・シノドスの旅-が始まる:教皇の歴史的評価は、シノダリティへの努力が実るか否かで決まる(LaCroix)

(2021.9.7 La Croix By Massimo Faggioli | United States)

  バチカンのシノドス事務局が、2023年10月のシノドス(世界代表司教会議)総会に向けたシノダル(共働性の)プロセスーおそらく教皇フランシスコにとって最も大胆なプロジェクトだーの準備文書とVademecum(手引書)をまとめ、7日発表した。

 シノダル・プロセスはローマで10月9-10日に、世界の教区教会は17日にそれぞれ行われる開始の行事によって始まるが、その目的は、2023年のシノドス総会の準備過程に世界の全教会を巻き込むことで、シノダリティ(共働性)そのものに焦点を当てることにある。

*独、豪などは既に始めているが、米国の教会指導者は沈黙

 準備文書などによれば、世界の教区の開始行事は、開会式と黙想、ミサ典礼と祈り、祝いの式などを含むことになっているが、実際に具体的にどのような内容でされるかは、まだ明らかではない。筆者は、世界中の何人かの友人や同僚から「何も起きていない」と聞いているー司教協議会からも、司教からも、司祭たちからも、開始の式の準備について何も聞いていない、という。

 ドイツとオーストラリアの教会は、教皇がシノドス・プロセスを全世界の教会参加で行うことを発表する前に、先行してシノダル・プロセスを始めている。イタリアやアイルランドなどでは、国内の司教たちが準備を始めている。

 ラテンアメリカ諸国には、アルゼンチン出身の教皇が誕生する前から、”シノダル文化”があり、今回のシノダル・プロセスも、多くの現地教区の教会生活の中で自然に入っていくことが可能だ。

 だが、例えば米国の場合、全米司教協議会連盟(USCCB)による国レベルの取り組みの発表はされず、”完黙”状態だ。USCCBが立てた「2021-2024 USCCB戦略計画」では、シノダル・プロセスについて言及されていない。教区レベルでもほとんど同じことが言える。教区レベルでのシノダリティの経験は、米国では非常にまれだ。

*教皇フランシスコに関わる投票

 教皇のシノダリティへの意欲は、2021年5月よりもはるか以前、2015年10月のシノドス通常総会から始まっている。

 教皇は今月9月初めにスペインのカトリック・ラジオ局COPEが放送したインタビューで、「教皇が病気になるたびに、いつも”そよ風”や”危機のハリケーン”が起きます」と語る一方、「辞任の考えは、決して自分の心をよぎりませんでした」と述べている。

 現時点での教皇の危険は、次の教皇選挙に関するうわさではなく、ここ数ヶ月の自身の呼びかけに対する、ある種の”司教たちによる投票”である。

*慎重で、熱意を欠く司教たち

 その一つは、教皇が7月16日に発出した自発教令ー第二バチカン公会議が決めた典礼改革の一環として原則中止の方針が示されていたにもかかわらず、守られず、小教区司祭の判断で行われているラテン語による旧ローマ典礼ミサに規制をかけ、世界の司教たちに実施の是非の判断を委ねる、という方針だ。だが、公会議の方針を熱心に守って来た司教も含め、大半の司教たちが、このフランシスコの方針を受け入れることに非常に慎重になっているようだ。

 もう一つは、今後数週間と数ヶ月で、個々の司教に”投票権限”を与えるような”行事”があるーつまり、シノダルプロセスに参加するか否か、参加する場合はどのような形で参加するのか、についての”投票”である。

 私たちは、いくつかの地域、国の教会では、シノダリティが決して定着しない、あるいは少なくとも現教皇の在位の間には定着しない、という可能性に備えねばならない。これは、現地の教会の客観的な条件はまだ整っていないためだ。聖職者、司教、その他影響力のある人々の中に、シノドス・プロセスは時間の無駄、あるいは宣教活動の”代用品”、と考える者もいる。

 

*シノドスの定期開催は教区レベルでも定着して来なかった

 シノダルのプロセスは「教会のシノダリティへの転換を助ける」と、シノドス事務局のベカー次長が、バチカンでの9月7日の記者会見で語った。世界のカトリック教会で、教皇のシノダル・プロセスへの招きに、多種多様な受け止め、あるいは拒否があると予想される。これは新しいものではない。シノドスの歴史は、制度的な観点から、失敗の歴史でもあることが、歴史家の間でよく知られている。

 トレント公会議(1545年3月15日ー1563年12月4日)は、司教たちに、教区レベルと大都市レベルの”シノドス”ー教会会議ーの定期的な開催を義務付けた。同様の規範は、1917年教会法にあり、教区レベルの教会会議を10年ごとに開くことを義務付けた。当然ながら、トレント公会議と1917年教会法が念頭に置いていたシノドスは、教皇フランシスコが考えているものとは異なっていたー参加者は限られ、一般信徒の参加は認められなかった。

 いずれにせよ、教区レベルなどの教会会議の定期開催は定着しなかった。最近ではヨハネ・パウロ2世教皇が、「シノドスの頻繁な開催を放棄」している事にも、注意が必要だ。教皇が1983年に公布した改正教会法は、教区レベルの教会会議は、彼が司教会議の意見を聴いたうえで、教区司教の判断で個々に開催する、としていた。

 

*可視性と検証可能性

 トレント公会議後、1917年教会法によって教会会議を開くことができなかったことと、世界の教区で今回のシノドスの旅への参加についての教皇フランシスコの招待を受け入れないことがあり得る、ということには、大きな違いがある。それは「可視性」と「検証可能性」の違いだ。

  現在では、カトリック教徒なら誰でも、たとえばドイツと米国の教区の間に、同じ国の教区の間に、あるいはサンディエゴやサンフランシスコなどの同じ州の教区の間に存在するギャップを瞬時に知ることができる。それぞれの教区教会のシノダル・プロセスへの取り組みが本物であるか、それとも単なる”見世物”なのか確認することもできる。教会の序列にも違いがある。

 トレント公会議の教会、そして1917年教会法の教会では、あらゆる罪を覆い隠す制度的、位階的な要素が働いていた。現代のカトリック教会も、少なくとも最近までは、持続不可能なものに直面した場合、カリスマ的な指導者が、教会の信頼性を維持することになっていた。だが、その制度的、カリスマ的な教会の秩序は、聖職者による性的虐待、教会のグローバル化、そしてニューメディアなど、圧倒的な力によって、一掃されてしまった。

 教皇フランシスコはこれまでと異なる教会の秩序を体現している。そして、彼の教皇職の成否は、このシノドス・プロセスの成否にかかっているようだ。

 教会のシノダリティ(共働性)は、制度的なものとカリスマ的なものの両方に依っている。シノドスを呼び掛け、導くのは、教会の位階的な構成要素である教皇と司教たちだ。そして、位階制への単純な従順よりも、もっと強力なのは、霊性であり、それ無しには、真の「シノドス」は存在しない。

 成功しようとしまいと、このシノドス・プロセスは、カリスマの名の下に、制度的な見せかけと欺瞞の教会の言説をはぎ取るのに貢献するだろう。だが、フランシスコの教皇職の成否は、このシノドス・プロセスの成否によって定まりそうだ。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

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2021年9月17日

・「霊性を欠いたシノダリティはない」とシノドス事務局次長シスター・ベカー

 (2021.7.23 Vatican News Adélaïde Patrignani) 

 教皇が世界の司教たちに示された2023年10月の全世界代表司教会議(シノドス)通常総会と、それに至る”シノドスの旅”について、バチカン・シノドス事務局のシスター・ナタリー・ベカー次長が、Vatican Newsとのインタビューに応じ、「この旅は、教皇フランシスコが言われるように『聖霊に耳を傾ける旅」になります」などと語った。

 ”シノドスの旅”は、今秋10月9日から10日にかけての教皇が主宰するバチカンでの式典で始まる。 詳細な日程などは現在準備中だが、 教皇フランシスコは4月30日に、イタリアのカトリック団体と謁見された際、「私たちがシノダリティ(共働性)、シノドスの旅、シノダル(共働)の経験について語るとき、的を得たものでなければなりません。それは”議会”ではありません…  シノダリティは、諸問題について、社会に存在するさまざまな事柄について話し合うだけではない… 聖霊のおられないシノダリティはありえず、祈りなしに聖霊はおられません」と語られている。

・・・・・・・・・・・・・・・

問:シスター・ナタリー。あなたは、シノダリティ霊性についての学びと省察の日を7月1日に企画・実施されましたが、その狙いについて説明してください。霊性は唯一つでしょうか。それとも、異なる複数の霊性について語ることが出来るのでしょうか。

答:深く探求すべき問題です。異なる複数の霊性の体験から始める、という発想ーカトリック教会に多くの霊的な家族がいるとすれば、識別を共有するそれぞれの霊的な家族のあり方を分析すること、シノダリティである使命のための交わりの探求。そして、そこから始め、共通の特性を見つけること。7月1日は探求の日でした。実際、基本的で確実なことは、霊性なしにシノダリティはない、なぜなら、シノダリティは、キリストと共に歩み、聖霊に耳を傾けるという真実を中心に置いているからです。 したがって、この霊的な特性は、私たちが探求し続けなければならない、シノダリティの真に欠かすことのできない特性なのです。

問:シノドス総会の準備のために、霊性に関する委員会は設けられていますか。2023年のシノドス総会に向けた”シノドスの旅”における霊性の役割はどのようなものでしょうか。

答:シノドス総会の準備のために4つの委員会が予定されています。神学、方法論、霊性、コミュニケーションの各委員会で、現在、発足に向けて準備が進められており、7月1日に発足が予定されていました。すべての委員会は、”シノドスの旅”全体ーさまざまな段階の行程すべてーを支援し、霊的な旅として命が与えられ、企画されるようにすることを目的としています。委員会の役割は確かにシノダリティの中心軸、つまり霊性ーを演出することにあります。霊的な旅を欠いては、シノドスはあり得ないからです。その旅は、まさに、「聖霊に耳を傾ける旅」なのです。

問:19世紀に作られた聖霊についての運動と、新たな教会、信徒の運動との関係をどう考えますか。それらはどのように組み合わされ、シノドスにどのように貢献するのでしょうか。

答:教会の歴史を通して、聖霊の活動は創造的であり、教会は、多様な経験、共同体の経験ー中には何世紀も経て得られた経験もあるーに富んでいます。そして、第二バチカン公会議の後、カリスマを生む聖霊の息吹によって、いくつもの新しい共同体が登場しました。”シノドスの旅”に関して言えば、多様性のある神の民すべてが参加するように招かれています。話し合いは、とくに教区、司教会議を通じて行われますが、奉献生活、信徒の活動、そして新たに認められた共同体の実際の活動を通じても行われます。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年7月24日

(論考)イタリアが全教会挙げて”シノドスの旅”に出ねばならない理由は(La Croix)

(2021.7.1 La Croix   Fr. Antonio Spadaro, SJ=Editor-in-Chief for La Civiltà Cattolica)

 自分たちを休眠状態から覚めさせるためにも、聖霊から刺激を受ける必要を感じないのか?

