☩「現実に自己を閉ざさず、偽善的な行い、世俗的な汚染に警戒しなさい」

(2018.9.2 Vatican News)

 教皇フランシスコは2日の正午の祈りの中の説教で、信徒たちに、信仰の真の意味に関心を向け、神の言葉に忠実であるように、偽善的な行い、虚栄心、強欲に汚染されないように警戒を求めた。

  聖母マリアへの祈りの前に、教皇フランシスコは2日の主日のミサで読まれたマルコ福音書(7章1‐8節,14-15節,.21-23節参照)の箇所を取り上げられた。そこでは、エルサレムからやって来た律法学者やファリサイ派の人々が、イエスの弟子たちが昔の人の言い伝えを守らない振る舞いをしているのを批判し、それに対してイエスが答えている。

 教皇は、私たちの主は、イエスが試されているのをご存知だが、イエスは、彼らを過ちから引き離すことを望まれ、「人間の言い伝えを守るように、という神の戒めに背くことで、神の意志を覆したのです」と語られた。

 そして、「この福音書の箇所のメッセージはまた、使徒ヤコブの言葉によって補強されます。彼は私たちに真の信仰の在り方を教えています-『孤児や寡婦が困っている時に世話をし、世の穢れに染まらないように』(ヤコブの手紙1章27節)と」としたうえで、「孤児や寡婦が困っている時に世話をする」は「他の人々に慈愛を実践すること、いちばん助けを必要としている人、いちばん弱い人、いちばん小さな人から始めること、を意味します。彼らは、神が特別に思いをおかけになる人々であり、神は私たちにも同じようにすることを求めておられます」と強調された。

 また、「世の穢れに染まらないように」ついては、「この言葉は、現実の世界から自己を遠ざけ、閉ざすことを意味しません…私たちの考え方と振る舞いが、虚栄心、強欲、驕りで怪我されないように、警戒しなさい、ということを意味しているのです」と説明された。

 さらに、教皇は、神の言葉を開かれた頭と心で進んで受け取るように促し、こう付け加えられた。それが「私たちの心と振る舞い、神と、他の人々とのつながりを清め、偽善から解放するのです」と。 

 正午の祈りの終わりに、教皇は前日のスロバキアのアンナ・コレサローバの列福に触れられ、「彼女は自分の尊厳と貞節を侵そうとする人々に抵抗して殺されました」とし、「この勇敢な少女は、若いキリスト教徒たちが福音へのしっかりとした忠誠心を持ち続ける助けとなります。たとえ(社会や周囲の)流れに逆らうこと、大変な代償を払うことを求められても、です」と、とくに若者たちを勇気づけられた。

(翻訳「カトリック・あい」)

2018年9月2日

☩「家庭崩壊、召命不足…でも『一致した家族』の理想を失うな」-世界家庭大会を振り返って

(2018.8.29 「カトリック・あい」)

 教皇フランシスコは29日、バチカンでの水曜恒例の一般謁見で、25、26両日のアイルランド訪問を振り返り、「世界家庭大会」や聖職者による児童性的虐待問題などに触れられた。

 まず、教皇は、今回の訪問の主な目的が、「家庭の福音:世界のための喜び」をテーマとしたこの大会に出席し、キリスト教的家族の召命と使命を励ますこと」にあったとし、言語・文化・経験も異なる多くの家族たち、夫婦や、祖父母、子どもたちが参加した大会の姿は「神が私たちに望まれる一致と調和と平和を語り、神がキリストを通して私たちにお与えになった忠実や、赦し、和解の実りを示すものとなった」とされ、「神は、世界を、誰もが受け入れられ、誰一人として除外されることのない「ただ一つの家族」とするよう、その計画に私たちが加わることを望んでおられます」と強調された。

 また、教皇は「アイルランドの訪問は大きな喜びを体験するだけでなく、カトリック教会関係者による虐待事件をはじめ、同国で深い悲しみと失望を生んだ、様々な形における虐待の苦しみと向かい合うものでした」とされ、「このような犯罪に対し、教会の責任者たちは正しく対応することができませんでした」と、訪問中に語られた痛恨の思いを改めて告白された。

