*教皇フランシスコのバチカン官僚機構改革の道は遠い(La Croix)

(2022.1.15 La Croix Robert Mickens |バチカン市国)

 最近行われたバチカンの幹部人事は、1580年代にさかのぼるその官僚機構の習性を変えることがいかに難しいかを浮き彫りにしている。

*助祭、司祭、司教、大司教、そして枢機卿ー聖職者には厳密な階級がある

 ジャコモ・モランディ大司教とは誰だ?世界中のほとんどのカトリック教徒が彼の名前を聞いたことがなかっただろう。もっとも、彼が大司教だから、ある程度は重要な人物であり、カトリック教会の階層社会のかなり上位になるに違いない、という推測は成り立つ。階層の観点から教会を見るのは、好むと好まざるとに関わらず、私たちのカトリックのDNAに組み込まれているのだ。

 聖職者には厳密な階級があり、教会の”はしごの段”が何を意味するか私たちは知っている。たとえば、すべてのカトリック教徒は、彼らの教区司祭が助祭よりも大きな権威を持っていることを知っている。

 司牧者が「モンシニョール」であるならば、この名誉称号を与えられるために”何か重要なこと”をしたに違いない、と受け止める。(教皇フランシスコは2013年9月に、司祭を「名誉高位聖職者」として「モンシニョール」と尊称することを暫定的に差し止めた。尊称要請の承認はバチカン国務省が行っている。第二バチカン公会議以来、尊称認可は激減したものの、ここ数年は復活している)。

 そして、「司教」がいる。司教が教区の司祭の上に立ち、上司であることをカトリック教徒に伝える必要はない。「大司教」はどうか?カトリック教徒は、彼らが単なる司教よりも一段高いことを知っている。この地位の男性(数は少ない)は、(通常は)大司教区を監督し、司教より大きな責任を負っているからだ。 聖職者の最上位の階層は「枢機卿」だ。教皇を除けば、彼らはカトリック教会の階層のcreme de la creme (最高の中の最高)だ。ほとんどすべてのカトリック教徒はこれを当然のことと考えている。

 

*古典的な”バチカン様式”による”降格人事”

 元の質問に戻ろうージャコモ・モランディ大司教とは誰か?彼は、移動発表の直前まで教理省の次官だった。教皇フランシスコは、2015年にこのイタリア人神学者をバチカンの主要官庁に呼び入れ、2年後、次官に昇進させ、大司教にした。だが、今月10日、教皇は彼をイタリアのレッジョ・エミリア教区の長に任命したことが発表された。

 イタリア北部の人口50万人の教区長への任命は、バチカンの専門家や教皇庁で働くほとんどの人々から”降格人事”と受け止められた。結局のところ、教皇は、彼を「大司教区」ではなく、ただの「教区」に大司教を送り込んだのだ。教皇が彼に、大司教という”個人的な称号”を保持させたのは、ある種の”慰め報償”と、見なされた。

 一部のバチカン関係者は、この人事を、昨年2月に厳しい言葉で書かれた、同性カップルに対す教会での祝福を禁じる文書を起草する際に、前次官が果たした役割に対する”懲罰人事”だと推測している。文書の中で、多くの人々(教皇フランシスを含む)を怒らせたのは、神は「罪を祝福しないし、祝福できない」という一節だった。この文書には、教理省長官のルイス・ラダリア枢機卿がモランディ次官・大司教と共に署名し、教皇が公表を許可した。

 しかし、教皇の側近によると、教皇は、この文書を少なくとも注意深くは読んでおられなかった。そして、教皇は、公表された文書が引き起こした極端に否定的な反応を快く思わず、バチカンから、その文書の”著者”を追放することを決めた、と関係者の間で推測されている。

 それが、この事件の顛末。1588年に教皇シクストゥス5世がこの中央官僚機構を設立して以来、ローマ教皇庁で物事が行われてきた手法に、今回のやり方が適合している、という、ただそれだけの理由で、妥当なやり方なのだ。

 ともあれ、このようなやり方は、教皇フランシスコが9年前に就任して以来手を付けようとされてきた(第二バチカン公会議の理念に沿った)教会改革のビジョンとは、まったく軌を一にしていない。

 

*「司教職」の使用と乱用

 その1つは、彼が教皇に就任して以来、これまで続けてきた聖職者のキャリア主義だ。それは教皇だけができること(あるいは少なくとも教皇の証人が必要なこと)に基づいている。それには、称号の付与、監督権の授与、後継者を選出する枢機卿の任命が含まれ、明らかに、すべての官僚機構、組織、および労働文化において、報酬/資格制度が機能している。それは、働いている人の業績と貢献を認識し、仕事への意欲を持たせるためだ。

 ローマ教皇庁のシステムの問題は、歴代の教皇が何世紀にもわたって、”最も切望される賞として司教制度をぶら下げてきたことにある。彼らはローマで机の仕事をしている男性に司教の職を与えることによって「司教職」を乱用した。

 私の友人は「米軍の将軍の数よりも、バチカンの司教の数の方が多い」と皮肉を込めて言うのが好きだが、信徒(教区)を持たない司教は、部隊を持たない将軍とは非常に異なる。そして、そのことは、第二バチカン公会議が修正しようとした「教会のトリエント・モデル」の最悪の側面に根ざした、非常に議論の余地のある教会論によって擁護されている。モランディ大司教の「単なる教区」の長への通常の任命を「降格」と見なすことができるのは、いまだに存在する、そのモデルにおいてだ。

 教皇フランシスコは、これまでの在任中に20人近くのバチカン当局者を「名誉ある」司教に任命した。そして神学的に、秘跡的に、モランディの新しいポストは”ステップアップ”であり、”ステップダウン”ではない。

 彼はこれまで、ただの「名誉ある」大司教だった。それは教会的な領域(すなわち、教区または大司教区)に対する法的、司牧的な責任がなかったからだ。その彼が、今度は、レッジョ・エミリアの教区長として、彼は教区の信徒たちの羊飼い、キリストの牧者となったのだ。それはバチカンで机の上の仕事をしている”名誉”ある大司教が享受していない権威だ。

 残念ながら、この最新のバチカン人事は、教皇フランシスコが聖職者のキャリア主義を非難しているにもかかわらず、最も決定的なステップの1つを踏むことができなかった、あるいは、踏みたくなかった、という新たな事態である。

 教皇は昨年10月、聖ペテロ大聖堂でアンドレ・フェラダ・モレイラ大司教の任命式を行った。この 52歳のチリ人の話はモランディ大司教の話と似ている。教皇は2018年にフェラーダ神父をローマに招き入れ、聖職者省の職に就け、昨年9月に次官に任命し、同時にティバーニアの名誉大司教にした。また、信徒を持たない司教…その任命はローマ教皇庁内の聖職者のキャリア主義の習性を変える努力を進めることに、何も寄与しない。

 

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2022年1月22日

・第三主日の23日は教皇フランシスコが定めた「神のみことばの主日」

 (2022.1.21 カトリック・あい)

(2020.1.18 掲載の編集再録)

 教皇が2019年秋、自発教令で年間第3主日を「神のみことばの主日」とされたが、23日はその3回目の記念日となる。 教皇フランシスコは一昨年9月30日、自発教令「Aperuit illis(彼らに開いた)」を公布し、典礼暦の年間第3主日を「神のみことばの主日」と定められた。

 この主日について教皇は「典礼年間の中でも、ユダヤ教との絆を強めると同時に、キリスト者の一致を祈るよう招く時期に位置しています… 聖書はその言葉に耳を傾ける者に、真の堅固な一致に到達するための道を指し示すことから、教会一致を祈る時期に『神のみことばの主日』を祝うことには「エキュメニカルな意義があります」と説明され、「教会共同体が、『神のみことばの主日』を祭日としてふさわしく過ごす方法を見つけ、ミサの中で聖書を聖なるものとして祝うことで、みことばが持つ価値を会衆にはっきりと示すことが重要です」と強調された。

 なお、教令が公布された9月30日は、4大ラテン教父の一人で、「ブルガタ訳」と呼ばれるラテン語訳聖書の翻訳者として知られる聖ヒエロニモ司祭教会博士(347年頃-420年)を記念する日に当たる。聖ヒエロニモは2020年に帰天1600年を迎えるが、その記念日に自発教令を発表された教皇は、「聖書を知らぬことは、キリストを知らぬこと」という同聖人の言葉を引用しつつ、「御言葉に捧げた日曜日が、神の民に聖書に対する宗教的で熱心な親しみを育む」ことを願われた。

 自発教令のタイトル「Aperuit illis(彼らに開いた)」は、復活後のイエスが弟子たちに現れ、昇天の前に、「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いた」というルカ福音書の記述(24章45節)から採られている。

【教皇フランシスコ自発教令『アペルイト・イッリス』(Aperuit illis「彼らに開いた」の意)の全文】(Sr.岡立子による試訳)】
1.「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、言われた」(ルカ福音書24 章45節)。これは、復活の主によって成し遂げられた、昇天前の最後のジェスチャーの一つです。

 主は弟子たちが共に集まっているところに現れ、彼らと共にパンを裂き、彼らの心(精神、頭脳)を聖書の理解へと開きました。おびえ、失望していた彼らに、過越の神秘の意味を明らかにしました:つまり、御父の永遠の計画に従って、イエスは、罪人の回心と赦しを差し出すために、苦しみ、死者の中から復活しなければなりませんでした(ルカ福音書24章46- 47節参照);そして、この救いの「神秘」の証人となる力を与えるであだろう聖霊を約束します。

 復活の主、信じる者たちの共同体、聖書の関係は、私たちのアイデンティティーにとって、非常にに重要です。私たちを導く主がいなければ、聖書の深みを理解することは不可能です。しかしまた、その反対も真実です:聖書がなければ、イエスの使命(ミッション)の出来事と、世における教会の出来事は、不可解なままです。

 正当にも、聖ヒエロニモは書くことができました:「聖書を知らないことは、イエスを知らないことである」(In Is.,Prologo: PL 24,17)。

2.慈しみの特別聖年の終わりに、私は「神のみことばに完全に捧げられた主日」を考えることを願いました。

 「主とその民との間の対話から生まれ出る、くみ尽くすことのできない豊かさを理解するために」(使徒的書簡『あわれみあるかたと、あわれな女』Misericordia et misera 7項)。典礼暦の一つの主日を、特別に、神のみことばに捧げることは、何よりも先ず、教会、そして私たちにも、ご自分のみことばの宝庫を開ける復活の主のジェスチャーを追体験させることを可能にします-私たちが、世において、この汲み尽くせない豊かさを告げる者となることが出来るように-。

 それに関する聖エフレムの教えが思い起こされます:「主よ、誰が、あなたの言葉の中の、たった一つの言葉のすべての豊かさを理解することが出来るでしょうか。私たちが理解出来るものよりも、見逃されるものの方が、はるかに多いのです。

 私たちはまさに、泉から水を飲む、のどの渇いた者のようです。あなたの言葉は、多くの異なる側面を差し出します。それを研究する人々の観点が多くあるように。主は、ご自分の言葉を、多彩な美しさで色づけました。それを極める人々が、彼らが望むものを観想することが出来るように。主は、ご自分の言葉の中に、すべての宝を隠しました。私たち一人ひとりが、観想しているものの中に、豊かさを見つけるように」(Commenti sul Diatessaron, 1,18)。

 ですから、私はこの書簡をもって、神の民の側から届いた、全教会が目的において一致して、「神のみことばの主日」を共に祝うことができるようにという、多くの要求に答えようと思います。キリスト共同体が、その日々の存在における神のみことばの偉大な価値に集中する時を経験するのは、すでに共通の実践になっています。

 さまざまな地方教会において、聖書が、これまで以上に、信徒たちにアクセスしやすくなるように、豊かなイニシアティブがあります-こうして、信徒たちが、このように大きな賜物に感謝し、毎日それを生きることに献身し、一貫性をもってそれを証しするように-。

 第二バチカン公会議は『啓示憲章』(Dei Verbum)をもって、神のみことばの再発見に大きな弾みを与えました。つねに黙想し、生きるに値するこれらのページから、聖書の性質(本質)naturaが明確な方法で浮かび上がります:世代から世代へと継承されること(第二章)、その神的インスピレーション(第三章)-それは旧約と新約聖書を包括します(第四、五章)-、その、教会の生活における重要性(第六章)。

