しかし、これまでの教会は、離婚した人々を、「神の道から外れた」といって責め、冷たかった。
離婚した人々を責めることは、簡単なことである。しかし、すべての者が喜んで離婚するわけではない。大半の者が、悶々と悩み、言い知れぬ苦しみを味わい、将来に対する不安に怯えながら決断し、自分は人生に失敗したという重いコンプレックスを抱えながら生きようとしているのである。そんな人々を一方的に断罪することは、酷なことである。
この世界の現実は、誰にとっても複雑で、苛酷である。弱く,脆く傷つきやすい人間が、長い人生を独りで生き抜くことは容易なことではない。天地創造の初め,「人はひとりで生きるのは良くない」と判断した神は、人に生きる希望と喜びを与えるためにパートナーを創造し、人を支えるために教会を創設した筈である。良きパートナーとの出会いも教会との出会いも、神の恵みと言える。
神の恵みは、一度結婚に失敗した人々にも閉ざされていない筈である。新しいパートナーとの出会いは、新たな希望への道を開く筈である。その門出にあたって、神の祝福を願うカップルも少なくない。日本でも、同様である。
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ところが、そんな彼らの前に、離婚を認めない教会は大きな壁となってたちはだかってしまってきているのである。現実には、過去に離婚があるということだけで教会の受付窓口で拒まれ、それでもあえて挙式を求め願うときは、過去の結婚の有効・無効が調査されることになる。しかし、その煩雑な調査に耐えきれなくなって、教会での挙式を諦めてしまう者も少なくない。
倫理・道徳が衰退した現代社会に向かって、結婚の神聖さを訴え続けていくことは、教会に託された尊い使命である。しかし、また一方、人間の弱さを理解し、挫折した人々に寄り添ってその人生を支えていくことも教会の役割である。今のままでは、日本でも、教会は、罪人に近寄り難い、立派に生きることの出来る人々の共同体であると言う印象を与えてしまう。それは「義人を招くためではなく罪人を招くためにこられた」キリストの心に背くことになるのではなかろうか。
(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)
Dr.南杏子の「サイレント・ブレス日記」⑬ 「幸せ」な介護の日々のために
直木賞受賞作「女たちのジハード」などで知られる作家の篠田節子さんが、お母様の介護を続ける日々を率直な言葉で語った新聞記事に、大きな反響が集まってい る。10月8日付の読売新聞朝刊に掲載された生活面の連載「ケアノート」。紙面 の大きなスペースを占める形で、記者のレポートと篠田さんの声が紹介されたのだ。
篠田さんのお母様は93歳になる。約20年前から認知症を患っており、今では 毎日、篠田さん宅で朝から夕方までの時間を篠田さんと二人だけで過ごしていると いう。病状は数秒前のことも忘れてしまうほどで、一人では満足にできないトイレ や風呂の世話を一から十まで篠田さんが手を差し伸べる必要のある様子が読み取れる。
記事の中で篠田さんは、「仕事ができるのは、母が(実家から)来る前の朝と、 母が寝ている間ぐらいです」と言い、「風呂からあがって気持ちよさそうに眠る母を見るとき、『このまま逝ってくれれば、幸せだな』と思うこともあります」「国 を挙げて推奨されている在宅介護の現実を知ってほしいです」とまで語っている。
<親の最期は、自分の家で家族そろって見送ってあげたい><在宅で世話をする ことこそが親孝行にほかならない>――。そんなふうに考えて、在宅介護や在宅医 療を希望する人が増えている。
ただ、施設や病院で受けるのと同じクオリティーのケアを自宅で行うとなると、 かなりの人手が必要になる。家族の負担がそれだけ大きくなることは避けることが できない。それは、冒頭に紹介した篠田さんの例を引くまでもない。
私は「ケアを受ける人と家族が楽しい時間を過ごせること」こそが、幸せな介護 の形だと思っている。介護で家族が疲弊してしまい、楽しい思い出づくりもままな らないような状態では、愛しい人を愛しいと思えなくなってしまうこともあるから だ。
施設や病院に入るためには、経済的な負担が増すイメージがある。だが、入所先 の種類によって、かかるコストはまさにさまざまだ。それぞれの家庭の経済状況に合わせて施設や病院を選ぶことは、決して難しいことではない。
在宅で介護する場合でも、ヘルパーの力や訪問介護、デイサービス、ショートス テイなどを積極的に利用することが大切だ。とりわけ終末期の患者を支えるために は、「キュア」(治す・癒やす)、「ケア」(介護する・世話する)、「カンファ タブル」(快適な・心地よい)という「三つのC」を踏まえることが大切だと言われる。「キュア」することができないのであれば、せめて「カンファタブル」には してあげたい――。そのためには、プロの力を借りるべき場合も多い。
大変なところをプロに任せれば、家族はマッサージをしてあげたり、おしゃべり をしたりと、患者と楽しい時間を過ごす余裕も生まれてくるはずだ。
慣れない家族がオムツを交換したり、イライラしながら風呂にいれたりしても、 当の親も幸せな気分になれはしない。その点、介護のプロであれば、手際よく、親に後ろめたさを感じさせることなく日常生活の介助をしてもらうことが可能だ。「 その方が親にとっては幸せだ」という考え方も成り立つ。
残念ながら篠田さんのケースでは、「母は他人を一切受け入れず、介護サービス を利用できない」という。過去にショートステイに預けた時は、一晩中「帰せ」と 大騒ぎしたことがあり、有料老人ホームの入所についても、「入居させても戻ってきてしまうだろうと思うと、なかなか踏み切れません」。篠田さんは苦しい胸の内を語っている。
