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「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。 シモンとその仲間はイエスの後を追い、 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、私は宣教する。私はそのために出て来たのである」(マルコ福音書1章35‐39節)
これからお話しするのは、私の好きなスペイン民話の一つです。
昔、小さな子供が三人いる貧しい夫婦がいました。夫は病気で働けず、奥さんが家族のために物乞いをしながら養っていました。ある日、施しを求めて回っていると、漸く1ペセタを貰うことができました。しかし、その金額では食料を買うことが出来ません。奥さんは「何故、このような1ペセタが必要なのだろう」と自分自身に問いました。「どうせ食料も買えないのに、何故必要なのだろう」と。
「何も買えないのだから、ミサを捧げるのに使おう」と思いました。そこで独り言のように問いました-「ミサで、誰のためにお祈りをしようか」と。やがて奥さんは「ミサが一番必要な魂」に祈りを捧げることを決め、神父のところに行きました。「神父様、この1ペセタを、一番ミサを必要としている人に捧げてください」と頼むと、神父はそれを聞き入れて、ミサを捧げてくれました。
その帰り道に、一人の若い紳士に出会いました。その紳士から「奥さん、何処へ行かれるのですか?」と尋ねられ、奥さんは今までの経緯を話しました。すると、その紳士は一枚のメモを渡し、「こちらの家に行きなさい、そしてそこの女主人に『働かせてください』と頼んでみてください」と言いました。
奥さんは不思議に思わずに、書かれてあるメモの通りに進み、ある一軒家にたどり着き、ベルを鳴らすと、女中が出てきました。「ここの奥様に用があるのですが」と言うと、女主人がやってきました。奥さんは「さっき、一人の紳士から『働きたいのなら、この家に行くといい』と勧められました」というと、女主人は「まぁ、それは一体どんな紳士なんでしょう?」と不思議がると、奥さんは「あの方です。あの絵の人がここを紹介してくれました」と言いました。すると、女主人は「あれは、四年前に死んだ息子ですよ?」と答えました。
奥さんは自分が貧しいこと、夫が病気で、三人の息子がいてシチューの材料費を物乞いで稼ごうとしたけれども、1ペセタしか稼げなかったこと、それで1ペセタをミサに捧げ、その帰り道に紳士に会い、ここを紹介してもらったことなど、今までの経緯を語りました。
すると、女主人は奥さんに仕事を与え、沢山の食べ物も与え、明日また来るようにと言いました。
それから5日後、女主人の前に死んだ息子の亡霊が現れ、「お母さん、もう私のことで泣かないでください。もう私の冥福のためにお祈りを捧げなくても結構です。私はもう天国へ入り、神様の前にいるのですから」と言いました。
あの1ペセタは、この息子のために祈られ、煉獄から天国へと行くことが出来たのです。
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スペイン民話の中でもカトリックの良い一面がよく出ている話です。ペセタとは昔のスペインの通貨です。1ペセタがどれほどのものか、実際に触ってみたくなって手に入れてみましたが、思ったよりも小さくて驚いてしまいました。日本の1円玉よりも小さいです。勝手なイメージで100円玉ぐらいの大きさで見ていましたので、この小さな存在を知れることができて感動しました。私がこの話が金額だけではなく、たとえ小さな祈りでも重要なことだな、と知ることができたお話です。
祈りといえば、イエスのお祈りの箇所はマルコによる福音書には三か所あります。「イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、お祈りをされる」というのは一つ目のお祈りです。キリスト教は、大きな帝国でも宮殿でもなく、小さなところから、大きく広がっていきます。イエスの誕生もまた、観客が大勢集まる宮殿ではなく、馬小屋で生まれ三博士の祝福によるものでした。弟子たちが「みんな探しています」と言うのは、常にイエスにこの場所にいてほしい、と思う気持ちが反映されています。
この奥さんも、家族のために稼ぎたかったのですが、1ペセタしかもらえませんでした。それでも彼女が「最も貧しい人のために」と祈ったことが、イエスの場所を示したのだと思います。巡り巡って息子の魂が母親に諭したように、「自分が祈っているだけではなく、誰かも自分の解放のために祈ってくれている」ということは、信じても良い話だと思います。
(Chris Kyogetu)
(あり得ない)—そう呟くことがあります。例えば、2011年の東日本大震災とか、今回の新型コロナの世界的大感染などに直面した時などです。この呟きはしかし、今、自分が目にしてる出来事の原因・理由が分からない、ということの表明でしょう。でも、実際に起きたのです。現実はこのように、いつも私たちの理解を超えています。
*「復活」という出来事
イエスの復活—これもまた、人間の理解を超えた出来事です。それは、昔も今も変わりません。「『死者の復活』ということを聞くと、ある者は嘲笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」(使徒言行録17章32節)。しかし、パウロはこう語ります。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であり、あなたがたの信仰も無駄になります」(コリントの信徒への手紙1・15章13‐14節)。
この不思議な出来事の意味を知るためには、何が必要なのでしょうか。そのことを考えるにあたって、興味深い話があります(ヨハネによる福音書20章1-9節)。少しユーモラスな印象を受けます。
イエスが墓に葬られた後、二人の弟子がその墓に向かいます。ペトロともう一人の弟子(イエスに愛された弟子 です。この弟子は、ペトロより先に墓に着きます。彼は、中には入りませんでしたが、亜麻布が置いてあるのを見ました(ブレポー)。後から到着したペトロは、墓に入って亜麻布が置いてあるのを見ました(セオーレオー)。「ブレポー」も「セオーレオー」も、感覚的な目で見ることなのですが 、後者は「詳細に観察する」といった意味を含んでいます。
さらにこう続きます。「先に墓に着いたもう一人の弟子も中に入って来て、見て、信じた」(20章8節)。ここで語られる「見る」(エイドン)は、「物事の背後を見る」、あるいは「心とか信仰の眼で見る」といった意味でしょうか。また、具体的に何かを見た、とは語られていません。その出来事の意味を見た(知った)のでしょう。
*十字架の木から命が生まれ
復活—それは、イエスにおける神の働きです。「人々はイエスを木に掛けて殺しましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました」(使徒言行録10章39-40節)。この言葉は、初代教会の人々によって大切に受け継がれた ケリュグマ (初代教会の宣教使信)と呼ばれるものの一部です。この木が、命の木となります。「あなたは人類を十字架の木によってお救いになり、木から死が始まったように木から生命を復活させ、木によって勝ち誇った悪霊を木によって打ち滅ぼしてくださいました」(「主の受難叙唱」より)。「あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の中に隠されている」(コロサイの信徒への手紙3章3節)と語られます。