 そして、この訪問で、聖職者から性的虐待を受けた被害者たちと面会された際、聖職者たちが犯した罪、スキャンダル、裏切りに対し「何度も神に赦しを祈りました」とする一方、「アイルランドの司教たちは、青少年の保護を目的とする一連の厳しい規則を定めた政府との協力のもと、真摯に教会内の浄化に取り組み、虐待に苦しむ人々との和解に努めてきました」と、司教たちの努力を評価するとともに、司教たちとの集いで「誠実と勇気をもって過去の罪を償い、アイルランド国民の深い信仰と共に、教会に新しい季節を築くよう強く促しました」と説明した。

 最後に、「スキャンダルなどが原因で、現在、同国には司祭への召命が不足しています。主が聖なる司祭たちを派遣してくださるよう皆で祈りましょう」と集まった人々に求め、ダブリンの「世界家庭大会」は「結婚・家庭生活を通して福音の証しに励む多くの家族と出会う預言的かつ慰めに満ちた体験となりました。家庭崩壊のニュースが多い今日にあっても、私たちは『一致した家族』という理想を失ってはなりません」と訴えられた。

(バチカン放送のニュースなどをもとに「カトリック・あい」が編集)

2018年8月29日

☩「赦し合う習慣のない家庭は崩壊する」世界家庭大会7万5千人を前に

(2018.8.26 バチカン放送)アイルランド訪問中の教皇フランシスコは26日、ダブリンで開かれたカトリック教会の第9回世界家庭大会のメインイベント「家庭の祝祭」に参加された。

 クローク・パーク・スタジアムで行われた催しには、世界114カ国から家族たち約7万5千人が集り、歌と、ダンス、ビデオ映像を交えて進行し、家族代表が、家庭生活の喜びや試練、赦しや和解、愛と忠実など、家庭の様々な現実について語った。

家庭は神の愛を周囲に照らす「灯台」

 これに応える形で、教皇は「神の愛に根差しながら、福音の喜びを生活の中で、また社会の中で体現して生きるように」と勇気づけられたうえで、「家庭の福音:世界のための喜び」という、今大会のテーマを示しつつ、「真に世界の喜びとなるためには、家庭の中でイエスと出会えるようにする必要がある」と強調され、「家庭は『灯台』のように、神の愛の喜びを、まわりの世界に向けて照らし出す存在」であるべきあり、そのために「家族たちが愛と赦しといつくしみを与えながら、生活の中で静かで目立たない愛の行為を通して、『身近な聖性』を目指し続けることが大切です」と語られた。

 そして、家族が神の愛に深く根ざしているなら「キリスト教的結婚と家庭生活の素晴らしさをあらゆる面から理解することができる」、神の恵みのもとにあるなら「父と母、子どもや孫、祖父と祖母、そして姑と嫁、家族の皆が、たとえ容易でなくても、互いに理解し、赦し合うことができる」とし、このことをお茶にたとえて、「お茶を入れる時、茶葉を開かせる必要があるでしょう。それと同じように、家族の中にも時間と忍耐が必要です」と説明された。

完全無欠な家庭など存在しない

 さらに、「完全無欠な家族など、存在しません」とされ、「赦しの習慣がない家庭は弱りながら、次第に崩壊してしまいます。赦すとは自分自身の何かを与えることです」と説かれ、「子どもたちも、両親が互いに赦し合う姿を見て、人を赦すことを学んでいくのです」と語られた。

『ネット上の生活』が実生活を脅かしてはならない

 教皇は、今日の問題として、家庭とソーシャルメディアの関係も取り上げられ、「ソーシャルメディアは、過度にならぬよう、慎重さをもって利用すれば役に立つものですが、『ネット上の生活』が、実際の生活を脅かすようであってはなりません」と忠告。さらに、具体的に「皆がテーブルに就いている時、互いに会話せず、携帯電話をいじっているような状態は望ましくない。家庭と神のために充実した時間を割くことができるよう、(ネット漬けの状態になっているなら)考え直す必要があります」と注意された。

高齢者を大切にしない社会に未来はない

 また、イラクの家族の難民としての悲劇に心を寄せられ、「愛と、受容、赦しを教えることのできる家族たちは、社会の中で平和を生み出す存在となり、憎しみや復讐への最高の抵抗となっていくのです」と話された。

 高齢者問題についても触れられ、「お年寄りを大切にできない社会は、未来のない社会」であり、「世代間の絆の構築に配慮できない教会は、一番大切なもの、すなわち愛が欠けた教会です」と注意された。