親の介護と見送りは、家族と医師や看護師、介護スタッフなどによる共同作業であってほしい。できるだけ多くの人がケアに関わる環境を得る選択肢があるのなら、一人で頑張りすぎないで、と言いたい。その上で、ケアに携わる全員が「こうし たらお母さんは心地よく過ごせるのではないかしら?」とよく話し合いながら進める――。そうすることが、互いに悔いを残さず、幸せな時間をゆっくりと迎える一番の方法ではないだろうか。
(みなみきょうこ・医師、作家: 終末期医療のあり方を問う医療ミステリー『サイレント・ブレス』=幻冬舎=は5刷出来。5月24日発売の日本推理作家協会編『ザ・ベストミステリーズ2017』=講談社=に短編「ロングターム・サバイバー」が収録されました。アマゾンへのリンクは、https://www.amazon.co.jp/dp/4344029992?tag=gentoshap-22)
Sr.石野のバチカン放送今昔⑯ 「ヨハネ・パウロ二世と日本語」
1980年12月3日、ヨハネ・パウロ二世の日本行きが公表されてから数日が過ぎた日のことだった。午後6時少し前、バチカン国務庁次官のモンセニョール・レから日本語のオフィスに電話があった。「神父が一人必要なので、話したい」。
ちょうどその時、日本語課に勤務していた神父さまが番組の録音に出ていたので、その旨伝え、帰り次第、電話をさしあげます、と答えた。相手は、一方的に自分で言いたいことだけを立て板に水のごとくに話して、こちらの返事が終わるか終わらないかのうちにガチャンと電話を切る。なんとせわしない人、そう思いながらも、わたしにはピンときた。「教皇さまの日本訪問に備えて、日本語を学ぶお手伝いの出来る神父さんを探しているのだ」ということが。
果たしてそうだった。N神父さまはそれから時々、教皇のお住まいにあがり、日本語を学ぶお手伝いをした。最初は「ミサの一部分だけを日本語で」ということだったが、教皇さまの日本語力の進歩は目覚ましく、わずかの日数でミサ全体を日本語で唱えられるようになられた。
そればかりではない、ミサ中の説教も、日本各地で行った13の講話のすべても流暢な日本語でお読みになることが出来るようになられた。東京に着かれて、司教座大聖堂の前で「親愛なる日本のみなさん・・・」という、朗々とした力強い声、歯切れのよい流暢な日本語で第一声を放ったとき、わたしはバチカンで聞いていた時とは違う感激に胸がふるえ、目からは涙が流れ落ちた。その時のことを、今も、新たな感激と共に思い出す。
( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)
三輪先生の国際関係論 ⑲歴史と小説のあいだ
作家が歴史物を手がける時、 史料に依拠しつつ真逆の情景をえがくことがある。城山三郎の場合 :『落日燃ゆ』(新潮社、1974)で戦犯広田弘毅のことを、 花山信勝教誨師の日誌を根拠としつつ、そこ に書いてあることの逆を歴史の真実として記述している。
A級戦犯7名が絞首刑にかけられる場面である。 彼らは2群に分けられていた。第一群には東条英機 など4名、第二群は広田弘毅など3名であった。 第二群が待機しているとき、刑場方面から、天皇陛下万 歳を三唱する絶叫が聞こえてきた。その時、広田が花山教誨師に「 あれは何をしているのか」と聞き質した。
花山は「天皇陛下万歳を三唱なさっているのですよ」と答え、 広田に向かって「貴方がたもなさっ たらいかがですか」と勧めた。広田は先輩をたてる意味で元関東軍 参謀長陸軍大将・板垣征四郎に「貴方どうぞ」と言った。それで 板垣の音頭とりで、広田を含み第二群全員が「天皇陛下万歳」、「 大日本帝国万歳」を割れるような大声で三唱したのであった。
花山信勝の遺した巣鴨日記には、そのような情景描写がある。 城山はその箇所から脚注を付して引用している。しかし城山は、 広田が「何で私に『万歳』などやれましょうか」 と拒否したことをもって、 この物語のクライマックスとしたのである。
城山は拙著『松岡洋右』も脚注に記したりして、 歴史記述の体裁をとっていた。私は学術論文風 の体裁から、城山が語りかけるままに、 広田の最後の情景を信じてしまった。そして、月刊誌『自由 』に広田の剛毅を讃える書評を書いた。 後になって文庫本版が出版されるとき、出版社に請われるまま に、同様な解説を書いてしまった。
それまで私は花山信勝の巣鴨日記なる出版物を手にしたことがなか った。上智大学の図書館にもなかったので、 国会図書館の蔵書を借り出してもらった。 そして初めて花山の日記を紐解いた時、 びっくり仰天してしまった。 そこには城山の叙述とは真逆のことが記録されていたのである。
それから10何年かたってからであったろうか、 西日本新聞だったか、福岡の民放の企画であったか、 私もビデオ撮りに応えて、 外交官としての広田に批判的なコメントをしたことがある。 その際、スタッフの人から、 かなり老齢になられていた花山氏が話されたことを聞かされた。「 東京軍事法廷で、死刑を宣告された時、 広田は朦朧とした様子であった」というのであった。
存命中であれば、城山氏は私の批判に対して「 小説的真実というのですよ」とでも応ずるのであろうか。( 2017・10・2記)
(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)
清水神父の時々の思いⅡ「アリ社会の不思議」
まじめアリとさぼりアリ
アリ社会の仕組みについて今ではすっかり有名になってしまった。イソップ物語のせいもあるが、アリたちは働き者と思われてきた ところが、と現代の生物学者たちは言う。働くのはほんの一握りで、他のアリはサボっているのだそうだ。どうしてそう言えるのか。