「 キリスト者」とは、洗礼によって罪に対して死んだ者です。そのことについてパウロは、次のように語ります。
「キリスト・イエスにあずかる洗礼を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのです。私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです」(ローマの信徒への手紙6章3‐4節)。
洗礼は、ある意味で、「復活の先取り」と言ってもいいかもしれません。
(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)
カトリック教会では、降誕祭と復活祭の前に黙想会が行われる。 信者として霊的生活を送る心構えを見直すためにも黙想は必要だろ う。静かな時を持ち、 自省から祈りへの導きを神は準備してくださっているに違いない。 神からの呼びかけが聞こえる良い耳を持ちたい。私は、 コロナ禍の3年間、この世を生きる自分の信仰を問い、 自分の心を捜し求めた。
そんな時、 宗教界にとってショッキングな問題がクローズアップされ、 宗教を根本的に見直さねばならない問いかけに拍車が掛かった。 宗教二世の問題からは、 親子で同じ宗教を持たねばならないとマインドコントロールされた 親の圧力から子供たちが壮絶な人生を歩んで来たことに唖然とした 。カトリック教会の親子関係も気をつけねばならない。 親が教義を子供たちに強制することにより、 ある時から子供たちは教会に来なくなる。 子供にも信教の自由があることを忘れてはいけない。
世間では無宗教を主張する人たちが「宗教」と「信者」 に対して興味津々となり、伝統宗教も新興宗教も皆同じとみなし、 信仰を持つ者への差別視さえ始まっている。 大変肩身の狭い状況だが、カトリック教会も然りである。これだけ 社会を騒がす性的虐待の報道にさえ多くの信者は動じない。教会の 有るまじく不名誉な問題に信者として無関心でいいのかと一信徒と して悩んでしまう。
イエスは「私を分かっていないのか」と、 嘆いていらっしゃるに違いない。イエスのエルサレム入城時に神殿 で商いをしている人たちをイエスは追い出した。神殿には神のほか には何も存在してはならないとするイエスの強い思い、その激しい 行動からイエスの厳しさを私たちは知らねばならない。また、 イエスが群れを離れた1匹の羊を探しに行かれたこと、 イエスがこの1匹を見捨てず必死で探す、 この神からのメッセージが教会共同体には聞こえないようだ。
日本では、2020年6月21日に長崎で「 カトリック神父による性虐待を許さない会」が、 カトリック教会の聖職者から性虐待を受けた被害信徒たちから発足 されている。なぜ、性的虐待が起こり、隠蔽されてきたのか。 なぜ、今も司教団が誠意のある取り組みをしないのか。なぜ、 司祭団も教会組織に属す信徒代表者も知らん顔をしているのか。 これでは、イエスにしたがっているとは言えないだろう。また、 教皇フランシスコの祈りの意向「性的被害者のために祈り、 赦しを求めるだけでは不十分、具体的行動が必要」 を無視していることになる。
イエスは決して『権威主義的な階級組織』を作られていない。 しかし、今の教会は位階制度から聖職者に信徒の声は聞こえない。 信徒は、教会への疑問を持つこともせず、 悪事をも見て見ぬふりをしてきた。この責任は、大きい。 是非とも反省し、イエス中心のカトリック教会になるべく、 知性ある会話が成立する環境作りの推進を心掛けていただきたいも のだ。
そして、カトリック教会の性的虐待の背景には、 ゆがんだ異性観の意識があると言われない為にも、 教会改革を真剣に議論する人たちから目を背けることがないように 願いたい。 正しく物事に取り組んでいる人が正当に評価される教会でなければ ならない。
自己愛の権威という幻想から、 無責任な信者たちの集う教会をイエスは望まないだろう。 なぜなら、イエスは人のため(私たちのため) に磔にされたのだから。
「弟子たちは、『あなたの家を思う熱情が私を食い尽くす』と書いてあるのを思い出した」(ヨハネ福音書2章17節)
「神がみずから等しくかたどり創造した人間の魂こそがこの神殿であ る。天国においても地上においても、 神が驚くべきしかたで創造したみごとな被造物すべてのうちでも、 人間の魂ほど神に等しきものは何ひとつとしてない。 だからこそ神はこの神殿を、 神のほか何ひとつないように空にしておきたいと思うのである」(エックハルト説教集「魂という神殿について」より抜粋)
「知性こそ神の神殿である。神が最も本来的に住いするのは、 その神殿、すなわち知性をおいて他にない」(同「知性と意志について」より抜粋)
(西の憂うるパヴァーヌ)
*神様の私たちに対する愛を語るイメージ
「百聞は一見にしかず」と古今東西複数の言語での格言があります。物事やアイデア、情報は単なる口頭での説明よりも、効果的にその意味や本質を伝える1つのイメージによって伝えられることを意味します。私たちの脳は文章を理解したり覚えたりするよりも、イメージや映像の方が分かりやすく記憶しやすくできていると言われます。
私たちは、イエスがご自分は何者であるかを理解させてくださるために、よくイメージを用いられることを知っているでしょう。ご自分のことを羊飼いと表現され、私たちが彼の羊だと言っておられます。もちろん、私たちは本当の羊ではないのですが、羊飼いが愛を込めて自分の群れを世話することは理解しています。これはほんの一例です。
イメージというものは、私たち自身の生活の中で主イエスは誰であるかを理解するのに役立ちます。これらのイメージを通してキリストのことを理解するために神学の学位を必要としません。聖書を説明する偉大な神学者や哲学者によって書かれた書物が確かに多くあります。しかし、おそらくごく一部を除いて、それらは、神様が聖書の中で私たちに明らかにした単純なイメージほど多くを私たちに伝えることがなかろうかと思います。
*身をかがめられ、私たちを養ってくださる神様
では、主イエス以前の旧約聖書はどうでしょうか。驚くべきことに、旧約聖書の著者たちでさえ、私たちが神様をよりよく理解できるために、目に見えない神様に言わば「肉体」を与えるようなイメージを使用されているのです。
例えば、主イエスより 700 年前に生きていた預言者ホセアは、道を踏み外したイスラエルの民に対する神様の愛について、とても美しく有益な言葉を書き記しています。ホセア自身は、自分の妻がいかに自分に不誠実であるかを見抜きながらも、彼女を心から愛していました。そしてホセアは、不忠実な民に対する神の愛を描写する際に同じ状況を用いました。
実際、そのホセア書11章でホセアは神様のことを、「私の子(イスラエル)を呼んでいる」と表現しています(同1節)。神様はイスラエルを、ご自分が愛することをやめられない「子供」として語られます。
