・ガブリエルの信仰見聞思 ㉚子である私たちを愛される神のイメージは…

*神様の私たちに対する愛を語るイメージ

 「百聞は一見にしかず」と古今東西複数の言語での格言があります。物事やアイデア、情報は単なる口頭での説明よりも、効果的にその意味や本質を伝える1つのイメージによって伝えられることを意味します。私たちの脳は文章を理解したり覚えたりするよりも、イメージや映像の方が分かりやすく記憶しやすくできていると言われます。

 私たちは、イエスがご自分は何者であるかを理解させてくださるために、よくイメージを用いられることを知っているでしょう。ご自分のことを羊飼いと表現され、私たちが彼の羊だと言っておられます。もちろん、私たちは本当の羊ではないのですが、羊飼いが愛を込めて自分の群れを世話することは理解しています。これはほんの一例です。

 イメージというものは、私たち自身の生活の中で主イエスは誰であるかを理解するのに役立ちます。これらのイメージを通してキリストのことを理解するために神学の学位を必要としません。聖書を説明する偉大な神学者や哲学者によって書かれた書物が確かに多くあります。しかし、おそらくごく一部を除いて、それらは、神様が聖書の中で私たちに明らかにした単純なイメージほど多くを私たちに伝えることがなかろうかと思います。

 

*身をかがめられ、私たちを養ってくださる神様

 では、主イエス以前の旧約聖書はどうでしょうか。驚くべきことに、旧約聖書の著者たちでさえ、私たちが神様をよりよく理解できるために、目に見えない神様に言わば「肉体」を与えるようなイメージを使用されているのです。

 例えば、主イエスより 700 年前に生きていた預言者ホセアは、道を踏み外したイスラエルの民に対する神様の愛について、とても美しく有益な言葉を書き記しています。ホセア自身は、自分の妻がいかに自分に不誠実であるかを見抜きながらも、彼女を心から愛していました。そしてホセアは、不忠実な民に対する神の愛を描写する際に同じ状況を用いました。

 実際、そのホセア書11章でホセアは神様のことを、「私の子(イスラエル)を呼んでいる」と表現しています(同1節)。神様はイスラエルを、ご自分が愛することをやめられない「子供」として語られます。

 ホセアはまた、神様を「自分の子供に歩くことを教える」と表現しています(同3節)。なんて素晴らしいイメージでしょう!子供は最初の一歩を踏み出そうと苦労しているときに、親が彼らの手を握りながら、いかに慎重に子供を助けるのかは誰もが知っています。親は子供を転ばせないのです。神様も私たちを転ばせることはしません。

 ホセアはさらに、神様が「身をかがめて我が子を養う」様子を描いています(同4節)。神様が天から身をかがめられ私たちの世話をしてくださる姿を想像してみてください!それに共感できない人はいるのでしょうか。

 これらすべてのイメージにおいて、神様は私たちに対するご自身の愛を理解する手助けをしてくださいます。神様は私たちが理解や共感できるような言葉と経験を使われるのが、まさに私たちへの贈り物ではないでしょうか。私たちは「神のことは我々の理解を超えた神秘なのだ」と言うかもしれません。しかしなそれ以前に、私たちは、神様がいかにしてご自身のことをそれほど理解しやすくしてくださっていることに気づいたことがあるでしょうか。

*神様の御手において

私たちは、創造主である神様は純粋で無限の霊であることを知っています。しかし、聖書はまた、人間の特徴を彼に帰しています。神様はその叡智の中で、ご自分の子供たちに、ご自分が真の存在であり、私たちがしがみつくことができる方であることを知ってほしいと望まれています。神様が私たちに語られている言葉の中で、ご自身を物理的なイメージで描かれています。

 例えば、主イエスは神のことを 「雛を羽の下に集めるめんどり」(ルカ福音書13章34節)) のように表現されています。また、聖書の中では神の御手について122もの言及があることも重要なことだと思われます。

 私たちは、お互いへの愛や思いやり―触れること、保護すること―を表現する上で自分の手がいかに重要であるかを知っています。このイメージも神様について多くを語っています。天地創造の物語では、神様はその意志によって天地を創造されます。しかし、命の贈り物に関しては、創世記は「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」(1章26節) と語っています。

 私たちが神様の御手に触れられる、というイメージは、神様が私たちにどれほど近いかを理解するのにとても役立ちます。神様が転んだ私たちを抱き上げてくださるとさえ想像できるでしょう。受肉した神である主イエス・キリストは、ご自分の御手で人々を触れられたり癒されたりしました。

 例えば、主イエスは重い皮膚病を患っている人に手を差し伸べて触れ、その人を癒やされました(マルコ福音書1章40節~42節)。端的に言えば、私たちは皆、神様の御手の中にいます。これは、神様が私たちから遠く離れていないことを思い起こさせるはずです。主は私たちと共におられるだけでなく、実際に私たちの心の中におられるのです。

 主イエスの「放蕩息子」のたとえ話を思い出しましょう。その若者の父親は、彼が愚かな冒険から帰ってくるのを待っていました。若者はすべての夢を粉々にして家に帰ろうとしていました。聖ルカは次のように記しています。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ福音書15章20節) 。

 このように、私たちが愛する人のために祈る美しい方法があります―「主よ、私の愛する者をあなたに捧げます。あなたの御手で彼らを抱いて守ってください」と。また、自分自身のためさえも、「主よ、私は自分をあなたの御手に委ねます」と祈ることができます。

 かつて、初めて親となった友人は、次のように私に言ったことがあります。「赤ちゃんと一緒に病院から家に帰って、ずっとその子から手を離すことができなかった。自分の腕の中にある新しい生命の奇跡をただただ見つめ続けたい」と。さて、神様が私たちを息子や娘としてどのように見ておられるかを想像してみてください。
天におられる私たちの御父が深い愛情を込めて「あなたは私のもの、あなたのためなら何でもする。いつまでも一緒にいてほしい」と語りかけてくださることを想像してみましょう。

 それが、その子供である私たちを愛される神様のイメージではないかと思います。

(ガブリエル・ギデオン=シンガポールで生まれ育ち、現在日本に住むカトリック信徒)

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2023年4月2日