 イタリア司教協議会が5月24日から27日にかけて定例総会を開いた。教皇が祈りと司教たちとの対話で始まった総会のテーマは「再生の時に福音を宣言し、”シノドス(協働)の旅”を始める」だった。総会議長のバセッティ枢機卿は開会あいさつで、この”旅”を「イタリアの我々の教会が、歴史の中で信頼のおける、頼ることのできる存在としてより良い形を採り続けることができるためのに必要なプロセス」と規定した。

 教皇は、2015年11月に開かれた総会で提起された課題を取り上げ、”旅”を“下”から始まる、”神の民”を中心に置いたものに改善するように強く求められた。教皇は、2015年の総会での司教たちに対する講話で示した方向に関する”ある種の記憶喪失”をいつも咎めてこられた。教皇による再来年の全世界代表司教会議開催の告示と、イタリアの教会のシノドスの道の開始が重なったことは、こうした道を調和させる素晴らしい機会となるだろう。

 5月27日に閉幕した総会は、次のような動議について採決したー「イタリアの司教たちは、この総会をもって、教皇が指示され、教皇に提出されたCharter of Intent の初稿で提案された”シノドスの旅”を開始することとする」。

 イタリア司教会議の常任委員会は、そのテーマ、日程、形式をまとめる作業部会を設けることになっている。2015年の総会で、シノドス方式を取り上げ、議論を始められたのは教皇だった。教皇は、「国家は美術館ではなく、政治的あるいは宗教的な機関を含め、分けられたものを共有する恒久的な構造のもとでの共同作業です」とされ、「私は、”落ち着きのない”イタリアの教会ー捨てられ、忘れられ、欠点のある人々に、いつも寄り添おうとする教会ーが好きです」と語られた。

 すべてが気付かれないままだった。2019年の初め、私が編集長を務める「La Civiltà Cattolica」がイタリア教会会議の開催を提唱した。私たちにとって、それが全ての信徒に示す一番確実な道ー今日の歴史を深く読むのを助けることにできる最良の道ーと思えたからだ。

 シノドスのプロセスは、実際のところ、識別の特権的な場になる。そこでは、聖霊が働いているならーフランシスコが言われたようにー「机を蹴り、放り投げ、再び始める」のだ。自らに問おうー今日、私たちは、冬眠状態から覚めるために、聖霊から蹴られる必要を感じているのか?私たちの提唱は、 L’Osservatore Romanoなど様々な新聞、雑誌で、幾人もの司教たち、そして神学者と学者たち、その他のカトリックの団体などが取り上げ、議論を呼んだ。バルトロメオ・ソルジェ神父と社会学者のジュゼッペ・デ・リタ氏も「La Civiltà Cattolica」に寄稿した。

 バセッティ枢機卿は2019年4月1日、「シノダリティ(協働制)は、私たちができると感じ、私たちの社会のような壊れた社会に是非とも必要なものだ」と指摘。同年5月20日に開かれたイタリア司教協議会総会で、参加した司教たちに、イタリアの教会にとってのシノドスの道を示した。そして、1月21日にその指示は更新され、枢機卿は「イタリアは、緊急事態を越えて、根本的な『和解の作業』とともに、四つの『ひび割れ』ー健康、社会問題、教育、そして新たな貧困ーに対処せねばならない」と訴えた。

 教皇フランシスコは1月30日、第二バチカン公会議の成果を強く堅持する説教(「この公会議に倣わない者は、教会の部外者だ」)の中で、決意を込めて、改めて提唱したー「イタリアの教会は、”フィレンツェ憲章”に戻らねばならない。そして、イタリア・シノドスを包含するプロセスを、教会共同体ごとに、教区ごとに、始めねばなりません。これは教理教育にもなるものです」。

 教皇が言わんとすることは明確だーイタリアの教会は、全国でシノドス・プロセスを始めなければならない、ということ。進め方もはっきりしている。教会共同体ごとに、教区ごとに、基礎から積み上げていくのだ。教皇は言明したー「今がその時です」。わが国の現実と歴史ー最近の歴史も含めてーとともに、”和解の作業”が求められている。そして、そのためには、「教会は、歴史の中に鼓動する神の心臓」(アルド・デル・モンテ司教)であることを認識し、この国の歴史と生きざまにおける教会の”存在の形”を考え直す、ことも必要だ。

  2019年12月21日にバチカンの人々に対して、教皇はこう語ったー「私たちはキリスト教が支配する国にいない。そのような国はもうありません!今日、私たちは、文化を生み出す唯一の存在でもなく、一番に耳を傾けられる存在でもない。ですから、私たちは、司牧のメンタリティを変えねばならない」。したがって、イタリアの教会自身の、特に”聖職者主義”の内的な力を見分けることも必要だ。

 教皇は、新型ウイルス大感染の最中に、こう言われたー「イタリア・シノドスは”外洋”。そこで、私たちは皆、同じ舟に乗っているのです」。

 今日、キリスト者は皆で、他の人々もまた市民であるという自覚を持って、舟をこぐように求められている。それは、一つのプロジェクトをはるかに超える真の文化的な挑戦でもある。だから、新型コロナウイルスの大感染によって、携帯電話、流動、急速な変化によって、ソーシャル・ネットワークによる”成り代わり”の真実によって、そして、その他の数多い変化によって変貌する世界の中で、福音の宣言とその難しさについて、話すことが必要なのだ。

 教会の刷新プロセスは、協働制であり、その主人公は”神の民”だ。イタリアの教会は、自らを「協働」の状態に置く必要がある。 「下からの教会会議」への対応は、すでに、反省、議論、そして小教区会共同体といくつかの教区が関わるかたちで、始まっている。

 イタリア・シノドスの方式は、まさに教会の存在の仕方以上でも、以下でもない。その意味で、バルトロメオ・ソルジェ神父が1976年の教会大会で表明した最終考察に立ち帰る必要があるだろう。神父は「イタリア教会の司牧的対応は、もはや文書の作成に委ねることができない」と断言し、「イタリアの司教たちとさまざまな教会関係の共同体の代表、運動の専門家たちによる、協議と協力の恒久的な組織を誕生させる必要がある」と訴えた。神父は、今、まさに教皇が「人々と司牧者が共に」と規定している「取り組みのあり方」を示そうとしたのだ。

 ソルジェ神父は、続て言うー「教会が緊急にすべきことは、出会い、対話、分析、そして”制度としての教会”と”実存する教会”の受け入れがたい分裂の危機を根底から解消する取り組みの場を、私たちの教会共同体に提供することだ」と。

 当時は、この提案は実行に移されなかった。今、このアイデアを取り上げる条件は整っている。そして、私たちは知っているー「”シノドスの旅”は、聖霊の恵みを通して、成果を生む」ことを。ついに、シノドスの時が来たのだ!

This article first appeared in La Civiltà Cattolica

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

LA CROIX international is the premier online Catholic daily providing unique quality content about topics that matter in the world such as politics, society, religion, culture, education and ethics. for post-Vatican II Catholics and those who are passionate about how the living Christian tradition engages, shapes and makes sense of the burning issues of the day in our rapidly changing world. Inspired by the reforming vision of the Second Vatican Council, LCI offers news, commentary and analysis on the Church in the World and the world of the Church. LA CROIX is Europe’s pre-eminent Catholic daily providing quality journalism on world events, politics, science, culture, technology, economy and much more. La CROIX which first appeared as a daily newspaper in 1883 is a highly respected and world leading, independent Catholic daily.

2021年7月6日

・”シノドスの旅”に懸念と希望ー女性神学者たちが意見交換(LaCroix)

(2021.7.1 La Croix International Jo Ayers, Fiona Dyball, Elizabeth Young, Kate Bell | New Zealand)

 教皇が提唱された”シノドスの旅”について、女性の神学者たちは、「一般信徒たちが関与しない旅は、排他的で、『内外に開かれた教会』の観点から、むしろ逆の効果をもたらす可能性がある」と警告している。

 警告は、オーストラリアの女性神学者たちが企画したインターネット会議Flashes of Insightでの議論の中で出て来たもの。

 参加者の一人、ニュージーランドのオークランド在住の神学者、ジョー・アヤース女史は、現在、オーストラリアの司教団が進めている地域シノドス総会の準備状況を見たうえで、「『協働的な識別』は容易でも、速やかにされるものでもない。教会の”専門家たち”に任せる方が適当と思われるプロセスについて一般信徒にどれほど多くの時間と努力を払わせるか、という問題です」と指摘。「一般信徒が関わらない”旅”は、教会を、少数者によって造られた壁に囲まれた庭に戻すことになるかもしれない」と述べた。

 そして、総会に向けた取り組みに、どれほど多くの一般信徒の声を取り込んでいるか、について疑問を呈し、「対話から一般信徒を締め出すことは、カトリック信徒の大多数を今よりも一層、脇に追いやる重大な潜在的可能性をもたらします」と語った。「総会で取り上げるべき議題について、そして誰が議題の決定権をもつのかについて、多くの論議と争いが起きている」とも指摘した。

 Flashs of Insightの4人の発言者が教会の変革に希望を持ち、実現を望んでいる。皆が教会に変革が必要なことを認識している。だが、総会が”普通のカトリック信徒”の声を反映したものになっているかについて、疑問を持っている。

 オーストラリアで司牧関係の活動に従事し、神学者で学校付のチャプレンでもあるエリザベス・ヤング女史は、「オーストラリアの地区シノドス総会を”会衆席の信徒たち”に多く広げることに反対の意見があります。”草の根”のレベルで多くの人々が、総会の準備に大変な努力を払っているが、その範囲が少々、まだらになっている。人々の中には、とても”遠く”に置かれていると感じでいる人もいます。総会に向けた準備がずっと遠くで行われており、どうやってそれに関与していいのか迷ったままにされているのです」

 オーストラリアのカトリック教会を “blokey culture at the top”とするのは、Flashes ofInsightの主宰者、ジョー・グレイランド女史は、参加者たちに、オーストラリアの教会会議総会は結局、何も生まずに終わるのだろうか、と質問した。

 同国のカトリック司教協議会で典礼と信徒の育成に関わっている神学者、フィオナ・ダイボール女史は、「私たちは変わらねばならない。そして、私たちがどのように変わるかは、他人との関わりを通してです」と述べ、周囲の社会を見、姿勢の変化を知ることが重要、と指摘した。そして、「変革は一夜にしては起らず、困難で、長くかかるものですが、実際に起きています」と語り、触媒として機能し、この変化に気づき、オーストラリア教会の内部で変革が進むのを助けている修道会の努力に注目した。

 パルマーストン北教区でカテキスタとして働いている神学者のケイト・ベル女史は、ドイツの教会の教会会議総会への取り組みについて、「ドイツ教会と何人かの教会指導者たちが、必死の努力を続け、国内外からのかなりの批判にもかかわらず、議論を続けていること」に注目。オーストラリアの教会も、こうした対応を見習い、総会への取り組みを「司教協議会が、各教区の教会共同体が求めていることに対して、積極的に応じる機会とする」ことへの期待を表明。”転機”は、”重労働”だが、希望がある、と強調した。

 

2021年7月3日

論考”シノドスの旅”2「多くの国の司教団は、いまだに全信徒の話し合いに消極的」

(2021.6.27 La Croix   John O’Loughlin Kennedy | Ireland) 

 多くの国の司教たちは、いまだにすべての人々の間で議論することに消極的であり、そのテーマについても注意深く制限を加えようとしている。前回の論考では、教皇フランシスコが教会刷新のために構想した「synodality (協働制)」について概説した。 「協働制」の特筆すべき点は、神の民のあらゆるレベルで開かれた対話を進め、全ての人が互いに意見を交換し、検討を加えることにある。教皇のこの構想に対する世界各国の司教団の反応は出始めたばかりだが、すでに、理論と現実の違いが現れ始めている。

【ドイツ】

 ドイツでは、教皇の”シノドスの旅”発表以前から、”シノドスの道”が始まっているが、それにバチカンが懸念を抱いている。すでに、その領域を制限する試みが見られる。バチカンの幹部の中には、ドイツの司教団が進めようとしている”シノドスの道”には、確定している教義を、二次的な、派生的なものさえ含めて、不可謬性に異議を申し立てる名分はなく、議論の対象とすべきでない、とする見方がある。

  幸いなことに、ドイツの司教団は、バチカンの圧力に耐え、教皇フランシスコに耳を傾けるために、しっかりと団結しているように見える。 そして、ドイツの教会は敬意をも扱われねばならない。ドイツの教会は(教会税*のおかげで、財政的に極めて豊かで)、バチカン財政への貢献度が高いからだ。

*ドイツでは、カトリック教会福音主義復古カトリック教会信徒、ユダヤ教徒であると登録したドイツ市民は、所得税の8%から9%にあたる教会税を課されている。最近では、2012年9月20日にローマ教皇庁の承認の下、ドイツ・カトリック司教協議会は「教会税を納入しない信徒は秘跡を受けられず、教会の諸活動に参加出来ない」という指令・司牧書簡を発表した。ドイツのカトリック教会の教会税収入は50億ユーロ(約5200億円)にのぼる、と言われる(「フリー百科事典Wikipedia」より)

 

【オーストラリア】

 オーストラリアでは、総会への準備が、「聴くこと」から始まっている。全国の信徒たちに助言と提案を求め、これまでに個人から4700件、グループから1万2757件の回答があった。

 その中には極めて広範かつ大規模なものもあり、例えば、Catholics for Renewalというメルボルンの信徒グループは”Getting Back on Mission”と言うタイトルの350ページの及ぶ文書を提出した。

 この国のカトリック信徒の総数のうち日曜のミサに参加している割合は、1954年の74%から2016年には12%に激減している。信徒たちからの提案には、そうした現状を踏まえて、より良い未来を築くためのいくつかの急進的、あるいは創造的な提案が含まれている。

 寄せられた回答は、まず各教区ごとに行われ、さまざまな分野の改革への信徒たちの意見、提案についてウエイト付けを明確していた。だが、各教区の集計、分析結果が全国レベルで取りまとめる段階で、そうしたウエイト付けは曖昧になった。その原因は、教区レベルでの回答の集計、分類の仕方の違いにある可能性があり、単純にひとまとめにするのを難しくした。

”旅”を続けるのか、それともすでに”旅”の終わりにあるのか?