ホセアはまた、神様を「自分の子供に歩くことを教える」と表現しています(同3節)。なんて素晴らしいイメージでしょう!子供は最初の一歩を踏み出そうと苦労しているときに、親が彼らの手を握りながら、いかに慎重に子供を助けるのかは誰もが知っています。親は子供を転ばせないのです。神様も私たちを転ばせることはしません。
ホセアはさらに、神様が「身をかがめて我が子を養う」様子を描いています(同4節)。神様が天から身をかがめられ私たちの世話をしてくださる姿を想像してみてください!それに共感できない人はいるのでしょうか。
これらすべてのイメージにおいて、神様は私たちに対するご自身の愛を理解する手助けをしてくださいます。神様は私たちが理解や共感できるような言葉と経験を使われるのが、まさに私たちへの贈り物ではないでしょうか。私たちは「神のことは我々の理解を超えた神秘なのだ」と言うかもしれません。しかしなそれ以前に、私たちは、神様がいかにしてご自身のことをそれほど理解しやすくしてくださっていることに気づいたことがあるでしょうか。
*神様の御手において
私たちは、創造主である神様は純粋で無限の霊であることを知っています。しかし、聖書はまた、人間の特徴を彼に帰しています。神様はその叡智の中で、ご自分の子供たちに、ご自分が真の存在であり、私たちがしがみつくことができる方であることを知ってほしいと望まれています。神様が私たちに語られている言葉の中で、ご自身を物理的なイメージで描かれています。
例えば、主イエスは神のことを 「雛を羽の下に集めるめんどり」(ルカ福音書13章34節)) のように表現されています。また、聖書の中では神の御手について122もの言及があることも重要なことだと思われます。
私たちは、お互いへの愛や思いやり―触れること、保護すること―を表現する上で自分の手がいかに重要であるかを知っています。このイメージも神様について多くを語っています。天地創造の物語では、神様はその意志によって天地を創造されます。しかし、命の贈り物に関しては、創世記は「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」(1章26節) と語っています。
私たちが神様の御手に触れられる、というイメージは、神様が私たちにどれほど近いかを理解するのにとても役立ちます。神様が転んだ私たちを抱き上げてくださるとさえ想像できるでしょう。受肉した神である主イエス・キリストは、ご自分の御手で人々を触れられたり癒されたりしました。
例えば、主イエスは重い皮膚病を患っている人に手を差し伸べて触れ、その人を癒やされました(マルコ福音書1章40節~42節)。端的に言えば、私たちは皆、神様の御手の中にいます。これは、神様が私たちから遠く離れていないことを思い起こさせるはずです。主は私たちと共におられるだけでなく、実際に私たちの心の中におられるのです。
主イエスの「放蕩息子」のたとえ話を思い出しましょう。その若者の父親は、彼が愚かな冒険から帰ってくるのを待っていました。若者はすべての夢を粉々にして家に帰ろうとしていました。聖ルカは次のように記しています。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ福音書15章20節) 。
このように、私たちが愛する人のために祈る美しい方法があります―「主よ、私の愛する者をあなたに捧げます。あなたの御手で彼らを抱いて守ってください」と。また、自分自身のためさえも、「主よ、私は自分をあなたの御手に委ねます」と祈ることができます。
かつて、初めて親となった友人は、次のように私に言ったことがあります。「赤ちゃんと一緒に病院から家に帰って、ずっとその子から手を離すことができなかった。自分の腕の中にある新しい生命の奇跡をただただ見つめ続けたい」と。さて、神様が私たちを息子や娘としてどのように見ておられるかを想像してみてください。
天におられる私たちの御父が深い愛情を込めて「あなたは私のもの、あなたのためなら何でもする。いつまでも一緒にいてほしい」と語りかけてくださることを想像してみましょう。
それが、その子供である私たちを愛される神様のイメージではないかと思います。
(ガブリエル・ギデオン=シンガポールで生まれ育ち、現在日本に住むカトリック信徒)
亜熱帯圏タイ国の果物は、色も姿も珍しく、興味津々、楽しく美味 しく味わっています。
私の好きな果物に、タイ語でเสาวรส(サワロット)、英語で 『パッションフルーツ』と言う名の果物があります。厚い卵形の殻 に、甘酸っぱい黄色のゼリー状の実入っているのです。
なぜPassion(受難 )fruit と言うのか、良い折なので、調べてみました。
和名はクダモノトケイソウ、原産国はブラジル南部。蔓状の多年草 でビタミンC、E、A 、特にB群が豊に含まれ、高血圧、貧血防止、血行促進、クエン酸 が含まれ免疫力を高める…スーパーフード。
初めて味わったのは、随分以前友人が差し入てくれたパッションフ ルーツのジュース、甘酸っぱい香りの良い、黒い種がいっぱい入っ たとろとろした黄色の飲物。種も飲むのかしら? 変わった名前だなぁと印象に残りました。
『パッションフルーツ』と呼ばれるのは、花が茨の冠を被せられた 受難のキリストの様子を連想させ、宣教師が命名したとの事。
殻に皺がより始めると、酸味と甘みが程よく食べ頃です。
もうひとつ、私の好きなキリストの受難にまつわる花『Crown of thorns=茨の冠 』、和名「花麒麟」も紹介しましょう。茎にすごい棘がびっしりあ るサボテン科の多年草、ローマ兵が鋭い棘ある茎で冠を作り、キリ ストに被らせたと言い伝えられています。40度を超える3Fテラ スの鉢に、真っ赤な『荊の冠』が咲いています。
今年の四旬節、主のご受難とご復活の秘儀、格別に身に沁み噛み締 めて過ごしています。
読者の皆様、主のご復活の喜びに満たされます様に、アーメン。
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
新型コロナ感染は収束に向かっているとのことから、政府は、 マスク着用“3月13日からは個人の判断で”と決定した。 私はマスクでの生活が苦痛だが、 マスクなしの生活に不安を持つ人もいる。 その理由も人それぞれで驚くことも多い。
「 マスクの生活に慣れてるから、ずっと着用すると思う」「 マスクを外した顔を見られたくないから」と、 小学生から高齢者まで既にマスクが顔の一部となり、 コロナ感染予防のためのマスク着用ではなさそうだ。 コロナ禍から見えた、人の内面である。
カトリック教会はコロナ禍から何を見たのだろう。 信徒にとっては教会を冷静に見つめる“時” であったかも知れない。
友達のフランス人は3年ぶりに故郷に帰り、「 国も教会も大きく変わっていた」と嘆いた。「 ミサにあずかるフランス人が少なくなっている」と。もともと信徒の少ない日本も同じ。私の周りの小教区でも、日本人の姿が減る一方だ。教会が多様性や国際性を全面に出すのも結構だが、 今の状態はいかがなものかと案ずる。「フランスでの性的虐待の問題も永遠に続くだろう」と友達は静かに言った。