 最後に、「皆さんは、教会と世界の希望です」と述べた教皇は、家族が喜びをもって福音を生きることができるよう、ご自身の使徒的勧告「愛の喜び」を参加者に手渡され、「神がその愛をもって、すべての家族を守ってくださるように」と祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

2018年8月26日

☩「『愛の革命』を家庭から始めよう」教皇、ダブリンで夫婦たちとの出会い

(2018.8.25 バチカン放送)カトリック教会の「世界家庭大会」のためアイルランドを訪問されている教皇フランシスコは25日午後、ダブリンの聖マリア臨時司教座聖堂で夫婦たちとの出会いを持たれた。アイルランド到着初日の25日は、午前中に大統領、首相はじめ各界要人と会見され、午後から「家庭」をテーマにした教会関係の行事に入られた。

 聖マリア臨時司教座聖堂での出会いで、教皇は、若い人々を中心に多くの夫婦とお会いになり、家庭の喜びや試練を語る彼らの声に耳を傾けられた。若い夫婦が多く参加しているのをご覧になって、「今の若い人は結婚したがらないと聞きますが、皆さんを見ていると、それは本当ではないようです。結婚して、人生を分かち合うことは、素晴らしいことです」と喜ばれた。そして、「赤ちゃんの泣き声に『未来の希望』を示すと同時に、お年寄りの夫婦の『知恵』に学び、家族のルーツを大切にするように」と勧められた。

 参加者からの「今の時代に、永続する貴重なものなどあるのでしょうか」という問いに対し、「暫定的な文化を生きる私たちは、現実に一生続くものに対して慣れていません」と話され、夫婦が「一生」と誓った愛も「愛を育てる努力をしないと長続きしないのです」とし、さらに「『一生をかけて』とは『一生をかけて愛を育てる』ということ。なぜなら、『愛は暫定的ではない』からです」と説かれた。

 また、キリスト者の男女は「結婚の絆を結ぶ時、神の恵みのもとに、自由意思をもって、忠実で継続する愛を互いに与え合い、彼らの一致は秘跡に高められます」と語り、「イエスは常に夫婦を見守り、忠実と不解消性のうちに互いを与え合う、その一生を支え」「夫婦にとってイエスは、試練の時の砦です」と強調された。。

 最後に、教皇は「家庭が他の弱い人々に連帯を示し、子どもたちに愛徳の業を伝えることの重要性」を指摘され、「エゴイズムと自己優先の吹き荒れる現代にあって、世界は『愛の革命』を必要としています。この革命を、皆さん自身と皆さんの家庭から始めてください」と夫婦たちに促された。

(編集「カトリック・あい」)

2018年8月26日

◎連続講話「十戒」⑥「キリストが私たちの名を負われたように、神の御名を負うことに価値がある」

 (2018.8.22 バチカン放送)教皇フランシスコは22日、バチカンでの水曜恒例の一般謁見のカテケーシス(教会の教えの解説)で、「十戒」の掟の一つ、「あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)について考察された。

 まず教皇は、この掟が「神の御名を冒涜せず、不適当にその御名を用いてはならない」という勧告、と説明され、「『みだりに』とは、『無用に、やたらに』という意味で、その空虚さは、偽善や、形式主義、虚言に通じるものです」と語られた。

 また「唱える」とは、ヘブライ語とギリシャ語では「自分に負わせる、引き受ける」という表現が使われているとし、「神の御名を自分に負わせる」とは、「神の存在を受け入れ、神との強い結びつきの中に入るということ」とされた。

 そして「神の御名を自分が負う際に、偽善的であったり、形式的であったりしてよいのでしょうか」と問いかけられ、「この掟は、神との関係が偽物ではなく、自分のすべてを委ねる完全な信頼関係であるように促されているのです」と強調された。

 教皇はさらに、神との緊密な信頼関係を生きた人々として、聖人たちの存在を示し、彼らの真摯な、信仰に根付いた生き方を思い起こされ、「偽善を交えずに神の御名を背負い、『主の祈り』にある『御名が聖とされますように』という祈りを、心から唱えるキリスト者が増えれば、教会の告げる言葉はもっと受け入れられ、もっと信頼に足るものになるでしょう」と述べ、「私たちが具体的な生活を通して、神の御名を表すことができるなら、洗礼の素晴らしさ、聖体の偉大な恵みを目に見えるものとすることができます」と話された。

