◎講話「洗礼の秘跡」④水そのものに罪を赦す効果はない、聖霊による

教皇フランシスコ、5月2日、バチカンでの一般謁見 – AP

(2018.5.2 バチカン放送)

 教皇フランシスコは2日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、謁見中のカテケーシスで、 洗礼の秘跡をめぐる考察として、洗礼式の中心である洗礼盤の前で行われる儀式を解説された。

 まず、洗礼式の重要なシンボル「水」に注目され、「水は、命と健康の源であり、水の欠如はあらゆる豊饒性を干からびさせ、砂漠のようにしてしまいます。その一方で、波や大量の水に沈むことで死の原因ともなる。また、水は洗い、清める力も持ちます」と話されたうえで、聖書に、神の働きかけや約束が水のしるしを介して行なわれる様子が描かれていることを指摘。

 だが、罪を赦す力は水そのものにはない。「すべての水が癒すのではなく、キリストの恵みを持つ水が癒す。行為は水によりますが、その効果は聖霊によるのです」と説く聖アンブロジオの言葉を引用され、それゆえ教会は、洗礼を受ける人々が「キリストと共に死に沈められ、キリストと共に死ぬことのない命に復活する」ことを願い、「水の上に聖霊の働きを祈るのです」と説明された。

 また、洗礼の水を祝福する祈りの中では、「洗礼のしるしとなるように」と、神が水を用意されたことを示し、天地の創造にあたって「神の霊が水の面を動いていた」(創世記1章1‐2節)ことから、洪水(同7章6-8節,22節)、葦の海の奇跡(出エジプト記14章15-31節)、イエスのヨルダン川での洗礼(マタイ福音書3章13-17節)、イエスのわき腹から流れ出た血と水(ヨハネ福音書19章1-37節)、すべての民に父と子と聖霊の名によって洗礼を授けるようにとの復活したイエスによる弟子たちの派遣(マタイ福音書28章19節)に至るまで、「聖書における水と洗礼を象徴する箇所が、思い起こされる」ことを紹介された。

 洗礼の水が聖別された後には、洗礼に臨む人の心を準備する必要がある。教皇は、そのために「悪霊の拒否」と「信仰宣言」が洗礼志願者によって行なわれることを説明。「この二つは緊密に結びつき、どちらが欠けてもならないのです」と強調された。

 問答形式で行なわれる「悪霊の拒否」では、「悪」、「罪の業」「神に反するすべてのもの」を退けるかと聞かれ、洗礼志願者は「退けます」と答える。洗礼志願者は「信仰宣言」を通して、教会の信仰を「信じます」と宣言する。教皇は「この信仰宣言は責任ある選択、神への信頼を具体的に表す行為です」とし、「信仰宣言をすることは、同時に、信者であることの義務を引き受けることでもありますが、その洗礼自体がどのような困難の時も信仰を保てるよう助けてくれるのです」と話された。

 最後に教皇は「私たちが聖水に手を浸し、十字架のしるしをする時、自分が受けた洗礼を喜びと感謝を持って思い出し、至聖なる三位一体の愛に浸されて生きるために、私たちの『アーメン』を新たにしましょう」と呼びかけられた。

☩「カトリックのメディアは”デジタル時代”に後れをとるな」(CRUX)


Catholic media must not fall behind in digital age, pope says

Pope Francis greets the crowd during his general audience in St. Peter’s Square at the Vatican April 25. (Credit: Paul Haring/CNS.)