今、私が知る教会に集う信徒たちは、 大きく分けて二極化している。「教会での奉仕が生き甲斐であり、 教会活動に熱心な人たち」と「ミサを捧げるためだけの教会、と割り切っている人たち」だ。前者は、後期高齢者に多い。 家族と過ごす時間よりも教会で過ごす時間を優先してきた人の場合 、家族、特に子供は、教会をどう思ってきただろう。
私の友達の家族の場合、父親の葬儀で、喪主の長男は「 父をずっと教会に取られていました。 私たち兄弟は教会が嫌いです」と挨拶した。 兄弟は皆、幼児洗礼であるが、教会には行かない。後者は、 信者との交わりを避けているため教会の人間関係で悩むこともなく、 安全な立ち位置だが、共同体としての歩みもない。
かつて私たちは、 教会の未来を見据えて小教区の運営に参加していた。これからの教会を支 えてくれる若い世代を交えて奉仕できる環境作りをしていた。 若者も増えていた。そのためのマネジメントに必要な意見を教区に 提案したが、逆効果。私たちは、 パワーハラスメントを受け、 相談できるカトリックの組織を探したが見つからないまま、時を過ごしてきた。
諦めていた 時にインターネットで“カトリックあい”に出会い、 そこに書かれているカトリックの情報、最新ニュース、また、 解説に光を見つけた。そして毎回「これで最後かも」 と思いながら拙い文章のコラムを書いているのである。 地方に住み、 私の身近な小さき老若男女信徒の思いをも書かせていただいている “カトリックあい”に“神”に感謝である。
また、私は一冊の本を見つけた。野村よし著『 マネジメントから見た司教団の誤り』(「幻冬舎ルネッサンス新書」)である。
私は、今は亡きある司教様から「 興味や疑問が湧いたなら直ぐに行動すること」と教えられた。 そんな司教様は、司教団への野村さんの真摯な問いかけに反応し、すぐに野村さんを訪問されていた。司教様から「立ち上がれ!」とよく言われたことが懐かしい。
野村さんは、同著でこう書いておられる。
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本論考の執筆については心理的に高いハードルがある。正直、 怯む。しかし、次の教えに基づいて決断する。
([教会憲章・37項]「信徒は、すべてのキリスト信者と同様、 聖職にある牧者から教会の種々の霊的善、 とくに神のことばと秘跡の助けを豊かに受ける権利を有しており、 自分の必要と望みを、神の子らとキリストにおける兄弟にふさわしい自由と信頼をもって 、牧者に表明すべきである。信徒は、恵まれた知識、才能、 卓見に応じて、 教会の利害に関することがらについて自分の意見を表明する権利を 有し、時にはそうする義務がある(後略)」
上記には「教会がそのために制定した機関を通して」 との条件がついている。残念ながら日本のカトリック組織内に、 そのような機関があることを知らない。私は今までに個人として、 またグループの一員として、司教様方に、少なくない意見を述べ、 質問をしてきた。基本的には無視された。少ない回答も、「 回答できない」、もしくは「見解の相違」の類で、 実質無回答と同じだった。「信徒は、恵まれた知識、才能、 卓見に応じて」との条件もある。 本書がその条件に値するかどうかは、読者のご判断に委ねる(自分では値すると思うから発表するのである)。
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私たち信徒は社会で生きている。しかし、一般社会の組織では考え られない強い位階制度に守られた「司教」の立場からの問題発言と、そばで司教と一体化した聖職者の言動に、社会性は無い…イエスの死刑を要求したユダヤ人指導者を思う。報道されるカト リック教会の組織的隠蔽を、私たちは肌で感じた。
先日、四旬節の黙想会で「 神の思いは孤独な人には届かないんです」と教えられた。 私たちは、いつ復活できるのだろうか、と今日も憂い、頭が痛い。
(西の憂うるパヴァーヌ)
私の八十寿祝いにいただいた特別の贈り物は、 進行した癌という病でした。(写真は、混雑する病院のロビー)
昨年8月末日、 赤波江神父様をお招きして久々に日本語のミサがありました。 神父様をご案内して会場に向かう途中急に左膝の力が抜けて歩行困 難に、なんとか会場に辿り着いたものの皆さんの力を借りて、 感謝のミサの、信仰で結ばれた暖かい家族の集いでした。
その後、病院で、膝と、前から気になっていた拳大の癌らしきものを検査してもらったら、「大病院で至急処置が必要」との診断。ビザ更新を間近に控えていたので、ぐずついていましたら、「 命とどちらが大事か」と厳しい言葉。
修道院に近い大病院と指名されたプーミポン病院にお世話になることにしました。書院の帰り、よく居眠りして乗り過ごした前国王様の名がついた病院。まさかそこに入院して手術を受けるとは!
外科と癌科に通院。手術には危険な大きさになっており、手術 可能な状態に小さくなるまで化学抗癌治療を受けました。
プーミポン•アドンヤデート病院は1949年、 空軍基地内に軍隊と家族のために設立されました。 現在は民間にも開かれ、700床の入院患者に対応する国立総合病院 です。
医療界の詳しい事情は分かりませんが、 ほんのわずか身を踏み入れての体験からの気づきを書いてみたい、と思 いま す。
(写真は、看護科実習生からのお見舞い)
病院は、早朝から庶民でいっぱいですが、高齢者と僧侶・修道者には治療を優先し、負担額についても配慮してくれます。 私の場合どちらにも該当するので、 順番を飛ばし、医療 保険からの支払いを受けられない「外国籍で現金払い」の私を心配してくださって、 書類をあちこちに回して削れるだけ負担を削っていただき、入院中の食費も支払いが免除されていました。 残さず頑張って全部食べたのに…姉妹と笑いながら感謝。
数年前、山岳地出身の姉妹が「入院して手術を受けた際、身分証明書の住所( 自給自足の現金収入のない地域)を見て費用を免除され、 びっくりした」と話してくれました。
待合室には志で用意されたおやつと飲み物、 読書コーナーがあり、 玄関のロビーの1坪程の特売所での売り上げは病院へ寄付され、 貧しい人の治療費援助に当てられる。 毎週金曜日は特大規格外サイズの卵の販売、 黄身が2つか大きな黄身!「少しは貢献ね」といつも買っています。
私の外科、癌科ともに主治医は素敵な、溌剌とした女性医師です。病院長も女性で、医師、看護士、職員全員が空軍の軍人です。 若手の医師がずらり、テキパキと治療にあたる姿、 軍の病院の方針かなとも思いますが、頼もしいです。
私の病棟のスタッフのチームワークの良さ、 看護に込められた親身の心、 5人部屋の仲間と、居心地良く過ごせた6日間の入院生活でした。 手術4日目に廃血液の管に繋がれ、ボトル2つぶら下げて退院し、 術後の結果は良好、治療を続けています。
先日カトリック新聞で読んだフランシスコ教皇の言葉を思い出し希 望と安らぎに満たされます。
「病者の方々を見捨てて、 医療ケアを受ける経済的余裕がない人を助けない様な冷ややかな世 界には、未来はありません。…医療ケアはぜいたくなどではなく、 あらゆる人のためにあるのです」。
コロナが収まって帰省できる日まで待てず、 派遣されたタイで人生終盤の病院通い。実に恵み深い八十寿の初体験でした。Deo Gratias!
