・「”シノドスの旅”の第一段階は信徒たちの声を聴くことーそれに失敗すると世界代表司教会議も…」(LaCroix)

(2021.6.16 LaCroix United States George Wilson S.J (ecclesiologist)

   「指導力」をテーマにした多くの文献を読むと、「優れた指導者の最初の仕事は『教えること』ではなく『聴くこと』だ」と言うのは、ほとんど陳腐化している。

 同じ言い方が、教会会議やそれに類する活動にも当てはまる。「聴くこと」は”教会用語”では「信徒たちに相談すること」。だから、”シノドスの旅”の企画担当者たちが、来るべき全世界代表司教会議に至るプロセスで第一の目的を「神の民に耳を傾ける」こととしたのは、とても心強い。

 ただし、そのプロセスがうまく進むかどうかは、次の三つの問いにどう答えるか、にかかっている。

 一つ目の問いは、「聴くこと」が何を発見するために立案されるのか。二つ目は、誰の声を聴くのか。そして三つ目に、そのような発見をするために、どのような手順が踏まれるのか。そして、このような問いに答える前にしなければならないのは、「a synod(教会会議)」が何かを、明確にすることだ。

 「教会会議」とは何だろうか? 教皇フランシスコは「共に歩く集合体」という”呪文”を提示されている。確かに、それは魅力的な隠喩だが、「神の民に耳を傾ける」という「シノドスの旅」の第一段階を企画する以前に、この3つの問いについて慎重に検討しないと、「共に歩く」ことは、多くの不和の種が蒔かれるのにつながるような「ほんわかとした気分」に矮小化されてしまう可能性がある。第一段階がどのように企画され、実行されるかで、この大胆な計画全体の成否が決まる。

*「教会会議」の基本的な目的は

 長年、いくつかの教区の司教会議とそれに類する活動の顧問あるいは推進者として関わってきた経験から、私は「教会会議 」を、「周囲の社会との関わりの中で、特定の時期に、イエスの霊の導きのもと、神の民によってなされる『叡智を追求する努力』」だと、私は理解している。

 「教会会議」は教会…神の民の会合だ。叙階され​​た司祭、一般信徒、あるいは誓願した修道者など、教会共同体のさまざまな立場の人々を包含しており、洗礼を受けていることで連帯して会合に臨む。受洗が唯一の”入場券”である。御霊は洗礼を受けた人々の共同体全体に注がれる。だが、すべての参加者の平等な感覚を損なう「教会会議」のいかなる”構造化”も、企てを必ず失敗させる。

 しかし、歴史的に大きく異なった時代から「教会会議」の慣行を見るなら、今日の司祭叙階された参加者は、この会議を一般信徒を教育するもう1つの方法として扱う誘惑にかられ続けるだろう。「教会会議」の目標は「知恵」だ。それは、主が教会に求めていることー単に考えたり話したりするだけでなく、行動を選ぶ方法を見つけることである。「教会会議」は宗教教育のクラスではなく、神学や教会法の大学院セミナーでもない。さまざまな分野の専門家が、集合体の人材として求められるだろうが、彼らの声が一般信徒の声を、減殺したり、取って代わることがあってはならない。

 父と呼ぶ方の慈愛を明示するご自身の福音宣教の使命を果たされたイエスに付き従うためのより良い道を見つける知恵は、教会共同体のこれまでの経験と内部で働いているエネルギーの相互作用から生まれる。知恵は、集合体の経験についての共同の省察から生まれる。

*良い・悪い・苦痛・喜び・成功・失敗・罪、個人と集合体

 教会共同体の日々の活動の中で起こることに、潜在的に無意味なものはない。あまりにもややこしい、苦痛だ、恥だ、不穏当だ、などの理由で、どのような活動も避けたり、除外することは、誤った判断だ。それは、そのような重要な努力の告知で生み出される期待ははなばなしいものになるだろう。当然ながら経験には概念的な知識が含まれるが、概念は、感情、直感、勘、希望、検証されていない仮定、そして私欲の混合物の中に埋め込まれているのが分かるーその一部は認識されているが、多くは共同体の構成員の意識からさえも隠されている。

 要するに、日常の人間の生活の諸々ー御霊の導きの下での意識的な省察以前に、その全体がは主題として示されることはないー理性的以前、おそらく非理性的。リスクは、生の経験が独自の用語で名付けされ、所有される前に概念化し、希望を持って未来と向き合うために必要なエネルギーを減殺することにある。

 

*経験を「つかむ」

 私たち人間は自分の経験を語るように求められた場合、私たちはまず、直喩と暗喩に目を向ける。 私たちは、「まるで…のようだ」 「説明はできないが、感じたのです..」と言う。イメージが先行し、定義と概念化がそれに続く。私たちが一番大事にするのは、談話、物語。だから、師イエスは、たとえ話を使って話された。

 「教会会議」が参加者に最初に尋ねる必要があるのは、「abcについてどう思いますか?」ではなく、「あなたにとって、今日の教会のメンバーであることはどのようなものですか? 話を聞かせてください」である。「abc」について尋ねるのは、「abcが、人々にとって実際に必要な、あるいは話し合いたい課題だ」と想定するところから始まるー共同体の現実が深いところで危機に瀕しているであるような場合に。

 経験を探求することによって「教会会議」を開くことは、その後に続くすべての平等の基盤を整えることに繋がる。叙階者だろうと般信徒だろうと、男だろうと女だろうと、博士号取得者だろうと無学だろうと、皆が、絶えず変化する状況の中で洗礼を受けた者として努力についての物語を持っている。そして、個々の人だけが、それを語り、全身の奉仕に繋げていけるのだ。自からの経験を語ろうとする人たちの弱々しい試みを誹謗するために己の知的成果を使うことは、彼らの持っている特質そのものの否定だ。

*対処方法・いくつかの歴史

 私がこれまで申し上げたことは、信徒たちの話を聴く最初のステップとして重要な意味を持っている。害のない選択のように思われるものは、すべての努力の成功を危うくする可能性がある。伝統的な方法と、それが第2バチカン公会議(1962-65)で採用された時に何が起きたか考えてみよう。

 その「教会会議」のテーマごとの部会における議論と識別のための条件を設定するLineamenta(提題解説)ー類別表ーを作成するために、少数で構成する善意(だが閉鎖的)の集団が英知を結集した。それで何が起きたが?公会議の参加者たちー全員が司教ーがローマに着いた時、何を話し合おうとしているのかを知っていた。Lineamentaの一項目を挙げるだけで、公会議を主宰する人々が推進しようとしている世界観を明らかにするのに十分。彼らは、世界の教区を代表する参加者たちが話し合うべき課題の一つは補佐司教の権限についてのやっかいな案件だ、と判断していた 。

 公会議を準備・運営する四人の枢機卿が密かに反対派を組織しなかったら、提案された図式は、見積もりとして採用され、世界各地から集まった2500人の司教は今日的な意義を全くと言って持たない事柄に焦点を合わせるのを余儀なくされただろう。公会議の集合体がその議題を見つけるために、”革命”が必要だったーそれが聖霊が彼らに立ち向かうように迫っていたことだ。

  もしも、公会議の参加者たちの大きな集合体の経験をまとめていく過程が、参加者の喜び、懸念、希望、そして強い願望を反映する議題を作ることなら、本質的に類別前でなければならない。

 聖霊が強く求めている案件に絞るべき課題リストを参加者に提示することは、”ネズミを生む”ような地震が起きる可能性を減らす。洞察をさらに具体化するために、公会議の第一段階の冒頭の告示で、データを集めるための”探査器”の使用に言及した。そうした器具は、よく作られた諸提案が識別され、議論された後で、合意の程度を調べるのに有効だろう。だが、第一段階でそれを使うことは、新たな命への最善の希望を与える分野を見つけ出す経験をまだ探っている時に、そうした過程が歪められるのを確かなものにしてしまう。

 どのような定量化された調査ーかに洗練された構成であってもーそれを設計する人々の課題を反映する。試されるべき調査項目のまさに枠組みが、言及を避けるであろうものを決定する。

 有名な研究が、問題を思い起こさせる。 1970年代に「ローマクラブ」と呼ばれる未来主義者のグループが、コンピューター・シミュレーションを使って、可能性のある将来予測をしたことがある。数年後、予測が当たっているか評価するために、実際に起きたことについて調べた。彼らの予測は実際のところ、かなりの先見の明があった。予測したことの多くは確かに実現したが、小さな矛盾が1つだけあった。それは、世界を変革する最も強力な運動の1つーフェミニストの覚醒ーの重大さを見逃したことだ。グループは全員が男性だった…。

 

*集合知ーそして預言的な声

 知恵の探求のもう一つの特徴は、知恵の賜物が通常、大きな集合体の中で個々人に均等に散らばらない、という事実だ。知恵の探求に欠かせないのは、「預言に開かれている」ということ。未来を予測する能力ではなく、現実を特定する能力だ。

 一人の個人あるいは小さな集団は、「主流」のはるか下にある強い流れを感じるかも知れない。諸々の現実は非常に苦痛を伴うものであり、おそらく何世紀にもわたって、共通の精神ーありもしない衣服をまとった皇帝たち、群衆の月並みな展望を超越する復活の希望ーの中に埋もれててきた。教称賛に値する福音宣教活動がー周囲を圧するような教会建設の一方でー何世紀にもわたって現地の人々支えてきた土着文化の価値の低下をもたらした、ということを教会が認識するために何世紀もの月日を要した。

 さまざまな危難に立ち向かい、想像もできない種々の成果を熱望して、多種多様な文化で構成される世界的共同体の物語に参加することは、とてつもなく大きな仕事を引き受けることだ。それを実現させるのは聖霊だけだが、その聖霊は、人間の選択を通して働かれる。目ざすべき正しい目標の数々を選ぶことは、一見、退屈に見える最初の一歩を選ぶのと同じように重要だ。私の経験と省察が、大失敗を未然に防ぐことに役立つのを願っている

*George Wilsonはイエズス会士の司祭。ボルチモア(米国)に住む現役を引退した教会学者で、著書に「Clericalism: The Death of Priesthood(Liturgical Press, 2008)」がある。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

LA CROIX international is the premier online Catholic daily providing unique quality content about topics that matter in the world such as politics, society, religion, culture, education and ethics. for post-Vatican II Catholics and those who are passionate about how the living Christian tradition engages, shapes and makes sense of the burning issues of the day in our rapidly changing world. Inspired by the reforming vision of the Second Vatican Council, LCI offers news, commentary and analysis on the Church in the World and the world of the Church. LA CROIX is Europe’s pre-eminent Catholic daily providing quality journalism on world events, politics, science, culture, technology, economy and much more. La CROIX which first appeared as a daily newspaper in 1883 is a highly respected and world leading, independent Catholic daily.

