♰教皇の主の受難・復活を前にした一般謁見講話「キリストの十字架は希望のしるし」

Pope Francis during the General AudiencePope Francis during the General Audience  (Vatican Media)

(2021.3.31 Vatican News staff reporter)

 教皇フランシスコは31日水曜恒例の一般謁見での講話で、翌聖木曜日の主の晩さんから、聖金曜日の主の受難、そして聖土曜日の復活の聖なる徹夜祭に至る流れを考察された。

 まず聖木曜日の主の晩餐で、キリストが弟子たちの足を洗われ、愛についての新たな戒め、そしてすべての人の救いのためのご自身の体と血の犠牲の変わることのない記念としての聖体の制定に注意を向けられた。

 聖金曜日の主の受難では、教皇は、「典礼の儀式の厳しさの中で、私たちは崇拝のための十字架をいただくでしょう」とされ、「十字架を崇拝することで、私たちは、救いのために犠牲になられた罪のない子羊の旅を追体験します… この世界の病気の人、貧しい人、社会から拒絶された人の苦しみを心に抱きます。犠牲にされた子羊ー戦争、独裁、日々の暴力、中絶による罪のない犠牲者を思い起こすのです」と語られた。

 さらに、「十字架につけられたキリスト像を前にして、私たちは、現代において十字架につけられた多くの人々、慰めと苦しみの意味を主からのみ受け取ることができる人々のために、祈るのです」と強調。

 そして、教皇は「イエスが人類の傷と死そのものを背負われて以来、神の愛は、私たちのこうした”砂漠”を潤しました。私たちの闇を開かれました。それなのに、どうして世界が暗闇になっているのでしょう… それは私たちが、戦争に悩まされ、子どもたちが飢え、教育が不足する世界に住んでいるからです…多くの人は少しばかり気分を良くするために薬を服用します。それは破滅的な状況、砂漠です」と指摘された。

「小さな島々があります。それは、今よりよくなりたいという願望を心に抱いている神の民です。しかし、向き合いましょうーゴルゴタの丘の十字架上で、弟子たちに苦しんでおられるイエスに… キリストの傷によって私たちは癒され、キリストの死によって私たちは皆、生き返らされました。十字架上で打ち捨てられたキリストのおかげで、誰も、死の闇に一人孤独でいることはないでしょう」と述べられた。

 聖土曜日について、教皇は「弟子たちが、イエスの不名誉な死にショックを受け、嘆き、当惑する中で体験した、沈黙の日」とされた。また、「聖母マリアの日」でもあり、イエスの母マリアも涙の中でその日を過ごすが、「彼女の心は信仰に満ち、希望に満ち、愛に満ちています… 神の母は、魂を刺しぬかれたまま、十字架のもとに留まりました。すべてが終わったように思われてもそこに留まり、死者を蘇らせる神の約束に希望を置き続けたのです」と説かれた。

 そして、「そうなさることで、世界が一番暗い時に、聖母マリアは信じる者たちの母、教会の御母、そして希望のしるしになられました… 聖母マリアの証しと執り成しは、負うべき十字架が私たちにとって重くなりすぎた時の支えとなります」とされるとともに、「墓の所にいたイエスの敵が主の復活を否定したように、お金のために信じるものを否定することのないように」と警告された。

 こうした聖土曜日の暗闇は、「復活徹夜祭の典礼とアレルヤの祝いの歌とともに、喜びと光で突破されます」と教皇は語られ、現在多くの人が新型コロナウイルスの大感染始め沢山の苦しみの中にあるが、「キリストの十字架は、嵐の海を航行する船に、避難する港を示す標識にたとえられます。それは希望のしるし、神の救いの計画の中で、一粒の涙も一度の叫びも失われないことを、私たちに告げているのです」と励まされた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年3月31日

♰教皇の「受難の主日」正午の祈り「マリアのように、私たちもイエスに倣おう」

 復活祭直前の「聖週間」に入った28日、「受難の主日」のミサを司式された教皇フランシスコは、その後半に「お告げの祈り」を唱えられた。

 祈りの前の説教で、教皇は、新型コロナウイルスによるパンデミックのもとで、二度目の聖週間を迎えたことについて、信者たちに次のように話しかけられた。

**********

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 聖週間が始まりました。新型コロナウイルスによるパンデミックが始まってから、二回目の聖週間です。去年、わたしたちはショックを受けていました。今年、わたしたちは試練のために疲労しています。そして、経済危機は深刻さを増しました。

 このような歴史的、社会的状況の中で、神は一体、何をしておられるのでしょうか。神は十字架を担っています。イエスは十字架を担い、このような状況がもたらす悪を、物的悪、心理的悪、そして特に霊的な悪を、ご自身に引き受けています。なぜなら、悪はこの危機を、人々に信頼を失わせ、絶望に導き、悪の種を蒔くために利用するからです。

