☩「イエスは、ご自分を『王』とするよう、求めておられる」

(2018.11.25 VaticanNews Devin Watkins)

 教皇フランシスコは「王であるキリスト」の祭日、25日正午の祈りの前の説教で、「イエスは、愛を基礎に置き、平和、自由、そして、満ち足りた人生をもたらす永遠の王国を建てるために来られました」と次のように語られた。

 説教で、教皇は、この日の福音書の朗読箇所(ヨハネ18章33b‐37節)と王であるキリストの祭について取り上げ、「イエスの王国は愛の力に基礎を置きます。それは、神が愛であるからです」とされたうえで、「この祭は、創造の活力は偶然に出てくるものではなく、最終的な目標-キリスト、歴史の主、すべての創造の主の、最終的な出現-に向けて進むものた、ということを、私たちに思い起こさせるもの」「歴史の最終目標はキリストの永遠の王国において達成されます」と語られた。

 この日の福音書の朗読箇所で、縛られ、辱められたイエスは、裁かれるために、ピラトの前に引き出される。エルサレムの宗教的な権力者たちは、イエスを、ローマ帝国の政治的権威を体現する者としてのユダヤ総督に引き渡します。権力者たちはイエスが王になろうとしている、と申し立てる。ピラトは、イエスに、ユダヤ人たちの王なのか、と二度、問いただす。イエスは、自分の王国は「この世のものではない」と答える。

 教皇は「イエスが生涯にわたって、政治的な野心を持っていなかったのは明白です」「パンの奇跡の後、イエスの弟子たちは、イスラエルの王国を復興するため、彼が自分が王であり、ローマの支配を覆す、と言明することを望みました。イエスは、一人で祈るために山に退くことで、弟子たちへの答えとされました」と述べた。

 そして、この日の朗読箇所の、ピラトに対する答えで「イエスは政治的な権力を超える、ずっと大きな権力、人間の力では及ばないものがあることを、明確にすることを望まれた」「イエスは、真理を証しするために、愛であるこの力を行使するために、地上に来られました」と説かれた。

 さらに、神の真理は「この福音の中心となるメッセージ、『神は愛』(ヨハネの手紙1・4章8節)なのです」「イエスは、この世に、愛、正義、そして平和の王国を打ち立てるために働かれました。そのイエスの王国は、時の終わりまで続きます」と強調された。

 また教皇は、この永遠の王国とつかの間の地上の王国を対比され、「武器と嘘の上に築かれた王国は脆弱で、早晩、崩れてしまうことを、歴史が教えています」と述べ、「神の王国はご自分の愛の上に築かれ、心に根差し、それを受け取る人に、平和、自由、そして満ち足りた人生をもたらします」と語られた。

 最後に、教皇は、イエスは、ご自分を王とするよう、私たちに求めておられる、とし、「十字架上で命を捧げられたその王が、私たちを死から救い、迷った人々に道を指し示し、疑惑、恐怖、そして日々の試練に苛まれる私たちに新たな光を与えてくださる」。だが、同時に忘れてならないのは、イエスの王国は「この世のものではない」ということ、と指摘され、次のように締めくくられた。「イエスは、私たちの人生-時として、自分の過ちや罪によって試練に立たされる人生-に新たな意味を与えてくださるでしょう。ただしそれは、私たちがこの世の論理とその”王たち”に従わない場合に限って、です」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2018年11月26日

☩「神の私たちへの望みを聴く勇気を持て」1月の世界青年の日へメッセージ

(2018.11.21 バチカン放送)

 教皇フランシスコは21日、来年1月パナマで開催される「世界青年の日大会」に向け、若者たちにビデオメッセージを発表された。

 カトリックの若者たちの祭典「世界青年の日(ワールドユースデー=WYD)大会」が来年1月、パナマで開催され、教皇フランシスコも、1月23日から27日までパナマを訪問、若者たちと共に大会行事に参加される。

 ビデオメッセージの内容以下の通り。

「親愛なる若者の皆さん

 来年1月、パナマで開催の「世界青年の日大会」が近づいています。今大会は、神の呼びかけに答えたマリアの言葉、「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ福音書1章38節)をテーマにしています。

 それは、勇気ある、寛大な「はい」という言葉です。それは、自分自身から抜け出し、他の人のために奉仕するという、召命の秘密を理解した人の返事です。私たちの人生は、神と隣人への奉仕においてのみ、意味を見出すのです。

