♰「喜びの第一条件はイエスを中心に置くこと」教皇、待降節第三主日の正午の祈りで

Pope Francis during his Sunday AngelusPope Francis during his Sunday Angelus  (ANSA)

(2020.12.13 Vatican News Francesca Merlo)

  教皇フランシスコは13日、待降節第三主日の正午の祈りでの説教で、この日のミサで読まれたヨハネ福音書に登場した洗礼者ヨハネを取り上げ、自らにではなくキリスト-真の光-に皆の注意を向け、救い主の到来を目にすることを期待し、喜びをあげた ”時の指導者”だった、と語られた。

    説教の初めに教皇は「信じる人にとって、待降節の時期は喜びにあふれた期待感に満ちています。大好きな人の訪問を待つ時のように、です」とされた。

 そして、「この喜びは、イエスにおいて『いつも喜んでいなさい』という聖パウロの勧め(使徒パウロのテサロニケの教会への手紙5章16-24節)で始まる今日-待降節第三主日に、一段と大きなものになります」とし、この大きな感動は、主を身近に感じることで引き起こされるー「主が私たちに近づかれれば近づかれるほど、さらに多くの喜びを感じ、遠く離れられれば離れられるほど、私たちの悲しみは増すのです」と語られた。

 続いて、教皇は今日のミサで読まれたヨハネ福音書(1章6-8節,⒚-28節)を取り上げ、福音史家ヨハネが”厳粛な方法”で洗礼者ヨハネを描いていることを指摘された。

 洗礼者ヨハネは、マリアとヨセフ以外では、イエスを証した最初の人であり、当時の指導的人物の1人だったが、自分に注意を引かせようとする誘惑に一瞬たりとも屈することはありませんでした。いつも、『来るべき人』に自分自身を向けていた。

 そして、私たちにとっても、「このようにすることが、喜びの第一の条件です… 自分自身を横に置き、イエスを中心に据えます。それは自分を疎外することではない。イエスが実際に中心であるからです。イエスは、この世界に生まれる男女すべての人生に完全な意味を与える光なのです」と教皇は説かれた。

 教皇はさらに、「洗礼者ヨハネは、イエスを証しするために長い旅をしました。その喜びの旅は公園の散歩ではない。彼は若い時に、すべてを捨て、神を第一にし、心と力を尽くして、神の言葉に耳を傾けました。荒れ野に住み、もっと自由に聖霊の風に従うために、余計なものをすべて脱ぎ捨てました」と語った。

 「確かに、このような洗礼者ヨハネの人となりには独特なものがあり、誰にでも進めることはできません。しかし、彼の証しは、人生の意味を求め、真の喜びを見つけたいと望む人のための指針となるもの。特に、キリストを他の人々に宣言するために呼ばれた教会の人々のための模範です。自分自身と世俗への執着を捨て、人々を自分に惹きつけるのではなく、キリストに向けることによって、そのようにすることができるのです」と説かれた。

 最後に教皇は、正午の祈りを共にするように会衆に勧め、次のように締めくくられた。「このようなすべてのことが、聖母マリアにおいて完全に実現するように、彼女は、静かに神の救いの言葉を待ち、喜んで受け入れ、聴き、思いめぐらしました。彼女において、神は(注:私たちと)近くなられた。教会が聖母マリアを『喜びの大義』と呼ぶのはこのためです」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2020年12月13日