 (2018.5.1 Crux Author  Junno Arocho Esteves
ローマ発―テクノロジーが進化を続けている現代、カトリックの報道機関は福音をすべての人に伝えるために、進んでそれを活用していかねばならない-教皇フランシスコが1日、イタリア司教会議の日刊紙 Avvenireの役員、社員との会見で語った。

 会見で教皇は、新たなデジタル技術を活用するにあたって、技術的に最新のものに目を向けていくだけでなく、「過去への愛着が危険な誘惑になる」ことを積極的に認識する必要性を強調。「伝統の真の信奉者は、記憶を生かし続ける一方で、どうしたら、時のしるしを識別し、新たな道を開くことができるか、を知っています」と述べた。 5月1日は労働者聖ヨゼフの祝日、世界の労働者の日(メーデー)で、イタリアを含め多くの国で祝日とされている。

 教皇は、イエスの義理の父親(聖ヨゼフ)は「沈黙の人」-一見、「メッセージを伝える人とは正反対のように思わるかもしれません」としたうえで、カトリックのジャーナリストと報道機関は「世の中の雑音と自分たち自身のうわさ話を遮断することによってのみ、意思疎通の第一条件である『聴く』事が可能になる、ということを認識せねばなりません」と注意を喚起した。さらに、特に現代の世界では「情報のスピードが私たちの思考力をしのいでおり」、教会の信徒たちは「拙速と偏見の文化の力と影響」に晒され、教会の使命を「拍手喝さいを受ける司牧活動、思考の安易化、賛同を意見の幅広い混沌」に陥らせる危険を冒している、と警告した。

 また、こうした中で、聖ヨゼフの姿に見習うべきは、情報伝達の分野に働くキリスト教徒全員に対して「ゆっくりと、落ち着き、忍耐強いという健全な感覚」を想起させること、としたうえで、「彼は、その沈黙で、私たちに『全ての事は、聴くことから、他の人の言葉と自分史に心を開くために自分を超越することから始まる』ということを思い起こさせてくれるのです」と強調した。

 さらに教皇は福者パウロ六世の言葉に言及し、カトリックの新聞は「印象をよくしたり、読者を増やしたり」するニュースを報道するだけであってはならず、読者が自分自身で「考え、判断」するように教育する使命がある、と指摘、「カトリックの情報伝達者たちは、(情報の受け手を)窒息させたり、閉じ込めたりするような硬直性を避ける。聖霊を鳥かごに入れず、自由に飛び回り、心から呼吸するようにさせます。現実を見かけだけのことに、美しさを醜悪なものに、社会的な友情を争いに、取って代わるのを、決して容認しません。命と良きものの芽を育て、強めます」と出席者を含む、報道にかかわる世界のカトリック信徒たちに努力を求めた。

 最後に、Avvenireの役員、記者、職員に対して福音を告げ知らせる者となるように、そして、聖ヨゼフのように、社会の幸せと尊厳を守る真の守護者になるように激励した。

 (翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載します。

 

 

 

 

 

2018年5月2日

☩「主とつながり、自分の場所で日々、愛を証しすることで、聖人になるよう、皆呼ばれている」

(2018.4.30 バチカン放送)教皇フランシスコは28日の正午の祈り の集いの説教で、この日の福音朗読箇所、イエスがご自身を「まことのぶどうの木」にたとえる場面(ヨハネ福音書15章1-8節)を観想された。

 「私はぶどう の木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とイエスは話し、ご自分に「つながって」いることの大切さを説いている。「ぶどうは一本の木からいくつもの枝がでているが、枝が豊かに実をつけることができるのは、ぶどうの木とつながっていてこそ、なのです」と教皇は語り、ヨハネ福音書のこの箇所で何度も繰り返される「つながる」という言葉を、キリスト教生活の秘訣として示された。

 そして、「人は主とつながっていることで、狭い自分自身と安楽から抜け出し、他の人たちを助け、世に広くキリスト教的証しをするための勇気を得ることができます」と話され、「キリストとの交わりから生まれる最も成熟した実とは、イエスのように自分を捨て、兄弟たちを愛しながら、人々への愛の業に取り組むことです」と述べられた。

 さらに、「主との深い交わりを保ち、ぶどうの木の枝のようにつながるなら、復活の主から来る新しい命、いつくしみ、正義、平和の実を結ぶことができるでしょう」と説かれ、主のぶどうの木の真の枝となって、キリスト者として人生を精一杯捧げ、愛を証しした人々として聖人たちの存在を挙げながら、「聖人となるには、司教や、司祭、修道者である必要はありません。私たち皆が、聖性に招かれています」「私たちは、それぞれが置かれた場所で、日々の生活を通して、愛をもって生き、それぞれの証しをすることで、聖人になるように呼ばれているのです」と強調された。