学者たちは、アリ社会全体を見て、働きアリを選り分けて群れから取り除く。すると、サボり組の中から働き者が出現するのである。反対の実験ではどうか。群れの中から怠けものだけを取り除く。すると、残るのはマジメさんばかりのはずである。ところが、マジメさんの中からサボりさんが現れるという不思議。これが本当であれば、そして本当のようだが、創造の神さまのご計画の中では、マジメさんとサボりさんがひとつになって、社会の調和が保たれる、ということのようである。
うらみっこなし
昨年の秋、私は上石神井の黙想に家で8日間の祈りの指導をしていた。朝もひんやりとするほどの晩秋であった。朝食のあと、祈りの家の周辺を散歩していると、道端に真新しいアリ塚がいくつか目に留まった。巣の周りをせわしげに動き回っているアリたちはむろん働きアリ。地下の休憩室ではサボりさんたちがTV見て、のんびりと過ごしているに違いない。不思議なのは、だからと言ってマジメさんたちは不満そうでもなく、けんかを吹っ掛けたりしないことである。
武者小路実篤だったと思うが、「かれはかれ。われはわれなり。されど仲よき」という言葉を残している。アリ社会は私の眼にはそんなふうに映る。彼は彼。我はわれ。そして仲良き。マジメがいて、サボりがいて、そして調和がある社会。果たして、人間の社会は・・。
一つの体、それぞれの役割
パウロは1コリント12章で人間社会の在り方を述べている。私たちはみんなで一つの体を構成する。その部分はそれぞれに違っている。目は鼻ではない。頭は足ではない。手は耳ではない。みんな違っていて、ひとつである。違っているのはそれぞれの役割。ひとつであるのは体を活かすという共通目標。各部分が違わなければ生きられない。生きた体はbodyと表現される。
各部分は肢体、すなわち、member と表現される。一人ひとりは生きた体のメンバーなのである。ある部分がよく生きれば体全体も生きる。ある部分が痛めば、体全体が痛む。こうして互いに関わり合って、支えあって生きるのが我々の社会、体なのである。それならば、無理に同じになろうとせず、私は私になる。彼は、彼女はその人になる。こうしてみすゞのことばは意味を帯びてくる。「みんな違ってみんないい」
(清水弘=イエズス会士、広島教区・益田・浜田教会主任司祭、元六甲学院中高等学校長)
三輪先生の国際関係論・番外 夏が帰ってきたような日に
体育の日の翌日である。東京都心の街路を行く。小春日和なんてもんじゃない。アッメリかじゃ、多少の軽侮を込めて「インディアン・サマー」といっていた。
街路樹の根方に視線が行く。昭和天皇は「雑草という草はありません」と言われた。私は感動した。いまあの当時の感動をあらたにする。皆一生懸命に生きている。わたしはその証明を目の当たりにしている。
ネコジャラシでもいいじゃないか。ちっちゃかった子供のころ馴染だ呼び名だ。すっかり実を結び、薄褐色して風になびいている。豊な秋だ。だが残念な事に、銀杏の実は捜すまでもない。見当たらない。
昨年もその前の秋にも、それはそれはどっさりの実りだったのに。今年は確か春先に、此の道筋の両側のイチョウ並木はみんな刈り込まれてほっそりとしてしまっていたのだ。唐突な連想だが、戦前の壮丁が皆経験した徴兵検査の光景だ。フンドシ一丁にひん剥かれてしまった戸惑いがある。
ここは地下鉄の泉岳寺駅前、品川駅に通じる大通りである。同じ情景は此の地下鉄浅草線の浅草駅前の隅田川より出口前の大通りもある。例年どっさり実をつけ歩道に散らしていた木々が、やはりやせ細って羞恥で頬を染めているようだ。
それも無理ないことか。落ちた銀杏を拾う人がいないらしい。ここ浅草の場合街路樹に面した商店は、不動産業者、簡易食堂、コーモリ傘製造販売店、手ぬぐい小物店、ちょっと洒落たイタリア料理店などなど。銀杏はマーケットで購うものとしているのだろう。道端の秋は見捨てられているのだろう。
(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)
清水神父の時々の思い「われら不完全なれど」
聖体拝領の行列変更
ちいさな教会はともかく、中程度以上の教会ではよく見られること。司式司祭と聖体奉仕者が並び立って聖体授与の奉仕をする。その時、ある人たちはさりげなく行列変更をする。言わずもがな。司祭の手から拝領しようとして、司祭の列に紛れ込むのである。その心は何か。その心は〈司祭からの方が有難味がある〉。司祭の方が有難い、と思う理由はいくつかある。まず、神に身を献げている人である。長いこと哲学を学び、神学を学んでいる。結婚もせず、したがって家庭も持たず、みんなのために尽くしている。貧しく生き、めったに怒らない。
美しい幻想
信仰の側に立ってみれば、それは美しい幻想ともいうべきこと。なぜなら、受けるご聖体は等しく<キリストの体>であるのだから。司祭も奉仕者もキリストを与えるべくお仕えしているのである。神学の知識があるとか、結婚しているかいないかが重要でなく、「与えられるご聖体がキリストだ」ということ。ここが大切である。奉仕者は生活者として、長年磨かれた人である。
だから、自分の列から人が去って行っても忍耐をもって、堂々とご聖体配りをするのが望ましい。「忍耐は試練に磨かれた徳を生み、その徳は希望を生み出す」(ロマ書5:4)のです。キリストは弟子の養成に当たって、この人たちが不完全で、ヘマをすることは初めからご存知でした。あわてんぼうのペトロを見れば一目瞭然。失敗に失敗を重ねるペトロ。その人に向かってイエス様は「お前さんは教会の土台。お前さんに天国の鍵を授けよう」(マタイ16:19)と無謀ともいえる大胆さです 弟子の失敗に耐えるイエスの忍耐をこそ思いみるべきです。
