・”Synodality”-歓迎すべき概念、達成は困難 -教会学者が過去の経験から語る(LaCroix)

(2021.5.27 La Croix   George Wilson S.J.  United States)

 教皇フランシスコが提起された「synodalityの旅」が議論を呼んでいるが、多くの教区や修道会の顧問などを務めていた頃の自分の記憶を思い起こし、この議論に何か貢献できることはないか考えてみた。

 まず、「synodality」という言葉。この言葉が、カトリック教会で特定の意味として使われ始めたのは、最近のことだ。
第二バチカン公会議 (1962 ~ 65年) 直後の数年間、私たちは、教会での責任分担を促進するための組織的な集まりーシノドス(世界代表司教会議)、協議会、委員会などーについて話しをした。このような生きている人間の集まりに対して、「synodality」は、集まりを選択することに開かれた姿勢、あるいは方向付けを意味しようとしているように思われる。教皇は、幅広い信徒たちが教会活動への発言権と責任を持つ教会を望まれているのだ。

*「synod」とは?

 「synod」は、一般的に、教区、あるいはごくまれに国全体の聖職者、そしておそらくは信徒も含めた集まりを指すが、新語(synodality)を創造された教皇は、もっと幅広い意味に使っておられるのだろう。

  教区の司祭の集まりは、小教区評議会やカトリック系の大学や病院の理事会と同様に、「synodal」の性格を持っている。突き詰めて言えば、「synodality」は、対等な立場の人が集まって、他ではできないような宗教的目的の達成に関与することを意味する。それは聖霊によって導かれているとしても、あくまでの人間的な事業だ。

 このことは、ほとんど自明であるように思われるかもしれない。だが、これまでの経験が示しているのは、実際の人間の意思疎通というものが、この問題についての意見のやり取りで、あまりにもしばしば、単に当たり前のように見なされている、ということだ。

 「synod」と言うと、通常、人々はすぐにその仕組みの問題―誰がメンバーになるのか、どのような権限を持つのか、誰が会議の方針を決めるのか、誰に発言権や投票権があるのかーに飛びつくものだ。

 もちろん、その取り組みを成功させようとすれば、そのような問題を解決する必要があるだろう。だが、組織や運営をどうするかに全神経を集中させることは、様々な神学的、文化的世界観(当然ながら、人柄や偏見、あらゆる種類の癖も含む)を持った人々を集めることで引き起こされる人間的現実―そして、落とし穴―を避けて通ることになり得る。

 ということで、私は組織や運営の規範に関する議論を他の方々にお任せしたい。この論考では、人間の対人関係の原動力について中心的に取り上げたい。組織構造は変わることがあるが、人間の本質には変わりがないからだ。

*期待感の役割

 協議会、委員会、あるいはシノドス、といったsynodalな仕組みの告知は、第一に期待感を高めることを意味する。そのような組織体の創設を宣言すると、必然的にそれぞれの共同体が共有する魂を変えられてしまう。

 これは私たちの生活に、どのような影響が与えようとするのか? 何を予測できるのか? 何を期待できるのか?

 引き起こされる期待がどのようなものであるかは、直近のー生き生きとした記憶に残る、責任を分かち合おうとする過去の試みも含めてー状況による。そうした試みが成功していた場合、新たな取り組みは、信頼を基礎にして成立する。

 だが、これまでの取り組みが成果を生まなかったことが実証されたケースもある。おそらく、司教や主任司祭、あるいは”最高経営責任者”が、教会の組織体の声を聴かないように協議事項を調整したか、それとも、リーダーたちが、到達した結論を実行することに失敗したのだろう。どちらにしても、新しい呼びかけに対する圧倒的な反応は、不信、そうでなければ露骨な嘲りにもなるだろう。

 リーダーたちが、過去に真摯に耳を傾け、最後までやり遂げることで信頼を獲得していなかったなら、今なされている努力は、初めから運命が決まっている、ということだろう。

 「期待」は人間的な力の一形態だ。期待が明確に示され、満たされるなら、その共同体はより大きな満足と自尊心を得るだろう。だが、最初から曖昧であったり、対立したりしていたら、その結果は、共同体の分断、あるいは明らかな分極化をもたらすことになる。そして、それが明確に示されたにもかかわらず、満たされなければ、「幅広い責任の分担」への共同体の期待感は、大きくしぼむだろう。”内輪”の取り組みが、それとも非公式な“内部”と”外部”の取り組みか?

 「synodal」な組織体は通常、内部の様々な層の人々―様々な役職者、元役員、主要な共同体メンバー、他の組織で才能を発揮した人々などーで構成される。それはそれで良いことだ。

 だが、組織体が動き始めたら、理論的にはメンバー各人に同等の発言の機会が与えられねばならない。この原則は、メンバーがもともと選ばれた判断基準に関係なく適用される。意思決定の過程で、あるメンバーが話をし、他のメンバーは黙らされるようなことが明るみに出れば、 synodal の平等性に対する理に適った期待は壊されてしまう。

 嘆かわしいことだが、このような組織体で、相対立する意見が聴取される以前に、ある非公式な集団が結論を固めてしまうことがあったようだ。教会の最高位にある組織体も、”八百長”に免疫があるわけではない。

 Synodalの組織体は、個々の共同体にとって真に重要な課題―ビジョンと果たすべき使命の明確化、目標の設定、優先順位の割り当て、人的・財政的資源の開発と配分―に対処するためのものだろう。

 そのような課題についての、自由で開かれた話し合いこそが、成功したsynodの”品質証明”なのだ。それには、制度のリーダーたちに挑戦するような結論への道を組織体が見つけるのを容認するような、内面的に自由なリーダーたちが必要だ。

*Synodalの組織体に影響を与える人間的現実

 私たちに助言を求めたある修道会は、民主的気風を誇りにし、意思決定に対する個々人の関与をとても重視していた。私は、その修道会の連絡役とのやり取りを通して、ある興味深い実態を知った。

 その管区参事会は、何十年も毎年繰り返し選ばれる年長のメンバーで構成されることが慣習化していた。そうした中で、まだ若い司祭だった連絡役がメンバーに選ばれたのだが、会合ではメンバーの勤続期間で席が決められており、彼は、年長者の一人で彼の指導役をしていた司祭の隣に座らせられた。

 ある朝、何かの事について投票を求められた(どのような事なのか、ここでは重要ではない)。指導役が「この件に関して私たちは自由だ」とささやくので、どういう意味か尋ねると、「私たちは好きなように投票できるのだよ」と言われた。

 それを聞いて、どのように投票するか判断に迷ったが、それも、年長者の一人が前の方からメンバーたちに合図を出し、案件ごとにどう投票すべきかを指示していたことを知るまでのことだったーまるで野球の試合で監督が「盗塁しろ」「守備を固めろ」と指示するようなものだ。最初から最後まで、すべて不正に操作されていたのだ。

*「Synodality 」の実践 ―もうひとつの世界

 ある新任司教は、トップダウン方式で教区に関するすべてを事細かに管理していた前任者とは大きく異なる宗教的信条の持ち主のようだった。その教区の司祭たちは、新司教がどのような管理の仕方をするのか、どんなビジョンを持っているのか、注目した。

 彼の初仕事は5日間の司祭総会の招集だった。私たちが企画と進行を依頼されたその総会で、彼が最初にしたのは、司祭たちに自分たちの「ビジョン」は何か尋ねることだった。長年にわたって前司教の方針に完全に従ってきた司祭たちは、どのように答えたものか、途方に暮れた。自分たちに付与された力をどのように使えばいいのか分からなかったのだ。

 新司教が彼らに自分の意見を語らせるのに総会の最終日まで待たねばならなかったが、総会の最後に、教会への責任を信徒たちにも分担してもらう聖職者、信徒を代表する組織ー司牧評議会ーの設置を全会一致で決議することができた。

 司教は、すぐに司牧評議会の設立に着手し、私たちに協力を求め、それが一段落すると、この未知の集団を結束力と信頼感のある組織にするために評議員の研修をするよう求められた。何回かの研修会を経て、新司教への信頼度がかなり高まったところで、評議員の信徒の一人が司教にこう質問したー「司牧評議会を作ってくださった私たちへの信頼に感謝しますが、あなたは私たちの決定に拒否権をお持ちになるおつもりですか」。

 司教は迷うことなく答えたー「バチカンに聞けば、私に拒否権がある、という答えが返ってくるでしょう。しかし私は、皆さんが支持することのできる答えを必ず見つけることができると信じています。『拒否権』という言葉は二度と聞きたくありません」と。

 彼は、運営上の構造や期待値を明確にすることが重要であることをしっかりと把握していた。だが、最終的に重要なのは、組織の意思決定を特徴づける人間性と敬意の程度だ。司牧評議会の一期目の4年、互いの信頼に基づいた自由な対話を通じて、意見の相違を乗り越え、運営が続けられた。

 このようにして生み出された自由は、評議員たちが任期を終えようとした時に発揮された。

 誰もが抱く懸念は、誰が自分たちの後に続くのか、自分たちがいなくなった後、これまでに築かれた業績はどのように維持されるのかーだろう。米国では、このような組織を継続する場合、評議員の一部を留任させ、残りのメンバーは退任し、後任を選ぶのが一般的だ。

 様々な選択肢について議論を重ねる中で、ある評議員はこう言った。「私たち全員が退任して、司教に全く新しい評議会を作ってもらったらどうでしょう」。たちまち、他の評議員から異論が出されたー「これまでに達成したことをすべて無駄にするのですか。すべての仕事を危険にさらすのですか。ばかばかしい!!」。評議会は、互いの信頼の中で、解散に抵抗するほどにまで成長していたのだ。

 それで、評議会は数週間かけて、今後の選択肢について議論を深めていった。ある時、評議員の誰かがこう言ったー「私たちは、評議会発足当初はまったく知られない存在でしたが、司教が私たちと世話人たちに信頼を寄せてくださったので、ここまで成長できました。そのような私たちの業績は否定されねばならないようなものでしょうか」。ー評議会の存続が決められ、いくつかの小さな改善策が決められた後、評議員全員が任期満了をもって退任し、新しい評議員が選ばれた。

 私たちは新旧の評議員の意見交換の場を設けた。その終わりに、退任する評議員の一人が次のように語ったー「私は、このような全面的な交替には全く反対でした。しかし、新評議員のような素晴らしく、献身的な人たちに出会って、私たちの最終決断は聖霊の導きによるものだ、と確信しました」。

*Synodalityに抵抗する諸形態

 Synodalityがそれほど魅力的であるなら、どうして以前にはなかったのだろうか?進歩的な信徒が「権力に固執する聖職者が、真のsynodalityへの動きを妨げている」と非難するのはよくあることだ。それを裏付ける十分な証拠も、確かにある。

 だが、私の経験から言えば、そうした評価を無条件に受け入れることは安易に過ぎる。シノドスが成功するのに必要な主体性と責任感を完全に受け入れる用意が、信徒たちに十分に出来ているわけではない。

 一例を挙げよう。私たちが某司教の教区評議会の設立と研修を助けた際に、最良の方法を用いて、評議員に相応しい人を見つけたが、それからしばらく経った時のことだ。

 その司教はあるデリケートな問題―小教区の祝祭におけるアルコールの提供―をどう扱えばいいのか、評議会に判断を求めた。一年以上にわたって賛否を議論し、さまざまな選択肢を検討した結果、決断を下す準備ができた。私は評議員一人ひとりに、どのように考えているかを尋ねた。そのうちのある評議員が「私はただ、司教の望み通りにしたいだけだ…」と言い出し、他の評議員たちをすっかり失望させたー「私たちは何のために評議員になったのだろう。彼は今まで何を考えていたのか」と。だが、この哀れな男性に公平を期すなら、「何十年も前から先祖代々受け継がれてきた思考方法から、そうした発言に至ったに過ぎない」と言わねばならない。

*文化的な変容

 これは確かに極端な例だが、このような従属的な行動様式は、深刻に受け止めねばならないほど頻繁に起きている。

 教皇がsynodalityの呼び掛けをもって実際になさっていることは、”伝統的”な教会文化ー何が最善か知っているのは聖職者で、信徒は「祈り、償い、従う」だけでいい、という文化ーそのものの根本的な否定だ。だが、そうした文化の役割や台本は、非常に長い間、教会内部で効力を持ち続け、”集団の魂”の中に生きているため、単に仕組みを作るだけでは、その力に打ち勝つことはないだろう。

 自分自身を益するような行為をしないように求められているのは、聖職者だけではない。信徒も、洗礼によって与えられた力を生かさねばならない。問題は、「異なる召命によって生み出された区別は、洗礼に由来する基本的な平等を打ち消すことを認めるのか」に尽きる。

 Synodalな組織体とは、それをどのように呼ぼうと、生きている巡礼者たちの集まり、全員が平等で、互いに信頼と尊敬をもって結ばれた集まりであり、時のしるしを読み取り、今この時に、主が教会に何を求められているかを探し求める組織体だ。その活動をまとめるために組織体が採用する方法は、参加者の連帯を高める限りにおいて価値をもつ。

*ジョージ・ウィルソンはイエズス会の司祭で教会論の研究者。現在は引退して米ボルチモアに在住。著書に「Clericalism:The Death of Priesthood 」(Liturgical Press, 2008)がある。

(翻訳「カトリック・あい」ガブリエル・タン)

*Synodalityをあえて英語表記のままにしたのは・・・教皇フランシスコが就任当初から重要課題とされてきた「synodality)」の言葉通りの意味は「共に歩む」。日本語では「共働性」「協働性」あるいは「共同制」などとも訳されるが、教会内部でも定訳がないため、この評論では、あえて原文の英語表記のままとした。教皇がこの言葉に込められた意味は「教皇を頭とする司教団がキリストから与えられた権威をもって、神の意志を識別し、聖霊の声を聴きつつ、世界の全ての聖職者、信徒とともに進める、新しいアプローチや教義の転換をも導く可能性に開かれた、対話、洞察、協働のプロセス」と解釈できるのではないかと思われる。今後も頻繁に使われる言葉なので、適訳があれば、提示くださるよう、皆さんにお願いしたい。(「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

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2021年6月10日

・「時間のかかる取り組みに」ートービン枢機卿が教皇の” synodalityの旅”で寄稿(LaCroix)

(2021.5.29 La Croix United States Cardinal Joseph W. Tobin |)