 残念ながら、教区レベルの集計、分析が前に全国レベルの報告書が発表されてしまった。これにより、この国の教会が抱えるさまざまな問題に対する信徒たちの関心のウエイトが曖昧になり、最終的なテーマを”消毒する”扉が開かれてしまった。”蒸留”の結果は、そのとおりになった。

 「 Continuing the Journey」というタイトルで出版されたのは、全国総会で話し合われる議題の基礎となる”作業文書”であり、とりまとめたのは、司教、司祭各1名、教会に勤務する一般信徒の男女2名で構成するチームだった。文書作成は”密室”で行われ、表現などについてバチカンの”事前審査担当者”の意見を聴いた。その結果は、バチカン内部の”反フランシスコ的思い”の影響を受けたように見える。

 これまで見てきたように、あらゆることを議論できるようにすることは、教皇職の持つ無制限の力に影響を与えうる。バチカンによる作業文書の”正式な承認 ”は、総会の議題を制限するという、誠に残念な”副作用”がある。教会の抱える問題を解決するための重要な変革についての提案が本にして出版されるとすれば、そのタイトルは「旅の終わり」ということになるだろう。

 教会改革を主張する信徒たちから出された野心的で、創造的な提案は、作業文書取りまとめの際に全て除外された。LaCroix International が最近掲載した記事で、同国のカトリック信徒の団体Concerned Catholics Canberra Goulburn (CCCG)の代表を務めるジョン・ワーハースト教授は、さらなる”蒸留”を生き延びた提案を「精彩を欠いた、気休め」に過ぎない内容、と批判した。 CCCGは、司教団によって組織的に行われた準備作業のさまざまな段階について、詳細な分析結果を公開している。野心的な提案は、最終的な議題の取りまとめの段階で、ほとんど無視されてしまった。

 司教たちは、「新たな開かれた教会」を訴える教皇の呼びかけに応えるどころか、司教たちは”曖昧化”と”古臭い自己防衛の秘密主義”に執拗にしがみついているーバチカンのお墨付きを得て…。

*”この危機を絶対に無駄にするな”

 オーストラリアの司教たちは、2011年に、トゥーンバ教区のウィリアム・モリス司教が所定の手続きを経ることなく、いきなり解任されて以来、バチカンとの良好な関係を維持する必要性を特別に意識している。モリス師は、司教としての責任を果たす上で妨げとなる現在の規制にあえて疑問を呈したーフランス一国とほぼ同じ、50万平方㌔㍍の広大な教区に司祭は50人以下というトゥーンバ教区で、ミサ聖祭に信徒たちが与れるように、いくつかの提案をしたのだ。

 この教区が直面している問題の規模と緊急性を考えると、司教団がまとめつつある議題はあまりにも慎重すぎる。問題への効果的な対応のために全豪の総会が提供するまれな機会を失う恐れがある。教会評議会の一般信徒代表委員であるワーハースト教授は、議題から外された重要課題を取り上げされないために忠誠の宣誓が発動されるのを懸念している。

 しかし、教会法の厳格な適用は、この点に関して”予期せぬ自由”をもたらす可能性がある。これは評議会が、過去にいくつもの問題を引き起こし、その解決を妨げてきたのと同じ制約に苦しむことを確実にする。「この危機を良い危機を絶対に無駄にするな」とは、ウィンストン・チャーチルの助言ではなかったのか。

 

【イタリアとアイルランド】

 教皇フランシスコに促されてから約5年経ったこのほど、イタリアとアイルランドの司教協議会はそれぞれ、全国教会会議の準備作業の開始を発表した。アイルランドの準備作業はさらに5年かかると予想され、その時には教皇は92歳になる!

 

【イングランドとウェールズ】

 イングランドとウェールズの司教団は、教皇の”シノドスの旅”の呼び掛けに対する取り組みをまだ発表していない。これは理解できることだ。

 司教団が1980年に、リバプールで全国司牧会議を開いた時、2000人を超す人々が出席しました。司教団が「The Easter People」と題した文書に要約された最終報告書は、ヒューム枢機卿とウォーロック大司教の手で教皇ヨハネ・パウロ2世に提出された。今は無き教皇は、それを読まずに脇に押しやり、拒絶した。避妊についての教会に見解の見直しも、無効宣言無しに再婚した人々に聖体拝領を認めることも否定された。高位聖職者を通して伝えられた時でさえも、信徒たちの声に関心を示さなかった。

 だが、教会には司教団以上のものがある。私は最近、英国の非常に強い刺激を受ける人々のグループから、講師として招待された。彼らは、あらゆるレベルで開放的で継続的なsinodality(協働制)の教皇フランシスコの呼び掛けに積極的に応えようとしている。女性信徒で構成される2つの教会改革グループが完全に包括的な教会会議、「女性から始まり、そこで終わらない教会会議」の実現に力を合わせている。

 英国で始まったこの運動は、さらに拡大している。Zoomを使って毎月2回集まり、議題の作成の参考に外部から招いた講師の話を聞いている。バーチャル会議後の参加者の交流も活発で、翌日にも”コーヒーを飲みながらの雑談”やアイデアや意見の交換のために集まっている。メンバーの何人かが私の「TheCuriais the Pope」の読者で、それが縁で、講師に呼ばれた。講演のテーマは「教会を現在の状態にした統治構造」だった。クリフトン教区のニュースレターに詳細が載っている。

 2020年10月からオンラインで行われた”完全に包括的な教会会議”は、カトリックやその他の宗派や信仰団体から、一般信徒、修道者、聖職者などの会合を開き、国内外から関心を集めている。教区民であろうと、司教であろうと、信仰を実践していようといまいと、教会や司牧から排除されていようといまいと、参加を歓迎。話すのは良いことだ!

 ”完全に包括的な教会会議”は2021年9月5日から8日まで開かれる、オンライン・ワークショップで「平等、包括性、統治」の問題について結論を出し、9月10日から12日までブリストル・パークウエイ側の聖ミカエル教会の最新の会議場で開かれる会議で最高潮に達する。キリストの兄弟姉妹すべてに参加が歓迎されている。

 教会の高位聖職者たちの参加も歓迎されるが、司教などの肩書を外すことが条件だ。会議への参加で、彼らは教皇の要求に応えることになるが、バチカン内部の反教皇勢力が承認を拒否する危険を冒すことになる。

 その開放性、包括性、勇気、そして聖霊への信頼において、”完全に包括的な教会会議”は、信徒の総体の信仰のセンスを表現する貴重な ”水路”を提供する。自由な意見交換を可能にし、教皇が理解しているような協働制を具現することで、真の「協働制」がキリスト教会全体に広がるようになれば、将来の基準と模範を示すことになる。変化の推進力が徐々に人々からもたらされるようになれば、分裂の可能性は低減される。これこそ、生きたaggiornamento(現代化)だ!

*John O’Loughlin Kennedyは、引退した経済学者。社会事業家でもある。 妻と共同で1968年にアイルランドで国際協力組織「Concern」を設立し、後継者に道を譲るまでの10年間、運営、軌道に乗せた。「 Concern」は、人道的危機への対応に加え、世界で最も貧しい24か国で農業開発と教育および医療支援プロジェクトを進めている。最近の著書に「The Curia is the Pope」(Mount SalusPress刊)がある。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

LA CROIX international is the premier online Catholic daily providing unique quality content about topics that matter in the world such as politics, society, religion, culture, education and ethics. for post-Vatican II Catholics and those who are passionate about how the living Christian tradition engages, shapes and makes sense of the burning issues of the day in our rapidly changing world. Inspired by the reforming vision of the Second Vatican Council, LCI offers news, commentary and analysis on the Church in the World and the world of the Church. LA CROIX is Europe’s pre-eminent Catholic daily providing quality journalism on world events, politics, science, culture, technology, economy and much more. La CROIX which first appeared as a daily newspaper in 1883 is a highly respected and world leading, independent Catholic daily.

 

 

2021年6月29日

論考”シノドスの旅”1「 真の協働性を欠いたシノドスにならぬためにー重要な変化が必要」(LaCroix)

 (2021.6.23 La Croix  John O’Loughlin Kennedy | Ireland)

  Synodality(協働制)が教会全体にとっての現実になろうとすれば、これまでの教会の慣行と思考を大きく変える必要がある。

 現在の分裂した教会で、誰もが異論を差しはさむことのないテーマがあるとすれば、それは「ミサに出る信徒の減少、秘跡の衰退の拡大を防がねばならない」ということだろう。.だが、その進め方については、大きな意見の違いがあるー”繁栄”していた過去に戻るのか、未知の未来へ先を行くのか? ”堅い大地”に留まるのか、魚を求めて網を深く降ろすのか?

 聖ジョン・ヘンリー・ニューマン(19世紀の英国の神学者)が、彼の有名な詩であり、祈りでもある聖歌”Lead Kindly Light”の中で、その答えを出しているー「導いてください、優しい光よ。私はそれを見ることを願いません。はるか遠くの光景。私には一歩で十分です」。

 この聖人である詩人は、当然ながら、聖霊が促している自身が認識したものを、どのような犠牲を払っても実行する覚悟が出来ていた。私たちと共にいる、というキリストの約束を暗黙のうちに信頼する覚悟が出来ていた。そしてまた、信徒たちの判断に大きな信頼を置いていたのだ。

 

*神の民

 その後、第二バチカン公会議と国際神学委員会は共に、キリストの約束が神の民に向けられたものであり、「司教を始めとして信徒の果てに至るまで、信者の総体が信仰と道徳の事柄について、あまねく賛同する時、神の民全体の超自然的な信仰の心を通して現れる」(「カトリック教会のカテキズム」92項)ことを確認した。

 その約束が意味する不可謬性のレベルが何であれ、それはまず、何よりも、キリストに従う者たち、一つの体としての神の民、キリストの神秘的な体に関係している。その限界が何であろうと、時間の尺度をどのように引き延ばそうと、キリストの約束は、特定の教会の仕組みを条件としていなかった。いかなる仕組みだろうとそれが存在する以前に、約束は有効だった。実際はその地位に連綿とする”寡頭政治”である君主制的なものに対して適用されたと同じように、いくつかの民主的な特徴を備えた教会に対しても、等しく適用されてきたようだが。

 実際には、”寡頭政治”は、集団思考(集団 で合議を行う場合に不合理あるいは危険な 意思決定が容認されること)の対象となり、拡大した権力の腐敗に苦悩し、自分に判断を任されたなら、神の民よりも、聖霊の促しに遅く対応するかも知れない。

 きわめて明白なのは、教皇フランシスコが「教会のための神の恵みと導きの賜物が、もっぱら最高幹部の集団を通して授けられる」という説を支持していない、ということだ。

 

*教会を構成する「あらゆるレベルの人々」と話し合うこと

 教皇は、カトリック教会が「synodal(協働的な)教会」であることを希望されている。それは、公明正大な話し合いの継続と「教会生活のあらゆるレベルでなされる”聴く”という手続きによって特徴づけられた教会だ。

 教皇が私たちに思い起こさせるのは、「synod」という言葉が、ギリシャ語の「共に歩む」からきている、ということだ。そして、「共に話すこと」、そして「人生の巡礼の旅で他の人々から学ぶことのできるものが持つ大きな価値」を意味する比喩である。

 教皇は、2014年の家庭をテーマとした全世界代表司教会議(シノドス)の前日の聖ペトロ広場での説教で「主は私たちに、他者に心を開くように、と願っておられます」と語られた。教皇は私たちに求めておられるのは、「他者との対話と出会いを拒まず、自分とは違った考え方、異なる立場をとる人々からの意見も含めて、妥当で前向きな意見をすべてを受け入れる」ことだ。

*まず”トップ”が範を示す

 教皇は、次の全世界代表司教会議の定例総会のテーマに「synodality(協働制)」を選ばれた。そして、世界の司教たちと、司祭、修道者、一般信徒たちの間の対話を促進するために、総会の開催を、2年後の2023年10月とされた。そして、すべての司教たちに、各国、各地域で、カトリック生活の「すべてのレベル」において協働性を進展させるように求められた。

