♰「神は人となられ、私たちと親密になることを望まれている」-「主の公現の主日」正午の祈りで

Pope Francis during AngelusPope Francis during Angelus  (Vatican Media)

(2021.1.3 Vatican News staff writer)

   教皇フランシスコは3日、「主の公現の主日」の正午の祈りの説教で、神はご自身を肉体を持つ姿とされることで、ひ弱な私たちを愛され、全てを分かち合おうとされている、と説かれた。

 説教で教皇はまず、主の降誕に始まる第二の主日に、み言葉はイエスの生涯の出来事ではなく、お生まれになる前について語っている、それは特に、ヨハネ福音書の冒頭、「初めに言葉があった」(1章1節)に示されている、と指摘された。

 そして、「初めに」はこの福音書に出てくる最初の言葉だが、それは創世記の冒頭の「初めに神は天と地を創造された」(1章1節)と共通している、とされ、「福音書は、私たちがその誕生で赤子として考えていた方は、それ以前に、ものの始まり、宇宙の始まり、すべての始りの以前から、存在しておられた、と語っています」として、「万物は言葉によって成った…言葉の内になったものは、命であった」(ヨハネ福音書1章4節)を引用された。

 

*神は私たちと意思を通じ合われる

 教皇は「聖ヨハネは、神を『 Logos』、つまり『み言葉』と呼んでいます… そのみ言葉は、「伝達の手段、つまり独り言ではなく、『誰かと話す』方」です」とし、イエスが初めから言葉であった、ということは、神は初めから、私たちと意思を通じ合うこと、私たちに語ることを望まれていたことを意味するのです」と述べられた。

 そして、「父の御子は、神の子たちであることの素晴らしさについて、私たちに話したい、… 悪の闇を私たちから取り除きたい、と思っておられます。私たちの生活をご存じで、 いつも私たちを愛している、とおっしゃりたいのです」と語られ、「イエスは永遠の神の言葉、いつも私たちのことを思い、私たちと意思を通じ合いたいと願われています」と強調された。

 

*神は肉となって、私たちの間に住まわれた

 教皇は「今日読まれた福音書が私たちに告げているように、イエスは言葉を超え、まさに、『言葉は肉となって、私たちの間に宿られた』(ヨハネ福音書1章14節)のです」とされ、聖ヨハネが、弱く、はかない人間の姿を示すのに『肉』という言葉を使ったのは、神が私たちのもろさに身近に触れられるように、もろい存在となられたのだ、と語るためでした… ご自分の肉体の傷を父に示すことで、イエスは私たちのために取り成してくださいます」と説かれた。

 そして「主が肉となられた瞬間から、私たちの人生で主と無関係なものは何一つありません… 兄弟姉妹の皆さん。神は、弱い私たちをそのままの姿で愛しているとあなた方におっしゃる為に、あなた方が最も恥ずかしいと思う、そこで、肉となられたのです」と語られた。

 また教皇は、神がどのようにして私たちに背をお向けにならなかったかを説明され、「神は、私たちを、着たり脱いだりできるような衣服のように身にお着けになりませんでした… 私たちの肉体からご自身を切り離すことを二度となさらなかった… 福音書が述べているように、主は『私たちの間に宿られる』ために、来られました。『私たちを訪ねる』ために来られたのではなかったのです」と強調された。

*主に心を開いて

 さらに教皇は、「では、主は私たちに何を望んでおられるのでしょうか?それは、(注:ご自身との)素晴らしく親密な関係です!… 主は、私たちが自分たちの喜び、苦しみ、熱望と恐怖、希望と悲しみ、人々の置かれている状況を、分かち合うことを望んでおられるのです」と語られ、信徒たちに、まさにそうすることー主に心を開き、主にすべてを語るように、勧められた。

 そして、「飼い葉おけの前で静かにひざまずき、私たちの側においでになり肉となられた神の優しさを味わいましょう。そして恐れずに、私たちの間に、私たちの家に、私たちの家庭に、私たちの弱さに、主をお招きしましょう。主がおいでになり、人生が変わるでしょう」と訴えられた。

*教皇の新年のあいさつ

 正午の祈りに続けて、教皇は、始まった新たな年が全ての人にとって良いとなるように、と改めて祈られた。「神の助けを得て、共通善のために、最も弱い人々、もっとも不利な状況にある人を中心に置いて、共に働くことによってのみ、物事は改善するのだ、ということを、キリスト教徒である私たちは知っています… 2021年が私たちに何をもたらすか分かりませんが、私たち1人ひとり、そして私たち皆が一緒になってできることは、お互いを、被造物を、私たちの”共通の家”を大切にすることです」と強調された。

 また、ここ数日の新聞報道で、新型コロナウイルスの感染で苦しんでいる人たちを思いやることをせず、”良い休暇”を過ごすために、移動自粛の約束を無視する人々がいることを悲しく思うと嘆かれた。

 そして、「新たな年を、苦難の中で始める人たちー病気の人、職のない人、抑圧や搾取に苦しむ人ーに、特別のあいさつをおくられ、出産を真近かに控えた家族にも「誕生はいつも希望の約束です!」と思いを寄せられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年1月3日

♰「平和な世界へー私たちをマリアの母の眼差しに委ねよう」教皇、年頭の正午の祈りで

2021.01.01 Angelus2021.01.01 Angelus  (Vatican Media)

(2021.1.1 Vatican News staff writer)

  教皇フランシスコは1日、「聖なる母マリアの祝日」に年頭の正午の祈りをされ、説教の中で、私たちが、全てを可能にするマリアの「母の愛の眼差し」に私たちを委ねることの重要性を強調された。

 続けて、教皇は、私たちの人生の旅を通して、「私たちを元気づけ、慰める聖母マリアの眼差しは、私たちが苦悩と苦痛を彼女に委ねるときの励まし… マリアは御子イエスをご覧になったのと同じ母親の優しさで、私たちをご覧になっています。この眼差しは励ましなのです」と語られた。

 そして、「この眼差しは、主が私たちに与えられた時が、私たちの人間的、霊的な成長のために、費やされるものであることを確かなものとします…。憎しみと分裂を解消するために、私たち全員がもっと兄弟姉妹であると感じるために、作り上げ、壊さないために、そして、互いと被造物をたいせつに、いたわるために」と説かれた。

*世界平和の日に

教皇はさらに、元旦の今日、「世界平和の日」の今年のテーマである「平和の道としての『いたわりの文化』」に注意を向けられ、このテーマは「他者への、被造物へのいたわり」を世界の人々に訴えるもの、とされ、「過去1年間に人類の道に記された痛みを伴う出来事、特に新型コロナウイルスの大感染は、他の人々の問題に関心を持ち、懸念を共有することがいかに必要かを教えてくれています」と語られた。

 そして、こうした他者へのいたわりは、「平和につながる道につながる、兄弟としての関係に基礎を置いた社会の構築を支える態度です」とされ、「私たち一人ひとり、私たちの時代の男性と女性は、日々、そして人生のあらゆる場で、平和を実現するために招かれています。慰めの言葉、優しさを必要としている兄弟姉妹に、連帯の手を差し伸べるように」と説かれた。

 

*心の内から来る平和

 また教皇は「私たちが自分たちや周りの人々と仲良くなれば、平和は築くことができます… そして、それは、助けを必要とし、貧しさの中にある人々をいたわるのをを妨げる障害を取り除くことを意味します」とされたうえで、「世界に蔓延している無関心、不和、そして争いを克服するために、いたわりの精神と文化を強め、広める必要がある」と強調。

 そして、「平和とは、戦争がないことだけでなく、意味のある豊かな人生、個人的な充実と他者との友愛を皆で共有の中で生きること。そうすることで、暴力、利己主義、邪悪さによって絶滅の危機に瀕している平和を、達成することが可能になるのです… 家族における、仕事における、国々における平和。戦争、敵意、破壊が日常化している今、私たちは平和を望んでいます」と訴えられた。

 教皇は、年頭の正午の祈りを次のように締めくくられた。「聖母マリアが、私たちのために価値ある平和を、天から得てくださるように。人々の心に、仕事の場で、レジャーの場で、共同体社会と国々で、平和がありますように」「すべての信徒の皆さん、そして世界中の全ての人に、今年2021年が、幸せで平和な、自信に満ち、期待と希望に満ちた年となりますように」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年1月1日

♰「コロナ・ワクチンだけでなく、他者を思いやる『心のワクチン』を広めよう」-元旦ミサで

バチカン・聖ペトロ大聖堂で「神の母聖マリア」の祭日のミサ 2021年1月1日バチカン・聖ペトロ大聖堂でパロリン国務長官司式による「神の母聖マリア」の祭日のミサ 2021年1月1日  (ANSA)

(2021.1.1 バチカン放送)

 2021年元日、バチカンの聖ペトロ大聖堂で、「神の母聖マリア」の祭日と、カトリック教会の「第54回世界平和の日」を記念するミサが捧げられた。

 教皇フランシスコは、坐骨神経痛のために、大晦日と元日の宗教儀式の司式を見送られ、元旦のミサはバチカン国務長官ピエトロ・パロリン枢機卿が司式した。

 パロリン枢機卿は、ミサの中で、教皇が用意した説教を代読した。

 説教の中で「神の母マリア」を観想された教皇は、「マリアは神と私たちの架け橋であるだけでなく、私たちのもとに来られるために神が通られた道であると同時に、神の御許に到達するための私たち道なのです」と語られた。

 そして、「私たちは死ぬためではなく、命を生み出すためにこの世界にいます」とされ、「全てを心に納めていた」(ルカ福音書1章19節)神の母は「『私たちの周りの人に命を与える最初の一歩は、その人を自分の中で慈しむこと』だと教えてくれださいます」と説かれた。

 また、「心の中から善は生まれます。人を思いやり、愛せるように心を強めることは重要です… 全ては、他者や、世界、自然をいたわることから始まるのです」とし、「多くの人や物事と出会っても、それを大切にできなければ、意味がありません」と述べられた。

 さらに、今、新型コロナウイルスの大感染で深刻な打撃を受けている世界の再生とワクチン接種など新しい治療法がコロナ制圧に効果を上げること期待される中で、「体へのワクチンだけでなく、『思いやり』という心のワクチン」を広めることの重要性を強調された。

 代読された説教の最後に、教皇は「聖母が私たちに手を差し伸べてくださるように、私たちも他者をいたわることができるなら、今年は良い年になるでしょう」とされ、新年を聖母の保護に託しつつ、「私たちが神と人々のために時間を割くことを教えてください」祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年1月1日

♰「コロナ大感染の悲劇の中に意味を見出す」-神の母聖マリアの祭日の前晩の祈りで

大晦日の晩課の中で行われた聖体降福式 2020年12月31日 バチカン・聖ペトロ大聖堂大晦日の晩課の中で行われたバッティスタ・レ枢機卿司式の聖体降福式 2020年12月31日 バチカン・聖ペトロ大聖堂 

 2020年の大晦日の夕方、この一年を締めくくる儀式として、バチカンの聖ペトロ大聖堂で、「神の母聖マリア」の祭日の前晩の祈り(第一晩課)がとり行われた。

 教皇フランシスコは坐骨神経痛のためにこの儀式に参加できず、司式は枢機卿会主席のジョヴァンニ・バッティスタ・レ枢機卿に託された。

 聖歌の調べに満ちたこの式では、前半の祈りと説教に続き、後半、聖体礼拝が行われ、感謝の賛歌「テ・デウム」が捧げられた。そして、聖体顕示台を掲げて祝福が行われた。

  教皇によってこの式のために準備された説教は、レ枢機卿によって読み上げられた。

 この中で、教皇は「新型コロナ大感染の影響に色濃く覆われた2020年を振り返ることと、神に感謝を捧げることは、調和しないかのように見えるでしょうか」と問いかけられた。

 そして「家族を失った人、病気になった人、孤独に苦しんだ人、仕事を失った人、これら多くの人々を思う時、この悲劇の意味は何なのかという思いが浮かぶかもしれない、しかし、わたしたちはこの問いに対して、性急に答えることはできません」とされた。

 そして、「神が大きな計画のために人類を犠牲にするなら、それはイエス・キリストが啓示する神ではありません」とし、「神は限りない憐みに満ちた御父であり、ただ一匹の羊をも大切にされる牧者なのです」と強調された。

 また、イエスが説く、道端に倒れた瀕死の人に憐みを抱き、近寄って兄弟として介抱した善きサマリア人のたとえ話を示された教皇は「私たちはおそらくここに、すなわち、私たちの心に生まれる憐みや慈しみ、寄り添いや連帯の行為に、コロナ大感染や他の災害の悲劇における、一つの意味を見出せるのではないでしょうか」と語られた。

 そして、医療関係者をはじめ、司祭や修道者、学校関係者、市民生活の維持のために働く人々など、このコロナ大感染の中で、人々の苦しみを和らげるために、目立つことなく努力する多くの人々を思い起こされ、「大きな困難の中で、自分だけを守ることなく、利己主義を超えて、皆の善のために奉仕する人々の存在」に、神の恵みと働きを見つめられ、「私たちが神を賛美する理由はそこにあるのです」と述べられた。

 最後に教皇は、「神を通して未来に希望を抱き、神の慈しみが常に私たちと共にあるように」と祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年1月1日

◎教皇連続講話「祈りについて」⑫「感謝に導く霊の火を消さないように」

教皇フランシスコによる2020年12月30日の一般謁見教皇フランシスコによる2020年12月30日の一般謁見  (ANSA)

(2020.12.31  カトリック・あい)

 教皇フランシスコは30日、今年最後となる水曜恒例の一般謁見をバチカン宮殿からのビデオ中継の形で行われ、「感謝の祈り」について話された。

 講話の内容以下の通り。

(2020.12.30 バチカン放送)