   教皇フランシスコの教皇職の行動計画は、たとえ初めからはっきりしていたとしても、在位が長くなればなるほど、一段と鮮明になってきている。次の例を見てもらいたい。

 教皇に就任された2013 年に登場した教皇選出の風刺漫画は、宇宙から地球を見たように描かれ、教皇フランシスコが極点の 1 つに巨人のように立ち、彼の出身地である南米大陸が際立っていた。視覚効果を高めるために、作者のデビッド ホージーは、やや”預言的”な手法をとった。地球をひっくり返しに描き、教皇がその最上部の南極に立っているのだ。

 要するに、フランシスコの教皇就任で「世界がひっくり返った」というわけだ。この漫画が描かれたのは、米国の大統領にドナルド・トランプ氏が選出され、世界中が大きく動揺する3年前、チリや米国のニューアーク市のような所で聖職者の性的虐待問題が再燃する5年前、さらに、現在の新型コロナウイルスの世界的大感染が始まる7年前のこと。つまり、2013年以降、私たちは何度も、世界がひっくり返るような大事件を体験して来た。

 だが、これらの大事件はまた、「神はなぜ、地球の南部の辺境から、フランシスコの様な羊飼いを、私たちにお届けになったのか」、その理由をはっきりさせている。

 2013年の初め、私たちは、カトリック教会にとっての主要課題は、制度的な改革に関するものだと考え、新教皇を、「教皇絶対主義の乗組員を督励してまとめ上げ、カトリック教会を元のコースに戻すことのできる”よそ者”の登場」と受け止めていた。

 3年後の2016年、トランプ米大統領、ドゥテルテ・フィリピン大統領をはじめとする煽動政治家が権力の座に就くに至って、かつてアルゼンチンで起きた軍事独裁政権による恐怖政治を身をもって体験した教皇フランシスコが、このような暗黒の、残忍な世界観に代わるものを預言的に提起する可能性のあることを、私たちは、はっきりとさとった。

 フランシスコは、独裁者たちとの便宜的な同盟が必ず、涙、死、そして福音の本質の喪失で終わってきた、と私たちに警告することができた。さらに、2018年、聖職者による性的虐待問題が世界各地で再燃した時、私たちは教皇を改革者のレンズを通して見ようとしたが、ご自身は、単に組織の管理運営の役割に留まらない、ずっと重い役割を追っていることを明確に認識されていた。

 そして、新型コロナウイルスの大感染が地球の動きを止めた時、私たちは白い服を着た男ー教皇フランシスコーが、雨に濡れた誰もいないサンピエトロ広場を 1歩き、中央の壇上に一人座って、神に憐れみと救いを求められている姿を中継を通して見つめ、心に刻んだ。

*霊的交わり、参加、宣教

 旅を長く、遠くすればするほど、出会いの機会が増え、物事が明確になる。だが、ローマの司教と神の民が共に歩むこの旅の中で現れ続けるいくつかの言葉ー慈悲、喜び、識別、形成、対話ーの中で、最も誤解されているのは「synodality」だ。

 今では、「synodality」は教皇職と密接に関連する言葉になっている。教皇フランシスコは、中央集権的でない、共同かつ協議による意思決定を特徴とする教会ー西洋のトップダウン方式のローマ的位階構造よりも、東洋の教会の水平構造に親和性のある教会ーを求め続けておられる。

 教皇フランシスコは就任からこれまで8 年の間に、世界の教会の代表者たちの会議を5つ招集されている。なかでも、「家庭」をテーマにした世界代表司教会議(シノドス)は2014、2015両年に二回開かれ、その成果をもとに使徒的勧告「(家庭における)愛の喜http://radiko.jp/び」を発出された。 2018年の「若者」をテーマにしたシノドスでは、悩み多い若者たちの人生の旅に、教会としてどのように寄り添っていけるかについて、議論を深めた。

 そして、2019年のアマゾン地域シノドスでは、世界から遠ざけられたこの地域の声を聴き、キリストにおいて兄弟姉妹であるこの地域の人々に向けられている排除の力がどれほど有害なものであるかについて集中的に話し合った。

 そして、今年10月からは、「For a synodal Church: communion, participation, and mission.(共働する教会へ:霊的交わり、参加、そして宣教)」をテーマにしたシノドスが開かれる。

 このテーマについて、「synodalityについてのシノドスだって? 教皇が、あまりに”自己言及的”だと教会を非難し、我々に警告する言葉の要約ではないか?」と疑いの目を向ける人がいるかも知れない。

 だが、私はあえて主張したい。このシノドスは、キリストの体として私たちが共に成長するために、そして、この千年紀に主が私たちに期待される教会のモデルとして、教皇がはっきりと理解し、公けに提唱されていることを、受け入れる際に、もっと意識し、意図的になるために、欠かすことができないものだ、と。

 千年紀は、 教会の用語として使われる場合も、”時間のかかる取り組み”である。「synodalityの旅」は、教皇にとって、確かに、時間のかかる勝負。そして、私たちに課題として突き付け、教会としての私たちのあり方を変えることを求めるプロセスだ。私たちが気付くであろうことは、synodalityが、歴史を通じての「キリストの体」(である私たち)の旅ー継続的な回心を促し、救いの手を他者に差し伸べるよう求める旅ーに照準を当てている、ということである。

*「旅を共にする」

 教皇フランシスコに対する場合、あなたのガイドとして思いやりをもつのがいいだろう。バチカンの教理省に助言する国際神学委員会のメンバーに選ばれたReligious Sisters of Mercy.のシスター、プルーデンス・アレンについて考えてみよう。

 委員会が2018年にまとめた「教会の活動と宣教におけるsynodality」と題する報告書の中で、シスターはこのように書いている。「共に旅する弟子たち… 旅の仲間たちは互いに仕え合った… 人々は、神の王国の実現に向けて歴史の中を歩む… 謙遜の心をもって大胆に語る形でキリストと共に歩む… ”対話の旅”、そこで、私たちはどのようにして『私たちの側を歩まれるキリストの現存』を理解する…」

 このような言葉に聞き覚えがないだろうか? 多くの人は、「旅を共にする」という考えを教皇が好んでおられることに気が付いているのだ。

 もっとも、皆がこのように「旅」を解釈しているわけではない。英カトリック・ヘラルド紙の3月号は「共に歩む。だが… どこへ?」という見出しの記事を載せた。このような見方は、考え過ぎであり、伝統の周りにある枠組みを無視しているのだが… ともかく、イエスは、たくさん歩かれた。そして、弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民を弟子にするように」とGreat Commission (大宣教命令)を出された。

 パウロは自身の福音宣教を振り返って「私は、レースを走り切った」と語り、教皇ヨハネ23世が第2バチカン公会議を招集された理由の1つは「地上での人類の滞在の悲しみを減らすこと」だった。このヨハネ 23 世の言葉は注目に値する。それは、多くの点で、私たちが、彼が第 2 バチカン公会議で始められた旅の行程に取り込まれているからだ。

 偉大なイエズス会士の学者、ジョン・オマリーは、「公会議を完全に受け入れるには、教会は100年を必要とする」と述べている。教皇に選出され、教皇職を始められたのが第二バチカン公会議50周年と重なったフランシスコは、このことを(そしてこれからの50年がさらに興味深い時となっていることを)知っておられる。彼は、慈しみの特別年を呼びかけた時、ヨハネ23世の公会議の開会あいさつの言葉を引用し、この特別年が第二バチカン公会議の延長線上にあることを明確にされたー「教会は、厳格な精神よりも慈しみの薬を好みます」と。

*”シノドス・モデル”を批判する声も

 ”シノドス・モデル”に対する別の批評は、それが”「部分的なEmmaus”であり、共に歩くことを求めるが、回心はもとめていない」というものだ。これに対して、私は、「厳しさから慈しみへの動きが、すでに『回心』なのだ」と反論したい。

 だが、私たちは、人々が汚名を返上し、戻ってくるのを、ただ待っているわけにはいかない。まず自分自身の回心に取り組む必要がある。そして、そのために、外に出なければならない。 私たちは、キリストの体、この世界で外に向かう者。健康な体で何をするのか? 動くのだ。

 第二バチカン公会議の第 3 回会期が始まる少し前に、ヨハネ23世の後を継いだ教皇パウロ 6 世は、彼にとって初の回勅「Ecclesiam suam」を発表。その中で、単に「意思疎通や問題解決のための実用的な手法」としてではなく、「神と人間との救いをもたらす関係を表現する規範」としての対話を提起し、さらに、公会議の最後の数か月に、世界代表司教会議(シノドス)を制度化した。それ以来、シノドスは通常総会が15回、特別総会も数多く開かれ、聖ペトロの舟(カトリック教会)に教会活動の肝要な課題解決に推進力を与えようとした。

 しかしながら、最近のシノドスを見ると、敵味方から激しい非難にさらされている。2018年には、東方典礼と神学が専門のアダム・A・J・デヴィル教授から記憶に残る批判がなされた。彼は著書の中で、カトリック教会、正教会、東方諸教会、そして英国国教会の歴史を通して理解されたものとして、シノドスは「一定の集団の特定の関心について議論するもの。テーマに沿った会議ではない」と言明。

 そして、「(世界のメディアの関心を集めることがめったにない)法律を通し、司教を選ぶ(そして時には、規律を与える)権限を持った実務的な会議だ」と決めつけたが、いわゆる「ローマ・シノドス」の現行の管理・運営規則は、そうした権能をシノドスに認めていない。仮に、ローマ・カトリック教会がシノドス的な方向で続いているとすれば、1965 年以降の秩序を欠いた疑似シノドスに、真正シノドスについて恐れさせてはならない。

 デヴィル教授は最終的に、国際神学委員会の「多様なレベル、多様な形」で行われる真のsynodality の呼びかけを取り上げた。この呼びかけは、現地の司教たちのリーダーシップと教皇の一致の司祭職を含めた普遍教会の信仰を反映してたものだ。

*教皇の真の意図は…

 コンスタンティノープルのバーソロミュー・エキュメニカル総主教のような人物が教皇フランシスコに対して抱いている敬意を説明するのが、この野心的なビジョンだ、と私は信じている。伝統を生かそうとする教会のあり方を深い意図をもって捉える権威の用い方を、教皇が認識しておられると、私は信じている。

 フランシスコは、キリストの体に両肺で呼吸させようとする努力で、正教会を単に真似ているわけではない。私たちの伝統に焼き付けられた制度的な慣性の第二の千年紀を迎えてはいない現在、より協力的な教会を取り戻そうとしているのだ。

 第二バチカン公会議を象徴する用語は「ressourcement刷新)」ー新しい命を引き込むために、私たちの伝統の古代のルーツと繋ぎなおすことーだった。私たちが否定できないのは、何世紀にもわたって教会が、人々を追い出す手段としてsynodalityを使ってきたことである。

 シノドスが始まった頃は、異端を否認するために、あるいは、教義を定めるために、集合し、教会は悪路を歩むことが多かった。だが、私は言いたいー私たちは今、「旅」の新たな段階に入ったのだ、と。synodalityの行為は、独断的な宣言として機能するのではなく、福音を「時のしるし」に当てはまるよう微調整するために使われる。そして、synodalityとともに、フランシスコの長きにわたる”ゲーム”のもう一つの要点、「回心」が次に来る。

*第二バチカン公会議が書いた設計図を具体化するのが私たちの使命

 「回心」と言うとき、私は、教会自身の回心ー私たちが宣教の使命をどのように果たすのかを理解し、近づくための新しい方法ーについて話している。

 教皇フランシスコは、「でも、私たちはいつも、このやり方でやっている」というような惰性の様な思考態度を批判されている。また、第二バチカン公会議を招集された教皇ヨハネ23世の有名な言葉に、「私たちの教会は、『博物館を守る』ようにではなく、『満開の命の庭園の番をする』ように求められているのです」がある。同じことは、synodal(共働的な)教会についても言える。あたかも、すべての回答をもっているかのような、傲慢な態度をとることはできない。

 そしてまさに、ヨハネ 23 世は、 20 世紀前半に顕著になった混乱と破壊から時のしるしを読み取り、教会は証人として、可能な限り意識的で宣教的でなければならず、それを成し遂げるには教会会議が必要、と考えた。そして、それを実行に移す形で、第三の千年紀にふさわしい教会を動かすエンジンの設計図を書くために公会議を招集されたのである。ヨハネ23世はビジョンを提示された。それが、私たちが具体化すべきものだ。

 第二バチカン公会議は設計図を書いた。ヨハネ23世の後を継いだパウロ 6 世が、具体化に着手された。続くヨハネ・パウロ2世は、具体化の作業が求められた仕様通りに続けられていることを確認された。そして、ベネディクト 16 世がエンジンの最後の仕上げをし、フランシスコは今、それを実際に動かそうとしている。

 (興味深いことに、教皇フランシスコが、何ができるか知るためにエンジンの回転を上げ始めた今、それを最も恐れているように見える人々は、すべての規範と教会法令についての最もエンジニアらしい理解を備えた人々だということー仮にA=不規則な一致、B=兄弟姉妹として生きていない、とすると、A+B=聖体拝領は決して認められない、となる)。

 だが、フランシスコは、単に、私たちをもっと速く前に動かすことに挑戦されているのではない。より徹底した制度的な転換には、機敏で戦略的な識別も含まれる。

 フランシスコに対する最高の評価の一つは、ジャーナリストのクリストファー・ラムによるものだ。彼は「教皇は、どのダムが必然的に決壊するかを知っておられる」と言う。

 たとえある男が、堤防の上を飛び跳ね、変化を早めたり、止めたりしようとしているのなら、それが教皇であっても大した違いはない。だが、本当に指導的立場にある人が他の人々を率いて堤防を強化しようとしているなら、違う。私たちは、共に、心を込めて、誠実に、そして聖霊が導く方向を見極める意識をもって、強化作業に従事せねばならない。

*もはやsynodalityの行為は、独断的な宣言を一掃する機能を果たさない

 教皇フランシスコの下でこれまでに開かれた教会会議を通して、多くの人々にとって大きな驚きの 一つは、2019年のアマゾン地域シノドスの勧告ー特に、司祭の少ない辺境地域において効果が証明されている「既婚者の司祭叙階」ーを、彼が拒否したことだ。

  興味深いのは、彼が述べた理由が、神学的でなく、過程指向であり、このシノドスを「正統な集団識別」であるよりも、「議会の論理」を示すもの、としていたことだ。ご存じの通り、シノドスを計画するのに、何年もかかる。それほど秘密ではない議題を教会に押し付けるのを、教皇に認めるための、単なる見せかけだったとしたら、変わったやり方だ。

