三輪先生の国際関係論 ⑲歴史と小説のあいだ 

  作家が歴史物を手がける時、史料に依拠しつつ真逆の情景をえがくことがある。城山三郎の場合 :『落日燃ゆ』(新潮社、1974)で戦犯広田弘毅のことを、花山信勝教誨師の日誌を根拠としつつ、そこ に書いてあることの逆を歴史の真実として記述している。
A級戦犯7名が絞首刑にかけられる場面である。彼らは2群に分けられていた。第一群には東条英機 など4名、第二群は広田弘毅など3名であった。第二群が待機しているとき、刑場方面から、天皇陛下万 歳を三唱する絶叫が聞こえてきた。その時、広田が花山教誨師に「あれは何をしているのか」と聞き質した。
 花山は「天皇陛下万歳を三唱なさっているのですよ」と答え、広田に向かって「貴方がたもなさっ たらいかがですか」と勧めた。広田は先輩をたてる意味で元関東軍参謀長陸軍大将・板垣征四郎に「貴方どうぞ」と言った。それで 板垣の音頭とりで、広田を含み第二群全員が「天皇陛下万歳」、「大日本帝国万歳」を割れるような大声で三唱したのであった。
花山信勝の遺した巣鴨日記には、そのような情景描写がある。城山はその箇所から脚注を付して引用している。しかし城山は、広田が「何で私に『万歳』などやれましょうか」と拒否したことをもって、この物語のクライマックスとしたのである。

  城山は拙著『松岡洋右』も脚注に記したりして、歴史記述の体裁をとっていた。私は学術論文風 の体裁から、城山が語りかけるままに、広田の最後の情景を信じてしまった。そして、月刊誌『自由 』に広田の剛毅を讃える書評を書いた。後になって文庫本版が出版されるとき、出版社に請われるまま に、同様な解説を書いてしまった。
それまで私は花山信勝の巣鴨日記なる出版物を手にしたことがなかった。上智大学の図書館にもなかったので、国会図書館の蔵書を借り出してもらった。そして初めて花山の日記を紐解いた時、びっくり仰天してしまった。そこには城山の叙述とは真逆のことが記録されていたのである。

 それから10何年かたってからであったろうか、西日本新聞だったか、福岡の民放の企画であったか、私もビデオ撮りに応えて、外交官としての広田に批判的なコメントをしたことがある。その際、スタッフの人から、かなり老齢になられていた花山氏が話されたことを聞かされた。「東京軍事法廷で、死刑を宣告された時、広田は朦朧とした様子であった」というのであった。
 存命中であれば、城山氏は私の批判に対して「小説的真実というのですよ」とでも応ずるのであろうか。( 2017・10・2記)

 (三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

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