  私たちは一体、何をしたらよいでしょうか。イエスの第一の弟子であったイエスの母、聖母マリアが、それを教えてくれます。母マリアは、御子イエスに従いました。自分に与えられた苦しみ、闇や迷いのすべてを受け入れ、心の中に信仰の火をしっかりと灯し続け、受難の道を歩み通しました。

 神の恵みによって、私たちにもこの歩みは可能です。日ごとの十字架の道において、私たちは、困難な状況に置かれた多くの兄弟姉妹たちに出会います。避けて通ることなく、同情の心をもって彼らに近づきましょう。

 キリストの十字架を担がされたキレネのシモンのように、「なぜこの私が」という思いが起こるかもしれません。しかし、後で、それが知らずにいただいた大きなお恵みだったことに、気づくことでしょう。

 いつも信仰の道を歩むことができるよう、聖母マリアが助けてくださいますように。

(編集「カトリック・あい」)

 

 

2021年3月28日

♰教皇の「受難の主日」ミサでの説教「イエスに 感動する恵みを願おう」

(2021.3.28 Vatican News staff writer)

 教皇フランシスコは28日、聖ペトロ大聖堂で「受難の主日(枝の主日)」のミサを司式され、この厳粛な祝い を特徴づけ、聖週間を通して私たちと共にある、内なる驚きの意義を強調された。 

 「受難の主日(枝の主日)」のミサは、新型コロナウイルスの大感染下で二年目、二回目となり、限られた大聖堂への参加者は限定され、インターネットやテレビ、ラジオを通して世界中の数多くの信徒が参加する形をとった。

 

*称賛から感動へ

 教皇は説教で、「今日の典礼と聖週間のすべてにおいて引き起こされた驚きの感覚」をテーマに取り上げられ、まず、その理由について、「イエスがエルサレムに入られる時の大歓迎の喜びが、一転して、イエスが死刑を宣告され、十字架につけられる悲しみに変わるからです。私たちは、群衆がイエスを『ホサナ』と大声で叫び、その数日後には『十字架につけろ』と声を上げるのを聞きます」と語られた。

 そして、この極端に対照的な人々の反応は「人々がイエスを称賛はしたが、感動することはなかった、ということを反映しています」と述べ、「称賛と感動の言葉遣いは根本的に異なります。『称賛』は、自体の好みや期待によるために、『現世的』になりえますが、『感動』は、他者についての驚きと、他者がもたらす新しさにたいして常にオープンで、結果として、私たちの態度と人生を変えることを可能にします。私たちは、イエスをただ称賛するのでなく、イエスに倣い、イエスから挑戦を受けるようにして、称賛から感動に変えねばならないのです」と説かれた。

 

屈辱をくぐって栄光へ

 また、主とその過ぎ越しは、「主が屈辱を通して栄光を成し遂げる時、私たちを驚かせます… 苦しみと死を受け入れることによる勝利は、賞賛と成功を追い求める私たちには避けたいものです… しかし、イエスは私たちのために、人間的な体験をされ、その存在と弱さの深みに歩みを進め、そうなさったのです。私たちに近づき、私たちを苦しみと死の中に打ち捨てず、私たちを救い出すために、です」と述べられ、「このようにして、主は、私たちの最も辛いあがきと葛藤を請け出し、変容なさいました… 神は勝利しますが、勝利のしゅろの葉は”十字架の森”をくぐるのです」と強調された。

*感動する恵みを願う

 そして、「私たちは、常に赦しと新たな始まりの可能性をもたらすイエスの愛によって『驚き、感動する』ことを覚えているべきなのに、『感動する心を失った信仰』は、そのことに鈍くなる可能性があります」とされたうえで、「感動する恵みを受けるために、神の限りない愛に心を動かされるために、そして、感動を経験するのを妨げるかもしれない後悔や失望を手放すために、十字架を仰ぎ見ましょう」と勧められた。

「主よ、あなたが私をどれだけ愛されていることか!」

 さらに、教皇は「私たちが再び生きることを始めされるように、イエスに感動させられましょう… 私たちが仰ぎ見る十字架の上のイエスに、愛されていることに気付きましょう」と呼びかけられ、「感動の恵みは、私たちの周りにいる、職を無くし、見捨てられた人、人生でひどい扱いを受けた人を進んで受け入れる、という行為の中で、『私たちがイエスを愛している』ことにも、気付かせてくれます」と説かれた。

*「まことに、この人は神の子だった​​!」

 また、イエスが息を引き取られたのを見て、ローマ軍の百人隊長は「まことに、この人は神の子だった​​!」と感嘆の声を上げたことについて、教皇は「イエスの無償の、前代未聞の愛を目撃した彼の驚きを強い証し」とされた。