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
**「カトリック・あい」から読者の皆さんへーSr.阿部に激励のメッセージを送りましょうーーandynanjo@gmail.comまでお送りください。まとめてSr.阿部にお送りします!
前回では、全能の神様が「光あれ」と仰せになり、私たちの想像や理解をはるかに超えた壮大な天上の創造物を私たちに垣間見せてくださったことを共有しました。
そして、神様は「地はあらゆる種類の草木と果樹を生えさせ、あらゆる種類の生き物、あらゆる生命を生み出せ」と仰せになり(創世記1章11~12節、20~25節参照)、地球にあらゆる生命を造られました。
*地球上のあらゆる素晴らしき生命
最も暗い洞窟や最も深い海に行けば、生命はそこに存在し、今もなお新しい種の生命が発見されつつあります。
今日、地球上には800万種を超える動植物が生息していると推定されています。例えば、大空を飛ぶワシには60種以上、陸上と海にはカメが350種以上います。可愛いコアラやカンガルー(約50種)やウォンバットが属する有袋類には330種、子どもたちに大人気のカブトムシを含む甲虫類には35万種以上います。ユーカリの木は700種以上あり、そして約40万種の美しい顕花植物があります。そのうち蘭科には35,000種があって最も多い。
*すべての生命を支える諸々完璧な条件
早朝の太陽が昇り、屋外に出て耳を傾ければ、鳥(約18,000種)がさえずっているのが聞こえるでしょう。生命は地球上のどこにでも見つかることができますが、すべての条件が完璧に揃っていなければなりません。例えば、私たちが当たり前のように息吸っている酸素は地球の大気の21%を占めていますが、その割合がそれより少しでも高ければ、私たちは止められないほどの火に燃やされてしまうでしょう。逆にそれより少しでも低ければ、誰もが窒息死してしまうのです。
そして、地球と太陽との距離は信じられないほど完璧です。生命を維持するには液体の水が必要ですが、これは、私たちが享受している太陽との絶妙な距離のおかげで、非常に狭い温度範囲内でのみ実現可能なことです。この繊細で完璧に維持されたバランスから少しでも逸脱すれば、地球上のすべての生命が破壊されてしまうでしょう。
神様は自然界と超自然界の神であり、確かに偉大な神聖なる芸術家です。そのため、私たちは神様の存在とその御業が私たちの目に見える世界でどのように働いているかの痕跡が見つかることを期待すべきだと思います。
そして、私たちもダビデと同じように、それらの想像を絶する美しさ、完璧さ、壮大さを目にすることで、その素晴らしさに驚嘆しながら、神様の無限、知恵、御力、威厳を思い巡らし始めます。
「主よ、我らの主よ/御名は全地でいかに力強いことか。...あなたの指の業である天を/あなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う。人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。/人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは…」(詩編8章)
*御子のうちに、御子によって、私たちへの無限の愛
全能の神なる主はすべての被造物を私たちに与えられ、それらを支配することをお許しになりました(創世記1章26~28節参照)。また、地球と他の天体との欠かせない関係を含め、私たちが必要とするあらゆる天地の要素も与えてくださっています。
何よりも、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書3章16節)。「神は御子のうちに、御子によって、すべての人を招き、聖霊において、御自分の子とし、従って御自分の至福のいのちの相続人となるように呼びかけておられます」(カトリック教会のカテキズム、序論1-1)
四旬節が始まりました。私たちが主イエス・キリストにより近づくことができるように、私たちの心により深い変化をもたらす良い準備ができるように、天地の創造主、全能の父である神の恵みを求めて祈りましょう。
(ガブリエル・ギデオン=シンガポールで生まれ育ち、現在日本に住むカトリック信徒)
互いに相手をどう呼び合っているかーそれによって、私たちは、お互いの関係を見ることができるでしょう。家族の中で、また学校や職場といった社会の中で、私たちは、そのことを体験します。その際、「名(前)」は、大切な役割を担っています。相手が自分の名前を憶えているー感謝(よろこび!)。自分が相手の名前を憶えているー祈り(よろこび!)。これが、人間関係の原点ではないか、とそう思います。
*名は体を表して
聖書において、「名」は、その人の単なる「しる」や「記号」ではなく、その人の本質や役割を表しています。
例えば、旧約聖書でしたら、アブラハム(国民の父)、イサク(神は笑う)、そしてヤコブ(かかとを握る)、などを思い起こすことができます。また、新約聖書でしたら、ヨセフ(主[ヤーウェ]は加えたもう)、マリア(神に愛された者/高められた者)、そしてイエス(主は救い)、などを挙げることができるでしょう。
イスラエルの民は、しかし、直接神を名前で呼ぶことをはばかりました。そこで、彼らは、「主」という言葉で神を呼ぶようになります。「主」以外に神はない。「あなたがたは私の証人/私が選んだ私の僕であるー主の仰せ。/あなたがたが私を知って、信じ/それが私であると悟るためである。/私より前に造られた神はなく/私より後にもない。/私、私が主である。/私のほかに救う者はいない」(イザヤ書43章10-11節)。
*主の名を呼び求め
その延長線上において、イエスは、‶主イエス・キリスト〟と呼ばれます。つまり、これは、‶イエスは神である〟という信仰告白です。ですから私たちは、祈りの最後に「私たちの主イエス・キリストによって」と唱えます。言い換えれば、これは、「主イエス・キリストの名によって」ということです。
主の名を呼ぶーそれは、神に礼拝を捧げること、あるいは祈ることにほかなりません。それゆえ、キリスト者は、「主の名を呼び求める者」(使徒言行録9章14、21節参照)と言われます。つまりキリスト者は、「絶えず祈る者」なのです。
イエスは、こう語りましたー「あなたがたが私の名によって願うなら、父は何でも与えてくださる」(ヨハネによる福音書16章23節)。イエスの名によって願うとは、イエスの本質によって願うということ。その本質とは、‶主は救い〟。つまり、神の救いの営み(オイコノミア)を信じるならば、父は、必ずそれを叶えられるということです(3章17節参照)。
このように、キリスト者の信仰はイエスの名に基づきます。ですから、パウロは、こう語りますー「口でイエスは主である告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われ(ます)」(ローマの信徒への手紙10章9節)。ここに、‶使徒信条〟の核心があります。
*イエスの御名の祈り
「イエスの御名の祈り」という祈りがあります。「主イエス・キリスト、罪人の私を憐れんでください」というものです(マタイによる福音書20章31節参照)。この祈りは、6~7世紀の東方教会にその起源を持ち、極めて簡潔な祈りです。呼吸を整え、を使いながら唱えられることもあったそうです。何回も何回も繰り返し唱えることによって、私たちを、よりいっそう深い祈りへと導きます。
生きることは一筋がよし寒椿(五所平之助)
(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)
色も形もサツマイモそっくりの、英語 でYacone (ヤーコン)とも呼ばれる根菜。ある日、姉妹が「美味しいのよ」と 、掘り出してきたばかりの土の付いたサツマイモらしきものをもらっ て来ました。
ゴシゴシ洗って皮を剥いて輪切りにして「生で食べら れるのよ。はい、どうぞ」と。シャキシャキ瑞々しい、うっすらと甘 い梨の感触。皮を剥いて一個食べてしまいました。おいしかった!生まれて初めての体験がまた一つ、この齢になって、感動です。
「名 前は何て言うの」と聞いたら「บัวหิมะ (ブアヒマ= 蓮雪=snow lotus)」。台湾では「雪蓮果」と呼ばれ、果物として親しまれて、名 前まで素敵!