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 今日は感謝の祈りについて考えてみたいと思います。福音記者ルカは、次のようなエピソードを伝えています。

   イエスがある村を通りかかると、重い皮膚病を患った十人が彼を出迎え、声を張り上げて、「イエス様、先生、私たちを憐れんでください」(ルカ福音書17章節)と言いました。重い皮膚病の彼らにとって、その身体の苦しみは、社会的・宗教的苦しみとも重なり合うものでした。これらの人々は疎外されていたのです。

 しばしば、掟を超えて病者に触れ、抱擁し、癒されるイエスは、このエピソードでは、直接、彼らのそばに行かれることはありませんでした。イエスは「行って、祭司たちに体を見せなさい」(同17章14節)とだけ言われました。祭司たちに、律法に従って、治癒したかどうかを確かめる役割があったからです。イエスは、このほかには何も言われませんでしたが、彼らの祈り、憐みを求める叫びを聴かれ、すぐに祭司たちのもとに彼らを送ったのです。

 十人は、イエスの言葉を信じ、すぐに祭司たちのところに行きました。そこに行く途中で、十人全員が清くされました。祭司たちは彼らが清くなったことを確かめ、普通の生活に戻らせたことでしょう。

 しかし、ここに来て、最も重要なことが起きます。十人のうち、ただ一人が、祭司たちのところに行く前に、イエスに感謝するために戻って来たのです。彼は、受けた恵みのために神を賛美しました。戻って来たのはただ一人、あとの九人はそのまま行ってしまいました。イエスは、彼がサマリア人であることに気づきました。サマリア人は、当時のユダヤ人にとって、いわば「異端」ともされる人々でした。イエスは言われますー「この外国人のほかに、神を崇めるために戻って来た者はいないのか」(同17章18節)と。印象的なエピソードです。

 このエピソードは、「感謝する人」と「感謝しない人」に、「物事を当たり前のこととして受け取る人」と「すべてを恵みとして受け取る人」に、世界を二つに分けているとも言えます。「カトリック教会のカテキズム」は「どんな出来事もどんな不足も感謝の対象となりえます」(2638項)と記しています。

 「感謝の祈り」は常にここからー自分が受け取った恵みを認めることから、始まります。私たちが考えることを学ぶ前に、神は私たちのことを考えておられました。私たちが愛することを学ぶ前に、私たちを愛しておられ、私たちが何かを心に望む前に、私たち自身を望んでおられました。もし、人生をこのように見ることができるなら、「感謝」は、私たちの一日を導く動機ともなるのです。私たちはしばしば「感謝すること」さえ、忘れています。

 私たちキリスト者は、「感謝」を、最も本質的な秘跡の名に冠しました。それは「エウカリスチア」です。それはギリシャ語で「感謝」を意味します。キリスト者は皆、神を信じる者として、命の恵みのために神を称えます。「生きる」とは、何よりも、命を受け取った、ということです。

 私たちが生まれるのは、私たちに命を望まれた方がいるからです。これが、生きていく中で最初に負う借りです。感謝の気持ちです。私たちの人生で、少なからぬ人々が私たちを無償の心を持って、純粋な目で見つめてくれました。それは、多くの場合、教育者や、カテキスタなど、自分に与えられた義務を超えて尽くしてくれた人々です。彼らは、私わたちに感謝の念を起こさせます。また、友情も、私たちが常に感謝を感じるものです。

 キリスト者がすべての人と分かち合うこの感謝の気持ちは、イエスとの出会いにおいて広がります。福音書は、イエスが通りかかるたびに、出会う人々の間に喜びと神への賛美が生まれていたことを明らかにしています。主の降誕の物語は、主の訪れに心を開いて祈る人々であふれています。私たちもまた、この歓喜に加わるようにと招かれています。

 重い皮膚を癒された十人のエピソードも、私たちにそれを呼びかけるものです。当然、この十人は癒されたことを幸せに思いました。癒されたおかげで、共同体から除外されていた彼らは、永遠に続くように思われた隔離から、解放されることができたのです。しかし、彼らの間に、ただ一人、喜びに喜びを重ねる人がいました。癒されたことだけでなく、イエスとの出会いに喜びを感じたのです。彼は病から解放されただけでなく、今では愛されていることの確信をも持ったのです。

 これが重要な点です。感謝する時、自分が愛されていることを確かに感じているということです。愛されていることを感じること、これは大きな一歩です。愛を発見することは、世界を支える力を発見するようなものです。ダンテがここにいたなら、愛は「太陽とその他の星々を動かす」(天国編XXXIII, 145)と言ったでしょう。

 私たちは、あてもなくさまよう旅人ではありません。私たちにはキリストという「家」があります。私たちは、キリストの中に住んでいます。そして、この「家」から、世のすべてを観想します。そうすることで、世界は果てしない美しさを見せます。私たちは愛の子、愛の兄弟、恵みを知る者です。

 兄弟姉妹の皆さん、イエスとの出会いの喜びをいつも保ちましょう。喜ぶ心を育てましょう。それに対し、悪魔は、私たちを幻惑に陥れた後、悲しみと孤独の中に取り残します。私たちがキリストと共にいるならば、いかなる罪も脅威も、多くの仲間たちと進む私たちのこの喜びの歩みを、妨げることはできません。

 何よりも感謝の心を忘れないようにしましょう。私たちが感謝の心を持つならば、世界もより良いものになるでしょう。たとえそれがわずかなものでも、世に希望を与えるには十分です。世界は、希望と感謝を必要としています。感謝の態度は、希望をもたらします。皆が一つであり、皆が互いに結びつき、それぞれの場でそれぞれの役割を持っています。

 幸せの道は、聖パウロが一つの書簡の中で言い表しているものです。「絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。霊の火を消してはいけません」(テサロニケの信徒への手紙5章17-19節)。「霊の火を消さない」とは、なんと素晴らしい人生の目標でしょうか。心の中の、わたしたちを感謝に導く霊の火を消さないようにしましょう。

2020年12月31日

♰3月から一年を使徒的勧告「(家庭における)愛の喜び」の特別年にー教皇、「聖家族の主日」正午の祈りで発表

Pope Francis leads the Angelus from the Library in the Apostolic PalacePope Francis leads the Angelus from the Library in the Apostolic Palace  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは27日、「聖家族の主日」の正午の祈りの説教の中で、イエス、マリア、ヨセフの聖家族と関連付ける形で、来年3月の聖ヨセフの日からの一年を「使徒的勧告『(家族における)愛の喜び』を深く学ぶ年」とすることを明らかにされた。

 バチカン広報局の記者団への説明によると、使徒的勧告「(家族における)愛の喜び」に捧げられる特別年は、来年3月19日の聖ヨセフの祝日に始まり、再来年2022年6月のローマでの第10回 World Meeting of Families(世界家庭大会)までを予定している。

(2020.12.27 バチカン放送)

 聖家族の祝日の教皇の正午の祈りの説教は次の通り。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 降誕祭から数日後、教会の典礼は、イエス、マリア、ヨセフの聖家族に眼差しを注ぐよう促します。神の御子が、他の全ての子どもたちと同じように、家族の温かさを必要としていたことを思うのは、素晴らしいことです。まさにその事実ゆえに、ナザレの聖家族は、世界中の全ての家族が確かなよりどころ、理想的な、模範的な家族なのです。

 聖霊の働きにより、おとめマリアが受胎した時、ナザレにおいて、神の御子の、人間としての命の春が芽を出しました。ナザレの家庭の中で、マリアの母性的な配慮と、ヨセフの世話に囲まれて、イエスの幼児期は喜びのうちに過ぎていきました。イエスはヨセフの中に、神の優しさを見出していました(12月8日発表の「ヨハネ年」を定めた使徒的書簡パトリスコルデ(父親の心で)」)。

 私たちは、聖家族に倣い、家庭の教育的価値を再発見するように促されています。その価値は、愛に基づいていなくてはなりません。愛は常に絆を新たにし、希望ある展望を開きます。

 家庭が祈りの家となる時、愛情が深く純粋である時、赦しが不和を超える時、日々の生活の困難が互いの優しさと神の御旨への安らかな従順によって和らげられる時、人は家庭の中で誠実な交わりを体験することができます。

 こうして、家庭は、快く自分を与える全ての人に神が与える喜びに、自らを開くことができ、同時に、外へ、他者へ、兄弟たちへの奉仕へ、より良い新しい世界の構築の協力へと開く、霊的な力を見出すことができるのです。それは、人々に前向きな刺激をもたらし、生き方の模範をもって福音を伝える家庭です。

 当然、どの家庭にも問題はあります。時には争いもあるかもしれません。それでも、一日の終わりには仲直りをしてください。「冷戦」を翌日に持ち越すことは、ためになりません。家庭には、大切に守るべき三つの言葉があります。それは、「(…しても」いいですか?」「ありがとう」「ごめんなさい」という言葉です。家庭内にこの三つの言葉があれば、その家族はうまくいくでしょう。

 今日の祝日は、夫婦と家族の愛の理想を改めて示しながら、家庭を通しての福音宣教へと、私たちを招いています。それは、使徒的勧告『(家庭における)愛の喜び』で強調されている通りです。同勧告は、来年3月19日で発表から5周年を迎えます。これを機会に、『(家庭における)愛の喜び』を考察する特別年が行われます。それは同文書の内容をより深く理解する機会となるでしょう。

 この使徒的勧告の実りは、皆の歩みに寄り添うために、教会共同体や家庭で役立てられるでしょう。教皇庁信徒・家庭・いのち省がこの特別年のために準備する企画への参加を、全ての皆さんに今から呼びかけたいと思います。ナザレの聖家族、特に配慮に満ちた浄配にして養父である聖ヨセフに、全世界の家族と共にするこの歩みを託したいと思います。

 これから唱えるお告げの祈りをもって、おとめマリアに助けを祈りましょう。全世界の家庭が、聖家族の福音的理想にいっそう魅了されますように。そして、これらの家庭が、新しい人類と、具体的・普遍的な連帯のパン種となることができますように。

(編集「カトリック・あい」)

2020年12月27日

改♰教皇がクリスマスメッセージー「主の降誕が、世界の苦しむ人々に癒しと励まし、希望をもたらすように!」+全文日本語・英語訳

Pope Francis delivers his Christmas Message and gives the Urbi et Orbi Blessing from the Hall of Benedictions in St Peter's Basilica.Pope Francis delivers his Christmas Message and gives the Urbi et Orbi Blessing from the Hall of Benedictions in St Peter’s Basilica.  (Vatican Media)

(2020.12.25 Vatican News staff reporter)

  「一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた」(イザヤ書9章5節)-教皇フランシスコは25日のクリスマスメッセージ 「Urbi et Orbi(ローマから世界へ)」で、イエスー神が全人類家族に与えられた『御子』ーがどのようにして全ての人のためにお生まれになったのか、を考察された。

(以下、バチカン放送日本語課)

 25日、2020年度の降誕祭を迎え、教皇フランシスコは、クリスマスのメッセージと、ローマと全世界に向けた教皇祝福「ウルビ・エト・オルビ」をおくられた。

 クリスマスを迎えたローマは、今年は新型コロナウイルス感染拡大防止を目的に、移動制限など厳格な態勢が敷かれている。

 こうした中、教皇は、今年の降誕祭メッセージを、恒例のように聖ペトロ大聖堂の中央バルコニーからではなく、大聖堂の玄関部であるポルティコ上部に位置し、中央バルコニーに接する「祝福の間」から、おくられた。

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 メッセージを通し、教皇は新型コロナウイルスの大感染や紛争に苦しむ世界に、兄弟愛と平和を希求された。

 教皇は、「ベツレヘムでおとめマリアから生まれた幼子イエスは、神が全人類のために与えられた、ご自身の御独り子です」と強調。

 まさに御父の御顔を啓示するために来られた御子イエスのおかげで、私たちは神を「父」と呼び、大陸や言語や文化を超えて互いを「兄弟姉妹」と呼ぶことができる、と話された。

 そして、「環境危機と、新型コロナウイルスによりいっそう深刻化した経済・社会の不均衡を特徴とするこの歴史的な時において、私たちはこれまでになく兄弟愛を必要としています」と説かれた。

 また、コロナ大感染の不安の中で、「ワクチンのニュースは希望をもたらすもの」と述べつつ、「ワクチンが、貧しい人をはじめ、すべての人に行き渡ること」を願われた。

 さらに、ベツレヘムの幼子が、病者や、パンデミックの影響で仕事を失った人、経済的な困難にある人、家庭内暴力を受けている人など、弱い立場にある人々を助ける力を私たちに与えてくれるように、と祈られた。

 また、神の御言葉が人間の幼子として世に生を受けたこの日、教皇は、シリア、イラク、イエメンなど、戦争に苦しむ世界の子どもたちを思われた。

 そして、幼子イエスが、「シリアやイラクの人々に癒しと慰めを、リビアに平和を、イスラエルとパレスチナ間に対話を通した信頼の再構築と平和プロセスを、そして、レバノン国民に励ましをもたらすように」、「ナゴルノ・カラバフにおける停戦と、ウクライナ東部における対話推進のための、国際共同体の努力を支えてくださるように」と望まれた。

 アフリカに目を向けた教皇は、人道危機に苦しむブルキナファソ、マリ、ニジェール、国際テロリズムの暴力の犠牲となったモザンビーク北部、兄弟愛と対話の道を目指す南スーダン、ナイジェリア、カメルーンを神なる御子に託された。

 特に新型コロナウイルスの感染被害の大きいアメリカ大陸に、イエスが希望をもたらすことを教皇は祈り、中でもチリとベネズエラの社会的緊張の克服への助けを願った。

 アジアに関し、教皇は特に台風によって大きな被害を受けたフィリピンとベトナムの人々に御子の保護を、ロヒンギャの人々に貧しい人々の間に貧しく生まれたイエスがもたらす希望を祈られた。