弱くても司祭
<ゆるしの秘跡>も然り。司祭は「私は父と子と聖霊のみ名によってあなたの罪をゆるします」と言う。縮めると「私は・・・ゆるす」となって、司祭がゆるすかのような錯覚に至る。ゆるすのは司祭ではない。司祭は「み名によって」あなたの罪をゆるすのである。み名に繋がってゆるす。司祭がゆるすのではなく、神がゆるす。司祭はそのゆるしの(道具)に過ぎない。
司祭にもいろいろな弱さがある。ミサに遅れる。怒りっぽい。挨拶を返さない。決断できない。・・・しかし、それでも司祭なのである。ゆるしにおいても、司祭は恵みの給水管であって、救いの恵みを届けるために身を捧げたいと願ってはいるのだ。願ってはいるが、まだ実現できていないということである。神は、キリストはそういう不完全な者を救いの業の協力者とされる それゆえ、聖体奉仕者は何人かが自分の列から逃げるとしても、それをこらえて奉仕するのが望ましい。
(清水弘=イエズス会士、広島教区・益田・浜田教会主任司祭、元六甲学院中高等学校長)
森司教のことば ⑮フィローニ枢機卿が読み上げた親書の気になる点は
*ネオ・カテクメナートを示唆する言及
この度、福音宣教省の長官フィローニ枢機卿が、来日し、一週間の日程で東京、長崎、大阪、仙台と司牧訪問し、9月24日、離日した。
日本のカトリック教会は、宣教国として福音宣教省の監督下にあり、日本の各教区の司教人事も、福音宣教省で検討されているので、長官は、ある意味で、日本のカトリック教会の上司とも言える。その上司が、日本の到着早々、その日の夕刻、ヴァチカン大使館で、迎えに出た日本の9人の司教たちの前で、教皇からの親書を読み上げたのである。
その親書は、日本の社会の問題点を的確に分析、指摘しており、その内容に敬意を示すことに私はやぶさかではないのだが、後半の部分で気になるものがあった。それは、新しい運動体に言及し、その働きを高く評価し、それを受け入れるように、日本の司教たちに暗黙の内に指示しているような印象を与えていたからである。
「最後に聖座が承認している教会運動について話したいと思います。これらの運動の福音宣教熱とそのあかしは、司牧活動や人々への宣教においても助けとなりえます(中略)これらの運動にかかわりをもつ司祭や修道者も少なくありません。彼らもまた、神がそれぞれの宣教使命を十全に生きるよう招いている神の民の一員です。これらの運動は福音宣教活動に寄与します。わたしたちは司教としてこれらの運動のカリスマを知り、同伴し、全体的な司牧活動の中でのわたしたちの働きへ参与するよう導くように招かれています」
その文言が私の心にひっかかってしまったのは、フィローニ枢機卿が、ネオ・カテクメナートの熱心な信奉者・擁護者としてとして良く知られていたからである。
恐らく、そこに居合わせた司教たちも、私と同じように、その文言から、四国から去って行かざるを得なかったネオ・カテクメナートに言及していると受け取ったに違いないと思うのである。日本のカトリック教会は、運動体に比較的開放的である。しかし、日本のカトリック教会は、新しい運動体に対して決して閉鎖的でなかったことは、事実である。
過去を振り返ってみれば明らかなように、ヴィンセンシオパウロ会、レジオマリア、クルシリヨ、聖霊運動、フォコラーレ、聖エジディオ共同体、エンマヌエル共同体などなど、数多くの運動体が日本に入ってきて、それなりの活動を展開してきているのである。個人的には、司教たちにも、それぞれの運動体に対しては好き嫌いという個人的な好みがあるかも知れないが、しかし、そうした活動団体がそれぞれの会の精神にそって主体的に活動することに関しては、日本の司教たちは、細かく干渉したり、否定的に介入したりしたという事実は、これまでなかったことは確かである。また気になる点があっても、ほとんどの司教たちは見て見ぬ振りをして、寛容に振る舞ってきているのである。
むしろ、小教区の指導や活動では物足りない信者たちが、そうした運動体に触れ、生き生きとし、活気づけられ、キリスト者として熱心に生きている姿を見て、喜び、歓迎していたとも言えるのである。
*しかし、ネオ・カテクメナートに対しては・・・!!
日本の司教たちの多くが拒絶反応を示した運動体は、私の知る限り、唯一ネオ・カテクメナートだけである。司教たちが、高松教区に設立
されていたネオ・カテクメナートの神学院に否定的な断を下し、閉院を求め、日本から去って行ってもらったことは、紛れもない事実である。
なぜ、司教たちのほとんどが、ネオ・カテクメナートの運動に否定的だったのか、その理由の一つは、小教区に派遣されたネオ・カテクメナート共同体の司祭たちが、独自の司牧を展開し、信徒たちの間に分裂をもたらしてしまったことにある。
独自な司牧とは、小教区の中で、独自のカテキズムを教え、その実行を求めたり、土曜の午後や復活の大祭日などに自分たちの仲間だけを対象とした独自の形のミサを行ったりして、小教区の中に、もう一つ別の小教区共同体をつくるような結果を招いてしまったのである。
当然のように、ネオ・カテクメナート共同体の司祭に従う信者たちと一般の信徒たちの間に軋みが生じ、その分裂の苦情は、早い時期から、司教たちに寄せられるようになってしまっていたのである。
問題点は、ネオ・カテクメナート共同体の司祭たちが分裂に心を痛めた教区司教たちの指導には従わず、あくまでもネオ・カテクメナート共同体の精神にそって行動し、その長上たちの指導にしたがってしまったことである。
こうした苦い経験を持つ司教たちが中心になって、ネオ・カテクメナートに対する反対の声が高まり、一般の教区司祭の間でもネオ・カテクメナート共同体に対する不信感が拡がって行ってしまったのである。
*ネオ・カテクメナートの神学院の設立に関しても・・・!!
