♰「イエスの誕生は、試練に立ち向かう力を与えてくれる」ー降誕祭夜半ミサで

教皇フランシスコ 2020年12月24日 降誕祭の夜半ミサ教皇フランシスコ 2020年12月24日 降誕祭の夜半ミサ  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは24日夜(日本時間25日未明)、2020年度の降誕祭の夜半ミサをバチカンの聖ペトロ大聖堂で祝われた。

 新型コロナウイルスのイタリアを含む世界的感染が続く中で、ミサは「司教座の祭壇」を使用し、例年より参加人数を縮小して行われたが、主の降誕のもたらす希望のメッセージをより強く感じさせるものとなった。

 ミサの説教で教皇は「一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた」というイザヤ書(9章5節)の言葉から、主の降誕の観想へと信者らを促され、「子どもが生まれることは特別なものであり、すべてを変え、あらゆる苦労や困難をも乗り越えさせる何かを持っています」と指摘。「イエスの誕生は、毎年、私たちを内面から生まれ変わらせ、すべての試練に立ち向かう力を与えてくれる」と話された。

 そして、御父が私たちに、ご自身の喜びである御子を与えてくださったことに、「私たちの想像も及ばない、御父の愛の大きさ」があるとされ、「私たちを救い、内側から生まれ変わらせるための唯一の方法が『愛すること』だということを、神はご存じなのです」と強調された。

 また、「暗い馬小屋の、貧しい飼い葉桶に寝かされた幼子が、まさに神の御子なのだ」ということを考える時、「なぜこのような夜中に、宿もなく、貧しく、拒否された状況の中に御子はお生まれになったのか、との問いがわき上がるでしょう」とされ、「神の御子が見捨てられたような状況でお生まれになったのは、神がどこまで私たちの惨めな状態を愛されるか、を私たちに教えるためであり、すべての見捨てられた人も神の子であることを、伝えるためなのです」と説かれた。

 さらに、「小さな子どもを育てるために、食べさせ、守り、世話をする必要があるように、神は私たちに、他者を愛し、世話することを教えるために、幼子としてお生まれとなりました」とされたうえで、「飼い葉桶の幼子を腕に抱くことで、自分の命を再び抱き、命のパンである御子を受け入れることで、自分自身を人に与えることができますように」と祈られた。

【教皇の説教原稿の全文以下の通り。】

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 今日この夜、イザヤの偉大な預言が実現します。「一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた」 (イザヤ書9章5節)。

 「一人の男の子がわたしたちに与えられた」

 一人の子どもの誕生は、いつも私たちにとって大きな喜びです。それは何か特別な、素晴らしい出来事です。すべてを変え、力づけ、どのような苦労も、困難も、不眠の夜をも乗り越えさせる、何かを持っています。なぜなら、それは言葉では言い表せないほどの、大きな幸せをもたらすからです。すべての苦労は、その前で消え去ります。

 主の降誕は、まさしく、このようなものです。毎年祝われるイエスの誕生は、私たちを内部から生まれ変わらせ、あらゆる試練に打ち勝つ力を与えてくれます。そうです、なぜなら、イエスは、私たち、私、あなた、皆のために、お生まれになったからです。

 この聖なる夜に、何度も同じ言葉が繰り返されます。イザヤは言います、「一人の男の子が私たちに与えられた」。詩編では「今日、私たちのために救い主が生まれた」と繰り返しました。聖パウロは、イエスは「私たちのためにご自身を捧げられた」 (テトスへの手紙2章14節)と宣言しました。福音書の中でも、天使は「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカ福音書2章11節)と告げました。

 しかし、この「私たちのために」とは、何を意味しているのでしょうか。本来祝された方である神の御子が、私たちをも恵みによって祝された者とするために来られるのです。そうです、神ご自身が、私たちを神の子とするために、人の子としてこの世に来られるのです。なんとすばらしい恵みでしょうか。

 今日、神は私たちを驚かせます。私たち一人ひとりに「あなたは素晴らしい存在です」と言われるのです。兄弟姉妹たち、元気を出しましょう。何かの間違いだろうと、思うでしょうか。神はあなたに言われます。「いいえ、あなたは私の子です」と。

 無理だ、自分はそれにふさわしくない、と感じるかもしれません。トンネルから抜け出せない思いでいるかもしれません。神はあなたに言われます。「勇気を出しなさい、私はあなたと共にいます」。

 神は、それをただ、言葉で言われるだけではありません。神ご自身が、あなたのように、あなたのために、人の子となってくださったのです。それは、あなたが毎回生まれ変わるための原点を思い起こさせるためです。その原点とは、あなたは神の子であるということです。これこそ、私たちにとって、この上ない希望、支えそのものです。私たちがいかに弱く、不完全で、不確かであっても、この真理がいつも基盤にあります。「私たちは、神から愛されている神の子らです」。