 最後に、教皇は、困難な状況に負けることなく、苦しむ人々に、希望と慰め、助けをもたらすすべての人に、特別な思いを寄せられた。

 教皇は、すべての人にとって、降誕祭が、命と信仰のゆりかご、愛、受容、対話、赦し、連帯の場所である、家庭の価値を再発見する機会となるよう祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

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【教皇のクリスマス・メッセージ“URBI ET ORBI” 全文のバチカン放送訳は以下の通り】

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、主のご降誕をお祝い申し上げます。

 この祭日にあたり、教会が告げ知らせるメッセージを、預言者イザヤの言葉をもって、すべての皆さんに届けたいと思います。

 「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」(イザヤ9,5)。

 ひとりのみどりごが生まれました。子どもの誕生はいつでも希望の源です。それは花開くいのち、未来の約束です。この幼子イエスは、「わたしたちのために生まれました」。その「わたしたち」には、国境も、優先も、除外もありません。ベツレヘムでおとめマリアから生まれた幼子イエスは、わたしたち皆のためにお生まれになりました。イエスは、御父が全人類という家族に与えられた、ご自身の「御子」なのです。

 この御子のおかげで、わたしたちは、神に向かって「父」「お父さん」と呼びかけることができます。イエスは神の御独り子です。イエスの他には御父を知る者はいません。しかし、御子は、まさに御父の御顔をわたしたちに啓示するために。この世に来られました。こうして、この幼子イエスのおかげで、わたしたちは大陸や言語や文化を超えて、互いを本当に兄弟姉妹と呼ぶことができるのです。

 環境危機と、パンデミックのためにより深刻化した経済・社会の不均衡を背負うこの歴史的な時、わたしたちはこれまでになく兄弟愛を必要としています。そして、神は、御子イエスを遣わすことで、その兄弟愛を与えてくださるのです。

 それは、立派な言葉や、抽象的な理想、漠然とした感情からなる兄弟愛ではありません。そうではなく、自分とは異なる他者と出会い、その苦しみを分かち合い、寄り添い、たとえ自分の家族、民族、宗教ではなくても兄弟として受け入れることのできる、真の愛に基づいた兄弟愛です。これは民族間、国家間の関係にも言えることです。皆、兄弟なのです。

 クリスマスに、わたしたちはこの世に降誕したキリストの光を祝います。キリストは、限られた人のためではなく、すべての人のために来られました。パンデミックのために闇と不安に覆われた今、ワクチンの発見のように、いくつかの希望の火が灯り始めています。この希望が世界にもたらされるには、ワクチンが皆に行き渡らなければなりません。

 わたしたちの真の人類家族としてのあり方が、閉鎖的な国家主義によって妨げられてはなりません。同様に、個人主義というウイルスに打ち負かされて、他の兄弟姉妹に無関心になることがあってもいけません。他者より自分を優先させたり、市場や特許をめぐるルールを人類の愛と健康よりも上に置くことはできません。各国や、企業、国際機関の責任者にお願いいたします。競争ではなく、協力を推進し、皆のための解決を求めましょう。ワクチンが地球の全地域のすべての人に、特に弱く貧しい人たちに届きますように。弱く貧しい人たちを、第一に考えることができますように。

 わたしたちが、特に弱い立場の人や病者たち、また、パンデミックがもたらした経済的影響で仕事を失った人や、困窮する人、さらに家庭内暴力に遭っている女性たちに、連帯をもって寛大に快く奉仕できるよう、ベツレヘムの幼子が助けてくださいますように。

 際限のないこの試練を前に、互いに壁を築いていることはできません。わたしたちは皆、同じ船に乗り合わせています。すべての人が自分の兄弟です。一人ひとりの中に神の御顔の反映を見、苦しむ人たちの中に助けを求める主の姿を認めます。病者や、貧しい人、失業した人、疎外された人、移民や難民の中に主を見出します。皆が兄弟姉妹です。

 神の御言葉が人間の幼子として世に生を受けたこの日、戦争に苦しむ世界中の子どもたちに目を向けましょう。特にシリア、イラク、イエメンでは、子どもたちが戦争の大きな代償を払わされています。紛争の原因と向き合い、平和な未来の構築に勇気をもって取り組むために、これらの子どもたちの姿が、善意の人々の良心を促しますように。

 この降誕祭が、中東全域と地中海地域東部の緊張を和らげる機会となりますように。

 幼子イエスが、愛するシリア国民の傷をいやしてくださいますように。シリアはおよそ10年にもわたり戦争とその惨禍に苦しみ、さらに最近のパンデミックが追い打ちをかけています。御子が、イラクの人々と和解の道を歩むすべての人々に、慰めをもたらしてくださいますように。中でもヤジディ教の人々は、ここ数年の戦争で深刻な打撃を被りました。イエスが、リビアに平和を取り戻させ、国内のあらゆる対立を収めるための新たな協議を可能にしてくださいますように。

 ベツレヘムの幼子が、ご自身がお生まれになった地に、兄弟愛をもたらしますように。イスラエルとパレスチナの人々が、直接的な対話を通し、正義ある恒久平和を追求するための、相互の信頼を再構築できますように。そして、暴力に打ち勝ち、根付いた怨恨を克服し、世界に兄弟愛の素晴らしさを証しすることができますように。

 主の降誕の夜に輝いた星が、レバノン国民を導き、励ましますように。国際共同体の支援の下、困難に立ち向かう同国が、希望を失うことがありませんように。レバノンが改革の道を歩み、自由と平和的共存という自らの召命に従えるよう、同国の責任者たちの、それぞれの利害を脇に置いた、誠実な努力を、平和の君が助けてくださいますように。

 いと高き神の御子が、ナゴルノ・カラバフの、またウクライナ東部の、停戦継続と対話促進のための国際共同体と関係国の努力を支えてくださいますように。対話こそ、平和と和解に導く唯一の道です。

 過激派や、武力紛争、パンデミック、自然災害を原因とする深刻な人道危機に見舞われた、ブルキナファソ、マリ、ニジェールの人々の苦しみを、神なる幼子が和らげてくださいますように。また、エチオピアにおける暴力を止めてくださいますように。同国では武力衝突のために多くの人が避難を強いられています。イエスが、国際テロの暴力の犠牲となっているモザンビーク北部カーボ・デルガード州の住民に慰めをもたらし、兄弟愛と対話の道を目指す南スーダン、ナイジェリア、カメルーンの責任者を励ましますように。

 御父の永遠の言(ことば)イエスが、新型コロナウイルスへの感染が特に深刻なアメリカ大陸の希望の源となりますように。パンデミックは、社会の腐敗や麻薬売買によって引き起こされた人々の苦しみをさらに大きなものにしています。イエスが、チリの最近の社会的緊張の克服を助け、ベネズエラ国民の苦しみを取り去ってくださいますように。

 天の王が、自然災害に苦しむ南東アジアの人々を守ってくださいますように。特にフィリピンとベトナムでは、いくつもの台風による洪水で、多くの人命が奪われたばかりでなく、環境は破壊され、地域経済の打撃と共に、多くの家族が困難に直面しています。

 アジアに思いを向けながら、ロヒンギャの人々を忘れることはできません。貧しい人々の間に貧しく生まれたイエスが、苦しむこれらの人々に希望をもたらしますように。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、

 「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれました」(イザヤ9,5)。わたしたちを救うためにお生まれになりました。幼子イエスは、苦しみや悪が勝利することはない、とわたしたちに告げています。暴力や不正義を前にあきらめることは、降誕祭の喜びと希望を拒むことにほかなりません。

 この祭日にあたり、わたしの思いは、特に、困難な状況に押しつぶされることなく、苦しむ人を助け、独りの人に寄り添いながら、希望と慰め、助けをもたらすために働く、すべての人たちに向かいます。

 イエスは馬小屋に生まれましたが、おとめマリアと聖ヨセフの愛情に包まれていました。人となられた神の御子は、家族の愛を聖なるものとしました。わたしは、今日、互いに会えないでいる家族たち、また家に留められている家族たちを思います。降誕祭が、すべての人にとって、いのちと信仰のゆりかご、愛・受容・対話・赦し・連帯の場所、全人類の平和の源泉としての家庭の価値を再発見する機会となりますように。

 皆さま、主のご降誕おめでとうございます。

 

【教皇のクリスマス・メッセージ“URBI ET ORBI” の公式英語訳全文は以下の通り】

“URBI ET ORBI” MESSAGE OF HIS HOLINESS POPE FRANCIS 

Dear Brothers and Sisters,
Merry Christmas!

I would like to bring to everyone the message that the Church proclaims on this feast with the words of the prophet Isaiah: “To us a child is born, to us a son is given” (Is 9:6)

A child is born. A birth is always a source of hope; it is life that blossoms, a promise of the future. Moreover, this Child, Jesus, was born “to us”: an “us” without any borders, privileges or exclusions. The Child born of the Virgin Mary in Bethlehem was born for everyone: he is the “son” that God has given to the entire human family.

Thanks to this Child, all of us can speak to God and call him “Father”. Jesus is the only-begotten Son; no one but he knows the Father. Yet he came into the world for this very reason: to show us the face of the Father. Thanks to this Child, we can all call one another brothers and sisters, for so we truly are. We come from every continent, from every language and culture, with our own identities and differences, yet we are all brothers and sisters.

At this moment in history, marked by the ecological crisis and grave economic and social imbalances only worsened by the coronavirus pandemic, it is all the more important for us to acknowledge one another as brothers and sisters. God has made this fraternal unity possible, by giving us his Son Jesus. The fraternity he offers us has nothing to do with fine words, abstract ideals or vague sentiments. It is a fraternity grounded in genuine love, making it possible for me to encounter others different from myself, feeling com-passion for their sufferings, drawing near to them and caring for them even though they do not belong to my family, my ethnic group or my religion. For all their differences, they are still my brothers and sisters. The same thing is true of relationships between peoples and nations: brothers and sisters all!

At Christmas we celebrate the light of Christ who comes into the world; he comes for everyone, not just for some. Today, in this time of darkness and uncertainty regarding the pandemic, various lights of hope appear, such as the discovery of vaccines. But for these lights to illuminate and bring hope to all, they need to be available to all. We cannot allow the various forms of nationalism closed in on themselves to prevent us from living as the truly human family that we are. Nor can we allow the virus of radical individualism to get the better of us and make us indifferent to the suffering of other brothers and sisters. I cannot place myself ahead of others, letting the law of the marketplace and patents take precedence over the law of love and the health of humanity. I ask everyone – government leaders, businesses, international organizations – to foster cooperation and not competition, and to seek a solution for everyone: vaccines for all, especially for the most vulnerable and needy of all regions of the planet. Before all others: the most vulnerable and needy!

May the Child of Bethlehem help us, then, to be generous, supportive and helpful, especially towards those who are vulnerable, the sick, those unemployed or experiencing hardship due to the economic effects of the pandemic, and women who have suffered domestic violence during these months of lockdown.

In the face of a challenge that knows no borders, we cannot erect walls. All of us are in the same boat. Every other person is my brother or my sister. In everyone, I see reflected the face of God, and in those who suffer, I see the Lord pleading for my help. I see him in the sick, the poor, the unemployed, the marginalized, the migrant and the refugee: brothers and sisters all!

On this day, when the word of God became a child, let us turn our gaze to the many, all too many, children worldwide, especially in Syria, Iraq and Yemen, who still pay the high price of war. May their faces touch the consciences of all men and women of good will, so that the causes of conflicts can be addressed and courageous efforts can be made to build a future of peace.

May this be a favourable time to ease tensions throughout the Middle East and in the Eastern Mediterranean.

May the Infant Jesus heal the wounds of the beloved Syrian people, who for a decade have been devastated by war and its consequences, now aggravated by the pandemic. May he bring comfort to the Iraqi people and to all those involved in the work of reconciliation, and particularly to the Yazidis, sorely tried by these last years of war. May he bring peace to Libya and enable the new phase of the negotiations in course to end all forms of hostility in the country.

May the Babe of Bethlehem grant the gift of fraternity to the land that witnessed his birth. May Israelis and Palestinians regain mutual trust and seek a just and lasting peace through a direct dialogue capable of ending violence and overcoming endemic grievances, and thus bear witness before the world to the beauty of fraternity.

May the star that shone brightly on Christmas night offer guidance and encouragement to the Lebanese people, so that, with the support of the international community, they may not lose hope amid the difficulties they currently face. May the Prince of Peace help the country’s leaders to lay aside partial interests and commit themselves with seriousness, honesty and transparency to enabling Lebanon to undertake a process of reform and to persevere in its vocation of freedom and peaceful coexistence.

May the Son of the Most High sustain the commitment of the international community and the countries involved to continue the ceasefire in Nagorno-Karabakh, as well as in the eastern regions of Ukraine, and to foster dialogue as the sole path to peace and reconciliation.

May the Divine Child alleviate the suffering of the peoples of Burkina Faso, Mali and Niger, affected by a grave humanitarian crisis caused by extremism and armed conflicts, but also by the pandemic and other natural disasters. May he end the violence in Ethiopia, where many people have been forced to flee because of the fighting; comfort the inhabitants of the Cabo Delgado region in northern Mozambique, victims of the violence of international terrorism; and encourage the leaders of South Sudan, Nigeria and Cameroon to pursue the path of fraternity and dialogue they have undertaken.

May the Eternal Word of the Father be a source of hope for the American continent, particularly affected by the coronavirus, which has intensified its many sufferings, frequently aggravated by the effects of corruption and drug trafficking. May he help to ease the recent social tensions in Chile and end the sufferings of the people of Venezuela.