当時の高松教区の教区長深掘司教が、ネオ・カテクメナートの神学院の創設をはかろうとした際に、多くの司教たちは憂慮し、緊急の司教会議を招集し、その是非について議論したのである。
それまで、日本の司教たちは、教区神学生の養成に関しては、福岡と東京の二つの神学院に任せると言うことに合意し、修道会が、それぞれの会の神学生の養成に固有の神学院を持つことに関しては納得し、認めてきていたのである。
ネオ・カテクメナートの神学院の創設に多くの司教たちが否定的だったのは、その神学院が、小教区で働く司祭の養成を目指したものであったからである。したがって、高松教区内に新たな神学院設立することは、司教たちの間にあった合意に背くことだったのである。
将来日本の小教区で司牧することを目指したものであるならば、福岡か東京の神学院で学べば良いはずである。そうすれば、司祭になってからともに働くことになる日本人の神学生たちとも交わり、日本人の固有な感性や伝統・風習などを身につけていくことも出来るはずである。司教たちの何人かは、そのように説得を試みたのだが、ネオ・カテクメナートは、それを拒み、独自に養成に拘ったのである。
また、教区内に神学院を設立することは、教会法上は、あくまでも教区長の権限に属するため、ほとんどの司教たちが反対であるにもかかわらず、高松教区長は設立に踏み切ってしまったのである。
そして、その神学院を卒業し、高松教区内の各小教区に派遣された司祭たちが、その小教区の中に分裂を引き起こし、社会問題として一般紙にも取り上げられるようなってしまい、多くの一般信徒の心に深い傷を与えてしまったことから、司教たちが心配し、改めて話し合い、バチカンに訴えたりなどして、ようやっとその閉鎖に辿り着いて、今になっているのである。
*なぜ、高松教区の教区長が、設立に踏み切ったのか・・・?
なぜ、当時の高松教区の教区長がネオ・カテクメナートの神学院の設立に踏み切ったのか、同情すべき理由はある。それは、召命不足、司祭不足だったのである。実に、長年にわたって、高松教区には、召命がなく、司教は、活動出来る司祭の不足に苦しんでいたのである。
教区長は、近隣の教区に事情を訴え、司祭の派遣を求めたが、どの教区にも余裕がなく、最後に溺れる者が藁をもつかむような思いで、ネオ・カテクメナートからの司祭の派遣と神学院の設立の申し出に、飛びついたと言う事情があったのである。
*結び
司祭の召命の不足、そして司祭の高齢化は、高松教区だけでなく、すべての教区に共通する深刻な問題である。その問題に、他の誰よりも頭を抱え悩んでいるのは、司教たちであることはいうまでもないことであるが、それは、司教たちだけではなく、すべての信者が真剣に考えていかなければならない重大な問題なのである。
それを、目先の解決に飛びついて、安易に解決しようとすると、同じ轍を踏むことになる。同じような過ちを繰り返さないためには、拙速は避けつつ、日本のカトリック全体で考えて行くべきことである。私の個人的な願望だが、第一回全国福音宣教推進会議(ナイス)のような、日本のカトリック教会のこれからのありようを考える場を、再び開催できたら・・・と思うのだが、無理なことだろうか。
(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)
関係資料・・「カトリック・あい」作成
英ランカスター司教、「新求道共同体」の典礼に規制
2017年6月13日【CJC】英カトリック教会ランカスター教区のマイケル・キャンベル司教は6日、運動体「新求道共同体」に対する典礼規範を発表した。同団体の活動に対する「懸念が増大している」ためという。カトリック・ヘラルド紙が報じた。キャンベル司教の発表は、ミサは教会、聖堂の祭壇だけで行われるべきであり、信徒は聖体を受けたら「遅滞なく」食すべきだというもので、7月1日から実施するという。
今回の指示は、新求道共同体で行われている、信徒がすべて聖体を受けてから食すという独自の方法に関するもの。キャンベル司教は、司祭たちはそれぞれの小教区(各個教会)で行われる特別な典礼に制限を加える権限があるとしている。
新求道共同体側は、このような規制が行われるのは「完全に驚き」だとして、実施方法やその理由について説明させてほしいと司教に要請しているのに、と反発している。
日本司教訪問団、新求道共同体に活動5年間中止を要請
2010年12月20日【CJC=東京】日本カトリック司教協議会のバチカン訪問団は、「問題」続きの年月だったとして、新求道共同体に今後5年間、活動を中止するよう要請した。高見三明・長崎大司教が長崎から電話でカトリック通信CNAに12月15日語ったところでは、司教側の提案は共同体のキコ・アルグエリヨ創設者に直接行なったが、受け入れられなかった。教皇ベネディクト16世は、司教側の計画に満足していないと見られる。ただバチカンも共同体当局者も会談や提案について公式なコメントは出していない。
ローマのレデンプトリス・マーテル神学校副校長のアンゲル・ルイス・ロメロ神父は、CNA通信に、自身も主任の平山高明司教も、現段階で意見を明らかにするのが賢明とは思っていない、と語っている。ロメロ神父は、日本神学校プログラムに登録している学生は21人。ローマに移籍以来、日本人とイタリア人の2人が司祭に叙階され、現在ローマで活動中と語った。