 このことは必然的に、「あらゆるレベル」において、下位の聖職者と一般信徒を含み、教会に変革を求めている人々、制度化された利己主義、隠ぺい体質、女性蔑視、混乱状態、権力亡者などに失望して、教会を去った人々を排除するような”フィルター”を取り除くことを意味する。

 

*バチカン内部の”抵抗勢力”

 教皇フランシスコのこうした姿勢に対し、バチカン内部には明らかに抵抗勢力が存在する。”独裁体制”は”言論の自由”を容認できない。教皇ご自身は、聖霊の導きの下で”開かれた議論”の危険を冒す用意ができているが、そうすることは官僚機構の本質に反することになる。

 本物の「synodality(協働制)」は、不可謬性についての誇張された主張と相容れない。そして、「plenitudo potestatis(全権限=教皇のみが行使できるとする、地上における神の権限)」と「ローマの司教に属するとされる普遍的管轄権」と対立する運命にある。

 「意見を異にする人々の声に誠実に耳を傾ける教会会議」を求める教皇の呼びかけが、牽引力を獲得するなら、司教たちができ、言えることに対するバチカンの厳格な管理を弱体化させるだろう。そのことは、すでに司教たちに不快な感情をもたらしているー改革を進めようとする教皇ー恒久的で自己永続的な特質をもつ教会の効果的な統治をもって、嫌われることなしには死を免れないーにどう対応したらいいか、考えをめぐらそうとしている。

 宣教の使命を帯びた司教たちは、バチカンに財政的に依存している。司教たちは一般に、あらゆる種類の許可、名声の下落、神の配慮、そして、野心のために、さらなる昇進のために、バチカンに依存している。彼らは、規則に従わないと、バチカンが自分たちを生かさないようにできる、と分かっている。

 今の体制が良い実をもたらすことはなく、変わらねばならない。信徒たちは、特に、現在の”経営陣”の能力を超えていることが証明された長期的な諸問題について、相談を受ける必要がある。変化を求めて活動する多くの改革派のメンバーは、”門の外でプラカードを掲げて抗議するままにされるのではなく、協議に加わるように招かれるべきだ。創造的に考える自由が増せば、”権威者たち”の描く”理想”を超えた解決策を見つけることができるかも知れない。

 既存の考え方に対する挑戦なしに、進歩はあり得ない。集団の識別力は、集団の不一致から生まれる。

 

*Synodality は”ローマ・カトリック”教徒だけでなく、全てのキリスト教徒を包含せねばならない

 同様に、そして上記に引用した教皇フランシスコの言葉に沿って、教会会議がすべてのレベルを網羅しようとするなら、同じ神秘体の一部であり、一致を切望する非カトリック・キリスト教徒にも全面参加を求めるべきだ。キリスト教会の分裂は目に見える組織レベルのみであり、規律上の、そして二次的な教義上の問題を巡るものに過ぎない。解決は”あらゆるレベル”での対話によってもたらされるのだ。

 私たちキリスト教徒は、同じ聖霊の導きの下で同じ真理を求めており、キリストの約束は弟子となるすべての人に対してなされた。イエスご自身が、教義への忠誠ではなく、他者への愛の観点によってのみ定義された。巡礼の道を歩き、話しをするとき、すべてのキリスト教徒は、他者の経験から学ぶことがあるだろうことをを受け入れるだけの謙虚さが必要だ。

 私たちは、カトリック教会が信仰一致に「抗いがたくコミットしている」と言われる。だが、私たちが自分たちの内輪だけで一致を求め続け、他派のキリスト教徒を会話から締め出せば、それは、時間の経過とともに自分たちの内部分裂が広がるのを確実にするだけだ。”官僚機構”は、司教たちが、あまりにも批判的、創造的、あるいは動揺させるような教区レベル、地域レベルの教会会議での重要な公開討論の行き過ぎをもたらすことのないように、要求している。

 これは、参加者の大多数が既に、確立された体制への忠誠の誓いに縛られている聖職者だ保証することによって、安全で(その行動や発言が)予測可能な信徒を参加者として選ぶように司教たちに強いることによって、なされるのだ。

 教会法では、教会会議について、信徒および叙階されていない神学生や修道士の参加者を参加者総数の3分の1に制限されており、決定に関わる投票においても”安全な過半数”を占めることが保証されている。

 教会会議の参加者は会議に出席することが求められ、継続的に参加する代償として、信仰告白と中世について細部にわたる誓いを宣言することが必要とされる(教会法833項)が、宣誓が自由にされない限り、それは無効にされ、拘束力を持たない可能性がある(1200-01項参照)。

 さらに、非常に多くの提案から管理可能な議題を作成する過程では、早い段階から議論を無害化するために十分な裁量の余地を残し、それが会議の結果を条件付ける。

 筆者の論考の第二部では、英国からの驚くような取り組みをもとに、そうした理論的状況が、実際にいくつかの国でどのように機能しているかを見て行こうと思う。

*John O’Loughlin Kennedyは、引退した経済学者で、社会事業家でもある。 妻と共同で1968年にアイルランドで国際協力組織「Concern」を設立し、後継者に道を譲るまでの10年間、運営、軌道に乗せた。「 Concern」は、人道的危機への対応に加え、世界で最も貧しい24か国で農業開発と教育および医療支援プロジェクトを進めている。最近の著書に「The Curia is the Pope」(Mount SalusPress刊)がある。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

LA CROIX international is the premier online Catholic daily providing unique quality content about topics that matter in the world such as politics, society, religion, culture, education and ethics. for post-Vatican II Catholics and those who are passionate about how the living Christian tradition engages, shapes and makes sense of the burning issues of the day in our rapidly changing world. Inspired by the reforming vision of the Second Vatican Council, LCI offers news, commentary and analysis on the Church in the World and the world of the Church. LA CROIX is Europe’s pre-eminent Catholic daily providing quality journalism on world events, politics, science, culture, technology, economy and much more. La CROIX which first appeared as a daily newspaper in 1883 is a highly respected and world leading, independent Catholic daily.

 

2021年6月27日

・「”シノドスの旅”の第一段階は信徒たちの声を聴くことーそれに失敗すると世界代表司教会議も…」(LaCroix)

(2021.6.16 LaCroix United States George Wilson S.J (ecclesiologist)

   「指導力」をテーマにした多くの文献を読むと、「優れた指導者の最初の仕事は『教えること』ではなく『聴くこと』だ」と言うのは、ほとんど陳腐化している。

 同じ言い方が、教会会議やそれに類する活動にも当てはまる。「聴くこと」は”教会用語”では「信徒たちに相談すること」。だから、”シノドスの旅”の企画担当者たちが、来るべき全世界代表司教会議に至るプロセスで第一の目的を「神の民に耳を傾ける」こととしたのは、とても心強い。

 ただし、そのプロセスがうまく進むかどうかは、次の三つの問いにどう答えるか、にかかっている。

 一つ目の問いは、「聴くこと」が何を発見するために立案されるのか。二つ目は、誰の声を聴くのか。そして三つ目に、そのような発見をするために、どのような手順が踏まれるのか。そして、このような問いに答える前にしなければならないのは、「a synod(教会会議)」が何かを、明確にすることだ。

 「教会会議」とは何だろうか? 教皇フランシスコは「共に歩く集合体」という”呪文”を提示されている。確かに、それは魅力的な隠喩だが、「神の民に耳を傾ける」という「シノドスの旅」の第一段階を企画する以前に、この3つの問いについて慎重に検討しないと、「共に歩く」ことは、多くの不和の種が蒔かれるのにつながるような「ほんわかとした気分」に矮小化されてしまう可能性がある。第一段階がどのように企画され、実行されるかで、この大胆な計画全体の成否が決まる。

*「教会会議」の基本的な目的は

 長年、いくつかの教区の司教会議とそれに類する活動の顧問あるいは推進者として関わってきた経験から、私は「教会会議 」を、「周囲の社会との関わりの中で、特定の時期に、イエスの霊の導きのもと、神の民によってなされる『叡智を追求する努力』」だと、私は理解している。

 「教会会議」は教会…神の民の会合だ。叙階され​​た司祭、一般信徒、あるいは誓願した修道者など、教会共同体のさまざまな立場の人々を包含しており、洗礼を受けていることで連帯して会合に臨む。受洗が唯一の”入場券”である。御霊は洗礼を受けた人々の共同体全体に注がれる。だが、すべての参加者の平等な感覚を損なう「教会会議」のいかなる”構造化”も、企てを必ず失敗させる。

 しかし、歴史的に大きく異なった時代から「教会会議」の慣行を見るなら、今日の司祭叙階された参加者は、この会議を一般信徒を教育するもう1つの方法として扱う誘惑にかられ続けるだろう。「教会会議」の目標は「知恵」だ。それは、主が教会に求めていることー単に考えたり話したりするだけでなく、行動を選ぶ方法を見つけることである。「教会会議」は宗教教育のクラスではなく、神学や教会法の大学院セミナーでもない。さまざまな分野の専門家が、集合体の人材として求められるだろうが、彼らの声が一般信徒の声を、減殺したり、取って代わることがあってはならない。

 父と呼ぶ方の慈愛を明示するご自身の福音宣教の使命を果たされたイエスに付き従うためのより良い道を見つける知恵は、教会共同体のこれまでの経験と内部で働いているエネルギーの相互作用から生まれる。知恵は、集合体の経験についての共同の省察から生まれる。

*良い・悪い・苦痛・喜び・成功・失敗・罪、個人と集合体

 教会共同体の日々の活動の中で起こることに、潜在的に無意味なものはない。あまりにもややこしい、苦痛だ、恥だ、不穏当だ、などの理由で、どのような活動も避けたり、除外することは、誤った判断だ。それは、そのような重要な努力の告知で生み出される期待ははなばなしいものになるだろう。当然ながら経験には概念的な知識が含まれるが、概念は、感情、直感、勘、希望、検証されていない仮定、そして私欲の混合物の中に埋め込まれているのが分かるーその一部は認識されているが、多くは共同体の構成員の意識からさえも隠されている。

 要するに、日常の人間の生活の諸々ー御霊の導きの下での意識的な省察以前に、その全体がは主題として示されることはないー理性的以前、おそらく非理性的。リスクは、生の経験が独自の用語で名付けされ、所有される前に概念化し、希望を持って未来と向き合うために必要なエネルギーを減殺することにある。

 

*経験を「つかむ」

 私たち人間は自分の経験を語るように求められた場合、私たちはまず、直喩と暗喩に目を向ける。 私たちは、「まるで…のようだ」 「説明はできないが、感じたのです..」と言う。イメージが先行し、定義と概念化がそれに続く。私たちが一番大事にするのは、談話、物語。だから、師イエスは、たとえ話を使って話された。

 「教会会議」が参加者に最初に尋ねる必要があるのは、「abcについてどう思いますか?」ではなく、「あなたにとって、今日の教会のメンバーであることはどのようなものですか? 話を聞かせてください」である。「abc」について尋ねるのは、「abcが、人々にとって実際に必要な、あるいは話し合いたい課題だ」と想定するところから始まるー共同体の現実が深いところで危機に瀕しているであるような場合に。

 経験を探求することによって「教会会議」を開くことは、その後に続くすべての平等の基盤を整えることに繋がる。叙階者だろうと般信徒だろうと、男だろうと女だろうと、博士号取得者だろうと無学だろうと、皆が、絶えず変化する状況の中で洗礼を受けた者として努力についての物語を持っている。そして、個々の人だけが、それを語り、全身の奉仕に繋げていけるのだ。自からの経験を語ろうとする人たちの弱々しい試みを誹謗するために己の知的成果を使うことは、彼らの持っている特質そのものの否定だ。

*対処方法・いくつかの歴史

 私がこれまで申し上げたことは、信徒たちの話を聴く最初のステップとして重要な意味を持っている。害のない選択のように思われるものは、すべての努力の成功を危うくする可能性がある。伝統的な方法と、それが第2バチカン公会議(1962-65)で採用された時に何が起きたか考えてみよう。

 その「教会会議」のテーマごとの部会における議論と識別のための条件を設定するLineamenta(提題解説)ー類別表ーを作成するために、少数で構成する善意(だが閉鎖的)の集団が英知を結集した。それで何が起きたが?公会議の参加者たちー全員が司教ーがローマに着いた時、何を話し合おうとしているのかを知っていた。Lineamentaの一項目を挙げるだけで、公会議を主宰する人々が推進しようとしている世界観を明らかにするのに十分。彼らは、世界の教区を代表する参加者たちが話し合うべき課題の一つは補佐司教の権限についてのやっかいな案件だ、と判断していた 。