 神の私たちに対する愛は、今も、これからも、決して、私たちによるものではありません。神の愛は無償です。完全に恵みなのです。今晩、聖パウロは私たちに「神の恵みが現れた」と言いました (テトスへの手紙2章11節)。これほど尊いことはありません。

*「一人の男の子が私たちに与えられた」

 神なる御父は、私たちに何かをくださったのではなく、ご自身の喜びそのものである御独り子をくださったのです。しかし、神に対する人間の忘恩、また、兄弟たちに対する不正を見る時、問わずにはいられません。主はこれほど多くを私たちに与えられてよかったのだろうか。これでも私たちを信頼してくださるのだろうか。私たちを過大評価しているのではないだろうか。

 そうです、神は私たちに、身の丈以上の信頼を寄せてくださるのです。なぜでしょう。それは、私たちを極限まで愛してくださるからです。神は私たちを愛さずにはいられないのです。神は、私たちとはずいぶん違います。神はいつも私たちを愛しておられます。私たちが自分自身を愛する以上に、神は私たちを愛してくださいます。神は、私たちを救うため、内部から癒すための唯一の方法は、愛することだ、と知っておられるのです。神は、私たちがご自身の疲れを知らぬ愛を受けることによってのみ、より良い者になれることを知っておられます。ただイエスの愛だけが、私たちの生き方を変え、最も深い傷や、不満、怒り、嘆きを癒やすことができるのです。

 「一人の男の子が私たちに与えられた」

 暗い馬小屋の貧しい飼い葉桶の中に、まさしく神の御子がおられます。ここでまた問いが湧き上がります。豪華な美しい宮殿で偉大な王としてではなく、なぜこのような夜に、ふさわしい宿もなく、貧しさと拒否の中に生まれなければならなかったのでしょうか。それは、神が私たちの人間的な状況をどこまで愛しているかを理解させるため、私たちの最も悲惨な状態にご自分の具体的な愛で触れるためでした。

 私たちが自分の弱さやみじめさを素直に受け入れることができるよう、神は弱く何もできない赤子の姿でこの世に来られました。ベツレヘムでのように、神は、私たちの貧しさを通して、偉大なことを成しとげられます。神は、私たちの救いのすべてを、馬小屋の飼い葉桶の中に置かれました。神は、私たちの貧しさを恐れませんでした。神の憐みが、私たちの惨めさを変えてくださいますように。

 これが、私たちのために神の御子が生まれた理由です。

 ここにもう一つの理由があります。天使は羊飼いたちに言いました。「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子、これがあなたがたへのしるしである」(ルカ福音書2章12節)。飼い葉桶に横たわる幼子。これは私たちのためのしるしでもあります。ベツレヘムは、「パンの家」という意味です。神が飼い葉桶の中に横たわっています。それは、生きるためにパンを食べる必要があるように、私たちが神を必要としていることを思い出させるかのようです。

 私たちは、神の無償の、疲れを知らぬ、具体的な愛を必要としています。どれほど私たちは、享楽や、成功、虚飾など、心を決して満たさず、むしろ虚しくする物事で、自分を満たそうとしているでしょうか。主は、イザヤ預言者の口を通し、牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っているのに、神の民である私たちは、どうして自分たちの命の源である神を知らないのか、と嘆かれました (イザヤ書 1章2-3節参照)。

 私たちはいかにベツレヘムの飼い葉桶を忘れ去り、虚栄の飼い葉桶に走り寄ることでしょうか。ベツレヘムの飼い葉桶は、貧しくとも、愛に満ちています。それは、誠の命の糧は神の愛であり、また他者を愛することである、と教えています。神の御言葉は、幼子となりました。幼子は何も話せませんが、命を与えてくれます。私たちは多くを話しますが、優しさというものを知りません。

 「一人の男の子が私たちに与えられた」

 小さな子どもがいる人は、どれほどの愛と忍耐が必要とされるかをよくわかっています。養い、世話をし、しばしば理解不可能ながらも、その必要を満たしてあげなければなりません。神は、私たちに他者を愛することを教えるために、幼子として生まれました。神は、貧しい人々に奉仕することは、神ご自身を愛することである、と教えるために、自ら貧しい者となり、私たちと共に住まわれるのです。ある詩人が言ったように、この夜から「神は私のすぐそばに住まわれます。その住まいを満たすものは愛です」 (E. Dickinson, Poems, XVII)。

 「一人の男の子が私たちに与えられた」

 それはあなた、イエスです。私をも、神と子としてくださる方、神の御子、イエスです。あなたは、私がなりたい自分ではなく、あるがままの私を愛してくださいます。飼い葉桶の幼子よ、あなたを抱きしめることで、私は自分の命を抱きしめます。命のパンであるあなたをいただくことで、私も自分の命を捧げたく思います。私を救ってくださるイエスよ、仕えることを私に教えてください。私を独りにしないイエスよ、兄弟たちを慰めるすべを教えてください。今夜から、すべての人は私の兄弟だからです。

(編集「カトリック・あい」=聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

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2020年12月25日