 Synodality に関するシノドスのテーマは、「もう一度やってください。今度こそ、あなたの作品を見せてください!」だろう。米シカゴ教区長のジョセフ・バーナーディン枢機卿の後を継いだブレイズ・キューピッチ枢機卿は、福音書に登場する東方の三博士についての素晴らしい描写を使って、シノドスのプロセスを説明したー「彼らは別の道を取って自分の国へ帰って行った」と。

 第二バチカン公会議の出来事とsynodalityが公会議の教父たちの間に醸成した変革の動きに注目しよう。公会議の作業文書が諸改革を一掃するのを受け入れることのないように、教皇庁が尽力したが、会議場に 3000 人の司教が集まり、聖霊を呼び求めると、「何か」が起こったのだ。

 98歳で教皇フランシスコによって枢機卿に任命された、ヨハネ23世の私設秘書ロリス・フランシスコ・カポビラ師は、Catholic News Serviceが作成したドキュメンタリー”Voices of Vatican II”の中で、第二バチカン公会議を招集されたヨハネス23世の理論的根拠について語っているー「とても素晴らしいことでした。第二次世界大戦のあと、三つの国際機関ー平和のためのUN(国連)、パンのためのFAO(国連食糧農業機関)、文化のためのUNESCO(国連教育科学文化機関)ーが設立されました。それなら、私たちも、なぜ皆で集まって、話し合いができないのでしょうか?」。

  そしてまさに、世界観が根底から覆されたこの戦後の時期に、フランシスコの長いゲームの最終的な到達点としての回心ー慈しみへの回心ーが、私たちに示されたのだ。

 

*”周辺部”の視点から考える

 synodalityと「ひっくり返った世界」に共通することの 一つは、ディートリッヒ ・ボンヘッファー(20世紀を代表するプロテスタント神学者、ヒットラー暗殺計画に関与し、ナチスに捕らえられて刑死)が「下からの視点」と呼んだもの与えてくれることだ。代表例として、教皇フランシスコの選出を契機に、宣教への強い使命感、出会い、”周辺部”、慈しみをもつラテンアメリカの教会の豊かな神学的刺激の扉を開かれたことを挙げることができる。

 ボンヘッファーの「下からの視点」を理解するもう 一つの方法は、疎外され、抑圧された人々について”周辺部”からの視点で考えることだ。教皇ヨハネ23世は、窓を開けるために公会議を招集したと言われている。「窓を開ける」からすぐに連想するのは「外の新鮮な空気を取り込む」だが、別のことも起きるー「外にいる人々の話し声が耳に入る」だ。

 難問を考え、検討してもらうために人々を集める場合、「自分の属している階層、あるいは教会全体でも得るのが難しい」と思う問いへの答えを、得ようとするだろう。

 第二バチカン公会議が始まる前に、ユダヤ人の歴史家ジュール・アイザックはヨハネ23世に 謁見を求めた。アイザックは公会議が、これまで教会が長い間続けてきたユダヤ人に対する「蔑視の教え」を取り消すことを希望していた。

 アイザックは自身の研究で「キリスト教会の反ユダヤ主義が、ナチのユダヤ人大虐殺を扇動する上で、いかに中心的な役割を果たしたか」を解き明かしているー教皇にできることはなかったのか? ヨハネ23世の開かれた心と第2バチカン公会議の共働性の成果として、公会議は「Nostra aetate(キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言)」を発出し、「ユダヤ人に向けられる憎悪や迫害や反ユダヤ主義的表現…を糾弾する」と言明した。

 ”氷河期”にある教会にとって、これは私たちの信仰表明に対する強烈な浄化の閃光だった。そして、synodalityの文脈の中でもたらされた典型例だと、私は確信している。

 

*synodalityは慈しみへの回心を刺激した

 ヨハネ23世がジュール・アイザックと会ったように、フランシスコはチリの性的虐待被害者、フアン・カルロス・クルスと会見した。彼の教皇との出会いは、被害に遭った神の子たちの叫びを聴く、新たな、慈しみ深い取り組みを始めるのに重要な役割を果たした。クルスはフランシスコが設置したバチカンの未成年者の保護のための委員会のメンバーになった。”周辺部”が中心に置かれるようになり、カトリック教会は、教皇ご自身も含めて、回心を経験している。

 そして、注意すれば、現在の教会の中に、synodalityに触発された慈しみへの回心のしるしを至るところで目にすることができるだろう。フランシスコは回勅「Fratelli Tutti(兄弟の皆さん)」に書いているー「それ(synodality)が、すべての人に場を作り、情報を操作したり隠したりしないなら、真実をよりよく理解するための絶え間ない刺激となる」。

 シノドス(世界代表司教会議)事務局のナタリー・ベクカール次長は、「(女性である自分がこのポストに就くという)歴史的な人事は、教会が女性たちの声を中心に置くようにとの要望に注意をはらっている証拠です」と指摘している。

 バチカンの人間開発省の難民・移民部門は、最新の文書は、気候変動の為に移住を余儀なくされた人々の窮状に焦点を当てた。聖アルフォンス・リグオリ(1696–1787・イタリアの司教、法律家であり芸術家でもあった)は最近、教会博士に叙せられて150周年を迎えたが、教皇フランシスコは彼の「見捨てられ、打ちひしがれた男女に耳を傾け、受け入れる」振る舞いを強く讃えた。

 これを「社会的差別」の匂いがする、と言う人がいるかも知れないが、私が言いたいのは、10億人を超える世界のカトリック信徒、2000年を超えるキリスト教の伝統の素晴らしさは、ほんのわずかな差別を受けている人も支える体制が整っている、といることだ。

 私たちは深く根を張っている。 キリストの体(教会)に保身はない。 主は貧しい人々の叫びを聴いておられる。 私たちは主に倣わねばならない。ものごとが実際にそうであるよりも公正で調和がとれているという思い違いをすべきではない。

 極めて重要なことは、私たちが教会として、単に人の言葉に耳を傾けるだけでなく、実際に人々から聴くことだ。そうすることが、私たちの心を和らげ、回心への準備を整える。そして私たち司教に知ることーそう、私たちが識別している新たなことが聖霊の働きだということを知ることに自信を与える。なぜなら、信徒たちもまた、それを聴くからだ。

 

*”キリストの体”を一つにまとめる助けに

 教会が慈しみにどのようにアプローチするかについての重要な言葉の一つであり、synodalityを理解するのに役立つ言葉の一つでもあるのは、「integration(統合)」ー何が統合される必要があるのかの問題だ。そして、私が言おうとしているのは、この場合、教会の頭とキリストの体の他の部位を統合する助けとなる、ということだ。

 手足の表面が冷たくて灰色の体を想像してみよう。心臓は動いているかもしれないが、生命力がすべての毛細血管に及んでいない。 私は、(教皇フランシスコが使徒的勧告)「Amoris laetitia (家庭における愛の喜び)」で示された「教義や道徳、あるいは司牧上の議論すべてが(教皇の)教導権による介入で解決される必要はない」という言葉について考える。意図的に婉曲的な表現をとったと思うこの言葉の一つの解釈は、「この使徒的勧告そのものが教導権の一部をなしていないことを示唆している」だ。いや、フランシスコが言いたかったのは、「バチカンだけが『キリストの体』を構成しているのではない」ということなのだ。

 教皇は、はっきりしているー彼が認識しているのは、自分の役割は伝統を守ることだ、ということだ。考え、周りを見回し、多分、遠くの地平線に私たちのビジョンを設定し、そして時々は、私たちが欲求不満で額を壁にぶつけるのを「やめよ」と言うのに、「頭」は適している。だが、「頭」だけでは物を持ち上げられないし、人々を抱きしめることもできない。「キリストの体」の他者に手を差し伸べる腕はどこにあるのか?

 中心部と周辺部の循環が、教会の日常の出来事の大部分を占める必要がある。そして、神から授かった宣教の使命を遂行し続ける中で、私たちは自分の体全体、緊張を感じる箇所、さらには、私たちの証しを有毒にする危険のある治っていない傷ー人種差別、女性蔑視、聖職者主義、性的虐待などーをも調和させねばならない。.

 だが、神はすべての形を変えられる。神が触れられて癒されなかった傷は?それは、フランシスコと言う名の男が体に負っっているーstigmata(聖痕)ーイエス・キリストが負われた傷だ。共に歩み、聴き、私たちが内と外で出会う人々すべてに慈しみをもたらす、真のsynodalityの教会は、私たちの負った傷を、そして信仰を奮い立たせるために人々が持つ力を決して忘れることがない。

・・・・・・・・・・・・・・・

(カトリック・あい)synodalityについて・・・教皇フランシスコが就任当初から重要課題とされてきた「シノダリティ(synodality)」の言葉通りの意味は「ともに歩む」。日本語では「共働性」「協働性」あるいは「共同制」などとも訳されるが、教会内部でも定訳がないため、この評論では、あえて原文の英語表記のままとした。教皇がこの言葉に込められた意味は「教皇を頭とする司教団がキリストから与えられた権威をもって、神の意志を識別し、聖霊の声を聴きつつ、世界の全ての聖職者、信徒とともに進める、新しいアプローチや教義の転換をも導く可能性に開かれた、対話、洞察、協働のプロセス」と解釈できるのではないかと思われる。今後も頻繁に使われる言葉なので、適訳があれば、提示くださるよう、皆さんにお願いしたい。

*ジョセフ・W・トービン枢機卿は、1952年5月、米国生まれ。レデンプトール会士で、2017年1月から米ニューアーク大司教。2016年11月に枢機卿となり、2020年8月にバチカンの財務の実権握る財務評議会のメンバーに任命された。この評論は、今年5月3日にシカゴのロヨラ大学で”Cardinal Bernardin Common Cause Address ”のシリーズの一環として、トービン枢機卿が行った講演をもとにしたもので、米国のカトリック系評論誌Commonweal Magazineに掲載されている。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

LA CROIX international is the premier online Catholic daily providing unique quality content about topics that matter in the world such as politics, society, religion, culture, education and ethics. for post-Vatican II Catholics and those who are passionate about how the living Christian tradition engages, shapes and makes sense of the burning issues of the day in our rapidly changing world. Inspired by the reforming vision of the Second Vatican Council, LCI offers news, commentary and analysis on the Church in the World and the world of the Church. LA CROIX is Europe’s pre-eminent Catholic daily providing quality journalism on world events, politics, science, culture, technology, economy and much more. La CROIX which first appeared as a daily newspaper in 1883 is a highly respected and world leading, independent Catholic daily.

 

2021年6月1日

*「時間をかけた”シノドス・プロセス”に教区全体として加わる」-菊地大司教

菊池大司教の日記:2021年5月21日 (金)第16回通常シノドスへの道

Synodhall2017a

 第16回目となるシノドスは、当初、来年10月開催の予定でしたが、感染症の状況を考慮して、2023年10月に開催となることが発表されています。(写真は、2017年4月にバチカンのシノドスホールで行われた国際会議にて。ここがシノドスの会場になります。)

 今回のこのシノドスのテーマは、“For a synodal Church: communion, participation and mission”(『シノドス性ある教会のために:交わり、参加、ミッション』:バチカンニュース仮訳)と、昨年すでに発表されていました。

 ご存じのようにシノドスとは世界代表司教会議のことで、中央協議会のホームページにこう記されています。

 「『シノドス』とは、『共に歩む』という意味のギリシア語で、一定時に会合する司教たちの集会のことです。教皇と司教たちとの関係を深め、信仰および倫理の擁護と向上、規律の遵守と強化のための助言をもって教皇を補佐するために開かれます。またそこでは、世界における教会の活動に関する諸問題を研究します。・・・シノドスは、提起された問題を討議し、教皇に意見を具申しますが、決定機関ではありません。会議に関する権限は、すべて教皇にあります。会議の招集、代議員の指名・任命、会議要綱の決定、会議の主宰、閉会、延期、解散などは教皇の権限によって行われます」

 今回のシノドスについて、事務局の責任者であるマリオ・グレック枢機卿から発表がありました。今回はまさしく、「共に歩む」事を最重点課題として、教会全体の声に耳を傾けたい。その声は、司教たちだけの声でなく、司祭、信徒、修道者の声である。そのために、2023年10月の会議だけに終わるのではなく、シノドスのプロセスを、今年2021年10月から開始するというのです。

 シノドス事務局といえば、教皇様は責任者である事務局長にマルタのゴゾ司教であったマリオ・グレック師を2019年に任命し、その後枢機卿にされています。そして今年2月には二人の次官を任命し、そのうちの一人が初めての女性次官(バチカンで初めて)であるシスター・ナタリー・ベカーです。フランスの司教協議会で、青年司牧と召命促進の担当者を務めていたシスター・ベカーは、「発見が沢山ある新たな冒険の入り口に立った気持ちです」とバチカンニュースのインタビューに答えておられました。(リンク先はYoutubeのEWTNのインタビューで英語ですが、シスター・ベカーの人となりを知ることが出来るビデオです

 さて、そのシノドスのためにグレック枢機卿は世界中の司教宛てに書簡を送付し、その中で、教皇様が前回の通常シノドス(2018年に「若者、信仰そして召命の識別」をテーマに開催)で強調されていたシノドス的教会のあり方を、今回はなお、いっそう重視し、実践に移したい、と強調されています。Synodhall2017e シノドス的教会については、2018年10月の前回の通常シノドス閉会にあたり、教皇様がお告げの祈りで述べられたメッセージの言葉を思い起こしたいと思います。その中で、教皇様は、次のように言われます。(上の写真は、2017年4月のシノドスホールでの会議で、タクソン枢機卿と話す教皇様)

 「それは『癒しと希望』の時、であり、何よりも『傾聴』の時でした。傾聴するためには、時間、注意力、さらには心と気持ちを開け放つことが必要です。しかしその行程は、日々、癒しに変わっていきました」

 互いの話に耳を傾け合うことの重要性です。その上で、

 「傾聴というこの基本的な手だてを通して、わたしたちは現実を解釈し、現代のしるしを把握しようとしました。そして、み言葉と聖霊の光のもとに、「共同体としての識別」が行われました。それは、主からカトリック教会に与えられた最も素晴らしい賜物の一つです。つまり、まったく異なる状況にある人々の発言や表情を集め、つねに福音の光のもとに、その現象の利点と複雑性を考慮に入れながら解釈しようとしたのです」

 神の求める道はどこにあるのかを、識別するのです。それも一人でそうするのではなく、共同体としての識別です。そして、

 「書面の文書を作成することを第一の目的としない『シノドス様式』です。書面の文書も貴重で有益なものですが、それ以上に、現状に即した司牧的選択をするために、老若男女が集まり、協力しながら傾聴と識別を行う方法を推進することが重要です」