 信仰を持つ人、持たない人も、多くの若者たちが、勉強が一段落ついた時、他の人々を助けたい、苦しむ人々に何かをしてあげたいという望みを表します。これは若い人たちの力、皆さんたちの力、世界を変えることのできる力です。これはこの世の『強い権力』に打ち勝つことのできる革命、『奉仕』という革命です。

 隣人に奉仕するとは、行動への準備ができているというだけでなく、神との対話、マリアがそうであったように、耳を傾ける態度が必要です。マリアは天使の言葉に耳を傾け、それから答えました。

 心の沈黙における、神とのこの関係によって、私たちは自分のアイデンティティーと主から呼ばれた召命を知ることができます。その召命には、結婚や、奉献生活、司祭職など、様々な形があります。これらのすべてが、イエスに従う方法なのです。大切なことは、主が私たちに何を望んでおられるかを発見し、それに対して「はい」と言う勇気を持つことです。

 マリアは幸福な女性でした。なぜなら、神の御前で寛大であり、神がマリアのために用意されたご計画を受け入れたからです。神の私たちに対する提案は、マリアに対するそれと同様、夢を消すものではなく、私たちの人生が実りをもたらし、人々に微笑を与え、多くの心を明るくすることができるようにとの望みに火を灯すものです。神に対し、肯定的に答えることは、自分が幸福でいるための、そして多くの人を幸福にするための第一歩なのです。

 親愛なる若い皆さん、一人ひとりが自分の心の奥深くに分け入り、「私に何をお望みですか」と神に尋ねる勇気を持っているでしょうか。主が皆さんに語りかけるままにしてください。皆さんは自分の人生が変容し、喜びに満たされるのを見るでしょう。

 近く開催される世界青年の日・パナマ大会を前に、すべての準備行事に従い、それに参加しながら、心の備えをしてください。これらの行事は大会に向かう皆さんの歩みを助けることでしょう。おとめマリアが皆さんのこの巡礼に寄り添い、その模範が皆さんの勇気ある寛大な答えを促しますように。

 パナマに向けて、良き歩みを!そして、どうか私のために祈ることを忘れないでください。近いうちにお会いしましょう」

(編集「カトリック・あい」=画面の▷をクリックしていただければ、動画をご覧になれます)

2018年11月23日

◎連続講話:[十戒]⑯最後の掟が示すのは「心の解放」だ

(2018.11.21 バチカン放送)

 教皇フランシスコは21日、水曜恒例の一般謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、モーセの「十戒」の最後の部分、「隣人の妻を欲してはならない」「隣人の財産を欲してはならない」を取り上げられた。

 まず教皇は「十戒のすべての掟は『これ以上進めば、自分自身はもとより、隣人、神との関係を破壊してしまう』という人生における境界線、限界を示すもの」とされたうえで、十戒の最後の部分は「すべての背きは『よこしまな欲望』という共通の根から生まれる、ということを思い出させます」と話された。

 そして、マルコ福音書のイエスの言葉、「『中』から、つまり『人間の心』から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪は、みな中から出て来て、人を汚すのである」(7章21-23節)を引用し、「こうしたことから、『十戒』をめぐるすべての教えは、『人間の心』のレベルに触れない限り、何の意味も持たないことになる」と語られた。

 さらに、「『十戒』を巡る旅で、この最後の掟が示す終着点は『心』。もし『心』が解放されていなければ、残りは無用のもの」「『心』が解放されていなければ、神の掟は、単に『生活のうわべを飾るもの』となり、その人生は隷属状態のまま、神の子にふさわしくありません」とされ、そうならないために、「私たちは自分の貧しさを見つめ、聖なる謙遜に達するために、自分のよこしまな欲望の正体を暴かねばならないのです」と訴えられた。

 「人間には、この祝福された謙遜が必要」とする教皇は「人は自分の力だけでは解放されません。救われるためには、神に叫びをあげなくてはなりません」「聖霊の力なしで自分を正そうとすること、自分の努力だけで心を浄化しようと試みることも、虚しい」と述べられたうえで、「神との関係に心を開くことによってのみ、私たちの努力は実りをもたらします」と話された。

 また、聖書の掟の役割は「掟に文字通り従えさえすれば、人為的な救いにたどり着ける、という、思い違いを抱かせることではない。人間をその真理、その貧しさに気付かせ、それを通して、私たちを変容し、新たにする神のいつくしみとの真の出会いに、自分を開かせることにあります」と教皇は強調された。