May the King of Heaven protect all victims of natural disasters in Southeast Asia, especially in the Philippines and Vietnam, where numerous storms have caused flooding, with devastating repercussions on families in terms of loss of life, harm to the environment and consequences for local economies.

As I think of Asia, I cannot forget the Rohingya people: may Jesus, who was born poor among the poor, bring them hope amid their sufferings.

Dear brothers and sisters,

“To us a child is born” (Is 9:6). He came to save us! He tells us that pain and evil are not the final word. To become resigned to violence and injustice would be to reject the joy and hope of Christmas.

On this festive day, I think in a special way of all those who refuse to let themselves be overcome by adversity, but instead work to bring hope, comfort and help to those who suffer and those who are alone.

Jesus was born in a stable, but was embraced by the love of the Virgin Mary and Saint Joseph. By his birth in the flesh, the Son of God consecrated familial love. My thoughts at this moment turn to families: to those who cannot come together today and to those forced to remain at home. May Christmas be an opportunity for all of us to rediscover the family as a cradle of life and faith, a place of acceptance and love, dialogue, forgiveness, fraternal solidarity and shared joy, a source of peace for all humanity.

Merry Christmas to everyone!

 

2020年12月25日

♰「イエスの誕生は、試練に立ち向かう力を与えてくれる」ー降誕祭夜半ミサで

教皇フランシスコ 2020年12月24日 降誕祭の夜半ミサ教皇フランシスコ 2020年12月24日 降誕祭の夜半ミサ  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは24日夜(日本時間25日未明)、2020年度の降誕祭の夜半ミサをバチカンの聖ペトロ大聖堂で祝われた。

 新型コロナウイルスのイタリアを含む世界的感染が続く中で、ミサは「司教座の祭壇」を使用し、例年より参加人数を縮小して行われたが、主の降誕のもたらす希望のメッセージをより強く感じさせるものとなった。

 ミサの説教で教皇は「一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた」というイザヤ書(9章5節)の言葉から、主の降誕の観想へと信者らを促され、「子どもが生まれることは特別なものであり、すべてを変え、あらゆる苦労や困難をも乗り越えさせる何かを持っています」と指摘。「イエスの誕生は、毎年、私たちを内面から生まれ変わらせ、すべての試練に立ち向かう力を与えてくれる」と話された。

 そして、御父が私たちに、ご自身の喜びである御子を与えてくださったことに、「私たちの想像も及ばない、御父の愛の大きさ」があるとされ、「私たちを救い、内側から生まれ変わらせるための唯一の方法が『愛すること』だということを、神はご存じなのです」と強調された。

 また、「暗い馬小屋の、貧しい飼い葉桶に寝かされた幼子が、まさに神の御子なのだ」ということを考える時、「なぜこのような夜中に、宿もなく、貧しく、拒否された状況の中に御子はお生まれになったのか、との問いがわき上がるでしょう」とされ、「神の御子が見捨てられたような状況でお生まれになったのは、神がどこまで私たちの惨めな状態を愛されるか、を私たちに教えるためであり、すべての見捨てられた人も神の子であることを、伝えるためなのです」と説かれた。

 さらに、「小さな子どもを育てるために、食べさせ、守り、世話をする必要があるように、神は私たちに、他者を愛し、世話することを教えるために、幼子としてお生まれとなりました」とされたうえで、「飼い葉桶の幼子を腕に抱くことで、自分の命を再び抱き、命のパンである御子を受け入れることで、自分自身を人に与えることができますように」と祈られた。

【教皇の説教原稿の全文以下の通り。】

**********

 今日この夜、イザヤの偉大な預言が実現します。「一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた」 (イザヤ書9章5節)。

 「一人の男の子がわたしたちに与えられた」

 一人の子どもの誕生は、いつも私たちにとって大きな喜びです。それは何か特別な、素晴らしい出来事です。すべてを変え、力づけ、どのような苦労も、困難も、不眠の夜をも乗り越えさせる、何かを持っています。なぜなら、それは言葉では言い表せないほどの、大きな幸せをもたらすからです。すべての苦労は、その前で消え去ります。

 主の降誕は、まさしく、このようなものです。毎年祝われるイエスの誕生は、私たちを内部から生まれ変わらせ、あらゆる試練に打ち勝つ力を与えてくれます。そうです、なぜなら、イエスは、私たち、私、あなた、皆のために、お生まれになったからです。

 この聖なる夜に、何度も同じ言葉が繰り返されます。イザヤは言います、「一人の男の子が私たちに与えられた」。詩編では「今日、私たちのために救い主が生まれた」と繰り返しました。聖パウロは、イエスは「私たちのためにご自身を捧げられた」 (テトスへの手紙2章14節)と宣言しました。福音書の中でも、天使は「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカ福音書2章11節)と告げました。

 しかし、この「私たちのために」とは、何を意味しているのでしょうか。本来祝された方である神の御子が、私たちをも恵みによって祝された者とするために来られるのです。そうです、神ご自身が、私たちを神の子とするために、人の子としてこの世に来られるのです。なんとすばらしい恵みでしょうか。

 今日、神は私たちを驚かせます。私たち一人ひとりに「あなたは素晴らしい存在です」と言われるのです。兄弟姉妹たち、元気を出しましょう。何かの間違いだろうと、思うでしょうか。神はあなたに言われます。「いいえ、あなたは私の子です」と。

 無理だ、自分はそれにふさわしくない、と感じるかもしれません。トンネルから抜け出せない思いでいるかもしれません。神はあなたに言われます。「勇気を出しなさい、私はあなたと共にいます」。

 神は、それをただ、言葉で言われるだけではありません。神ご自身が、あなたのように、あなたのために、人の子となってくださったのです。それは、あなたが毎回生まれ変わるための原点を思い起こさせるためです。その原点とは、あなたは神の子であるということです。これこそ、私たちにとって、この上ない希望、支えそのものです。私たちがいかに弱く、不完全で、不確かであっても、この真理がいつも基盤にあります。「私たちは、神から愛されている神の子らです」。

 神の私たちに対する愛は、今も、これからも、決して、私たちによるものではありません。神の愛は無償です。完全に恵みなのです。今晩、聖パウロは私たちに「神の恵みが現れた」と言いました (テトスへの手紙2章11節)。これほど尊いことはありません。

*「一人の男の子が私たちに与えられた」

 神なる御父は、私たちに何かをくださったのではなく、ご自身の喜びそのものである御独り子をくださったのです。しかし、神に対する人間の忘恩、また、兄弟たちに対する不正を見る時、問わずにはいられません。主はこれほど多くを私たちに与えられてよかったのだろうか。これでも私たちを信頼してくださるのだろうか。私たちを過大評価しているのではないだろうか。

 そうです、神は私たちに、身の丈以上の信頼を寄せてくださるのです。なぜでしょう。それは、私たちを極限まで愛してくださるからです。神は私たちを愛さずにはいられないのです。神は、私たちとはずいぶん違います。神はいつも私たちを愛しておられます。私たちが自分自身を愛する以上に、神は私たちを愛してくださいます。神は、私たちを救うため、内部から癒すための唯一の方法は、愛することだ、と知っておられるのです。神は、私たちがご自身の疲れを知らぬ愛を受けることによってのみ、より良い者になれることを知っておられます。ただイエスの愛だけが、私たちの生き方を変え、最も深い傷や、不満、怒り、嘆きを癒やすことができるのです。

 「一人の男の子が私たちに与えられた」

 暗い馬小屋の貧しい飼い葉桶の中に、まさしく神の御子がおられます。ここでまた問いが湧き上がります。豪華な美しい宮殿で偉大な王としてではなく、なぜこのような夜に、ふさわしい宿もなく、貧しさと拒否の中に生まれなければならなかったのでしょうか。それは、神が私たちの人間的な状況をどこまで愛しているかを理解させるため、私たちの最も悲惨な状態にご自分の具体的な愛で触れるためでした。

 私たちが自分の弱さやみじめさを素直に受け入れることができるよう、神は弱く何もできない赤子の姿でこの世に来られました。ベツレヘムでのように、神は、私たちの貧しさを通して、偉大なことを成しとげられます。神は、私たちの救いのすべてを、馬小屋の飼い葉桶の中に置かれました。神は、私たちの貧しさを恐れませんでした。神の憐みが、私たちの惨めさを変えてくださいますように。

 これが、私たちのために神の御子が生まれた理由です。

 ここにもう一つの理由があります。天使は羊飼いたちに言いました。「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子、これがあなたがたへのしるしである」(ルカ福音書2章12節)。飼い葉桶に横たわる幼子。これは私たちのためのしるしでもあります。ベツレヘムは、「パンの家」という意味です。神が飼い葉桶の中に横たわっています。それは、生きるためにパンを食べる必要があるように、私たちが神を必要としていることを思い出させるかのようです。

 私たちは、神の無償の、疲れを知らぬ、具体的な愛を必要としています。どれほど私たちは、享楽や、成功、虚飾など、心を決して満たさず、むしろ虚しくする物事で、自分を満たそうとしているでしょうか。主は、イザヤ預言者の口を通し、牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っているのに、神の民である私たちは、どうして自分たちの命の源である神を知らないのか、と嘆かれました (イザヤ書 1章2-3節参照)。

 私たちはいかにベツレヘムの飼い葉桶を忘れ去り、虚栄の飼い葉桶に走り寄ることでしょうか。ベツレヘムの飼い葉桶は、貧しくとも、愛に満ちています。それは、誠の命の糧は神の愛であり、また他者を愛することである、と教えています。神の御言葉は、幼子となりました。幼子は何も話せませんが、命を与えてくれます。私たちは多くを話しますが、優しさというものを知りません。

 「一人の男の子が私たちに与えられた」

 小さな子どもがいる人は、どれほどの愛と忍耐が必要とされるかをよくわかっています。養い、世話をし、しばしば理解不可能ながらも、その必要を満たしてあげなければなりません。神は、私たちに他者を愛することを教えるために、幼子として生まれました。神は、貧しい人々に奉仕することは、神ご自身を愛することである、と教えるために、自ら貧しい者となり、私たちと共に住まわれるのです。ある詩人が言ったように、この夜から「神は私のすぐそばに住まわれます。その住まいを満たすものは愛です」 (E. Dickinson, Poems, XVII)。

 「一人の男の子が私たちに与えられた」

 それはあなた、イエスです。私をも、神と子としてくださる方、神の御子、イエスです。あなたは、私がなりたい自分ではなく、あるがままの私を愛してくださいます。飼い葉桶の幼子よ、あなたを抱きしめることで、私は自分の命を抱きしめます。命のパンであるあなたをいただくことで、私も自分の命を捧げたく思います。私を救ってくださるイエスよ、仕えることを私に教えてください。私を独りにしないイエスよ、兄弟たちを慰めるすべを教えてください。今夜から、すべての人は私の兄弟だからです。

(編集「カトリック・あい」=聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

2020年12月25日

♰教皇一般謁見講話「馬小屋の幼子は私たちに、人間らしい、優しさを教えている」

Pope Francis at the General Audience of December 23, 2020.
Pope Francis at the General Audience of December 23, 2020.   (Vatican Media)

  講話の全文次の通り。

(2020.12.23 バチカン放送訳)

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 クリスマスを目前に控えた今日の講話では、主の降誕をお祝いするための準備として、いくつかの考察を行いたいと思います。

 主の降誕の夜半のミサで、天使が羊飼いたちに告げた言葉が響き渡ります。「恐れるな。私は、全ての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ福音書2章10-12節)。

 羊飼いたちに倣い、私たちもベツレヘムへと霊的な旅をしましょう。ベツレヘムの馬小屋でマリアは御子をお産みになりました。聖ルカが伝えるように、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」(同2章7節)からです。

 クリスマスは世界中で祝いの日となりました。キリスト教徒でない、他の信仰を持っている人も、このお祝いに惹きつけられる何かを感じています。しかし、キリスト者は、主の降誕とは、決定的な出来事、神が世に灯した永遠の火であり、その場限りのはかない出来事と混同してはならないことを知っています。クリスマスが、贈り物やお祝いの言葉にあふれても、キリスト教信仰の欠けた、単に感情的な、消費主義的なお祭りに矮小化されないことが、重要です。したがって、私たちの信仰の熱い核心を受け入れられない、ある種の世俗的な思考を防ぐ必要がありますーその核心とは、「言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ福音書1章14節)ことです。これがクリスマスの核心、真理です。それ以外にはありません。

 降誕祭は、私たちに二つのことを熟考するように求めます。それは、「罪に傷ついた人々が絶えず真理、慈しみ、救いを求め続ける歴史のドラマ」と、それに対し、「救いの真理を伝え、ご自身の友情と命に与るように、と私たちに会いに来られる神」の二つです。この恵みの賜物を、私たちはクリスマスの純朴さと人間性を通して受け取ります。そして、その恵みは、今日の新形コロナウイルスの大感染によって広がった悲観主義を、私たちの心と頭から取り除いてくれます。この小さく、貧しい、隠れた、弱々しい幼子が、私たちのために人となられた神ご自身であると知ることで、私たちは敗北感や失望に負けず、不安な揺れ動く心を克服することができるのです。

 主の降誕が私たち一人ひとりに関わる出来事であるということを、第二バチカン公会議の「現代世界憲章」は、次のように言い表しています。「神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。キリストは人間の手をもって働き、人間の知性をもって考え、人間の意志をもって行動し、人間の心をもって愛した。キリストはおとめマリアから生まれ、真実に我々の一人となり、罪を除いては、すべてにおいて我々と同じであった」(現代世界憲章22)。