高松の神学校閉鎖の際、バチカンは共同体が日本で活動を継続する際の管理方法を決定するため司教団と協力する教皇代理を任命した。当時、バチカンは、神学校が将来、「日本の福音化のために最も適当と見られる方向で貢献を続けられるよう」との「信頼」を表明していた。しかし高見大司教は、問題解決は難しいと見ている。共同体は「長年の間、高松教区で問題を数多く引き起こしてきた」と言う。大司教は、共同体のある司祭との経験や、他の司教からの同様な問題に対する聞き取りで、自分の教区では共同体の宣教を許可しないことに決めたと語った。
共同体の司祭は、現地の司教と東京にいる上長の双方に従属することが、大きな問題だ、と大司教は説明する。「彼らは、活動している教区の司教に従いたいとは言うものの、それを全く実行していない。とにかく十分でも正当な方法でもない」と言う。問題は、権威に関することだけでなく、行なわれるミサの方法にもある。共同体の司祭は、ミサで日本語を使うが聖歌などは異なる。「彼らは全てキコ創設者の霊性に従うが、それは私たちの文化は心情からは全くかけ離れている」と高見大司教。
さらに、教区司祭が執行するミサを「不完全」として、共同体のメンバーが自分たちのミサを優れたものとして推進しており、これも教区内に分裂をもたらした、と言う。財務面の問題もある。共同体は財務を教区から独立させており、官庁への収支報告を困難なものにし、また教区の力を削いでもいる。
司教側は、共同体の日本でのあり方に指針を設ける方法を探っている。高見大司教は、今回の教皇と司教団との会談で何が討議されたか正確に把握してはいないが、「日本の全司教が今回の会談に深い関心を寄せていることは確か」と言う。大司教は、日本の司教が、共同体の日本における将来について教皇の決定に従おうとしていることでは結束していることを強調した。
高見大司教は、キコ創設者に出した提案が、共同体の活動5年間停止と、その期間を「日本における活動を反省するためのもの」とすることと言う。「5年経過した後に、司教側は共同体と問題の議論を始めたい。私たちは、彼らに立ち去って、二度と戻るな、と言いたいのでは決してない。望ましい形で活動して欲しい。日本語と特に日本文化を学んでほしいのだ」と語った。
(なお、高松にあった「高松教区立国際宣教神学院」は2009年3月31日付で閉鎖、と当時、報道されている「カトリック・あい」)
Sr 阿部のバンコク通信 ⑬色々なタイの色―ラマ9世一周忌は黄色の花が街一杯に
タイ国には、曜日毎に決まった色があり、 異なる姿勢の仏像があります。日曜=赤、月曜=黄、火曜=桃、 水曜=緑、木曜=橙、金曜=水、土曜=紫。 自分の誕生色を身につけたり、 お寺にお参りして自分の曜日の仏様に祈る習慣があります。 故プーミポン国王様(ラマ9世)の誕生日は月曜日、 国民は一斉に黄色の服を着て、 在位70年間共に喜びお祝いしました。
逝去なされて一周忌、10月13日には国王様を偲び、 黄色のお花を街一杯に飾ります。 パウロ書院のあるセントルイス病院の庭も、 黄色のマリーゴールドで輝いています(右の写真)。 10月末まで国民は喪に服します。
ここ1年、人々は黒を纏って過ごして来ました。早朝から、 喪服正装でエメラルド寺院と呼ばれるワットプラケオ( 王様のお寺)に詣で、 何時間もかけて弔問を待つ長蛇の行列に連なる1年でした。
26日は国民の手作りの花を手向けて火葬の儀、 その後埋葬の儀が行われます。10月13 日から29 日まで一切のテレビ番組を中止し、 国王様の思い出の番組のみが放映されます。生涯国民を思い、 尽力された国王様を偲び、 国中が黄色の花で飾られた静かな祈りの雰囲気で過ごします。
『皆が一つであるように』と祈り、 ご自身を捧げられた師イエスの遺言を、 名実ともに生きられた国王様の天国への凱旋を確信しています。
私の誕生色は橙色。明るい橙の気持ちを身に付け、木曜日の仏『 左手を下にして手のひらを組み、右足を上に胡坐をかいて瞑想』 する気持を普段の姿勢にて生きて行きたい、 原稿を書きながらそう思っています。
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
菊地・新潟司教の日記⑭フィローニ枢機卿「福音宣教の熱意が衰えたのではないか」
2017年9月26日 (火)
日本の教会を訪問されていた福音宣教省長官フェルナンド・フィローニ枢機卿は、本日火曜日の午後、日本を離れローマへの帰途につかれました。毎日、分刻みのようなプログラムを精力的にこなしてくださいましたが、視察の途中では「日本の人は時間の奴隷になっている」と冗談も言われたようです。
24日の日曜日には、関口の東京カテドラルで、信徒や修道者との対話集会の後、日本の司教団や教皇大使と主日のミサを一緒にされ,その後、司教団との夕食会が催されました。
25日の月曜日は、午前中から潮見の司教協議会で、昼食を挟んで,日本の司教団との話し合いが行われました。枢機卿は、教皇様からのメッセージに基づき、日本の福音宣教の現状を振り返り、熱意を新たにするように求められました。枢機卿は特に、30年前に開催された福音宣教全国会議(ナイス)の成果について触れ、「当時の福音宣教への熱意が今は衰えてしまったのではないか」と問いかけ、「守りの姿勢ではなく,積極的に福音を証しして生きるように」と,司教団に励ましをくださいました。
枢機卿は,仙台を訪問された際に,わたしも同行して訪れた福島の被災地に非常に心を動かされた様子で、人間が自らの限界をわきまえて,神の前に謙遜に生きることの大切さを改めて強調されておられました。
枢機卿の今回の訪問に,感謝したいと思います。
Dr.南杏子の「サイレント・ブレス日記」⑫エレベーターの通学路
2017年1月に新校舎となったその学校は、さいたま新都心の駅前、さいたま スーパーアリーナやおしゃれなショップ・レストランが隣接する街区にある。ただ、始業時刻前の時間帯、「県の木」であるケヤキ約220本が立ち並ぶこの地に立っても、にぎやかな歓声を上げて通学を急ぐ子供たちの姿を目にすることはない。