 続けて、「キリストの十字架以来、誰一人、自分自身をさげすむ必要はありません。それは、私たち一人ひとりの名前をキリストが背負ってくださるからです」とし、「神の御名を自らに負うことには価値があります。神は私たちの罪にも関わらず、私たちの名を最後まで引き受け、私たちの心にご自身の愛を置いてくださるからなのです」と力を込めて語られた。

(「カトリック・あい」編集)

2018年8月23日 | カテゴリー :

☩「ミサの聖体拝領で、私たちは生きたイエスをいただく」

(2018.8.19 カトリック・あい)教皇フランシスコは19日の正午の祈りの中で以下のようにお話しになった。バチカンの公式発表文英語訳より全文翻訳します。

 「愛する兄弟姉妹の皆さん、おはよう!

 今日の主日のミサで読まれた箇所(ヨハネ福音書6章51節∼58節)では、イエスが5つのパンと2匹の魚をもとに十分な食事を大群衆に提供されたあと、カフェルナウムの会堂でなさった説教の第2部が紹介されています。

 イエスはご自身を「天から降って来た生きたパン」だと言われ、そのパンは人に永遠の命を与えるもの、とされたうえで、「私が与えるパンとは、世を生かすための、私の肉のことである」(51節)と付け加えられました。この一節は、聴いている人たちを驚かせ、彼らはこう言って、議論を始めました-「どうしてこの人は、自分の肉を我々に食べさせることができるのか」(52節)。

 分かち合われたパンのしるしの本当の意味が、自分自身を犠牲にしてまで捧げることだということを示されようとした時、誤解が生じます。勝利に導きたいと希望される方を、拒絶さえするのです。私たちがイエスを王にしようと望んだために、イエスが姿を隠されたことを思い起こしましょう。

 イエスは話をお続けになります-「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたのうちに命はない」(53節)ここで、血は、肉とともに語られます。聖書の言葉で、「肉と血」は具体的な人間を表現します。人々と弟子たちは、イエスが自分たちと霊的に交わるように招いておられることを理解します-イエスを、その人間を”食べ”、この世界のための命の賜物をイエスと分かち合うことを。そうしなければ、勝利と成功ははかない夢に終わる!(血と肉は)まさに、私たちのためにご自身を捧げられるイエスの犠牲なのです。

 命のパン、キリストの体と血の秘跡は、ミサの卓上で私たちに惜しげもなく与えられます。祭壇を囲んで、私たちは今日、そして永遠に、食べ物を与えられ、霊的な励ましをいただきます。聖なるミサに与る時、私たちはいつも、この地上で天国にいることを確かに感じます。なぜなら、聖変化した食べ物-イエスの体と血-から、私たちは、永遠の命は何か、を知るからです。「私を食べる者も私によって生きる」(57節)と主は言われます。ミサは私たちを形作ります。なぜなら、私たちは自分のためだけに生きず、主のために、私たちの兄弟のために生きるからです。幸せと永遠の命は、私たちがミサでいただいた福音的な愛を豊かなものにする私たちの能力にかかっています。

  イエスは、カフェルナウムの会堂でお話しになったように、今日も、私たち一人ひとりに繰り返されます-「あなた方が、人の子の肉を食べ、その血を飲まないなら、あなたの内に命はない」(53節)と。

 兄弟姉妹の皆さん。これは、物としての食べ物ではありません。生きている、命を与えて下さるパン、まさに神の命とつながる食べ物なのです。聖体拝領をする時、私たちは神の、その命をいただくのです。この命を得るために、福音と、兄弟の愛を”食べる”必要があります。

 ご自分の体と血をもって私たちを養われようとされるイエスの招きを前にして、今日読まれた福音書に出てくる人々のように、私たちも議論をし、反抗しなければ、と感じるかもしれません。このようなことは、私たちがイエスの存在の上に自分の存在を作ろうとし、世界の基準によらず、自分の基準によって振る舞うことに懸命になる時に、起こります。この食べ物で自分自身を養うことによって、私たちはキリストと、その思い、振る舞いで、完全に一致することができるのです。

 これはとても重要です-ミサに行き、ご聖体をいただくこと。なぜなら、ご聖体をいただくことは、生きておられるキリスト-私たちを変容させ、天国への準備をしてくださる方-をいただくことだからです。