 そして、「十戒」の最後の部分は、「すべての人は『救いを乞う者』だ、ということに気付かせるもの」、「自分の心の乱れを見つめ、自己中心的に生きることをやめ、『心の貧しい者』となるためのもの」、「御父の御前に正しい者となり、御子に贖われ、聖霊から教化されるためのもの」と締めくくられた。

(編集「カトリック・あい」)

2018年11月22日

☩「イエスは”流れ”に逆らい、手を差し伸べてくださる」

(2018.11.18 VaticanNews  Sr Bernadette Mary Reis, fsp)

 「世界貧しい人のための日」に当たり、教皇フランシスコは18日の聖ペトロ大聖堂での6000人のローマの貧しい人々を前にしたミサの説教を、「これがイエスが私たちに歩むように言われている道」「私たちが山上で神と祈りの時を過ごした後、兄弟姉妹と会うために下山する道です」と始められた。

*イエスは”流れ”に逆らわれる

 そして、このミサが聖ペトロ大聖堂奉献を記念する荘厳ミサであることから、福音書のペトロが嵐が吹きすさぶ湖の水の上を歩く箇所、その前の箇所-イエスは「成功の絶頂」の時に、祈りをささげるためにお1人で山に登られ、それから嵐の最中にある湖岸に下って行かれた(マタイ福音書14章22⁻33節参照)を引用され、これらの一連の振る舞いは、”流れ”に逆らう行為だ、と指摘。 「イエスは成功を、そして平穏も、後に残して行かれたのです。イエスに従う人々も、イエスが選ぶように言われる道-神に向けて登り、兄弟姉妹のところに下る道ーをたどるよう求められています」と語られた。

*イエスは確信を持たせる

 成功と平穏を後にして、イエスは嵐の海のただ中にいる弟子たちのところに向かい、彼らに確信を持たせようとした。”海”はイエスが打ち砕く悪を象徴しており、「イエスが、そしてイエスだけが、私たちの最大の敵-悪魔、罪、死、そして恐怖-を打ち砕く、という確信の啓示です」と教皇は説明された。 そして、私たちが体験する嵐の中で問題とされているのは「嵐」そのものではなく、「私たちがどのように人生(という舟を)操っていくか」であり、「うまく操る秘訣は、イエスを舟にお乗せする」こと。「そうすれば、嵐は静まり、難破しなくて済むのです」と強調された。

 *イエスはペトロの叫びをお聞きになる

 そして、教皇はこの福音書の箇所を「世界貧しい人の日」に関連付け、助けを求めるペトロの叫びは、貧しい人、生まれていない人、飢えている人、のけ者にされたお年寄り、友もなく、「人生の嵐に直面」する人、「不確かな未来に向けて…故郷を離れることを余儀なく」される人、「生活の基盤を奪われた」人に共鳴するもの、と指摘された。

*イエスは手を差し伸べられる

 イエスはペトロを助けるために、手を差し伸べられた。この振る舞いは、「私たちが助けを求めている人とつながる中で信仰を生きることが、なぜ、私たち全員にとって重要なのか」を教えている、と語られた教皇は、無関心や不満で手を伸ばさないのは、キリスト教徒にとって、悪に対して容認できない対応、とし、「そうであってはならない。神を信じるものとして、私たちは、イエスが私たちになさっているように、手を差し伸べねばなりません。神は貧しい人の叫びをお聞きになりますが、私たちは聞くでしょうか」と問いかけられた。

*イエスは無償で与えられる

 イエスはご自身がなさったように、私たちに「惜しみなく、義務感なしで」与えるように求められる、と教皇は締めくくられた。私たちに払い戻しができない人々に与えるように求められている、と強調され、次のように祈られた。 「私たちに手を差し伸べてください、主よ、そして私たちをしっかりとつかんでください。あなたが愛されるように私たちが愛するように助けてください。過ぎ去るすべてのものを後に残して行くこと、私たちの周りの人々が(注:救いの)確信を得る源となること、助けを必要としているすべての人に惜しみなく与えることを悟らせてください。アーメン」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2018年11月19日

☩「中央アフリカ大虐殺とカリフォルニア森林火災の犠牲者のために祈りを」

(2018.11.18 VaticanNews Linda Bordoni)

 教皇フランシスコは18日、正午の祈りの後、ここ数日、世界で起きた大惨事に言及し、中央アフリカ共和国で起きた虐殺で難民キャンプの多数の住民が死傷したことに哀悼の意を表するとともに、米カリフォルニアの大規模な森林火災の犠牲者たちのためにも祈りをささげた。