 この教えを促進するため、ベネディクト十六世は、2008年、「教会の生活と使命(ミッション)における神のみことば」というテーマで、司教会議(シノドス)を招集し、その後、わたしたちの共同体にとって不可欠の教えを形成する、使徒的勧告『主のことば』Verbum Dominiを公布しました1。この文書の中で、特別な方法で、神のみことばの遂行的(すいこうてき)特徴(il carattere performativo)ー特に、典礼的行為において、その固有な秘跡的特徴が浮かび上がる時に-が深められました。

 したがって、私たちの民の生活の中で、この、主がご自分の花嫁に、決して疲れることなく向ける生ける神のみことば-愛と信仰の証しにおいて成長するために-との決定的な関係が欠けることがないようにすべきです。

3.ゆえに、年間第三主日が、神のみことばを祝い、黙想し、広めることに捧げられることを制定します。この「神のみことばの主日」は、このようにして、年間の中の適切な時-私たちが、ユダヤ人との絆を強め、キリスト者の一致のために祈るよう招かれている時-に置かれます。

 それは単なる偶然ではありません:「神のみことばの主日」を祝うことは、エキュメニカルな価値を表しています。なぜなら、聖書は、耳を傾ける者たちに、真の一致、堅固
な一致に達するために辿るべき道を示すからです。

 各共同体は、この「主日」を、祭日として生きるための方法を見出すようにしてください。ですから、聖体祭儀において、聖なる書を祝聖する(intronizzare()ことは大切でしょう-このようにして、会衆に、神のみことばがもっている規範的価値(il valore normativo)を明白にするために-。この主日に、特別な方法で、その宣言を明らかにすること、また、主のみことばに与えられる奉仕を強調するために説教を適応させることは有益でしょう。

 司教たちは、この主日に、朗読奉仕者(Lettorato)の儀式を執り行うこと、または、同じような職務を委託することができます-典礼における神のみことばの宣言の重要性を呼び起こすために-。実際、何人かの信徒たちを、適切な準備をもって、みことばの真の告知者となるよう準備することに、あらゆる努力を惜しまないことは本質的です-侍者や、聖体奉仕者のために、すでに一般的に起きているように-。

 同じ尺度で、教区司祭たちは、聖書、またはその一つの書を、全会衆に届けるための形を見出すことが出来るでしょう-日々の生活の中で、継続的に、朗読、聖書を深めること、聖書とともに祈ることの大切さを浮き立たせるために-「霊的読書(レクチオ・ディビナlectio divina)」への特別な言及とともに-。

4.イスラエルの民の、バビロン捕囚後の母国への帰還は、律法の書の朗読によって、意味深い方法で印されました。聖書は私たちに、ネヘミヤ記の中で、その時の感動的な描写を差し出しています。民はエルサレムの水の門の前の広場に集まり、律法の書に耳を傾けました。この民は、追放によって離散されていましたが、今、聖書の周りに、あたかも「一人の人(un solo uomo)」のように集まりました(ネヘミヤ記8章 1節)。

 聖なる書の朗読に、民は「耳を傾け」ました(同3節)-この言葉の中に、経験した出来事の意味を見出す(回復する)ことが出来ると知りながら-。これらの言葉の宣言への反応は、感動と涙でした:「[レビ人たちが]神の律法の書を読み、それを訳し、説明したので、1 Cfr AAS 102 (2010), 692-787. 2 「こうして、みことばの秘跡的性格を、聖別されたパンとぶどう酒の形態のもとでのキリストの現実の現存との類比によって理解することができます。私たちは、祭壇に近づき、聖体の会食にあずかることにより、本当にキリストの体と血にあずかります。典礼において神の言葉が朗読されることにより、キリストご自身が私たちとともにいて、私たちに語りかけ、ご自分の言葉に耳を傾けることを望んでおられることを私たちに悟らせてくれます(『主のことば』56項)。

 「民は朗読されたことを理解した。総督ネヘミヤと、祭司であり律法学者であるエズラと、民に説明したレビ人たちは、民全体に向かって言った、『今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日である。嘆いたり、泣いたりしてはならない』。律法の言葉を聞いて、民はみな泣いていたからである。[…]『悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力である』」(ネヘミヤ記8章8-10節)。

 これらの言葉は、偉大な教えを含んでいます。聖書は、ただ、何人かの財産でも、ましてや、少数の特権的な人々のための全集でもありません。それは、何よりも先ず、このみ言葉を聞き、み言葉の中に自らを認める(自分自身を認識する)ために招集された民に属しています。

 しばしば、聖なる書を独占しようとする傾向が起こります-それを、いくつかのサークル、または、選抜されたグループに追いやりながら-。そうであってはなりません。聖書は、主の民の書です。民は、それを聞くことにおいて、離散や分裂から一致へと通過します。神のみことばは、信徒たちを一つにし(結び付け)、一つの民とします。

5.聞くことから生まれる、この一致において、牧者たちは、第一に、聖書を説明し、すべての人が理解できるようにする、大きな責任をもっています。

 聖書は民の書なので、み言葉の奉仕者となる召命をもっている人々は、それを自分の共同体にアクセス可能にする必要を、強く感じるべきです。

 説教は、特に、まったく特有な役割を帯びています。なぜなら「秘跡的ともいえる性格(un carattere quasi sacramentale)」をもっているからです(使徒的勧告『福音の喜び』142)。聞いている人に適した簡単な言語で、神の言葉の深みに入らせることは、司祭に、「善の実践へと励ますために主が用いたイメージの美しさ」(同)を発見させることを可能にします。これは、見逃すべきではなく、司牧的機会です!

 実際、私たちの信徒たちの多くにとって、これは、神のみ言葉の美しさを捉え、彼らの日常生活に関連しているのを見るための唯一の機会です。ですから、説教の準備のために適切な時間を捧げることが必要です。聖なる朗読への解釈は、即興的には出来ません。

 私たち説教者たちには、学者ぶった説教、または無関係な話しで、過度に広げない務めが求められます。私たちが、聖なる書について黙想し、祈るために留まるとき、聞いている人の心に届くよう、心から語ることが出来ます-把握され実を結ぶ、本質を表現することによって-。

 聖書に時間と祈りをささげることに、決して疲れないようにしましょう。それが、「人間の言葉としてではなく、神の言葉として」受け入れられるために(テサロニケの信徒への手紙一2章13節)。

 カテキスタもまた、信仰において成長することを助けるための彼らの任務のために、聖書との親しさと勉強を通して、自分自身を刷新する緊急性を感じることは良いことです-それは、彼らの言葉を聞く人々と神のみことばとの間の、真の対話を促進することが出来ます-。

6.家の中に閉じこもっていた使徒たちの所に行き、彼らを聖書の知識に開く(ルカ福音書24章 44- 45節参照)前に、復活の主は、エルサレムからエマオへ行く道を歩いている、二人の弟子に現れます(同13-35節参照)。

 福音記者ルカの話は、それが復活と同じ日、つまり日曜日であると記しています。これらの二人の弟子たちは、最近のイエスの受難と死の出来事について話し合っています。彼らの歩みは、イエスの悲劇的な最後への悲しみと失望で印されています。

 彼らはイエスの中に、解放をもたらすメシアを期待していましたが、今、十字架刑のスキャンダルを前にしています。復活の主ご自身が、節度をもって近づいてきて、弟子たちと共に歩き始めました。しかし、彼らはイエスであることに気付きませんでした(同16節参照)。道を歩きながら、主は彼らに問いかけました。彼らに、ご自分の受難と死の意味が分かっていないことを悟らせながら。彼らを「物わかりが悪く、心の鈍い者たち」(同25節)と呼び、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたってご自分について書かれていることを、二人に説明された」(27節)。

 キリストは、最初の聖書解釈者です!旧約聖書が、キリストが実現するだろうことを先取りしていただけでなく、キリストご自分が、その「みことば」に忠実であることを望みました-キリストのうちに完成を見出す、唯一の救いの歴史を明らかにするために-。

7.このように、聖書は聖なる書であるので、キリストについて語り、キリストを、栄光に入るために苦しみを通過しなければならなかった方として告げます(26節参照)。一部だけでなく、聖書全体がキリストについて語っています。

 彼の死と復活は、聖書がなければ解読することは出来ません。そのため、最も古代の信仰宣言は、キリストが「聖書に書いてあったとおりに私たちの罪のために死んでくださり、葬られ、聖書に書いてあったとおりに三日目に復活し、ケファに現れ、次いで十二人に現れた」(コリントの信徒への手紙一15章 3- 5節)と強調しています。

 聖書は、キリストのことを語っているので、キリストの死と復活が神話ではなく、歴史に属していること、また、彼の弟子たちの信仰の中心にあると信じることを可能にします。聖書と、信じる者たちの信仰との間には深い絆があります。信仰は聞くことから来て、聞くことはキリストの言葉に中心を据えているので(ローマの信徒への手紙10章17節参
照)、そこから、信じる者たちが、典礼の行為においても、祈りや個人的黙想においても、主のみ言葉に耳を傾けることを確保しなければならない、という緊急性と重要性が生じます。

8.復活の主の、エマオの弟子たちとの「旅」は、夕食で結ばれます。謎の旅人は、二人が彼に向けた執拗な要求を受け入れました:「一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」(ルカ福音書24章29節)。イエスは、食卓に座り、パンを取り、賛美をささげて(祝福を唱えて)、それを裂いて、彼らに渡しました。この瞬間、彼らの目は開かれ、彼らはイエスであることに気付きました(同31節参照)。

 この場面から、私たちは、聖書と聖体祭儀(Eucaristia)の関係が、どんなに切り離せないものであるかを理解します。第二バチカン公会議は教えています:「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってきた。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓から命のパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからである」(『啓示憲章』21項)。

 聖書と、聖体祭儀に、絶え間なくあずかることは、属している人同士が、互いに認め合うことを可能にします。私たちは、キリスト者として、歴史の中を歩む唯一の民です-私たちのただ中にいる、私たちに語りかけ、私たちを養う主の現存に強められて-。聖書に捧げられた日が、「一年に一回(una volta all’anno)」ではなく、一年全体のための機会(una volta per tutto l’anno)となるように。

 なぜなら、私たちは、聖書と、信じる者たちの共同体の中で、絶え間なく「み言葉」と「パン」を裂く復活の主と、親しく親密になる、緊急な必要をもっているからです。そのため、私たちは、聖書との持続的な親密さの中に入る必要があります。そうでなければ、心は冷たくなり、目は閉じたままになります-私たちがそうである、無数の無知(盲目)の形によって打たれて(colpiti come siamo da innumerevoli forme di cecità)-。

 聖書と諸秘跡は、互いに切り離せません。秘跡が、「み言葉」によって導入され、照らされるとき、それらは歩みの目的として現れます-その中で、キリストご自身が、ご自分の救いのわざに気づくよう、頭(知性)と心を開きます-。このコンテクスト(文脈)において、黙示録から来る教えを忘れないことが必要です。そこでは、主が、戸口に立って叩いていることと教えます。もし誰かが、キリストの声を聞いて戸を開くなら、キリストは、共に食事をするためにそこに入ります。

 キリスト・イエスは、聖書を通して私たちの戸を叩いています。もし、私たちが耳を傾けて、頭と心の戸を開くなら、その時、キリストは私たちの生活(人生)の中に入り、私
たちと共に留まります。

9.テモテへの第二の手紙の中で-それは、何らかの方法で、パウロの霊的遺言を形成しています-、聖パウロは、彼の忠実な協力者に、絶え間なく聖書に親しむよう勧告しています。

 使徒は、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするために有益」であると確信してます。この、パウロのテモテへの勧告は、公会議の『啓示憲章』が、聖書の霊感についての偉大なテーマを取り扱った土台を形成しています-その土台から、特に、聖書の救済的目的(la finalità salvifica)、霊的側面l(a dimensione spirituale)、受肉の原理)(il principio dell’incarnazione)が浮かび上がります-。

 特に、パウロのテモテへの勧告を呼び起こしながら、『啓示憲章』は強調します:「聖書は、神がわれわれの救いのために聖なる書として書き留められることを欲した真理を堅固に忠実に誤りなく教えるものである」(11項)。聖書は、キリストにおける信仰による救いを考慮して教えているので(テモテへの手紙二3章15節参照)、そこに含まれている諸真理は、私たちの救いに役立ちます。聖書は、歴史書の全集でも記録でもなく、全面的に、人間の総体的救い(la salvezza integrale della persona)に向けられています。

 聖書に含まれているさまざまな書の、否定できない歴史的ルーツ(根源)は、この原初の目的を忘れさせるものであってはなりません:私たちの救い。すべては、聖書の本質自身の中に刻み込まれている、この目的に向けられています。聖書は、救いの歴史として成り立っています。その中で、神は語り、行動します-すべての人々に会いに行くために、彼らを悪から、死から救うために-。

