・愛ある船旅への幻想曲 ㉔禅の教えから、己の無知を知る

 今年も受験シーズンがやってきた。受験生を持つご家庭は緊張の中、家族共に祈り、心を一つにして試験に臨む環境作りをされていることだろう。我が家も例外ではない。人より受験慣れしている私ではあるが、孫の受験には落ち着かない。そろそろ合格祈願のために神社に行かねばと、日本の習慣も重んじる私である。

 そんな私は、以前から禅宗に興味を持っている。名刹でイベントを開催した事もある。県をはじめ教育委員会等々の後援のおかげもあるが、なんといってもその名刹の普段閉ざされている仏間での開催に人々は興味を持ち、大きな反響があった。当日は和服で参加してくださった女性の姿もあり、その場に溶け込む上品な華やぎから、日本が誇る着物文化の魅力を再認識し、そこに居る外国の方々の感嘆の声を素直に受け入れた私だ。

 受洗後も禅寺に座りに行く信徒さんがいらっしゃる。私も一度だけご一緒させていただいた。名刹の坐禅堂に足を踏み入れる時の緊張は、座ってからもしばらく続いた。段々と呼吸が整い、心地良い緊張感を体験することができた。その方のお陰で、国内外でご活躍のご住職さんを知る事もできた。私の娘と同世代のご住職さんであるが、日本人としての礼儀を重んじる振る舞いと会話からは修行の奥深さ、頭脳明晰であられることを直感でき、人格者に年齢は関係ないことを思い知った。

 名刹は、ご住職さんの生き様によって作られ、その苦労を必ず見ている人がいる。世の人が認めてこそ、その足跡は語り継がれる。全ての聖職者が尊敬に値する人ではないことを私たちは知っている。そして、その名刹を受け継ぐ次の世代のご住職の責任は大きい。

 最近は、県内外からの若者は勿論、外国人観光客らの訪問者の増加、イベントの開催などがニュースで報じられ、メディアとの関係も良さそうだ。この歴史ある名刹は、若いご住職によって、時代に沿った寺と人との関わりに取り組みながら知名度を上げ、それにより前住職の寺の再興への真摯な取り組みと不屈の熱意をも、私たちが知るに至るのである。生きた宣教である。

 次女は、「洗礼を受けるにあたって他宗教を深く知る必要がある」と禅宗の本を選んでいた。ここでの「選んでいた」とは、ある亡くなられた方の奥様から、お持ちになっている沢山の蔵書の中から「必要ならば譲り受けて欲しい」とのお話があり、興味ある本をいただいて、家に持ち帰ったのである。その時、娘は、上智大学教授でイエズス会士の門脇佳吉師の著書『禅とキリスト教』についての本二冊を選んでいたのだ。

 この蔵書の持ち主は、上智大学出身であり、カトリックからプロテスタントへ改宗されたが、キリスト教の教義と組織への疑問が解消されず自分の道を探し求めた方だ。この方が悩まれた時から70年以上が過ぎた今、私たちも同様の悩みを持っているのかもしれない。

 新たな教皇フランシスコ連続講話・新「使徒的熱意について」から、私は希望を与えられている。(翻訳は「カトリック・あい」)

 「教会は他者をひたすら改宗することをしない、「他者を引き付ける魅力」によって成長するもの。この魅力的で喜びに満ちた証しこそ、ご自分の愛に満ちた眼差し、聖霊の私たちの心を立ち上がらせる外向きの働きをもって、イエスが私たちを導かれる目的地なのです」(「使徒的熱意について」①から抜粋=教皇ベネディクト16世の言葉から)

 「私たちは、司牧者の心の恵みを願います。苦しみとリスクを引き受けるそのような愛なしには、自分たちだけを養うリスクを冒すからです」(「使徒的熱意について」②から抜粋=群れを離れる人を見たら証しする機会に)

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 私が愛読する中村元『慈しみの心』ー

、慈悲と生きる智慧に満ちたブッダの言葉、名僧、経典などを紹介した、から…

 「我を尽くすのが正法である。智慧者は智慧に執着する我を立てる。慈悲者は慈悲に執着する我を立てる。坐禅者は坐禅に執着する我を立てる」(鈴木正三=江戸時代初期の曹洞宗の僧侶・仮名草子作家)。

 「我を尽くす、とは驕りの心をなくすという意味。釈迦は貪りと怒りと驕りの三つの心をなくせば心の安らぎを得ると教えた。なかんずく驕りをなくせと力説した。己の家柄や身分や知識を自慢し、高圧的に振る舞いたがる人がいる」(解説=田上太秀・駒澤大学名誉教授)

 日本人として、人としての、己の無知を思い知る年の初めである。

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2023年1月31日