(バチカン放送日本語版をもとに「カトリック・あい」が編集しました)

 

2018年5月1日

◎講話「洗礼の秘跡」③我々の全人生が闘い-洗礼は悪と闘う力を与えてくれる

 ◎講話「洗礼の秘跡」③我々の全人生が闘い-洗礼は悪と闘う力を与えてくれる

教皇フランシスコ、4月25日、バチカンでの一般謁見 – AP

(2018.4.25 バチカン放送)

 教皇フランシスコは25日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は「洗礼の秘跡」について考察された。

 洗礼志願者らを照らし、信仰に近づけるのは「福音」。「洗礼は、信仰に入る秘跡的な入口であるために、まさに特別な意味で『信仰の秘跡』といえます」(「カトリック教会のカテキズム」1236項参照)と話され、洗礼志願者たちは、イエスを「永遠の命に至る水」(ヨハネ福音書4章14節)、「世の光」(同9章5節)、「復活であり、命」(同11章25節)と認めるこの信仰によって、主に自らを委ねるのです」と語られた。

 イエスの言葉と、その教えと業に育まれ、洗礼志願者は生きた水に渇くサマリアの女や、光に目を開いた生まれつき目の見えない人、墓から出てきたラザロを、自ら体験することになるが、「福音は信仰を受け入れる人を変容し、その人を悪の支配から引き離し、喜びと新たな生き方をもって主に仕えることを教えます」と述べられた。

 そして、「洗礼志願者は一人ではなく、諸聖人の連祷が思い出させるように、全教会の祈りに伴われながら洗礼盤へと向かいます」と指摘され、「教会の祈りは志願者たちの悪との闘いを支え、善の道の歩みを見守り、神の恵みの王国へと移るために、罪の力からの解放を助けるのです」と説かれた。

 また、罪と悪からの解放のために、成人の洗礼志願者には、いくつかの「解放を求める祈り」が唱えられ(「カトリック教会のカテキズム」1237項参照)、幼児洗礼の場合にも「原罪からの解放を神に願い、聖霊の住まいとして奉献して祈る」ことを紹介し、洗礼は「聖霊の賜物によって悪霊と闘う力を、受洗者に与えるもの」と話された。

 新受洗者に聖油を塗布することについて、「古代の闘技者は筋肉を強壮にし、敵の攻撃から逃れやすいように油を塗っていました。初代キリスト教教会も、救い主キリストの力が洗礼志願者を強め、悪と闘うことがで きるように、司教によって聖別された油を志願者に塗布するようになったのです」と説明された。そして、「悪と闘い、その欺瞞から逃れることは容易ではありませんが、キリスト者の全人生が『一つの闘い』であることを忘れてはなりません」とし、「私たちは一人ぼっちではありません。母なる教会は、子供たちが洗礼を通して再び生まれ、復活のキリストの力をもって、悪の罠に打ち勝つことを祈っています」と強調された。

(バチカン放送日本語版をもとに「カトリック・あい」が編集しました)

☩「癒されるために、イエスと個人的関係を築く必要」

(2018.4.23 バチカン放送)教皇フランシスコは22日、日曜正午の祈りの集いで説教され、「良い牧者の主日」といわれ「世界召命祈願日」を記念する復活節第4主日の聖書朗読箇所を取り上げながら、「復活の主の弟子たち」としてのキリスト者のアイデンティティーを考察された。

 使徒言行録(4章8-12節)でペトロは足の不自由な人に癒しを行ない、その人が癒されたのはイエス・キリストの名によるものであり、「私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」と宣言するが、教皇は「癒されたこの人は、私たち一人ひとりの中に、また私たちの共同体の中にいます」と述べ、「復活された主の手に信頼をもって自分を委ねるならば、誰もが、野心・怠惰・高慢などの、様々な形の霊的な弱さから癒されることができるのです」と語られた。