 「シノドス様式」と訳されている「シノダリティ」。実は先般発表した東京教区の宣教司牧の方針を定めるにあたっても、私としてはその『シノドス様式』を多少なりとも尊重して、「互いの意見に耳を傾けあい、共同体としての識別を重ねたい」と思いました。コロナ禍もあり、完全には実施できなかったものの、宣教司牧方針の策定には多くの意見をいただき、感謝しています。

 さて、というわけで、今回の第16回通常シノドスです。グレック枢機卿は、今回のシノドスをまさしく『共に歩む』道程とするために、まず、2021年10月にその道程を開始する、と発表されました。Synodhall2017d

 2021年9月頃には、最初の課題集が公表されます。そして、10月9日と10日に教皇様はバチカンで、さらに世界中の各教区でも10月17日に、シノドスの始まりを祝うミサを捧げるように、と指示がされています。また、世界中の各教区には意見をとりまとめるための担当者かチームを任命して、教区全体から課題集に対しての意見を募るように、との指示がありました。

 その上で教区の回答を集約し、翌2022年4月までに、各司教協議会がとりまとめます。その世界各地のまとめをさらに集約して2022年9月には最初の文書がシノドス事務局によって作られます。さらに今度は、各大陸別の司教協議会連盟(アジアはFABC)で議論を深め、それに基づいて、2023年6月までに、シノドスの作業文書がシノドス事務局によって作成され、10月の会議となります。

 感染症の状況がどのように推移するのか、推測するのは難しいことですが、できる限り、神の民の一員として、この「共に歩む」道程に、東京大司教区全体として加わることができるように努めたい、と考えています。(写真は、2017年4月の会議後、シノドスホール出口に向かうところで、皆に囲まれる教皇様)

 シノドスはこれまで、事務局から文書が送られてきて、それに文書で司教団が回答し、それをもとにして委員会が作業文書を作成し、本番の会議が進められてきました。そのため、地域教会の現実を十分に反映していないと、さまざまな方面からシノドスのプロセスに懸念を表明する声がありました。

 今回の、教皇様の意向を取り入れた、時間をかけた事前の準備プロセスがうまく機能するならば、シノドスは変化するでしょうか。私たちもそれに加わりながら、シノドス・プロセスを注視したいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2021年5月22日

・教皇の不可謬説に異論を唱えたスイスの高名な神学者が死去

  スイスの神学者ハンス・キュンクが6日、ドイツのテュービンゲンにある自宅で亡くなった。93歳。

 1928年3月19日にスイスのルツェルン州ズールゼーで生まれ、1954年に司祭に叙階。3年後、博士論文で、カトリックとプロテスタントの信仰義認の教義についての違いについて、「同じことが違う言葉で表現されているだけ」として歩み寄りを訴えた(義認=神によって人が義と認められること)。

  1960年にテュービンゲン大学の神学部教授になり、専門家として第二バチカン公会議に参加し、将来の教皇ベネディクト16世であるジョセフ・ラッツィンガーと関わる機会があった。

 諸宗教の歴史、特にアブラハムの宗教(聖書の預言者アブラハムの神を受け継ぐと称するユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三宗教)の歴史の研究にに加えて、神学と道徳の分野の見解でも知られたが、カトリック教義のさまざまな点に批判的な立場をとった。特に、彼は第一バチカン公会議(1869年12月8 日から1870年10月20日)で了解されカトリックの教義となっている教皇不可謬説に異議を唱え、1979年にバチカン教理省から教理神学の教授としてのタイトルを剥奪されたが、テュービンゲン大学でエキュメニカル(キリスト教一致運動)神学担当の名誉教授の職を続けた。

 キュンクは、聖ヨハネパウロ2世とベネディクト16世の二代にわたる教皇を繰り返し批判した。ベネディクト16世は教皇就任直後の2005年9月に教皇の夏の別荘、カステル・ガンドルフォでキュンクと会談し、「友好的な雰囲気の中で行われた」(バチカン広報)とされた。双方は、カトリックの教義を巡るキュンクとバチカンの対立には触れないことで事前に合意しており、二人の対話は、キュンクの専門分野で特に関心のある「Weltethos(世界倫理=世界のあらゆる宗教的価値観の中に最小限の共通項を見出し、人間の幸福、世界の平和のための理念を形成することを目指す)プロジェクト」と「自然科学の条理とキリスト教信仰の条理との間の対話」に焦点があてられた。

 バチカン広報局は声明で、「キュンクは『Weltethosのプロジェクトは、決して抽象的な知的構造ではないこと』を強調し、世界の偉大な宗教があらゆる違いを超えて収束する道徳的価値を強調した。それは、世俗的な理由から説得力のある合理性を考えると、有効な基準として認識することができる」とした。

 前教皇ベネディクト16世は「キュンク教授は、諸宗教の対話を通じて、そして世俗的な理由との出会いにおいて、人類の本質的な道徳的価値に新たな認識を提供することに貢献された」と謝意を示し、「人間の生命を維持する価値観についての新たな認識に深く関わることは、教皇職の重要な目的でもあります」と述べた。さらに、「信仰と自然科学の間の対話を復活させ、科学的思考に関して、Gottesfrage(神についての問いかけ)の合理性と必要性​​を主張する」というキュンクの試みに同意することを改めて表明した。

 バチカン広報局の声明は「キュンクは、宗教の対話と現代世界のさまざまな社会集団との出会いを支持する教皇の努力に同意する、と語っていた」と締めくくった。だが、こうした二人の会談にもかかわらず、司祭の独身制、女性の司祭職、避妊、安楽死などの多くの問題について、二人の立場は大きな距離を置いたままだった。。

 キュンクは、信仰と科学の関係についても分析し、完全な確実性に到達するためのいくつかの科学理論の主張に異議を唱えた。近年、彼は健康上の理由から、公的活動のテンポを弱め、”現役”を引退するようになっていた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

・教会改革を主張し、教皇フランシスコに「希望の光」と期待をかけていた

(2021.4.8 LiCAS.news reporter)

 キュンクは、1962年から1965年の第2バチカン公会議以来、カトリック教会の改革を支持してきた。同公会議では、分散型教会、既婚司祭、人工避妊を主張する若い顧問だった。

 1960年にドイツ南西部のテュービンゲン大学の神学教授に任命されましたが、バチカンは1979年に彼のカトリック神学を教える免許を剥奪。大学は代わりに、エキュメニカル神学の教授にし、何十冊もの著作ーそのいくつかはベストセラーになったー、そして多くの評論を執筆するポストを確保した。

 1990年代初頭、キュンクは、世界の宗教に共通するもの、一連の共通の価値観を確立することを目的とした「Weltethos(世界倫理)」プロジェクトを開始した。

 2010年、世界のカトリック司教たちに、当時の教皇ベネディクト16世に臆することなく、聖職者による性的虐待で大きく揺れる教会の信頼回復へ下からの改革を進めるよう呼びかけた。そして、ベネディクト16世退任の後、新教皇となったフランシスコに「希望の光」として期待を表明していた。

 キュンクは1957年の博士論文で、「義認の教義」について、「同じ内容が、違う言葉で表現されているだけだ」として、カトリックとプロテスタントの歩み寄りを主張して注目された。諸宗教の歴史、特に「アブラハムの宗教」の研究に専念し、神学と道徳の分野で、しばしばカトリック教義のさまざまな点に批判的だった。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

*LiCAS.newsはタイのバンコクに拠点を置く、カトリック信徒による有力インターネット・ニュースメディアです。「カトリック・あい」はその記事を許可を得て翻訳、掲載します。

( LiCAS.news  is established under the umbrella of the Catholic Communications Office of the Archdiocese of Bangkok, operating its headquarters and main editorial office from the capital of Thailand with endorsement and acknowledgement from the Catholic Bishops’ Conference of Thailand.  Its coverage from Asia brings to the world stories of human rights violations, denial of justice and religious persecution in some of the world’s fastest growing economies, all within the political backdrop of eroding religious and press freedom. Staffed entirely by lay-people across Asia, LiCAS.news witnesses and supports the mission of the Catholic Church in their work to spread the Good News to all corners of society.)

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2021年4月8日

・東京会議 WORLDシンクタンクD-10会議報告「国際協調に地政学的対立を持ち込まず、民主主義の後退を放置すべきでない」

(言論NPOニュース 2021.3.29)

言論NPO 主催の東京会議のイベントとして、WORLDシンクタンクD-10会議「世界の民主主義国は国際協調と自由秩序の修復でどう連携すべきか」が開催されました。

米国のバイデン政権は「国際協調と民主主義の修復を図る」としているが、その修復は本当に可能なのか、可能とするためには世界の民主主義国はどのような努力が求められているのか、について、議論され、「今回のコロナ危機は世界の国際協調の重要なテストとなったものの、その結果は世界が国際協調を失いつつあるということであり、その修復を世界は期待するが、修復ができるか現時点で答えを出すことは難しい」という見方で一致しました。

その背景には米中対立や米国と欧州の協調問題があり、利害が相反する課題では協調できる分野は限られること、その中でリーダーシップを発揮できる国はなく、国家を軸とした国連システム自体の限界が明白になっている、と多くのシンクタンクは指摘します。

ただ、今後の国際協調を進める上で国家だけではなく、個人、企業、地域といったセクターに期待するする見方や、国際協調の象徴である国連を使いこなす努力を指摘する声、国際協調に地政学的な対立を持ち込むことへの反対の声も相次ぎました。

民主主義の後退が深刻化していることは、参加したシンクタンクの共通の認識です。 世界の多くの民主主義国で制度や原理が信頼を失い始めていることが指摘され、またそうした原理への攻撃が続いていることも報告されました。ただ、先進国の民主主義国は魅力を失っているが、途上国は民主主義や人権保障、法の支配を求めているとし、「民主主義を魅力的に見えるように努力することは民主主義国の責務」との意見も出されました。

「民主主義の後退は放置すべきではない」が、この会議での10カ国のシンクタンクのご合意です。これに対してはそれぞれの国が自国の民主主義の修復への努力を始めることと同時に、民主主義国の競争力の問題として民主主義の価値への攻撃に連携して対応するなどの、意見が出されました。

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東京会議のイベントとして、WORLDシンクタンクD-10(WTD10)会議「世界の民主主義国は国際協調と自由秩序の修復でどう連携すべきか」が開催されました。

米国のバイデン政権は、「国際協調と民主主義の修復を図る」としていますが、その修復は本当に可能なのか、可能とするためには世界の民主主義国はどのような努力が求められているのかについて、このセッションでは議論が行われました。

今回のコロナ危機は世界の国際協調の重要なテストとなったものの、その結果は世界が国際協調を失いつつあるということであり、その修復を世界は期待するが、修復ができるか現時点で答えを出すことは難しい、という点で合意しました。

その背景には米中対立や米国と欧州の協調問題があり、利害が相反する課題では協調できる分野は限られること、その中でリーダーシップを発揮できる国はなく、国家を軸とした国連システム自体の限界が明白になっている、と多くのシンクタンクは指摘します。

ただ、今後の国際協調を進める上で国家だけではなく、個人、企業、地域といったセクターに期待するする見方や、国際協調の象徴である国連を使いこなす努力を指摘する声、国際協調に地政学的な対立を持ち込むことへの反対の声も相次ぎました。

民主主義の後退が深刻化していることは、参加したシンクタンクの共通の認識です。

世界の多くの民主主義国で制度や原理が信頼を失い始めていることが指摘され、またそうした原理への攻撃が続いていることも報告されました。ただ、先進国の民主主義国は魅力を失っているが、途上国は民主主義や人権保障、法の支配を求めているとし、「民主主義を魅力的に見えるように努力することは民主主義国の責務」との意見も出されました。

「民主主義の後退は放置すべきではない」が、この会議での10カ国のシンクタンクのご合意です。これに対してはそれぞれの国が自国の民主主義の修復への努力を始めることと同時に、民主主義国の競争力の問題として民主主義の価値への攻撃に連携して対応するなどの、意見が出されました。

 司会を務める言論NPO代表の工藤泰志はまず、世界的な課題に対する国際協調の在り方について問題提起。新型コロナ危機が浮き彫りにしたのは、国家を軸とした国連システムによる国際協調の脆弱性だとし、これを修復することは本当に可能なのかと問いかけました。

*今後も米中対立と国際協調の分断は続く

米外交問題評議会(CFR)のシニアバイスプレジデントのジェームズ・リンゼイ氏は、新型コロナのような大きな脅威に対しては、いかなる大国であっても自国だけでは対応できないにも拘らず、今回のテストで明らかになったのは、世界は国際協調を失いつつあるということだと語りました。その背景としてリーダー的な役割を果たす国がなかったとし、バイデン政権はリーダーシップを取り戻そうとしているが、それができるかはまだ分からない段階だと指摘しました。

さらに、今後の国際協調は「ワシントンと北京が合意できるところのみで見られるのでは」とし、真正面から利害が相反する分野では今後も激しく対立が続くと予測。合意できる分野は限られるとの見方を示しました。

*国家連合である国連自体に限界が来ている。民間の役割に期待

フランス国際関係研究所(IFRI)所長のトマ・ゴマール氏は、国連に依存してきたこれまでの国際協調自体に限界が来ていると分析。その理由として国はこうした危機対応においては国際機関に求めるよりも、今回のワクチンのように国はその対応を補完するために大企業との接点を求めており、特に新型コロナのような感染症や気候変動などといった分野でも国は投資ができる企業との関係をより重要視している、と語りました。

*大国間対立、地政学的対立が国際協調に影響しないように管理すべき

元ドイツ国際政治安全保障研究所(SWP)会長で、現在は国連スーダン特別代表・国連スーダン統合移行支援ミッション代表を務めるフォルカー・ペルテス氏は国際協調が何といっても必要だとの視点から、更なるリーダーシップは必要だが、今後の国際協調を推進していく上で国家だけではなく、個人・企業、地域といった新たなアクターの存在に期待を寄せました。

その一方で、国連は国際協調の象徴であるし、国家の役割は依然として重要であるとも指摘。大国間対立、地政学的対立が国際協調に影響しないように管理する方策を考えなければならないとも語りました。

シンガポール・ラジャトナム国際研究院(RSIS)所長、副理事長のオン・ケンヨン氏も、国際機関のガバナンスの問題等を指摘しつつ、国際協調は必要だとし、ルールや国際法を管理し、必要な修正はあってもルールの基づく秩序は重要だとの見方を示しました。