 そのような救済的目的に達するために、聖書は、聖霊の働きのもとに、人間のやり方で書かれた人間の(人々の)言葉を、神の「み言葉」に変容させます(『啓示憲章』12参照)。聖書における聖霊の役割は本質的です。聖霊の働きなしには、原理主義的な解釈を容易にしながら、書かれたテキストだけの中に閉じこめられる、警戒すべき危険があります。

 そこから離れる必要があります。聖なるテキストがもっている、インスピレーションを受けた、ダイナミック(動的)、霊的な性格を裏切らないように。使徒が思い起こしているように、「『文字』は人を殺し、『霊』は人を生かす」(コリントの信徒への手紙二3章6節)。ゆえに、聖霊は聖書を、神の生けるみ言葉―ご自分の聖なる民の信仰の中に経験され、継承された―に変えます。

10.聖霊の業は、単に聖書の形成に関するだけではなく、神のみことばを聞くことに身を置く人々の中にも働きます。公会議教父たちの断言は重要です。彼らによると、聖書は「それが書かれたのと同一の霊において読まれかつ解釈されなければならない」(『啓示憲章』12項)。イエス・キリストと共に、神の啓示は、その成就、充満に達しました。

 しかし、聖霊はその業を継続します。実際、聖霊の業を、神の霊感を受けた聖書の性格と、そのさまざまな著者にだけ限定するのは少なすぎるでしょう。ゆえに、ご自分の独自のインスピレーションの形を実現し続ける聖霊の業に、信頼することが必要です―教会が聖書を教えるとき、教導職が聖書を公的に解釈するとき(同、10項)、また、一人一人の信者が、それを、自分の霊的規範(la propria norma spirituale)とする時に―。

 この意味で、私たちはイエスが言った言葉を理解することができます―ご自分のたとえ話の意味を把握したと認めた弟子たちに―:「天の国について学んだ学者はみな、新しいものと古いものを、自分の倉から取り出す、一家の主人に似ている」(マタイ福音書13章 52節)

11.最後に、『啓示憲章』は明確にしています:「かつて永遠なる父のみ言葉が人間の弱さをまとった肉を受け取って人間と同じようなものになったのと同様に、神の言葉は人間の言語で表現されて人間の言葉と同じようにされた」(13項)。それは、神のみことばの受肉が、神のみ言葉と、人間の言語との間の関係に、形と意味を与えた―その歴史的、文化的状態とともに―、と言うようなものです。

 「伝統」-それもまた神のみ言葉です(9項参照)―が形を取ったのは、この出来事においてです。聖書と「伝統」を分離する危険が、しばしばあります―それらが一緒に「啓示」の唯一の源泉であることを理解せずに―。

 前者の、書かれた性格は、完全に生ける言葉であるということを何も奪いません(Il carattere scritto della prima nulla toglie al suo essere pienamente parola viva);世代から世代にわたって絶え間なくそれを継承している、教会の生ける伝統も、「信仰の最高の基準」(21項)として、あの聖なる書を所有しています。

 また、書かれたテキストとなる前に、聖書は口伝で継承され、それを自分たちの歴史、他の多くの民のただ中でのアイデンティティーの原則として認識した民の信仰によって、生き生きと保たれてきました。ゆえに、聖書的信仰は、本にではなく、生けるみ言葉に土台を据えています。

12.聖書は、それをもって書かれたのと同じ霊において読まれる時、常に新しく残ります。旧約聖書は、決して、かつてあった古いことではなく、新約聖書の一部です-なぜなら、それにインスピレーションを与えた唯一の霊によって、すべてが変えられるからです-。

 聖なる書全体は、一つの預言的役割をもっています:それは、将来に関するのではなく、この「み言葉」で養われている人の「今日」に関するものです。イエスご自身、ご自分の任務の始めに明言しています:「この聖書の言葉は、あなた方が耳にしたこの日[今日]、成就した」(ルカ福音書4 章21節)。日々、神のみことばに養われている人は、自分が出会う人々と同時代であるイエスのようになります;過去への不毛なノスタルジー(郷愁)に陥ることも、将来への肉体のない(具体的ではない)ユートピアに陥ることもありません。

 聖書は、その預言的な業を、先ずそれを聞いている人に対して行います。聖書は甘美さと苦さです。預言者エゼキエルが、主から、巻物の書を食べるように招かれたときの言葉が思い起こされます:「それはわたしの口に、蜜のように甘かった」(同3章 3節)。福音作者ヨハネも、パトモスの島で、巻物を食べる、エゼキエルと同じ経験をしますが、さらに詳細を加えます:「口には蜜のように甘かったが、食べてしまうと腹には苦かった」(10章10節)。

 神のみ言葉の甘美さは、私たちの人生において出会う人々を、それに参与させるように私たちを急き立てます―それが含んでいる希望の確信を表すために(ペトロの手紙一3章 15-16節参照)―。他方、苦さは、しばしば私たちにとって、一貫性をもってそれを生きることがどんなに難しいかを実証することから、また、人生に意味を与えるために有効ではないと見なされ、それが拒否されることを体験することから来ます。

 ですから、決して「神のみ言葉」に慣れてしまわないこと、私たちの神との関係、兄弟たちとの関係を、深く見出し、それを生きるために、み言葉で養われることが必要です。

13.聖書から来るさらなる挑戦は、愛の業(la carità)に関することです。神のみ言葉は、ご自分の子らに愛の業において生きるよう求める、御父の慈しみ深い愛を、絶え間なく呼び起こします。

 イエスの生涯は、この神の愛の、完全で満ち溢れる表現でした。イエスは何もご自分の為に取って置かず、ご自身を、制限なく、すべての人々に差し出しました。貧しいラザロのたとえ話の中に、私たちは貴重な示唆を見出します。ラザロと金持ちが死んだ時、金持ちは、貧しい人がアブラハムの懐にいるのを見て、自分の兄弟たちに彼を遣わし、彼らに、隣人への愛に生きるよう忠告するようよう頼みます―彼らが同じ苦悩を味わうことがないように―。

 アブラハムの答えは辛辣です:「彼らにはモーセと預言者たちがいる、彼らの言うことを聞けばよい」(ルカ福音書16章29節)。慈しみを実践するために、聖書に耳を傾けること:これは私たちの人生の前に置かれた、大きな挑戦(課題)です。神のみ言葉は、私たちを、窒息させ、不毛に導く個人主義から脱出させるために、私たちの目を開くことが出来ます。分かち合いと連帯の道を開け放って。

14.イエスと弟子たちの関係の中で、最も意味深いエピソードの一つは「主の変容」の物語です。

 イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネと共に、祈るために山に上ります。福音作者たちは、イエスの顔と衣が輝き、二人の人がイエスと話していたことを思い出させます:モーセとエリヤ、彼らはそれぞれ、律法と預言者、つまり聖書を擬人化しています。このビジョン(幻)へのペトロの反応は、喜ばしい驚きに満ちています:「先生、私たちがここにいるのは、素晴らしいことです。三つの仮の庵を造りましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのために」(ルカ福音書9章33節)。その時、雲がその影で彼らを包み、弟子たちは恐れます。

 主の変容は、捕囚からの帰還の後、エズラとネヘミヤが民に聖なる書を読み聞かせた、幕屋祭を思い起こします。同時にそれは、受難のスキャンダルへの準備において、イエスの栄光、主の現存の象徴である弟子たちを覆った雲からも呼び起こされる、神の栄光を先取りします。

 この、主の変容は、聖書の変容に似ています―それは、信じる者たちの生活を養うとき、自身を超越します。『主のことば』が思い起こしているように:「聖書のさまざまな意味の間の関係を再発見するうえで、文字から霊への移行を捉えることが不可欠です。この移行は自動的でも自然なものでもありません。むしろ私たちは文字を乗り越える必要があります」。

 神のみ言葉の受容の歩みにおいて、主から告げられたことが成就すると信じたので、幸いと認められた(ルカ福音書1章45節参照)主の母が、私たちに寄り添います。マリアの幸い(beatitudine)は、イエスが、貧しい人、苦しむ人、柔和な人、平和をもたらす人、迫害されている人々に向かって発した、すべての幸いに先立ちます。なぜなら、それは、他のどんな幸いにも必要な条件だからです。

 貧しい人は、貧しいから幸いなのではありません。その人は、マリアのように、神のみ言葉が成就することを信じる時、幸いになります。そのことを、偉大な弟子であり、聖書の先生、聖アウグスチヌスが思い起こしています:「群衆の中の誰かが、熱意にかられて叫びました:『あなたを宿した胎は、何と幸いなことでしょう』。そしてイエスは言います:『むしろ幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人々である』。こう言うかのように:あなたが幸いと呼ぶ、私の母も、まさに、神の言葉を守ったから幸いなのです。

 彼女の中に、み言葉が肉(人)となり、私たちの間に住んだからではなく、神のみ言葉そのもの―それを通して彼女は造られ、そして彼女の中で肉(人)となった―を守ったから幸いなのです」(『ヨハネの福音について』10章3節)。

 み言葉ことばに捧げられた主日が、神の民の中で、聖書との、熱心で敬虔な親しさを育てることが出来ますように。すでに、古代において、聖書の作者が教えていたように:「その言葉はあなたのすぐ近くにあり、あなたの口に、あなたの心にあるので、あなたはそれを行うことができる」(申命記30章14節)。

                   ローマ、ラテラノ大聖堂にて、2019年9月30日 聖ヒエロニモ帰天1600周年の始まりに フランシスコ

(聖書の引用の日本語訳は原則として「聖書協会 共同訳」とし、若干の編集を加えてあります「カトリック・あい」)

2022年1月21日

・カトリック、東方教会、プロテスタント共催のキリスト教一致祈祷週間18日から

 2022年のキリスト教一致祈祷週間は、2022年1月18日(火)~25日(火)、全世界で行われます。今回のテーマは、「私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ福音書2章2節)です。

2022年キリスト教一致祈祷週間ポスター 毎年、キリスト教一致祈祷週間で使われる資料は、世界教会協議会(WCC)と教皇庁キリスト教一致推進評議会の共同事業として、各国から選ばれたキリスト教諸教会が協力して作成しています。

 今年はレバノンのベイルートを拠点とする中東教会協議会が、新型コロナウイルス感染症の世界的大感染のためオンラインミーティングで作業を進めました。

 政治・経済の不当な抑圧によって人権が踏みにじられる世情にあって、特に2020年8月4日にベイルートで起こった爆発事故で人的・物的にも影響を受ける中で選ばれた今年のテーマには「この困難な時代にあって、私たちはこれまで以上に暗闇の中に輝く光を必要としています。そして、その光はイエス・キリストのうちに示されたと、キリスト者は宣言します」という決意が込められています。

 日本でも、世界に広がる教会と心を合わせてキリスト者の一致を祈るため、カトリック中央協議会と日本キリスト教協議会が共同で翻訳した資料を小冊子『キリスト教一致祈祷週間』として発行し、ポスターとともにご案内しています。小冊子には以下の内容が盛り込まれています。

・その年のテーマの解説 ・エキュメニカル礼拝式文 ・八日間の聖書の黙想と祈り ・作成担当国のエキュメニズムの現状

 この小冊子は、キリスト教一致祈祷週間の期間だけでなく、一致を求める個人の祈りや共同の祈りのために年間を通して用いることができるよう配慮されています。

 お申込みご希望の方は、希望送付先の氏名・団体名・所在地・電話番号・FAX 番号・メールアドレス・希望部数を明記の上、PDFのFAX申込書にてお申し込みください(FAX申込書)。在庫に限りがありますので、お早めにどうぞ!
小冊子およびポスターはともに無料ですが、送料のみ受取人払いとなっています。

 カトリック中央協議会エキュメニズム部門 (カトリック側受付窓口)135-8585 東京都江東区潮見2-10-10 Tel 03-5632-4445 Fax 03-5632-4465

 (カトリック中央協議会)

2022年1月16日

・教皇は、有力”問題司教”の定年前辞意表明にどう対応するか?(LaCroix)

(2021.11.30 LaCroix   Loup Besmond de Senneville | France)

 パリ大司教区長のミシェル・オペティ大司教がこのほど教皇フランシスコに辞任を申し出て、教皇とローマ教皇庁を困惑させている。

 司教や司祭が関与する”事件”ー権力の乱用、精神的、性的虐待、金銭上の不正行為などーに対処するのは、バチカンの当局者の日常業務のひとつだ。”火事”はほぼ毎日世界のどこかで起きており、バチカンの担当部署ー聖職者省、司教省、奉献・使徒生活会省、福音宣教省などーが調査に乗り出す。そしてそれが聖職者による未成年者の性的虐待に関わる問題である場合には、教理省が担当することになる。