調べてみたら何ともうれしい発見。この野生根菜の原産地は南米 ペルー説、チベット説がありますが、どちらにしても寒冷地に育つ 菊科の多年生草木。「地下のリンゴ」とも呼ばれ、 古くから現地人の大切な食料です。
甘みがあっても糖分は少なく、 免疫力を向上させ、多分に含まれるオリゴ糖は腸内で大活躍。関節や筋肉、軟骨を守る野生の薬でもあり、 化粧品としても使われています。日本でも栽培する農家があり、 直送されてお料理にも使われていますね。サプリメントまで出回っ ていてびっくりです。
また一つ、創造主の大地の贈り物、サツマイモに“扮した”ブアヒマを いただき、小さな醍醐味に、目も心もピカッと輝きました。
今日もお向かいの教会のミサに与り、恵みを感謝して外に出て夕暮 れの空を見上げると、爽やかな月、星々がきらめき、実に美しい。 天地の創造主への、有難い清々しい感謝と感動で心がいっぱいになります。
愛読者の皆さん、ちまたの身近な、細やかな発見や体験を通して、心身を ときめかせ、感謝と喜びの人生を一緒に生きましょう。
聖パウロのフィリピの信徒への手紙を贈ります。
「ゆがんだ邪悪な時代にあって… この世で星のように輝き、命の言葉をしっかり保つ」(2章15‐16節)ように!
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員=聖書の引用は「聖書協会・共同訳」による)
今年も受験シーズンがやってきた。 受験生を持つご家庭は緊張の中、家族共に祈り、 心を一つにして試験に臨む環境作りをされていることだろう。 我が家も例外ではない。人より受験慣れしている私ではあるが、 孫の受験には落ち着かない。 そろそろ合格祈願のために神社に行かねばと、 日本の習慣も重んじる私である。
そんな私は、以前から禅宗に興味を持っている。 名刹でイベントを開催した事もある。 県をはじめ教育委員会等々の後援のおかげもあるが、 なんといってもその名刹の普段閉ざされている仏間での開催に人々 は興味を持ち、大きな反響があった。 当日は和服で参加してくださった女性の姿もあり、 その場に溶け込む上品な華やぎから、日本が誇る着物文化の魅力を再 認識し、 そこに居る外国の方々の感嘆の声を素直に受け入れた私だ。
受洗後も禅寺に座りに行く信徒さんがいらっしゃる。 私も一度だけご一緒させていただいた。 名刹の坐禅堂に足を踏み入れる時の緊張は、 座ってからもしばらく続いた。段々と呼吸が整い、 心地良い緊張感を体験することができた。その方のお陰で、 国内外でご活躍のご住職さんを知る事もできた。 私の娘と同世代のご住職さんであるが、 日本人としての礼儀を重んじる振る舞いと会話からは修行の奥深さ 、頭脳明晰であられることを直感でき、 人格者に年齢は関係ないことを思い知った。
名刹は、 ご住職さんの生き様によって作られ、 その苦労を必ず見ている人がいる。世の人が認めてこそ、 その足跡は語り継がれる。 全ての聖職者が尊敬に値する人ではないことを私たちは知っている 。そして、その名刹を受け継ぐ次の世代のご住職の責任は大きい。
最近は、県内外からの若者は勿論、 外国人観光客らの訪問者の増加、 イベントの開催などがニュースで報じられ、 メディアとの関係も良さそうだ。この歴史ある名刹は、 若いご住職によって、 時代に沿った寺と人との関わりに取り組みながら知名度を上げ、 それにより前住職の寺の再興への真摯な取り組みと不屈の熱意をも、 私たちが知るに至るのである。生きた宣教である。
次女は、「 洗礼を受けるにあたって他宗教を深く知る必要がある」と禅宗の本を選 んでいた。ここでの「選んでいた」とは、 ある亡くなられた方の奥様から、お持ちになっている沢山の蔵書の中から「必要ならば譲り 受けて欲しい」とのお話があり、興味ある本をいただいて、家に持ち帰ったのである。その時、 娘は、上智大学教授でイエズス会士の門脇佳吉師の著書『禅とキリスト教』についての本二冊を選んでいたのだ。
この蔵書の持ち主は、上智大学出身であり、 カトリックからプロテスタントへ改宗されたが、 キリスト教の教義と組織への疑問が解消されず自分の道を探し求め た方だ。この方が悩まれた時から70年以上が過ぎた今、 私たちも同様の悩みを持っているのかもしれない。
新たな教皇フランシスコ連続講話・新「使徒的熱意について」 から、私は希望を与えられている。(翻訳は「カトリック・あい」)
「教会は他者をひたすら改宗することをしない、「他者を引き付ける魅力」によって成長するもの。 この魅力的で喜びに満ちた証しこそ、ご自分の愛に満ちた眼差し、 聖霊の私たちの心を立ち上がらせる外向きの働きをもって、 イエスが私たちを導かれる目的地なのです」(「使徒的熱意について」①から抜粋=教皇ベネディクト16世の言葉から)
「私たちは、司牧者の心の恵みを願います。苦しみとリスクを引き受けるそのような愛なしには、 自分たちだけを養うリスクを冒すからです」( 「使徒的熱意について」②から抜粋=群れを離れる人を見たら証しする機会に)
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私が愛読する中村元『慈しみの心』ー
、慈悲と生きる智慧に満ちたブッダの言葉、名僧、 経典などを紹介した、から…
「我を尽くすのが正法である。 智慧者は智慧に執着する我を立てる。慈悲者は慈悲に執着する我を 立てる。坐禅者は坐禅に執着する我を立てる」(鈴木正三= 江戸時代初期の曹洞宗の僧侶・仮名草子作家)。
「我を尽くす、とは驕りの心をなくすという意味。釈迦は貪りと怒 りと驕りの三つの心をなくせば心の安らぎを得ると教えた。 なかんずく驕りをなくせと力説した。己の家柄や身分や知識を自慢 し、高圧的に振る舞いたがる人がいる」(解説=田上太秀・駒澤大 学名誉教授)
日本人として、 人としての、己の無知を思い知る年の初めである。
(西の憂うるパヴァーヌ)
・ガブリエルの信仰見聞思 ㉘神の無限の素晴らしさと美しき御業を垣間見るーその1
3週間前に「5万年に1度しか見えない緑の彗星が接近。2月には肉眼で見えるかも」という世界中の天文学界やファンを興奮させるような報道がありました。
彗星の名前は「C/2022 E3(ZTF)」。米航空宇宙局(NASA)のジェット推進研究所によると、このZTF彗星は1月12日に太陽、そして2月2日に地球に最接近し、環境条件が合って暗い夜空であれば肉眼で見える可能性もあると伝えられています。
昔から宇宙や自然界に少しばかり興味があって、時々気が向くと、その分野に関する雑誌や本、写真集を気軽に読んだりしています。いつからその興味を持ち始めたのかは定かではありませんが、おそらく、初めて旧約聖書のシラ書42章15節~43章33節(『自然界における神の偉大さ』という小見出しを付けても良いのでは。と勝手に思っています)を読んで深い感銘を受けたことがきっかけだったのかもしれません。
あらゆる分野において科学が進歩する中でなされている多くの様々な発見を通して、神様の御業の偉大さと素晴らしさを少しでもより一層知りたい、より深く感じたい、と思っているからです。