 この事実は、私たちに多くの喜びと勇気を与えてくれます。神は、私たちを高みから見下ろすことはなさいませんでした。神は、私たちのそばを通りすぎることも、私たちの惨めさを嫌悪することもなさいませんでした。目立った姿をとることもなく、私たちと完全に同じ、人間の性質と条件を身に着けられました。罪を除いては、すべての人間性を持っておられました。キリストは、私たちのあるがままを引き受けられたのです。これは、キリスト教を理解する上で本質的なことです。

 聖アウグスチヌスは、自身の回心の歩みを思い起こしながら、「告白」の中で次のように記しています。

 「私には、わが神、謙遜なイエスをいただくための、へりくだりが、まだ欠けていた。イエスの弱さを通しての教えも、まだ知らなかった」。

 イエスの「弱さ」は、一つの教えです。なぜなら、それは神の愛を私たちに啓示するからです。クリスマスは、私たちのために、イエス・キリストにおいて受肉し生まれた神の愛を祝う日なのです。イエスは、人間の存在と全歴史に意味を与える『闇の中に輝く光』です。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、この短い考察が、しっかりした自覚のもとにクリスマスを祝う助けになることを願います。

 さて、ここに、もう一つ、クリスマスに備える方法があります。皆さんに思い出して欲しいこと、誰にでもできることです。

 それは、イエスがお生まれになった馬小屋の前で、沈黙のうちにしばらく祈ることです。これについて、昨年、私は「アドミラビレ・シニュム」 ―素晴らしいしるしという意味ですが― という書簡を発表しました。アッシジの聖フランシスコに学び、主の降誕の場面に思いをはせることで、私たちも少し子どもに返ることができるでしょう。そして、神がこの世に来ることを望まれたその「素晴らしい」方法に、改めて胸を打たれるのです。この観想は、私たちの心に優しさを蘇らせるでしょう。今日の私たちには、優しさが大いに必要です。

 コロナ大感染が私たちに互いに距離を置くことを余儀なくしたのに対し、馬小屋の中のイエスは、寄り添うため、人間らしくあるための、優しさの道を私たちに示しています。この道を行こうではありませんか。どうかよい降誕祭をお迎えください。

(編集「カトリック・あい」=聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

 

2020年12月23日

♰「コロナ危機を回心と兄弟愛を世界に呼び覚ます機会に」バチカン幹部たちへ

教皇フランシスコとバチカンの高位聖職者・責任者らとの集い 2020年12月21日教皇フランシスコとバチカンの高位聖職者・責任者たちとの集い  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは21日、ご自身の協力者としてバチカンの諸機関で働く高位聖職者や責任者たちと、降誕祭前の挨拶を交わされた。

 一年の教皇庁の活動を振り返る機会でもあるこの恒例の集いは、今年は新型コロナウイルスによる世界的大感染を背景に行われた。

 この席で教皇は、降誕祭を機会に、コロナ大感染によって、保健衛生、社会経済、さらには教会に至るまで、全世界が危機に巻き込まれたこの一年を振り返られた。

 教皇はこれらの危機を見つめる一方で、それを「回心と兄弟愛への渇望を世界に再び呼び覚ますための大きな機会」とするように求められた。

 そして、「危機をチャンスと見なす考えは、『教会を、過去や現在のスキャンダルが引き起こした危機をもとに性急に定義しようとする傾向』に注意を与えてくれます」と指摘。「教会に”見込みのない”診断を下すことは現実的ではありません。なぜなら、神は、私たちの間に御国の種を蒔き、育て続けておられるからです」と語った。

 また、教皇は「危機を”争い”と混同してはなりません… 危機は一般に良い結果につながりますが、争いは対立を残すだけです」と言明。教会は「一つの体として常に問題を抱えていますが、それは教会が生きているから。だからと言って、体の中で勝敗を争うような対立があってはなりません」とされ、「あらゆる危機は、常に物事を新たにするための正当な必要を伴いますが、教会の改革とは、”古い服に継ぎ当てをすること”でも、単純に”新しい憲章を起草すること”でもありません」ないと強調された。

 さらに、「『キリストの体』はすべての歴史を抱擁するものであり、教会はキリストの『服』のようなものではあらいません」と述べ、「聖霊の恵みがなければ、教会のシノドス的な在り方は、『交わりを構築』する代わりに、『多数派と少数派で構成される民主主義体制下の議会』のように理解されかねません。聖霊の存在だけが、そこに違いをもたらすのです」と説かれた。

 最後に教皇は、「私たちは『取るに足らない僕』(ルカ福音書17章10節)なのだ、という自覚を胸に、心に大きな平安を保ち、対立から抜け出し、歩みの中に戻るように感じること。それは、素晴らしいことです」と語られ、「貧しい人々の中に神の御顔を見出し、寛大に情熱的に福音宣教のために働くように」と参加者たちを励まされた。

(編集「カトリック・あい」)

2020年12月22日

♰「コロナ禍の”Christmas2020”を他者を助ける機会に」教皇、待降節第四主日正午の祈りで

Pope Francis prays the Angelus from the window of the Apostolic PalacePope Francis prays the Angelus from the window of the Apostolic Palace  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは20日、待降節第四主日の正午の祈りの前の説教で、神の招きに対するマリアの「はい」を取り上げ、消費主義が私たちの心をクリスマスの真の精神からそらすことのないように注意された。

 説教で、教皇はこの日のミサで読まれたルカ福音書の受胎告知(1章26~38節)を振り返り、「救世主の母となるようにとの、神のマリアへの招きは、純粋な喜びと大きな試練を伴っていました」とされた。

 マリアはヨセフと婚約しており、妊娠していることが分かれば死刑を覚悟しなければならない。

 「神の招きで、マリアの心は光と力で満たされたでしょう。そうした中で、彼女は自分が重大な決断に直面していることに気付きましたー神に「はい」と答え、何もかも、自分の命さえも危険にさらすか、それとも、招きを断って普通の生活を続けるかーという選択でした」。

 

*「はい」は強い希望の言葉

 マリアは前者を選択し、「『はい』と答えますー『お言葉どおり、この身になりますように』と。この答えは「元のギリシャ語では、『強い希望、これから起こること(注:を受け入れようとする)確固とした意志』を意味しています」とされ、つまり、その答えの言葉は、「単純で素直な『はい』ではありませんでした。マリアは進んで、自分を神に結び付けたのです」と説かれた。

 さらに「彼女は、主に完全に、しかも即座にお仕えする用意のある”恋に落ちた女性”です。マリアは、ためらったり、神に条件を付けたりはしません」と付け加えた。

*どのようなコストを払おうとも

 続けて、教皇は、「生活の中で、そして霊的な生活においてさえも、どれほど頻繁に、なすべきことを先延ばししているか」について言及し、「私たちは、祈ることがいいと分かっていても、『時間がない』と言います。そして、誰かを助けることが重要だと分かっていても、今日、それができない。明日にしよう、と」とされたうえで、「それでも、クリスマスの時期になると、マリアが私たちに『どんなコストを払おうと、素早く、勇気をもって”はい”と答えなさい』と促すのです」と強調された。

 

*クリスマスを取り巻く困難の中ですべきことは

 そして、今年のクリスマスを取り巻く困難な状況の中で、「神が,私たちが『はい』と答えるように、どのようにして促しておられるのか」を考えるように勧められ、「今の困難な時期に、『新コロナの大感染でやりたいこともできなくない』と不平を言う代わりに、欠乏している人のために何かをしましょうー自分自身や友人たちに何度もプレゼントをするのではなく、誰にも大切にしてもらえない、助けが必要な人のためにプレゼントをしましょう」と呼びかけられた。

 また、クリスマスに先だって、プレゼントを買うことばかりに心を奪われないように注意され、「消費主義がクリスマスを”盗んで”います。聖家族は、ベツレヘムの馬小屋を、消費主義とは関係なく、貧しさと愛に満たしました」と述べ、「悪から解放され、神を喜んでお迎えし、受け入れるマリアのように」祈りを通して、クリスマスを迎える心の準備をするように、すべての人に勧められた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年12月20日

♰教皇、元旦の世界平和の日メッセージ「『いたわりの文化』なしに平和はない」

【教皇の世界平和の日メッセージ全文】(カトリック中央協議会訳をもとに「カトリック・あい」が編集)

*おことわり*教皇の世界平和の日メッセージの表題はイタリア語原文では「LA CULTURA DELLA CURA COME PERCORSO DI PACE」、バチカンの公式英語訳では「A Culture of Care as a Path to Peace」となっており、メッセージ全体のキーワードはCura英語でCureです。これを中央協議会訳では「ケア」「ケアの文化」と英語そのままをカタカナで訳されていますが、「カトリック・あい」では慎重に言葉を選んで「いたわり」「『いたわり』の文化」としました。それは、現在日本で使われている「ケア」は、英語をそのままカタカナにしたものですが、英語のcareは「気にかけること,気がかり,注意,用心,心配,関心」と言う意味で使われていますが、「ケア」は最近になって日本語化されて使われるようになったもので、主に「在宅ケア」「ケア・マネージャー」「ケアの必要な人」「心のケア」というように、「介護」や「治療」「療養」のように、限定して使わることが多く、教皇がこのメッセージで使われているcuraとはニュアンスがかなり異なるように思われます。中央協議会の翻訳担当の方がそこまでお考えになって、「ケア」と訳されたのかどうかわかりませんが、むしろ、日本語で昔から使われてきた「いたわり」(弱い立場にある人などに同情気持ちをもって切に接する。気を配って大切に世話をするなどの意味)という美しい言葉の方が、はるかに教皇がこの言葉に込められたニュアンスが表現できると考えました。また、表記は原則として当用漢字表記にしてあります。「命」のように、ひらがなを多用するよりも、漢字には込められた深い意味をもつものが少なくありません。日本語を大切にしたい、という考えからです。御理解いただければ幸いです。

教皇フランシスコの世界平和の日メッセージ「平和への道としての『いたわりの文化』

1.新年を迎えるにあたり、政府首脳、国際機関の責任者、諸宗教の指導者と信者の皆さん、そして善意の人々に心からごあいさつ申し上げます。来る年に人類が、個人、共同体、民族、国家の間で、兄弟愛、正義、平和の道を進めるよう願いつつ、皆さんのご多幸をお祈りいたします。

 2020年は、新型コロナウイルス感染症による重大な健康危機により決定づけられました。この危機は、多分野にまたがる世界的な現象となり、気候、食糧、経済、移住などにおける相互に密接に結びついた危機をいっそう深刻化させ、極度の苦痛と困難を引き起こしています。

 私がまず思うのは、家族や愛する人を亡くした人、さらには仕事を失った人たちのことです。そして、医師、看護師、薬剤師、研究者、ボランティア、チャプレン、病院や保健機関の職員のことをとくに思い浮かべます。彼らは、患者に付き添い、その苦しみを和らげ、命を救うために、多大な苦労と犠牲をもって、命がけで全力を尽くし、今も働き続けています。そうした人々に敬意を表しつつ、私は政治指導者と民間企業に対し、病者と極めて弱く貧しい人すべてを支えるために、COVID19のワクチンと必要不可欠な技術を確保すべく、適切な措置を講じるよう改めて求めます1

 愛と連帯の数多くの証しの傍らで、悲しいことに、さまざまなかたちのナショナリズム、人種差別、外国人嫌悪、さらには死と破壊をもたらす戦争や紛争が、新たに勢いを増していることを、残念ながら認めざるをえません。

 この一年の間に人類の歩みに刻まれたこうした出来事は、兄弟愛に満ちた関係に基づいた社会を築くには、互いをいたわり、被造物を大切にすることがいかに重要であるかを教えてくれます。ですから、このメッセージのテーマを「平和への道のりとしてのいたわりの文化」としました。今日、はびこっている無関心の文化、使い捨ての文化、対立の文化に打ち勝つための、いたわりの文化です。

 

2.創造主なる神―「いたわり」という人間の使命の源

 多くの宗教は、人類の起源や、創造主と人間、自然と人間、そして人間どうしの関係についての物語を伝えています。聖書では創世記が、人(アダム)と土(アダマ)の関係と兄弟の関係に焦点を当てることで、人類に対する神の計画を大切にする、もしくは守ることの価値を、その冒頭から明らかにしています。

 聖書における創造の物語では、神は「エデンに設けた」(創世記28参照)園を、「そこを耕し、守る」(同215参照)という役割とともに、アダムの手に委ねておられます。このことは、大地を豊穣にすることと、大地を保護し、命を支える力を維持させることを意味します2。「耕す」「守る」という動詞は、アダムと彼の園との関係を物語るとともに、全被造物の主人、管理人とするほど、神がアダムを信頼しておられることも、表しています。

 カインとアベルの誕生により、兄弟の歴史が始まります。兄弟の関係は、守る、番をするという言葉で、カインによってー否定的にー解釈されます。弟のアベルを殺した後、カインは神の問いにこう答えます。「私は弟の番人でしょうか」(創世記49節)3。もちろんそうです。カインは弟の「番人」です。

 「象徴に満ちたこうした古代の物語は、今日、私たちが共有する一つの確信を証ししてくれます。それは、あらゆるものがつながり合っている、という確信、そして、私たちが、自分たち自身の命を真に気遣い、自然との関わりをも真に気遣うことは、友愛、正義、他者への誠実と不可分の関係にある、という確信です」4

 

3.創造主なる神―「いたわり」の模範

 聖書は神を、創造主としてだけでなく、ご自分の被造物、とりわけアダムとエバとその子孫を大切にするかたとして示しています。犯した罪のために呪われた者となったカインでさえ、その命が奪われないように保護するしるしを、創造主からたまものとして受けています(創世記415節)。このことは、神にかたどられ似せて造られた人間の不可侵な尊厳を確認するとともに、被造物の調和を保つという神の計画をも明らかにします。「平和と暴力が共存することはできません」5