 イエス・キリストの聖体をいただく目的-私たちが養われ、また、兄弟たちのために割かれたパンとなるという目的-を私たちが十分に果たすことができるよう、聖母マリアが支えてくださいますように。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

2018年8月19日

☩「神と人への喜びあふれる奉仕で、人生の終わりにマリアと同じ栄誉を」聖母被昇天の祝日

(2018.8.15 VaticanNews Christopher Wells)

 15日の聖母被昇天の祝日に当たり、教皇フランシスコは恒例の一般謁見での説教で、神が、人のすべて-体と魂-を救うことをお望みなっている、という真理について話された。

 教皇はまず、聖母マリアが天に昇られた神秘を深く想うように「今日、教会は私たちを招いています」と語られた。これが、15日の水曜恒例の一般謁見での、教皇のメッセージだった。教皇は、この神秘が「神が人のすべて-体と魂-を救うことをお望みになっているのを、私たちに教えている」ことを強調され、聖母マリアは人生の終わりに「体と心」を天に挙げられた-その体は「墓の中で朽ちることを知りませんでした」とし、「これは、彼女の息子、イエスとの体と魂の比類のない一致ゆえに「神の母」に与えられた特別の栄誉だったのです」と説明された。

 そして、この栄誉は「私たちに、私たち自身の栄光に満ちた神の定めを確認させます」と述べ、過去において、哲学者たちは人の霊魂の価値を理解し、それは幸福に至ることが定められているということが分かっていたが、体が魂との一致においてキリストが示された八つの幸せの教えに向けられていることに思い至らなかった。これが、「体の復活」のキリスト教の教義であり、教皇は「キリストの啓示の固有の要素であり、私たちの信仰の核心的な要素」である、とされた。

 また、聖母の被昇天は、私たちに人の一致を想起させるとともに「私たちが、全身全霊をもって神に仕え、その栄光を称えるように招かれている」ことも思い起こさせることを強調され、「体だけで神に仕えるのは、奴隷の振る舞い」だが、「魂だけで使えるのも、私たち人間の自然な姿とは、著しく異なるでしょう」と注意された。

 教皇は説教の最後を、励ましの言葉で次のように締めくくられた-「私たちが、神への喜びにあふれた奉仕-それは、私たちの兄弟への惜しみない奉仕にも表されますが-の中で生きるなら、私たちの運命は、復活の日に、天の聖母と同じものとなるでしょう。聖パウロが強く勧めていることを全うすることで、それは私たちに与えられるでしょう-『自分の体で神の栄光を現しなさい!』(コリントの信徒への手紙1・6章20節)、そして私たちは天国で神の栄光を永遠にたたえるのです」

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2018年8月16日

☩「『死の文化』に”ノー”では不十分、『善』を行いなさい」‐日曜正午の祈り

(2018.8.13 カトリック・あい)

 教皇フランシスコは12日、日曜正午の祈りの中の説教で、次のようにお話しになりました。バチカン公式発表の英語版から翻訳してお届けします。(カトリック・あい)

 親愛なる兄弟姉妹、そして親愛なる若いイタリア人の皆さん、おはよう!

 今日の日曜日のミサの第二朗読で、聖パウロは私たちに強く勧めています。「神の聖霊を悲しませてはなりません。あなた方は、聖霊によって、贖いの日に対して保証されているのです」(エフェソの信徒への手紙4章30節)と。

 でも、私は自問します。「聖霊を悲しませるとはどいういうことですか?」と。私たちは洗礼と堅信で聖霊をすべて受け入れました。ですから、聖霊を悲しませないために、洗礼で約束し、堅信で確認したことを、固く守って生きる必要があります。首尾一貫し、偽善的でないやり方で-それを忘れないように。キリスト教徒は偽善的にふるまってはならない-首尾一貫して生きねばなりません。洗礼の約束には二つの側面があります-悪を捨てることと、善に執着することです。

 悪を捨てるということは、誘惑に、罪に、サタンに、「ノー」と言うことを意味します。もっと具体的に言えば、「死の文化」に対して、「ノー」と言うことを意味するのです。「死の文化」は、誤った幸せへの現実からの逃避の中で、虚偽、欺瞞、不正、侮辱などの形をとって現れます。これらすべてに「ノー」です。