 公会議を準備・運営する四人の枢機卿が密かに反対派を組織しなかったら、提案された図式は、見積もりとして採用され、世界各地から集まった2500人の司教は今日的な意義を全くと言って持たない事柄に焦点を合わせるのを余儀なくされただろう。公会議の集合体がその議題を見つけるために、”革命”が必要だったーそれが聖霊が彼らに立ち向かうように迫っていたことだ。

  もしも、公会議の参加者たちの大きな集合体の経験をまとめていく過程が、参加者の喜び、懸念、希望、そして強い願望を反映する議題を作ることなら、本質的に類別前でなければならない。

 聖霊が強く求めている案件に絞るべき課題リストを参加者に提示することは、”ネズミを生む”ような地震が起きる可能性を減らす。洞察をさらに具体化するために、公会議の第一段階の冒頭の告示で、データを集めるための”探査器”の使用に言及した。そうした器具は、よく作られた諸提案が識別され、議論された後で、合意の程度を調べるのに有効だろう。だが、第一段階でそれを使うことは、新たな命への最善の希望を与える分野を見つけ出す経験をまだ探っている時に、そうした過程が歪められるのを確かなものにしてしまう。

 どのような定量化された調査ーかに洗練された構成であってもーそれを設計する人々の課題を反映する。試されるべき調査項目のまさに枠組みが、言及を避けるであろうものを決定する。

 有名な研究が、問題を思い起こさせる。 1970年代に「ローマクラブ」と呼ばれる未来主義者のグループが、コンピューター・シミュレーションを使って、可能性のある将来予測をしたことがある。数年後、予測が当たっているか評価するために、実際に起きたことについて調べた。彼らの予測は実際のところ、かなりの先見の明があった。予測したことの多くは確かに実現したが、小さな矛盾が1つだけあった。それは、世界を変革する最も強力な運動の1つーフェミニストの覚醒ーの重大さを見逃したことだ。グループは全員が男性だった…。

 

*集合知ーそして預言的な声

 知恵の探求のもう一つの特徴は、知恵の賜物が通常、大きな集合体の中で個々人に均等に散らばらない、という事実だ。知恵の探求に欠かせないのは、「預言に開かれている」ということ。未来を予測する能力ではなく、現実を特定する能力だ。

 一人の個人あるいは小さな集団は、「主流」のはるか下にある強い流れを感じるかも知れない。諸々の現実は非常に苦痛を伴うものであり、おそらく何世紀にもわたって、共通の精神ーありもしない衣服をまとった皇帝たち、群衆の月並みな展望を超越する復活の希望ーの中に埋もれててきた。教称賛に値する福音宣教活動がー周囲を圧するような教会建設の一方でー何世紀にもわたって現地の人々支えてきた土着文化の価値の低下をもたらした、ということを教会が認識するために何世紀もの月日を要した。

 さまざまな危難に立ち向かい、想像もできない種々の成果を熱望して、多種多様な文化で構成される世界的共同体の物語に参加することは、とてつもなく大きな仕事を引き受けることだ。それを実現させるのは聖霊だけだが、その聖霊は、人間の選択を通して働かれる。目ざすべき正しい目標の数々を選ぶことは、一見、退屈に見える最初の一歩を選ぶのと同じように重要だ。私の経験と省察が、大失敗を未然に防ぐことに役立つのを願っている

*George Wilsonはイエズス会士の司祭。ボルチモア(米国)に住む現役を引退した教会学者で、著書に「Clericalism: The Death of Priesthood(Liturgical Press, 2008)」がある。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2021年6月19日

・”Synodality”-歓迎すべき概念、達成は困難 -教会学者が過去の経験から語る(LaCroix)

(2021.5.27 La Croix   George Wilson S.J.  United States)

 教皇フランシスコが提起された「synodalityの旅」が議論を呼んでいるが、多くの教区や修道会の顧問などを務めていた頃の自分の記憶を思い起こし、この議論に何か貢献できることはないか考えてみた。

 まず、「synodality」という言葉。この言葉が、カトリック教会で特定の意味として使われ始めたのは、最近のことだ。
第二バチカン公会議 (1962 ~ 65年) 直後の数年間、私たちは、教会での責任分担を促進するための組織的な集まりーシノドス(世界代表司教会議)、協議会、委員会などーについて話しをした。このような生きている人間の集まりに対して、「synodality」は、集まりを選択することに開かれた姿勢、あるいは方向付けを意味しようとしているように思われる。教皇は、幅広い信徒たちが教会活動への発言権と責任を持つ教会を望まれているのだ。

*「synod」とは?

 「synod」は、一般的に、教区、あるいはごくまれに国全体の聖職者、そしておそらくは信徒も含めた集まりを指すが、新語(synodality)を創造された教皇は、もっと幅広い意味に使っておられるのだろう。

  教区の司祭の集まりは、小教区評議会やカトリック系の大学や病院の理事会と同様に、「synodal」の性格を持っている。突き詰めて言えば、「synodality」は、対等な立場の人が集まって、他ではできないような宗教的目的の達成に関与することを意味する。それは聖霊によって導かれているとしても、あくまでの人間的な事業だ。

 このことは、ほとんど自明であるように思われるかもしれない。だが、これまでの経験が示しているのは、実際の人間の意思疎通というものが、この問題についての意見のやり取りで、あまりにもしばしば、単に当たり前のように見なされている、ということだ。

 「synod」と言うと、通常、人々はすぐにその仕組みの問題―誰がメンバーになるのか、どのような権限を持つのか、誰が会議の方針を決めるのか、誰に発言権や投票権があるのかーに飛びつくものだ。

 もちろん、その取り組みを成功させようとすれば、そのような問題を解決する必要があるだろう。だが、組織や運営をどうするかに全神経を集中させることは、様々な神学的、文化的世界観(当然ながら、人柄や偏見、あらゆる種類の癖も含む)を持った人々を集めることで引き起こされる人間的現実―そして、落とし穴―を避けて通ることになり得る。

 ということで、私は組織や運営の規範に関する議論を他の方々にお任せしたい。この論考では、人間の対人関係の原動力について中心的に取り上げたい。組織構造は変わることがあるが、人間の本質には変わりがないからだ。

*期待感の役割

 協議会、委員会、あるいはシノドス、といったsynodalな仕組みの告知は、第一に期待感を高めることを意味する。そのような組織体の創設を宣言すると、必然的にそれぞれの共同体が共有する魂を変えられてしまう。

 これは私たちの生活に、どのような影響が与えようとするのか? 何を予測できるのか? 何を期待できるのか?

 引き起こされる期待がどのようなものであるかは、直近のー生き生きとした記憶に残る、責任を分かち合おうとする過去の試みも含めてー状況による。そうした試みが成功していた場合、新たな取り組みは、信頼を基礎にして成立する。

 だが、これまでの取り組みが成果を生まなかったことが実証されたケースもある。おそらく、司教や主任司祭、あるいは”最高経営責任者”が、教会の組織体の声を聴かないように協議事項を調整したか、それとも、リーダーたちが、到達した結論を実行することに失敗したのだろう。どちらにしても、新しい呼びかけに対する圧倒的な反応は、不信、そうでなければ露骨な嘲りにもなるだろう。

 リーダーたちが、過去に真摯に耳を傾け、最後までやり遂げることで信頼を獲得していなかったなら、今なされている努力は、初めから運命が決まっている、ということだろう。

 「期待」は人間的な力の一形態だ。期待が明確に示され、満たされるなら、その共同体はより大きな満足と自尊心を得るだろう。だが、最初から曖昧であったり、対立したりしていたら、その結果は、共同体の分断、あるいは明らかな分極化をもたらすことになる。そして、それが明確に示されたにもかかわらず、満たされなければ、「幅広い責任の分担」への共同体の期待感は、大きくしぼむだろう。”内輪”の取り組みが、それとも非公式な“内部”と”外部”の取り組みか?

 「synodal」な組織体は通常、内部の様々な層の人々―様々な役職者、元役員、主要な共同体メンバー、他の組織で才能を発揮した人々などーで構成される。それはそれで良いことだ。

 だが、組織体が動き始めたら、理論的にはメンバー各人に同等の発言の機会が与えられねばならない。この原則は、メンバーがもともと選ばれた判断基準に関係なく適用される。意思決定の過程で、あるメンバーが話をし、他のメンバーは黙らされるようなことが明るみに出れば、 synodal の平等性に対する理に適った期待は壊されてしまう。

 嘆かわしいことだが、このような組織体で、相対立する意見が聴取される以前に、ある非公式な集団が結論を固めてしまうことがあったようだ。教会の最高位にある組織体も、”八百長”に免疫があるわけではない。

 Synodalの組織体は、個々の共同体にとって真に重要な課題―ビジョンと果たすべき使命の明確化、目標の設定、優先順位の割り当て、人的・財政的資源の開発と配分―に対処するためのものだろう。

 そのような課題についての、自由で開かれた話し合いこそが、成功したsynodの”品質証明”なのだ。それには、制度のリーダーたちに挑戦するような結論への道を組織体が見つけるのを容認するような、内面的に自由なリーダーたちが必要だ。

*Synodalの組織体に影響を与える人間的現実

 私たちに助言を求めたある修道会は、民主的気風を誇りにし、意思決定に対する個々人の関与をとても重視していた。私は、その修道会の連絡役とのやり取りを通して、ある興味深い実態を知った。

 その管区参事会は、何十年も毎年繰り返し選ばれる年長のメンバーで構成されることが慣習化していた。そうした中で、まだ若い司祭だった連絡役がメンバーに選ばれたのだが、会合ではメンバーの勤続期間で席が決められており、彼は、年長者の一人で彼の指導役をしていた司祭の隣に座らせられた。

 ある朝、何かの事について投票を求められた(どのような事なのか、ここでは重要ではない)。指導役が「この件に関して私たちは自由だ」とささやくので、どういう意味か尋ねると、「私たちは好きなように投票できるのだよ」と言われた。

 それを聞いて、どのように投票するか判断に迷ったが、それも、年長者の一人が前の方からメンバーたちに合図を出し、案件ごとにどう投票すべきかを指示していたことを知るまでのことだったーまるで野球の試合で監督が「盗塁しろ」「守備を固めろ」と指示するようなものだ。最初から最後まで、すべて不正に操作されていたのだ。

*「Synodality 」の実践 ―もうひとつの世界

 ある新任司教は、トップダウン方式で教区に関するすべてを事細かに管理していた前任者とは大きく異なる宗教的信条の持ち主のようだった。その教区の司祭たちは、新司教がどのような管理の仕方をするのか、どんなビジョンを持っているのか、注目した。

 彼の初仕事は5日間の司祭総会の招集だった。私たちが企画と進行を依頼されたその総会で、彼が最初にしたのは、司祭たちに自分たちの「ビジョン」は何か尋ねることだった。長年にわたって前司教の方針に完全に従ってきた司祭たちは、どのように答えたものか、途方に暮れた。自分たちに付与された力をどのように使えばいいのか分からなかったのだ。

 新司教が彼らに自分の意見を語らせるのに総会の最終日まで待たねばならなかったが、総会の最後に、教会への責任を信徒たちにも分担してもらう聖職者、信徒を代表する組織ー司牧評議会ーの設置を全会一致で決議することができた。

 司教は、すぐに司牧評議会の設立に着手し、私たちに協力を求め、それが一段落すると、この未知の集団を結束力と信頼感のある組織にするために評議員の研修をするよう求められた。何回かの研修会を経て、新司教への信頼度がかなり高まったところで、評議員の信徒の一人が司教にこう質問したー「司牧評議会を作ってくださった私たちへの信頼に感謝しますが、あなたは私たちの決定に拒否権をお持ちになるおつもりですか」。

 司教は迷うことなく答えたー「バチカンに聞けば、私に拒否権がある、という答えが返ってくるでしょう。しかし私は、皆さんが支持することのできる答えを必ず見つけることができると信じています。『拒否権』という言葉は二度と聞きたくありません」と。

 彼は、運営上の構造や期待値を明確にすることが重要であることをしっかりと把握していた。だが、最終的に重要なのは、組織の意思決定を特徴づける人間性と敬意の程度だ。司牧評議会の一期目の4年、互いの信頼に基づいた自由な対話を通じて、意見の相違を乗り越え、運営が続けられた。

 このようにして生み出された自由は、評議員たちが任期を終えようとした時に発揮された。

 誰もが抱く懸念は、誰が自分たちの後に続くのか、自分たちがいなくなった後、これまでに築かれた業績はどのように維持されるのかーだろう。米国では、このような組織を継続する場合、評議員の一部を留任させ、残りのメンバーは退任し、後任を選ぶのが一般的だ。