 

 

 

2021年6月19日

・”Synodality”-歓迎すべき概念、達成は困難 -教会学者が過去の経験から語る(LaCroix)

(2021.5.27 La Croix   George Wilson S.J.  United States)

 教皇フランシスコが提起された「synodalityの旅」が議論を呼んでいるが、多くの教区や修道会の顧問などを務めていた頃の自分の記憶を思い起こし、この議論に何か貢献できることはないか考えてみた。

 まず、「synodality」という言葉。この言葉が、カトリック教会で特定の意味として使われ始めたのは、最近のことだ。
第二バチカン公会議 (1962 ~ 65年) 直後の数年間、私たちは、教会での責任分担を促進するための組織的な集まりーシノドス(世界代表司教会議)、協議会、委員会などーについて話しをした。このような生きている人間の集まりに対して、「synodality」は、集まりを選択することに開かれた姿勢、あるいは方向付けを意味しようとしているように思われる。教皇は、幅広い信徒たちが教会活動への発言権と責任を持つ教会を望まれているのだ。

*「synod」とは?

 「synod」は、一般的に、教区、あるいはごくまれに国全体の聖職者、そしておそらくは信徒も含めた集まりを指すが、新語(synodality)を創造された教皇は、もっと幅広い意味に使っておられるのだろう。

  教区の司祭の集まりは、小教区評議会やカトリック系の大学や病院の理事会と同様に、「synodal」の性格を持っている。突き詰めて言えば、「synodality」は、対等な立場の人が集まって、他ではできないような宗教的目的の達成に関与することを意味する。それは聖霊によって導かれているとしても、あくまでの人間的な事業だ。

 このことは、ほとんど自明であるように思われるかもしれない。だが、これまでの経験が示しているのは、実際の人間の意思疎通というものが、この問題についての意見のやり取りで、あまりにもしばしば、単に当たり前のように見なされている、ということだ。

 「synod」と言うと、通常、人々はすぐにその仕組みの問題―誰がメンバーになるのか、どのような権限を持つのか、誰が会議の方針を決めるのか、誰に発言権や投票権があるのかーに飛びつくものだ。

 もちろん、その取り組みを成功させようとすれば、そのような問題を解決する必要があるだろう。だが、組織や運営をどうするかに全神経を集中させることは、様々な神学的、文化的世界観(当然ながら、人柄や偏見、あらゆる種類の癖も含む)を持った人々を集めることで引き起こされる人間的現実―そして、落とし穴―を避けて通ることになり得る。

 ということで、私は組織や運営の規範に関する議論を他の方々にお任せしたい。この論考では、人間の対人関係の原動力について中心的に取り上げたい。組織構造は変わることがあるが、人間の本質には変わりがないからだ。

*期待感の役割

 協議会、委員会、あるいはシノドス、といったsynodalな仕組みの告知は、第一に期待感を高めることを意味する。そのような組織体の創設を宣言すると、必然的にそれぞれの共同体が共有する魂を変えられてしまう。

 これは私たちの生活に、どのような影響が与えようとするのか? 何を予測できるのか? 何を期待できるのか?

 引き起こされる期待がどのようなものであるかは、直近のー生き生きとした記憶に残る、責任を分かち合おうとする過去の試みも含めてー状況による。そうした試みが成功していた場合、新たな取り組みは、信頼を基礎にして成立する。

 だが、これまでの取り組みが成果を生まなかったことが実証されたケースもある。おそらく、司教や主任司祭、あるいは”最高経営責任者”が、教会の組織体の声を聴かないように協議事項を調整したか、それとも、リーダーたちが、到達した結論を実行することに失敗したのだろう。どちらにしても、新しい呼びかけに対する圧倒的な反応は、不信、そうでなければ露骨な嘲りにもなるだろう。

 リーダーたちが、過去に真摯に耳を傾け、最後までやり遂げることで信頼を獲得していなかったなら、今なされている努力は、初めから運命が決まっている、ということだろう。

 「期待」は人間的な力の一形態だ。期待が明確に示され、満たされるなら、その共同体はより大きな満足と自尊心を得るだろう。だが、最初から曖昧であったり、対立したりしていたら、その結果は、共同体の分断、あるいは明らかな分極化をもたらすことになる。そして、それが明確に示されたにもかかわらず、満たされなければ、「幅広い責任の分担」への共同体の期待感は、大きくしぼむだろう。”内輪”の取り組みが、それとも非公式な“内部”と”外部”の取り組みか?

 「synodal」な組織体は通常、内部の様々な層の人々―様々な役職者、元役員、主要な共同体メンバー、他の組織で才能を発揮した人々などーで構成される。それはそれで良いことだ。

 だが、組織体が動き始めたら、理論的にはメンバー各人に同等の発言の機会が与えられねばならない。この原則は、メンバーがもともと選ばれた判断基準に関係なく適用される。意思決定の過程で、あるメンバーが話をし、他のメンバーは黙らされるようなことが明るみに出れば、 synodal の平等性に対する理に適った期待は壊されてしまう。

 嘆かわしいことだが、このような組織体で、相対立する意見が聴取される以前に、ある非公式な集団が結論を固めてしまうことがあったようだ。教会の最高位にある組織体も、”八百長”に免疫があるわけではない。

 Synodalの組織体は、個々の共同体にとって真に重要な課題―ビジョンと果たすべき使命の明確化、目標の設定、優先順位の割り当て、人的・財政的資源の開発と配分―に対処するためのものだろう。

 そのような課題についての、自由で開かれた話し合いこそが、成功したsynodの”品質証明”なのだ。それには、制度のリーダーたちに挑戦するような結論への道を組織体が見つけるのを容認するような、内面的に自由なリーダーたちが必要だ。

*Synodalの組織体に影響を与える人間的現実

 私たちに助言を求めたある修道会は、民主的気風を誇りにし、意思決定に対する個々人の関与をとても重視していた。私は、その修道会の連絡役とのやり取りを通して、ある興味深い実態を知った。

 その管区参事会は、何十年も毎年繰り返し選ばれる年長のメンバーで構成されることが慣習化していた。そうした中で、まだ若い司祭だった連絡役がメンバーに選ばれたのだが、会合ではメンバーの勤続期間で席が決められており、彼は、年長者の一人で彼の指導役をしていた司祭の隣に座らせられた。

 ある朝、何かの事について投票を求められた(どのような事なのか、ここでは重要ではない)。指導役が「この件に関して私たちは自由だ」とささやくので、どういう意味か尋ねると、「私たちは好きなように投票できるのだよ」と言われた。

 それを聞いて、どのように投票するか判断に迷ったが、それも、年長者の一人が前の方からメンバーたちに合図を出し、案件ごとにどう投票すべきかを指示していたことを知るまでのことだったーまるで野球の試合で監督が「盗塁しろ」「守備を固めろ」と指示するようなものだ。最初から最後まで、すべて不正に操作されていたのだ。

*「Synodality 」の実践 ―もうひとつの世界

 ある新任司教は、トップダウン方式で教区に関するすべてを事細かに管理していた前任者とは大きく異なる宗教的信条の持ち主のようだった。その教区の司祭たちは、新司教がどのような管理の仕方をするのか、どんなビジョンを持っているのか、注目した。

 彼の初仕事は5日間の司祭総会の招集だった。私たちが企画と進行を依頼されたその総会で、彼が最初にしたのは、司祭たちに自分たちの「ビジョン」は何か尋ねることだった。長年にわたって前司教の方針に完全に従ってきた司祭たちは、どのように答えたものか、途方に暮れた。自分たちに付与された力をどのように使えばいいのか分からなかったのだ。

 新司教が彼らに自分の意見を語らせるのに総会の最終日まで待たねばならなかったが、総会の最後に、教会への責任を信徒たちにも分担してもらう聖職者、信徒を代表する組織ー司牧評議会ーの設置を全会一致で決議することができた。

 司教は、すぐに司牧評議会の設立に着手し、私たちに協力を求め、それが一段落すると、この未知の集団を結束力と信頼感のある組織にするために評議員の研修をするよう求められた。何回かの研修会を経て、新司教への信頼度がかなり高まったところで、評議員の信徒の一人が司教にこう質問したー「司牧評議会を作ってくださった私たちへの信頼に感謝しますが、あなたは私たちの決定に拒否権をお持ちになるおつもりですか」。

 司教は迷うことなく答えたー「バチカンに聞けば、私に拒否権がある、という答えが返ってくるでしょう。しかし私は、皆さんが支持することのできる答えを必ず見つけることができると信じています。『拒否権』という言葉は二度と聞きたくありません」と。

 彼は、運営上の構造や期待値を明確にすることが重要であることをしっかりと把握していた。だが、最終的に重要なのは、組織の意思決定を特徴づける人間性と敬意の程度だ。司牧評議会の一期目の4年、互いの信頼に基づいた自由な対話を通じて、意見の相違を乗り越え、運営が続けられた。

 このようにして生み出された自由は、評議員たちが任期を終えようとした時に発揮された。

 誰もが抱く懸念は、誰が自分たちの後に続くのか、自分たちがいなくなった後、これまでに築かれた業績はどのように維持されるのかーだろう。米国では、このような組織を継続する場合、評議員の一部を留任させ、残りのメンバーは退任し、後任を選ぶのが一般的だ。

 様々な選択肢について議論を重ねる中で、ある評議員はこう言った。「私たち全員が退任して、司教に全く新しい評議会を作ってもらったらどうでしょう」。たちまち、他の評議員から異論が出されたー「これまでに達成したことをすべて無駄にするのですか。すべての仕事を危険にさらすのですか。ばかばかしい!!」。評議会は、互いの信頼の中で、解散に抵抗するほどにまで成長していたのだ。

 それで、評議会は数週間かけて、今後の選択肢について議論を深めていった。ある時、評議員の誰かがこう言ったー「私たちは、評議会発足当初はまったく知られない存在でしたが、司教が私たちと世話人たちに信頼を寄せてくださったので、ここまで成長できました。そのような私たちの業績は否定されねばならないようなものでしょうか」。ー評議会の存続が決められ、いくつかの小さな改善策が決められた後、評議員全員が任期満了をもって退任し、新しい評議員が選ばれた。

 私たちは新旧の評議員の意見交換の場を設けた。その終わりに、退任する評議員の一人が次のように語ったー「私は、このような全面的な交替には全く反対でした。しかし、新評議員のような素晴らしく、献身的な人たちに出会って、私たちの最終決断は聖霊の導きによるものだ、と確信しました」。

*Synodalityに抵抗する諸形態

 Synodalityがそれほど魅力的であるなら、どうして以前にはなかったのだろうか?進歩的な信徒が「権力に固執する聖職者が、真のsynodalityへの動きを妨げている」と非難するのはよくあることだ。それを裏付ける十分な証拠も、確かにある。

 だが、私の経験から言えば、そうした評価を無条件に受け入れることは安易に過ぎる。シノドスが成功するのに必要な主体性と責任感を完全に受け入れる用意が、信徒たちに十分に出来ているわけではない。

 一例を挙げよう。私たちが某司教の教区評議会の設立と研修を助けた際に、最良の方法を用いて、評議員に相応しい人を見つけたが、それからしばらく経った時のことだ。

 その司教はあるデリケートな問題―小教区の祝祭におけるアルコールの提供―をどう扱えばいいのか、評議会に判断を求めた。一年以上にわたって賛否を議論し、さまざまな選択肢を検討した結果、決断を下す準備ができた。私は評議員一人ひとりに、どのように考えているかを尋ねた。そのうちのある評議員が「私はただ、司教の望み通りにしたいだけだ…」と言い出し、他の評議員たちをすっかり失望させたー「私たちは何のために評議員になったのだろう。彼は今まで何を考えていたのか」と。だが、この哀れな男性に公平を期すなら、「何十年も前から先祖代々受け継がれてきた思考方法から、そうした発言に至ったに過ぎない」と言わねばならない。