インドのオブザーバー研究財団(ORF)理事長のサンジョイ・ジョッシ氏は、コロナの対策で国のコントロールが強化され、国境を越えて世界が対応することができなかったことは一番のショックだと語り、現時点でどのように克服できるか、答えは難しいと国際協調は大きな問題を抱えたままとの認識を示しました。

*米欧関係も国際協調のリスク要因

国際協調に関しては、米国のバイデン政権の行動の不確実性も話題になりました。イタリア国際問題研究所(IAI)副理事長のエットーレ・グレコ氏は、不確実性が高まる中では可能な限り予め米国と欧州が協調できる分野を作っておくことが備えになるとしましたが、その際の懸念要素として、トランプ政権期に悪化した米欧関係や対中関係を挙げ、米国がどういった形で新たな政略を持っているのかが、まだ予見性は高くないと指摘。その上でヨーロッパはできる限り、中国への対立構造に与したくないが、技術の優位性を巡る中国との競争では、欧米はその方向性を整合させることが必要だと、語りました。

これに対しては、ゴマール氏も、中ロに対するバイデン政権の対抗姿勢をその実現性も含めてEUは「やりすぎだと思っている」と同調し、仏海軍がインド太平洋に進出しようとているのも、中国封じ込めが主目的ではなく、世界の海洋秩序を重視しているからであるとし、国際協調に地政学対立を持ち込むことに反対しました。

*「新たなアクターが国連を使いこなす」という視点が必要

こうした議論を受けて工藤も発言。国家間対立がある中では、国家連合である国連システムが世界課題に立ち向かうことができないのは必然としつつ、「新たなアクター」という発想に賛同。「国連に頼るのではなく、国連を使いこなすという視点が必要だ」と述べました。

今回の新型コロナ危機では、国民の命を守るという点での民主主義統治の脆弱性も浮き彫りとなりました。そこで、民主主義自体の修復は可能なのか、修復していく上で問われているものは何か、といった点についても、冒頭から真剣な議論が展開されました。

*民主主義の修復について議論を深めるべきだが、「民主主義対権威主義」というような構図を強調すべきではない

民主主義の問題は、民主主義自体の修正と、民主体制の競争に議論が分かれ、その二つの側面で、民主主義が危機に陥っている、という点でシンクタンク参加者は一致しています。

イタリアのグレコ氏は、「民主主義の後退は放置すべきではない」と語り、民主体制や制度への信頼が失われていることに警鐘を鳴らします。欧州でも法による支配、チェックアンドバランスが後退し、権力の過剰使用が見られ、コロナの影響がさらに制度に圧力を高め、その信頼欠如に繋がっていることを懸念。民主主義が権威主義体制との競争に入っている状況の中では、法の支配などの民主主義原則への攻撃に対処すると同時に、「民主主義に何が足りないのか、オープンに議論して対策を考えるべき」と主張しました。

ただ、中国など体制を排除しては世界の課題の解決は難しいとの立ち位置から、「大民主同盟」のような枠組み構築には「懐疑的だ」と語りました。

米国のリンゼイ氏も、民主主義の後退の深刻化は政府の政策上の問題があり、バイデン政権は政府が大きな社会問題に対処することを目指しているものの、成功できるかは不透明であり、自助に基づいた強靭な民主主義を作るしか、この後退を回避できないとの持論を展開。ただ、民主主義が新型コロナ対応に失敗したと印象付けること自体が適切ではないと問題提起し、封じ込めに成功した中国は、そもそも発生源なのだから情報も豊富であり、したがって復興も早いのは当然と指摘しました。

ただ、国際協調のさらなる分断を招きかねないため、民主主義対権威主義というような構図を強調することには慎重な見方を示しました。

*民主国家同士の自浄作用とともに、途上国支援も必要

フォルカー氏は、先進国では民主主義が魅力を失いつつあるとする一方で、途上国は依然として民主主義や人権保障、法の支配を強く求めていると指摘。「我々にとって、当然のものを途上国は求めている。彼らにとって民主主義が魅力的に見えるように我々は努力しなければならない」と主張しました。

同時にそのためには、EUやASEANを参考にしながら、民主主義的価値に反するような行動をとった国に対しては、他の民主主義国家がプレッシャーをかけるなどの自浄作用が働くような仕組みをつくるべきだと提案しました。さらに、途上国に対する包括的サポートの必要性にも言及しました。

インド・オブザーバー研究財団(ORF)理事長のサンジョイ・ジョッシ氏も、権威主義国家からのプレッシャーによって、途上国の民主主義が弱体化しているとし、これに対する支援が不可欠との認識を示しました。

こうした議論を受けて工藤も発言。新型コロナ対応の”ベストプラクティス”は既に明白であるが、それが多くの民主主義国でなされていないのは、「統治の仕組みが機能していないからであって、民主主義という体制の問題ではない」と主張。民主統治の仕組みこそ、それぞれの国で修復しなければならないと語りました。

*格差を解消しない民主主義に対する反感が高まっている

 

この日の会議では、民主主義の弱体化の要因についても、様々な分析や意見が提示されました。

カナダの国際ガバナンス・イノベーション(CIGI) 総裁のロヒントン・メドーラ氏は、グローバル化の恩恵を受けられていない”取り残された人々”の不満が、それを解消してくれない民主主義への不満につながっていると分析。

英王立国際問題研究所シニアフェローのジョン・ニルソン=ライト氏も同様に、格差が民主主義への反感につながっているとの見方を示しました。

*インターネットとデジタルの進展は民主主義にとって諸刃の剣

シンガポール・ラジャトナム国際研究院(RSIS)所長、副理事長のオン・ケンヨン氏は、インターネットやデジタル技術の進展は、多くの人々に意見の発信や情報の入手を容易にさせ、民主主義の発展にも寄与しているとしましたが、同時にフェイクニュースの蔓延というリスクもあると指摘。主権者たる市民の判断の前提となる正確な情報が得られないことも、民主主義を危機にさらしていると語りました。

ブラジル・ジェトゥリオ・ヴァルガス財団(FGV) 総裁のカルロス・イヴァン・シモンセン・レアル氏も、こうした誤った情報の氾濫が民主主義にダメージを与えているとの見方に賛同。その是正と同時に、市民が情報の真贋を見抜く力を身につけるための教育も不可欠と指摘しました。また、過去25年間に、西側の国々で中間層が自分の権利を十分に享受できないとことも要因とし、「民主主義は中間層の強力なサポートがなければ漸弱化する」と語りました。

*「超国家の枠組み」で今後も民主主義を議論

最後にフランスのゴマール氏は、こうした様々な難題に直面している民主主義について、議論し続けていくためには、「国家を超えた枠組み」が必要と主張。「東京会議」のさらなる発展に期待を寄せると、工藤もそれに応じて、今後の議論の展開に意欲を示しつつ、白熱した議論を締めくくりました。

2021年4月5日

・東京教区が外国籍信徒の司牧指針「多国籍の人々がつくる豊かな教会共同体を目指して」

2021年03月19日

(2021.3.19 カトリック東京教区ニュース)

【多国籍の人々がつくる豊かな教会共同体を目指して (司牧指針)】

目次

はじめに

 わたしは、2020年12月に東京大司教区の宣教司牧方針を発表しました。それは、①「宣教する共同体をめざして」、②「交わりの共同体をめざして」、③「すべてのいのちを大切にする共同体をめざして」の三つの大切な柱から成り立っています。

 この宣教司牧方針を策定するにあたって、わたしは教皇ベネディクト十六世のことばに力をいただきました。「教会の本質は三つの務めによって表されます。神のことばを告げ知らせること、秘跡を祝うこと、愛の奉仕をおこなうこと」(回勅『神は愛』25参照)。

 三つの務めは互いに関係しあいます。神のことばを告げ知らせる宣教の前提に秘跡を祝う共同体がなければなりません。秘跡を祝う共同体は愛の奉仕へと突き動かされていきます。愛の奉仕は、主イエス・キリストの生き方を実践することなのです。ですから、この三つの務めを大切にしなければなりませんし、そのためには、「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」を造りあげていかなければなりません。

 宣教司牧方針では、外国籍の信徒への宣教司牧は二番目の柱である「交わりの共同体をめざして」と関連します。次のように記しました。「東京大司教区内には多くの外国籍の信徒がいます。その子どもたちもいます。彼らの住む地域にある小教区共同体との交わりを豊かにするようにしましょう。」これは、教区全体への招きの言葉です。外国籍の信徒への宣教司牧への取り組みをより具体的にしていくために、具体的な指針が必要です。

 この文書は外国籍の信徒のための宣教司牧指針です。この文書は、外国籍の信徒ばかりではなく、彼らの司牧に携わる信徒、修道者、聖職者、さらには教区内のすべての小教区共同体と信仰共同体の司牧に携わる方々に向けて書かれています。外国籍の信徒とその子どもたちとの交わりを深め、一致を目指していくのは東京大司教区にとって大切な課題となるからです。

 指針の具体的な内容に立ち入る前に、わたしは東京大司教区を司牧する司教として、わたし自身がこころに描いている日本の教会のヴィジョンを皆さまと分かち合いたいと思います。

 「多様性の一致」というモットーを掲げて、東京大司教区に着座して以来、文化、価値観、生き方が多様化する現代社会にあって、教区内にある信仰の共同体の一つひとつが、とりわけ教区にとって一番の基礎となる小教区共同体が立場の異なる様々な人々を受け入れるものとなるべきだと考えてきました。特に、日本に暮らす多くの外国籍の人々を認め、受け入れる教会になっていただきたいと願っています。日本人の信徒だけによる小教区共同体ではなく、共に暮らし、共に信仰を生きていく多国籍の信徒を含めた小教区共同体へと変わっていくことを求めます。つまり、日本人による〈日本の教会〉から、多国籍の信徒と共に生きる〈日本にあるキリストの教会〉へと変わっていきたいのです。

 このような教会へと変わっていくためには、多くの努力と犠牲が不可欠です。しかし、こういった教会ができあがったときに、神と人、人と人、そして人と地域という「つながり」を新しい姿で示す「しるし」となることでしょう。こうして、「多様性の一致」は具体的に実現していくのです。

 このように考えていきますと、外国籍の信徒とどのような共同体を育んでいくかという課題は、福音を現代社会に実現させていく福音宣教の課題であり、東京大司教区内の小教区共同体が「歩むべき道」、「目指すべき姿」でもあります。ヴィジョンの実現のために多くの皆さまのご理解とご協力をお願いしますとともに、この指針に基づいて、具体的な行動計画を検討していきたいと思います。

 なお、この文書では外国籍の信徒への司牧の現状を分析し、その課題を考察します。最後に具体的な目標を提示します。

1. 現状の分析

 異なる文化を理解しあい、異なる言語を受け入れあい、異なる出身地を認めあうという多文化、多言語、多国籍の信仰の共同体は、様々な背景や状況を抱えたメンバーから成り立っています。

 ある方々は親子代々日本の社会で生活し、教会の歴史を共に歩んできました。また、難民として故郷を離れ、日本に定住した東アジアの諸国の出身の方々も多くいます。経済的な安定を求めて来日し、働いている方々もいます。

 南米、東アジアなどから来たこういった方々の中には、長期にわたり働き、生活の基盤を日本の社会においた人々もいれば、数年の滞在で帰国する人々もいます。さらに、留学や技能実習生として日本に滞在し、いずれは帰国する人々もいます。

 さらには、出会いと交わりを経て、故国とのつながりが薄らいで、日本の社会で新生活を始める人々もいます。また、適切な在留資格のないまま日本の社会に滞在しなければならない外国籍の人々もいます。さらには、圧政を避け、自由を求めて来日し、難民としての法的な保護を求めている人々もいます。このように、多種多様な外国籍の方々がわたしたちの隣人として生活しているのです。

 東京大司教区の現状を見ますと、特に小教区共同体での多文化、多言語、多国籍の信徒の方々とのかかわりには三つのスタイルが見られます。

① 外国語によるミサは行わないが、外国籍の信徒への配慮、工夫がなされている小教区共同体。このような共同体では典礼のある部分を日本語以外で実施し、日本語以外の黙想会やゆるしの秘跡の機会を年に数回実施しています。

② 日本語のミサを主体としながらも、外国語のミサが行われている小教区共同体。この場合、主任司祭などがミサを司式するケースと他から司式者を呼ぶケースとがあります。

③ 特定の国籍、言語のグループが共同体を形成し、専任の司牧者をもっている信仰の共同体、もしくは小教区共同体。東京韓人教会、六本木チャペルセンター、イエズス会中国センター、フランス語共同体、ドイツ人共同体などが当てはまります。

 以上の三つのスタイルですが、実際には多様なかかわりが生まれています。小教区によっては毎月一回、ある一つの外国語のミサがおこなわれているところもあれば、毎週のように外国語のミサがなされ、しかも複数の言語でなされているところもあります。

 また、ミサへの参加についても、通常は日本語のミサに参加しつつ、機会があれば外国語、とりわけ自国語のミサに参加する信徒もいますし、日本語のミサにはまったく参加しない外国籍の信徒もいます。さらには、ご自分の家族との関係で日本人であっても外国語のミサにしか参加しない信徒の方もいます。そして、洗礼を受けていながらも、まったくミサに参加しない信徒の方も数多くいます。

 現在のところは外国籍の信徒への三つのスタイルと多様なかかわりがあることはお分かりいただけたと思いますが、今後、社会の変化の中で、日本人の信徒と外国籍の信徒との形を変えた新たなかかわりが生まれるかもしれません。三つのスタイルには、それぞれよい点と、取り組んでいくべき課題があるのは確かです。これからいくつかの課題を提示して、外国籍の信徒への宣教司牧の指針としましょう。

2. 課題の考察

2.1. 教区との一致を目指して

 神の民は司教のもとに集まります。信徒ひとりひとりは、日本人であれ、外国籍の方であれ、司教と共にあること意識すべきです。司教のもとに教区の一員であることを自覚しなければなりません。このことを、わたしは、カトリック教会の組織の点からばかりでなく、信仰を生きる上で大切なものとして強調したいです。教区とはその地域において信仰を生き、福音を宣教するための神の民の拠り所、拠点です。司教のもとに一つの共同体を造りあげるのです。

 前述の③のスタイルの信仰の共同体は、特にこの点に注意していただきたいです。確かに共通の言語が信徒それぞれを結びつけるものとなるでしょう。しかし、自分たちが東京大司教区の一員であることを忘れないでください。東京都と千葉県にわたる領域の福音宣教を担う教会共同体一員であることを自覚してください。そうでなければ、内向きの教会共同体となってしまいます。