 様々な選択肢について議論を重ねる中で、ある評議員はこう言った。「私たち全員が退任して、司教に全く新しい評議会を作ってもらったらどうでしょう」。たちまち、他の評議員から異論が出されたー「これまでに達成したことをすべて無駄にするのですか。すべての仕事を危険にさらすのですか。ばかばかしい!!」。評議会は、互いの信頼の中で、解散に抵抗するほどにまで成長していたのだ。

 それで、評議会は数週間かけて、今後の選択肢について議論を深めていった。ある時、評議員の誰かがこう言ったー「私たちは、評議会発足当初はまったく知られない存在でしたが、司教が私たちと世話人たちに信頼を寄せてくださったので、ここまで成長できました。そのような私たちの業績は否定されねばならないようなものでしょうか」。ー評議会の存続が決められ、いくつかの小さな改善策が決められた後、評議員全員が任期満了をもって退任し、新しい評議員が選ばれた。

 私たちは新旧の評議員の意見交換の場を設けた。その終わりに、退任する評議員の一人が次のように語ったー「私は、このような全面的な交替には全く反対でした。しかし、新評議員のような素晴らしく、献身的な人たちに出会って、私たちの最終決断は聖霊の導きによるものだ、と確信しました」。

*Synodalityに抵抗する諸形態

 Synodalityがそれほど魅力的であるなら、どうして以前にはなかったのだろうか?進歩的な信徒が「権力に固執する聖職者が、真のsynodalityへの動きを妨げている」と非難するのはよくあることだ。それを裏付ける十分な証拠も、確かにある。

 だが、私の経験から言えば、そうした評価を無条件に受け入れることは安易に過ぎる。シノドスが成功するのに必要な主体性と責任感を完全に受け入れる用意が、信徒たちに十分に出来ているわけではない。

 一例を挙げよう。私たちが某司教の教区評議会の設立と研修を助けた際に、最良の方法を用いて、評議員に相応しい人を見つけたが、それからしばらく経った時のことだ。

 その司教はあるデリケートな問題―小教区の祝祭におけるアルコールの提供―をどう扱えばいいのか、評議会に判断を求めた。一年以上にわたって賛否を議論し、さまざまな選択肢を検討した結果、決断を下す準備ができた。私は評議員一人ひとりに、どのように考えているかを尋ねた。そのうちのある評議員が「私はただ、司教の望み通りにしたいだけだ…」と言い出し、他の評議員たちをすっかり失望させたー「私たちは何のために評議員になったのだろう。彼は今まで何を考えていたのか」と。だが、この哀れな男性に公平を期すなら、「何十年も前から先祖代々受け継がれてきた思考方法から、そうした発言に至ったに過ぎない」と言わねばならない。

*文化的な変容

 これは確かに極端な例だが、このような従属的な行動様式は、深刻に受け止めねばならないほど頻繁に起きている。

 教皇がsynodalityの呼び掛けをもって実際になさっていることは、”伝統的”な教会文化ー何が最善か知っているのは聖職者で、信徒は「祈り、償い、従う」だけでいい、という文化ーそのものの根本的な否定だ。だが、そうした文化の役割や台本は、非常に長い間、教会内部で効力を持ち続け、”集団の魂”の中に生きているため、単に仕組みを作るだけでは、その力に打ち勝つことはないだろう。

 自分自身を益するような行為をしないように求められているのは、聖職者だけではない。信徒も、洗礼によって与えられた力を生かさねばならない。問題は、「異なる召命によって生み出された区別は、洗礼に由来する基本的な平等を打ち消すことを認めるのか」に尽きる。

 Synodalな組織体とは、それをどのように呼ぼうと、生きている巡礼者たちの集まり、全員が平等で、互いに信頼と尊敬をもって結ばれた集まりであり、時のしるしを読み取り、今この時に、主が教会に何を求められているかを探し求める組織体だ。その活動をまとめるために組織体が採用する方法は、参加者の連帯を高める限りにおいて価値をもつ。

*ジョージ・ウィルソンはイエズス会の司祭で教会論の研究者。現在は引退して米ボルチモアに在住。著書に「Clericalism:The Death of Priesthood 」(Liturgical Press, 2008)がある。

(翻訳「カトリック・あい」ガブリエル・タン)

*Synodalityをあえて英語表記のままにしたのは・・・教皇フランシスコが就任当初から重要課題とされてきた「synodality)」の言葉通りの意味は「共に歩む」。日本語では「共働性」「協働性」あるいは「共同制」などとも訳されるが、教会内部でも定訳がないため、この評論では、あえて原文の英語表記のままとした。教皇がこの言葉に込められた意味は「教皇を頭とする司教団がキリストから与えられた権威をもって、神の意志を識別し、聖霊の声を聴きつつ、世界の全ての聖職者、信徒とともに進める、新しいアプローチや教義の転換をも導く可能性に開かれた、対話、洞察、協働のプロセス」と解釈できるのではないかと思われる。今後も頻繁に使われる言葉なので、適訳があれば、提示くださるよう、皆さんにお願いしたい。(「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

LA CROIX international is the premier online Catholic daily providing unique quality content about topics that matter in the world such as politics, society, religion, culture, education and ethics. for post-Vatican II Catholics and those who are passionate about how the living Christian tradition engages, shapes and makes sense of the burning issues of the day in our rapidly changing world. Inspired by the reforming vision of the Second Vatican Council, LCI offers news, commentary and analysis on the Church in the World and the world of the Church. LA CROIX is Europe’s pre-eminent Catholic daily providing quality journalism on world events, politics, science, culture, technology, economy and much more. La CROIX which first appeared as a daily newspaper in 1883 is a highly respected and world leading, independent Catholic daily.

 

2021年6月10日

・「時間のかかる取り組みに」ートービン枢機卿が教皇の” synodalityの旅”で寄稿(LaCroix)

(2021.5.29 La Croix United States Cardinal Joseph W. Tobin |)

   教皇フランシスコの教皇職の行動計画は、たとえ初めからはっきりしていたとしても、在位が長くなればなるほど、一段と鮮明になってきている。次の例を見てもらいたい。

 教皇に就任された2013 年に登場した教皇選出の風刺漫画は、宇宙から地球を見たように描かれ、教皇フランシスコが極点の 1 つに巨人のように立ち、彼の出身地である南米大陸が際立っていた。視覚効果を高めるために、作者のデビッド ホージーは、やや”預言的”な手法をとった。地球をひっくり返しに描き、教皇がその最上部の南極に立っているのだ。

 要するに、フランシスコの教皇就任で「世界がひっくり返った」というわけだ。この漫画が描かれたのは、米国の大統領にドナルド・トランプ氏が選出され、世界中が大きく動揺する3年前、チリや米国のニューアーク市のような所で聖職者の性的虐待問題が再燃する5年前、さらに、現在の新型コロナウイルスの世界的大感染が始まる7年前のこと。つまり、2013年以降、私たちは何度も、世界がひっくり返るような大事件を体験して来た。

 だが、これらの大事件はまた、「神はなぜ、地球の南部の辺境から、フランシスコの様な羊飼いを、私たちにお届けになったのか」、その理由をはっきりさせている。

 2013年の初め、私たちは、カトリック教会にとっての主要課題は、制度的な改革に関するものだと考え、新教皇を、「教皇絶対主義の乗組員を督励してまとめ上げ、カトリック教会を元のコースに戻すことのできる”よそ者”の登場」と受け止めていた。

 3年後の2016年、トランプ米大統領、ドゥテルテ・フィリピン大統領をはじめとする煽動政治家が権力の座に就くに至って、かつてアルゼンチンで起きた軍事独裁政権による恐怖政治を身をもって体験した教皇フランシスコが、このような暗黒の、残忍な世界観に代わるものを預言的に提起する可能性のあることを、私たちは、はっきりとさとった。

 フランシスコは、独裁者たちとの便宜的な同盟が必ず、涙、死、そして福音の本質の喪失で終わってきた、と私たちに警告することができた。さらに、2018年、聖職者による性的虐待問題が世界各地で再燃した時、私たちは教皇を改革者のレンズを通して見ようとしたが、ご自身は、単に組織の管理運営の役割に留まらない、ずっと重い役割を追っていることを明確に認識されていた。

 そして、新型コロナウイルスの大感染が地球の動きを止めた時、私たちは白い服を着た男ー教皇フランシスコーが、雨に濡れた誰もいないサンピエトロ広場を 1歩き、中央の壇上に一人座って、神に憐れみと救いを求められている姿を中継を通して見つめ、心に刻んだ。

*霊的交わり、参加、宣教

 旅を長く、遠くすればするほど、出会いの機会が増え、物事が明確になる。だが、ローマの司教と神の民が共に歩むこの旅の中で現れ続けるいくつかの言葉ー慈悲、喜び、識別、形成、対話ーの中で、最も誤解されているのは「synodality」だ。

 今では、「synodality」は教皇職と密接に関連する言葉になっている。教皇フランシスコは、中央集権的でない、共同かつ協議による意思決定を特徴とする教会ー西洋のトップダウン方式のローマ的位階構造よりも、東洋の教会の水平構造に親和性のある教会ーを求め続けておられる。

 教皇フランシスコは就任からこれまで8 年の間に、世界の教会の代表者たちの会議を5つ招集されている。なかでも、「家庭」をテーマにした世界代表司教会議(シノドス)は2014、2015両年に二回開かれ、その成果をもとに使徒的勧告「(家庭における)愛の喜http://radiko.jp/び」を発出された。 2018年の「若者」をテーマにしたシノドスでは、悩み多い若者たちの人生の旅に、教会としてどのように寄り添っていけるかについて、議論を深めた。

 そして、2019年のアマゾン地域シノドスでは、世界から遠ざけられたこの地域の声を聴き、キリストにおいて兄弟姉妹であるこの地域の人々に向けられている排除の力がどれほど有害なものであるかについて集中的に話し合った。

 そして、今年10月からは、「For a synodal Church: communion, participation, and mission.(共働する教会へ:霊的交わり、参加、そして宣教)」をテーマにしたシノドスが開かれる。

 このテーマについて、「synodalityについてのシノドスだって? 教皇が、あまりに”自己言及的”だと教会を非難し、我々に警告する言葉の要約ではないか?」と疑いの目を向ける人がいるかも知れない。

 だが、私はあえて主張したい。このシノドスは、キリストの体として私たちが共に成長するために、そして、この千年紀に主が私たちに期待される教会のモデルとして、教皇がはっきりと理解し、公けに提唱されていることを、受け入れる際に、もっと意識し、意図的になるために、欠かすことができないものだ、と。

 千年紀は、 教会の用語として使われる場合も、”時間のかかる取り組み”である。「synodalityの旅」は、教皇にとって、確かに、時間のかかる勝負。そして、私たちに課題として突き付け、教会としての私たちのあり方を変えることを求めるプロセスだ。私たちが気付くであろうことは、synodalityが、歴史を通じての「キリストの体」(である私たち)の旅ー継続的な回心を促し、救いの手を他者に差し伸べるよう求める旅ーに照準を当てている、ということである。

*「旅を共にする」

 教皇フランシスコに対する場合、あなたのガイドとして思いやりをもつのがいいだろう。バチカンの教理省に助言する国際神学委員会のメンバーに選ばれたReligious Sisters of Mercy.のシスター、プルーデンス・アレンについて考えてみよう。

 委員会が2018年にまとめた「教会の活動と宣教におけるsynodality」と題する報告書の中で、シスターはこのように書いている。「共に旅する弟子たち… 旅の仲間たちは互いに仕え合った… 人々は、神の王国の実現に向けて歴史の中を歩む… 謙遜の心をもって大胆に語る形でキリストと共に歩む… ”対話の旅”、そこで、私たちはどのようにして『私たちの側を歩まれるキリストの現存』を理解する…」

 このような言葉に聞き覚えがないだろうか? 多くの人は、「旅を共にする」という考えを教皇が好んでおられることに気が付いているのだ。

 もっとも、皆がこのように「旅」を解釈しているわけではない。英カトリック・ヘラルド紙の3月号は「共に歩む。だが… どこへ?」という見出しの記事を載せた。このような見方は、考え過ぎであり、伝統の周りにある枠組みを無視しているのだが… ともかく、イエスは、たくさん歩かれた。そして、弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民を弟子にするように」とGreat Commission (大宣教命令)を出された。