*文化的な変容

 これは確かに極端な例だが、このような従属的な行動様式は、深刻に受け止めねばならないほど頻繁に起きている。

 教皇がsynodalityの呼び掛けをもって実際になさっていることは、”伝統的”な教会文化ー何が最善か知っているのは聖職者で、信徒は「祈り、償い、従う」だけでいい、という文化ーそのものの根本的な否定だ。だが、そうした文化の役割や台本は、非常に長い間、教会内部で効力を持ち続け、”集団の魂”の中に生きているため、単に仕組みを作るだけでは、その力に打ち勝つことはないだろう。

 自分自身を益するような行為をしないように求められているのは、聖職者だけではない。信徒も、洗礼によって与えられた力を生かさねばならない。問題は、「異なる召命によって生み出された区別は、洗礼に由来する基本的な平等を打ち消すことを認めるのか」に尽きる。

 Synodalな組織体とは、それをどのように呼ぼうと、生きている巡礼者たちの集まり、全員が平等で、互いに信頼と尊敬をもって結ばれた集まりであり、時のしるしを読み取り、今この時に、主が教会に何を求められているかを探し求める組織体だ。その活動をまとめるために組織体が採用する方法は、参加者の連帯を高める限りにおいて価値をもつ。

*ジョージ・ウィルソンはイエズス会の司祭で教会論の研究者。現在は引退して米ボルチモアに在住。著書に「Clericalism:The Death of Priesthood 」(Liturgical Press, 2008)がある。

(翻訳「カトリック・あい」ガブリエル・タン)

*Synodalityをあえて英語表記のままにしたのは・・・教皇フランシスコが就任当初から重要課題とされてきた「synodality)」の言葉通りの意味は「共に歩む」。日本語では「共働性」「協働性」あるいは「共同制」などとも訳されるが、教会内部でも定訳がないため、この評論では、あえて原文の英語表記のままとした。教皇がこの言葉に込められた意味は「教皇を頭とする司教団がキリストから与えられた権威をもって、神の意志を識別し、聖霊の声を聴きつつ、世界の全ての聖職者、信徒とともに進める、新しいアプローチや教義の転換をも導く可能性に開かれた、対話、洞察、協働のプロセス」と解釈できるのではないかと思われる。今後も頻繁に使われる言葉なので、適訳があれば、提示くださるよう、皆さんにお願いしたい。(「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

LA CROIX international is the premier online Catholic daily providing unique quality content about topics that matter in the world such as politics, society, religion, culture, education and ethics. for post-Vatican II Catholics and those who are passionate about how the living Christian tradition engages, shapes and makes sense of the burning issues of the day in our rapidly changing world. Inspired by the reforming vision of the Second Vatican Council, LCI offers news, commentary and analysis on the Church in the World and the world of the Church. LA CROIX is Europe’s pre-eminent Catholic daily providing quality journalism on world events, politics, science, culture, technology, economy and much more. La CROIX which first appeared as a daily newspaper in 1883 is a highly respected and world leading, independent Catholic daily.

 

2021年6月10日

・「時間のかかる取り組みに」ートービン枢機卿が教皇の” synodalityの旅”で寄稿(LaCroix)

(2021.5.29 La Croix United States Cardinal Joseph W. Tobin |)

   教皇フランシスコの教皇職の行動計画は、たとえ初めからはっきりしていたとしても、在位が長くなればなるほど、一段と鮮明になってきている。次の例を見てもらいたい。

 教皇に就任された2013 年に登場した教皇選出の風刺漫画は、宇宙から地球を見たように描かれ、教皇フランシスコが極点の 1 つに巨人のように立ち、彼の出身地である南米大陸が際立っていた。視覚効果を高めるために、作者のデビッド ホージーは、やや”預言的”な手法をとった。地球をひっくり返しに描き、教皇がその最上部の南極に立っているのだ。

 要するに、フランシスコの教皇就任で「世界がひっくり返った」というわけだ。この漫画が描かれたのは、米国の大統領にドナルド・トランプ氏が選出され、世界中が大きく動揺する3年前、チリや米国のニューアーク市のような所で聖職者の性的虐待問題が再燃する5年前、さらに、現在の新型コロナウイルスの世界的大感染が始まる7年前のこと。つまり、2013年以降、私たちは何度も、世界がひっくり返るような大事件を体験して来た。

 だが、これらの大事件はまた、「神はなぜ、地球の南部の辺境から、フランシスコの様な羊飼いを、私たちにお届けになったのか」、その理由をはっきりさせている。

 2013年の初め、私たちは、カトリック教会にとっての主要課題は、制度的な改革に関するものだと考え、新教皇を、「教皇絶対主義の乗組員を督励してまとめ上げ、カトリック教会を元のコースに戻すことのできる”よそ者”の登場」と受け止めていた。

 3年後の2016年、トランプ米大統領、ドゥテルテ・フィリピン大統領をはじめとする煽動政治家が権力の座に就くに至って、かつてアルゼンチンで起きた軍事独裁政権による恐怖政治を身をもって体験した教皇フランシスコが、このような暗黒の、残忍な世界観に代わるものを預言的に提起する可能性のあることを、私たちは、はっきりとさとった。

 フランシスコは、独裁者たちとの便宜的な同盟が必ず、涙、死、そして福音の本質の喪失で終わってきた、と私たちに警告することができた。さらに、2018年、聖職者による性的虐待問題が世界各地で再燃した時、私たちは教皇を改革者のレンズを通して見ようとしたが、ご自身は、単に組織の管理運営の役割に留まらない、ずっと重い役割を追っていることを明確に認識されていた。

 そして、新型コロナウイルスの大感染が地球の動きを止めた時、私たちは白い服を着た男ー教皇フランシスコーが、雨に濡れた誰もいないサンピエトロ広場を 1歩き、中央の壇上に一人座って、神に憐れみと救いを求められている姿を中継を通して見つめ、心に刻んだ。

*霊的交わり、参加、宣教

 旅を長く、遠くすればするほど、出会いの機会が増え、物事が明確になる。だが、ローマの司教と神の民が共に歩むこの旅の中で現れ続けるいくつかの言葉ー慈悲、喜び、識別、形成、対話ーの中で、最も誤解されているのは「synodality」だ。

 今では、「synodality」は教皇職と密接に関連する言葉になっている。教皇フランシスコは、中央集権的でない、共同かつ協議による意思決定を特徴とする教会ー西洋のトップダウン方式のローマ的位階構造よりも、東洋の教会の水平構造に親和性のある教会ーを求め続けておられる。

 教皇フランシスコは就任からこれまで8 年の間に、世界の教会の代表者たちの会議を5つ招集されている。なかでも、「家庭」をテーマにした世界代表司教会議(シノドス)は2014、2015両年に二回開かれ、その成果をもとに使徒的勧告「(家庭における)愛の喜http://radiko.jp/び」を発出された。 2018年の「若者」をテーマにしたシノドスでは、悩み多い若者たちの人生の旅に、教会としてどのように寄り添っていけるかについて、議論を深めた。

 そして、2019年のアマゾン地域シノドスでは、世界から遠ざけられたこの地域の声を聴き、キリストにおいて兄弟姉妹であるこの地域の人々に向けられている排除の力がどれほど有害なものであるかについて集中的に話し合った。

 そして、今年10月からは、「For a synodal Church: communion, participation, and mission.(共働する教会へ:霊的交わり、参加、そして宣教)」をテーマにしたシノドスが開かれる。

 このテーマについて、「synodalityについてのシノドスだって? 教皇が、あまりに”自己言及的”だと教会を非難し、我々に警告する言葉の要約ではないか?」と疑いの目を向ける人がいるかも知れない。

 だが、私はあえて主張したい。このシノドスは、キリストの体として私たちが共に成長するために、そして、この千年紀に主が私たちに期待される教会のモデルとして、教皇がはっきりと理解し、公けに提唱されていることを、受け入れる際に、もっと意識し、意図的になるために、欠かすことができないものだ、と。

 千年紀は、 教会の用語として使われる場合も、”時間のかかる取り組み”である。「synodalityの旅」は、教皇にとって、確かに、時間のかかる勝負。そして、私たちに課題として突き付け、教会としての私たちのあり方を変えることを求めるプロセスだ。私たちが気付くであろうことは、synodalityが、歴史を通じての「キリストの体」(である私たち)の旅ー継続的な回心を促し、救いの手を他者に差し伸べるよう求める旅ーに照準を当てている、ということである。

*「旅を共にする」

 教皇フランシスコに対する場合、あなたのガイドとして思いやりをもつのがいいだろう。バチカンの教理省に助言する国際神学委員会のメンバーに選ばれたReligious Sisters of Mercy.のシスター、プルーデンス・アレンについて考えてみよう。

 委員会が2018年にまとめた「教会の活動と宣教におけるsynodality」と題する報告書の中で、シスターはこのように書いている。「共に旅する弟子たち… 旅の仲間たちは互いに仕え合った… 人々は、神の王国の実現に向けて歴史の中を歩む… 謙遜の心をもって大胆に語る形でキリストと共に歩む… ”対話の旅”、そこで、私たちはどのようにして『私たちの側を歩まれるキリストの現存』を理解する…」

 このような言葉に聞き覚えがないだろうか? 多くの人は、「旅を共にする」という考えを教皇が好んでおられることに気が付いているのだ。

 もっとも、皆がこのように「旅」を解釈しているわけではない。英カトリック・ヘラルド紙の3月号は「共に歩む。だが… どこへ?」という見出しの記事を載せた。このような見方は、考え過ぎであり、伝統の周りにある枠組みを無視しているのだが… ともかく、イエスは、たくさん歩かれた。そして、弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民を弟子にするように」とGreat Commission (大宣教命令)を出された。

 パウロは自身の福音宣教を振り返って「私は、レースを走り切った」と語り、教皇ヨハネ23世が第2バチカン公会議を招集された理由の1つは「地上での人類の滞在の悲しみを減らすこと」だった。このヨハネ 23 世の言葉は注目に値する。それは、多くの点で、私たちが、彼が第 2 バチカン公会議で始められた旅の行程に取り込まれているからだ。

 偉大なイエズス会士の学者、ジョン・オマリーは、「公会議を完全に受け入れるには、教会は100年を必要とする」と述べている。教皇に選出され、教皇職を始められたのが第二バチカン公会議50周年と重なったフランシスコは、このことを(そしてこれからの50年がさらに興味深い時となっていることを)知っておられる。彼は、慈しみの特別年を呼びかけた時、ヨハネ23世の公会議の開会あいさつの言葉を引用し、この特別年が第二バチカン公会議の延長線上にあることを明確にされたー「教会は、厳格な精神よりも慈しみの薬を好みます」と。