 フランスの雑誌「ル・ポワン」が先週、ミシェル・オペティ大司教の統治と私生活についての問題を取り上げた時、その情報はすぐに教皇フランシスコ自身に伝えられた可能性がある。司教省の担当者が”自動的”に予備調査を開始することになる。そして、まず、現地フランスに駐在するバチカン大使から話を聴く。大使は、駐在国の教会に起きた問題の真偽を検証し、教会にどれほどの影響を与えているか調べる責任がある。

 (注:パリ大司教区は、100以上の小教区と1200人もの司祭を抱える大教区。その動静は、フランスの教会だけでなく、政治、社会にも大きな影響力を持つ。オペティ大司教は1951年生まれの70歳。大学卒業後、11年間医師を務めた後に神学校に入り、44歳で司祭に叙階され、9年後の2006年にパリ補佐司教となった後、2014年にナンテールの司教、そして2017年にパリ大司教にそれぞれ教皇フランシスコに任命されるという”スピード出世”を遂げていた。「カトリック・あい」)

 

*調査結果を基にした司教の処遇はあくまで教皇の判断

 だが、ドイツのケルンで起きている問題に関してしたように、バチカンが一人ないしそれ以上の調査担当チームを現地に送り、近隣の教区の司教たちや教会関係者たちも含めて調査を行うことがある。ただし、性的虐待などの最も深刻な問題が表面化した場合であっても、これに対応する常設の調査チームを、バチカンが持っているわけではない。「私たちはすべてを”遠隔操作”で処理しますが、調査担当者の独立性に問題が生じることがあります。特に遠隔の地域の場合、その可能性がある。しかし、他の手段はありません」とバチカン関係者は語る。

 問題に関係するのが司教の場合、最終的な判断は教皇自身に委ねられる。司教省、最も深刻な問題がある場合は教理省が調査し、結果を教皇に提出する。担当省は、調査結果を基にした司教の処遇などについて教皇に提案はできるが、最終的な判断は、任命と同じように、常に教皇が行う。

*”辞表受理”を拒んだ教皇への圧力への対応は

 当然ながら、司教が辞任を申し出たことが公になれば、調査には、そうでない場合よりも細心の注意が必要になる。そうした事態は、最近、何度か起きている。フランスで最も注目されたのは、リヨン大司教区のフィリップ・バルバラン枢機卿が、悪名高い小児性愛者の司祭の行為を隠蔽したとして非難され、2019年3月に辞任を申し出たケースだ。

 ドイツでもミュンヘン大司教区のラインハルト・マルクス枢機卿が昨年6月に、「過去数十年にわたるドイツの聖職者による性的虐待の大醜聞の責任の一端を負いたい」と教皇に辞表を提出した。ケルン大司教区のレイナー・マリア・ウォルキ枢機卿は「自分に、ケルン大司教区での性的虐待への対処に誤りが認められれば、教区長を辞任する」と述べている。

 だが、教皇は当初、これらの司教の辞表を受理することを否定し、多くのメディアから批判を受け、カトリック司祭や信徒たちを当惑させた。その結果、教皇は、バルバラン枢機卿が常の「司教定年」を迎える6年前の69歳で辞任することを認めたが、マルクス枢機卿には現在のポストを留まるように求め、ウォルキ枢機卿には今後6か月を「精神的な職務停止」の期間とするように命じている。

 教皇を困難な立場に置くリスクを十分に認識していたオペティ大司教は、自分の辞表が公けになることを望んでいなかったが、先週の金曜日に、中道右派のパリの日刊紙「Le Figaro」が、「70歳の大司教が義務を放棄することを申し出た」と報じた。

 教皇フランシスコに近い人々は、「教皇は、公けの圧力を受けて判断を余儀なくされることを、何よりも嫌っておられる」と主張している。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

LA CROIX international is the premier online Catholic daily providing unique quality content about topics that matter in the world such as politics, society, religion, culture, education and ethics. for post-Vatican II Catholics and those who are passionate about how the living Christian tradition engages, shapes and makes sense of the burning issues of the day in our rapidly changing world. Inspired by the reforming vision of the Second Vatican Council, LCI offers news, commentary and analysis on the Church in the World and the world of the Church. LA CROIX is Europe’s pre-eminent Catholic daily providing quality journalism on world events, politics, science, culture, technology, economy and much more. La CROIX which first appeared as a daily newspaper in 1883 is a highly respected and world leading, independent Catholic daily.

 

2022年1月10日

(解説)2022年―教皇フランシスコにとって重要な年に(LaCroix)

(2022.1.3 LaCroix  Loup Besmond de Senneville | Vatican City)

 教皇フランシスコにとって、2022年はどのような年になるのだろうか?ーこの問いに答えるのは、これまでになく難しい。いったんは沈静する兆しを見せた新型コロナウイルスの世界的大感染がまた深刻化し、世界のさまざまや活動の計画が影響を受ける恐れが強まっているためだ。

 だが、先月85歳になった教皇は、そうした中にあっても”活動”を停止させることなく、教会における自らの役割を果たし続ける覚悟をしているようだ。

*コロナ禍で先行き不透明だが、外国訪問を重視

 実際、彼はすでに多くの取り組みとプロジェクトを発表している。2つのイタリアの日刊紙LaStampaとLaRepubblicaとのクリスマスのインタビューで、教皇は「神の思し召しのままに」、外国訪問を続けることを確認した。

 公式発表がまだないが準備が進んでいる計画がいくつかある。教皇の外国訪問の準備を担当するジョージ・ジェイコブ・クーバカド師は現在、いくつかの計画に取り組んでおり、その中には、すでにメディアに伝えられている夏のレバノンとコンゴ民主共和国の訪問がある。8月の初めにスペインのコンポステーラ巡礼地のカミノに行き、12月にハンガリーを訪問するという話もある。教皇ご自身はカナダ政府からの招待を受け、秋にカナダを訪れる可能性が高い、とされている。

 教皇はかねてから、南スーダンへの訪問を希望されていたが、実現するかまだ分からないが、同国の当局者は先月、バチカンのギャラガー国務省外務局長と会った際、教皇の訪問を強く希望していることと伝えている。教皇は、現地で進められているスーダン暫定政府と反政府勢力の和平交渉が大幅に進展した場合に、南スーダンを訪問すると繰り返し述べておらる。

 また、新型コロナウイルスの世界的大流行が起きる前に計画されていた東ティモールとパプアニューギニアへの訪問も、まだ消えていないと考えられているが、コロナ感染がいつ終息するのか見通しが立たないことに加えて、85歳になられた教皇の健康状態にも配慮する必要があり、とくに一週間以上にわたる外国訪問は慎重に考えないといけない。

*2月にフィレンツェへ、地中海周辺地域の要人と会見ー難民・移民問題を念頭に

 近い所では、教皇は、2月27日にイタリア中部の都市フィレンツェを訪れ、地中海周辺の都市の市長や司教たちと会う予定を決めている。先月初旬のキプロスとギリシャ訪問で示されたように、教皇は特に移民・難民問題に注意を払っておられ、フィレンツェ訪問も、地中海周辺の国々の関係者に(移民・難民問題の原因となっている各地での紛争の解決と)平和への取り組みを促す機会となりそうだ。

 

*新枢機卿たちを任命

 多くの外国訪問予定のためにバチカンの内政に手を抜かれることはない。教皇は今年の早い時期に、新たな枢機卿たちを任命するとみられており、そのための枢機卿顧問会議を招集される見通しだ。チリのリカルド・エザティ・アンドレロ枢機卿が1月7日に80歳になったことで、教皇選出のコンクラーベが今、開かれた場合の選挙人の数は象徴的な数字である120人を割り込む。新しい枢機卿の任命権は教皇のみにあり、その準備のための枢機卿会議の日程は通常、直前になるまで発表されない。

*いよいよバチカン改革の新規約発表か

 これは、バチカン改革を正式に実施するための新規約の公表も同様だ。規約文書の決定、公表は、ここ数年の間、延び延びになってきたものだが、すでに改革のために規約決定の法的手続きは終えているものと見られている。「聖ペトロの使徒座」の祝日、2月22日に公表される、との観測もある。

*来年10月の世界代表司教会議に至る”シノドスの道”へも全力

 また教皇は、昨年10月に始めた”シノドスの道”を進めるためにあらゆる努力を払われることになるだろう。教皇は、カトリック教会の未来を、世界の教会共同体のあらゆるレベルでの「synodality(共働性=共に歩む)」に賭けておられる。現在の世界規模で進められている”シノドスの道”は、2023年10月にローマで予定される全世界代表司教会議に至る重要な準備過程だ。

 教皇が目指しておられるのは、世界のすべてのカトリック教徒が参加した対話と互いの声を聴き合うことを基に、教会に新たな力が生まれるよう、刺激することである。

 先月のクリスマス前のバチカン高官との会合で、教皇は、それを新しい「スタイル」と呼ばれた。ローマの関係者の中には、この”シノドスの道”を第二バチカン公会議と同列に置く受け止め方がある。

 それは、教皇が手厳しく批判する「聖職者主義」を基礎に置いた”政策決定方式”を大きく揺さぶることになるからだ。もっと重要なことは、”シノドスの道”を共に歩む過程で、”現場”の信徒たちから特定の問題が引き起こされる可能性があることである。

 いずれにしても、世界中の教区は夏までに、自分の教区での話し合いの内容をまとめ、各国の司教協議会に報告し、さらに報告のまとめは、欧州、アジアなど各地域の司教協議会連盟に上げられる。またシノドス事務局からの最初のテキストが今秋に出版され、各地域での連盟での話し合いの基になる。

*司教省長官主催のシンポジウム-司祭職の課題など議論

 また、2月17日から3日間、バチカンの司教省長官、マルク・ウエレット枢機卿が主宰する国際シンポジウムが予定されており、現在の世界の教会が抱えている司祭職に関する多くの問題と課題が議論されることになろう。教皇も出席してお話になる見通しだ。

*フーコーの列聖、ヨハネ・パウロ一世の列福を予定

 何人かの列福、列聖も大きな行事だ。5月15日には、シャルル・ド・フーコーの列聖が予定され、その4か月後に、”頬笑みの教皇”ヨハネ・パウロ一世が列福される。

*聖職者による性的虐待と仏独立調査委員会報告

 教皇はまた、世界的に衝撃を与えているフランスのカトリック聖職者による大規模な性的虐待に関する報告をまとめた同国の独立調査委員会(CIASE)のメンバーとの会合の実現へ、改めて日程調整するとみられている。

 だが、昨年10月に発表されたCIASEの報告書に対しては、性的虐待を受けたとされる人数について、バチカンの関係者の一部に強く批判する声があり、そのことで教皇がCIASEのメンバーお会いになることをおやめになる可能性もある。「教皇は彼らとお会いになるかも知れないが、今すぐということではないだろう。教皇は圧力を受けて行動されるのがお好きではないので」と、あるバチカン関係者は言っている。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

LA CROIX international is the premier online Catholic daily providing unique quality content about topics that matter in the world such as politics, society, religion, culture, education and ethics. for post-Vatican II Catholics and those who are passionate about how the living Christian tradition engages, shapes and makes sense of the burning issues of the day in our rapidly changing world. Inspired by the reforming vision of the Second Vatican Council, LCI offers news, commentary and analysis on the Church in the World and the world of the Church. LA CROIX is Europe’s pre-eminent Catholic daily providing quality journalism on world events, politics, science, culture, technology, economy and much more. La CROIX which first appeared as a daily newspaper in 1883 is a highly respected and world leading, independent Catholic daily.