 その癒してくださるキリストとは誰なのか。教皇はその答えを「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ福音書10章11節)というイエスの言葉の中に示され、イエスは羊のために命を捨てる羊飼いであり、「あなたの命は私にとってこれほどにも大切であるために、あなたを救うために私のすべてを与えよう」と私たち一人ひとりに語りかけ、ご自分の命を与えてくださる方だ、と説かれた。

 次に、キリストに癒されるための条件とは何なのか。これについて「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである」(ヨハネ同10章14-15節)というイエスの言葉を引用され、「御父とイエスとの親密な愛に満ちた絆を反映する、イエスと私たちとの個人的な生きた関係を築く必要があります」と指摘された。

 そして、「私たちは、イエスに自分の心を深く知ってもらうと同時に、自分たちもイエスと出会い、イエスを知るように招かれています」と話され、「その出会いによって私たちは自分のことだけしか考えない態度を捨て、キリストに従い、広い世界に開いた新しい道を歩むようになるのです」と強調された。

 「世界召命祈願日」を記念したこの日、教皇は午前中バチカンで司祭の叙階式を行われた。この正午の祈りの集いで、教皇は叙階された新司祭の代表4人と共に、バチカン宮殿の窓から、信者らに祝福をおくられた。

 

2018年4月24日

◎講話「洗礼の秘跡」②洗礼志願者の名を尋ねるのは、神が私たちを名で呼び、愛されるから

 ◎講話「洗礼の秘跡」②洗礼志願者の名を尋ねるのは、神が私たちを名で呼び、愛されるから

教皇フランシスコ、4月18日、バチカンでの一般謁見 – REUTERS

(2018.4.18 バチカン放送)

 教皇フランシスコは18日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、謁見中、「洗礼の秘跡」をテーマとしたカテケーシス(教会の教えの解説)を続けられた。

 まず、「洗礼」の持つ意味は「洗礼式」の中ではっきりと表わされる、と強調。「洗礼の儀式における動作や言葉の中に、私たちはこの秘跡の恵みと洗礼を受けた者の義務を見出すことができます」とし、「キリスト教生活の源泉に立ち返ることは、私たちが洗礼の日に受けた恵みを理解させ、今日、自分が置かれた場所でキリスト者の務めを新たにするのを促します」と述べられた。

 儀式の始まりに、洗礼志願者を迎え入れ、名前が尋ねられるが、教皇はこれについて「名前はその人のアイデンティティーを表わします。神は私たち一人ひとりを名前で呼ばれ、一人ひとりをその人特有の人生において愛されるから、です」と説明された。

 また、洗礼は「それぞれにキリスト者として生きるための一生続く召命を与え、それは受洗者に借り物ではない、自分の答えをもってそれに答えるように招くもの」とされ、「キリスト者の人生は、いくつもの呼びかけと答えで織り成され、神は、私たちが御子イエスと一致するようにあらゆる方法で招きながら、私たちの名をその人生の過程で呼び続けられるのです」と話された。

 そして、キリスト者になる恵みは「天から与えられる恵みであり、信仰を買うことはできませんが、それを求め、恵みとして受け取ることはできます」と述べ、洗礼とは「聖霊の恵みに照らされ、キリストの福音に答えた人々の信仰の秘跡」と説かれた。成人の洗礼志願者が、教会を通してその恵みを受ける意志を自ら表明するのに対し、幼児洗礼の場合は、両親と代父母が代わりとなってそれを行い、問答において、子どもに洗礼を受けさせる意志と、教会側の洗礼式を行う意志が表わされる。

 十字架のしるしについては「私たちのキリストへの所属と、キリストが十字架を通して獲得した贖いの恵みを表わす、キリストの封印」と説明。「十字架は、私たちが何者であるのかを示す目印であり、私たちの話すこと、見ること、行なうことは、すべて十字架のしるしのもと、イエスの究極の愛のしるしのもとにある」と語られた。