*”シノドス・モデル”を批判する声も

 ”シノドス・モデル”に対する別の批評は、それが”「部分的なEmmaus”であり、共に歩くことを求めるが、回心はもとめていない」というものだ。これに対して、私は、「厳しさから慈しみへの動きが、すでに『回心』なのだ」と反論したい。

 だが、私たちは、人々が汚名を返上し、戻ってくるのを、ただ待っているわけにはいかない。まず自分自身の回心に取り組む必要がある。そして、そのために、外に出なければならない。 私たちは、キリストの体、この世界で外に向かう者。健康な体で何をするのか? 動くのだ。

 第二バチカン公会議の第 3 回会期が始まる少し前に、ヨハネ23世の後を継いだ教皇パウロ 6 世は、彼にとって初の回勅「Ecclesiam suam」を発表。その中で、単に「意思疎通や問題解決のための実用的な手法」としてではなく、「神と人間との救いをもたらす関係を表現する規範」としての対話を提起し、さらに、公会議の最後の数か月に、世界代表司教会議(シノドス)を制度化した。それ以来、シノドスは通常総会が15回、特別総会も数多く開かれ、聖ペトロの舟(カトリック教会)に教会活動の肝要な課題解決に推進力を与えようとした。

 しかしながら、最近のシノドスを見ると、敵味方から激しい非難にさらされている。2018年には、東方典礼と神学が専門のアダム・A・J・デヴィル教授から記憶に残る批判がなされた。彼は著書の中で、カトリック教会、正教会、東方諸教会、そして英国国教会の歴史を通して理解されたものとして、シノドスは「一定の集団の特定の関心について議論するもの。テーマに沿った会議ではない」と言明。

 そして、「(世界のメディアの関心を集めることがめったにない)法律を通し、司教を選ぶ(そして時には、規律を与える)権限を持った実務的な会議だ」と決めつけたが、いわゆる「ローマ・シノドス」の現行の管理・運営規則は、そうした権能をシノドスに認めていない。仮に、ローマ・カトリック教会がシノドス的な方向で続いているとすれば、1965 年以降の秩序を欠いた疑似シノドスに、真正シノドスについて恐れさせてはならない。

 デヴィル教授は最終的に、国際神学委員会の「多様なレベル、多様な形」で行われる真のsynodality の呼びかけを取り上げた。この呼びかけは、現地の司教たちのリーダーシップと教皇の一致の司祭職を含めた普遍教会の信仰を反映してたものだ。

*教皇の真の意図は…

 コンスタンティノープルのバーソロミュー・エキュメニカル総主教のような人物が教皇フランシスコに対して抱いている敬意を説明するのが、この野心的なビジョンだ、と私は信じている。伝統を生かそうとする教会のあり方を深い意図をもって捉える権威の用い方を、教皇が認識しておられると、私は信じている。

 フランシスコは、キリストの体に両肺で呼吸させようとする努力で、正教会を単に真似ているわけではない。私たちの伝統に焼き付けられた制度的な慣性の第二の千年紀を迎えてはいない現在、より協力的な教会を取り戻そうとしているのだ。

 第二バチカン公会議を象徴する用語は「ressourcement刷新)」ー新しい命を引き込むために、私たちの伝統の古代のルーツと繋ぎなおすことーだった。私たちが否定できないのは、何世紀にもわたって教会が、人々を追い出す手段としてsynodalityを使ってきたことである。

 シノドスが始まった頃は、異端を否認するために、あるいは、教義を定めるために、集合し、教会は悪路を歩むことが多かった。だが、私は言いたいー私たちは今、「旅」の新たな段階に入ったのだ、と。synodalityの行為は、独断的な宣言として機能するのではなく、福音を「時のしるし」に当てはまるよう微調整するために使われる。そして、synodalityとともに、フランシスコの長きにわたる”ゲーム”のもう一つの要点、「回心」が次に来る。

*第二バチカン公会議が書いた設計図を具体化するのが私たちの使命

 「回心」と言うとき、私は、教会自身の回心ー私たちが宣教の使命をどのように果たすのかを理解し、近づくための新しい方法ーについて話している。

 教皇フランシスコは、「でも、私たちはいつも、このやり方でやっている」というような惰性の様な思考態度を批判されている。また、第二バチカン公会議を招集された教皇ヨハネ23世の有名な言葉に、「私たちの教会は、『博物館を守る』ようにではなく、『満開の命の庭園の番をする』ように求められているのです」がある。同じことは、synodal(共働的な)教会についても言える。あたかも、すべての回答をもっているかのような、傲慢な態度をとることはできない。

 そしてまさに、ヨハネ 23 世は、 20 世紀前半に顕著になった混乱と破壊から時のしるしを読み取り、教会は証人として、可能な限り意識的で宣教的でなければならず、それを成し遂げるには教会会議が必要、と考えた。そして、それを実行に移す形で、第三の千年紀にふさわしい教会を動かすエンジンの設計図を書くために公会議を招集されたのである。ヨハネ23世はビジョンを提示された。それが、私たちが具体化すべきものだ。

 第二バチカン公会議は設計図を書いた。ヨハネ23世の後を継いだパウロ 6 世が、具体化に着手された。続くヨハネ・パウロ2世は、具体化の作業が求められた仕様通りに続けられていることを確認された。そして、ベネディクト 16 世がエンジンの最後の仕上げをし、フランシスコは今、それを実際に動かそうとしている。

 (興味深いことに、教皇フランシスコが、何ができるか知るためにエンジンの回転を上げ始めた今、それを最も恐れているように見える人々は、すべての規範と教会法令についての最もエンジニアらしい理解を備えた人々だということー仮にA=不規則な一致、B=兄弟姉妹として生きていない、とすると、A+B=聖体拝領は決して認められない、となる)。

 だが、フランシスコは、単に、私たちをもっと速く前に動かすことに挑戦されているのではない。より徹底した制度的な転換には、機敏で戦略的な識別も含まれる。

 フランシスコに対する最高の評価の一つは、ジャーナリストのクリストファー・ラムによるものだ。彼は「教皇は、どのダムが必然的に決壊するかを知っておられる」と言う。

 たとえある男が、堤防の上を飛び跳ね、変化を早めたり、止めたりしようとしているのなら、それが教皇であっても大した違いはない。だが、本当に指導的立場にある人が他の人々を率いて堤防を強化しようとしているなら、違う。私たちは、共に、心を込めて、誠実に、そして聖霊が導く方向を見極める意識をもって、強化作業に従事せねばならない。

*もはやsynodalityの行為は、独断的な宣言を一掃する機能を果たさない

 教皇フランシスコの下でこれまでに開かれた教会会議を通して、多くの人々にとって大きな驚きの 一つは、2019年のアマゾン地域シノドスの勧告ー特に、司祭の少ない辺境地域において効果が証明されている「既婚者の司祭叙階」ーを、彼が拒否したことだ。

  興味深いのは、彼が述べた理由が、神学的でなく、過程指向であり、このシノドスを「正統な集団識別」であるよりも、「議会の論理」を示すもの、としていたことだ。ご存じの通り、シノドスを計画するのに、何年もかかる。それほど秘密ではない議題を教会に押し付けるのを、教皇に認めるための、単なる見せかけだったとしたら、変わったやり方だ。

 Synodality に関するシノドスのテーマは、「もう一度やってください。今度こそ、あなたの作品を見せてください!」だろう。米シカゴ教区長のジョセフ・バーナーディン枢機卿の後を継いだブレイズ・キューピッチ枢機卿は、福音書に登場する東方の三博士についての素晴らしい描写を使って、シノドスのプロセスを説明したー「彼らは別の道を取って自分の国へ帰って行った」と。

 第二バチカン公会議の出来事とsynodalityが公会議の教父たちの間に醸成した変革の動きに注目しよう。公会議の作業文書が諸改革を一掃するのを受け入れることのないように、教皇庁が尽力したが、会議場に 3000 人の司教が集まり、聖霊を呼び求めると、「何か」が起こったのだ。

 98歳で教皇フランシスコによって枢機卿に任命された、ヨハネ23世の私設秘書ロリス・フランシスコ・カポビラ師は、Catholic News Serviceが作成したドキュメンタリー”Voices of Vatican II”の中で、第二バチカン公会議を招集されたヨハネス23世の理論的根拠について語っているー「とても素晴らしいことでした。第二次世界大戦のあと、三つの国際機関ー平和のためのUN(国連)、パンのためのFAO(国連食糧農業機関)、文化のためのUNESCO(国連教育科学文化機関)ーが設立されました。それなら、私たちも、なぜ皆で集まって、話し合いができないのでしょうか?」。

  そしてまさに、世界観が根底から覆されたこの戦後の時期に、フランシスコの長いゲームの最終的な到達点としての回心ー慈しみへの回心ーが、私たちに示されたのだ。

 

*”周辺部”の視点から考える

 synodalityと「ひっくり返った世界」に共通することの 一つは、ディートリッヒ ・ボンヘッファー(20世紀を代表するプロテスタント神学者、ヒットラー暗殺計画に関与し、ナチスに捕らえられて刑死)が「下からの視点」と呼んだもの与えてくれることだ。代表例として、教皇フランシスコの選出を契機に、宣教への強い使命感、出会い、”周辺部”、慈しみをもつラテンアメリカの教会の豊かな神学的刺激の扉を開かれたことを挙げることができる。

 ボンヘッファーの「下からの視点」を理解するもう 一つの方法は、疎外され、抑圧された人々について”周辺部”からの視点で考えることだ。教皇ヨハネ23世は、窓を開けるために公会議を招集したと言われている。「窓を開ける」からすぐに連想するのは「外の新鮮な空気を取り込む」だが、別のことも起きるー「外にいる人々の話し声が耳に入る」だ。

 難問を考え、検討してもらうために人々を集める場合、「自分の属している階層、あるいは教会全体でも得るのが難しい」と思う問いへの答えを、得ようとするだろう。

 第二バチカン公会議が始まる前に、ユダヤ人の歴史家ジュール・アイザックはヨハネ23世に 謁見を求めた。アイザックは公会議が、これまで教会が長い間続けてきたユダヤ人に対する「蔑視の教え」を取り消すことを希望していた。

 アイザックは自身の研究で「キリスト教会の反ユダヤ主義が、ナチのユダヤ人大虐殺を扇動する上で、いかに中心的な役割を果たしたか」を解き明かしているー教皇にできることはなかったのか? ヨハネ23世の開かれた心と第2バチカン公会議の共働性の成果として、公会議は「Nostra aetate(キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言)」を発出し、「ユダヤ人に向けられる憎悪や迫害や反ユダヤ主義的表現…を糾弾する」と言明した。

 ”氷河期”にある教会にとって、これは私たちの信仰表明に対する強烈な浄化の閃光だった。そして、synodalityの文脈の中でもたらされた典型例だと、私は確信している。

 