 そして、「福音書には、イエスの奇跡と働きを称賛する多くの人々が登場しますが、キリストは彼らを黙らせました。なぜなら、そのような人々は、神の力、権力を崇め、力を崇拝し、恐れるという考えだけを抱く危険を冒したからです。そうした考えは、十字架のもとで導き出されるべきものです… 神は、武器を持たず、武器を持たせない、愛の力を持ってのみ、ご自身を現わされ、治められるーそれが、十字架につけられた主を見つめる時、感動で一杯になろう、を申し上げる理由なのです」と改めて強調。

 次の言葉で締めくくられた。「私たちもこう言いませんかーまことに、あなたは神の子です。あなたは私の神です、と」

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年3月28日

◎教皇連続講話「祈りについて」⑳「マリアは、コロナ禍の中で孤独死する人々に寄り添う」

File photo of Pope Francis at the weekly General AudienceFile photo of Pope Francis at the weekly General Audience  (© Vatican Media)

 続けて、教皇は、「父なる神と私たちの間をキリストが仲介してくださることは、私たちキリスト教徒が祈りの中でいくつかの関心を向けることに意味を与える… その第一は、神の母、聖母マリアです」と指摘され、「マリアは、キリスト教徒の人生の中で、特別の位置を占めています。それはキリスト教徒の祈りにおいてもです。なぜなら、マリアはイエスの母だからです」と語られた。

 そして、東方教会が聖母マリアをギリシャ語で「Hodegetria(ホデゲトリア)」と表現していることに触れ、「 それは『子に道を示す者』を意味しています。マリアに関してすべてのことは、キリストに『完全に向け』られ、彼女は『最初の弟子』なのです」と付け加えられた。

 また教皇は、イエスが十字架につけられた時、そのもとにいた最愛の弟子にマリアを託された時、彼女の母性を教会の構成員すべてに広げられた、「その瞬間から、私たちはマリアの外套のもとに集まってきました」とされた。そのうえで、「マリアは、ご自分の子が亡くなろうとしている最後の瞬間に、そばにいたように、私たちが『アベ・マリア』の祈りを捧げる時、亡くなりかけている人たちと共にいるのです」と説かれた。

 そして、コロナ大感染の今、とても多くの方が感染拡大防止のために、病院で誰にも看取られずに亡くなることを余儀なくされているが、教皇は「マリアは、そうした孤独の中で死の床にある人たちに付き添います。母としての優しさをもって、愛する人の慰めを得ずに亡くなろうとする人たちと共にいます」と強調され、「マリアに祈ることは決して無駄ではない。マリアは私たちの声を聴きます。心の中の声も、彼女には聞こえるのです」と念を押された。

 さらに教皇は、「私たちが道に迷ったり、危険な目に遭ったりしても、マリアはいつも私たちを、子供たちとして守ってくれます… マリアは、そこにいます。そして、私たちのために祈り、祈らない人のためにも祈ります。マリアは、私たちの母だからです」と講話を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」)

2021年3月24日

♰「私たちには、『イエスに会いたい』と願う人たちに応える責任がある」教皇、四旬節第五主日の正午の祈りで

Sunday AngelusSunday Angelus  (Vatican Media)

 バチカン広報局発表の教皇の説教全文以下の通り。

 今日のミサで読まれたヨハネ福音書の箇所は、キリストの受難を前にして起きたエピソードを伝えています(12章20‐33節)。

 過越の祭りでエルサレムにおられたイエスに、何人かのギリシャ人が関心を持ち、弟子のフィリポの所に来て、「イエスにお目にかかりたい」と言います。「私たちはイエスに会いたい」ーこの言葉を覚えておきましょう。

 そして、フィリポはもう一人の弟子、アンデレにこのことを話し、二人でイエスの所に行って、ギリシャ人の願いを伝えます。このギリシャ人の願いの中に、世界のどこでも、いつでも、沢山の人たちが教会と私たち一人ひとりに、「イエスに会いたい」と願うのを垣間見ることができます。

 では、イエスはギリシャ人の求めにどのように応えますか?私たちが思いめぐらすようななさりかたで、このように話されますー「人の子が栄光を受ける時が来た…。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(23-24節)。

 一見、ギリシャ人の求めに応えていないように見えますが、イエスは、ご自身に会いたいと願う全ての人に対して、自分は多くの実を結ぶために死ぬ用意がある”隠された種”だ、とうことを明らかにされたのです。あたかも、こう言われているようですー「私を知りたいのなら、私を理解したいのなら、地に落ちて死ぬ麦の粒を見なさい、十字架を見なさい」と。

 何世紀にもわたってキリスト教徒の比類なき象徴となってきた十字架のしるしが思い浮かびます。今も、おそらくキリスト教があまり知られていない国や文化から来た「イエスに会いたい」と願う人は、最初に何を見るでしょう?最初に目にするしるしは何でしょう?-キリストの受難の像、十字架です。教会で、キリスト教徒の家で、身に着けたもので。重要なことは、そのしるしが福音と一致している、ということです。十字架は愛、奉仕、無条件の献身… それによってのみ、十字架は「命の木ー命あふれる木なのです。

