・竹内神父の午後の散歩道 ㉓新年に改めて祈り求めたいことは…平和

平和の寿ぎ

新しい年を迎えて、改めて祈り求めたいこと――それは、平和です。真の平和とは、ただ単に、戦争のない状態ではありません。そこには、もっと積極的な意味があります。例えば、それは、一人ひとりの命が、その人の命として大切にされること。一人ひとりは、掛け替えのない存在である――この素朴な事実を、改めて思いめぐらしてみたい、とそう思います。

平和の挨拶

真の平和――それは、確かに、神からの恵みです。しかし、同時にまた、それは私たちが、築き上げていかなくてはならないもの、でもあります。言い換えれば、真の平和の実現とは、神と私たちの協働作業によって生まれるもの。それが、歴史です。

 パウロは、彼の手紙の冒頭で、次のように語りかけます――「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように」(コリントの信徒への手紙一1章3節)。これは、彼の挨拶の言葉。同時に、それはまた、相手に対する彼の心遣いであり、祈りでもあります。そして、その原点は、イエス自身にあります。

神は私たちと共に

かつて預言者イザヤは、次のように語りました――「一人のみどりごが私たちのために生まれた。/…その名は『平和の君』と呼ばれる」(イザヤ書9章5節)。そのみどりごとは、イエス。「平和の君」――それが、救い主としての彼の名前です。事実、彼の福音は、私たちに真の平和を伝えることにありました。

 彼の誕生にあたって、主の天使は、こう語りました――「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる。』これは、『神は私たちと共におられる』という意味である」(マタイによる福音書1章23節)。つまり、真の平和とは、「神が私たちと共におられる」ということ、に他なりません。それゆえイエスは、復活の後、弟子たちを派遣するにあたって、こう語りました――「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28章20節)。

 イエスは、十字架上で、自らの命を捧げました。その後、弟子たちは、今度は自分たちが殺されるのではないか、と恐怖のどん底にいました。彼らは、息を潜めるようにして、一つの部屋の中に閉じこもります。するとそこに、復活したイエスが現われ、こう語ります――「あなたがたに平和があるように」(ヨハネによる福音書20章19、21節)。

 これは、昔も今も、そしてこれからも、決して変わることのない彼の約束。ここで語られる「平和」(エイレーネー〔ギリシア語〕)とは、この世が与えるものとは異なります。この言葉の背後には、「シャローム」〔ヘブライ語〕という言葉が響いています。そのもともとの意味は「神が共にいる」ということ。

平和への段取り

「平和とは、秩序の静けさである」――そう語ったのは、アウグスティヌス。まず、自分の心が穏やかであること――それを願い求めたい、とそう思います。それが整って初めて、私たちは、他の人の言葉に心を開き、耳を傾けることができます。また、自分の心が平和になったら、次は、家庭の平和、そして世界の平和を願い求めます。その半径は、たとえどんなに大きくなっても、もしその中心に平和の君の言葉があるなら、きっと、私たちは、平和を築いていけるでしょう。彼の言葉は、余韻となって、私たちを包みます――「あなたがたに平和があるように」

 初空や平和の祈りまたひとつ

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)

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2023年1月4日