 さらに、この十字架のしるしは、幼児の場合は額に、成人の洗礼志願者の場合は、「十字架のしるしを耳に受けなさい、主の声を聞くために」などの言葉とともに、耳や、神の御顔の輝きを見るための目、神の言葉に答えるための口、キリストが心に住まわれるための胸、キリストの「負いやすいくびき」を支える肩にもしるされる、と指摘された。

 キリスト者は、十字架が私たちにしるす「復活」の刻印にしたがって、自らを形成し、それはその人の生き方にも外的に表される。私たちは、起床・就寝時、食事前に、また危険を前にした時や、悪から身を守りたい時に、十字架のしるしをするが、それは自分自身と、他の人に、自分が誰に属する者であるか、誰になりたいかを言っている、と話された。また、教会に入る時、出る時に、聖水盤に指を浸して、その聖水と共に十字架のしるしをするのは、私たちの洗礼を思い起こすためである、と教えられた。

 

☩「教会に必要なのは”預言者”。”批評家”ではない」(CRUX)

 

Church needs prophets, not critics, pope says at morning Mass

In this file photo, Pope Francis celebrates morning Mass in the chapel of his residence at the Domus Sanctae Marthae at the Vatican. (Credit: CNS photo/L’Osservatore Romano.)

 ローマ発―教皇フランシスコは17日朝の宿舎「サンタ・マルタの家」でのミサの説教で、「教会は真の預言者を必要としています―恐れることなく真実を語るだけでなく、民の苦しみに共感する人です」と参加した司祭たちに努力を求めた。

 預言者は、常に「自らの民のために声を上げることができるだけでなく、真実を語る危険を冒すことのできる人」でなければなりません、としたうえで、教会は「私たち(司祭、聖職者)に預言者であることを求めています。批評家ではない、それは別物―ひとことで言えば、とてもひどい、批判家の裁判官―です」「そのような人は預言者ではありません」と強調しされた。

 教皇は説教で、この日のミサで第一朗読として読まれた使徒言行録の聖ステファノの殉教を思い起こされた。このカトリック教会の初の殉教者は、「いつも聖霊に逆らって」いた「頑固で高慢な人々」(7章51節以降参照)―長老と律法学者たち―を非難した、として石殺しにされた。教皇は、真実はいつも「心地のいいものではなく」、預言者が真実を語る時、人々は心を開くことができるか、それができなければ、「さらに石のように固くなり、怒りを露わにし、迫害することになります」と語られた。

 そして、イエスも、時として、厳しい言葉で人々を叱責し、「強情で不貞な世代の者たち」とさえ批判したが、また、エルサレムのために涙を流された時になさったように、彼らのために叫び声をあげておらる、と指摘。「これは試練です。真の預言者は自分の民のために叫び、(真実を)語るべき時に力強く語ることができるのです。優柔不断でなない、常に―単刀直入―です」とし、聖ステファノと多くの殉教者たちのように「真の預言者は、なすべき事をしようとすれば、自らを危険にさらす」ことになるが、それが他の人々が希望を見出すことにつながる、とのべた。

 説教の最後に教皇は「預言者のこのような献身が、教会に絶対、欠かすことのできないものでありますように。それによって、私たちが常に、前に進むことができますように」と祈られた。

 (翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載します。

 

 

2018年4月18日

☩「洗礼を受けていなくても・天国に行くかは神がお決めになる」ローマ・十字架の聖パウロ教会

ローマのコルヴィアーレ地区、十字架の聖パウロ教会を訪問する教皇フランシスコ – AP

 (2018.4.15 バチカン放送)教皇フランシスコが15日、ローマ市内の十字架の聖パウロ教会を訪問された。

 教皇はまず、教会の外で、カテキズムを勉強中の子どもたちとお会いになり、子供たちの「福音書のどの一節が好きですか」との質問に「マタイ福音書の、イエスが収税人マタイを弟子にする場面です」と答えられた。

 また「洗礼を受けていない人も神の子ですか」という問いには、「神は皆を創造し、皆を愛され、それぞれの心に善悪を見分ける心を与えられましたが、洗礼を受ける時、その心に聖霊が入られ、より強く神と結ばれた者にします」と説明された。