 教区との一致は、まず、堅信式といった典礼を通じて大司教であるわたしとの交わりによって表されます。次に、隣接する宣教協力体との交流によって、育まれます。さらには、平和旬間やその他の教区の行事への参加を通しても具体的に体験され、深められていきます。同じ言語だけではなく、異なる言語の人々との出会いと交わりの体験を期待します。

2.2. 小教区との一致を目指して

 人種、国籍、言語、文化を乗り越えて、キリストの体である信仰の共同体として一致していくのは、小教区共同体の直面する課題です。主日に複数回のミサがおこなわれ、しかもそれぞれのミサが異なる言語でなされているような小教区では、共同体としての交わりと一致を保つことは簡単なことではありません。信仰における決意と相手への深い尊敬がなければ、実現は不可能でしょう。

 日本人の信徒が、外国籍の信徒に対して従うことを求めていては真に福音に基づく共同体の実現は難しいでしょう。外国籍の信徒たちは「お客さま」のままになってしまいます。他方、外国籍の信徒の方々も、非キリスト教社会にあって隣人への配慮を忘れずにしながら、小教区共同体を維持してきた日本人信徒への努力と苦労は認めなければならないと思います。

 最初から、簡単に一致が生まれていくわけではありません。出会いは交わりを生み、一致へと成長していくのですから、日本人信徒と外国籍の信徒がお互いに協力しあって、共に小教区共同体を築いていくのだという意識を育んでください。互いの違いを認めあいながら、協力していく姿の中に神の国は少しずつ実現していくのです。こうして、それぞれの地域に「キリストの体」を造りあげてください。忍耐と知恵が求められています。

 「キリストの体」を造りあげる上で、福音宣教者であり司牧者である主任司祭の役割は重要です。上述の②のスタイルの小教区共同体では、主任司祭が交わりと一致のためのキーパーソンとなります。仮に、外部から司祭を呼んできて外国語のミサをしている場合でも、そこに集う人々への司牧的配慮は自らの責任であることを主任司祭は示してほしいです。司祭の声かけ、あいさつがどれほど外国籍の信徒を励まし、力づけているでしょうか。この点を司祭たちは心に留めてください。また、主任司祭はできる限り外国語のミサを司式する司祭、ならびにCTICと連携を深めていただきたいです。

 ①のスタイルの小教区共同体では、多言語によるミサ、いわゆるインターナショナルなミサを実施しているところが多いです。典礼を通じて共同体の一致を表すことができるのは、ミサの参加者にとって大きなチャレンジであると同時に、恵みの大切な体験ともなります。互いに困難とストレスを乗り越えながら、一緒に主の食卓を囲むことができるのは、なんとすばらしいことでしょうか。

 しかし、現実には②のスタイルのミサ、あるいは③のスタイルのミサへと外国籍の信徒の方々がより多く参加しているのは残念です。自分が住んでいる地域の小教区共同体を愛し、助け、支えていただきたいです。人々を父なる神のもとへと集めるために、ご自分を十字架にささげたイエスさまは、ミサの中で多くの人々を一つに集め、一致させるために小さなホスチアの形までへりくだられます。

 このイエスさまのわたしたちへの思いを知っていれば、多少の不自由さを犠牲にしながらも、小教区共同体が一つになるという典礼を築きあげることができると信じています。今後もインターナショナルなミサが豊かなものとなるように努力と工夫を重ねていきましょう。

一致を目指していく典礼、とりわけミサがささげられるためには、日本人信徒であれ、外国籍の信徒であれ多くの人々が役割を担う必要があります。ミサの中で、数々の役目を果たしながら積極的に関わっていくのは当然なことです。

 また、日本語に不自由を感じ、日常のコミュニケーションにも難しさを感じる外国籍の信徒の方々への情報の共有はぜひおこなってください。小教区での情報の共有を多言語でおこなうような配慮はなされるべきです。多くの人々の協力の上に小教区共同体が成り立っているという体験と実感は、典礼をさらに豊かなものとしていくと信じています。

 

2.3. 小教区共同体に属する

 信徒は原則として居住地の小教区共同体に属さなければなりません。そこで、日本の教会では小教区共同体とのつながりを密接なものとするために、信徒籍のシステムを採用しています。

 教会維持費と呼ばれる月ごとの献金(月定献金)を納めることで、信徒は小教区共同体を支え、助けます。また、連絡や手続(秘跡や葬儀)などを円滑におこなうためにも信徒籍のシステムは役立ちます。

 外国籍の信徒の中には、特定の小教区共同体に信徒籍を持たず、結果的に所属教会がはっきりしない方々が多いです。信徒籍のシステムが存在しない国や地域から日本に来られた方にとっては、このシステムについての理解がなかなか難しいかと思います。

 また、ご自分の都合にあわせて、外国語のミサをおこなっている共同体へと出向く方も多いと思います。さらに、外国籍の信徒の方々が一つの居住地に必ずしも定住するとは限らないのも事実です。

 しかし、東京大司教区内の小教区共同体の一部では、この信徒籍のシステムについての説明を外国籍の信徒の方々におこなっているところもあります。今後、東京大司教区としては、こういった取り組みを参考にしながら、外国で受洗した信徒も、あるいは一時的に滞在する信徒も、個別に所属教会に信徒籍をおくことを取り組んでいきます。そして、外国籍の信徒の方々にご自分がお住まいの近くの小教区共同体に属するようにと勧めていくことを計画しています。

 

2.4. 次世代の信仰教育

 次の世代に信仰を伝えることは教会、特に小教区共同体の大切な使命です。しかしながら、これまで外国語のミサに集まる信徒の子どもたちへ信仰教育がなされずに信仰が十分に伝えられなかったという現実も認めなければなりません。

 ②のスタイルの小教区共同体では、日本語のミサの時間に合わせて行われる教会学校に子どもたちが参加するのが難しいです。また、外国語のミサが行われている教会へと通うことから、子どもたちが毎週同じ小教区共同体に必ずしも通うとは限りません。

 確かに、初聖体に向けての勉強、堅信式に向けての勉強が教会学校参加へのきっかけになりますが、秘跡を受けるまでの一時的な参加で終わってしまうことも少なくありません。秘跡のために教会学校への参加を促すだけでは問題の解決とはなりません。

 次の世代の子どもたち、若者たちが信仰の共同体の中で神との出会い、主イエス・キリストとの交わりを育むことができるように、教区全体とそれぞれの小教区のレベルで多角的な取り組みが必要でしょう。

 

2.5. 分散している外国語のミサ

 ①と②のスタイルでおこなわれている外国語のミサは、1980年代から90年代にかけて自分たちの小教区共同体に来た外国籍の信徒へのサービスとして始まっていったという起源があります。こうして近隣の教会で月に1回程度の頻度で外国語のミサが行われるという状態が生まれました。

 その中で日本人信徒との交流が生まれ、①のスタイルのミサで定着する場合もあれば、いわば小教区共同体が場所を提供するという形で②のスタイルのミサへとなっていった場合もありました。いずれにせよ日本の教会が、海外から来た信仰の仲間を兄弟姉妹として積極的に受け入れてきたのです。様々な困難に直面しながらも取り組んでいった皆さんの努力は決して無駄ではなかったと思います。

 しかし、あれから四半世紀以上が経過して、②のスタイルで外国語だけでなされるミサが各小教区で分散して行われているのは信仰の共同体を作る上でも、次世代への信仰伝達をおこなっていく上でも、あまり望ましくないと考えます。また、司祭の減少により、外国語のミサを司式できる司祭を探し出すのも難しくなってきました。

 これからは、日本語を交えず外国語だけでなされるミサについては、教区レベルでの検討課題とする必要があると考えます。具体的には複数の外国語のミサを行う拠点となる教会を定める方向で検討します。

 しかし、前述の①のスタイルのミサは、〈日本にあるキリストの教会〉と特徴となる典礼の姿となりますので、ないがしろにしてはならないでしょう。人種、国籍、言語、文化の違いを超えて、できる限り同じ典礼に参加し、共に祈り、共に成長するという責任を担った小教区共同体を目指していきたいと考えています。

2.6. 多様性への理解と配慮

 信仰における一致した共同体を造りあげることを目指しつつも、多様性の尊重がもたらす恵みにも光を注ぐ必要があります。日本で生活する移住者にとって、自分たちの言語、国籍の小グループによる憩いを軽視すべきではありません。様々な困難がある日常の生活から離れ、母国語で話せる仲間がいるのは大きな喜びでしょう。それは、学校や就労で苦労する子どもたちや若者たちにも当てはまることだと思います。

 このような言語別、国籍別の集いの中で、そこに集う人々は、自分たちの文化で育んできた信仰の姿を分かち合うこともできるでしょうし、さらには自由な信仰表現ができるようになるでしょう。そして、創造的な発想をもって小教区共同体に貢献することも可能となるでしょう。なによりも、そういったグループ活動は、一人ひとりにとって心の安らぎを得る場面ともなることでしょう。

 日本人信徒は小教区共同体に生まれた言語別、国籍別の小グループによる活動を否定してはならないと思います。むしろ多様な活動グループが集まって、一つの小教区共同体を造りあげていくことに注目すべきです。また、個々の活動グループが小教区共同体とは無関係に存続していくのは好ましくないと思います。この点については外国籍の信徒の方々に気をつけてほしい点です。

2.7. 教会とのつながりが途切れている信徒への配慮と福音宣教

 洗礼を受けていながらも小教区共同体とのつながりが希薄になり、場合によって途切れてしまっている信徒が日本人であれ、外国籍の方であれ相当数存在します。こういった方々、また、まだ洗礼を受けていない方々とのつながりはどのようにしたらよいのでしょうか。

 外国籍の信徒であれば、結婚や葬儀を機会に小教区共同体と知りあっていくことはよくあります。また、CTICや外国語のミサを司式する司祭など通じて教会とのかかわりも生まれていきます。いずれにせよ該当する地域の小教区共同体と連携を取りながら、こういった方々との関わりを深めていく必要があるでしょう。小教区共同体の司牧の担当者もそれぞれの事情を考慮に入れながら、いつくしみ深い司牧的な配慮をしていただきたいと思います。

 教会が福音宣教をしていく上で、すべての人が対象となります。上述の言語別、国籍別の小グループによる活動もまた福音を伝える責任を担っていることを強調したいと思います。

 わたしたちは、ともすると外国籍の方々の司牧的なニーズにどのように応えていくのかだけに目が奪われてしまいがちですが、日本人の信徒への司牧的な配慮がなされるのと同様に、外国籍の方々への入門講座などで新たな信仰の仲間を得るための努力についても目を向けていかなければならないでしょう。教会が日本の社会に向けて福音宣教を行うように、日本に滞在する外国籍の方々にも福音宣教をしていかなければならないのです。

3. カトリック東京国際センター(CITC)について

 CTICは1990年に国際化する教会と社会に奉仕するセンターとして設立されました。多くの移住者と関わりながら、その時々に求められる司牧的サービスや社会的奉仕を行い、さまざまな変遷を経て現在にいたります。これまでの活動を支えてこられた多くの方々の奉仕と祈り、献金に心から感謝申し上げます。CTICの活動の重要な点は次の二つです。

① 教区内の小教区共同体の多文化、多国籍な司牧的努力へのサポート。これには外国語ミサの司式者の依頼も含まれます。
② 外国籍の方々への具体的な生活へのサポート。

 この二つの活動について、これまではではその時々の状況や必要性に応じて優先順位が変化していきました。さらには教区内にCTICについての認識の違いがあったのも否めません。

 今後は、CTICの目的、活動の範囲を明確にしながら、教区内の他の活動団体と協調しつつ、外国籍の方々への司牧的なニーズに対応した活動とするために組織の再編に取り組みます。今回の宣教司牧方針では「教区カリタスの創設」について明言しました。

 具体的には、担当の司教総代理を中心に、CTICを核として教区内の社会的活動を実施している諸委員会を統合していきます。教会の本質はコイノニア(交わり)とディアコニア(奉仕)です。しかし、ディアコニアはサービスの提供ではありません。むしろ、自分を小さくして仕えるミニストリーです。サービスの提供から始まった外国籍の方々へのかかわりは、多くの人々を生かすために共に仕えていくというものへと転換しつつあると思います。

4. 司牧方針のまとめと今後の方向性

 以上の分析と考察を踏まえて、外国籍の方々への司牧方針を次のようにまとめます。

● 東京大司教区は、人種、国籍、言語、文化の違いを乗り越えて一つの信仰の共同体を教区のレベルでも小教区共同体のレベルでも実現することを目指します。
●東京大司教区は、すべての信徒が、小教区共同体に所属し、共に責任を担いあって育て運営する信仰の共同体を目指します。
●東京大司教区は、人種、国籍、言語が異なるという多様性の中で、誰一人として孤立することのないように、信仰における固い決意と互いの尊敬のうちに支え合う信仰の共同体を目指します。
●東京大司教区は、それぞれの小教区共同体での違いを乗り越える取り組みを支援するために、CTICを核とした社会司牧の組織を創設し、支援体制を整えます。
●なお、この方針に記した内容や、それに基づいて行った取り組みについては三年後を目途にふり返りと評価を行い、必要に応じた修正をします。
●さらに、このふり返りと評価は、教区の宣教司牧評議会が中心となって実施しますが、可能な限り多くの方々の意見を伺うつもりですので、教区内の皆さまの協力をお願いします。

おわりに

 「一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」(一コリント12章13節)。

 パウロがこう記すように、わたしたちすべてのキリスト者は、一人ひとりが等しく大切な一つの体の一部分です。わたしたちには、世界のどこにいたとしても、その地にあって共同体を構成し、共同体としてすべての人に「福音を宣教する」という同じ使命が与えられています。わたしたちの信仰は、ひとりのものではなく、共同体の信仰です。その共同体は、一つの体、キリストの体です。

 違いを乗り越えることは、創造力と忍耐力を必要とします。なかなか理解できないこともあり、衝突することもあるでしょう。しかし、「一つの体となるために洗礼を受け」た者として、互いに尊敬を持ち、歩みを共にしましょう。

 東京大司教区の小教区が、多国籍の人々がつくる豊かな教会共同体を目指し、〈日本にあるキリストの教会〉となることで、日本の社会の中で「福音を告げる教会共同体」へと成長できるように祈りながら、共に歩んでいきましょう。

 2021年3月19日 カトリック東京大司教区 大司教 タルチシオ菊地功

2021年3月20日

・「Amoris laetitia(家庭における)愛の喜び」と聖ヨセフの特別なつながり

 

The Holy Family at the Nativity of Our Lord, mosaic by Fr. Marko RupnikThe Holy Family at the Nativity of Our Lord, mosaic by Fr. Marko Rupnik 

(2021.3.19 Vatican News Benedetta Capelli)

 「Amoris Laetitia Family” Year(愛の喜び・家庭年)」が聖ヨセフ特別年が行われる中で19日、始まった。 カトリック教会の守護の聖人である聖ヨセフの特別年、そして教皇の回勅「Amoris Laetitia」の公布5周年を迎えて始められた記念の年、は特筆すべき連続性を示している。

(以下英語訳全文)

Saint Joseph and the family form a bond of tenderness that is immediately recognizable. Pope Francis described the Saint at Wednesday’s General Audience as a “just and wise man,” a beloved Father, welcoming yet in the shadows.