*太陽と星
「光り輝く太陽は、万物を見下ろし、主の御業はその栄光に満ちている…。澄み渡る大空は天の高みの誇り 天の姿は栄光に満ちた眺め。太陽は現れる時、日の出の時、あまねく告げる。いと高き方の御業はなんと驚くべきものか…。星々の輝きは天の美 主のいと高き所にあって輝く飾り」(シラ書42章16節、43章1~2節、9節)
私たちの太陽は巨大です。100万個以上の地球は、端から端まで約160万kmの太陽にきれいに収まります。そして天の川には、太陽と同じような星が20億から30億あるようです。海浜に行って一握りの砂を拾えば、1万粒ほどの砂を手に持つことになるらしいです。
宇宙には、地球上のすべての海浜の砂粒よりも多くの星があります。神様はそれらの星すべてを、口の息によって創られ、それらすべての名前を知っておられる、と聖書が教えてくれます(イザヤ書40章26節、詩編33章6節、147章4節参照)。
「神は言われた。『光あれ』。すると光があった(創世記1章3節)ーご存じかも知れませんが、光は秒速約 30 万kmで移動することが分かっています。この速度で、光が地球の赤道(約4万km)を1秒間に7回旋回できます。太陽の光は私たちの肌に届くまで8分かかりますが、巡航時速800kmのジェット旅客機は太陽に到達するのに18年かかるでしょう。 私たちの銀河の端から端までの距離は約10万光年あります(1光年は約9.5兆km)。ジェット旅客機でその旅をすれば1000億年かかるでしょう。地球から最も近い恒星は4光年離れていますが、そのジェット機がそこに到達するまで550万年かかります。
さらに想像を広げてみましょう。私たちの知られている宇宙は端から端まで約120億~150億光年で、さらに広がり続けています。現代の科学的証拠によると、観測可能な宇宙には少なくとも1000億の銀河があり、それぞれには20億から40億以上の星があるようです。
これまで発見された最大の恒星は、太陽の約500倍の大きさです。そしてもう一つ別の恒星は太陽の約650万倍の明るさがあります。では、超新星(スーパーノヴァ、爆発する恒星)についてはどうでしょうか。超高密度であるため、その物質の一匙分だけで数千トンの重さがあり、数十億の星のある銀河に相当する光を放射しています。
*人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは
しかし、これらの想像を絶する壮大さにもかかわらず、小さな赤ちゃんは、すべての銀河を合わせたよりもはるかに高い尊厳、価値があるのです。なぜなら、私たちが夢見ることも想像することもできないほど、何よりもはるかに全能で無限に偉大な神様が、私たちを母の胎内から知っておられるからです。(エレミヤ書1章5節、イザヤ書44章2節、詩編139章13節)。
ダビデが次のようにうたっています。
「あなたの指の業である天を あなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う。人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは」(詩編8章4~5節)
神様が創られた素晴らしく美しい天体の名前を超え、その天体のことを少しでも知れば知るほど、ダビデのこの詩篇は自分の心に響いてきます。ダビデは宇宙の夜空を見上げながら、なぜ神様が人間の面倒を見るのか、不思議に思っていました。私たちも同じように、神様の偉大な栄光を振り返り、神様がなぜ、私たちの面倒を見るのか不思議に思ったことはありませんか。
(聖書の引用は「聖書協会・共同訳」を使用。3月のコラムに続く)
(ガブリエル・ギデオン=シンガポールで生まれ育ち、現在日本に住むカトリック信徒)
平和の寿ぎ
新しい年を迎えて、改めて祈り求めたいこと――それは、平和です。真の平和とは、ただ単に、戦争のない状態ではありません。そこには、もっと積極的な意味があります。例えば、それは、一人ひとりの命が、その人の命として大切にされること。一人ひとりは、掛け替えのない存在である――この素朴な事実を、改めて思いめぐらしてみたい、とそう思います。
平和の挨拶
真の平和――それは、確かに、神からの恵みです。しかし、同時にまた、それは私たちが、築き上げていかなくてはならないもの、でもあります。言い換えれば、真の平和の実現とは、神と私たちの協働作業によって生まれるもの。それが、歴史です。
パウロは、彼の手紙の冒頭で、次のように語りかけます――「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように」(コリントの信徒への手紙一1章3節)。これは、彼の挨拶の言葉。同時に、それはまた、相手に対する彼の心遣いであり、祈りでもあります。そして、その原点は、イエス自身にあります。
神は私たちと共に
かつて預言者イザヤは、次のように語りました――「一人のみどりごが私たちのために生まれた。/…その名は『平和の君』と呼ばれる」(イザヤ書9章5節)。そのみどりごとは、イエス。「平和の君」――それが、救い主としての彼の名前です。事実、彼の福音は、私たちに真の平和を伝えることにありました。
彼の誕生にあたって、主の天使は、こう語りました――「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる。』これは、『神は私たちと共におられる』という意味である」(マタイによる福音書1章23節)。つまり、真の平和とは、「神が私たちと共におられる」ということ、に他なりません。それゆえイエスは、復活の後、弟子たちを派遣するにあたって、こう語りました――「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28章20節)。
イエスは、十字架上で、自らの命を捧げました。その後、弟子たちは、今度は自分たちが殺されるのではないか、と恐怖のどん底にいました。彼らは、息を潜めるようにして、一つの部屋の中に閉じこもります。するとそこに、復活したイエスが現われ、こう語ります――「あなたがたに平和があるように」(ヨハネによる福音書20章19、21節)。
これは、昔も今も、そしてこれからも、決して変わることのない彼の約束。ここで語られる「平和」(エイレーネー〔ギリシア語〕)とは、この世が与えるものとは異なります。この言葉の背後には、「シャローム」〔ヘブライ語〕という言葉が響いています。そのもともとの意味は「神が共にいる」ということ。
平和への段取り
「平和とは、秩序の静けさである」――そう語ったのは、アウグスティヌス。まず、自分の心が穏やかであること――それを願い求めたい、とそう思います。それが整って初めて、私たちは、他の人の言葉に心を開き、耳を傾けることができます。また、自分の心が平和になったら、次は、家庭の平和、そして世界の平和を願い求めます。その半径は、たとえどんなに大きくなっても、もしその中心に平和の君の言葉があるなら、きっと、私たちは、平和を築いていけるでしょう。彼の言葉は、余韻となって、私たちを包みます――「あなたがたに平和があるように」