*synodalityは慈しみへの回心を刺激した

 ヨハネ23世がジュール・アイザックと会ったように、フランシスコはチリの性的虐待被害者、フアン・カルロス・クルスと会見した。彼の教皇との出会いは、被害に遭った神の子たちの叫びを聴く、新たな、慈しみ深い取り組みを始めるのに重要な役割を果たした。クルスはフランシスコが設置したバチカンの未成年者の保護のための委員会のメンバーになった。”周辺部”が中心に置かれるようになり、カトリック教会は、教皇ご自身も含めて、回心を経験している。

 そして、注意すれば、現在の教会の中に、synodalityに触発された慈しみへの回心のしるしを至るところで目にすることができるだろう。フランシスコは回勅「Fratelli Tutti(兄弟の皆さん)」に書いているー「それ(synodality)が、すべての人に場を作り、情報を操作したり隠したりしないなら、真実をよりよく理解するための絶え間ない刺激となる」。

 シノドス(世界代表司教会議)事務局のナタリー・ベクカール次長は、「(女性である自分がこのポストに就くという)歴史的な人事は、教会が女性たちの声を中心に置くようにとの要望に注意をはらっている証拠です」と指摘している。

 バチカンの人間開発省の難民・移民部門は、最新の文書は、気候変動の為に移住を余儀なくされた人々の窮状に焦点を当てた。聖アルフォンス・リグオリ(1696–1787・イタリアの司教、法律家であり芸術家でもあった)は最近、教会博士に叙せられて150周年を迎えたが、教皇フランシスコは彼の「見捨てられ、打ちひしがれた男女に耳を傾け、受け入れる」振る舞いを強く讃えた。

 これを「社会的差別」の匂いがする、と言う人がいるかも知れないが、私が言いたいのは、10億人を超える世界のカトリック信徒、2000年を超えるキリスト教の伝統の素晴らしさは、ほんのわずかな差別を受けている人も支える体制が整っている、といることだ。

 私たちは深く根を張っている。 キリストの体(教会)に保身はない。 主は貧しい人々の叫びを聴いておられる。 私たちは主に倣わねばならない。ものごとが実際にそうであるよりも公正で調和がとれているという思い違いをすべきではない。

 極めて重要なことは、私たちが教会として、単に人の言葉に耳を傾けるだけでなく、実際に人々から聴くことだ。そうすることが、私たちの心を和らげ、回心への準備を整える。そして私たち司教に知ることーそう、私たちが識別している新たなことが聖霊の働きだということを知ることに自信を与える。なぜなら、信徒たちもまた、それを聴くからだ。

 

*”キリストの体”を一つにまとめる助けに

 教会が慈しみにどのようにアプローチするかについての重要な言葉の一つであり、synodalityを理解するのに役立つ言葉の一つでもあるのは、「integration(統合)」ー何が統合される必要があるのかの問題だ。そして、私が言おうとしているのは、この場合、教会の頭とキリストの体の他の部位を統合する助けとなる、ということだ。

 手足の表面が冷たくて灰色の体を想像してみよう。心臓は動いているかもしれないが、生命力がすべての毛細血管に及んでいない。 私は、(教皇フランシスコが使徒的勧告)「Amoris laetitia (家庭における愛の喜び)」で示された「教義や道徳、あるいは司牧上の議論すべてが(教皇の)教導権による介入で解決される必要はない」という言葉について考える。意図的に婉曲的な表現をとったと思うこの言葉の一つの解釈は、「この使徒的勧告そのものが教導権の一部をなしていないことを示唆している」だ。いや、フランシスコが言いたかったのは、「バチカンだけが『キリストの体』を構成しているのではない」ということなのだ。

 教皇は、はっきりしているー彼が認識しているのは、自分の役割は伝統を守ることだ、ということだ。考え、周りを見回し、多分、遠くの地平線に私たちのビジョンを設定し、そして時々は、私たちが欲求不満で額を壁にぶつけるのを「やめよ」と言うのに、「頭」は適している。だが、「頭」だけでは物を持ち上げられないし、人々を抱きしめることもできない。「キリストの体」の他者に手を差し伸べる腕はどこにあるのか?

 中心部と周辺部の循環が、教会の日常の出来事の大部分を占める必要がある。そして、神から授かった宣教の使命を遂行し続ける中で、私たちは自分の体全体、緊張を感じる箇所、さらには、私たちの証しを有毒にする危険のある治っていない傷ー人種差別、女性蔑視、聖職者主義、性的虐待などーをも調和させねばならない。.

 だが、神はすべての形を変えられる。神が触れられて癒されなかった傷は?それは、フランシスコと言う名の男が体に負っっているーstigmata(聖痕)ーイエス・キリストが負われた傷だ。共に歩み、聴き、私たちが内と外で出会う人々すべてに慈しみをもたらす、真のsynodalityの教会は、私たちの負った傷を、そして信仰を奮い立たせるために人々が持つ力を決して忘れることがない。

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(カトリック・あい)synodalityについて・・・教皇フランシスコが就任当初から重要課題とされてきた「シノダリティ(synodality)」の言葉通りの意味は「ともに歩む」。日本語では「共働性」「協働性」あるいは「共同制」などとも訳されるが、教会内部でも定訳がないため、この評論では、あえて原文の英語表記のままとした。教皇がこの言葉に込められた意味は「教皇を頭とする司教団がキリストから与えられた権威をもって、神の意志を識別し、聖霊の声を聴きつつ、世界の全ての聖職者、信徒とともに進める、新しいアプローチや教義の転換をも導く可能性に開かれた、対話、洞察、協働のプロセス」と解釈できるのではないかと思われる。今後も頻繁に使われる言葉なので、適訳があれば、提示くださるよう、皆さんにお願いしたい。

*ジョセフ・W・トービン枢機卿は、1952年5月、米国生まれ。レデンプトール会士で、2017年1月から米ニューアーク大司教。2016年11月に枢機卿となり、2020年8月にバチカンの財務の実権握る財務評議会のメンバーに任命された。この評論は、今年5月3日にシカゴのロヨラ大学で”Cardinal Bernardin Common Cause Address ”のシリーズの一環として、トービン枢機卿が行った講演をもとにしたもので、米国のカトリック系評論誌Commonweal Magazineに掲載されている。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

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2021年6月1日

・コロナ禍でもラオスの貧しい若い女性が国境を越え、中国に売られている

(2021.5.29 カトリック・あい)

    新型コロナウイルスの世界的な大感染が続き、多くの国で国境が事実上の閉鎖状態となっているにもかかわらず、東南アジアの少数民族の若い女性たちが国境を超えた人身売買の被害に遭う例は、むしろ増えている。

 バンコクに拠点を置くカトリック系の有力メディアUCanewsが26日付けで報じた、現地の人権団体などの調べによると、人口700万の貧しい共産主義国であるラオスで若い十代や未婚の女性が”高給”を餌に拉致され、中国に売られて、現地の男性と結婚させられたり、売春を強要されたりする事件が頻発している。→https://www.ucanews.com/news/lao-women-trafficked-into-china-under-false-pretenses/92609

 ごく最近でも、ラオスの農村地帯に住む20歳の女性が、首都のビエンチャンに出掛けたまま、2か月たっても帰宅せず、心配した家族が地元警察に相談した。警察が、家族から聞いた女性の携帯電話の信号を追跡したところ、ラオス国外からの発信されたことが分かった。

 現地メディアの取材に対して、母親は「娘は、ビエンチャンに出掛けた後、電話をよこして、『中国人の男性と結婚した女の人と会った。彼女は、中国で高い給料をもらって仕事をしているそうだ』と言っていました。だまされて中国に連れて行かれたに違いありません」と嘆いている。

 地元当局によると、今年に入ってからこれまで判明しただけで、15歳から30歳の女性約12人が中国に人身売買されている。特にリスクにさらされているのは、農村部の経済的に恵まれない少数民族の若い女性だという。担当者は、「昨年、モン族の少女 2 人が私たちの地区から中国に人身売買されたが、帰国した本人に事情聴取した結果、人身売買の犠牲者であると判断した。毎年、ラオスから多くの 10 代の少女や若い女性が『高給がとれる仕事がある』という甘言に誘われて人身売買の被害に遭っている」と語った。

 今年2月には、中国の警察当局が、国境を越えて人身売買され、”花嫁”として売られたが、逃亡して警察に助けを求めたラオス人女性3人を送還したことがあった。だが、大半の女性たちは、この3人ほど幸運に恵まれず、そのまま中国に置いておかれてしまう、とUCanewsは伝えている。

いう。

 

 

2021年5月29日

・新香港司教でバチカンは”対中バランス”人事ーと専門家(Crux)

(2021.5.22 Cruxx  SENIOR CORRESPONDENT Elise Ann Allen

2021年5月18日、香港のカトリック教区センターで会見する周守仁・新司教(予定)(Credit:Robi Gallardo )China-watcher says new Hong Kong prelate embodies ‘balance’ on Beijing

ローマ発=教皇フランシスコが香港司教にイエズス会士、周守仁神父を選んだことについて、中国問題の専門家でAsiaNewsの責任者、ベルナルド・セルベラ師は、複雑で急速に変化する香港情勢、バチカン・中国関係に適切に対処するための、”バランスのとれた人事”と評価している。

 周師について、セルベラ師は「教会の基本的権利を守るが、(注:中国政府・共産党やその配下にある香港政庁など)対話にもオープンなように思われる…香港には、急進的な反中・民主派と過激な親中・反民主派の両極の間に中間派がおり、彼は中間派を代表する人物」であり、「教会の価値観と原則は堅持するが、一方的なイデオロギーや反中的な立場をとることはない」と語る。 周師の香港司教任命は5月17日に発表されたが、正式なポスト就任は12月4日までないようだ。

 62歳になる周師は2019年に亡くなったマイケル・ヨン司教の後を継ぐことになるが、大規模な民主化反対運動と中国政府・共産党の力による介入で引き起こされた香港情勢の急激な変化の中で生じた香港教会のリーダーシップの2年間の空白を埋めるのは容易なことではない。 特に、昨年6月に施行された国家安全維持法で中国政府・共産党が香港支配・民主運動撲滅の姿勢を明確にして以来、教会内でも民主派と親中派の対立が一段と深刻になる中で、バランス感覚に優れたリーダーを見つけるのは容易でなかった。

 セルベラ師にとって、周師の第一印象は、「そうした条件を満たしているように思われる」だ。中国政府・共産党幹部が、この人事をどう受け止めているのか、まだ分からないが、香港の多くの司祭からは「教皇の選択にとても満足している」という声を聞いているという。 米国とアイルランドで学んだ周師は、 2018年以来、イエズス会の中国管区長として、中国本土、マカオ、台湾でのイエズス会士の活動を監督する立場にあり、香港のイエズス会経営の九龍華仁書院の監督者でもある。

 バチカンから司教任命が発表された翌日の18日に会見した周師は、記者たちに、(注:教会の司祭、信徒たちの)一致の必要性を強調し、「一致を達成する具体的な計画はこれからですが、神は私たちに一致をお求めになっておられると確信しています」と語る一方、「一致は、”画一化”ではありません。学校で私はいつも『多様性における一致』を尊重しなければならない、と生徒たちに教えてきました。私たちは、多様性を尊重することを学ぶべきです」と強調した。