He is a father of creative courage, as we read in Patris Corde, the Apostolic Letter with which the Pope proclaimed the Year of St. Joseph on 8 December 2020. The year overlaps with that of Amoris Laetitia Family, which begins on Friday, the solemnity of Mary’s husband, five years after the publication of Amoris laetitia.

Pope Francis, in another important association, signed the Apostolic Exhortation on 19 March 2016 during the Jubilee of Mercy and under the protection of St. Joseph. In the conclusion of Amoris laetitia, the many threads of this fabric, woven of love for the Church and her children, are reconnected.

A Prayer to the Holy Family

Jesus, Mary and Joseph, in you we contemplate the splendor of true love, to you, confidently, we entrust ourselves,
Make our families places of communion and places of prayer, authentic schools of the Gospel and small domestic Churches,
That there may never again be in our families, episodes of violence, closure and division;
That whoever has been wounded or scandalized may be promptly comforted and healed,
Make us all aware of the sacred and inviolable character of the family, of its beauty in God’s plan.

Amoris Laetitia Family Year

It was during the Angelus on the Feast of the Holy Family, 27 December 2020, that Pope Francis announced the Year dedicated to Amoris Laetitia Family.

It begins on 19 March 2021, five years after the publication of the Apostolic Exhortation; and is set to end on 26 June 2022, on the occasion of the 10th World Meeting of Families in Rome.

As Pope Francis explained when he announced the event, it is meant to be “a year of reflection, an opportunity to deepen the contents of the document.” The Dicastery for the Laity, the Family and Life is coordinating pastoral, spiritual and cultural initiatives for the Year. The Dicastery’s website, www.amorislaetitia.va, has created pamplets, conferences and in-depth studies on the papal document available in five languages. Pope Francis himself clarifies, in the fifth paragraph of the text, the importance of Amoris laetitia:

This Exhortation is especially timely in this Jubilee Year of Mercy. First, because it represents an invitation to Christian families to value the gifts of marriage and the family, and to persevere in a love strengthened by the virtues of generosity, commitment, fidelity and patience. Second, be-cause it seeks to encourage everyone to be a sign of mercy and closeness wherever family life re- mains imperfect or lacks peace and joy.

Family of Nazareth, a ‘northern star’

Pope Francis looks to the “icon of the Holy Family of Nazareth with its daily life that had its share of burdens and even nightmares” – such as Herod’s violence, which even today is renewed on the skin of so many refugees. He also holds up its “covenant of love and fidelity” which “illuminates the principle that gives shape to every family and enables it better to face the vicissitudes of life and history.”

In Amoris laetitia, the Pope quotes Paul VI and his speech in Nazareth on 5 January 1964: “Nazareth teaches us the meaning of family life, its loving communion, its simple and austere beauty, its sacred and inviolable character. May it teach how sweet and irreplaceable is its training, how fundamental and incomparable its role in the social order.”

Year of Saint Joseph

It is St Joseph who watches over this treasure, “as head of the family.” It is he, writes Pope Francis in Patris corde, who teaches us that “having faith in God also includes believing that He can work even through our fears, our frailties, our weaknesses.”

“It is the true miracle by which God saves the Child and His mother,” trusting in Joseph’s “creative courage.”

To this much-loved figure, 150 years after his proclamation as Patron of the Universal Church thanks to Pope Pius IX’s decree Quemadmodum Deus, Pope Francis decided to dedicate a Year of St. Joseph.

He also granted the “gift of special Indulgences,” until 8 December 2021, for those participating in the celebrations, under the usual conditions: sacramental confession, Eucharistic Communion and prayer for the Pope’s intentions.

 

2021年3月20日

・東京教区・ヨセフ年記念企画「ヨセフ像のエピソード」

2021年03月15日

(2021.3.15 カトリック東京教区お知らせ)

 すでに始まっている「ヨセフ年」を記念して、東京教区の教会や修道院に置かれているヨセフ像を、その像にまつわるエピソードと共にご紹介します。機会があれば、最寄りの「ヨセフ様巡り」の巡礼をなさってみてはいかがでしょうか?

  ※ヨセフ年に関する詳しい解説はカトリック中央協議会の特設ページをご覧ください。※カトリック中央協議会では「聖ヨセフの連願」「聖ヨセフへの祈り」の日本語訳を公表しています。お祈りください。

東京カテドラル

 カテドラルのルルドの横に立つヨセフ像をご存じでしょうか。白柳誠一枢機卿によって「受けとめるヨゼフ」と名付けられたこの像は、彫刻家の関谷光生(せきや みつお)氏の手によって1999年に完成しました。銘板の文字も白柳枢機卿の筆によるものです。

 カトリック信者ではない関谷氏は、ヨセフ像を制作するにあたり、アトリエで森一弘司教や稲川保明神父から説明を受けたり、森司教と一緒に宇治のカルメル会のヨセフ像を見学しに行ったりするなどして、聖ヨセフへの理解を深めたそうです。

 また、このヨセフ像の設置には、当時司教館で奉仕していた大阪聖ヨゼフ宣教修道女会のシスターたちへの感謝も込められており、大阪ヨゼフ会の本部修道院(大阪府箕面市)にも関谷氏の手によるヨセフ像が置かれています。

 カテドラルの正面扉から外に出ると、ルルドのマリア像と受けとめるヨセフ像の両方が目に入ります。今年はヨセフ年。カテドラルにお越しの際には、ルルドだけではなく、是非ヨセフ像の前にも足を運び、主イエスの養父である聖ヨセフに祈りを捧げていただければ幸いです。


白柳枢機卿の筆による銘文

 

*ヨセフ像の写真募集します!

 「ヨセフ年」を記念して、東京教区の教会や修道院にあるヨセフ像の写真を募集いたします(個人所有は含みません)。その像が制作・設置された由来や像にまつわるエピソードの文章を添えて、教区本部事務局広報部宛に郵送かEメールで写真をお寄せください。お送りいただいた写真と文章は教区ニュースと教区ウェブサイトでご紹介いたします。沢山のご応募お待ちしています!

送付先
郵送:〒112-0014 東京都文京区関口3-16-15 カトリック東京教区事務局広報部 E-mail

※メール添付の場合、ファイル形式は問いませんが、できる限りサイズの大きな写真を添付してください。

2021年3月16日

・全世界に福音の喜びをもたらすためにー教皇フランシスコ在位8年を振り返る(VN)

Pope Francis with young people at WYD in Panama 2019Pope Francis with young people at WYD in Panama 2019  (Vatican Media)

(2021.3.13 Vatican News Isabella Piro)

  2013年3月13日、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオが聖ペトロの座に就くように選ばれた。初のイエズス会士の、ラテンアメリカ出身の、初めてフランシスコの名を冠する教皇の誕生だった。

 以来、教皇フランシスコの8年は、全人類にイエスの愛をもたらすことを目的とした新たな福音宣教の推進に、すべてのキリスト教徒を参加させるための先導と改革で特徴づけられてきた。

 親密さ、協議制、勢いある福音宣教ーそれが8年前に聖ペテロの座に選ばれた教皇フランシスコの教皇職の要石だ。彼の教皇観は、自身の存在と行動の対照として、底辺から、実存的で地理学的な”辺境”に注意を向けるところから始まる。

 「福音が本来もっている新鮮さ」を取り戻すように、すべての人を招き、イエスの愛が本当にすべての人に届けるために新たな熱意と力強さを手にするように、信徒たちに強く促す。教皇フランシスコが熱望する教会は、”開かれた扉”、「優しさの革命」や「優しさの奇跡」を恐れない”野外病院”をもつ、「外に向かう教会」だ。

*新しさとEvangelii gaudium(福音の喜び)ー教皇の案内書

 「フランシスコ」という名の最初の教皇、教皇として最初のイエズス会士、最初のラテンアメリカ出身者として、また前任者の辞任を受けて選ばれた近代で初の教皇として、教皇フランシスコは、”新鮮”の旗の下で教皇職を始めたーサンタマルタの家で日々のミサを捧げ、そこを住まいにした。

 教区司祭の仕方で自然な形で行われる短い説教で、教皇は信者たちと直接の対話をし、神の言葉と直接向き合うように促す。2013年はまた、使徒的勧告「Evangelii gaudium(福音の喜び)」ー新教皇の基本指針ーを発出し、その中で、教皇フランシスコは、喜びで特徴づけられる新たな福音宣教、、教会構造の改革、そして教皇による統治の改変をーそれによって、イエスが意図された目的にかなう宣教活動がなされるようにー司教、司祭を含むすべての教会関係者、信徒に求めた。

 そして、この2013年には、「枢機卿評議会」を設け、(1988年に当時のヨハネ・パウロ二世教皇が発出した)教皇庁の組織体制を規定する使徒憲章「Pastor bonus」の改訂の検討に着手させた。

【2014年】「家庭」

 「家庭」は教皇フランシスコの2014年の司牧の最重要テーマだった。そのために、「家庭」をテーマとする全世界代表司教会議(シノドス)の特別総会を招集した。教皇は、現在の個人主義が蔓延する社会で子供たち、親たちの権利が、とくに道徳教育、宗教教育の面で危機に瀕していることに、強い懸念を持っていたのだ。シノドスの成果は2016年4月に公布された使徒的勧告「Amoris Laetiti(家庭における愛の喜び)」として結実し、その中で教皇は、分かち難い男女の結婚を基礎にした家庭の重要さと素晴らしさを強調するとともに、離婚して再婚した人々にも目配りし、司牧者たちに識別力を働かせるように促した。

 教会改革に関しては、バチカンに未成年者保護のための委員会を設置したことが特筆される。委員会の目的は、すべての未成年者と脆弱な成人の保護について特定の教会の責任を促す対策を、教皇に提言することだ。

 外交面では重要な二つのことがあった。一つは7月8日にバチカンの庭園で、イスラエルのペレㇲ大統領とパレスチナ自治政府のアッバス議長と共に、「聖地エルサレムの平和の祈り」を捧げたこと。それに、米国とキューバの外交関係樹立にあたって、教皇が両国の代表に書簡を送り、これに強く関与する姿勢を示したことだった。

【2015年】被造物の保護

 2015年の中心には「被造物の保護」が置かれた。5月24日、教皇は回勅「ラウダート・シー私たちの共通の家を大切に」に署名した。回勅の核心は、欠かすことのできない環境、自然へのいたわり、貧しい人々の公正な扱いと社会への関与は分けることができない、ということだった。回勅の延長として、教皇は、信仰一致のもとで「被造物へのいたわりの祈り国際デー」を毎年9月1日に設定した。

 教会改革では、”教皇庁に関する新使徒憲章、後に「Praedicate Evangelium」という仮題がつけられる使徒憲章の策定が進められた。

 この一方で、Vatileaks 2(教皇庁の秘密文書の漏洩)が発覚し、教皇が11月8日の主日の正午の祈りでこれについて「文書を盗むのは犯罪です。全く情けない行動です」と遺憾の意を表明。被疑者4人はバチカン裁判所で裁かれ、2人が刑法犯で有罪となっ

【2016年】慈しみの特別聖年

 「慈しみ」が2016年を通しての共通の糸となった。教皇は、「父のように慈しみ深く」のテーマの下に特別聖年を実施した。最{も弱い人々へのいたわりは「慈しみの金曜日」で具体化され、この日に教皇は貧困者、病者、そして社会の隅に追いやられている人々を受け入れている施設に私的訪問をされた。さらに、広く開かれた教会」を象徴する形で世界中の教会で”聖なる扉”が開かれ、教皇は聖ペトロ大聖堂のその扉を開くのに先立って、2015年11月に中央アフリカ共和国を訪問した際に、バンギの大聖堂の扉を開けた。

 また 2016,年には、もう一つ大きなことがあった。2月12日にキューバで教皇がロシア正教のキリル一世モスクワ大主教と会見し、現代社会の課題ーキリスト教徒に対する迫害と戦争の終結、宗教間対話の推進、移民・難民支援、命と家庭の保護ーへの取り組みを約束する共同宣言に署名した。

【2017年】世界貧困の日

 2017年には教皇が推進する平和外交で大きな前進があった。2017年9月20日に国連総会で「核兵器禁止条約」が採択され、その直後にバチカンが世界の国々に先駆けて、同条約を批准した。

 司牧面では、「世界貧困の日」の第一回が祝われ、「イエスの現存が証しされる」のはまさに貧困の中であること、貧困は「天国への道」を開き、「天上への旅券」であることを思い起こす契機となった。

【2018年】中国との司教任命に関する暫定合意

 2018年は二つの点で特徴付けられた。司牧の面では、”若者”シノドス(全世界代表司教会議)の開催。教皇は若者たちに、「信仰は出会いであり、理論ではない。聞き、近づき、証人となるように」と求めた。その呼びかけは、シノドスを受けて翌2019年に出された使徒的勧告「Christus vivit,(キリストは生きている)」で一層、強いものとなった。「あなたがたは、神の”今”だ」と教皇は述べ、現代社会の挑戦に遭っても引き下がらず、”最も小さな人々”への配慮に献身するように願った。

 外交面では、2018年9月22日、中国政府(中国共産党ではない)との間で、同国内での司教任命についての暫定合意に署名した。そしてこれは、2年の期限を迎えた2020年秋にさらに2年延長することが決まったが、具体的内容は、2021年になっても公けにされていない。

*「カトリック・あい」注:中国国内のカトリック教会は、従来から、中国共産党の指導に服する「中国天主愛国協会」所属の教会と、教皇のみに忠誠を誓う”地下教会”に分かれていた。バチカンは基本合意によって司教の選任が一本化し、中国における福音宣教が正常な形で進む、と期待していたようだ。

 だが、実際には、暫定合意と前後して、中国国内の諸宗教の活動の監督・規制の権限が、政府である国務院の宗教担当部局から中国共産党の統一戦線工作部に移管され、それとともに、カトリックも含めた諸宗教の”中国化”、共産党の指導に従わない諸宗教を強制的に指導・監督下に置き、従わない者は徹底的に監視・弾圧するという動きが活発になっている。