 

2022年1月10日

・竹中会長の独占会見③止「『神を信じるのか、”代理人”を信じるのか』問い直せば、対処の道も見える」ー「性的虐待を許さない会」の③

*司教団には、被害者たちから「話を聴く」ことから始めてほしい

――司教団側の対応の鈍さとか、事件のを図るなやり方について、今の時点で「許さない会」としてご意見があれば、ぜひ伺っておきたいのですが。

竹中「まずは話を聴くところから始めましょう」と私の方では監督責任のある教会当局に呼び掛けています。が、公式にはなかなか、ね。だからカトリック中央協議会と関係ある方、修道院の関係者などと私的に会って話し合い、当面どうしたらいいか、意見交換をしているんです。

 こちらとして先方に何をしてほしいかというと、まず、いったいどういう事実があったのかという話を聴く機会を設けてほしい。また、カトリック司教協議会の事務局を含めた責任者の方たちに話す場を設定してほしい。今はZoomとかオンラインでも話を聴く機会を設けられるので、そういう場を協議会の研修機会として設定してほしい、ということを何人かの方に請願しています。

 その方たちは「司教協議会に出す」と言ってくれるのですが、それから1年以上経っているのに、全然、動きがありません。『やっぱりその方たちの個人的な努力だけでは、問題を隠蔽したい司教団の意思を突破できないのかな』と悲観的になっています。

――司教団の周辺を取材していての実感ですが、このところ運の悪いことに、司教団の意思統一が全くとれていないと感じられます。カトリック教会というのは、組織的には16の教区がそれぞれバチカンと直に繋がっていて、同国内でも教区同士の横の繋がりは、他教団に比べると希薄です。そこに約20年前、高松司教が教区の中に「新求道共同体」が運営する教皇庁認可の神学校を独自に置いたことを巡って、司教団が大きく割れちゃった。

 簡単に言うと、司祭養成機関を東京と福岡の伸学院体制から東京大神学院に1本化することに決めて高松の神学校を事実上排斥しローマに追い返したのですが、その過程で司教の中には、高松で叙階された司祭を自教区に引き取るという“裏取引”をする例が複数発生し、司教団の合意は画餅に帰してしまいました。司教団の総意として決定したことを司教自身が守らないようでは、司教協議会の意味がないではないかということになり、この出来事を境に、各司教が教区に引っ込んでしまった印象があります。
その中で〈日本の教会全体に関わること〉を考えようとすると、どうしても遅くなってしまいます。責任を取るべき立場の司教が定年を迎えてなお居座っている状態だと、「いつ辞めるが分からないトップの指示なんて聞く必要がないでしょ」という話になっちゃうんでしょうね。

*コロナ禍が対応進展の妨げにはなっているが

竹中 私が最初に行動を起こしたのは東京大司教に対してでしたが…… でもそこでは全然リアクションがなかったんです。それとは別に、修道会が独自に動いてくれて、少し救われた気がしました。

 実は私の事案についてテレビが報じた後、同じサレジオ会の施設出身者が「自分も被害を受けた」とテレビ取材に明かしています。それもVTRを後で送りますね。コロナ禍のなかで動きを封じられてはいますけれど、資料だけは集めているんです。私を追いかけているTBSの中谷という記者さんに「私の連絡先を、その方に教えてほしい」とお願いして、伝えていたんだけど、向こうがなかなか連絡を取りづらいようで、そこも止まっている状態です。

 そういえば青山で行った第1回集会の後、「児童養護施設の里親の集会」で、一人の女性に声を掛けられました。「自分も養護施設出身で、赤羽星ホームを出ている」と言うんです。私が自分に関する資料を渡したらその場で読んで、「実は私も、トマス・マンハルド神父を知っています」と仰った。彼女は赤羽星美ホーム卒園生のOB会で会長をやっていたそうで実情に詳しく、「トマス・マンハルド師から被害を受けた女の子たちもいる」と、ポロッと話してくれました。その後、その方にもいろいろ資料を送っているんだけど、その人も動けない……

 だから、結局みんな、傷は抱えているんだけど、いざとなると動けなくなっちゃうという状況が続いています。そんなとき無理に口を開いてもらおうとすると相手はよけいに縮こまっちゃうからそれはできないのですが、サレジオ会の件でもそろそろ動きだそうかなと思っているところです。

 実際、サレジオ会に対しても呼び掛けてはいるんですよ、「被害者は私だけじゃなく、もう1人被害者がテレビに名乗り出た。サレジオ会もきちんとトマス・マンハルド神父の任地を全部再調査して、被害を受けた人に名乗り出るよう呼び掛けるといったことをすべきじゃないですか」とね。

 あと、やり方としては、『カトリック年鑑』を見れば、その年時点の全神父の任地が書いてあるのだから、年鑑でって、加害者神父の旧任地全てで被害者を探す方法もあるでしょう。映画『スポットライト』がやったような調査報道を、メディアに望みたいです。

 ただ私も今仕事の面でコロナ禍への対応という課題を抱えています。私は病院に勤めているので、連日、夜の9時、10時までワクチン接種に関わる業務に従事しているので、思うように動けない状況なんです。ただ決して忘れているわけではなくて、2022年3月には完全に仕事を辞めて年金生活になりますから、そうしたら少し動けるかなと。

*「神を信じるのか、”代理人”を信じるのか」を問い直せば、対処の道も見える

――そうすると今後の方針としては、今言われたようなことの延長上で活動したいということですね。

竹中 そうそう。全然めているつもりはないし、なんとか被害を受けた人たちにコンタクトをとって、「被害者の会」「聖職者の性虐待を許さない会」をもっと拡充して声を上げていく必要があります。

――最後に、その意味で一般のカトリック信徒の皆さんに、この際、呼びかけたいことがありましたら、仰ってください。

竹中 それはもう、「神父は神じゃない」ということに尽きます。あくまでも神の代理人であって、人間なんです。人間である以上、必ず間違いを犯す。神父は完全無欠ではないということを、まず信者さんには再確認していただきたいと願います。

 従って、神父を盲信しないでほしい。神を信じることにはいくら熱心であってもいいのです。けれど神父の言動を無批判に信じる行為は、もしかしたら神を裏切ることになるかもしれない、と自戒してほしい。「あなたは神を信じているのですか、それとも神父を信じているのですか。いったいどちらを信じるんですか」という問いを、信者さんに突き付けたいんです。神を信じるのか、神の代理人である神父を信じるのか――

 そこを問われたときに、「司祭による性虐待にどう対処すればよいのか」という問いへの答えも自ずから出てくるんですよ。神を信じていれば、神父が間違ったことをしたときに「間違っている」と言える。

*「許さない会」の活動は、「神の教会」を本来の姿にする仕事の一部

竹中 私が今、教会相手にこういう活動ができ、信徒の皆さんの前で胸を張っていられるのは、それこそ、私が神を信じているから。神の前に立った時に、かつて被害者であり、今、被害者の救いでありたいと願っている私と、性虐待を隠蔽する司教や加害者のどちらが、神の前で胸を張って立てるのか。

 そう思っていますから、「聖職者の性虐待を許さない会」「施設における性虐待被害者の会」の活動をやっていて神にも信徒仲間の皆さんにも恥じるところは全くありません。神の教会を〈あるべき姿〉に建て直す仕事の。ほんの一部をお手伝いしているに過ぎませんが、神のみ旨に沿った生き方をしているので心が安らぐんですよね。

 コロナ禍の影響を受けて思うに任せないもどかしさはありますが、この問題に関する取り組みを止めているわけではなく、時期が来れば再び動き出すつもりです。

――日本の教会を神さまのお望みの姿に立て直すための、尊い実践だと思います。多くの信徒が聖職者に盲従する姿勢から抜け出せずにいる現状で、竹中さんはじめ被害者の方々のお立場には苦悩が付きまとい続けるでしょうが、どうか神のみ旨を求める姿勢を持ち続けてください。私たちも、及ばずながらメディアという場を通して、声を上げ続けていきます。長時間、お話しいただきありがとうございました。

(終)

(聞き手:山内継祐=「カトリック・あい」編集委員、『福音と社会』編集担当幹事)

⇒ご意見、ご感想をお聞かせください!すでに何人かの方からご意見をいただいています。お待ちしています。発信元は部外秘にいたします。仮名などでも構いません。(「カトリック・あい」代表・南條俊二 andynanjo@gmail.com)

 

 

2022年1月10日

・ 竹中会長の独占会見⓶「長崎教区で2件、横浜、仙台両教区で各1件が裁判に、教区の窓口は”加害者”を守る手段か」

*性的虐待の特殊性から、被害の実態はつかみにくい

――お話を戻しますが、「許さない会」が把握しておられる〈日本の教会での聖職者による性虐待 〉の実態はどのようなものですか?

竹中 結論から申し上げれば、私たちも結局、被害の実数を把握しきれていません。これには、この問題ならではの特殊性があるのです。 「…会」の集まりに参加している方の話を聞いていると、言外に、どうやら昔、被害を受けておられ たような印象を受けることが少なくありません。

 「自分ではすでに細部の記憶がないにしても、すごく気になるから参加したい」という方がおられます。そういう方たちと、いざ突っ込んだ話をしようとしても、実体験の核心になると解離しちゃうんです。

 人は長い間、苦しめられてきたこの問題と向き合いたいんだけど、まだ向き合えない状況という か…… 私がそうであったように、そこで無理をしちゃってフラッシュバックなんて起きちゃうと 、「せっかく精神的に安定を取り戻した今の生活」に支障をきたしちゃうので、それは、平常心で 口にできる“とき”を待つしかないんです。そういった方たちがいることは実感として捉えるので すが、数値化できる話ではないということです。

――ある意味、被害者に対する配慮をもしながらの活動、ということになりますね。

竹中 配慮っていうか、そこが難しくて。配慮をし過ぎると、「じゃあ被害者は声を出せないのか 」「加害者側に責任はないのか」となる……

*教区の性的被害デスクにかかる圧力、”加害者を守る手段”?

――それとこれとは別でしょう。教皇が繰り返し言っておられるように、被害者には、被害の実態 を訴えて再発防止を求める権利があります。長崎大司教区の事案の場合も、デスクの担当カウンセ ラーがこの問題を取り上げようとして、イジメになっているという話がありますよね。

竹中 その件で、このチラシを作ったんです(と、手にした刷り物を示しながら)、ここに書いてあるとおり「神父から性虐待を受けた被害者に寄り添わない相談室は閉鎖」という仕儀になった経過は、これを読んでいただければ分かります。デスクのカウンセラーご自身から私たちが相談を受けました。要するに「『相談者の個人情報と事案の内容を全部、上司である神父に上げろ』と言われたが、カウンセラーとしてそれはできないので悩んでいる」と。

 事案の内容を上司に漏らせば、性虐待など、こっそり処理したい教会側に、事実隠蔽の時間を与えてしまうことになる… 事例は数件寄せられたのですが、その数件の情報が全部教会の管理職側に漏れれば、各事例の被害者たちがどういう扱いを受けるか分からない。デスクの担当者としては職業倫理上、とても情報漏洩などできないということで、私たちに相談が寄せられたわけです。そこでご本人と、付いておられる弁護士さんに連絡を取って、私も同席するかたちで記者会見をしました。その経緯は一応全部ビデオには録ってあります。

――今のところ事案によっては、相談者の個人情報は守られているというか、教会が知って揉み消す事態は避けられているのですね。

竹中 そうです。だけどそれは、〈「相談デスク」に相談すると結局こういうことになるんだ〉ということですよ。つまり、教会の組織の中でこのようなデスクを作ってもそれは、被害者情報を教会に吸い上げ、加害者を守るための手段でしかない。

 第三者委員会など独立の機関ではないから、デスクを担当した人は、上司である神父から情報を寄こせと言われたら、ものすごく葛藤することになる。本当に相談のプロとして意識を高く持っている人なら、長崎のデスクのように、抵抗します。しかしプロ意識が希薄な担当者なら、上司の要求に応じて個人情報を教会上層部に渡しちゃうわけです。

*被害実態を解明するために完全な独立機関が必要

――フランスの教会は、この問題の実態を解明するために、教会法や司法専門家による第三者調査機関を立ち上げました。日本の教会も、司教といえども調査の過程や結論を左右できない、もう少し独立性を保証された「デスク」を持つ必要がありそうですね。

竹中 もう少しどころか、完全な独立性を持たせないとだめでしょう。だからその問題は今後、「…許さない会」としても扱いたいと考えています。

――そのあたりは私たち日本の教会の信徒として声を出せるところだし、教会法に裏付けられた信徒の義務でもありますから、「デスク」の現状を知って〈あるべき姿〉に戻すよう、手立てを尽くす努力が求められると思っています。

竹中 長崎の「デスク」担当だった人は今、裁判の準備をしています。裁判って短くても半年や一年は優にかかるので、当事者になると大変なんです。

*長崎教区で2件、横浜、仙台両教区で各1件が裁判に

――分かりました。長崎の件はそれでよろしいでしょうか。

竹中 実はもう一人、実際に神父から性虐待を受けた人が裁判を提起していて、その人について私たちもいろいろとサポートしたいのですが、できないでいます。

――長崎で?