 パウロは自身の福音宣教を振り返って「私は、レースを走り切った」と語り、教皇ヨハネ23世が第2バチカン公会議を招集された理由の1つは「地上での人類の滞在の悲しみを減らすこと」だった。このヨハネ 23 世の言葉は注目に値する。それは、多くの点で、私たちが、彼が第 2 バチカン公会議で始められた旅の行程に取り込まれているからだ。

 偉大なイエズス会士の学者、ジョン・オマリーは、「公会議を完全に受け入れるには、教会は100年を必要とする」と述べている。教皇に選出され、教皇職を始められたのが第二バチカン公会議50周年と重なったフランシスコは、このことを(そしてこれからの50年がさらに興味深い時となっていることを)知っておられる。彼は、慈しみの特別年を呼びかけた時、ヨハネ23世の公会議の開会あいさつの言葉を引用し、この特別年が第二バチカン公会議の延長線上にあることを明確にされたー「教会は、厳格な精神よりも慈しみの薬を好みます」と。

*”シノドス・モデル”を批判する声も

 ”シノドス・モデル”に対する別の批評は、それが”「部分的なEmmaus”であり、共に歩くことを求めるが、回心はもとめていない」というものだ。これに対して、私は、「厳しさから慈しみへの動きが、すでに『回心』なのだ」と反論したい。

 だが、私たちは、人々が汚名を返上し、戻ってくるのを、ただ待っているわけにはいかない。まず自分自身の回心に取り組む必要がある。そして、そのために、外に出なければならない。 私たちは、キリストの体、この世界で外に向かう者。健康な体で何をするのか? 動くのだ。

 第二バチカン公会議の第 3 回会期が始まる少し前に、ヨハネ23世の後を継いだ教皇パウロ 6 世は、彼にとって初の回勅「Ecclesiam suam」を発表。その中で、単に「意思疎通や問題解決のための実用的な手法」としてではなく、「神と人間との救いをもたらす関係を表現する規範」としての対話を提起し、さらに、公会議の最後の数か月に、世界代表司教会議(シノドス)を制度化した。それ以来、シノドスは通常総会が15回、特別総会も数多く開かれ、聖ペトロの舟(カトリック教会)に教会活動の肝要な課題解決に推進力を与えようとした。

 しかしながら、最近のシノドスを見ると、敵味方から激しい非難にさらされている。2018年には、東方典礼と神学が専門のアダム・A・J・デヴィル教授から記憶に残る批判がなされた。彼は著書の中で、カトリック教会、正教会、東方諸教会、そして英国国教会の歴史を通して理解されたものとして、シノドスは「一定の集団の特定の関心について議論するもの。テーマに沿った会議ではない」と言明。

 そして、「(世界のメディアの関心を集めることがめったにない)法律を通し、司教を選ぶ(そして時には、規律を与える)権限を持った実務的な会議だ」と決めつけたが、いわゆる「ローマ・シノドス」の現行の管理・運営規則は、そうした権能をシノドスに認めていない。仮に、ローマ・カトリック教会がシノドス的な方向で続いているとすれば、1965 年以降の秩序を欠いた疑似シノドスに、真正シノドスについて恐れさせてはならない。

 デヴィル教授は最終的に、国際神学委員会の「多様なレベル、多様な形」で行われる真のsynodality の呼びかけを取り上げた。この呼びかけは、現地の司教たちのリーダーシップと教皇の一致の司祭職を含めた普遍教会の信仰を反映してたものだ。

*教皇の真の意図は…

 コンスタンティノープルのバーソロミュー・エキュメニカル総主教のような人物が教皇フランシスコに対して抱いている敬意を説明するのが、この野心的なビジョンだ、と私は信じている。伝統を生かそうとする教会のあり方を深い意図をもって捉える権威の用い方を、教皇が認識しておられると、私は信じている。

 フランシスコは、キリストの体に両肺で呼吸させようとする努力で、正教会を単に真似ているわけではない。私たちの伝統に焼き付けられた制度的な慣性の第二の千年紀を迎えてはいない現在、より協力的な教会を取り戻そうとしているのだ。

 第二バチカン公会議を象徴する用語は「ressourcement刷新)」ー新しい命を引き込むために、私たちの伝統の古代のルーツと繋ぎなおすことーだった。私たちが否定できないのは、何世紀にもわたって教会が、人々を追い出す手段としてsynodalityを使ってきたことである。

 シノドスが始まった頃は、異端を否認するために、あるいは、教義を定めるために、集合し、教会は悪路を歩むことが多かった。だが、私は言いたいー私たちは今、「旅」の新たな段階に入ったのだ、と。synodalityの行為は、独断的な宣言として機能するのではなく、福音を「時のしるし」に当てはまるよう微調整するために使われる。そして、synodalityとともに、フランシスコの長きにわたる”ゲーム”のもう一つの要点、「回心」が次に来る。

*第二バチカン公会議が書いた設計図を具体化するのが私たちの使命

 「回心」と言うとき、私は、教会自身の回心ー私たちが宣教の使命をどのように果たすのかを理解し、近づくための新しい方法ーについて話している。

 教皇フランシスコは、「でも、私たちはいつも、このやり方でやっている」というような惰性の様な思考態度を批判されている。また、第二バチカン公会議を招集された教皇ヨハネ23世の有名な言葉に、「私たちの教会は、『博物館を守る』ようにではなく、『満開の命の庭園の番をする』ように求められているのです」がある。同じことは、synodal(共働的な)教会についても言える。あたかも、すべての回答をもっているかのような、傲慢な態度をとることはできない。

 そしてまさに、ヨハネ 23 世は、 20 世紀前半に顕著になった混乱と破壊から時のしるしを読み取り、教会は証人として、可能な限り意識的で宣教的でなければならず、それを成し遂げるには教会会議が必要、と考えた。そして、それを実行に移す形で、第三の千年紀にふさわしい教会を動かすエンジンの設計図を書くために公会議を招集されたのである。ヨハネ23世はビジョンを提示された。それが、私たちが具体化すべきものだ。

 第二バチカン公会議は設計図を書いた。ヨハネ23世の後を継いだパウロ 6 世が、具体化に着手された。続くヨハネ・パウロ2世は、具体化の作業が求められた仕様通りに続けられていることを確認された。そして、ベネディクト 16 世がエンジンの最後の仕上げをし、フランシスコは今、それを実際に動かそうとしている。

 (興味深いことに、教皇フランシスコが、何ができるか知るためにエンジンの回転を上げ始めた今、それを最も恐れているように見える人々は、すべての規範と教会法令についての最もエンジニアらしい理解を備えた人々だということー仮にA=不規則な一致、B=兄弟姉妹として生きていない、とすると、A+B=聖体拝領は決して認められない、となる)。

 だが、フランシスコは、単に、私たちをもっと速く前に動かすことに挑戦されているのではない。より徹底した制度的な転換には、機敏で戦略的な識別も含まれる。

 フランシスコに対する最高の評価の一つは、ジャーナリストのクリストファー・ラムによるものだ。彼は「教皇は、どのダムが必然的に決壊するかを知っておられる」と言う。

 たとえある男が、堤防の上を飛び跳ね、変化を早めたり、止めたりしようとしているのなら、それが教皇であっても大した違いはない。だが、本当に指導的立場にある人が他の人々を率いて堤防を強化しようとしているなら、違う。私たちは、共に、心を込めて、誠実に、そして聖霊が導く方向を見極める意識をもって、強化作業に従事せねばならない。

*もはやsynodalityの行為は、独断的な宣言を一掃する機能を果たさない

 教皇フランシスコの下でこれまでに開かれた教会会議を通して、多くの人々にとって大きな驚きの 一つは、2019年のアマゾン地域シノドスの勧告ー特に、司祭の少ない辺境地域において効果が証明されている「既婚者の司祭叙階」ーを、彼が拒否したことだ。

  興味深いのは、彼が述べた理由が、神学的でなく、過程指向であり、このシノドスを「正統な集団識別」であるよりも、「議会の論理」を示すもの、としていたことだ。ご存じの通り、シノドスを計画するのに、何年もかかる。それほど秘密ではない議題を教会に押し付けるのを、教皇に認めるための、単なる見せかけだったとしたら、変わったやり方だ。

 Synodality に関するシノドスのテーマは、「もう一度やってください。今度こそ、あなたの作品を見せてください!」だろう。米シカゴ教区長のジョセフ・バーナーディン枢機卿の後を継いだブレイズ・キューピッチ枢機卿は、福音書に登場する東方の三博士についての素晴らしい描写を使って、シノドスのプロセスを説明したー「彼らは別の道を取って自分の国へ帰って行った」と。

 第二バチカン公会議の出来事とsynodalityが公会議の教父たちの間に醸成した変革の動きに注目しよう。公会議の作業文書が諸改革を一掃するのを受け入れることのないように、教皇庁が尽力したが、会議場に 3000 人の司教が集まり、聖霊を呼び求めると、「何か」が起こったのだ。

 98歳で教皇フランシスコによって枢機卿に任命された、ヨハネ23世の私設秘書ロリス・フランシスコ・カポビラ師は、Catholic News Serviceが作成したドキュメンタリー”Voices of Vatican II”の中で、第二バチカン公会議を招集されたヨハネス23世の理論的根拠について語っているー「とても素晴らしいことでした。第二次世界大戦のあと、三つの国際機関ー平和のためのUN(国連)、パンのためのFAO(国連食糧農業機関)、文化のためのUNESCO(国連教育科学文化機関)ーが設立されました。それなら、私たちも、なぜ皆で集まって、話し合いができないのでしょうか?」。

  そしてまさに、世界観が根底から覆されたこの戦後の時期に、フランシスコの長いゲームの最終的な到達点としての回心ー慈しみへの回心ーが、私たちに示されたのだ。

 

*”周辺部”の視点から考える

 synodalityと「ひっくり返った世界」に共通することの 一つは、ディートリッヒ ・ボンヘッファー(20世紀を代表するプロテスタント神学者、ヒットラー暗殺計画に関与し、ナチスに捕らえられて刑死)が「下からの視点」と呼んだもの与えてくれることだ。代表例として、教皇フランシスコの選出を契機に、宣教への強い使命感、出会い、”周辺部”、慈しみをもつラテンアメリカの教会の豊かな神学的刺激の扉を開かれたことを挙げることができる。

 ボンヘッファーの「下からの視点」を理解するもう 一つの方法は、疎外され、抑圧された人々について”周辺部”からの視点で考えることだ。教皇ヨハネ23世は、窓を開けるために公会議を招集したと言われている。「窓を開ける」からすぐに連想するのは「外の新鮮な空気を取り込む」だが、別のことも起きるー「外にいる人々の話し声が耳に入る」だ。

 難問を考え、検討してもらうために人々を集める場合、「自分の属している階層、あるいは教会全体でも得るのが難しい」と思う問いへの答えを、得ようとするだろう。

 第二バチカン公会議が始まる前に、ユダヤ人の歴史家ジュール・アイザックはヨハネ23世に 謁見を求めた。アイザックは公会議が、これまで教会が長い間続けてきたユダヤ人に対する「蔑視の教え」を取り消すことを希望していた。

 アイザックは自身の研究で「キリスト教会の反ユダヤ主義が、ナチのユダヤ人大虐殺を扇動する上で、いかに中心的な役割を果たしたか」を解き明かしているー教皇にできることはなかったのか? ヨハネ23世の開かれた心と第2バチカン公会議の共働性の成果として、公会議は「Nostra aetate(キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言)」を発出し、「ユダヤ人に向けられる憎悪や迫害や反ユダヤ主義的表現…を糾弾する」と言明した。

 ”氷河期”にある教会にとって、これは私たちの信仰表明に対する強烈な浄化の閃光だった。そして、synodalityの文脈の中でもたらされた典型例だと、私は確信している。

 

*synodalityは慈しみへの回心を刺激した

 ヨハネ23世がジュール・アイザックと会ったように、フランシスコはチリの性的虐待被害者、フアン・カルロス・クルスと会見した。彼の教皇との出会いは、被害に遭った神の子たちの叫びを聴く、新たな、慈しみ深い取り組みを始めるのに重要な役割を果たした。クルスはフランシスコが設置したバチカンの未成年者の保護のための委員会のメンバーになった。”周辺部”が中心に置かれるようになり、カトリック教会は、教皇ご自身も含めて、回心を経験している。

 そして、注意すれば、現在の教会の中に、synodalityに触発された慈しみへの回心のしるしを至るところで目にすることができるだろう。フランシスコは回勅「Fratelli Tutti(兄弟の皆さん)」に書いているー「それ(synodality)が、すべての人に場を作り、情報を操作したり隠したりしないなら、真実をよりよく理解するための絶え間ない刺激となる」。