 教皇はさらに、父親を昨年亡くしたばかりで「信者ではなかった父が今、天国にいるでしょうか」と心配して泣き崩れた少年に寄り添い、「お父さんは信仰の恵みはなくても、子ども全員に洗礼を受けさせ、あなたのような勇気を持った子どもを育て、良い心を持った人でした。誰が天国に行くのかをお決めになるのは神様です」と力づけられた。

 続いて、教会の集会室でお年寄りや、病者、生活に苦しむ人々とお会いになり、地域の教会がこれらの人々と常に共にあり、霊的・物的支援を配慮していることを喜ばれ、「人間は誰もが苦しみや傷を負っていますが、決して希望を失ってはいけません。イエスはご自分の傷口をもって、皆を贖われたからです」と話された。そして、イエスの愛を思いながら前進するようにと人々を励まし、「私たちもまた他人に良いことを行い、互いに祈り合いましょう」と勧められた。

 最後に教会でミサを捧げられ、復活したイエスに心を開き、「キリストは生きておられる。復活なさったのだ」という喜びを知る信仰の恵みを、神に祈り求めるよう呼びかけられた。

 十字架の聖パウロ教会は、ローマ市の西郊外、コルヴィアーレ地区にある。小教区として1977年に設立され、教会は1983年に献堂された。教会の前には、1970年代後半から80年代前半に建設された大規模な公団マンション「ヌオーヴォ・コルヴィアーレ」がそびえている。約1kmに渡って伸びる特徴的な長い建造物は、その姿から「セルペントーネ(長い蛇)」とも呼ばれ、9階建てで、1200戸、6千人以上が生活しているが、老朽化が進み、生活の不便、治安上の不安、若者の流出、住民の高齢化などの問題を抱えている。

({カトリック・あい」が編集しました)

2018年4月17日

◎講話「洗礼の秘跡」①ただ一度の洗礼が私たちの全人生を照らす

教皇フランシスコ、4月11日、バチカンでの一般謁見 – AP

(2018.4.11 バチカン放送)教皇フランシスコが11日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、復活祭後にふさわしいテーマとして「洗礼の秘跡」について話された。

 教皇は、「復活の主日」から「聖霊降臨の主日」まで50日間続く「復活節」は、「キリストご自身から由来するキリスト者の生活について考えるのに、またとない時期」であるとし、キリスト者としての自覚を新たにするために、キリスト教生活への入口となる秘跡「洗礼の秘跡」について考察された。

 そしてまず、キリストの復活は「その豊かな知らせをもって、洗礼を通して私たちに及び、私たちをキリストご自身に似た者として変容させる」ものであり、洗礼を受けた者は「キリストに属する者、キリストこそ、彼らの命の主なのです」と述べられた。

 さらに、洗礼は「キリスト者の生活全体の基礎」(『カトリック教会のカテキズム』1213項)であり、それは「最初の秘跡、私たちの中に主キリストがお住まいになり、キリストの神秘にわたしたちを浸すことを可能とするための扉」と説明された。

 また、「洗礼を行なう」というギリシャ語(バブティゼイン)は、「沈める」「浸す」という意味(同1214項)を持ち、「水に人を浸す行為は、ある状態から別の状態への推移や、新たな始まりのための清めなどを表すものとして、様々な宗教の典礼にも見られる」が、キリスト者にとって洗礼で体を水に浸すことは「罪からの赦しを得て、神の光によって再び輝くために、キリストの中に魂を沈めること」と話された。

 続いて、洗礼は、聖霊の力において「私たちを主の死と復活の中に沈め、罪に支配された古い人間を、イエスにおいて再び創造された、新しい人間として生まれさせます」と述べ、「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」(マタイ福音書28章19節)という、復活されたイエスが弟子たちに向けた派遣の言葉を思い起こしつつ、「キリストを信じる者は、洗礼を通して三位一体の命の中に浸される」と語られた。