竹中 そう。被害者はYさんという女性ですが、そのYさんがカウンセラーに相談した過程で私たちも事実を知りました。そこで一緒に被害を訴えるビラ巻きをしたりして、「さらなる応援体制を組んで一緒にやりましょう」と申し出たのですが、「自分の納得のいくようにやりやたい」と仰って、連携できないでいるのです。被害者の心って、そのくらい振幅が大きくなるんですよ。新聞に載った事実すら「第三者には公開したくない」となです。私にもそういう時期がありましたから、その気持ちの揺れはよく分かります……

――被害者側にはそういう事情もあり得るわけですね。

竹中 そうです。だから「訴えたいけど、広まるのは困る」というすごいジレンマに苦しめられます。現在の私は、少なくともオープンにされた情報については、それが事実なら隠さずに訴えていくことが、事案への理解と再発防止の輪を広めていく上で有効だと思っているのですが、「新聞には出たけど広めてほしくはない」となると、私たちの活動もその時点で大きな制約を受けてしまいます。
だから今のところ、長崎の事案2件――「デスク」担当カウンセラーの件と、性虐待被害者Yさんの件――については、裁判の進行待ちですね。裁判がどう動いていくかを注視していたいので、公判日の傍聴を重ねて、今後の支援方法を考えたいと思っています。

――そうすると「許さない会」としては現在のところ、仙台教区内と横浜教区内で各1件、長崎で2件の事案を把握していて、その中の一件に関しては今のところ関わりを差し控えておられるということでしょうか。 ここで仙台の事案について再度お尋ねします。加害者神父の名前はお分かりですか。

竹中 分かっていますが、それは記者であるあなたが裁判記録を当たってお調べください。私の口から申し上げることは差し控えさせていただきます。ただね、被害者から連絡があって、「加害者神父は認知症になったので、被告としての適格性がなくなるかもしれない」とのことです。

――要するに、当事者能力がなくなったと?

竹中 そういうことですね。それでも裁判は続けられるけど、もし判決が出たとしても賠償まではできないかもしれない、当事者責任が問えなくなるわけだから……

――事件そのものが、何十年も前のことだから、あり得ますね。

竹中 事件は40年くらい前に置きているのですが、それでも裁判にできたという点に大きな意義があると思います。

――被害者のお名前は鈴木……

竹中 鈴木ハルミさん。カタカナの「ハルミ」です。

*話を聴いてくれるだけで勇気付けられる被害者も

――私どもが直接鈴木さんに連絡をして話を伺ってもいいですか?

竹中 8月3日が次の公判なのですが、コロナ禍でそれもどうなるか。私も行こうと思っていますが緊急事態宣言が出たら動けないしね。私も東京都の職員なので、緊急事態宣言下で都県をまたぐ移動については慎重にならざるを得ません。

――私も傍聴に伺うつもりです。そのとき、鈴木さんにお会いしたいと思います。

竹中 取材とか話を聴いてくれる人がいるとすごく勇気づけられるので、ぜひ会ってやってください。私も時々話を聴くんだけど、やっぱり話せる相手がなかなかいないことは辛いですよね。

――あと、ご存じの例のうちに入るかどうか分かりませんが、当方で取材中の2件の事案があります(と、記者が取材中の2件について、竹中氏が把握済みかどうかを尋ねる)。その2件について「許さない会」がご存じかどうか、気になっています。

竹中 いうなれば、加害者側の事例ですね。2件とも知りませんでした。一般論ですが、加害者の側も心から反省しているのであれば、一人で問題を抱え込んでいないで、責任ある立場の方に気持ちを打ち明ければいいと思います。話すことでずいぶん楽になるというか…。

 一人で抱え込むのはすごく厳しいです。私が敢えてマスコミに発信するのは、『被害者だけでなく過去に加害経験を持つ人にも私の言葉が届いてほしい』という思いがあってのことなんです。そういう人たちが自分の過去を話すことで少しでも楽になれれば、と思ってね。少なくとも私に繋げてもらえれば、話を聴いてあげられると思うんですよ。

(聞き手:山内継祐=「カトリック・あい」編集委員、『福音と社会』編集担当幹事)

⇒ご意見、ご感想をお聞かせください!お待ちしています。発信元は部外秘にいたします。仮名などでも構いません。(「カトリック・あい」代表・南條俊二 andynanjo@gmail.com)

2022年1月8日

・「性的虐待を許さない会」の竹中会長の独占会見①「教会指導者たちは被害者の叫びを真剣に聴いて!」

*はじめに

 「カトリック神父による性虐待を許さない会」の会長、竹中勝美氏は東京出身、59歳。少年時代を過ごしたカトリック児童養護施設「サレジオ学園」(東京・小平)で、 小学4年生の時、同施設担当司祭のドイツ人神父、トマス・マンハルド師から1年間にわたり性虐待を受けた。同学園を卒業して社会人となり、結婚し、子どもをもうけるが、子育ての最中に性虐待の記憶が突然蘇るなどフラッシュバックに苦しんだ。

 現在は東京都庁職員として働く傍ら、19年4月、東京・青山で「緊急集会」を開き、自身の事例を公表したの をきっかけに、「カトリック神父による性虐待を許さない会」の事務局長として、自身と同様の体験に苦しむ被 害者の救済と加害事例の掘り起こし活動を独自に行っている。教皇の求める“厳正な処置”に比べ、日本の 司教団の事例摘発や加害聖職者への対応が、なんとも生ぬるく中途半端なものにとどまっているからだ。

 実際、米国の教会で1000人を超える神父が職を追われたのを皮切りに、南米では司祭による性虐待への 対応が不適切であったとしてチリの司教34人が一斉に辞職を願い出た。

 最近に限っても、長い間加害神父を たらい回しにして隠蔽を図っていたドイツ司教団が教皇から厳しく叱責され、フランスの教会では「第三者委員 会」の調査により過去50年間に3000人の神父による性虐待で2万6000人もの被害者が生まれていたことが明 るみに出た。これらの動きを知ってか知らずか、依然として動きの鈍い日本の司教団…。

 そんな“司令塔”をあてにせず、被害者の視座で「聖職者による性虐待」の根絶に取り組む竹中さんが、『カトリック・あい』と隔月刊誌『福音と社会』の共同インタビューに応じ、現在の胸中を語った 。(3回に分けて掲載します)

(聞き手:山内継祐=「カトリック・あい」編集委員、『福音と社会』編集担当幹事)

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*各教区に作られた”被害者デスク”からの呼びかけは皆無

――竹中さんが事務局長を務めておられる運動組織は、「……許さない会」と、厳しいですね。

竹中 正式には、「カトリック神父による性虐待を許さない会」ですね。

――施設における?

竹中 両方やっているんです。私たちは児童養護施設の虐待問題をやっていて、そこで活動していますけども、それとは別に「カトリック神父による性虐待を許さない会」という会を立ち上げています。少年期に東京のカトリック施設で神父に性虐待を受けた私が、2度とそのような虐待 があってはならないという思いから、同じ志を持つ方々と一緒に活動しています。

――会の組織とか事務局の機能はどのようなものですか。竹中さんの他に事務局のメンバーとして は何人おられるのですか?

竹中 メンバーは5人いますが、ただ、皆さんなかなか……

――本業として他の仕事もお持ちでしょうし。

竹中 それもあるんだけど、一人ひとりが複雑な思いを抱え、なかなかこの問題に向き合えないで いるのです。今のところは主な任務として、仙台の裁判の援護をしています。

――仙台の件については後ほど詳しく伺いたいと思っていますが、聖職者による性虐待事件のうち 、民事訴訟となっている件ですね。他にも長崎大司教区と横浜司教区で係争事件になっていると聞 いています。いずれも既にマスメディアで報道されていて、事案は周知の事実となっていますね。

竹中 被害者の鈴木ハルミさんの同意を得られれば連絡先を紹介します。直接聞かれた方がいいと 思います。 ――分かりました。あと、中央協議会や各教区には、被害を訴える人たちのための「女性と子ども のためのデスク」がありますけども、竹中さんたちの活動とそのデスクとの間で連携はあるのでし ょうか。

竹中 全くありません。デスク側からの連絡や呼び掛けなどの動きは全くないんです。向こうは司 教団の指示の下で独自に動いておられるのかもしれませんが、私たち「許さない会」の方にそういう知らせは一切ないので、私は「デスク」の活動については全く知りません。

――あれは、司祭による性虐待のうち“婦人と子ども”を対象に事案の掘り起こしと対応の窓口となっているデスクですが、そのデスクにどういう訴えがあったとか、どういう事案を確認したとか いう情報の開示は一切ないんですか。一般信徒が現実を知ろうとしても、公式発表は抽象的なうえ 木で鼻を括ったような短文。とても“公表”したとは言い難いものです。 竹中さん側からコンタクトをなさったことはないのですか?

竹中 私たちはそもそも、何か分かった時にデスクと情報を交換するといった合意や話し合いをし ていないので、こちらから勝手に電話して「どうなってるんだ」って言っても筋違いになりかねま せん。とにかく何も約束していないんですよ、高見大司教の対応もそうだし……

*大司教は、司祭の性的虐待の根絶と過去の真相究明を約束したが…

――高見大司教との間の話の進展については、今日ぜひ伺いたかったことの一つです。2019年4月、つまり3年前に東京・渋谷の国立オリンピック記念青少年総合センターで開かれた集会「カトリック神父の子どもへの性虐待! 日本でも」には、高見大司教がわざわざ足を運んで、竹中さんのお話を聞かれた。

 あの場で高見さんは壇上に上がり、「今後は『司祭による性虐待事件』を根絶するため努力する」ということと「過去の真相を究明するため、お互いに協力しましょう」と話をされ、竹中さんと堅い握手を交わされたので、その後はそれなりの働きかけというか、『じゃあご一緒に、こう取り組みましょう』というような共同歩調が見られるのかと思っていた。それが全く実現しないまま、長崎の「許さない会」の報告集会になって、高見さんの対応が東京の集会の時とはかなり違うな、という感じに見えました。

 その辺を竹中さんがどういう風にご覧になっているか。今どういうふうに司教団と連携されようとしているのか、その辺を知りたかったので今日のインタビューをお願いしたのです。正確に知れば、〈私たち一般信徒がこの重大問題について考えたり実行したりできることは何なのだろう〉と考える糸口になりますからね。

 例えば教会行政当局にハッパをかけることができるかもしれません、司教団に「もう少し誠意を 持った対応をしたらどうですか」と物申すとかね。でも「実際には、われわれ被害者側との共同作業が粛々と進んでいるんだよ」ということであれば、その動きを邪魔することになりかねないの で、その辺を確かめたいとも思いました。

 私ども報道機関の立ち位置としては、まず何があったか、事実を解明したい。そして「聖職者に よる性虐待」を根絶するにはどうすればいいのかを、情報の受け手であり教会運営に一定の義務と 責任を持っている一般信徒の方々とご一緒に考えたいのです。 そのために被害者の訴えを伺いたいし、加害者である聖職者側の監督責任を負う司教たちがどう 対処しようとしているかを聞きたいと思っています。

 ところが高見さんは2021年3月で定年、長崎教区長としての任期が切れてしまいました。それでも教区内に腹心だった会計担当司祭による3億円近い公金流用事件を抱え、その処理をするためさ らに一年くらい留任されるつもりのようですけれど、2022年3月以降、司教会議議長も辞めるとなれば、聖職者による性虐待について日本の司教団代表としての責任ある立場を離れることになります 。

 日本の教会指導層が抱えるそんな事情に紛れて、聖職者による性虐待という問題そのものがうやむやに処理され消えてなくなることがあってはならない、と私たちは強く危惧しています。

 そこで 、竹中さんにお目にかかり、現在のお気持ちと、なさろうとしていることを改めて伺いたいと考えて今日、お邪魔しました。  それにしても、青山会場で竹中さんに歩み寄って頭を下げ、握手までされた高見大司教が、その 後何も行動を起こしておられないというのは、信じられないんですけども……

竹中 全く、何もしておられません。その後長崎集会前までの経緯をまとめ、大司教さんからいた だいた約束を含めた事実を報告書にして公表したのです、高見大司教のお膝元の教会で。それを配ったのは2020年の8月だからちょうど1年前ですね。で、その時、こういうふうに約束はした けれど、全く実行されていなくて、その後はコロナ禍でまた1年、何もしておられないのです。

――長崎集会そのものについての反応もないんですか。

竹中 全くないです。メディア各社も集会の取材に来て、教会側のコメントが新聞にも載っている にもかかわらず、ですよ。

――私どももそれを報じた新聞の切り抜きを持っていますが、読むと、いかにも何かやりそうなことをコメントしておられる。にもかかわらず、実は何もしていないと?