ここは、埼玉県立けやき特別支援学校。地下1階地上13階、ベッド数316床 を擁する県立小児医療センターの7階部分をそっくりそのまま「学舎」にしている小中学校だ。児童・生徒の多くは毎朝、病棟から専用のエレベーターに乗って、「 登校」してくる。治療状況や体調がかなえば、授業は1日6時間。授業の後は一般の学校と同様に学活を行い、病室へ戻るのは午後3時過ぎ。「下校」ルートもエレ ベーターだ。
病気で入院中の児童・生徒に教育の機会を提供する場としては、<病院内の一室 を活用した小さな院内学級>をイメージされる方が多いだろう。だが、けやき特別 支援学校は事情が違う。普通教室を11室備え、音楽、理科、家庭、美術・技術各 科の専門教室、図書室や体育館、さらには年間を通じて使用できる温水プールもあ る。「児童・生徒が、入院前と変わらない学習に参加できる」ように配慮された病弱教育の推進校だ。
小児医療の技術は確実に進歩している。例えば、血液のがんである急性リンパ性白血病では、15歳未満の子供の場合、5年以上の長期生存率は約80パーセント にまで高まっている。
専門医の診療のもとで、決められた時間に投薬や注射を受け、適切な感染防止対 策や体調管理を続けていれば、入院中でも学習指導を受けられる状態にある児童・ 生徒は少なくない。病院内で治療を続けながらも、学習の機会を十分に与え、将来の夢に向かって成長していく子供を支援しよう――という学校側の方針がそこにある。
こうした積極的な支援が、すべての子供に行き渡っているわけではない。
文部科学省のまとめによると、病気などで長期入院(年間延べ30日以上)して いる児童・生徒は全国で約6300人。このうち約半数は、学習指導を受ける機会 を失っている。在籍校の教師が病院を訪問して指導をしているケースでも、その実施頻度は「週1日以下、1日75分未満」という回答が大半だ。
「小説現代」10月号に一編の医療小説を発表した。病院に入院して急性リンパ 性白血病と闘う小学6年生の男子児童が、ピアノの発表会への出演を強く希望する 。だがその子は、抗がん剤治療の影響で免疫力が極端に低下しており、大勢の人が集まる会場に出向けば、感染症にかかる危険性が非常に高い。子供の夢をかなえる ために、主治医や周囲の大人たちはどのようにサポートするべきか――。物語には 「屋根まで飛んで」という題名をつけた。
闘病中の子供たちからチャンスを奪ってはならない。現実の世界でも教育者はあ たたかいメッセージを送る。「治療中でもできることはたくさんあります。入院中 だからこそできることもあります。そして、皆さんを応援してくれる人も大勢いま す。自信を持って、今できることにひとつずつチャレンジしてください」(けやき 特別支援学校「学校だより」4月号)。
夢に挑む子供の姿は力強く、頼もしい。それは健康であろうと、病気であろうと 、どんな環境のもとで育てられようが変わらない。ひとりひとりの子供たちが大きく成長する秋を迎え、私はそう信じている。
(みなみきょうこ・医師、作家: 終末期医療のあり方を問う医療ミステリー『サイレント・ブレス』=幻冬舎=は5刷出来。5月24日発売の日本推理作家協会編『ザ・ベストミステリーズ2017』=講談社=に短編「ロングターム・サバイバー」が収録されました。アマゾンへのリンクは、https://www.amazon.co.jp/dp/4344029992?tag=gentoshap-22)
駒野大使の「ペルシャ大詩人のうた」②ペルシャの詩の特徴は三つ
ペルシャの詩に出会い、学び教えられ、人生の教訓となり、楽しめるようになった経緯を、具体的な詩句を挙げてお話ししたい。
手始めに、ペルシャの詩の特徴を3つ述べておく。①定型であり、②韻を踏むこと、そして、③読み聞きすることで最高に楽しめることである。ペルシャの詩では、いくつかの単語からなる短文(A)と(B)を基本単位として(メスラーウ)、A・B合わせて「ベイト」という。
「ベイト」2つからなるのが(4つの短文)「ルバイヤート(四行詩)」である。日本語にも翻訳のあるオマル・ハイヤームの「ルバイヤート」がこれだ。
「黒き花の奈落(地球の中心)から、天空の土星まで 世界のすべての問題を解決した 脱することができた 偽りのしがらみ(の世界)から すべての束縛を解き放つことができた 死の束縛を除いて」(ハイヤームの詩)
次に、「ガザル」、これは、5~15くらいの「ベイト」からなる。ハーフェズの詩集はもっぱらこれである。「ルバイヤート」と「ガザル」はともにペルシャ独特の詩形式であり、原則いずれも冒頭のAとB、及び2つ目以下の「ベイト」の後半の短文が、脚韻を踏む。上記のハイヤームの詩は、2つの「ベイト」の前後の短文(メスラーウ)すべてが脚韻を踏み、最後の単語がいずれもl(エル)で終了している(土星のzohal,解決のhall、偽りのheil, 死のajl)。
このほか「ベイト」が限りなく続く物語詩がある。モウラナーの詩集(シャムス・タブリーズィ詩集)は、36000の「ベイト」からなる。同じ「ベイト」のメスラーウAとBが脚韻を踏む。韻を踏み、定型のペルシャ詩の伝統は、現代のイラン人にとってもなじみが深く、その結果、日本の俳句がイラン人に自然に受け入れられる素地となっている。
ハーフェズの詩集を講義してくれたジャラーリ先生が、諳んじた詩句を、詩集の中にすぐさま見つけ出すのに、最初は、なんとすごい記憶力であろうと驚かされた。先生と使用したハーフェズ詩集には、500以上のガザルが掲載されている。良く知られたたくさんの詩句があるが、詩集のどこにあるのかまでは簡単に分からないと思っていた。