 シノドス(世界代表司教会議)事務局のナタリー・ベクカール次長は、「(女性である自分がこのポストに就くという)歴史的な人事は、教会が女性たちの声を中心に置くようにとの要望に注意をはらっている証拠です」と指摘している。

 バチカンの人間開発省の難民・移民部門は、最新の文書は、気候変動の為に移住を余儀なくされた人々の窮状に焦点を当てた。聖アルフォンス・リグオリ(1696–1787・イタリアの司教、法律家であり芸術家でもあった)は最近、教会博士に叙せられて150周年を迎えたが、教皇フランシスコは彼の「見捨てられ、打ちひしがれた男女に耳を傾け、受け入れる」振る舞いを強く讃えた。

 これを「社会的差別」の匂いがする、と言う人がいるかも知れないが、私が言いたいのは、10億人を超える世界のカトリック信徒、2000年を超えるキリスト教の伝統の素晴らしさは、ほんのわずかな差別を受けている人も支える体制が整っている、といることだ。

 私たちは深く根を張っている。 キリストの体(教会)に保身はない。 主は貧しい人々の叫びを聴いておられる。 私たちは主に倣わねばならない。ものごとが実際にそうであるよりも公正で調和がとれているという思い違いをすべきではない。

 極めて重要なことは、私たちが教会として、単に人の言葉に耳を傾けるだけでなく、実際に人々から聴くことだ。そうすることが、私たちの心を和らげ、回心への準備を整える。そして私たち司教に知ることーそう、私たちが識別している新たなことが聖霊の働きだということを知ることに自信を与える。なぜなら、信徒たちもまた、それを聴くからだ。

 

*”キリストの体”を一つにまとめる助けに

 教会が慈しみにどのようにアプローチするかについての重要な言葉の一つであり、synodalityを理解するのに役立つ言葉の一つでもあるのは、「integration(統合)」ー何が統合される必要があるのかの問題だ。そして、私が言おうとしているのは、この場合、教会の頭とキリストの体の他の部位を統合する助けとなる、ということだ。

 手足の表面が冷たくて灰色の体を想像してみよう。心臓は動いているかもしれないが、生命力がすべての毛細血管に及んでいない。 私は、(教皇フランシスコが使徒的勧告)「Amoris laetitia (家庭における愛の喜び)」で示された「教義や道徳、あるいは司牧上の議論すべてが(教皇の)教導権による介入で解決される必要はない」という言葉について考える。意図的に婉曲的な表現をとったと思うこの言葉の一つの解釈は、「この使徒的勧告そのものが教導権の一部をなしていないことを示唆している」だ。いや、フランシスコが言いたかったのは、「バチカンだけが『キリストの体』を構成しているのではない」ということなのだ。

 教皇は、はっきりしているー彼が認識しているのは、自分の役割は伝統を守ることだ、ということだ。考え、周りを見回し、多分、遠くの地平線に私たちのビジョンを設定し、そして時々は、私たちが欲求不満で額を壁にぶつけるのを「やめよ」と言うのに、「頭」は適している。だが、「頭」だけでは物を持ち上げられないし、人々を抱きしめることもできない。「キリストの体」の他者に手を差し伸べる腕はどこにあるのか?

 中心部と周辺部の循環が、教会の日常の出来事の大部分を占める必要がある。そして、神から授かった宣教の使命を遂行し続ける中で、私たちは自分の体全体、緊張を感じる箇所、さらには、私たちの証しを有毒にする危険のある治っていない傷ー人種差別、女性蔑視、聖職者主義、性的虐待などーをも調和させねばならない。.

 だが、神はすべての形を変えられる。神が触れられて癒されなかった傷は?それは、フランシスコと言う名の男が体に負っっているーstigmata(聖痕)ーイエス・キリストが負われた傷だ。共に歩み、聴き、私たちが内と外で出会う人々すべてに慈しみをもたらす、真のsynodalityの教会は、私たちの負った傷を、そして信仰を奮い立たせるために人々が持つ力を決して忘れることがない。

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(カトリック・あい)synodalityについて・・・教皇フランシスコが就任当初から重要課題とされてきた「シノダリティ(synodality)」の言葉通りの意味は「ともに歩む」。日本語では「共働性」「協働性」あるいは「共同制」などとも訳されるが、教会内部でも定訳がないため、この評論では、あえて原文の英語表記のままとした。教皇がこの言葉に込められた意味は「教皇を頭とする司教団がキリストから与えられた権威をもって、神の意志を識別し、聖霊の声を聴きつつ、世界の全ての聖職者、信徒とともに進める、新しいアプローチや教義の転換をも導く可能性に開かれた、対話、洞察、協働のプロセス」と解釈できるのではないかと思われる。今後も頻繁に使われる言葉なので、適訳があれば、提示くださるよう、皆さんにお願いしたい。

*ジョセフ・W・トービン枢機卿は、1952年5月、米国生まれ。レデンプトール会士で、2017年1月から米ニューアーク大司教。2016年11月に枢機卿となり、2020年8月にバチカンの財務の実権握る財務評議会のメンバーに任命された。この評論は、今年5月3日にシカゴのロヨラ大学で”Cardinal Bernardin Common Cause Address ”のシリーズの一環として、トービン枢機卿が行った講演をもとにしたもので、米国のカトリック系評論誌Commonweal Magazineに掲載されている。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

LA CROIX international is the premier online Catholic daily providing unique quality content about topics that matter in the world such as politics, society, religion, culture, education and ethics. for post-Vatican II Catholics and those who are passionate about how the living Christian tradition engages, shapes and makes sense of the burning issues of the day in our rapidly changing world. Inspired by the reforming vision of the Second Vatican Council, LCI offers news, commentary and analysis on the Church in the World and the world of the Church. LA CROIX is Europe’s pre-eminent Catholic daily providing quality journalism on world events, politics, science, culture, technology, economy and much more. La CROIX which first appeared as a daily newspaper in 1883 is a highly respected and world leading, independent Catholic daily.

 

2021年6月1日

*「時間をかけた”シノドス・プロセス”に教区全体として加わる」-菊地大司教

菊池大司教の日記:2021年5月21日 (金)第16回通常シノドスへの道

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 第16回目となるシノドスは、当初、来年10月開催の予定でしたが、感染症の状況を考慮して、2023年10月に開催となることが発表されています。(写真は、2017年4月にバチカンのシノドスホールで行われた国際会議にて。ここがシノドスの会場になります。)

 今回のこのシノドスのテーマは、“For a synodal Church: communion, participation and mission”(『シノドス性ある教会のために:交わり、参加、ミッション』:バチカンニュース仮訳)と、昨年すでに発表されていました。

 ご存じのようにシノドスとは世界代表司教会議のことで、中央協議会のホームページにこう記されています。

 「『シノドス』とは、『共に歩む』という意味のギリシア語で、一定時に会合する司教たちの集会のことです。教皇と司教たちとの関係を深め、信仰および倫理の擁護と向上、規律の遵守と強化のための助言をもって教皇を補佐するために開かれます。またそこでは、世界における教会の活動に関する諸問題を研究します。・・・シノドスは、提起された問題を討議し、教皇に意見を具申しますが、決定機関ではありません。会議に関する権限は、すべて教皇にあります。会議の招集、代議員の指名・任命、会議要綱の決定、会議の主宰、閉会、延期、解散などは教皇の権限によって行われます」

 今回のシノドスについて、事務局の責任者であるマリオ・グレック枢機卿から発表がありました。今回はまさしく、「共に歩む」事を最重点課題として、教会全体の声に耳を傾けたい。その声は、司教たちだけの声でなく、司祭、信徒、修道者の声である。そのために、2023年10月の会議だけに終わるのではなく、シノドスのプロセスを、今年2021年10月から開始するというのです。

 シノドス事務局といえば、教皇様は責任者である事務局長にマルタのゴゾ司教であったマリオ・グレック師を2019年に任命し、その後枢機卿にされています。そして今年2月には二人の次官を任命し、そのうちの一人が初めての女性次官(バチカンで初めて)であるシスター・ナタリー・ベカーです。フランスの司教協議会で、青年司牧と召命促進の担当者を務めていたシスター・ベカーは、「発見が沢山ある新たな冒険の入り口に立った気持ちです」とバチカンニュースのインタビューに答えておられました。(リンク先はYoutubeのEWTNのインタビューで英語ですが、シスター・ベカーの人となりを知ることが出来るビデオです

 さて、そのシノドスのためにグレック枢機卿は世界中の司教宛てに書簡を送付し、その中で、教皇様が前回の通常シノドス(2018年に「若者、信仰そして召命の識別」をテーマに開催)で強調されていたシノドス的教会のあり方を、今回はなお、いっそう重視し、実践に移したい、と強調されています。Synodhall2017e シノドス的教会については、2018年10月の前回の通常シノドス閉会にあたり、教皇様がお告げの祈りで述べられたメッセージの言葉を思い起こしたいと思います。その中で、教皇様は、次のように言われます。(上の写真は、2017年4月のシノドスホールでの会議で、タクソン枢機卿と話す教皇様)

 「それは『癒しと希望』の時、であり、何よりも『傾聴』の時でした。傾聴するためには、時間、注意力、さらには心と気持ちを開け放つことが必要です。しかしその行程は、日々、癒しに変わっていきました」

 互いの話に耳を傾け合うことの重要性です。その上で、

 「傾聴というこの基本的な手だてを通して、わたしたちは現実を解釈し、現代のしるしを把握しようとしました。そして、み言葉と聖霊の光のもとに、「共同体としての識別」が行われました。それは、主からカトリック教会に与えられた最も素晴らしい賜物の一つです。つまり、まったく異なる状況にある人々の発言や表情を集め、つねに福音の光のもとに、その現象の利点と複雑性を考慮に入れながら解釈しようとしたのです」

 神の求める道はどこにあるのかを、識別するのです。それも一人でそうするのではなく、共同体としての識別です。そして、

 「書面の文書を作成することを第一の目的としない『シノドス様式』です。書面の文書も貴重で有益なものですが、それ以上に、現状に即した司牧的選択をするために、老若男女が集まり、協力しながら傾聴と識別を行う方法を推進することが重要です」

 「シノドス様式」と訳されている「シノダリティ」。実は先般発表した東京教区の宣教司牧の方針を定めるにあたっても、私としてはその『シノドス様式』を多少なりとも尊重して、「互いの意見に耳を傾けあい、共同体としての識別を重ねたい」と思いました。コロナ禍もあり、完全には実施できなかったものの、宣教司牧方針の策定には多くの意見をいただき、感謝しています。

 さて、というわけで、今回の第16回通常シノドスです。グレック枢機卿は、今回のシノドスをまさしく『共に歩む』道程とするために、まず、2021年10月にその道程を開始する、と発表されました。Synodhall2017d

 2021年9月頃には、最初の課題集が公表されます。そして、10月9日と10日に教皇様はバチカンで、さらに世界中の各教区でも10月17日に、シノドスの始まりを祝うミサを捧げるように、と指示がされています。また、世界中の各教区には意見をとりまとめるための担当者かチームを任命して、教区全体から課題集に対しての意見を募るように、との指示がありました。

 その上で教区の回答を集約し、翌2022年4月までに、各司教協議会がとりまとめます。その世界各地のまとめをさらに集約して2022年9月には最初の文書がシノドス事務局によって作られます。さらに今度は、各大陸別の司教協議会連盟(アジアはFABC)で議論を深め、それに基づいて、2023年6月までに、シノドスの作業文書がシノドス事務局によって作成され、10月の会議となります。

 感染症の状況がどのように推移するのか、推測するのは難しいことですが、できる限り、神の民の一員として、この「共に歩む」道程に、東京大司教区全体として加わることができるように努めたい、と考えています。(写真は、2017年4月の会議後、シノドスホール出口に向かうところで、皆に囲まれる教皇様)

 シノドスはこれまで、事務局から文書が送られてきて、それに文書で司教団が回答し、それをもとにして委員会が作業文書を作成し、本番の会議が進められてきました。そのため、地域教会の現実を十分に反映していないと、さまざまな方面からシノドスのプロセスに懸念を表明する声がありました。

 今回の、教皇様の意向を取り入れた、時間をかけた事前の準備プロセスがうまく機能するならば、シノドスは変化するでしょうか。私たちもそれに加わりながら、シノドス・プロセスを注視したいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2021年5月22日