*中央アフリカの難民虐殺

 中央アフリカで起きた虐殺事件について、教皇は「二日前に、故郷を追われた方々のキャンプで起きた大量殺戮を知って悲しみに耐えません。司祭も2人殺されました」と語り、「亡くなった方々、そして傷を負った方々のために祈りましょう。そして、平和を特に必要とするこの敬愛する国で暴力が止むように、祈りましょう」と会衆に促された。

 国連関係者によると、15日の中央アフリカの難民キャンプ襲撃では、40人以上が殺害され、数十人が負傷した。このキャンプは、首都バンギの東にあるアリンダオにあり、2万人が収容されていた。当日、キャンプに火がつけられた際に、数千人が立ち退きを余儀なくされた、という。

  カリフォルニアの大森林火災では現在までに少なくとも76人の死亡し、1300人近くの安否が確認されていない。被害に遭ったパラダイスの町では数百人が瓦礫の中から行方不明者の発見に努めている。

 また、18日が教会の定めた世界貧しい人のための日であり、教皇は聖ペトロ大聖堂で、さまざまな団体や教会のグループに同伴された貧しい人々を招いてミサを捧げられた。「今日のお昼、私はパウロ六世ホールで、多くの参加者の方々とランチをご一緒します」と語られ、貧しい暮らしをしている人々の側にキリスト教徒共同体があることを表明する祈りと催しが世界中の教会で行われていることを強調された。

 そして、この日の行事は「希望の印、社会における慈悲の道具となる励まし」となることを目指すもので、年を追って参加する小教区、組織、運動団体が増えている、と強調された。

 正午の祈りの後、ミサで言われた通り、パウロ六世ホールで同伴のボランティアも合わせて約1600人と昼食を共にされた。

 

2018年11月19日

◎連続講話:十戒⑮「第八の掟は、言葉だけでなく、振る舞い全てで真理を証しすることを求める」

(2018.11.14 VaticanNews)

 教皇フランシスコは14日の一般謁見中の「十戒」をテーマとする連続講話で、次のように語られた。

 「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、今日は十戒の中で第八の掟、「隣人に関して偽証してはならない」を取り上げたいと思います。この掟は、 カトリック教会のカテキズムでは、「他人とのかかわりの中で、真実を歪曲することを禁じる」(2464項)ものと説明しています。

私たちは、言葉だけでなく、他の人々に対する振る舞いすべてにおいて真理を証しすることを求められています。私たちにとって、その究極の模範は、イエスご自身です。彼は真理の人です(ヨハネ福音書14章6節参照)。ピラトから尋問を受けたイエスは、ご自分は真理について証しするためにきた、と言明されました(同18章37節)。

その人生、死、そして復活の神秘を通して、イエスは、私たちの地上における命の最も深い意味を明らかにされました。そして私たちが彼の神の命を分かち合うように招いておられます。イエスの聖霊という贈り物、真理の霊は、私たちの天の父の養子となり、兄弟姉妹としてその愛のうちに住むことができるようにしてくださいます。

 第八の掟は、私たちが、このような新しい命を全うするように勧めています。そうすることで、神の救う愛の真の証人となり、人となられた私たちの主キリストを体現するのです」

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

2018年11月14日

☩「主は私たちの振る舞いの量ではなく質、意図の純粋さ」に着目される

(2018.11.11 バチカン放送)

 教皇フランシスコは11日、日曜正午の祈りの前になさった説教で、この日の福音朗読箇所、マルコ福音書の「イエスが律法学者を非難する一方、献金する貧しい寡婦の姿を示すエピソード」(12章38-44節)を取り上げられた。

 律法学者と寡婦が対比的に描かれるこの個所について、教皇は「律法学者は裕福で影響力のある人々を、寡婦は最も貧しく弱い立場の人々を代表しています」されたうえで、ここでイエスが律法学者を問題としているのは「自分の優位をひけらかし、虚栄を張り、重要でない人や、経済的に恵まれない人々を見下す、その態度なのです」と指摘。

 そして、「イエスは、律法学者が宗教的立場を利用して弱い人々を食い物にする偽善をあからさまにし、対照的な模範として貧しい寡婦の姿を示すことで、弟子たちの心に、ご自身の教えをはっきりと刻もうとされました」と語られ、「自分の権利を守ってくれる夫を亡くし、高利貸しなどの犠牲になりやすい、社会でも弱い取るに足らない立場」にある寡婦が、賽銭箱に、自分が持つすべて-銅貨2枚を入れるという「この謙虚で大きな宗教的心を持つ自己犠牲の態度が、イエスの目に留まることになったのです」と話された。

