◎教皇連続講話「祈りについて」⑫「感謝に導く霊の火を消さないように」

教皇フランシスコによる2020年12月30日の一般謁見教皇フランシスコによる2020年12月30日の一般謁見  (ANSA)

(2020.12.31  カトリック・あい)

 教皇フランシスコは30日、今年最後となる水曜恒例の一般謁見をバチカン宮殿からのビデオ中継の形で行われ、「感謝の祈り」について話された。

 講話の内容以下の通り。

(2020.12.30 バチカン放送)

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 今日は感謝の祈りについて考えてみたいと思います。福音記者ルカは、次のようなエピソードを伝えています。

   イエスがある村を通りかかると、重い皮膚病を患った十人が彼を出迎え、声を張り上げて、「イエス様、先生、私たちを憐れんでください」(ルカ福音書17章節)と言いました。重い皮膚病の彼らにとって、その身体の苦しみは、社会的・宗教的苦しみとも重なり合うものでした。これらの人々は疎外されていたのです。

 しばしば、掟を超えて病者に触れ、抱擁し、癒されるイエスは、このエピソードでは、直接、彼らのそばに行かれることはありませんでした。イエスは「行って、祭司たちに体を見せなさい」(同17章14節)とだけ言われました。祭司たちに、律法に従って、治癒したかどうかを確かめる役割があったからです。イエスは、このほかには何も言われませんでしたが、彼らの祈り、憐みを求める叫びを聴かれ、すぐに祭司たちのもとに彼らを送ったのです。

 十人は、イエスの言葉を信じ、すぐに祭司たちのところに行きました。そこに行く途中で、十人全員が清くされました。祭司たちは彼らが清くなったことを確かめ、普通の生活に戻らせたことでしょう。

 しかし、ここに来て、最も重要なことが起きます。十人のうち、ただ一人が、祭司たちのところに行く前に、イエスに感謝するために戻って来たのです。彼は、受けた恵みのために神を賛美しました。戻って来たのはただ一人、あとの九人はそのまま行ってしまいました。イエスは、彼がサマリア人であることに気づきました。サマリア人は、当時のユダヤ人にとって、いわば「異端」ともされる人々でした。イエスは言われますー「この外国人のほかに、神を崇めるために戻って来た者はいないのか」(同17章18節)と。印象的なエピソードです。

 このエピソードは、「感謝する人」と「感謝しない人」に、「物事を当たり前のこととして受け取る人」と「すべてを恵みとして受け取る人」に、世界を二つに分けているとも言えます。「カトリック教会のカテキズム」は「どんな出来事もどんな不足も感謝の対象となりえます」(2638項)と記しています。

 「感謝の祈り」は常にここからー自分が受け取った恵みを認めることから、始まります。私たちが考えることを学ぶ前に、神は私たちのことを考えておられました。私たちが愛することを学ぶ前に、私たちを愛しておられ、私たちが何かを心に望む前に、私たち自身を望んでおられました。もし、人生をこのように見ることができるなら、「感謝」は、私たちの一日を導く動機ともなるのです。私たちはしばしば「感謝すること」さえ、忘れています。

 私たちキリスト者は、「感謝」を、最も本質的な秘跡の名に冠しました。それは「エウカリスチア」です。それはギリシャ語で「感謝」を意味します。キリスト者は皆、神を信じる者として、命の恵みのために神を称えます。「生きる」とは、何よりも、命を受け取った、ということです。

 私たちが生まれるのは、私たちに命を望まれた方がいるからです。これが、生きていく中で最初に負う借りです。感謝の気持ちです。私たちの人生で、少なからぬ人々が私たちを無償の心を持って、純粋な目で見つめてくれました。それは、多くの場合、教育者や、カテキスタなど、自分に与えられた義務を超えて尽くしてくれた人々です。彼らは、私わたちに感謝の念を起こさせます。また、友情も、私たちが常に感謝を感じるものです。

 キリスト者がすべての人と分かち合うこの感謝の気持ちは、イエスとの出会いにおいて広がります。福音書は、イエスが通りかかるたびに、出会う人々の間に喜びと神への賛美が生まれていたことを明らかにしています。主の降誕の物語は、主の訪れに心を開いて祈る人々であふれています。私たちもまた、この歓喜に加わるようにと招かれています。

 重い皮膚を癒された十人のエピソードも、私たちにそれを呼びかけるものです。当然、この十人は癒されたことを幸せに思いました。癒されたおかげで、共同体から除外されていた彼らは、永遠に続くように思われた隔離から、解放されることができたのです。しかし、彼らの間に、ただ一人、喜びに喜びを重ねる人がいました。癒されたことだけでなく、イエスとの出会いに喜びを感じたのです。彼は病から解放されただけでなく、今では愛されていることの確信をも持ったのです。

 これが重要な点です。感謝する時、自分が愛されていることを確かに感じているということです。愛されていることを感じること、これは大きな一歩です。愛を発見することは、世界を支える力を発見するようなものです。ダンテがここにいたなら、愛は「太陽とその他の星々を動かす」(天国編XXXIII, 145)と言ったでしょう。

 私たちは、あてもなくさまよう旅人ではありません。私たちにはキリストという「家」があります。私たちは、キリストの中に住んでいます。そして、この「家」から、世のすべてを観想します。そうすることで、世界は果てしない美しさを見せます。私たちは愛の子、愛の兄弟、恵みを知る者です。

 兄弟姉妹の皆さん、イエスとの出会いの喜びをいつも保ちましょう。喜ぶ心を育てましょう。それに対し、悪魔は、私たちを幻惑に陥れた後、悲しみと孤独の中に取り残します。私たちがキリストと共にいるならば、いかなる罪も脅威も、多くの仲間たちと進む私たちのこの喜びの歩みを、妨げることはできません。

 何よりも感謝の心を忘れないようにしましょう。私たちが感謝の心を持つならば、世界もより良いものになるでしょう。たとえそれがわずかなものでも、世に希望を与えるには十分です。世界は、希望と感謝を必要としています。感謝の態度は、希望をもたらします。皆が一つであり、皆が互いに結びつき、それぞれの場でそれぞれの役割を持っています。

 幸せの道は、聖パウロが一つの書簡の中で言い表しているものです。「絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。霊の火を消してはいけません」(テサロニケの信徒への手紙5章17-19節)。「霊の火を消さない」とは、なんと素晴らしい人生の目標でしょうか。心の中の、わたしたちを感謝に導く霊の火を消さないようにしましょう。

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2020年12月31日