森司教のことば⑯離婚者への対応- 人の弱さを理解し、寄り添い、支えるのも教会の役割

 日本の教会の宣教司牧第一線に立つ司祭たちを悩ませている問題の一つに、離婚した人たちに対する教会の姿勢がある。その厳しい姿勢が、一度人生に挫折して、光と支えを得たいと願って教会に近づこうとする善意の人々に、教会は近寄り難い存在であると思わせてしまっているからである。

 ここ数年来、日本でも、離婚は、増加傾向にある。ちなみに、1970年代には10%前後だった離婚率(年間の婚姻件数を分母に離婚件数を分子にしたもの)が、一時は30%を超えることもあったが、ここ数年は、25%前後になって落ち着いている。単純に計算すると、今の日本社会は3組に1組、約3〜4秒に1組が離婚するという状態にある。

 特に目立つのが、若い世代の離婚率の高さである。最近の統計によると、10代で結婚した女性の約60%、20~24代で結婚した女性の約40%が、離婚していることになる。

 若年層の離婚率が高いことの理由として、彼らの人格的な未熟さや性衝動に走ってしまう安易さが指摘されるが、その背後には,家庭の崩壊と競争社会の中で,正規の職を得ることが出来ない経済的な不安定さがある。


それはともかくとして、離婚した若者たちは、あたたかな居場所を失い、孤独に晒されることになる。そんな彼らが、離婚した後、独りで生きて行けるわけがない。新たな伴侶を求めようとすることは、当然なことである。

 しかし、これまでの教会は、離婚した人々を、「神の道から外れた」といって責め、冷たかった。

 離婚した人々を責めることは、簡単なことである。しかし、すべての者が喜んで離婚するわけではない。大半の者が、悶々と悩み、言い知れぬ苦しみを味わい、将来に対する不安に怯えながら決断し、自分は人生に失敗したという重いコンプレックスを抱えながら生きようとしているのである。そんな人々を一方的に断罪することは、酷なことである。

 この世界の現実は、誰にとっても複雑で、苛酷である。弱く,脆く傷つきやすい人間が、長い人生を独りで生き抜くことは容易なことではない。天地創造の初め,「人はひとりで生きるのは良くない」と判断した神は、人に生きる希望と喜びを与えるためにパートナーを創造し、人を支えるために教会を創設した筈である。良きパートナーとの出会いも教会との出会いも、神の恵みと言える。

 神の恵みは、一度結婚に失敗した人々にも閉ざされていない筈である。新しいパートナーとの出会いは、新たな希望への道を開く筈である。その門出にあたって、神の祝福を願うカップルも少なくない。日本でも、同様である。

ところが、そんな彼らの前に、離婚を認めない教会は大きな壁となってたちはだかってしまってきているのである。現実には、過去に離婚があるということだけで教会の受付窓口で拒まれ、それでもあえて挙式を求め願うときは、過去の結婚の有効・無効が調査されることになる。しかし、その煩雑な調査に耐えきれなくなって、教会での挙式を諦めてしまう者も少なくない。

 倫理・道徳が衰退した現代社会に向かって、結婚の神聖さを訴え続けていくことは、教会に託された尊い使命である。しかし、また一方、人間の弱さを理解し、挫折した人々に寄り添ってその人生を支えていくことも教会の役割である。今のままでは、日本でも、教会は、罪人に近寄り難い、立派に生きることの出来る人々の共同体であると言う印象を与えてしまう。それは「義人を招くためではなく罪人を招くためにこられた」キリストの心に背くことになるのではなかろうか。

(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)

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2017年10月25日 | カテゴリー :