清水神父の時々の思い「われら不完全なれど」

聖体拝領の行列変更
ちいさな教会はともかく、中程度以上の教会ではよく見られること。司式司祭と聖体奉仕者が並び立って聖体授与の奉仕をする。その時、ある人たちはさりげなく行列変更をする。言わずもがな。司祭の手から拝領しようとして、司祭の列に紛れ込むのである。その心は何か。その心は〈司祭からの方が有難味がある〉。司祭の方が有難い、と思う理由はいくつかある。まず、神に身を献げている人である。長いこと哲学を学び、神学を学んでいる。結婚もせず、したがって家庭も持たず、みんなのために尽くしている。貧しく生き、めったに怒らない。

美しい幻想
信仰の側に立ってみれば、それは美しい幻想ともいうべきこと。なぜなら、受けるご聖体は等しく<キリストの体>であるのだから。司祭も奉仕者もキリストを与えるべくお仕えしているのである。神学の知識があるとか、結婚しているかいないかが重要でなく、「与えられるご聖体がキリストだ」ということ。ここが大切である。奉仕者は生活者として、長年磨かれた人である。

 だから、自分の列から人が去って行っても忍耐をもって、堂々とご聖体配りをするのが望ましい。「忍耐は試練に磨かれた徳を生み、その徳は希望を生み出す」(ロマ書5:4)のです。キリストは弟子の養成に当たって、この人たちが不完全で、ヘマをすることは初めからご存知でした。あわてんぼうのペトロを見れば一目瞭然。失敗に失敗を重ねるペトロ。その人に向かってイエス様は「お前さんは教会の土台。お前さんに天国の鍵を授けよう」(マタイ16:19)と無謀ともいえる大胆さです 弟子の失敗に耐えるイエスの忍耐をこそ思いみるべきです。

弱くても司祭
<ゆるしの秘跡>も然り。司祭は「私は父と子と聖霊のみ名によってあなたの罪をゆるします」と言う。縮めると「私は・・・ゆるす」となって、司祭がゆるすかのような錯覚に至る。ゆるすのは司祭ではない。司祭は「み名によって」あなたの罪をゆるすのである。み名に繋がってゆるす。司祭がゆるすのではなく、神がゆるす。司祭はそのゆるしの(道具)に過ぎない。

 司祭にもいろいろな弱さがある。ミサに遅れる。怒りっぽい。挨拶を返さない。決断できない。・・・しかし、それでも司祭なのである。ゆるしにおいても、司祭は恵みの給水管であって、救いの恵みを届けるために身を捧げたいと願ってはいるのだ。願ってはいるが、まだ実現できていないということである。神は、キリストはそういう不完全な者を救いの業の協力者とされる それゆえ、聖体奉仕者は何人かが自分の列から逃げるとしても、それをこらえて奉仕するのが望ましい。

 (清水弘=イエズス会士、広島教区・益田・浜田教会主任司祭、元六甲学院中高等学校長)

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