 洗礼によって私たちに与えられ、その源に聖霊を持つ新たな人生は、分裂と不一致の感情に支配された行為を拒絶します。それが、使徒パウロが「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい」(同31節)と強く勧めた理由です。これがパウロの言っていることです。聖霊の喜びを妨げる、これらの悪の要素、そして悪行は、心を毒し、神と隣人を呪うようにさせます。

 しかし、善いキリスト教徒になるためには、悪行をしないだけでは足りません-善に執着し、善をなす必要があります。聖パウロは勧めます-「互いに親切にし、憐みの心で接し、神がキリストによってあなた方を赦してくださったように、赦し合いなさい」(同32節)。人がこのように言うのをよく聞きます-「私は誰も傷つけていません」と。そして、それで聖人になると信じられています。いいでしょう。でも、あなたは善人ですか?なんと多くの人々が悪を行わず、善も行わないことでしょう-このような人々の人生は無関心、空虚、熱意の喪失に引き込まれていくのです。

 このような姿勢は、福音に反します。そしてまた、あなた方若い人たちの特権にも反します。若さの特権は、躍動的で、情熱的、そして勇敢なことです。このことを覚えてください-覚えたら、皆で一緒に繰り返しましょう-「悪を行わないのは良いことだ。だが、善を行わないのは悪いことだ」。これは、聖アルベルト・ウルタ-ド(1952年に膵臓癌で51歳で亡くなったチリのイエズス会士、労働・社会運動に尽くした)の言葉です。

 今日、私は、皆さんに、善において主役を演じるよう、強くお勧めします。主役を演じるのは、善において、です。悪を行わない時に、それでいい、と思わないように-善を行えたのにしなかった人は誰もが有罪です。嫌うだけでは不十分です-赦す必要があります。分け与えるのを惜しまないだけでは不十分です-敵のために祈らねばなりません。分裂の原因とならないだけでは不十分です-平和のないところに平和をもたらさねばなりません。他人のことを悪く言わないだけでは不十分です-誰かがひどいことを言っているのを聞いたら止めねばなりません。つまらないことを喋りまくるのを止めましょう。それが善をなすことです。

 悪に反対しないと、私たちは暗黙のうちにそれを育てることになります。悪が広がるところには割って入る必要があります。なぜなら、聖パウロが警告しているように、善をもって反抗する-「愛によって歩む」(同5章2節)-大胆なキリスト教徒のいない所に、悪が広がるからです。

 (ここに集まった)親愛なる若い皆さん。あなた方は、この数日、たくさん歩かれ、鍛えられました。ですから、私はあなた方に、こう言うことができます-「愛の中を歩みなさい、愛の中を歩みなさい!」と。そして。10月の(若者をテーマにした)シノドス(全世界代表司教会議)に向けて、一緒に歩きましょう。聖母マリアが、その取り次ぎによって、私たち一人ひとりが、日々、行いをもって、悪に対して「ノー」、善に対して「イエス」と言うことができるように、支えてくださいますように。

(翻訳・南條俊二)

2018年8月13日

◎連続講話「十戒」⑤「『金の子牛』ではわずかな安心感しか得られない」

(2018.8.8 バチカン放送)教皇フランシスコは8日、水曜恒例の一般謁見のカテケーシス(教会の教えの解説)で、先週再開された「十戒」をテーマに、最初の掟「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20章3節)の考察を続けられた。

 今回は、まず、「出エジプト記」の「金の子牛」のエピソード(同32章1‐8節)に触れて、偶像崇拝の背景や様相を見つめられた。民が「金の子牛」の鋳像を造った背景として「モーセが神から掟を授かるために山に登って行ったまま、なかなか降りて来ず、人々は荒れ野で長く待たされていたこと」を挙げ、「荒れ野」とは不安定と不確かさに支配された場所、つまり、「不安で一切の保証がない状態に置かれた人間の生活のイメージです」と話された。

 そして、信頼する指導者、モーセの下山が遅れていたことが、「荒れ野に置かれた人々の偶像崇拝につながった」とされ、モーセの消息が分からない人々は、目に見える神を望み、「私たちに先立って進む神々を造ってください」とモーセの兄アロンに言ったが、民のこのような態度について、「不安定な状態から逃れるために、自作の宗教を求め、神が目に見えないなら、自分たちで思い通りの神を創作しようとする人間の本性を表すもの」、「偶像は、自ら作り出したものを崇拝しながら、現実の中心に自分自身を置こうとするための一つの口実です」と指摘された。

