・愛ある船旅への幻想曲 ㉖復活の月に‐イエスは「私が分かっていないのか」と嘆いておられる

 カトリック教会では、降誕祭と復活祭の前に黙想会が行われる。信者として霊的生活を送る心構えを見直すためにも黙想は必要だろう。静かな時を持ち、自省から祈りへの導きを神は準備してくださっているに違いない。神からの呼びかけが聞こえる良い耳を持ちたい。私は、コロナ禍の3年間、この世を生きる自分の信仰を問い、自分の心を捜し求めた。

 そんな時、宗教界にとってショッキングな問題がクローズアップされ、宗教を根本的に見直さねばならない問いかけに拍車が掛かった。宗教二世の問題からは、親子で同じ宗教を持たねばならないとマインドコントロールされた親の圧力から子供たちが壮絶な人生を歩んで来たことに唖然とした。カトリック教会の親子関係も気をつけねばならない。親が教義を子供たちに強制することにより、ある時から子供たちは教会に来なくなる。子供にも信教の自由があることを忘れてはいけない。

 世間では無宗教を主張する人たちが「宗教」と「信者」に対して興味津々となり、伝統宗教も新興宗教も皆同じとみなし、信仰を持つ者への差別視さえ始まっている。大変肩身の狭い状況だが、カトリック教会も然りである。これだけ社会を騒がす性的虐待の報道にさえ多くの信者は動じない。教会の有るまじく不名誉な問題に信者として無関心でいいのかと一信徒として悩んでしまう。

 イエスは「私を分かっていないのか」と、嘆いていらっしゃるに違いない。イエスのエルサレム入城時に神殿で商いをしている人たちをイエスは追い出した。神殿には神のほかには何も存在してはならないとするイエスの強い思い、その激しい行動からイエスの厳しさを私たちは知らねばならない。また、イエスが群れを離れた1匹の羊を探しに行かれたこと、イエスがこの1匹を見捨てず必死で探す、この神からのメッセージが教会共同体には聞こえないようだ。

 日本では、2020年6月21日に長崎で「カトリック神父による性虐待を許さない会」が、カトリック教会の聖職者から性虐待を受けた被害信徒たちから発足されている。なぜ、性的虐待が起こり、隠蔽されてきたのか。なぜ、今も司教団が誠意のある取り組みをしないのか。なぜ、司祭団も教会組織に属す信徒代表者も知らん顔をしているのか。これでは、イエスにしたがっているとは言えないだろう。また、教皇フランシスコの祈りの意向「性的被害者のために祈り、赦しを求めるだけでは不十分、具体的行動が必要」を無視していることになる。

 イエスは決して『権威主義的な階級組織』を作られていない。しかし、今の教会は位階制度から聖職者に信徒の声は聞こえない。信徒は、教会への疑問を持つこともせず、悪事をも見て見ぬふりをしてきた。この責任は、大きい。是非とも反省し、イエス中心のカトリック教会になるべく、知性ある会話が成立する環境作りの推進を心掛けていただきたいものだ。

 そして、カトリック教会の性的虐待の背景には、ゆがんだ異性観の意識があると言われない為にも、教会改革を真剣に議論する人たちから目を背けることがないように願いたい。正しく物事に取り組んでいる人が正当に評価される教会でなければならない。

 自己愛の権威という幻想から、無責任な信者たちの集う教会をイエスは望まないだろう。なぜなら、イエスは人のため(私たちのため)に磔にされたのだから。

 「弟子たちは、『あなたの家を思う熱情が私を食い尽くす』と書いてあるのを思い出した」(ヨハネ福音書2章17節)

 「神がみずから等しくかたどり創造した人間の魂こそがこの神殿である。天国においても地上においても、神が驚くべきしかたで創造したみごとな被造物すべてのうちでも、人間の魂ほど神に等しきものは何ひとつとしてない。だからこそ神はこの神殿を、神のほか何ひとつないように空にしておきたいと思うのである」(エックハルト説教集「魂という神殿について」より抜粋)

 「知性こそ神の神殿である。神が最も本来的に住いするのは、その神殿、すなわち知性をおいて他にない」(同「知性と意志について」より抜粋)

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2023年4月5日