 このような実情を教皇がどこまで理解されているのかは定かでないが、バチカン内部には中国に融和的な姿勢をとる高位聖職者もいるようだ。このようなバチカンの対応が、新疆ウイグル自治区やチベット自治区での少数民族弾圧、香港での民主活動の抑圧など、基本的人権の侵犯の姿勢を強める中国政府・共産党の姿勢を、結果として容認するのではないか、という懸念も関係者の間に高まっている。

【2018年-2019年】聖職者による性的虐待への対応

 2018 年はカトリック教会にとって”極めて苦い”ページを開く年でもあった。高位聖職者などが絡んだ性的虐待に関する出来事だ。教皇の側近で、バチカンの財政・金融改革に大きな役割を期待されていたジョージ・ペル枢機卿が未成年性的虐待の容疑で起訴され、オーストラリアの裁判所で無罪を勝ち取り、13か月後に釈放となったこと。チリの高名な説教師で、一司祭ながら同国の教会に強い影響力を持っていたフェルディナンド・カラディマが幼児性愛で有罪、教皇から聖職者の地位をはく奪されたこと。さらに、米国では、改めて信徒たちの間に大きな衝撃を与えた、多数の聖職者による未成年性的虐待に関する「ペンシルバニア報告」が出されたこと。

 8月にアイルランドを司牧訪問された教皇は、その最後に、カトリック教会を代表して赦しを乞う「罪の告白」をされた。これと同じ時期に、米ワシントン大司教だったセオドア・マカリック枢機卿(当時)が未成年への性的虐待で責任を問われる「マカリック事件」が浮上した。枢機卿は翌2019年にその地位をはく奪され、さらに2020年11月に教皇の指示を受けたバチカン国務省のこの問題に関する特別報告が出された。

 性的虐待との戦いは2019年も続き、2月に全世界司教協議会会長会議でこの問題が話し合われ、それをもとに教皇は自発教令「Vos estis lux mundi,」を発出、性的虐待の案件を知った聖職者、修道者の告知義務を明確化し、全世界の司教区が、公共機関がその報告を容易に受けることのできる体制をとることとした。さらに12月に教皇は、性的虐待に関する教皇の秘匿義務を拝する勅令を出した。

【2019年】友愛、平和、キリスト教徒の一致

 2019年は、3つの大きなことがあった。1つ目は、アブダビでイスラム教のグランド・イマームであるアフマド・アル=タイイブ師と共同で「Human Fraternity for World Peace and Living Together(世界の平和と共に生きるための人間の友愛)」の文書に署名したことだ。文書は、宗教間対話の強化を奨励し、テロと暴力を非難し、相互尊重を促すもので、その共同署名は、キリスト教とイスラム教の関係における画期的な出来事となった。

  2つ目は、南スーダンの指導者たちのために精神的な休息の場をバチカンに提供したことだ。集まりは4月に行われ、衝撃的な行為で幕を閉じたー教皇が、到着した同国のサルバ・キール・マヤルディ大統領の前にひざまずいて、その足に接吻したのだ。教皇の意図は、この”若いアフリカの国”で「戦争の火が完全に消えることを懇願する」ことだった。

 3つ目は、キリスト教の一致に向けられたものだ。6月29日、教皇はコンスタンティノープル総主教庁からの代表団に聖ペテロの遺物の断片をいくつかを贈った。教皇自身がバーソロミュー1世総主教への手紙に書いているように、この贈り物は「私たちの教会が互いに近づくために行った旅の確認となること」を意図したものだ。

 

【2019年】バチカンの財政・金融改革

 教皇が就任当初から重視して来た財政・金融改革の一環として、教皇は2019年8月、IOR(宗教活動研究所=通称「バチカン銀行」)に関する規則を改め、その会計を監査する外部監査人の制度を導入した。これに続いて、2020年末に、金融情報局(ASIF)に関する規則も刷新して監督機能を持たせ、名称もそれにふさわしい「監督及び金融情報局」に改められた。

 さらに、「経済および財政・金融問題における特定の能力」に関する自発教令を発出し、教皇に対する献金を含む基金と財産の管理・運用の権限を国務長官から、聖座財産管理局(APSA)に移管するとともに、財務事務局の監督機能を強化した。

【2020年‐】ウイルス大感染への対応・使徒的勧告「Querida Amazonia」そして回勅「Fratelli tutti」

 2020年に最大の危機を迎えた新型コロナウイルス大感染に対して、教皇は絶え間ない祈りで、世界の信徒たちの側に立ち続けた。全世界は、3月27日に教皇が一人でなさった「Statio Orbis(聖体崇拝)」を忘れることがないだろう。人気のない、雨に濡れた聖ペテロ大聖堂前の広場。ウイルスの蔓延を抑えるために、その場に実際に参加する代わりに、信徒たちは、世界中に対してされた動画中継を通じて、教皇と心を合わせた。

 教皇の水曜恒例の一般謁見、主日正午の祈り、そしてサンタマルタの家での朝のミサも、しばらくの間、インターネットの動画中継で行われた。

 2月に、教皇就任後5つ目となる使徒的勧告「Querida Amazonia(愛するアマゾン)」を発出された。2019年にバチカンで開かれたアマゾン地域特別シノドスの成果を集めたもの。

 10月には、三つ目の回勅「Fratelli tutti(兄弟の皆さん)」を出された。この回勅は、このフランシスコの教皇職の顕著な特徴をさらに明確にし、教会と世界の人々に、兄弟愛と社会的友愛を呼びかけ、より良い世界を構築するために戦争を拒絶することを強調している。

【2020年】眼差しを”周辺”に向けた司牧訪問‐イラク

  2020年は、イラクへの歴史的な教皇訪問を今年3月にするとの発表で締めくくられた。教皇のイラク訪問は歴史上初めて。コロナ大幹線の影響を受けて、外国訪問を15か月の休止した後、教皇は福音の光と美しさを世界にもたらそうとする視線を、「友愛と希望」が緊急に求められている”周辺”に向けた。

 2013年7月に行われた教皇フランシスコとしての初の”外国訪問”は、移民・難民の中継地になっているイタリア最南端のランペドゥーザ島。教皇の移民・難民に対する強い思いが行動となった。教皇は、「すべての移民・難民は、何よりもまず、人間です」と繰り返し言明されている。そして、言葉だけでなく、行動でそれを実行される。ギリシャのレスボス難民キャンプに訪問された際には、12人のシリア難民をローマに連れて戻られ、彼らが助けを受けられるようにされた。

【教皇フランシスコに関係する統計データ】

 教皇就任からこれまでに、フランシスコは、イタリア国内を25回、外国を33回訪問されている。一般謁見は340回以上、主日の正午の祈りは450回以上、サンタマリアの家での説教は790回近い。イタリア・オトラントの800人の殉教者を含む約900人の列聖。7回の教会会議を開き、新たに101人の枢機卿を任命した。

 数々の特別年ー奉献生活(2015年-2016年)、聖ヨセフ(2020年-2021年)、そして、使徒的勧告「Amoris Laetitia(家庭における)愛の喜び」を学び直す年(2021-2022)ーを設け、特別の「日」も「祖父母と高齢者の世界デー」(2021年7月)などいくつも新たに作られている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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 (以下、バチカン放送日本語版)

 教皇フランシスコは、寄り添い、互いに耳を傾け共に歩む姿勢、宣教的跳躍への招き、地理的・社会的「辺境」への関心などの特徴と共に、教皇は「外へ出てゆく教会」「開かれた教会」「野戦病院としての教会」を目指してきた。

 新型コロナウイルスによるパンデミックの影響下にあったこの一年、教皇は信者たちのそばに精神的に留まり、絶えず祈りを捧げてきた。

 2020年3月27日、教皇はパンデミックの収束と信仰による励ましを願い、雨の降る無人のバチカンの聖ペトロ広場で祈りと聖体降福式をとり行われた。

 感染拡大防止対策上の様々な制限の中で、教皇は、一般謁見や日曜のお告げの祈りをはじめ、ミサやその他の儀式などのビデオ中継を積極的に行われてきた。

 昨年2月、教皇は、2019年にバチカンで開催されたアマゾン地域をめぐるシノドスの実りとしての使徒的勧告「ケリーダ・アマゾニア」を発表した。

 そして、続く10月には、兄弟愛と社会的友愛をテーマにした新回勅「フラテッリ・トゥッティ」を発表。紛争を止め、すべての人が参加するより良い世界を築くことの大切さを強調した。

 教皇は2019年11月下旬に行われた訪日以来、パンデミックのために15ヶ月以上海外司牧訪問を中止していたが、今年3月、ローマ教皇として初めてイラクへの訪問を行った。

 教皇は、昨年12月8日、福者教皇ピオ9世によって聖ヨセフが「カトリック教会の保護者」として宣言されてから150年を記念し、「聖ヨセフの特別年(2020年12月8日から2021年12月8日まで)の開幕を宣言。

 また、家庭をテーマにした使徒的勧告『愛のよろこび』の発表から5周年を機に、同文書についての考察を深める特別年(2021年3月19日から2022年6月開催予定の「第10回世界家庭大会」まで)の開催を告げている。

 さらに、今年1月、教皇は、「祖父母と高齢者の世界デー」を、イエスの祖父母である、聖ヨアキムと聖アンナの日(7月26日)に近い、7月の4番目の日曜日に制定された。

2021年3月13日

・13日で教皇フランシスコ在位8年-課題解決へバイデンの「熱を冷ます」戦術に倣うか?(Crux解説)

(2021.3.12 Crux  EDITOR  John L. Allen Jr.

At his eight-year mark, will Francis try turning down the temperature?

Pope Francis arrives to visit the community at the Church of the Immaculate Conception in Qaraqosh, Iraq, March 7, 2021. (Credit: Paul Haring/CNS.)

ローマ発 – 米国のバイデン大統領は就任から2か月経とうとしているが、ニューヨークタイムズ紙のエズラ・クライン記者によると、米国の主要メディアの見出しはトランプ前大統領に関するものが依然として彼の2倍になっている。その現象の核心は、現代政治学の理論をもとにした意識的なバイデンの戦術にある、とクライン記者は分析する。つまりこうだ。

 「陰極(負の電極)」が今、政界においてもっとも強い力を持っている。そうした中で、人々は、自分たちが好きな者を支援するからといって、その考えを常に支持するように動くとは限らないが、自分たちが嫌いな者が支持する考えには、必ず反対に動く。(その理論を使って)バイデンは、自分自身を注目の的にすることを避けること(たとえば、バイデンが打ち出した野心的な経済刺激策を、ホワイトハウスの誰も「バイデン計画」と呼んでいない)で、保守派が反対に動くような要素を減らした。バイデンのスポークスパーソンは、これを「熱を冷ます」戦術、と呼ぶ。

 そして、これを聞くと、13日に在位8周年を迎えた教皇フランシスコのことが思い浮かぶ。

 新型コロナウイルス大感染の危機によって元気を取り戻したように見える84歳のフランシスコは、教会と世界のために野心的な課題に今も取り組み続けているた

 彼の”業務リスト”には、教会内的な課題として、問題山積するバチカン改革、財務・資金管理体制の抜本的な見直し、聖職者による性的虐待絶滅への戦い、女性と一般信徒の権限強化、より“共同的”な意思決定過程の確立ーなどが並ぶ。対外的には、”ポスト・コロナ”の世界ビジョンとしての、人類の友愛と連帯、世界の最貧層の人々のための経済的正義、自然環境保護と武力紛争の終結ーがある。

 これらの課題達成をややこしくしている要因の一つが、カトリック教会においても「陰極」が強い力を持っている、ということだ。現代の事実上すべての公的な人物と同じように、教皇フランシスコも、好むと好まざるにかかわらず、不和を招いている。カトリックの信徒のある部分には、教皇は熱心な支持を高めているが、一方で、その数は相対的に少ないものの、頑強な少数派がおり、教皇が彼らの懐疑主義と反発を誘っている。

 その観点から、おそらくフランシスコは、少なくとも公的責任が許される範囲で、バイデンの”作戦帳”の1ページを拝借し、難しい”方程式”を解こうとするかもしれない。それはどのようなものだろうか?自身への注目度を減らし、課題の実行を他の主体ー個人、グループ、あるいは機関ーに委ねることを意味することになるように思われる。

 コロナ感染拡大防止のために、バチカンで多くの人が実際に参加する行事が中止となり、外国訪問も制限されていることは、教皇の注目度を減らすのに”役立つ”と言えるかもしれないが、それは、他の公人にもあてはまることだし、教皇の注目度を必ずしも減らすことにはならない。

 当然ながら、コロナ禍においても、教皇は、バチカンと世界のカトリック教会の統治に関わる仕事に手を抜くことはできない。世界中の司教の任命、使徒的勧告や教令の公布、予算の承認その他、バチカンと世界の教会の活動を続けていくために必要な業務は止められないし、これが必然的に、ニュースになっていく。

 だが、フランシスコは、注意を惹くような非公式なやり方-インタビューを受けたり、ドキュメンタリー番組に出たり、本を出したり、電話を掛けたり、手紙を書すなど、メディアで取り上げられる振る舞いーを避けることが可能だ。そして、その時間を、優先事項と考える課題の取り組み促進へ、関係者ーバチカン官僚、世界中の司教、活動体や修道会の指導者、その他カトリック関係の活動家たちーを督促することができる。

 バイデンの経済刺激策と同じように、教皇が取り組んでいる多くの課題に対しては、強力な公的支援がある。バチカンと教会が透明性を高め、しっかりと説明責任を果たすようにするという教皇の方針を、極めて多くの人が好意を持って受け止めている。大多数が、女性と一般信徒にもっと大きな役割を与えようとする動きを支持している。全世界の信徒の3分の2が途上国の信徒で占められているカトリック教会で、教皇の掲げる社会正義の課題は幅広い支持を得ている。

 米国の政治と同じように、以上のような課題に関するカトリック教会の対話の二極化は、しばしば主張の中身ではなく、誰がその主張の背後にあり、誰がそれに反対しているのか、で生じている。

 教皇に就任して8年、フランシスコは時代のしるしを読み、自身が与えられた今という時に、教会と世界が必要としているものをつかみ取ることに長けていることを示してきた。

 バイデンの例が示唆しているのはこうだーバイデンとフランシスコがどれほど相似形でないとしても、教会と世界が今、教皇フランシスコに求めているのは、魅力のある個性を抑え、より多くの政策の選択の余地を作るということだ。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。

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2021年3月13日