 さらに、洗礼を通して神のもとに新たに生まれることについて、「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(ヨハネ福音書3章5-6節)と、イエスがニコデモに説明した言葉を引用し、人を新たに造りかえる洗礼について、「神は、御自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです」(テトスへの手紙3章5節)という、使徒聖パウロの言葉を示された。

 洗礼とは「新たな命において歩むために、再び生まれたことをはっきりと表すしるし」であるとし、「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活されたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ の信徒への手紙6章3-4節)という、聖パウロの言葉を観想された。

 教皇は、人は洗礼によってキリストに浸されることで、「キリストの肢体となり、教会の一員となって、その使命に参与する者となる」(『カトリック教会のカテキズム』1213項)ことを想起させ、洗礼盤からほとばしる生命力、キリストとの繋がりを「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ福音書15章5節)というイエスの言葉の中に見つめられた。

 最後に、洗礼の力について「洗礼は、キリストが私たちの中に生きるとともに、私たちがキリストに一致して生き、それぞれが置かれた場所・能力をもって、世界を変容させるために、教会の中で協力することを可能にしてくれます」とし、「ただ一度の洗礼は、私たちの全人生を照らし、天上のエルサレムに至るまで、私たちの歩みを導いてくれるのです」と語って、キリスト者にとっての洗礼の秘跡の重要性を改めて強調された。

(バチカン放送日本語版をもとに「カトリック・あい」が編集しました)

☩「使命にふさわしい生き方をするように」-「いつくしみの宣教者」たちに

「いつくしみの宣教者」として派遣された司祭たちとミサを捧げる教皇フランシスコ、バチカン・聖ペトロ大聖堂 – REUTERS

(2018.4.10  バチカン放送)

 教皇フランシスコが10日、教皇庁新福音化推進評議会主催の集いに参加した「いつくしみの宣教者」たちにお会いになり、聖ペトロ大聖堂の司教座の祭壇で共にミサを捧げげられた。

 バチカン宮殿で行われた集いの講話で、教皇は「いつくしみの宣教者らの奉仕は『神のいつくしみは真に果てしなく、教会は御父の赦しに近づく人々を決して妨げないことの具体的しるし』です」と話された。

 そして、イザヤ書の「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の生んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」(49章15節)を引用して、神のいつくしみの大きさを強調。

 さらに使徒聖パウロの「神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(コリントの信徒への手紙2・5章20節)という呼びかけを思い起こしつつ、「人々をいつくしみ深い神との出会いと和解に導く使命の重要さ」を説いた。

 教皇はまた、ヨハネ福音書に書かれた「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(20章21-23節)という、復活された主が弟子たちに述べた派遣の言葉と、弟子たちに委ねられたその使命を観想し、「この責任はわたしたちの手の中にあり、わたしたちが受けた使命にふさわしい生き方をするようにと招いているのです」と語られた。

 そして、「神の協力者となるための鍵は、自分自身が神から受け取ったいつくしみを思い出すこと」とし、「いつくしみを体験した者は、いつくしみのために働く者に変容されます」と語り、「告解者と接する時に大切なことは、この人の心を恵みによって開き、『ゆるしの秘跡を受けるまでに至らせた神の愛との出会いの最初の実り』を、今、自分は目の前に見ていると認識することです」とされ、「神のいつくしみは、人に尊厳を取り戻させます。司祭は悔悛した人を悪に定めず、むしろ未来を新しい眼差しで見つめるように励まして欲しい」と司祭たちに求められた。

 「いつくしみの宣教者」は、教皇は2015年末からおよそ1年にわたり記念された「いつくしみの特別聖年」の際、世界中に派遣された5大陸約千人の司祭のこと。世界の様々な場所で、イエス・キリストの福音と共に救いと平和のメッセージをもたらし、特にゆるしの秘跡を通して、人々が神の偉大ないつくしみを発見できるよう、奉仕することを教皇は望まれていた。

(バチカン放送日本語版をもとに「カトリック・あい」が編集しました)

2018年4月11日