 今日も、多くの人が、しばしばそうは言わず、暗黙のうちに「イエスに会いたい」ーイエスに会い、知りたいと望んでいます。そに応えることが、私たちキリスト教徒の、私たちの教会共同体の大きな責任であることを理解する必要があります。

 私たちはまた、奉仕の中で与えられる人生、親しさ、思いやり、やさしさという神のなさり方にならい、奉仕の中で与えられる人生をもって、福音を証しすることで、応えねばなりません。それは、移ろいやすい言葉ではなく、具体的で、率直で、勇気ある手本となる行為を通して、相手を理論的に非難するのではなく、愛の振る舞いをもって、愛の種を蒔くことを意味します。

 主は、その恩寵をもって、私たちに実を結ぶようにされますー誤解、困難、迫害、あるいは律法主義者や聖職者道徳主義者の主張のために土が乾いている時でさえも、です。これは不毛の土。正確には、それは、試練と孤独の中で種が死にかけている時。だが、それは命が開花する瞬間であり、やがて熟した実をつけるのです。私たちが愛の喜びと真の実りの豊かさを体験できるのは、この死と生の絡み合いの中で、です。それはー繰り返して申し上げましょうー神のなさり方ー親密さ、思いやり、やさしさーの中で与えられるものなのです。

 聖母マリアが、私たちがイエスに従い、強く、喜びに満ちて奉仕の道を歩むのを助けてくださいますように。そうすることで、キリストの愛が、私たちのあらゆる振る舞いの中で輝き、さらに一段と、私たちの日々の暮らしの形になっていきますから。

 

2021年3月21日

♰「”受け入れ、守り、夢見る”聖ヨセフの姿に学べ」19日の聖ヨセフの日を前に

幼子イエスと聖ヨセフ幼子イエスと聖ヨセフ

  (2021.3.18 バチカン放送)

 教皇フランシスコが18日、教皇庁立ベルギー神学院の関係者と会見され、翌19日が同神学院の保護者でもある聖ヨセフの祭日であること、現在が「聖ヨセフの特別年」となっていること、を指摘したうえで、「聖ヨセフの霊性から多くを学び、司祭生活に活かすように」と司祭・神学生らを励まされた。

 教皇は、聖ヨセフは「受け入れる父」であるとされ、「ヨセフは個人的な人生の計画を保留し、自分が描いていた家庭生活のビジョンとは異なる形であっても、マリアとイエスを愛し、受け入れ、驚くべき神秘を信仰をもってそのままに受け取りました」と語られた。

 そして、「たとえば、司祭がある小教区に新たに派遣されるとき、彼はその小教区の歴史や豊かさや問題点を見ることになりますが、自分の理想や計画をいきなり押し付けようとせず、まず、共同体を『無償で愛する』ことが大切です… そのように愛するうちに、その共同体を深く知ることで、新しい道を見出すことができるでしょう」と説かれた。

 また、「聖ヨセフは『守る父』であり、『守り、保護する』ことは、ヨセフの召命と使命の本質です」と指摘。「ヨセフは、神から託されたマリアとイエスを、目立たず、謙遜な、沈黙の態度のうちに、常なる寄り添いと完全な忠実をもって守り、彼らの善と幸福を願い続けたのです」と語られた。

 「ヨセフにとってそうであったように、司祭にとっても、『守る』ということは、託された人々を優しさをもって愛し、彼らのためを常に優先すること… 『守る』とは、目覚め、祈る心を持ちながら、常に他者を見つめる内的な態度です」と述べられた。

 さらに、教皇は、「聖ヨセフは『夢見る父』… それは、『現実から離れた夢見人』を意味するのではなく、目の前に見ているものの彼方を『預言的眼差しで見、神のご計画をそこに認める力を持つ人』のこと。実際、ヨセフは、マリアとイエスの中に、神の働きと、神の現存を見ていたのです」とされた。

 そして、司祭も、「愛する共同体をただ守るだけでなく、宣教的な視点で、その回心と刷新と成長を助けなければなりません」と諭された。

 最後に、「神の御旨に忠実に、託された大きな使命を謙遜と従順のうちに、創造的に遂行する僕、ヨセフの姿を、この特別年に祈りにおいて観想するように」と勧められた。

 この日の会見は、ベルギー神学院の創立175周年を記念して行われたもの。ベルギー司教団の支援を受けており、後に聖ヨハネ・パウロ2世教皇となるカロル・ヴォイティワ神父も、1946年にポーランドで司祭に叙階された直後、ローマへ派遣され、この神学院で生活しながら教皇庁立聖トマス・アクィナス大学(アンジェリクム)に通っておられた。

(編集「カトリック・あい」)

 

2021年3月19日

♰「私も(あのシスターのように)ミャンマーの街路に跪く-暴力は止めなさい!」

(2021.3.17 バチカン放送)