 被造物をいたわることは、安息日の規定の基盤です。それは、神への礼拝を求めるとともに、社会秩序の回復と、貧しい人に目を向け直すことも意図しています(創世記11-3節、レビ記254節参照)。安息年が七度巡るたびに祝われるヨベルの年には、土地、奴隷、負債を抱えた人に休息が与えられます。この恵みの年には、最も弱い人が大切にされ、人生についての新たな視点が与えられるので、貧しい人はいなくなります(申命記154節参照)。

 預言者の書にも目を向けるべきです。そこでは、共同体の最も弱い仲間に対する姿勢に、正義についての聖書の解釈の頂点が表れています。中でもアモス(26-8節および8章)とイザヤ(58章)は、貧しい人のために正義を求めて声を上げ続けます。貧しい人は弱さと無力さゆえに叫びを上げ、それは、彼らを見守っておられる神だけに聞き届けられます(詩編347節、1137-8節参照)。

 

4.イエスの公生活における「いたわり」

 イエスの生涯と公生活は、人類に対する御父の愛の啓示の頂点を体現しています(ヨハネ福音書316節参照)。イエスは、ナザレの会堂で神によって聖別された方、「貧しい人に福音を告げ知らせるために… 捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由に」するために「遣わされた」方(ルカ福音書418節)として、ご自分を示されます。

 聖年にまつわるこれらの救い主の業は、御父から託された使命を最も雄弁に証しするものです。キリストは、憐れみをもって病者の身体と心に触れ、癒されます。罪人を赦し、新たな人生をお与えになります。イエスは、羊のことを心にかける良い羊飼いであり(ヨハネ福音書1011-18節、エゼキエル書341-31節参照)、傷ついた人にかがみこみ、傷の手当をし、介抱するよいサマリア人です(ルカ福音書1030-37節参照)。

 イエスはその使命の頂点として、十字架上でご自分をささげ、罪と死への隷属から私たちを解放することによって、私たちへのいたわりの究極の証しをされておられます。このようにイエスは、ご自分の命をささげ、いけにえになることにより、私たちのために愛の道を切り開き、一人ひとりに語りかけておられます。「私に従い、あなたも同じようにしなさい」(ルカ福音書1037節参照)。

 

5.イエスの弟子の人生における「いたわりの文化」

 霊的、身体的な慈善の業は、初代教会の愛の奉仕の中核です。初代教会の信者たちは、すべてを共有していたので、信者の中には一人も貧しい人がいませんでした(使徒言行録434-35節参照)。

 また、彼らはその共同体を、どのような状態の人にも開かれ、最も弱い人々の世話をする、歓待する家にしようと努めました。貧しい人の飢えを満たし、死者を葬り、孤児や高齢者、例えば難破のような事故の犠牲者を養うために、進んで寄付をすることが、当たり前となりました。

 その後、キリスト者の寛大さが当初より弱まると、財産は共通善のために神が意図されたものである、と主張する教父が現れました。アンブロジオはこう述べています。「自然は、あらゆるものを人間が共同で使うものとして注ぎ込んでいます…それゆえ、自然はすべての人に共通の権利をもたらします。しかし、強欲がそれを少数者のみの権利にしています」6

 数世紀にわたる初期の迫害から解放され、教会はその自由を、社会と文化を鼓舞するために用いました。「それぞれの時代の窮状は、キリスト者の愛の奉仕に新たな力をもたらしました。歴史は、多くの慈善の業を記憶にとどめています…人間の苦しみを和らげるために、病院、貧しい人の避難所、養護施設や孤児院、ホスピスなど、多くの施設が設立されました」7

 

6.「いたわり」の文化の基礎である教会の社会教説の諸原理

 初代教会における奉仕職(ディアコニア)は、教父の考察によって豊かになり、また、数多くの輝かしい信仰の証し人による愛の業として、幾世紀にもわたり、活気づけられてきました。そしてそれは、教会の社会教説の鼓動となっています。社会教説は、原理、基準、指標を記す貴重な遺産として、全ての善意の人に与えられています。人間一人ひとりの尊厳の促進、貧しい人や身を守るすべのない人との連帯、共通善の追求、被造物の保護といった、「いたわり」の「文法」をこの教説から学ぶことができます。

 

(各人の尊厳と権利を促進する「いたわり」)

 「キリスト教の中で生まれ、深められる人間の概念は、全人的発展を追求する助けとなります。人は常に、個人主義ではなく関係を示し、除外ではなく包含を、搾取ではなく唯一で不可侵の尊厳を肯定します」8。一人ひとりの人間は、それ自体が目的であり、有用性だけで評価されるただの道具ではありません。家族、共同体、社会の中でともに生きるよう造られ、それらの場では皆が尊厳において平等です。人権は、貧しい人、病にある人、疎外された人、一人ひとりの「隣人―時空の遠近を問わずー」9を受け入れ、助ける責任といった義務同様、この尊厳に由来します。

(共通善の「いたわり」)

 社会的、政治的、経済的な生活のあらゆる側面は、共通善へと向けられるときに、その十全な姿を見いだします。共通善とは、「集団と個々の成員とが、より豊かに、より容易に自己完成を達成できるような社会生活の諸条件の総体」10です。

 ですから、私たちの計画や努力は、人類家族全体への影響を考慮し、現代と将来世代にどのような結果を残すのかを熟考したものでなければなりません。このことがいかに真実であり、時宜を得ているかが、新型コロナウイルスの大感染によって明らかになりました。

 コロナ大感染に直面して、「私たちは自分たちが同じ舟に乗っていることに気づきました。皆弱く、先が見えずにいても、誰もが大切で必要な存在なのだと。皆でともに舟を漕ぐよう求められている」11のだと。なぜなら、「自分の力だけで自分を救うことはできず」12、孤立している国は自国民の共通善を確保できないからです13

(連帯による「いたわり))

 連帯は他者への愛の具体的な表れです。それは漠然とした感情ではなく、「確固とした決意であり、共通善に向かって、すなわち私たちは、すべての人々に対して重い責任を負うがゆえに、個々の人間の善に向かい、人類全体の善に向かって自らをかけて、共通善のために働くべきである、とする強固な決断なのです」14。  

 連帯とは、統計上の数字や、酷使され、役立たなくなれば捨てられる道具としてではなく、私たち同様、神から等しく命の祝宴に招かれている隣人、旅の同伴者として、他の人々―個人であるとともに、広い意味では民族や国もーを見る助けとなるものです。

(被造物の「いたわり」と保護)

 回勅『ラウダート・シ』は、すべての被造物が互いに結びついていることを深く認識し、困窮している人の叫びと、被造物の叫びの双方に耳を傾ける必要があると強調しています。そのように注意深く絶えず耳を傾けることで、私たちがともに暮らす家である地球と貧しい人を「いたわる」ための有効な手段が生み出されます。 

 このことについて、繰り返し述べたいと思います。「仲間である人間に対する優しさや共感や配慮が欠けているなら、人間以外の自然との親しい交わりの感覚は本物ではありえません」15。「平和、正義、被造界の保全は、完全に相互接続した三つのテーマであって、分離したり別扱いしたりすれば、再び還元主義に陥らずには済まないのです」16

 

 

7.共通のルートを指し示す羅針盤

 使い捨ての文化がはびこり、国内および国家間での深刻な格差に直面する時代17にあって、私は国際機関や各国政府、経済界、科学や通信の分野、教育機関で責任を担う人々に対し、グローバル化とともに歩む道のり、「真に人間的な方向性」18をたどるために、これまでお話しした原理の羅針盤を手に取るようお願いしたいと思います。

 事実、それによって、各人の価値と尊厳が尊重され、共通善のために連帯して協力し、貧困や病気、奴隷状態、差別、紛争により苦しむ人の痛みを和らげることができるでしょう。この羅針盤を用いて、多くの社会的格差を解消するために、「いたわりの文化」の預言者、証し人となってください。このことは、女性が家庭内の、また社会、政治、組織のあらゆる領域の中で幅広く、力強い主人公になって初めて、可能になります。

 「いたわりの文化」の促進に欠かせない社会原理という羅針盤は、兄弟愛、相互尊重、連帯、国際法の遵守によって力づけられるべき国家間の関係の指標でもあります。ですから、不可侵、普遍的、不可分である基本的人権を擁護、促進することが、改めて主張されなければなりません19

 人道法も尊重されなければなりません。紛争や戦争が絶え間なく起きている現状においてはなおのことです。悲しいことに多くの地域や共同体が、平和で安全に暮らしていた頃の記憶を失っています。

 多くの都市が不安定さの源となっています。その地の住民は、爆弾や砲弾や小型武器により無差別に攻撃され、爆撃されているので、通常の生活リズムを維持することが容易ではありません。

 子どもたちは勉強ができません。男女とも家庭のために働くことができません。食糧危機が、かつてない範囲にまで広まっています。人々は家だけでなく、家族の歴史や文化的なルーツさえも捨てて、逃げざるをえません。

 紛争の原因はさまざまですが、その結果はいつも同じです。破壊と人道危機です。私たちは立ち止まって、自問すべきです。世界中で紛争が当たり前のこととなったのは、なぜだろうか。そして何よりも、連帯と兄弟愛にあふれる平和を真に求めるために、どうすれば心を入れ替え、考え方を改めることができるだろうか。

 どれほどの資源が武器のため、とりわけ核兵器のために浪費されていることでしょう20。その資源は、平和と全人的発展の促進、貧困との闘い、医療必需品の確保といった、人々の安全を確保するうえで、より重要な優先事項のために用いることができたものです。

 このこともまた、現在の新形コロナウイルスの大感染や気候変動のような地球規模の問題によって浮き彫りにされています。「飢餓を永久になくし、最貧国の発展に寄与するために、兵器や他の軍事支出に充当されていた資金を使って、『グローバル・ファンド』を立ち上げる」21、これはなんと勇敢な決断でしょう。

 

8.「いたわりの文化」の教育のために

 「いたわりの文化」の促進には、一定の教育プロセスが必要です。社会原理という羅針盤は、相互に関連する多様な状況に対応するために役立つ頼もしい道具です。いくつか例を挙げてみましょう。

 ・「いたわり」の教育は、家庭で始まります。家庭は、社会の自然かつ基礎的な集団単位であり、かかわりの中で互いに尊重し合うことを学ぶ場です。その一方で、家庭がこの重要かつ不可欠な責務を果たせる状態でなければなりません。

 ・学校、大学、そしてある意味では同様にソーシャル・コミュニケーションも、つねに家庭と協力しつつこの教育を担っています22。それらは、個々人、言語、民族、宗教上の各共同体、各国民の尊厳、さらには、それらに由来する基本的な権利に対する尊厳に基づいた価値体系を伝えるよう求められています。教育はより公平で固く結ばれた社会の柱の一つなのです。

 ・ほとんどの宗教、そしてとりわけ宗教指導者は、連帯、相違の尊重、さらには、もっとも弱い立場にある兄弟姉妹を受け入れ、いたわることの重要性を信者と社会に伝えることで、不可欠な役割を果たすことができます。

これについては、教皇パウロ六世が1969年にウガンダの国会で述べた言葉が思い起こされます。「教会を恐れないでください。教会は皆さんを尊重します。誠実で実直な市民である皆さんを導きます。競争や分裂を助長しません。正当な自由、社会正義、平和の促進に努めます。教会が何かを優先するならば、それは貧しい人、子どもと市民の教育、苦しんでいる人や見捨てられた人への『いたわり』です」23

・公職にあるかたがた、政府間及び民間の国際的な組織の職員、教育関係者、さらには、さまざまな役割をも って教育と研究の分野で活躍している皆さんが、「さらに開かれ、包含的で、傾聴と建設的な対話、相互理解を伴う」24教育を行うという目標を達成できるよう、改めて励ましの言葉を送りたいと思います。教育のためのグローバル・コンパクトに向けたこの呼びかけが、幅広くさまざまな分野で同意されますように。

 

9.「いたわりの文化」なくして平和はない

 「いたわりの文化」は、平和を築くための特別な道です。それは、すべての人の尊厳と善を保護し促進するための、皆が参加することを前提とする、共通の連帯的な責務であり、関心をもち、目を向け、共感し、和解し、癒し、互いを尊重し受け入れる意欲でもあります。「世界の多くの地域が、傷の回復をもたらす平和の道を必要としています。創意と大胆さをもって、癒しと新たな出会いのプロセスを始める意欲をもった平和の作り手が求められているのです」25

 人類の舟が危機という嵐に揺さぶられ、より穏やかで晴れわたった地平に苦心しながら向かっている今この時にも、人間の尊厳という舵と、基本的な社会原理という「羅針盤」があれば、皆一緒に安全なルートをたどることができます。

 私たちキリスト者は常に、海の星、希望の母であるおとめマリアを見つめなければなりません。愛と平和、兄弟愛と連帯、助け合いと相互受容の新たな地平に向けて進むために、皆で協力しましょう。他の人々、とりわけ最も弱い立場にある人に対して無関心でいようとする誘惑に負けないようにしましょう。目を背けるのに慣れないようにしましょう26。そうではなく、「互いを受け入れ、互いをケアする兄弟姉妹から成る共同体を築く」27ために、具体的な努力を日々、重ねていきましょう。

バチカンにて 2020年12月8日 フランシスコ(バチカン公式英語訳全文)

Message of the Holy Father for the 54th World Peace Day (1 January 2021), 17.12.2020

 

The following is the text of the Holy Father Francis’ Message for the 54th World Peace Day, to be held on 1 January 2021 on the theme “A culture of care as a path to peace”:

Message of the Holy Father A Culture of Care as a Path to Peace

1. At the dawn of a new year, I extend cordial greetings to Heads of State and Government, leaders of International Organizations, spiritual leaders and followers of the different religions, and to men and women of good will. To all I offer my best wishes that the coming year will enable humanity to advance on the path of fraternity, justice and peace between individuals, communities, peoples and nations.