竹中 そうです。全く何もないです。

――ちょうどあの頃は、教区会計担当神父の使い込み問題と一緒になっちゃいましたからね。

竹中 その件については集会前に、何人かの長崎教区の信者さんから連絡が来て、「この問題を自 分たちは言えないから、『許さない会』の集会で、聖職者が抱える問題として取り上げてほしい」 という要望を受けたんです。

 けれど、その件は私たちが訴えようとしていた問題と性格が違います から、少し触れるだけにして、メイン討議のテーマにはしませんでした。

(第2回に続く)

(編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年1月7日

(特集)2021年にバチカンの出来事でほとんど報じられなかった”5大ニュース”(Crux)

(2021.12.30 Crux Editor John Allen Jr.)

ローマ–毎年、特定のストーリーがバチカンのニュース報道を支配している。過去20年間のそれぞれの年の最大のバチカンのニュースの有力候補だった聖職者による性的虐待スキャンダルのように、多くは後ろ向きの傾向があるが、なかには前向きなものもある。

 ニュース報道の扱いは、必ずしもそれが重要かどうか、ではなく、「売れる記事」かどうか、報道機関の判断によって決まる。

 2021年はローマから、教皇フランシスコの3月のイラク訪問、夏の結腸手術、そして古いラテン・ミサ典礼を大幅に制限するという非常に物議を醸す決定まで、多くのニュースが発信された。

 年の終わりに、今年注目された報道を振り返るのは価値のあることだ。ここではそのうちの5つを振り返ってみよう。

 5.ハートとディマルツィオ

 米国では、シャイアンのジョセフ・ハート司教とブルックリンのニコラス・ディマルツィオ司教が、どちらも聖職者による性的虐待に関わったことが明白になった。一つには、2人とも性的虐待で訴えられたからだが、バチカンでこの問題を担当する教理省で2人とも「虐待の疑いなし」とされた。

  ディマジオが2人の人物によって告発される一方、ハートは12の別々の虐待の罪で訴えられていた点で、事件は異なっていた。ハートの場合、告発にある程度の信頼を与えた個人的な行為が過去にあったようだ。 結局、バチカンは、12の訴えのうち7つは虐待は認められない、とし、他の5つは虐待を証明できない、と判断したが、それでも、彼が未成年者と2人でいたことがあったケースがあるとし、「慎重さが甚だしく欠如」していた、と注意を与えた。ディマジオの場合、教理省は、2件の訴えが「真実の外見」を欠いていると判断した。

 いずれにせよ、二人の司教の”事件”は、ジャーナリズムの”厳格な法則”を2021年において思い起こさせることになった。起訴されたら、トップ記事になるが、無罪放免なら、中面に落とされる。 確かに、聖職者による性的虐待スキャンダルの苦い教訓は、”火の無い所に煙は立たない”の諺のように、すべての告発は(それが真実である、という前提で)真剣に受け止められなければならない、ということだ。二人の司教の”事件”も、告発は証拠には必ずしも結びつかず、現実は、諺が言うよりも、ずっと厄介で複雑なケースが多いことを、改めて知らしめた。

 

4. オリバー師のバチカン未成年者保護委員会のトップ解任

 米人の高位聖職者ロバート・オリバー師が4月にバチカンの未成年者保護委員会のトップを解任されたこと自体は、大きな問題ではなかった。彼はすでにバチカンに9年間働いており、そのポストは、非常に神経を擦り減らすものだった。

 オリバーの”追放”で注目に値するのは、追放そのものではなく、どのように追放されたのか、である。私たちは、「バチカンへの奉仕のために人生のほぼ10年を捧げた、親切で寛大で、完全に献身的な勤労者」について話しているのだ。バチカンは、彼を”追放”することに決めた時、彼よりも高位の聖職者が、彼を脇に連れて行って、「よい仕事をしてくれました」と感謝しただろうか?教皇のメダルか何かを与え、小さな送別会を開いただろうか?

 いや、その代わりに、彼が米国に戻る途中で目にしたのは、自分の名前の無いバチカンの未成年保護委員会の再任者リストの載せた広報資料だった。もっとも公平を期すなら、このような扱いは彼だけではない。バチカンの、職員の大半についてとられるやり方だ。それが、私が、バチカンを「HR pandemic(悪しき人的資源活用法の感染症)」を患っている所、と呼ぶゆえんである。

バチカンが、慢性的な虐待と最も価値ある資産、すなわち労働力への配慮の欠如という慣習を打ち壊せない唯一の理由は、”すべて”のオリバーに共通するものだ。つまり、教皇の電話に喜んで応える、才能があり、献身的な人物が他にもいる、ということである。それは素晴らしいことだが、率直に言って、オリバーに対してバチカンが示した振る舞いの言い訳にはならない。

 

3.教皇とユダヤ教の最高権威

 このことが2021年に起こったことを覚えていなくても、気分を害する必要はない。イスラエル国外ではほとんど関心を引かなかったからだ。だが、8月、教皇フランシスコがユダヤ法を意味する律法についてのコメントで、ユダヤ人の世界で論争を巻き起こした、という事実は変わらない。

 「法(律法)は命を与えない」と教皇は8月11日の一般謁見での講話の中で発言した。「それは命を充足できる能力がないので、約束を達成することはありません… 命を求める人は約束と、キリストにおける達成を求める必要があります」。

 ユダヤ教とカトリックの対話に携わっている経験豊富な人々の中から、そのようなレトリックは、置換神学新約聖書解釈の一つで、選民としてのユダヤ人の使命が終わり、新しいイスラエルが教会になった、とする説)に強く影響されたもの、と批判の声が上がり、イスラエルのユダヤ教のラビの最高権威が、バチカンに抗議の手紙を送って「(教皇の)講話で示された侮蔑的な言葉は、明確に否定される」よう求めた。

 それから一か月後の9月初旬の一般謁見で教皇は、「単なるキリスト教教育…そして他には何もありませんでした」。ユダヤ教や他の主題についての間違いのない教えを宣言するつもりはなかったので、実際には、発言に見るべきものはなかった、という意味だった。

 その間、ユダヤ教とカトリックの対話の教皇の代理者であるスイス人のクルト・コッホ枢機卿は、教皇の2015年の発言を引用した書簡をラビに送り、「キリスト教徒はキリストに、ユダヤ教徒は律法に、一致を見出しています」と釈明し、教皇はその後、最高位ラビに「新年が、主の法に忠実に歩む人々にとって良い年でありますように」と祈りを込めた挨拶を送った。、

 この出来事は、教皇の見方がどのようにコントロールされているかを思い起こさせるものだ。教皇は、宗教間対話を支持するリベラルな改革者と見なされているため、相手を軽蔑するよう見みられる発言はマスコミから軽視されるか、無視される。だが、(「カトリック・あい」注:放言が他宗教とたびたび摩擦を起こした)教皇ベネディクト16世が、フランシスコとまったく同じ発言をしていたら、世間の反応がどうだったか想像してみてもらいたい。教皇フランシスコは、そのことに感謝していることだろう。

2. 信徒組織の活動

 多くの点で、カトリック教会の論理が死ぬ場所であり、6月の信徒の活動に対する教皇フランシスコの締め付けは、その象徴的な例と言っていい。教皇は、ほとんどの点で、「千本の花を咲かせる」種類の人物であり、聖職者の権力掌握に挑戦する運動にとって、特に有利だ、と思うかもしれない。

 フランシスコは、そうした運動の一つ、聖エジディオ共同体にも非常に関心が高い。これは、教皇が定期的にローマに迎え入れる難民の世話を含む、幅広い問題で頼りになる選択肢なのだ。だが、6月に彼がとった行動ほどきつい対応をした者は、最近の歴代教皇で、彼以外にはいなかったようだ。事実上、これまで創設者が一生ショーを運営する傾向があったこれらの運動の指導者に任期制限を課し、また、すべてのメンバーが指導者の選出に当たって発言権を持つことを確実にする措置を取るよう命じた。

 この動きは、バチカンが長年にわたって、組織の指導者の権力の乱用を中心に、そうした組織の現役とOB/OGからの無数の苦情申し立てがあったという事実に対する単なる応答だった。したがって、組織のトップ交代と民主的な継承方法を確保することは、行政上の自然の成り行きだ。

 だが、信徒の活動が教会の性的虐待スキャンダルの次のフロンティアでもあると多くの関係者は確信している。世界の教区、神学校、修道会の大部分は、これまでに彼らの行為を浄化したが、これらの半自律的な信徒の組織に対しての教会による監視は、まだきちんと整備されず、潜在的な”地雷原”は残ったままだ。

1.バチカンにおける”その他”の裁判

 バチカンの検察官が夏の間、ロンドンにおける不動産巨額取引問題の調査を進める中で、現職の枢機卿でバチカン国務省の元”参謀”の起訴を決めた時、その後の裁判が”cause celebre 〈フランス語で、世間の耳目を集める事件)となり、強い関心を集めまた。検察官が起こした「世紀の裁判」は自らの重さで崩壊するかのように見え、今その決定を後悔するかもしれないが、とにかく、人々の注意をいまだに引いている。

 その間、今年のもう一つのバチカンでの重要だが、あまり目立たなかった裁判が始まった。最近までバチカンの敷地内に置かれていた聖ピオ十世小神学校での生徒による他の生徒に対する性的虐待を巡る裁判だ。

 今は28歳の司祭であるガブリエル・マルティネリは、2007年から2012年にかけての少年時代に、LGのイニシアルで呼ばれる同じ神学生寮の年下の少年を性的に虐待したとして起訴され、裁判に持ち込まれた。虐待がされたとされる時期に、その施設の司牧者で、この問題の調査を妨害したとして告発されていたエンリコ・ラディス神父も、同様に起訴された。

 この事件は非常に複雑だったため、多くのマスコミは、記事にするのをやめた。その理由の一つは、未成年者が別の未成年者を性的に虐待したとされる場合、大人が加害者である場合ほど犯意が明確でないこと。

 もう一つは、虐待の被害者が実名でなくLGというイニシアルだけで示されたため、信ぴょう性に欠ける可能性があるように見られたことだ。”水をさらに濁らせる”のは、古いラテンミサ典礼をめぐる根深い深い対立が、その小神学校には存在し、マルティネリは第二バチカン公会議後の新ミサ典礼を支持する陣営に属し、被害を訴えたLGはもう一方の陣営ー古いラテンミサ典礼に属していた、そして、その対立がどの程度事態を悪化させたのかを知ることも不可能だった。

 結局、マルティネリとラディスは共に無罪となった。バチカン裁判所は、マルティネリが告発者に加えて、他の小神学生と性的関係を持ったことを認めたが、それが”強制”されたものだった、という証拠を見つけることができなかった。

 だが、裁判の中で浮上した重要な問題は、誰が小神学校の責任者なのか、誰も本当に知らなかったということだった。この小神学校は、イタリアの修道会であるOpera Don Folciによって設立され、イタリアのコモ教区によって運営されていた。だが、バチカンの敷地内にあるため、ほとんどの人は、聖ペトロ大聖堂の”首席司教”かバチカン市国の政府責任者によって監督されているもの、と考えていたようだ。

 実際には、「誰かが担当しているのに、担当者が誰もいない」という典型的なケースであり、結果、この小神学校は、一種の”真空状態”の中で運営され、そのことを誰も気にかけていなかったのである。

 性的虐待の容疑がかけられた行為は、前教皇、ベネディクト16世の治世に起こされた。世界の教会内部での性的虐待に関する数々のスキャンダルはすでによく知られるようになっており、信頼回復のためのバチカン改革が始まっていた時期だ。仮にこの小神学校で性的虐待がなかったとしても、明らかにそのようなことを放置する環境があった。監視についての明確さの欠如は、実際には2021年までずっと続いていた。教皇フランシスコが小神学校の施設をバチカンの敷地外に移すよう命じた時、問題の責任が教皇にないことが明らかになった。

 バチカンが自分の”領土”内に、少年のための住まい置いており、そこで、少年たちがあらゆる種類の年上の神学生や聖職者と定期的に接触していたが、権威ある立場の者が”ダムが決壊する”まで、誰も”品質管理”を行わなかった可能性について問う必要がある。それは、バチカン改革の進展状況について疑問を抱かさせる問題であり、改革の狙いの一つである「管轄権の重複」の解消がされた、と信じる理由はない。バチカンの敷地外の、どれほど多くの教会の機関、学校、運動体、その他のカトリックの独立体が同じような問題を抱えているのか、誰がそれぞれの場所にある”店“を気にかけているのか、疑問に思うだけだ。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。

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2021年12月31日

(評論)多額損失発生事件、性的虐待裁判の長崎教区で大司教辞任-なぜ今なのか(「カトリック・あい」)

(2021.12.29)