しばらくして事情がのみ込めた。脚韻である。例えば、前回紹介したヘーフェズの次の句、「長い間こころは 世界を見透かす杯を 我々に求めた(A) 自ら持てるものを よそ者に求めた(B) もの皆が生み出される根源の宝を 海の道にさまよった者に求めた(C)」
この詩句が詩集のどこにあるのか。最初の「ベイト」のAとB、および次の「ベイト」の後半のメスラーウ(C)の脚韻を見ればよいのである。いずれもkyard(求め「た」)である。ハーフェズ詩集の500以上のガザルは、脚韻に従って、ペルシャ語のアルファベット順に整理し配置してあるから、脚韻に注目することで、どの順番に詩が配置されているのかわかるのだ。
駒野欽一(国際大学特任教授、元イラン大使)
Sr.石野のバチカン放送今昔⑮ヨハネ・パウロ二世‐ハプニングに次ぐハプニング
聖ヨハネ・パウロ2世は第264代目の教皇。彼まで400年以上ものあいだ教皇の座はイタリア人によって占められていた。その伝統を破って、当時は無神論的共産主義を旗印に掲げる東欧、ポーランドから選出された。ポーランド人たちは歓びに狂気し、ロシアは怯えた。ロシアのこの恐怖はやがて、1981年5月13日の教皇狙撃事件へと導く目には見えない一本の線となっていった。
教皇はよほどのことがないかぎり、バチカン宮殿の中でお過ごしになり、外にはお出にならない。ところがヨハネ・パウロ二世は選出されてから24時間と経たないうちに友人の枢機卿が入院しているローマのジェメッリ病院に見舞いに行かれた。
あわてたのは側近や警備員たち、そして・・・報道関係者。教皇は翌日、バチカンの近くに住む高齢の病気で苦しむ枢機卿を歩いて見舞いに行かれ、その次の日はやはりバチカンの近くに住む高齢枢機卿のお誕生日の祝いにと、毎日出かけられた。それも何の前触れもなく。側近の人たちもわたしたちも、ハプニングに振り回されながらも、次は何?と、忙しくなるのも忘れて楽しみ、喜んだ。
同じ教皇に関するとはいえ、いつもと違うニュースを次々報道できるのだから。次は何?明日は何?続く毎日のハプニングを前にして、放送局員の話題も弾む。続くこれらのハプニングは、やがて人びとの目を見張らせた、あの海外旅行への準備だったのだろうか?間もなく正式の海外旅行が始まった。第一回目は1979年1月25日~2月1日まで、ドメニカ共和国、メキシコ、ハバマだった。
( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)
漆原JLMM事務局長の「共に生きるヒント」 ⑪「戦争は絶対ダメだ 」
今月上旬、福島県の双葉郡浪江町の方々の敬老会に参加しました。2011年3月の福島第一原発事故以来、故郷浪江町に戻れず避難している方々のコミュニティと関わってきましたが、今回はその6回目の敬老会でした。
最高齢のおじいさんは94歳。とてもお元気で軽やかな社交ダンスも披露してくださいました。「大東亜戦争にも行きましたよ」とご挨拶されたので、お話を聞かせていただきました。 兵隊として中国大陸へ、2年間従軍し仏印進駐の直前に病気のために九龍(香港)の野戦病院へ移り、その後帰国された、と当時の事をお話しくださいました。「あと数週間帰国が遅れたら、自分も仲間とともに戦死していたかもしれない」と眼に涙をうっすら浮かべながら語られました。
「戦争は、敗けても勝っても、どっちでも絶対ダメだ!」その言葉は体験者だからこそ語れる戦争の本質だと思います。あれから72年も経過しているのに、戦争体験はその方の心に深い傷を残したままのようです。どれだけ多くの年配の方々が同じような気持ちでおられるのかと思うと、今の世界の情勢、特に朝鮮半島をめぐる緊張状態もどのような見方をしたらよいかわかってきます。
いかなる理由であろうといったん度戦争が始まってしまえば、すべての人への破壊があるのみで勝ちも負けもないということでしょう。ですからどんな理由があろうと戦争を始めてはならない、ということを粘り強く主張し続けるしかないと思います。またいかなる理由であれ戦争を正当化させることはできないというスタンスを明確にすることが大切だと思います。
核武装に象徴される軍事力のバランスによって均衡を図ろうとする抑止論から脱却し、戦争やテロの原因となっている貧困や不平等に目を向け、支援・協力・連携の関係を構築していくことこそ戦争を止める道につながると思います。
『真の平和は相互の信頼の上にしか構築できない』とヨハネ23世は述べています。 先日9月19日の国連総会でのトランプ米大統領の「やむを得ない場合は北朝鮮を完全に破壊する」といったような威嚇や禁輸政策などのよる圧力では決して良い方向には進まないでしょう。かつて日本軍が仏印進駐後のアメリカによる禁輸政策で追い詰められて真珠湾攻撃を仕掛けてしまったように、いまこれ以上北朝鮮を追い詰めることは戦争を促すことにつながり、結果、関係国すべてに破壊がもたらされるだけだと思います。
追い詰めず、孤立させず、支援や協力の輪に取り込んでいく努力が平和をもたらすのだと思います。『戦争に訴えればそれは即敗北です。戦争に打ち勝つ唯一の方法は、決して戦争をしないことです』-教皇フランシスコ、2015年
(JLMM事務局長・漆原比呂志)
*JLMM は日本カトリック司教協議会公認団体、国際協力NGOセンター(J
JLMMでは毎年、派遣候補者を募集しています。賛助会員としてのご支援やご寄付をお願いいたします。またカンボジアスタディツアーやチャリティコンサートの企画、