 そして、自分が担当した学校という小さな共同体社会においてさえも、最近香港で起きて来たことについて見解が分かれている、としたうえで、「大きな問題は、どのようにしたら傷を癒やせるのか、です。長い取り組みが必要ですし、私がそれに成功したとは言いませんが、最善を尽くしています。共感を持って相手の話を聴くことがは非常に重要であり、それが基本です」と述べた。

 実は、周師は、1年前に香港司教になるよう求められ、断っていた。だがその後、教皇フランシスコから、司教になるように、との私信を受け取り、受諾した。

 セルベラ師は「香港は厳しい状況にある。移行の時期にあるからです。香港は、法の支配と信教の自由のある”リベラルな国”ですが、国家安全維持法、つまり”縄張り法”、”領土法”に支配される国になりつつある」とし、「この新法は、法の支配を重大な危機に陥れ、香港の一部の司祭のみるところによれば、信教の自由を危機に陥れることに繋がる」ことを強く懸念している。

 周師は記者会見で宗教の自由の問題にも触れ、「宗教の自由は私たちの基本的権利です。私たちは香港政府と話しをし、それを忘れないようにしたい。信教の自由が認められることは重要です。カトリックだけでなく、どのような宗教も自由であるべきです」と強調した。

 そして、中国との話し合いの出発点は、信仰の立場からでなければならないが、「北京(注:中国政府・共産党)は“敵”とみなされるべきではありません」と述べ、「カトリック教会と中国当局は、対話を通してお互いをより良く理解することができる」という希望を表明。 さらに、「物議を醸す問題や政治的な問題について話すことを恐れているわけではありません。ただし、『慎重さは美徳』であると思います」と語った。

 セルベラ師によると、周・新司教が取り組む重要課題の一つは「カトリック教会と若者たちとの関係の再構築」だと言う。「香港において最も不利な立場に立たされ、社会的観点、雇用、仕事の観点から罰せられ、教会によって不利な立場に置かれたのは、若者たち」であり、「民主政治回復を求める活動家の一部は暴力的になりましたが、その大部分は若者が(非暴力の運動を)主導していた。新しい国家安全維持法の下で、香港における民主主義を守ろう声を上げ、中国当局を批判したために投獄された」にもかかわらず、教会は彼らへの関心を失ったように見で、彼らから失望された。だから、「香港のカトリック教会が若者との関係を再構築することが必要なのです」と述べた。

 また同師は、周・新司教が「信教の自由」と「教育の自由」の問題を真剣に受け止める、と信じている。香港で国家安全維持法が施行された時、司祭たちの中には、「学校で教えられたいくつかのテーマが、新法で騒乱罪とされる可能性がある」など、この法律が、遅かれ早かれ、香港における信教の自由と教育の自由に脅威を与えることを懸念する声が出ていた。

 香港には300近くの学校があり、カトリック教会は「教育の自由を守るため」に、中国当局と話をする重要な主体だ。この点から、周師の、これまでの教育の分野での長く、幅広い経験を生かすことが可能だ。香港だけでなく、中国の複雑さについての奥深い知識が「香港司教としての使命を果たしていくための利点となる」とセルベラ師は、周・新司教に期待をかけている。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。

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2021年5月23日

*「時間をかけた”シノドス・プロセス”に教区全体として加わる」-菊地大司教

菊池大司教の日記:2021年5月21日 (金)第16回通常シノドスへの道

Synodhall2017a

 第16回目となるシノドスは、当初、来年10月開催の予定でしたが、感染症の状況を考慮して、2023年10月に開催となることが発表されています。(写真は、2017年4月にバチカンのシノドスホールで行われた国際会議にて。ここがシノドスの会場になります。)

 今回のこのシノドスのテーマは、“For a synodal Church: communion, participation and mission”(『シノドス性ある教会のために:交わり、参加、ミッション』:バチカンニュース仮訳)と、昨年すでに発表されていました。

 ご存じのようにシノドスとは世界代表司教会議のことで、中央協議会のホームページにこう記されています。

 「『シノドス』とは、『共に歩む』という意味のギリシア語で、一定時に会合する司教たちの集会のことです。教皇と司教たちとの関係を深め、信仰および倫理の擁護と向上、規律の遵守と強化のための助言をもって教皇を補佐するために開かれます。またそこでは、世界における教会の活動に関する諸問題を研究します。・・・シノドスは、提起された問題を討議し、教皇に意見を具申しますが、決定機関ではありません。会議に関する権限は、すべて教皇にあります。会議の招集、代議員の指名・任命、会議要綱の決定、会議の主宰、閉会、延期、解散などは教皇の権限によって行われます」

 今回のシノドスについて、事務局の責任者であるマリオ・グレック枢機卿から発表がありました。今回はまさしく、「共に歩む」事を最重点課題として、教会全体の声に耳を傾けたい。その声は、司教たちだけの声でなく、司祭、信徒、修道者の声である。そのために、2023年10月の会議だけに終わるのではなく、シノドスのプロセスを、今年2021年10月から開始するというのです。

 シノドス事務局といえば、教皇様は責任者である事務局長にマルタのゴゾ司教であったマリオ・グレック師を2019年に任命し、その後枢機卿にされています。そして今年2月には二人の次官を任命し、そのうちの一人が初めての女性次官(バチカンで初めて)であるシスター・ナタリー・ベカーです。フランスの司教協議会で、青年司牧と召命促進の担当者を務めていたシスター・ベカーは、「発見が沢山ある新たな冒険の入り口に立った気持ちです」とバチカンニュースのインタビューに答えておられました。(リンク先はYoutubeのEWTNのインタビューで英語ですが、シスター・ベカーの人となりを知ることが出来るビデオです

 さて、そのシノドスのためにグレック枢機卿は世界中の司教宛てに書簡を送付し、その中で、教皇様が前回の通常シノドス(2018年に「若者、信仰そして召命の識別」をテーマに開催)で強調されていたシノドス的教会のあり方を、今回はなお、いっそう重視し、実践に移したい、と強調されています。Synodhall2017e シノドス的教会については、2018年10月の前回の通常シノドス閉会にあたり、教皇様がお告げの祈りで述べられたメッセージの言葉を思い起こしたいと思います。その中で、教皇様は、次のように言われます。(上の写真は、2017年4月のシノドスホールでの会議で、タクソン枢機卿と話す教皇様)

 「それは『癒しと希望』の時、であり、何よりも『傾聴』の時でした。傾聴するためには、時間、注意力、さらには心と気持ちを開け放つことが必要です。しかしその行程は、日々、癒しに変わっていきました」

 互いの話に耳を傾け合うことの重要性です。その上で、

 「傾聴というこの基本的な手だてを通して、わたしたちは現実を解釈し、現代のしるしを把握しようとしました。そして、み言葉と聖霊の光のもとに、「共同体としての識別」が行われました。それは、主からカトリック教会に与えられた最も素晴らしい賜物の一つです。つまり、まったく異なる状況にある人々の発言や表情を集め、つねに福音の光のもとに、その現象の利点と複雑性を考慮に入れながら解釈しようとしたのです」

 神の求める道はどこにあるのかを、識別するのです。それも一人でそうするのではなく、共同体としての識別です。そして、

 「書面の文書を作成することを第一の目的としない『シノドス様式』です。書面の文書も貴重で有益なものですが、それ以上に、現状に即した司牧的選択をするために、老若男女が集まり、協力しながら傾聴と識別を行う方法を推進することが重要です」

 「シノドス様式」と訳されている「シノダリティ」。実は先般発表した東京教区の宣教司牧の方針を定めるにあたっても、私としてはその『シノドス様式』を多少なりとも尊重して、「互いの意見に耳を傾けあい、共同体としての識別を重ねたい」と思いました。コロナ禍もあり、完全には実施できなかったものの、宣教司牧方針の策定には多くの意見をいただき、感謝しています。

 さて、というわけで、今回の第16回通常シノドスです。グレック枢機卿は、今回のシノドスをまさしく『共に歩む』道程とするために、まず、2021年10月にその道程を開始する、と発表されました。Synodhall2017d

 2021年9月頃には、最初の課題集が公表されます。そして、10月9日と10日に教皇様はバチカンで、さらに世界中の各教区でも10月17日に、シノドスの始まりを祝うミサを捧げるように、と指示がされています。また、世界中の各教区には意見をとりまとめるための担当者かチームを任命して、教区全体から課題集に対しての意見を募るように、との指示がありました。

 その上で教区の回答を集約し、翌2022年4月までに、各司教協議会がとりまとめます。その世界各地のまとめをさらに集約して2022年9月には最初の文書がシノドス事務局によって作られます。さらに今度は、各大陸別の司教協議会連盟(アジアはFABC)で議論を深め、それに基づいて、2023年6月までに、シノドスの作業文書がシノドス事務局によって作成され、10月の会議となります。

 感染症の状況がどのように推移するのか、推測するのは難しいことですが、できる限り、神の民の一員として、この「共に歩む」道程に、東京大司教区全体として加わることができるように努めたい、と考えています。(写真は、2017年4月の会議後、シノドスホール出口に向かうところで、皆に囲まれる教皇様)

 シノドスはこれまで、事務局から文書が送られてきて、それに文書で司教団が回答し、それをもとにして委員会が作業文書を作成し、本番の会議が進められてきました。そのため、地域教会の現実を十分に反映していないと、さまざまな方面からシノドスのプロセスに懸念を表明する声がありました。

 今回の、教皇様の意向を取り入れた、時間をかけた事前の準備プロセスがうまく機能するならば、シノドスは変化するでしょうか。私たちもそれに加わりながら、シノドス・プロセスを注視したいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2021年5月22日

・ヨハネ・パウロ2世狙撃事件から40年ー憎しみに愛と祈りが勝った!