 東京教区と並んで日本のカトリック教会のリーダー的存在で、来年2月まで日本の司教団の代表を務めている長崎教区の高見大司教が、教皇フランシスコに辞表を提出し、受理された。司教定年は通常、75歳とされているので、すでに今年の3月にこの年齢に達していた高見大司教の辞任は当然と言えば当然だが、なぜ今なのか、疑問を持つ教会関係者は、とくに事情を知る関係者の中に少なくないのではなかろうか。

 長崎教区は今、単に教区だけでなく、日本の教会の信頼にも関わる二つの”問題“を抱えている。一つは、2億5000万円という、教区の予算規模6億円弱から見れば紛れもなく”巨額“といえる「詐欺的行為への投融資」(2020年6月26日付け文春オンライン)による損失発生とその後の不明朗な処理、もう一つは、教区司祭に性的虐待を受けた信徒女性の損害賠償裁判である。

 この二つとも、一般の社会常識から判断する限り、その組織のトップおよび直接関与した人物が、問題が明らかになった段階で辞任、あるいは、最近の世界の教会の流れであれば、独立の調査委員会を設置して、客観的に事実経過を解明し、それを元に再発防止のための徹底した対策を立て、実施にこぎつけた段階で辞任のいずれかが、妥当な責任の取り方ではないか。

 しかし、残念なことに、今回の辞任のタイミングは、そのいずれにも当てはまらないように見える。「教区の問題だから、教区の司祭や信徒が納得しているのだからいいだろう」あるいは、「大司教様は十分に苦しまれた。これ以上、苦しませるのはやめるべきだ」と言うような声も聞こえてきそうだが、この問題への対応は、一教区に留まらない、日本のカトリック教会への信頼を揺るがしかねない。それだけに、厳正な対応が求められているのだ。

 高見大司教は、中村補佐司教の大司教着座の来年2月23日前まで、教区管理者として責任ある地位に留まる。問題を先送りせず、この間に、長崎教区だけでなく、日本の教会関係者が納得いくような形で,責任を果たすことを、心から願いたい。

*2億5000万円の”投融資“多額損失問題

 2億5000万円の“詐欺への投・融資”の顛末は、2020年6月20日付けの文春オンラインで、詳細に報じられ、日本中に知られることとなった。

 その全文は文春オンライン(https://bunshun.jp/articles/-/38634)で閲覧していただきたいが、丹念な取材をもとに、詳細かつ長文にわたるため、概要を説明すれば、次のようになる。

 長崎教区の前事務局長の司祭が、教区会計担当の法人事務所長だった2013年に、アラブ首長国連邦フジャイラの石油ターミナル事業関連の投資話を持ち掛けてきた会社社長に、教区の資金から複数回に分けて1億5000万円を貸し付け、さらに現地法人設立のためとして1億円を投資した。だが、会社は2016年に倒産し、投資資金は戻らず、貸し付け金1億5000万円は倒産前に1800万円が返済されたのみ、という。

 そして、この報道から2か月余りたった2020年9月1日付けの長崎教区報「カトリック教報」で 「元会計責任者が無断で教区の資金2億5000万円を無断で流用し、うち約2億3000万円が未回収である」ことを認め、「会計上の重大な不手際だった」と謝罪した。

 このことを報じた9月2付けの朝日新聞は、「高見大司教は、これまでの取材に対し、司祭が『教会のためになると思っていた』と話していることから、警察に被害届は出さない、と説明している。教区報によると、教区として返済請求を続ける一方、高見大司教や司祭らが欠損の補填に努めるという」とし、さらに、宗教法人の投資失敗について、高野山真言宗の元幹部が内規に反した高リスク金融商品への投資で約4億円の損失を出したとして、法人と総本山が元幹部に損害賠償を求めて提訴、2018年に和解した、という最近のケースを挙げていた。

 教区の対応を公開情報で見ると、これから約1年後の「カトリック教報」2021年8月1日付けで、「前教区会計の重大な不手際によって発生した損失について」と題する報告を掲載し、「資金の回収については、現在弁護士と対応を協議しているものの、相手方が海外在住という事情もあり、全額の回収は難しいものと思われる」と、事実上、回収の断念を表明。

 「回収不能により発生する損失については、今後、前教区会計からの回収金、教区長はじめ顧問団による補填金、および教区司祭や信徒らによる自主的な寄付金などの収入により補填することとしている」と、”詐欺話“に乗った会計責任者、その上司として監督責任があるはずの教区長=高見大司教が拠出するだけでなく、むしろ、損失発生に責任のない一般の司祭や信徒が事実上の主体となって「自主的な寄付金」で損失の穴埋めをする、という方針が示された。

 これについて、共同通信が8月21日付けで、この内容を伝えたうえで、「不正の穴埋めに、寄付金が使われるのは納得できず、反省の色も見られない」という「ある関係者」の話を載せて、教区指導部の姿勢を批判している。

 教区報には、こうした事態の再発を防ぐ措置として、教区本部の会計監査に信徒を加え、会計業務に関するルールを定めた「経理規程」の作成、特別会計の性質に応じて、目的・財源・運用リスクの許容などを定めた規定の制定もしくは改定を、「できれば2021年度中に完成させる」などを発表しているが、そのようなことは当然の対応であり、関係者が責任を果たした、とはとても言えない。

 まして、共同通信が報じたように、損失発生について十分な経過説明やそれに基ずく総括、反省も満足にされないまま、当初は、主として元会計担当や大司教が損失補填をするかのような印象を与える説明をしておきながら、「前教区会計の重大な不手際」の一言でかたずけ、信徒の”特別献金“などで損失の穴埋めをする、というのは、とても、一般の社会常識では通用しまい。

 ある情報によれば、前会計担当者と大司教が穴埋めに拠出した額は500万円にとどまっており、残りは責任の無い他の司祭、実際はかなりの部分を信徒の”特別献金“でまかなう算段、との見方もある。

 教区の会計が一人で、教区の年間予算の半分近くにも相当する資金を勝手に投資や融資に回す、ということ自体、常識では考えられないことであり、本当にそうだったのか、という疑問もわく。

 仮にその説明が事実であれば、一般企業や団体なら、「業務上背任」で刑事上の責任を問われ、民事上も損害賠償請求をされるはずの事案だ。教区長の監督責任も問われよう。また、詐欺に遭ったので、会計担当や教区長に責任が無い、というのであれば、相手を詐欺罪で告訴し、同時に損害賠償請求の裁判を起こすのが筋である。最低でも、まず、警察に被害届を出すのが常識だろう。犯人が海外にいるのなら、国際刑事警察機構(INTERPOL)を通じて国際手配することも可能だろう。「海外にいるから」というのは、責任逃れの言い訳ではないか。

 朝日新聞が高見大司教からの取材として報じている「会計担当の司祭は『教会のためになると思っていた』と話していることから、警察に被害届は出さない」などという言い訳は、一般社会ではとても通用すまい。

 繰り返すが、この問題は、カトリックの一教区の問題ではない。日本の教会の信頼に関わる問題である。このまま、”詐欺事件”の経緯を明確にせず、公正な責任も取らないまま、損失は信徒に多くの負担をかけて穴埋めして”解決“、となれば、事情を知る多くの日本人は「教会というところは、不都合な真実から目をそらし、問題をあいまいなまま時がたつ、というやり方が通用する、世の中の常識が通用しない、ところなのだ」と改めて失望することになるだろう。

*司祭による信徒女性への性的虐待問題

 欧米を中心に司祭、修道者など聖職者による未成年者や女性などへの性的虐待がいまだに次々と明らかになり、多くの信徒の心身を傷つけているばかりか、信徒の教会離れの要因にもなっていることに、教皇フランシスコは強い危機感を抱かれている。これを規制するルールを導入したうえで、厳正な執行を世界の教会指導者に繰り返し求めておられる。

 そうした中で、日本のカトリック教会でも、確認される限り、被害者の人数は欧米などに比べれば少ないものの、高位聖職者の危機感は薄く、”伝統的“な隠ぺい体質もあまり変わっていない。

 現在、被害女性が長崎教区を相手取って損害賠償を求める裁判を起こしているのは、その代表的なものと言える。

 この女性が、地元の長崎新聞(2020年12月14日付け)に語ったところによると、彼女は問題司祭と家族ぐるみで長い付き合いがあったが、2018年5月、他の司祭からの依頼で、アルコール依存症に苦しむその司祭を見舞うため、司祭のいる長崎県内の教会を訪ねた。

 司祭館に入り、散らかった室内をかたずけようとしたところ、突然、司祭に後ろから覆いかぶされ、無理やり体を触られた。しかし、目の前に包丁があり、抵抗すれば殺されるのでは、との恐怖心から、「やめてください」と言うのが精いっぱいだった。

 余りの理不尽な行為に、警察に被害届を出そうとすると、思いとどまるように促され、「最後までしてないんだから」「信徒は司祭の言うことを聞くのが当たり前」とまで言われた彼女は、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症、自分を責め、何度も自殺を考えたという。

 教区に訴えたことで、大司教区もいったんは、司祭のわいせつ行為の結果、女性がPTSDを発症したことによる損害に対して、賠償金を払う、という示談に応じた。だが、2020年2月に長崎県警本部が、その司祭を強制わいせつの疑いで書類送検したものの、長崎地方検察庁が証拠不十分として不起訴処分にしたことで、事態は一変した。

 不起訴処分が発表された際、大司教区は報道機関に対して「これ以上の調査は難しい」としたうえで、「(女性に対して)今後も誠意を持って対応する」と説明していた。だが、その後開かれた長崎教区のある会議の議事録に、高見大司教が「女性のことは『被害者』と言えば誤解を招く。『被害を受けたと思っている人』などの表現が望ましい」と述べたと記録されているのを被害女性が知って、「このままでは、被害が隠蔽されてしまう」とショックを受け、症状がさらに悪化した。

 また、この女性を支えた、教区の性的被害担当の女性職員も、別の司祭からパワハラを受けてPTSDを発症し、休職に追い込まれた、という。

 女性は、長崎教区の司祭から性的被害を受け、司教区のその後の対応でPTSDが悪化した、として、司教区に対して550万円の損害賠償を求める訴訟を長崎地方裁判所に起こし、2021年5月までに3回の口頭弁論が行われている。

 教区側はこれまでの公判で、高見大司教の発言について、示談の事実を知らない知人記者の言葉を紹介したに過ぎない、と説明しているというが、女性側は、司教区が果たすべき注意義務を踏まえ、「仮に、他人の発言を引用しただけでも、違法性がある」と指摘している。

 以上の報道に対しても、教区側から、その内容について公式に抗議するなどに対応をした形跡はない。報道は、他の報道機関や、関係者の話とほとんど変わらないことから、これをもとに判断すれば、自己に対する厳しさを欠き、相手に対す思いやりを欠き、裁判にまでなっても、まだ自己の正当性を主張して、さらに相手を傷つける、人に愛と思いやりの道を説く聖職者にあるまじき行為ではなかろうか。

 このような長崎教区の性的虐待被害者への対応は、すでに他教区にも影響を与えている。バチカンの指示を受けて日本の各教区は性的被害の訴えを受ける窓口を設けているが、それを利用せず、被害者たちが結成した会に新たな被害の相談を持ち込む例が数件出ている、という。教区の対応に不信を持ってしまったのが原因、との見方も関係者の中にある。

 長崎地裁の裁判は、5月以降、開かれたという報道がされていない。一説には、原告の被害女性のPTSDがさらに悪化したことが背景にある、とされている。

 このような状況を見るにつけ、思い起こされるのは、車を暴走させて若い奥さんと赤ちゃんをひき殺した通産省工業技術院(現・産業技術総合研究所)の元院長の振る舞いだ。

 元院長は死傷事故を起こした当初から、遺族への謝罪の言葉を一切せず、警察、検察の調べに対して「自分はブレーキを踏んだ、車が悪い」と言い続け、遺族に何重もの苦しみを味わわせた。あげくに、禁固5年の実刑判決を受けた後で、ようやく型通りの謝罪を弁護士を通して行い、改めて遺族の怒りを買っている。そうした元院長の自らの”晩節を汚す“行為に、どうして心からの謝罪の言葉が無いのか、と遺族に同情し、心を痛めた人は少なくない。

 それほどひどい行為ではない、同等に扱うな、との声があるかも知れない。だが、被害女性にこれだけの苦しみを味わわせたまま、舞台を去っていくことが、当事者はもちろん、日本の教会にとっても、大きな禍根を残すことになる、信頼を傷つけることになる、ということを強く認識し、適正な対処をすることが求められる。

 ”投融資“多額損失問題への対処と合わせて、日本の教会のために、あえて苦言を呈したい。

(「カトリック・あい」)

 

2021年12月29日