 こうしたイエスの教えは「私たちの人生における本質を思い出させ、神との絆を具体的な形で日常的に強めることを助けてくれる」とし、主の天秤は「私たちの秤とは異なります。主は人とその態度を、異なる方法で量られ、量ではなく質、その意図の純粋さ」に着目されるが、これは「私たちが祈りを通し神に捧げる態度、愛徳の業を通して隣人に捧げる行為が、形式主義や損得計算を超えた、無償の表現でなくてはならないことを意味しています」と説かれた。

 イエスがあの貧しい、寛大な寡婦を、キリスト教的生活の模範として示したのはこのような理由からであり、「私たちはこの寡婦の名を知らなくとも、神の御心にかなったその心を知っています」とされ、「私たちが神と兄弟たちに、自分の何かではなく、自分そのものを謙虚に寛大に捧げることができますように」と、ご自身を神にすべて捧げた貧しいおとめマリアに、その支えを祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

2018年11月13日

☩注目したい三つの事-列福、第一次大戦、そして18日はWorld Day for the Poor

(2018.11.11 VaticanNews  Sr Bernadette Mary Reis, fsp)

 教皇フランシスコは11日正午のお告げの祈りの後の説教で、三つの重要な出来事を取り上げられた。

*第1次世界大戦から100年

 続いて教皇は「今日は、第一次世界大戦終結から100年に当たります。この戦争を、私の前任者、ベネディクト16世は『無用な殺戮』とされました」と語り、この日を記念して、イタリア時間本日午後1時30分に世界中で鐘が鳴らされる、とされた。

 また、第一次大戦は、「戦争の文化」を否定し、「世界の多くの地域で今も血を流し続けている争いを終わらせるためのあらゆる正当な手段を求めねばならない」という、「強い警告」となっている、と強調。11日が、平和に努める者の象徴となっているトゥールの聖マルティヌス*の祝日に当たっていることを取り上げ、「彼は自分のマントを二つに裂いて、貧しいひとに与えました。このような人間的な連帯の振る舞いが、平和構築への道を、私たち一人ひとりに示すものとなりますように」と訴えられた。

(「カトリック・あい」注*聖マルティヌスは、ローマ帝国属州パンノニア(現在のハンガリー)に生まれ、兵役に就いた。兵士の頃、雪の中で凍えていた半裸の物乞いに、自らのマントを半分裂いて与えたが、その夜、彼の夢の中に、半分のマントをまとったイエス・キリストが現れ、「まだ受洗もしていないローマの兵士マルティヌスが、私にこのマントをくれた」と言ったといわれる。これをきっかけに洗礼を受け修道士となったマルティヌスは、ポワティエ郊外にガリア地方初の修道院を建て、さらにトゥール司教となった

*18日は第2回 World Day for the Poor

 最後に、教皇は一週間後の18日に、様々な機関、団体とともに第2回World Day for the Poor が実施されることを確認。この日の事業の一つとして、バチカンの聖ペトロ広場に医療措置が必要な人々のための緊急医療救護所が設置されることを明らかにするとともに、「この日が、最も小さな人々、社会から無視されている人々の求めに大きな関心を払うように、皆を促す日となるように望みます」と語られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」)

2018年11月12日

☩「衛生的な飲料水の確保は、人間の尊厳から発する権利」-バチカン”水”会議で

(2018.11.8 バチカン放送)

 「公益の管理:飲料水へのアクセスをすべての人に」をテーマとする国際会議が8日、ローマの教皇庁立ウルバノ大学で開催され、教皇フランシスコは「飲料水へのアクセスは、人間の尊厳に直結する権利として認識されるべき」とするメッセージを送られた。

 メッセージで教皇は「水は生命にとって本質的なもの」とされたうえで、世界の多くの地域において、衛生的な水へのアクセスがないために、人々が尊厳ある生活をおくることができない状況を指摘、「衛生的な水を得ることができない人々が、非衛生的な水が原因で病気になったり、しばしば亡くなっていることは、21世紀の人類にとって恥ずべきこと」と述べられた。

 さらに、残念なことに、飲用水を安定して得られない多くの国々では、「武器や軍用品の供給には事欠かないために、状況は悪化するばかりであり、収賄や経済的利害が、水へのアクセスを保証するための連帯精神に基づく努力を妨げている」として、「行政・教育・技術・経済のすべての組織が一体となり、強い意志をもってこの水問題に取り組まねばなりません」と訴えられた。

