三輪先生の国際関係論・番外 夏が帰ってきたような日に

 体育の日の翌日である。東京都心の街路を行く。小春日和なんてもんじゃない。アッメリかじゃ、多少の軽侮を込めて「インディアン・サマー」といっていた。

 街路樹の根方に視線が行く。昭和天皇は「雑草という草はありません」と言われた。私は感動した。いまあの当時の感動をあらたにする。皆一生懸命に生きている。わたしはその証明を目の当たりにしている。

 ネコジャラシでもいいじゃないか。ちっちゃかった子供のころ馴染だ呼び名だ。すっかり実を結び、薄褐色して風になびいている。豊な秋だ。だが残念な事に、銀杏の実は捜すまでもない。見当たらない。

 昨年もその前の秋にも、それはそれはどっさりの実りだったのに。今年は確か春先に、此の道筋の両側のイチョウ並木はみんな刈り込まれてほっそりとしてしまっていたのだ。唐突な連想だが、戦前の壮丁が皆経験した徴兵検査の光景だ。フンドシ一丁にひん剥かれてしまった戸惑いがある。

 ここは地下鉄の泉岳寺駅前、品川駅に通じる大通りである。同じ情景は此の地下鉄浅草線の浅草駅前の隅田川より出口前の大通りもある。例年どっさり実をつけ歩道に散らしていた木々が、やはりやせ細って羞恥で頬を染めているようだ。

 それも無理ないことか。落ちた銀杏を拾う人がいないらしい。ここ浅草の場合街路樹に面した商店は、不動産業者、簡易食堂、コーモリ傘製造販売店、手ぬぐい小物店、ちょっと洒落たイタリア料理店などなど。銀杏はマーケットで購うものとしているのだろう。道端の秋は見捨てられているのだろう。

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

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