清水神父の時々の思いⅡ「アリ社会の不思議」

まじめアリとさぼりアリ

 アリ社会の仕組みについて今ではすっかり有名になってしまった。イソップ物語のせいもあるが、アリたちは働き者と思われてきた ところが、と現代の生物学者たちは言う。働くのはほんの一握りで、他のアリはサボっているのだそうだ。どうしてそう言えるのか。
学者たちは、アリ社会全体を見て、働きアリを選り分けて群れから取り除く。すると、サボり組の中から働き者が出現するのである。反対の実験ではどうか。群れの中から怠けものだけを取り除く。すると、残るのはマジメさんばかりのはずである。ところが、マジメさんの中からサボりさんが現れるという不思議。これが本当であれば、そして本当のようだが、創造の神さまのご計画の中では、マジメさんとサボりさんがひとつになって、社会の調和が保たれる、ということのようである。

 うらみっこなし

 昨年の秋、私は上石神井の黙想に家で8日間の祈りの指導をしていた。朝もひんやりとするほどの晩秋であった。朝食のあと、祈りの家の周辺を散歩していると、道端に真新しいアリ塚がいくつか目に留まった。巣の周りをせわしげに動き回っているアリたちはむろん働きアリ。地下の休憩室ではサボりさんたちがTV見て、のんびりと過ごしているに違いない。不思議なのは、だからと言ってマジメさんたちは不満そうでもなく、けんかを吹っ掛けたりしないことである。

 武者小路実篤だったと思うが、「かれはかれ。われはわれなり。されど仲よき」という言葉を残している。アリ社会は私の眼にはそんなふうに映る。彼は彼。我はわれ。そして仲良き。マジメがいて、サボりがいて、そして調和がある社会。果たして、人間の社会は・・。

 一つの体、それぞれの役割

 パウロは1コリント12章で人間社会の在り方を述べている。私たちはみんなで一つの体を構成する。その部分はそれぞれに違っている。目は鼻ではない。頭は足ではない。手は耳ではない。みんな違っていて、ひとつである。違っているのはそれぞれの役割。ひとつであるのは体を活かすという共通目標。各部分が違わなければ生きられない。生きた体はbodyと表現される。

 各部分は肢体、すなわち、member と表現される。一人ひとりは生きた体のメンバーなのである。ある部分がよく生きれば体全体も生きる。ある部分が痛めば、体全体が痛む。こうして互いに関わり合って、支えあって生きるのが我々の社会、体なのである。それならば、無理に同じになろうとせず、私は私になる。彼は、彼女はその人になる。こうしてみすゞのことばは意味を帯びてくる。「みんな違ってみんないい」

(清水弘=イエズス会士、広島教区・益田・浜田教会主任司祭、元六甲学院中高等学校長)

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