 教皇フランシスコは17日の水曜恒例の一般謁見で、、ミャンマーの緊迫した情勢に対し、暴力の停止を強く訴えられた。

 「ミャンマーの悲劇的な状況を前に、大きな悲しみと共に、再びアピールしたいと思います」とされた教皇は、「ミャンマーでは、若者たちをはじめ、多くの人が祖国に希望をもたらすために、命を落としています。私も(注:警察の保安部隊の攻撃を止めるために、彼らの前に跪いたシスターのように)ミャンマーの街路に跪いて叫びます。『暴力を止めてください!』。そして、腕を広げて叫びます。『対話が勝りますように!』」と語られた。

  *教皇は、シスター、ヌ・ソーンの勇気ある振る舞いに倣われた

(2021.3.17 Vatican News)

 このように 語られた時、教皇は明らかに、さる2月28日にミャンマーのカチン州で起きた”事件”を思い起こされていた。

 同州の州都の街頭で、一人の勇気あるシスター、ローズ・ラサン・ヌ・ソーン平和行進をしている人々に警察の治安部隊が暴力で抑えつけようとするのを、思いとどまらせたことを。彼女は、治安部隊の前に1人で立ちふさがり、跪き、祈った。彼女を追い出そうとした治安部隊の責任者に「どうしても私をどかせたいなら、撃ちなさい。抗議している人たちは武器を持っていない。平和的に彼らの要求をしているだけです」と語り、それを拒んだ。結局、治安部隊はそれ以上の行動を諦めて退散したのだった。

 彼女の大胆な行為を撮影した動画は、(注:「カトリック・あい」を始め)さまざまなメディアネットワークで、ソーシャルメディアで世界的な話題になり、英国国営 BBCを含む報道機関でも取り上げられた。

 ミャンマーでは2月1日の軍事クーデターで選挙で選ばれた政府を追放し、その指導者であるアウンサン・スーチー女史を拘束して以来、混乱状態にある。軍、警察の治安部隊による激しい弾圧にもかかわらず、クーデターに対する抗議と市民的不服従キャンペーンが続いている。政治囚人支援協会の活動家グループによると、180人以上の抗議者が殺害された。

 こうしたミャンマーの軍、警察の残虐行為に国際社会の批判が強まる中で、カトリック教会も、教皇フランシスコはじめ、世界中のいくつかの国の教会指導者、司教協議会が、民主選挙によって国民から選ばれた指導者たちの解放、民主政治の復活を求め、対話と平和回復を訴えてきている。

 (翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年3月17日

◎教皇連続講話「祈りについて」⑲「聖霊は、祈りの『内なる達人』『生ける伝統職人』」

Pope Francis at the General Audience - file photoPope Francis at the General Audience – file photo  (Vatican Media)

*炎を生き続けさせる

 そして、これは、「慈悲、奉仕、祈りで、聖霊によってキリストの『尺度』をもって形作られた多くの祈る人々が、経験することであり、修道士と隠修士だけでなく、神との対話の長い歴史を紡いできた一般人が経験すること」とし、「神を探し求める人々は、福音の中に、聖体の中に、そして助けを求めている人々の顔の中に、『秘められた炎』のように臨在される神を、お守りするのです」と述べられ、「このような神の臨在の炎を生き続けさせることは、『キリスト教徒の第一の仕事』であり、カトリック教会の幕屋にご聖体が臨在する前に昼夜を問わず燃える光のランプによって象徴される仕事です」と強調された。

*キリスト教の祈りの達人

 最後に教皇は、「カトリック教会のカテキズム」を再度引用され、「聖霊は、キリスト教の祈りの『内なる達人』… 祈りの『生ける伝統職人』です。祈りを捧げる人それぞれの独特で様々な『沢山の祈り方』を鼓舞するのが聖霊です… 終わることの聖なる地で、唯一の神、愛の三位一体は、さまざまな証しを花開かされますーすべては尊厳さにおいて等しいが、神の慈しみがご自分の子どもにされる一人ひとりの中に表されること、聖霊が望まれる素晴らしさにおいても、他に類を見ないのです」と述べられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年3月17日

♰「神の愛に感謝し、愛の業の中で福音を伝えて」‐教皇、フィリピン福音宣教500年記念ミサ

(2021.3.14 バチカン放送)

 教皇フランシスコは14日、フィリピンへの福音宣教500年を記念するミサをバチカンの聖ペトロ大聖堂で捧げられ、福音宣教省長官でフィリピン出身のアントニオ・タグレ枢機卿らによる共同司式で捧げられたこのミサには、ローマ在住のフィリピン人共同体が参列した。

 ミサの開始にあたり、フィリピンの聖歌が合唱される中、同国の宣教の歴史を象徴するマゼラン・クロス(セブ島を訪れたポルトガル人航海者フェルディナンド・マゼランが、1521年に建てた十字架)を思い起こさせる木の十字架を掲げ、同国で人々の深い信心を集めるサント・ニーニョ(幼きイエス)像を携えた信者たちを先頭に、入祭の行列が行われた。