初空や平和の祈りまたひとつ
(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)
クリスマスと新しい年おめでとうございます。
いつも私の拙い文章にお付き合いくださる方々に感謝申し上げます 。(なお、私の文章にあるカトリック教会、教区、小教区は、 私が知っている範囲の状況ですので、 全ての教会などに当てはまりません。 その点にご配慮のうえ、お読みいただけますようお願いします。)
2023年どんな年になるのかと、年の初めに、 切実に思う私です。 良い年になるように、と祈らずにはいられません。
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私は、 幸せなことに、男女ともに自分より若い人たちとの交流も多い。 類は類を呼び、友は友を呼ぶの流れの中、 特に40代、50代の未信者の現代社会で活躍している女性からの感 性と意見は、私にとって学ぶことが多い。 若く、強く、賢く、美しい女性と一緒にいると居心地が良い。 彼女らが描く芯の通った自分の意思を持つ新しい女性像は眩しく、 偏った価値観を持つ場所から、私が解放される瞬間である。
先日、面白いことを言った40代男子がいる。 彼の代母である私が、 今の教会への不満を一生懸命に語っている時にだ。「〇〇さんは、 そう言いながら、そうする事を楽しんでるんでしょ⁈ 絶対にそうでしょう。実に面白い。安心します」と、 彼は満面の笑みであった。
威厳のない代母も咄嗟に考えた。「 うん?なるほどそうかも知れない」「上手いこと言うなぁ」と。若 者男子の優しさは、エッセンス使いにも技がある。 私を知るが故に言える彼の言葉だ。
今、 私たち信徒が持つ教会への意見は、何を言っても受け入れられない諦 めを既に確信しながら、「”負け戦”に意義を見出したい」のかも知れない。「負けの中に次に繋がる何かを伝えることで、前向きに負けたい」のかも知れない。
しらけ世代の私の男友達は、大学入学直後、『聞け、 わだつみの声』を読み、 たまたま戦争の時代に生を受けて、歴史のうねりに巻き込まれた高学 歴の若者の死に行く苦悩と意義を受け止め、 今を生きる自分の使命を熱く語っていた。 国のために死んだ人たちがいたこと、彼らの死を無駄にせず、 より良い国作りをせねばならないことを、私たちは知っているはずだ 。価値観の違いはあるだろうが、平和への願いを受け取り、 戦争は絶対にしてはならない、と肝に銘じたい。
私たちは、教会の方針に疑問を持つ信徒の意見を受けた時には、 必ず他の信徒たちを交えて意見交換の場を設け、答えを出してきた。 下とか上とか、 こっち側とかあっち側とか、納得のいかない教会独特の変な言い方を敢えて使わせてもらう。
下(こっち側)の多数の意見を上( あっち側)に伝える時には、段階を踏み敬意を払ってきたつもりだ。 しかし、教会を運営している”上の方々”は”下々の者”の意見は、 全て文句と捉え、コミュニケーションなど取りたくはなく、「 教区の言うことを聞かない信徒は要らない」と言われてしまった。ある意味で、教区指導者の本音が聞けて良かった。 (かわいそうな人、とも思った)。
このような指導者に賛同する信 者たちが教区・小教区を運営している状況下では、『シノドスの道』 に参加する信者が限られてくることがお分かりいただけるだろう。 今のカトリック教会の組織、体制が変わらない限り、 根本的な問題解決は望めない、と思っている。
今は亡き世代の多くの信徒は、厳しさの中にも物事の良し悪し をはっきり発言され、教会を、信徒を守っていた、と感じるの は、私だけだろうか。 それを窮屈に思ってきただろう、その後の世代が今、教会の中心で働 かれている。 二つの世代から移り変わる教会の姿を肌で感じている私たちには、厚 顔無恥の人々の”美辞麗句”は通用しない。
2023年、教会はどう変わっていくのだろう。イエスの喜ばれる顔に 出会いたい。
2004年第19回「世界青年の日」の教皇ヨハネ・ パウロ2世のメッセージ…「教会とは、 異なる時代と場所におけるキリストの救済活動の延長です。 教会において、教会を通して、イエスは今日、 ご自分を人の目に見えるものとし、 人々との出会いを待ち続けておられます。あなたがたの小教区、 活動、共同体において、 あなたがた同士の交わりの一致を成長させるため、 互いに受け入れ合ってください。 教会にはしばしば人間の罪によって入り込む不透明な隔ての壁があ るにもかかわらず、あなたがたの交わりの一致は、 教会におけるキリストの現存の、目に見えるしるしとなるのです」。
(西の憂うるパヴァーヌ)
人生は新しい出会いの連続です。住み慣れた場から踏み出すのが 生来苦手な私が、人生半ばでフィリピンに移り、タイに来て28 年、自分で驚いています。根は変わりませんが… もういくつ寝ると 80歳…になっても新鮮な発見や喜びを人々、出来事、 状況の中に身を投じ、体験しています。
一歩踏み出し視座を変えて見るーたとえ動くことができなくても- 自分から飛び出して、空の雲や風、草花や鳥、時計やスマホになっ て見つめて見る…そこから見る自分、面白い味な発見があるかもし れません。
新しい年、心のアンテナを研ぎすませ、視野の効く場に身を置きお 互いに新鮮な輝いた人生体験をしたいですね。
『奇跡の木マロンガイ』という植物のことをご存じですか?亜熱 帯地方で育ち、可愛らしい葉っぱが繁る爽やかな雰囲気の大木。初めての出会いは、一緒に生活しているフィリピンの姉妹が、その葉 を枝ごと庭から取ってきて、炊事に使ったのです。肉と野菜の煮込み にマロンガイの葉っぱがいっぱい!馴染めない舌触りでしたが、 すごい滋養があるのだと話してくれ、葉を摘み取るのを手伝い、味わっ て、いつもいただいています。
調べて見ましたら、英語でモリンガと言い、限りなく豊かな栄養素 、抗菌作用、免疫力、美容…効用は長々と続きます、 モリンガはお薬箱みたい、びっくりしました。姉妹に教えてもらって、葉っぱを乾燥させ、粉末にしてカプセルに詰 め、モリンガで体力づくり、コロナ禍の発見の一つです。
今でも胸に残るもう一つの若い頃の発見を紹介しましょう。鍼治療に通っていた頃、老先生の話に耳を澄ませて聞いた話です。
「針 をツボに刺すと、身体はモルヒネよろしく劇薬を出し、それで治癒す る」ーそうだ、人間の心身には絶体絶命、極まった状況に追い詰め られて、初めて発揮する創造主からいただいた秘めた力がある。 だから自分自身にも隣人にも、特に子供達に過保護は禁物…。
人間に秘められた威力を発揮する機会に挑戦して、更に新鮮に輝い て、命をいっぱいに生きる年にしたいですね。合掌
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
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