The year 2020 was marked by the massive Covid-19 health crisis, which became a global phenomenon cutting across boundaries, aggravating deeply interrelated crises like those of the climate, food, the economy and migration, and causing great suffering and hardship. I think especially of all those who lost family members or loved ones, and all who lost their jobs. I think too of physicians and nurses, pharmacists, researchers, volunteers, chaplains and the personnel of hospitals and healthcare centres. They have made, and are continuing to make, great sacrifices to be present to the sick, to alleviate their sufferings and to save their lives; indeed, many of them have died in the process. In paying tribute to them, I renew my appeal to political leaders and the private sector to spare no effort to ensure access to Covid-19 vaccines and to the essential technologies needed to care for the sick, the poor and those who are most vulnerable.[1]

Sad to say, alongside all these testimonies of love and solidarity, we have also seen a surge in various forms of nationalism, racism and xenophobia, and wars and conflicts that bring only death and destruction in their wake.

These and other events that marked humanity’s path this past year have taught us how important it is to care for one another and for creation in our efforts to build a more fraternal society. That is why I have chosen as the title of this year’s Message, A Culture of Care as a Path to Peace. A culture of care as a way to combat the culture of indifference, waste and confrontation so prevalent in our time.

2. God the Creator, the source of our human vocation to care

Many religious traditions have accounts of the origin of human beings and their relationship with the Creator, with nature and with their fellow men and women. In the Bible, the Book of Genesis shows from its very first pages the importance of care or protection in God’s plan for humanity. It highlights the relationship between man (’adam) and the earth (’adamah), and among ourselves as brothers and sisters. In the biblical account of creation, God entrusts the garden “planted in Eden” (cf. Gen 2:8) to Adam’s care, to “till it and keep it” (Gen 2:15). This entails making the earth productive, while at the same time protecting it and preserving its capacity to support life.[2] The verbs “till” and “keep” describe Adam’s relationship to his garden home, but also the trust God placed in him by making him master and guardian of all creation.

The birth of Cain and Abel begins a history of brothers and sisters, whose relationship is understood – even by Cain, however mistakenly – in terms of protection or “keeping”. After killing his brother Abel, Cain answers God’s question by saying: “Am I my brother’s keeper?” (Gen 4:9).[3] Cain, like all of us, was called to be “his brother’s keeper”. “These ancient stories, full of symbolism, bear witness to a conviction which we today share, that everything is interconnected, and that genuine care for our own lives and our relationship with nature is inseparable from fraternity, justice and faithfulness to others”.[4]

3 God the Creator, a model of care

Sacred Scripture presents God not only as Creator, but also as one who cares for his creatures, especially Adam, Eve and their offspring. Albeit cursed for the crime he committed, Cain was given a mark of protection by the Creator, so that his life could be spared (cf. Gen 4:15). While confirming the inviolable dignity of the person created in God’s image and likeness, this was also a sign of God’s plan to preserve the harmony of his creation, since “peace and violence cannot dwell together”.[5]

Care for creation was at the heart of the institution of the Sabbath, which, in addition to ordering divine worship, aimed at the restoration of the social order and concern for the poor (cf. Gen 1:1-3; Lev 25:4). The celebration of the Jubilee every seventh sabbatical year provided a respite for the land, for slaves and for those in debt. In that year of grace, those in greatest need were cared for and given a new chance in life, so that there would be no poor among the people (cf. Deut 15:4).

In the prophetic tradition, the biblical understanding of justice found its highest expression in the way a community treats its weakest members. Amos (cf. 2:6-8; 8) and Isaiah (cf. 58), in particular, insistently demand justice for the poor, who, in their vulnerability and powerlessness, cry out and are heard by God, who watches over them (cf. Ps 34:7; 113:7-8).

4. Care in the ministry of Jesus

Jesus’ life and ministry represent the supreme revelation of the Father’s love for humanity (cf. Jn 3:16). In the synagogue at Nazareth, Jesus showed himself to be the one consecrated by the Lord and “sent to preach good news to the poor, to proclaim release to the captives and recovering of sight to the blind, to set at liberty those who are oppressed” (Lk 4:18). These messianic actions, associated with the Jubilee year, bear eloquent witness to the mission he received from the Father. In his compassion, Christ drew near to the sick in body and spirit, and brought them healing; he pardoned sinners and gave them new life. Jesus is the Good Shepherd who cares for his sheep (cf. Jn 10:11-18; Ezek 34:1-31). He is the Good Samaritan who stoops to help the injured man, binds his wounds and cares for him (cf. Lk 10:30-37).

At the culmination of his mission, Jesus gave the ultimate proof of his care for us by offering himself on the cross to set us free from the slavery of sin and death. By the sacrificial gift of his life, he opened for us the path of love. To each of us he says, “Follow me; go and do likewise” (cf. Lk 10:37).

5. A culture of care in the life of Jesus’ followers

The spiritual and corporal works of mercy were at the heart of charity as practised by the early Church. The first generation of Christians shared what they had, so that no one among them would be in need (cf. Acts 4:34-35). They strove to make their community a welcoming home, concerned for every human need and ready to care for those most in need. It became customary to make voluntary offerings in order to feed the poor, bury the dead and care for orphans, the elderly and victims of disasters like shipwrecks. In later times, when the generosity of Christians had lost its initial fervour, some Fathers of the Church insisted that property was meant by God for the common good. For Saint Ambrose, “nature poured out all things for the common use of all… and thus produced a common right for all, but greed has made it a right for only a few”.[6] After the persecutions of the first centuries, the Church used her newfound freedom to inspire society and its culture. “The needs of the times called forth new efforts in the service of Christian charity. History records innumerable examples of practical works of mercy… The Church’s work among the poor was to a great extent highly organized. There arose many institutions for the relief of every human need: hospitals, poor houses, orphanages, foundling homes, shelters for travelers …”[7]

6. The principles of the Church’s social doctrine as the basis for a culture of care

The diakonia of the Church’s origins, enriched by the reflection of the Fathers and enlivened over the centuries by the active charity of many luminous witnesses to the faith, became the beating heart of the Church’s social doctrine. This doctrine is offered to all people of good will as a precious patrimony of principles, criteria and proposals that can serve as a “grammar” of care: commitment to promoting the dignity of each human person, solidarity with the poor and vulnerable, the pursuit of the common good and concern for protection of creation.

* Care as promotion of the dignity and rights of each person

“The very concept of the person, which originated and developed in Christianity, fosters the pursuit of a fully human development. Person always signifies relationship, not individualism; it affirms inclusion, not exclusion, unique and inviolable dignity, not exploitation”.[8] Each human person is an end in himself or herself, and never simply a means to be valued only for his or her usefulness. Persons are created to live together in families, communities and societies, where all are equal in dignity. Human rights derive from this dignity, as do human duties, like the responsibility to welcome and assist the poor, the sick, the excluded, every one of our “neighbours, near or far in space and time”.[9]

* Care for the common good

Every aspect of social, political and economic life achieves its fullest end when placed at the service of the common good, in other words, “the sum total of social conditions which allow people, either as groups or as individuals, to reach their fulfilment more fully and more easily”.[10] Consequently, our plans and projects should always take into account their effects on the entire human family, and consider their consequences for the present and for coming generations. The Covid-19 pandemic has shown us the truth and timeliness of this fact. In the face of the pandemic, “we have realized that we are in the same boat, all of us fragile and disoriented, but at the same time important and needed, all of us called to row together”,[11] since “no one reaches salvation by themselves”[12] and no state can ensure the common good of its population if it remains isolated.[13]

* Care through solidarity

Solidarity concretely expresses our love for others, not as a vague sentiment but as a “firm and persevering determination to commit oneself to the common good; that is to say to the good of all and of each individual, because we are all really responsible for all”.[14] Solidarity helps us to regard others – whether as individuals or, more broadly, as peoples or nations – as more than mere statistics, or as a means to be used and then discarded once no longer useful, but as our neighbours, companions on our journey, called like ourselves to partake of the banquet of life to which all are equally invited by God.

* Care and protection of creation

The Encyclical Laudato Si’ is fully aware that all creation is interconnected. It also highlights our need to listen to the cry of the poor and, at the same time, to the cry of creation. Constant and attentive listening leads in turn to effective care for the earth, our common home, and for our brothers and sisters in need. Here I would once again point out that “a sense of deep communion with the rest of nature cannot be authentic if our hearts lack tenderness, compassion and concern for our fellow human beings”.[15] “Peace, justice and care for creation are three inherently connected questions, which cannot be separated in such a way as to be treated individually, lest we fall back into reductionism”.[16]

7. A compass pointing to a common path

At a time dominated by a culture of waste, faced with growing inequalities both within and between nations,[17] I urge government leaders and those of international organizations, business leaders, scientists, communicators and educators, to take up these principles as a “compass” capable of pointing out a common direction and ensuring “a more humane future”[18]in the process of globalization. This will enable us to esteem the value and dignity of every person, to act together in solidarity for the common good, and to bring relief to those suffering from poverty, disease, slavery, armed conflicts, and discrimination. I ask everyone to take this compass in hand and to become a prophetic witness of the culture of care, working to overcome the many existing social inequalities. This can only come about through a widespread and meaningful involvement on the part of women, in the family and in every social, political and institutional sphere.

The compass of these social principles, so essential for the growth of a culture of care, also points to the need for relationships between nations to be inspired by fraternity, mutual respect, solidarity and the observance of international law. In this regard, we must recognize the need to defend and promote fundamental human rights, which are inalienable, universal and indivisible.[19]

Likewise urgent is the need to respect humanitarian law, especially at this time when conflicts and wars continue uninterrupted. Tragically, many regions and communities can no longer remember a time when they dwelt in security and peace. Numerous cities have become epicentres of insecurity: citizens struggle to maintain their normal routine in the face of indiscriminate attacks by explosives, artillery and small arms. Children are unable to study. Men and women cannot work to support their families. Famine is spreading in places where it was previously unknown. People are being forced to take flight, leaving behind not only their homes but also their family history and their cultural roots.

While such conflicts have many causes, the result is always the same: destruction and humanitarian crises. We need to stop and ask ourselves what has led our world to see conflict as something normal, and how our hearts can be converted and our ways of thinking changed, in order to work for true peace in solidarity and fraternity.

How many resources are spent on weaponry, especially nuclear weapons,[20] that could be used for more significant priorities such as ensuring the safety of individuals, the promotion of peace and integral human development, the fight against poverty, and the provision of health care. Global problems like the present Covid-19 pandemic and climate change have only made these challenges all the more evident. What a courageous decision it would be to “establish a ‘Global Fund’ with the money spent on weapons and other military expenditures, in order to permanently eliminate hunger and contribute to the development of the poorest countries”![21]

8. Educating for a culture of care

Promoting a culture of care calls for a process of education. The “compass” of social principles can prove useful and reliable in a variety of interrelated contexts. Let me offer a few examples:

– Educating people to care begins in the family, the natural and fundamental nucleus of society, in which we learn how to live and relate to others in a spirit of mutual respect. Yet families need to be empowered to carry out this vital and indispensable task.

– Together with the family, schools and universities – and, in some respects, the communications media – are also responsible for education.[22] They are called to pass on a system of values based on the recognition of the dignity of each person, each linguistic, ethnic and religious community and each people, as well as the fundamental rights arising from that recognition. Education is one of the pillars of a more just and fraternal society.

– Religions in general, and religious leaders in particular, can play an indispensable role in handing on to their followers, and to society at large, the values of solidarity, respect for differences, and concern for our brothers and sisters in need. Here I think of the words spoken in 1969 by Pope Paul VI to the Ugandan Parliament: “Have no fear of the Church; she honours you, she educates honest and loyal citizens for you, she does not foment rivalries and divisions, she seeks to promote healthy liberty, social justice, and peace. If she has any preference at all, it is for the poor, for the education of little ones and of the people, for the care of the suffering and abandoned”.[23]

– Once more I encourage all those engaged in public service and in international organizations, both governmental and non-governmental, and all those others who in various ways are involved in the areas of education and research, to work towards the goal of a “more open and inclusive education, involving patient listening, constructive dialogue and better mutual understanding”.[24] It is my hope that this appeal, made in the context of the Global Compact on Education, will be broadly acknowledged and accepted.

9. There can be no peace without a culture of care

The culture of care thus calls for a common, supportive and inclusive commitment to protecting and promoting the dignity and good of all, a willingness to show care and compassion, to work for reconciliation and healing, and to advance mutual respect and acceptance. As such, it represents a privileged path to peace. “In many parts of the world, there is a need for paths of peace to heal open wounds. There is also a need for peacemakers, men and women prepared to work boldly and creatively to initiate processes of healing and renewed encounter”.[25]

At a time like this, when the barque of humanity, tossed by the storm of the current crisis, struggles to advance towards a calmer and more serene horizon, the “rudder” of human dignity and the “compass” of fundamental social principles can enable us together to steer a sure course. As Christians, we should always look to Our Lady, Star of the Sea and Mother of Hope. May we work together to advance towards a new horizon of love and peace, of fraternity and solidarity, of mutual support and acceptance. May we never yield to the temptation to disregard others, especially those in greatest need, and to look the other way;[26] instead, may we strive daily, in concrete and practical ways, “to form a community composed of brothers and sisters who accept and care for one another”.[27]

From the Vatican, 8 December 2020

FRANCIS

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[1] Cf. Video Message to the Seventy-fifth Meeting of the General Assembly of the United Nations, 25 September 2020.