  教皇はミサの説教で、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ福音書3章16節)という、ニコデモとの対話でのイエスの言葉を取り上げ、「ここに福音の中心、私たちの喜びの基礎があります」とされ、「神は私たちをいつも愛をもって見つめられ、その愛ゆえに、人となられた御子において私たちに会いに来られました… 神はこれほどまでに私たちを愛されたために、ご自身を私たちに与えることさえ厭わなかったのです」と話された。

 そして、「私たちはしばしば、はかない幻想や、虚栄、物質的安心、作り上げた自己のイメージなど、喜びのない場所に喜びを見出そうとしています… だが、人生経験が教える真の喜びとは、私たちを見返りを求めずに慈しみ、見守り、困難の時に救いの手を伸ばしてくださる神の愛を実感すること」と強調された。

 「フィリピンにキリスト教が伝えられてから500年が経ち、『神はその独り子をお与えになったほどに私たちを愛してくださった』という福音の喜びを、皆さんは知りました」としたうえで、「このキリスト教のメッセージを他の人々にも、もたらし、神の寄り添いの福音を兄弟たちに対する愛の業の中で伝えてください」と信徒たちに求められた。

 また、フィリピンの人々がローマと全世界のキリスト教共同体や家庭にもたらす信仰の証しに感謝され、「マリアとヨセフの生き方のように、神は、人々の謙遜で隠された、勇気と忍耐ある奉仕を通して信仰の喜びを伝えることを愛されます」と説かれた。

 最後に、「私たちのためにご自身を与えられるほどの神の愛」を観想された教皇は、「その愛に応え、裁くのではなく、受け入れ、押し付けるのではなく、種を蒔き育て、罪に定めるのではなく、救いであるキリストをもたらす」という教会の使命を強調された。

(編集「カトリック・あい」)

2021年3月15日

♰「イエスは神の愛に私たちの心を開く光」‐四旬節第四主日の正午の祈りで

Pope Francis greets the faithful in St. Peter's SquarePope Francis greets the faithful in St. Peter’s Square  (Vatican Media)

(2021.3.14  Vatican News  Devin Watkins)

    教皇フランシスコは14日、四旬節の第四主日の正午の祈りに先立つ説教で、イエスの”アイデンティティー”を取り上げ、「神の愛に私たちの心を開くイエスの光を進んで受け入れ、イエスに赦しを願うように」と信徒たちに強く促された。

 説教の中で教皇はまず、「四旬節の第4日曜日がなぜ、そのように喜ばしさに焦点が当てられているのでしょうか」と問いかけられた。

 そして、「理由は、(この日のミサで読まれた)ヨハネ福音書にあります」とされたうえで、「この喜びのメッセージは、キリスト教の信仰の核心です。神の愛は、弱く、罪深い人類に御子を贈られたことで、頂点に達しました」と語られた。

*十字架に上げられた「人の子」

 ヨハネ福音書の3章14‐21節では、ニコデモがイエスのところに来て、イエスご自身について問いかける。この問いに対して、「イエスは、三つの側面からご自身を示され、ニコデモの(ユダヤ教の伝統的な)信仰を揺るがします。それは、十字架に上げられた『人の子』、救いのためにこの世に送られた『神の子』、そして、真理に従う者と虚偽に従う者を真実に従う人々を識別する『光』です」と教皇は語られた。

 そして、この三つのうちの最初の「上げられた『人の子』」は、「荒れ野で人々が噛まれて死ぬことのないように、モーセが上げた『蛇』を連想させます… 荒れ野の蛇と同じように、イエスは十字架に上げられることで、イエスを信じる人々は罪を癒され、生きるのです」と説かれた。

*救いの「光」をもたらすために来られた

 二つ目の側面である「神の子」は、人類の救いのために神が御子を贈り物とされたことを示している、と教皇は指摘。「神は、私たちが永遠に救われることを切望され、イエスの使命はすべての人の救いなのです」とされた。

  イエスはまた、ニコデモに、ご自分は闇に対する「光」だ、と語られているが、 教皇は、「イエスがこの世に来ることは選択につながります。闇を選ぶ者は裁きを受け、光を選ぶ者は救いを受けることになる… その 裁きは、私たち自身の自由な選択の結果です。(ヨハネ福音書でイエスが語られているように)悪を行なう者は闇を好み、真理を行なう者、つまり善を実践する者は光の方に来るのです」と述べられた。

*「光」を喜んで受け入れよう

 最後に教皇は、「キリストの光に向けられた者として、四旬節の旅を続けるように」と信徒たちに促され、「 神の無限の愛へ、優しさと善に満ちた神の憐れみへ、心を開くために、私たちの良心に『光』を喜んで受け入れるように、招かれているのです。 神は、私たちが神に願う時、いつも私たちの罪を赦してくださいます」と説教を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2021年3月14日