 回勅「ラウダート・シ」で述べた、真のエコロジーのための責任と連帯ある生活スタイルを提示する教皇は「(注:衛生的で安全な)飲料水へのアクセスは人間の尊厳から発する権利であり、水を単なる商品と見なす概念とは相容れません」とし、「福音的な教えとその精神は、人類家族の公益をすべての人が享受できるための、具体的な取り組みを強く促しています」と強調。マタイ福音書の「お前たちは、のどが渇いたときに飲ませてくれなかった」(25章42節)というイエスの言葉を引用しつつ、「信仰の眼差しをもって、すべての渇いた人の中に、神ご自身の姿を見つめるように」と呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2018年11月9日

◎連続講話・十戒⑭「人生は、”所有するため”ではなく、”愛するため”の時間」

(2018.11.7 バチカン放送)

 教皇フランシスコは7日、水曜恒例の一般謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、モーセ「十戒」の第7戒「盗んではならない」を考察された。

財貨の普遍的使用目的

 教皇は、「『盗んではならない』という言葉を聞く時、他人の所有物に対する窃盗などをテーマに思い浮かべるように、他人の財貨を不当に奪ったり、所有したりすることを合法とする文化は存在しません」としたうえで、「この言葉の意味をもっと広げ、キリスト教的な叡智に照らした、財貨の所有というテーマに焦点を当てたい」と前置きされた。

 そして、「財貨の普遍的使用目的」について述べている「カトリック教会のカテキズム」の教えを、次のように引用された。

 「初めに、神は地とその他の産物とを人類の共同の管理にゆだね、人類がそれに手を加え、労働によって支配し、その実りを得るように、はからわれました。創造されたものは全人類のためのものです。」(n. 2402)「たとえ共通善の促進という目的のために私有財産やその権利、ならびにその行使の尊重が求められているとしても、つねに第一に優先されなければならないのは、財貨の普遍的使用目的です」(参照:n. 2403)

貧富の格差の拡大

 教皇は 「世界はすべての人に必要不可欠な財を保証するための豊かな資源を備えているが、それにも関わらず、多くの人が驚くべき貧窮状態にあり、分別なく使用されたその資源の質は次第に低下しつつあります」と指摘、「世界はただ一つ、人類もただ一つ」であるにもかかわらず、「世界の富がごく一部の人々に集中し、多くの人々が貧困の苦しみの中にある現実」を見つめられた。

 そして「地上に飢餓があるのは、食料が不足しているからではなく、市場の要求により、しばしば食べ物が破棄されているからです。欠如しているのは、平等な分配を保証するための正しい生産方法と連帯ある計画を可能とする、自由で先見性ある企業精神です」と強調された。

所有とは一つの責任

 また教皇は、カテキズムの「人間は財の使用に際して、自分が正当に所有している物件を、自分のものとしてばかりでなく、共同のものとしても考えなければなりません。すなわち、物件は自分のためばかりでなく、他人のためにも役立つようにという意味においてです」(n. 2404)という教えを示しつつ、「あらゆる富が良いものであるためには、社会的側面を持たなければなりません」と語られた。

 こうした見方の中で、「盗んではならない」という戒めは、ポジティブな意味を帯びてくる、とし、「ある財貨を所有するということは、その所有者が神の摂理の管理者にされるということ」(「カトリック教会のカテキズム」n. 2404)と教えられた。「所有とは一つの責任」「神の摂理に反して盗んだ財は、欺かれた財です」と述べられ、「自分が真に所有するものは、自分が与えることができるもの」、「財の所有は、それを創造性をもって増やし、寛大さをもって利用することで、人は愛と自由の中に成長することができるのです」と訴えられた。

人を豊かにするのは財産ではなく、愛

 さらに、人間が「より多く所有すること」に奔走しているのに対し、十字架につけられたイエスは、すべての人の贖いのために、いつくしみ深い御父からの計り知れないほどの「身代金」を払ったと述べ、「私たちを豊かにするのは、財産ではなく、愛なのです」と 強調された。

 また、「盗んではならない」とは、「あなたの財、あなたの持っている手段を、愛するために用いなさい」という意味であり、「そうすることで、あなたの人生は良いものとなり、所有することは、真の恵みとなります。なぜなら、人生は所有するための時間ではなく、愛するための時間だからです」と説かれた。

(編集「カトリック・あい」)

2018年11月8日