[2] Cf. Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 67.

[3] Cf. “Fraternity, the Foundation and Pathway to Peace”, Message for the 2014 World Day of Peace (8 December 2013), 2.

[4] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 70.

[5] PONTIFICAL COUNCIL FOR JUSTICE AND PEACE, Compendium of the Social Doctrine of the Church, No. 488.

[6] De Officiis, 1, 28, 132: PL 16, 67.

[7] K. BIHLMEYER-H. TÜCHLE, Church History, vol. 1, Westminster, The Newman Press, 1958, pp. 373, 374.

[8] Address to Participants in the Conference organized by the Dicastery for Promoting Integral Human Development to mark the Fiftieth Anniversary of the Encyclical Populorum Progressio (4 April 2017).

[9] Message for the Twenty-second Session of the Conference of the Parties to the United Nations Framework Convention on Climate Change (COP22), 10 November 2016. Cf. INTERDICASTERIAL ROUNDTABLE OF THE HOLY SEE ON INTEGRAL ECOLOGY, Journeying Towards Care for Our Common Home: Five Years after Laudato Si’, Libreria Editrice Vaticana, 31 May 2020.

[10] SECOND VATICAN ECUMENICAL COUNCIL, Pastoral Constitution on the Church in the Modern World Gaudium et Spes, 26.

[11] Extraordinary Moment of Prayer in Time of Epidemic, 27 March 2020.

[12] Ibid.

[13] Cf. Encyclical Letter Fratelli Tutti (3 October 2020), 8; 153.

[14] SAINT JOHN PAUL II, Encyclical Letter Sollicitudo Rei Socialis (30 December 1987), 38.

[15] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 91.

[16] EPISCOPAL CONFERENCE OF THE DOMINICAN REPUBLIC, Pastoral Letter Sobre la relación del hombre con la naturaleza (21 January 1987); cf. Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 92.

[17] Cf. Encyclical Letter Fratelli Tutti (3 October 2020), 125.

[18] Ibid., 29.

[19] Cf. Message to Participants in the International Conference “Human Rights in the Contemporary World: Achievements, Omissions, Negations”, Rome, 10-11 December 2018.

[20] Cf. Message to the United Nations Conference to Negotiate a Legally Binding Instrument to Prohibit Nuclear Weapons, Leading Towards their Total Elimination, 23 March 2017.

[21] Video Message for the 2020 World Food Day (16 October 2020).

[22] Cf. BENEDICT XVI, “Educating Young People in Justice and Peace”, Message for the 2012 World Day of Peace, (8 December 2011), 2; “Overcome Indifference and Win Peace”, Message for the 2016 World Day of Peace, (8 December 2015), 6.

[23] Address to the Parliament of Uganda, Kampala, 1 August 1969.

[24] Message for the Launch of the Global Compact on Education, 12 September 2019.

[25] Encyclical Letter Fratelli Tutti (3 October 2020), 225.

[26] Cf. ibid., 64.

[27] Ibid., 96; cf. “Fraternity, the Foundation and Pathway to Peace”, Message for the 2014 World Day of Peace (8 December 2013), 1.

 

 

2020年12月19日

♰「教育は希望の行為」と教皇、教育がテーマの青年シンポジウムで

Displaced children from DRC, Rwanda, Burundi and other nations attend a makeshift school in a tent in a settlement for refugees in South AfricaDisplaced children from DRC, Rwanda, Burundi and other nations attend a makeshift school in a tent in a settlement for refugees in South Africa  (AFP or licensors)

*2030年までに、すべての学習者が、とりわけ持続可能な開発のための教育と、持続可能なライフスタイル、人権、ジェンダー平等、平和と非暴力文化の推進、グローバル・シチズンシップ(=地球市民の精神)、文化多様性の尊重、持続可能な開発に文化が貢献することの価値認識、などの教育を通して、持続可能な開発を促進するために必要な知識とスキルを確実に習得できるようにする。

*新型コロナによる危機は、教育の分野にも

教皇はメッセージで、まず現在の新形コロナウイルスの世界的大感染を取り上げ、「2020年はコロナ大感染による非常な苦しみの年」であり、多くの人々に強制的な隔離と排除、精神的な苦痛、そして多くの死を引き起こし、子供たちの教育にとっても「前例のない危機をもたらしています」と述べ、具体的に、「10億人以上の子供たちが教育の混乱に直面しています。何億人もの子供たちが社会的および認知的発達の機会に取り残されています。そして多くの場所で、生物学的、心理的、経済的危機は、それに伴う政治的および社会的危機によって、さらに悪化しています」と語った。

そのうえで、シンポジウムの参加者たちに、「憎悪、分裂、無知の衝動」ー「社会正義と相互愛に基づく教育機会の新しい波」で克服可能な現実ーに立ち向かう希望の行動を共にするために集まってくれたこと、とりわけ、「人間の超越、統合的で持続可能な人間開発、異文化間と宗教間の対話、地球の保全、平和と神に開かれる集まり」を推進する新たな教育への希望と計画の共有を育てるために、集まってくれたことに、感謝された。

*国連の役割と責任

 教皇は、国連の役割とこれまでの貢献について言及。世界の各国政府と市民社会が新しい形の教育に一致して取り組もうとする機会を提供している、と述べ、聖パウロ6世教皇が1965年に国連を讃えるメッセージを引用し、「紳士の皆さん、あなた方は偉大な仕事を成し遂げ、そして今、それを成し遂げる道におられる。人々に平和を教えている。国連は、人々が教育を受ける偉大な学校です」とされた。

 また、第二次世界大戦の終わり、1945年に国連会議で採択されたUNESCO (国際連合教育科学文化機関)憲章を取り上げ、その前文で「戦争は人の心の中で始まる。平和の防壁を構築することも、心の中にある」としていること、そして、ユネスコの創設者たちは「すべての人に、客観的な真実の限りない追求と考えと知識の自由な交換において、完全かつ平等な教育の機会が与えられ、互いについて、もっと深く理解し、互いの生活についてもっと真実に近い、もっと完全な知識をもてるように」と呼びかけたこと、を指摘した。

 そして、こうした地球的な教育の約束が崩壊した今の時代に、2015年9月に開かれた国連・持続続可能な開発サミット」で「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ」が採択され、新たな持続可能な開発目標(SDGs)が設定されたことで、地球的な教育への取り組みが改めてされるようになったことを高く評価するとともに、「SDGsの中心にあるのは、すべての人のための質の高い教育は、”私たちの共通の家”を守り、人々の間で友愛を育むために必要な基盤であるという認識です」と強調された。

*「お年寄りを忘れないで」

 メッセージの最後に教皇は、「 Global Compact for Education」と「 Mission 4.7」という二つの組織の協力を支持し、愛と美、そして一致の文化のために共に働くことに期待を表明された。さらに、「一番決定的な人間的価値観の保有者であるお年寄り、そして祖父母を忘れることのないように」と注文を加えられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2020年12月17日

◎教皇連続講話「祈りについて」⑪「常に祈る人は、心を開き、この世に背を向けない」

Pope Francis at the General AudiencePope Francis at the General Audience  (Vatican Media)

(2020.12.16 Vatican News Christopher Wells)

 教皇は16日の水曜恒例の一般謁見で、インターネットを通して「祈りについて」の講話を続けられ、今回は特に「執り成しの祈り」ー他の人に代わって願う祈りーに焦点を絞られた。

 まず教皇は、「祈りを習慣としている人たちは、決して、この世に背を向けることをしません」とされ、祈りが人間の存在のあらゆる側面-喜びと悲しみ、希望と不安ーに関わっていない場合、「飾り物」の行為になる、と注意された。

*パンは裂かれ、分かち合われる

さらに、他の人のために祈る人々と聖体の中におられるキリストの類似性を指摘。 「祈りの中で、神は私たちを手に取り、祝福し、裂き、そして、すべての人の飢えを満たすために、与えます」と述べ、すべてのキリスト教徒は「神の手の中で、パンとなり、裂かれ、分かち合われるように、召されています」と説かれた。

*全ての人のために祈る

そして、「祈る男女は、いつも心の扉を開け放ちます。孤独と沈黙を求めている時でも、です」とされ、「彼らは、祈らない人、祈る方法が分からない人、そして『誤ちを犯し、道に迷った人』のために祈ります。孤独の中で祈る人は、「神において全てものと全ての人を再発見する、まさにそのために、全てのものと全ての人から自分自身を分け… 一人ひとりの、すべての人ために祈り、扉をたたく全ての貧しい人の中、物事の意味を見失ったすべての人の中に、キリストの顔を見るのです」と語られた。

 また、教皇は、祈りは「本当に人間的」であり、人の心には「祈りに向かう傾向がある」が、それは「必ず、兄弟姉妹への愛を伴うもの」とされ、人間の経験は、「​​すべての祈りの中に存在しています。なぜなら、どんな過ちを犯しても、人は決して拒絶されたり、捨てられたりしてはならないからです」とも語られた。

*祈りの中で人を裁くな

 さらに、「罪人のために祈りを捧げる時、裁いたり、非難したりしてはならない。祈る人は、すべての人のために、そして第一に自分自身のために祈ります。聖なる父は、まさにこの理由から、すべての人ができる祈りを示されました。それは『主よ、あなたの目で見て、誰一人、正しい者はおりません。私たちは皆、借金を抱えており、返済を終えていません。あなたの目で見て、誰一人、罪人でない者はおりません。主よ、私たちを憐れんでください!』という祈りです」とされた。

 そして「神は、ご自分の民が罪を犯したにもかかわらず、誠実であり続けられ、手を汚すことを強いられても、羊飼いとしての奉仕をお続けになり、ご自分を苦しめた人々に対してさえも、心を閉じることをなさりません」と強調された。

*教会にも、執り成しの祈りを実践する使命

 教皇は、「教会もまた、執り成しの祈りを実践する使命を持っています。そしてこの義務は、特に、他の人々に責任を持つ人々に課せられています。アブラハムとモーセのように、彼らは時として、自分たちに委ねられた人々を神の前で『守る』必要があります」と指摘。そして、神に祈ることで、「彼らは、神の目と心をもって、神と同じ無敵の思いやりとやさしさをもって、人々を守っているのです」とされた。

*私たちは同じ木に茂る葉

 最後に教皇は「私たちは皆、同じ木に茂る葉です。散っていく葉の一枚一枚が、互いのための祈りの中で深い信仰を養われねばならないことを、私たちに思い起こさせます」と締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年12月16日

♰「喜びの第一条件はイエスを中心に置くこと」教皇、待降節第三主日の正午の祈りで

Pope Francis during his Sunday AngelusPope Francis during his Sunday Angelus  (ANSA)

(2020.12.13 Vatican News Francesca Merlo)

  教皇フランシスコは13日、待降節第三主日の正午の祈りでの説教で、この日のミサで読まれたヨハネ福音書に登場した洗礼者ヨハネを取り上げ、自らにではなくキリスト-真の光-に皆の注意を向け、救い主の到来を目にすることを期待し、喜びをあげた ”時の指導者”だった、と語られた。

    説教の初めに教皇は「信じる人にとって、待降節の時期は喜びにあふれた期待感に満ちています。大好きな人の訪問を待つ時のように、です」とされた。

 そして、「この喜びは、イエスにおいて『いつも喜んでいなさい』という聖パウロの勧め(使徒パウロのテサロニケの教会への手紙5章16-24節)で始まる今日-待降節第三主日に、一段と大きなものになります」とし、この大きな感動は、主を身近に感じることで引き起こされるー「主が私たちに近づかれれば近づかれるほど、さらに多くの喜びを感じ、遠く離れられれば離れられるほど、私たちの悲しみは増すのです」と語られた。

 続いて、教皇は今日のミサで読まれたヨハネ福音書(1章6-8節,⒚-28節)を取り上げ、福音史家ヨハネが”厳粛な方法”で洗礼者ヨハネを描いていることを指摘された。

 洗礼者ヨハネは、マリアとヨセフ以外では、イエスを証した最初の人であり、当時の指導的人物の1人だったが、自分に注意を引かせようとする誘惑に一瞬たりとも屈することはありませんでした。いつも、『来るべき人』に自分自身を向けていた。

 そして、私たちにとっても、「このようにすることが、喜びの第一の条件です… 自分自身を横に置き、イエスを中心に据えます。それは自分を疎外することではない。イエスが実際に中心であるからです。イエスは、この世界に生まれる男女すべての人生に完全な意味を与える光なのです」と教皇は説かれた。

 教皇はさらに、「洗礼者ヨハネは、イエスを証しするために長い旅をしました。その喜びの旅は公園の散歩ではない。彼は若い時に、すべてを捨て、神を第一にし、心と力を尽くして、神の言葉に耳を傾けました。荒れ野に住み、もっと自由に聖霊の風に従うために、余計なものをすべて脱ぎ捨てました」と語った。

 「確かに、このような洗礼者ヨハネの人となりには独特なものがあり、誰にでも進めることはできません。しかし、彼の証しは、人生の意味を求め、真の喜びを見つけたいと望む人のための指針となるもの。特に、キリストを他の人々に宣言するために呼ばれた教会の人々のための模範です。自分自身と世俗への執着を捨て、人々を自分に惹きつけるのではなく、キリストに向けることによって、そのようにすることができるのです」と説かれた。

 最後に教皇は、正午の祈りを共にするように会衆に勧め、次のように締めくくられた。「このようなすべてのことが、聖母マリアにおいて完全に実現するように、彼女は、静かに神の救いの言葉を待ち、喜んで受け入れ、聴き、思いめぐらしました。彼女において、神は(注:私たちと)近くなられた。教会が聖母マリアを『喜びの大義』と呼ぶのはこのためです」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年12月13日