♰「赦しの秘跡の中で、人々が神の愛に出会えるように奉仕しよう」内赦院セミナー参加者たちに

教皇フランシスコと内赦院セミナー参加者との出会い 2021年3月12日 バチカン・パウロ6世ホール教皇フランシスコと内赦院セミナー参加者との出会い 2021年3月12日 バチカン・パウロ6世ホール  (Vatican Media)

(2021.3.12 バチカン放送)

 聴罪司祭を対象とした内赦院主催「赦しの秘跡」セミナーの最終日の12日、教皇フランシスコが参加者とお会いになり、赦しの秘跡の意味を「神の愛にゆだねる」「愛に変容される」「愛にふさわしい者となる」という3つの表現をもって説明された。

 「信仰とは、神の慈しみとの出会いであり、その憐み深く寛大な神の愛の中に完全に自分を委ねること」とされた教皇は、「悔い改める者は、赦しの秘跡の対話の中で、自分を受け入れてくれる愛の光と出会い、その愛と恵みによって変容され、『石の心』が『肉の心』となっていくのを体験することになります」と語られた。

 そして、「真に回心を願う者は、自分が神から受けた愛にふさわしい者になろうとします… 神の愛に受け入れられた者は兄弟を受け入れ、神の愛に自らを委ねた者は苦しむ人を慰め、神に赦された者は兄弟を心から赦します」と説かれた。

 最後に教皇は「私たち一人ひとりが神から赦された罪人であることを思い出しながら、私たちを変えたその同じ神の愛に、人々が赦しの秘跡の中で出会えるように奉仕しましょう」と参加者たちを促された。

 内赦院は、教皇庁の裁判所の一つで、ゆるしの秘跡や贖宥(しょくゆう=教会の与える有限の罰の償いの免除)に関する問題を扱う。毎年、復活祭に備える悔い改めの期間「四旬節」には、内赦院が主催して、聴罪司祭を対象にした「ゆるしの秘跡」について考えるセミナーを開いている。

(編集「カトリック・あい」)

2021年3月13日

♰「兄弟愛はイラクと全世界にとっての挑戦的課題」教皇、一般謁見で

 (翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年3月10日

♰「アブラハムに倣い、希望のうちに歩もう」-教皇、イラクの人々へメッセージ

(20213.4 バチカン放送)

 教皇フランシスコが4日、翌日5日からのイラク訪問を前に、イランの人々に向けてビデオ・メッセージをおくられた。メッセージの内容次の通り。

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 イラクの親愛なる兄弟姉妹の皆さん、あなたがたの上に平安がありますように!

 間もなく、やっと念願がかない、私は皆さんとご一緒することができるでしょう。皆さんとお会いし、様々な顔を見つめ、古いたぐいまれな文明のゆりかごである皆さんのお国を訪れることを、私は強く望んでいました。

 何年もの戦争とテロリズムの後、赦しと和解を主に祈り求めるため、心の慰めと傷の癒しを神に願うために、私は悔悛の巡礼者としてまいります。平和の巡礼者として訪れ、「あなたがたは皆、兄弟です」(マタイ福音書23章8節参照)と繰り返すために。

 そうです、平和の巡礼者として、兄弟愛の追求のもとに、皆さんのもとを訪れたいと思います。「イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒を、ただ一つの家族として一致させる、父祖アブラハムのしるしのうちに、共に祈り、歩みたい」という望みに動かされてまいります。

 親愛なるキリスト教徒の皆さん、非常に辛い試練の中でイエスにおける信仰を証ししたあなたがたに、お会いするのを待ちきれない思いです。

 殉教者としての一つの教会との出会いを光栄に思います。皆さんの証しに感謝します。あなたがたが目にした多すぎるほどの殉教者たちの存在は、私たちが愛の謙遜な力をもって耐えることを助けてくれます。

 皆さんの目にはいまだに破壊された家屋や冒涜された教会の姿が焼き付き、心には失った親しい人々と置き去りにした家々に対する傷が残っています。

 私は皆さんに全教会の愛情あふれる思いをお伝えしたいと思います。全教会は、あなたがたと傷つき苦しむ中東に心を寄せ、皆さんが前に進めるようにと応援しています。

 皆さんが体験した恐ろしい苦しみ、私の心を痛めるその苦しみが、これ以上大きくなることを許すことはできません。広がる悪を前にあきらめることはできません。

 皆さんのお国の古い叡智の泉は、希望するすべもなかった時に、なおも望みを抱き(ローマの信徒への手紙4章18節参照)、神を信じて、天の星の数ほどの子孫を与えられたアブラハムのように、私たちを遠くに導き出します。親愛なる兄弟姉妹の皆さん、星を見上げましょう。私たちの約束はそこにあります。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、私はここ数年、皆さんのことを思い続けていました。皆さんは大きな苦しみの中にも、完全に打ちのめされることはありませんでした。キリスト教徒、イスラム教徒、そして、ヤジディ教徒の皆さん。ヤジディ教徒の皆さんは非常に苦しみました。皆、すべての人は兄弟です。