(2021.5.13 バチカン放送 アレッサンドロ・ジソッティ

 1981年5月13日にバチカンの聖ペトロ広場で教皇ヨハネ・パウロ2世が狙撃される衝撃的な事件が起きてから40年。憎しみに愛と祈りが勝った出来事として、世界中の人々が共有する記憶となっている。教皇フランシスコの当時の回想とともに、この事件を振り返る。

  ある出来事に結びついて、歴史書の中だけでなく、私たちの人生のページに消えない記憶として刻まれた日付、というものがある。その刻印はあまりにも深く、長い年月が過ぎた後も、そのニュースを聞いた時、自分がどこにいて何をしていたかをはっきりよみがえらせる、そうした日付である。

 1981年5月13日、それは間違いなく、こうした日付の一つだ。あの日、信じがたい、想像を超えた出来事が現実となって飛び込んで来た。聖ペトロ広場で教皇が撃たれたのだ。

 40年たった今も、あの場面の一つひとつに戦慄し、あの春の午後に響いた騒音を再び聴く思いがする。

 午後5時19分、ヨハネ・パウロ2世は、水曜日の一般謁見に訪れた信者たちの間をいつものようにめぐっていた。教皇は小さな子どもを抱き上げ、そして母親に返した。その直後、鈍い発砲音が聞こえ、さらにもう一度、それが続いた。教皇は腹部を撃たれ、幌なしのジープの上に崩れ落ちた。それは大きな動揺の瞬間だった。人々は愕然とした。最初のうちは何も理解できず、それが本当に起きたことだとは、信じられなかった。

 巡礼者の多くは泣き出した。その場にひざまずく者もたくさんいた。そして、人々はロザリオで祈り始めた。そのロザリオは教皇に祝別してもらおうと、皆が手にしていたものだった。中には、64年前の5月13日、ファティマの牧童に聖母が現れたことを思い出す人もいた。

 「Totus tuus, Maria! (すべてはあなたものです、マリアよ!)」。聖母への愛で知られる教皇は、こうして神の民によっておとめマリアに託された。後に、ヨハネ・パウロ2世は、自身が死を免れたことは、まさに聖母の取り次ぎのおかげであったと述懐している。一つの手が命を奪おうとした時、より力ある別の手が弾丸を反らし、教皇の命を救った。

 あの5月13日の午後、バチカンから始まった祈りの輪は、急速に世界に広がっていった。教皇が生死の闘いにあると知るやいなや、無数の人々が自発的に祈り始めた。

 祈る人々の中に、ブエノスアイレス郊外サン・ミゲルのサン・ホセ神学院の院長、後に教皇フランシスコとなるホルヘ・マリオ・ベルゴリオ神父の姿もあった。ベルゴリオ神父もまた、この事件に衝撃を受けていた。教皇フランシスコは、今日、あの5月13日をこのように振り返られている。

 「その時、駐アルゼンチン教皇大使館にいた。昼食前の時間で、ウバルド・カラブレージ教皇大使とベネズエラ出身のウガルデ神父が共にいた。そこへ、当時、同大使館秘書だったクラウディオ・マリア・チェッリ師がこの恐ろしい知らせをもたらした」と。

 信者たちの祈りは絶え間なく、それはヨハネ・パウロ2世が危機を脱するまで続けられた。この信者たちの祈りはある意味、その後も、とりわけ苦しみや病気の日々に寄り添いながら、教皇の生涯の終わりの日まで、すなわちもう一つの春、2005年の春まで、続いていったと言える。

 事件直後の動揺のうちにも、バチカン放送局の解説者、ベネデット・ナルダッチが冷静をもってこの出来事を伝えることができた意義は大きい。水曜恒例の一般謁見が、今や前例のない状況に急展開したことを、彼は中継でこのように伝えた。

 「これはバチカンにおける初めてのテロと言えるでしょう。常に愛と調和と平和のメッセージを発信してきたこの市国でテロが発生しました」。

 実際、あの犯罪行為が解き放った憎悪は、終末的と言えるほど恐ろしいものであった。しかし、それよりはるかに大きかったのは、愛と慈しみの力だった。愛と慈しみは、輝かしく、同時に神秘的な形で、ヨハネ・パウロ2世の残りの生涯を導いていった。

 事件発生から4日後、ヨハネ・パウロ2世が入院先のジェメッリ総合病院の病室からレジーナ・チェリの祈りを唱えた時、慈しみは驚くべき形で示された。教皇は、狙撃者を「私を撃った兄弟」と呼び、赦しを約束されたのである。教皇は犯人を「兄弟」と呼んだのである。

 たとえ地上で何が起きても、天に記されているこの普遍的な兄弟愛は、もう一つの忘れがたい日、1983年12月27日に再びクローズアップされることになる。この日、ヨハネ・パウロ2世は、ローマのレビッビア刑務所に狙撃犯アリ・アジャを訪ねた。教皇はそれを公に行った。これを見たある人は言った。「教皇はご自分の命を狙った者の命を救おうとされたのだ」と。

 ヨハネ・パウロ2世は面会後に、こう言われた。「私たちは人間同士、兄弟同士として出会いました。なぜなら、私たちは皆兄弟だからです。私たちの人生のすべての出来事は、『神は私たちの御父だ』という事実から来る兄弟愛を、証明するものでなくてはなりません」。

 教皇フランシスコは、今日、この同じ兄弟愛を、人類の未来において進むべき唯一の道として示しておられる。

2021年5月14日

・教皇が一般信徒の新たな奉仕職を制定ー教会の内側からの変革の一環(La Croix)

(2021.5.12 La Croix  By Loup Besmond de Senneville and Xavier Le Normand | Vatican City)

 教皇フランシスコは、カテキスタという一般信徒の奉仕職を正式に導入することで、ご自身が「余りにも聖職者主導だ」と見ている教会における、一般信徒の場を再定義しようとしている。

 「私は、カテキスタという一般信徒の奉仕職の制度を作ります」。これは、「カトリック教会を内側から根本的に変えたい」と望む教皇の意思表示だ。その決意は、11日に発出した6ページの自発教令の最後に示されている。自発教令のタイトルにあるように、「Antiquum ministerium (古代の奉仕職)」は、一般信徒に対して、事実上、もう一つの新たな奉仕職の道を開くもの。教皇が今年一月に、女性に対して、ミサにおける聖体奉仕者と聖書朗読者の役割を正式に認めたのに続く措置だ。

 今回の自発教令で、「信仰を伝え、成長させるためのかけがえのない使命をすでに遂行」しつつある、世界で何十万といる”有能”な一般信徒のカテキスタの役割を確認することを、教皇は望んでいる。

 教皇パウロ6世が1972年にすでに構想していたこの奉仕職の制度化は、これまで世界の教会に広がっていなかった。主として、途上国の教会に留まり、欧州や北米で進展を見ることはなかった。そして、半世紀を経た今、教皇フランシスコは、この一般信徒の奉仕職を制度化された「効果的」なものとするよう、確固たる決意をもって、世界の司教たちに呼び掛けたのだ。

 フランシスコはこの教令で、司教たちに、この奉仕職に「深い信仰をもち、人間的に成熟した男女」を招くように求め、小教区の主任司祭たちには、「教会共同体の活動に積極的に参加している人たち、他者を喜んで受け入れ、寛大で、友愛に満ちたある人との交わりを日々の生活の中で実践している人たち」を探すよう求めている。そして、カテキスタの養成にあたっては、「適切な聖書学的、神学的、司牧的、そして教育学的な教育」がなされる必要がある、と述べている。

*根本的な文化的な変革

 これを、「中世以来、多数の司祭の存在で特徴づけられてきた教会の、根本からの文化的変革」と見る人もいる。

 神学者で教皇庁立東方研究所の元研究員のイエズス会士、チェザーレ・ギラウド神父は「私たちは、司祭が多くいて、一般の信徒がいつも脇に置かれていた時代の”遺産”を受け継いできた。今起きているのは、完全な、非常に深遠な精神構造の変化です。教皇は、聖職者主義になりすぎた教会に揺さぶりをかけようと、一般信徒のための新たな役割を創出するように全ての教会関係者に求めておられるのです」と語る。

 「過去数世紀の間、司祭が多くいたことで、さまざまな奉仕職が司祭の手に渡りました」と語るのは、仏北部のカンブレーのバンサン・ドルマン大司教だ。司祭養成の専門家で中北部サンスのエルヴェ・ジロー大司教も「司教も司祭も、本来の役割からかけ離れた、多くの権力を持ち過ぎました」と口をそろえ、「新たな一般信徒の奉仕職が、叙階された司祭がもつ本来の役割を再発見するための鏡像になることが可能だ」と信じている。

 彼らと別のフランスのある司教も、「教皇は、『すべてが叙階された奉仕を中心に展開しているわけではない』ということを私たちに気づかせています」とLa Croixni語った。一般信徒の奉仕職を活発化することで、教皇はまた、司祭の役割の再定義をしようとしている、というのだ。

*生かすべき機会

 問題は、パウロ6世が提唱したものの、ほとんど成果を得られなかった1970年代のように、教皇フランシスコの自発教令が空文化させないために、どのようにすべきか、だ。「司祭の不足は現在、西欧で当時よりもずっと深刻になっており、教会共同体が存続するために、奉仕職を担う人材を必要としています」とギラウド神父は言う。「布教国では、特にカテキスタの育成の分野で再生を可能にするやり方が試みられています」。

 ベルギーのルーヴァン・カトリック大学のアルノー・ランベール神学教授は、教皇が進めるこうした一般信徒の奉仕職は「2つの落とし穴さえ克服できれば、成功の機会をつかめる」と見る。落とし穴の第一は、あらゆる組織につきものの、そしてカトリック教会においてはなおさらの「惰性」だ。

 ジロー大司教もこの見方に同意するが、単独行動はすべきでない、と考えている。「個人的には、この一般信徒の奉仕職は緊急の課題と思いますが、他の司教たちと協力して行動するこが必要でしょう」と言う。

 ランベール教授による落とし穴の二つ目は、この新たな奉仕職を既存の役割の単なる再解釈として過小評価することだ。

*視野を広げる

 基本的に、司教たちの何人かは、教皇が自発教令で提案したことを速やかに取り上げることを決意しているようだ。

 例を挙げれば、ジロー大司教はすでに、この新しいカテキスタという奉仕職の候補者を頭に描いている。だが、「その数は、ごくわずか」であり、カテキスタとなることは、「報償」ではなく、「すべての人への奉仕」と受け取られる必要がある、と条件を付けている。

 ただし、La Croix が取材した司教全員が、今回の自発教令によって、「教皇フランシスコは、カテキスタという奉仕職をはるかに超えた展望を開いた」と受け止めている。「奉仕職という言葉にまつわる恐れが取り除かれ、教会内部の組織ではなく、神からの贈り物の認識を示すタイトルにすることができるでしょう」とジロー大司教は語り、「このことは、私にとって、多くの可能性を開くことになります」とドルマン大司教は評価する。

 さらにドルマン大司教は「聖体祭儀にすべてが集中しているわけでないことを強調する機会になる」とも見ており、「人々は神の言葉でイエスに支えられねばなりません」と指摘。さらに、定期的に葬式の段取りをしているカトリック信徒に、公式にそれを委託する方法がないことを疑問に思っており、「こうした役割が制度化され過ぎないようにしながら、あらゆる必要を満たす必要がある」としている。

 これは、教皇がこの自発教令で明示的に警告している「一般の信徒の聖職者化」の問題に対処するやり方だ。そのうえで、自発教令は、献身的な一般信徒たちを勇気づけ、認め、奨励しているが、教皇が就任当初から「カトリック教会が克服せねばならない」としてきた「聖職者の定型」を永続させない、という条件付きだ。

 自発教令は”健全なバランス”をとろうとし、カテキスタの奉仕職は「いかなる形の聖職者化も避け、完全に『世俗的』な方法で実行されなければならない」と強調している。

*本物の信徒の召命とは

 そして、まさにこのような間違いを避けるために、これらの新しい奉仕職は、「生涯を通じて生き生きと働く本物の信徒の召命」と見なされるべきだ、と新福音化推進評議会議長のサルバトーレ・フィジケッラ大司教は、自発教令発出の際に語っている。

 基本的に、正式化された奉仕職は、小教区や司教区の一般の信徒がすでに行っている(いわゆるカテキスタとされる)奉仕活動の単なる確認ではなく、それ以上のものだ。「この制度は、典礼を豊かなものにする手段の一つとして導入され、召命を受けた役割、神から来るものであることが強調されます」とランバート教授は説明する。

 そして、この教皇の新しいイニシアチブは「福音と信仰を告げ知らせる使命を果たすために全ての信徒で成り立っている教会の”申し合わせ”に関して、多くのことを変えることができる」と確信している。

 いずれにしても、教皇フランシスコは、この決定を貫徹することを心に決めており、中途半端にするつもりはない。自発教令の最後に、教皇は、全世界の司教たちに、この教令を受け入れ、各国ごとに適切なカテキスタ養成プログラムを策定、実施するように求めている。そして、バチカンの典礼秘跡省にこの新しい一般信徒の奉仕職のための「制度要綱」を作るように指示している。 84歳の教皇は、担当部署に速やかに着手するように言っている。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

LA CROIX international is the premier online Catholic daily providing unique quality content about topics that matter in the world such as politics, society, religion, culture, education and ethics. for post-Vatican II Catholics and those who are passionate about how the living Christian tradition engages, shapes and makes sense of the burning issues of the day in our rapidly changing world. Inspired by the reforming vision of the Second Vatican Council, LCI offers news, commentary and analysis on the Church in the World and the world of the Church. LA CROIX is Europe’s pre-eminent Catholic daily providing quality journalism on world events, politics, science, culture, technology, economy and much more. La CROIX which first appeared as a daily newspaper in 1883 is a highly respected and world leading, independent Catholic daily.