 アロンは人々の願いに抗することができず、「金の子牛」の鋳像を造ったが、教皇は「金の子牛」は、古代オリエントの影響下で、豊穣や豊かさ、活力や強さを意味するだけでなく、何よりも金であることから「繁栄や、成功、権力、富などを象徴するもの」、すなわち、「自由の幻想を与えるすべての欲望のシンボルであり、実際には自由の代わりに、人を隷属させるものだったのです」と述べられた。

 だが、人々が「金の子牛」を造らせた一番の原因は「神に信頼し、神の中に安全を求め、神に心の奥底にある真の願いを託すことができなかったことにあります」と強調され、「神を第一にしないなら、人は簡単に偶像崇拝に陥り、そこでにわずかな安心感を得るだけです」と話された。

 さらに、「豊かであったのに、私たちのために貧しくなられた」(コリントの信徒への手紙2・8章9節参照)を引用して、「イエス・キリストの神を受け入れる時、人は自分の弱さは人生の不幸ではなく、真に強いお方に自分を開くための条件であることを理解するのです」とされ、「真の神を唯一の主として受け入れることで、人は自由になり、自分の弱さを認め、心の中の偶像を拒否できる」と語られた。

 最後に、「私たちキリスト者は、十字架につけられたキリストを見つめ、その中に真の神の御顔と、愛の栄光の啓示を見出します」「キリストにおいて、私たちの弱さは災いではなく、御父との出会いの場所、天から与えられる新しい力の源となるのです」と説かれた。

(編集「カトリック・あい」)

2018年8月9日 | カテゴリー :

☩「イエスを信じることで、神の業を行うことが出来る」

(2018.8.5 VaticanNews  By Linda Bordoni)

 教皇フランシスコは5日日曜の正午の祈りでの説教で、神との関係を育てるようにしなさい、イエスを信じることが、私たちを霊的に養い、私たちの兄弟姉妹のために良い仕事ができるようにするからです、とサンピエトロ広場に集まった信徒たちに呼びかけられた。

 教皇はまず、この日の福音書の朗読箇所を取り上げ、敬愛するパウロ6世-40年前に地上での人生の最後の時間を送られた”現代性の教皇”-を振り返られた。そして、イエスによって養われ、彼を求めて後を追った群衆について述べた福音書の言葉を受けて、イエスにとって、人々が単に自分の後を追うだけでは十分ではなく、人々がイエスを知り、食べ物、着物、仕事など日々の心配よりも、もっと広く心を開き、「物質的な満足以上のものを人々にもたらすために来た」のだということを、イエスは人々に分かって欲しかった、として、「イエスは真のパン、体だけでなく、人々の心の奥底にある飢えを満たすことのできる霊的な糧を与えることで、人々の心を満たしたいのです」と話された。

 そして、「すぐに消えてしまう食物ではなく、永遠の命のために消えずにいる食物のために働くように」と主が招いておられるのを、私たちも何度となく忘れてしまう、とされたうえで、神を喜ばせる善行をすることで十分と考え、「法律の実践に宗教を矮小化してしまうのは、よくある誘惑」と言われた。

 イエスは私たちが予想しないような指示―「これは神の業、神が送られた方を信じること」を出される。「この言葉は今日、私たちに対しても語られているのです-神の業は、物事を『する』ところにたくさん働くのではなく、神が送られた方を『信じる』ところに働くのです」。そして、「さらにいいことに、イエスを信じることで、私たちは神の業を行うことができるのです。イエスとの愛と信頼の関係に取り込まれるようにすれば、私たちは、福音のかぐわしい香りをもつ、私たち兄弟姉妹のための、良い業を行うことができるでしょう」と強調された。

 最後に、教皇は、「物質的な必要を気にかけねばならない場合でも、それよりもっと大事なのは、イエスとの関係を育てること、”命のパン”であるイエスを信じる心を強めることだ、と言うことを忘れないように。イエスは私たちの、真実、正義、そして愛への飢えを満たすために来られたのです」と締めくくられ、聖母マリアに助けを求める祈りで説教を終わられた。

2018年8月6日