 

2021年5月13日

・保守派のサラ前典礼秘跡長官、次期教皇選出宣言の”栄誉”ある役割外れる(LaCroix)

The retired Guinean cardinal had been the senior cardinal deacon, but Pope Francis has religion/cardinal-sarah-no-longer-in-line-to-announce-the-next-pope
M.MIGLIORATO/CPP/CIRIC

(2021.5.3 LaCroix Xavier Le Normand | Vatican City)

 教皇選挙(コンクラーベ)の最後に常に発せられるのがこの言葉だー「Annuntio vobis gaudium magnum:habemus papam(私は皆さんに大きな喜びを告げます。教皇が選ばれました)!」

 バチカンの聖ペトロ大聖堂の中央バルコニーから発せられる言葉で、サンピエトロ広場に集まった人々、そして世界中の人々に、枢機卿たちが選んだばかりの「ローマ司教」そして「世界の教会の筆頭司牧者」を宣言するのだ。

 そしてこの宣言の役割を担う者には、三段階の枢機卿の位階の中で一番下の助祭枢機卿のうち、最も長くそのポストを務めている人が選ばれ、枢機卿に選ばれた日が同じ者が複数存在する場合、教皇が選任を先に発表した者が選ばれることになっており、2013年に教皇フランシスコを選出した際、この宣言の役割を担ったのは、フランス出身の故ジャン=ルイ・トーラン枢機卿だった。

 現時点で、最も在任期間が長い助祭枢機卿は、現在では廃止されている「正義と平和協議会」の議長を務めていたレナート・マルチーノ師だが、2012年に80歳になった段階で教皇選挙権を失っており、教皇選出を宣言する資格はなくなっている。従って、その役割を担う可能性がある80歳未満の助祭枢機卿の”筆頭候補”は、先日、典礼秘跡長官を退任したロバート・サラ師、ということになるはずだった。

 だが、そうではなくなった。教皇が今週、サラ師を、他の7人の助祭枢機卿ととともに、「司祭枢機卿」に格上げする人事を発表したためだ。そして、新教皇選出を宣言する役割を持つ80歳未満の助祭枢機卿は、現時点では、バチカン市国長官のジュゼッペ・ベルテッロ師が該当することになったものの、ベルテッロ師は来年11月に80歳の誕生日を迎える。それ以降に教皇選挙が行われるなら、その役割は、奉献・使徒生活会省長官のジョアン・ブラス・ジ・アビス師にお鉢が回ってくつことになる、と考えられる。

 もっとも、教皇選出を宣言するだけが助祭枢機卿の役割ではない。教皇選挙が結論を出せず、続けられる際には、他の重要な役割を務めることが求められる可能性がある。

  ヨハネ・パウロ二世の使徒憲章「UNIVERSI DOMINICI GREGIS(使徒座空位と教皇選挙に関して)の定めでは、「3日続いても教皇が選挙されず選挙が難航する場合は、祈ったり、選挙者同士の間での意見交換、助祭枢機卿による講話を聞くために1日選挙を休む。その後同じ方法で選挙をし、7回投票しても結果をみない場合、祈り、意見交換、講話のためにもう1度休みを取る。投票を再開し、7回投票しても教皇が選出されない場合は、同じように休みをとる。そして投票を開始し、また7回繰り返す」(74条)とされている。

 要するに、このように事態になった際には、助祭枢機卿に、選挙の休止期間の講話を担当する役割が与えられるのだ。現時点では、ベルテッロ師がその役割を果たす可能性もある。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

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2021年5月5日

・中国など14か国で深刻な信教の自由の侵害ー米信教の自由委員会など報告書発表(BW)

The USCIRF Report 世界の信教の自由の侵害状況に関する二つの報告書が、ここ数日相次いで発表され、中国など多くの国で信教の自由が侵されていることが改めて浮き彫りになった。

 米国の国際信教の自由委員会(USCIRF)は、国内法に準拠した超党派の米政府の委員会で、米大統領と二大政党の議会指導者によって任命された委員で構成されている。

 その2021年年次報告書は、中国など14か国で深刻な信教の自由への侵害がされているとして、「特に懸念される国」(CPC)に指定することを米国務省に提言している。

 CPCには、2020年12月に国務省によってすでにCPCとして指定されている中国、ミャンマー、エリトリア、イラン、ナイジェリア、北朝鮮、パキスタン、サウジアラビア、タジキスタン、トルクメニスタンの10か国に、インド、ロシア、シリア、ベトナムの4か国だ。

 同報告書では、また12か国を国務省の特別監視リスト(SWL)に信教の自由の侵害国に載せることも求めている。このうちキューバとニカラグアは既にリスに載せられているが、さらにアフガニスタン、アルジェリア、アゼルバイジャン、エジプト、インドネシア、イラク、カザフスタン、マレーシア、トルコ、ウズベキスタンの10か国が加わった。

 一方で、2020年の年次報告書でSWLへの掲載が適当、とされていたバーレーン、中央アフリカ共和国(CAR)、スーダンの3か国は、信教の自由を巡る状況に改善がみられるとして、対象から外された。

 また報告書では、パキスタンの信教の自由を巡る状況について「悪化を続けている」とし、「パキスタン政府は、非国家主体による虐待から、宗教的少数派を保護できていない。アフマディー教徒、シーア派イスラム教徒、ヒンズー教徒、キリスト教徒、シーク教徒などの少数派を標的にした殺害、冒涜事件、強制改宗、ヘイトスピーチが急増している」と指摘している。

 報告書は、バイデン政権に対し、世界で最悪の信教の自由の侵害国の一つとしてのロシアに対する姿勢を強めるよう求め、次のように説明している。 「2020年に、ロシアの信教の自由の状況は悪化した。ロシア政府は引き続き、少数派宗教関係者を罰金、拘留、および刑事告発の標的にしたうえ、ロシアの法律は、用語を適切に定義しないまま、『過激主義』の犯罪と決めつけ、広範囲の非暴力の宗教活動を司法当局が訴追するのを可能にしている」。

 さらに、ロシアでは、ロシア正教会に対する批判が「名誉棄損」として扱われることがしばしばあり、同国を「パキスタン、イラクに次ぐ、名誉棄損を犯罪とする件数の顕著な国」とし、ソーシャル・メディアに関連する名誉棄損の犯罪扱い件数で群を抜いている、と指摘。新興宗教の「エホバの証人」への苛烈な迫害、米国に本拠を置くサイエントロジーの信者に対しても、否定声明に署名を迫るなどの圧力がかけられている、としている。

 中国に関しては、矯正収容所での悪名高い思想改造を取り上げたほか、中国当局が「何百万のイスラム教徒について、長いあごひげを生やす、飲酒を拒むなどを「宗教的過激主義」の証拠と見なし、収容所送りにしている、と指摘。逮捕・拘禁された経験のある複数の人物が「拷問、性的暴行、不妊手術の強制などの虐待を受けた」と証言している、としたうえで、専門家は、中国政府が新疆ウイグル自治区で進めている、こうしたイスラム教徒に対する行為が国際法上の”ジェノサイド”になり得る、との懸念を表明している、としている。また、新疆ウイグル自治区の収容所や刑務所、工場、工業団地でウイグル人たちを強制労働させていること、ウイグル人たちの宗教施設の閉鎖と破壊が継続していること、についても指摘している。

 さらに、中国政府・共産党は、このようなウイグル人イスラム教徒に対する迫害だけでなく、「チベット仏教徒に対するの広範な統制と抑圧」がなされているほか、キリスト教についても言及。「カトリックの司教の任命に関して、バチカンと中国政府が合意したにもかかわらず、中国当局は、カトリック”地下教会”の司教や司祭、信徒に脅迫、拘禁、拷問を続けている。これは、プロテスタントの家庭教会に対する行為と同様だ」と述べ、キリスト教会の聖堂、十字架、さらに仏教や道教の寺院や像の破壊なども進んでいる、とBitter Winterの報道を引用している。

 こうした中国における信教の自由の深刻な侵害の”根拠”となっている法・規則についても「2018年に改訂された宗教問題に関する規則が、すべての”無許可”の宗教的活動を効果的に禁止し、宗教活動の管理について地方政府の役割を拡大している。また中国刑法第300条によって、法輪功や全能神教会など特定の宗教団体に属するだけで信徒たちは3年から7年の懲役、または当局がより深刻とみなす場合は終身刑に処せられる」と説明した。

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Examples of persecution from ChinaAid’s report

Examples of persecution from ChinaAid’s report.

 USCIRFの年次報告書と前後して、国際NGOのChinaAidが発表した2020年度迫害年次報告では、中国政府が管理・統制下に置いているプロテスタントの「三自愛国教会」に属さない「家庭教会」に対する迫害や、バチカンと中国の司教任命に関する合意後の現在も続く、政府管理・統制下にある「中国天主愛国協会」への参加を拒否する”地下教会”の司教、司祭、信徒に対する迫害について、その詳細を説明している。そして、現在の新型コロナウイルスの大感染に対する措置の一環という名目での、信徒たちへの監視体制の強化が、迫害をさらに悪化させる要因となっている、と指摘した。

 またChinaAidのこの報告書は、「2020年が、習近平がキリスト教を中国化するための5カ年計画の3年目に当たっていた」とし、プロテスタント教会では、政府管理の「三自愛国教会」に加盟している教会の中にも脅迫を受け、説教や祈りなどに「愛国的で、共産党を讃える内容を含めることが、当局から強要されている、三自教会への参加を拒む「家庭教会」に対する迫害はますますひどくなり、主要な指導者はすべて当局に呼ばれ、尋問され、一部は逮捕されるなど、活動を根絶する動きが強まっている、としており、特に顕著な事例として、四川省の成都におけるEarly Rain Covenant Churchを実例として挙げている。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」)

2021年4月28日