 これから私は、祝福されていると同時に、傷つけられた、皆さんの地を希望の巡礼者として訪れます。

 ニネベからは、ヨナの預言が響いてきます。それはニネベの都の滅びを防ぎ、新しい希望、神の希望をもたらしました。 私たちも、復興と再出発を励ますこの希望に触れようではありませんか。

 新型コロナウイルスの大感染によるこの困難な時代、兄弟愛を強めるべく助け合い、平和な未来を共に築きましょう。すべての宗教の兄弟姉妹たちと皆で力を合わせましょう。

 数千年前、皆さんの地でアブラハムは歩み始めました。今は、私たちが、同じ精神をもって、平和の道を共に歩み続ける時です。そのためにすべての皆さんに、いと高き神の平和と祝福を祈ります。 そして、すべての方々に、アブラハムのように希望のうちに歩むようお願い申し上げます。希望のうちに歩み、天の星を見つめ続けましょう。

 皆さん、どうか私の訪問を祈りと共に見守ってください。ありがとうございました。

(編集「カトリック・あい」)

2021年3月5日

♰「ミャンマー国民の願いが押しつぶされぬように」教皇、死者への哀悼と当事者の和解訴えーだが3日は死者38人以上と最悪の事態に

(2021.3.4 カトリック・あい)

 教皇フランシスコは3日の水曜恒例の一般謁見で、軍のクーデター後、多数の死傷者を出す騒乱が続いているミャンマー情勢に触れ、民主政治回復と指導者たちの回復を求める民衆と治安部隊の衝突で多くの人命が失われていることに深い悲しみを示された。そして、当事者たちに「抑圧よりも対話が、不和よりも調和が勝ること」を強く認識するように求めた。

 また教皇は、国際社会に対しても、「ミャンマー国民の願いが、武力によって押しつぶされないように、働きかける」ように訴え、「『出会いと和解』が『憎しみと不正』に取って代わる未来」への希望が、この国の若者たちに与えられるように祈られた。

 さらに、教皇は、先月の駐バチカン外交団との新年会見でも述べたように、ミャンマーでここ数年進展した民主化の歩みが再び始まることを希望するとともに、軍が逮捕・拘禁している民主政治指導者たちの釈放をアピールされた。

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 だが、教皇がミャンマーについて言及されたこの3日には、少なくとも38人が死亡する、2月1日の軍事クーデター発生以後の最悪の日となった。各国の報道機関が4日伝えるところによると、国連のクリスティン・ブルゲナー事務総長特使が現地からの情報として明らかにしたもので、治安部隊は、抗議行動を続ける市民たちに対して、実弾などを発砲している。クーデターが起きた2月1日以来の死者は50人を超え、けが人も多数に上っている、という。

2021年3月4日

◎教皇連続講話「祈りについて」⑱私たちは祈りを通して、父と子と聖霊に近づける

(2021.3.3 Vatican News  Christopher Wells)

   教皇フランシスコは3日の一般謁見で、前週に続いて「祈りについての」講話をされ、「祈りと三位一体の関係を」テーマに、「祈りが愛である神の大海へ私たちの心を開いてくれたのは、イエスのおかげ。私たちは祈りを通して父と子と聖霊に近づくことができる」などと語られた。

 

*神の前に私たちは貧しい

講話で教皇はまず、「すべての祈りが同等であるとは限らない」とされ、「おそらく神は、私たちの祈りに満足しておられず、私たちもそれに気づいていません」と語られ、アッシジの聖フランチェスコの言葉「あなたの名前を語るのにふさわしい人はいません」、そして、私たちが毎回のミサの中で繰り返しているマタイ福音の百人隊長の言葉「主よ、私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません」(8章8節)を引用された。

そして、「そのような私たちを、神がなぜ、これほどまでに愛されるのか、神がなぜ私たちの祈りを聴いてくださるのか。はっきりした理由はわかりません。歴史を通して、人々は、神々を、あるいは異教の神々を、人間の出来事とは離れた、ないしは関心をもたない存在として見てきました」とし、「しいて言えば、神を説得し、喜ばせようとするのは、私たちです」と語られた。

*人類を愛する神

教皇は、人類を愛してくださる神を信じる「勇気」を持つことができるのは、イエスを通してだけであり、「私たちは、イエスが話された慈悲深い父のたとえ話、失われた羊を探しに行く羊飼いのたとえ話で、神の愛を知りますが、私たちがイエスに会わなければ、そのような話を想像することも、理解することもできなかったでしょう」とされた。

「どのような神が、人のために死ぬ用意ができるでしょうか?どのような神が、見返りに愛されることを求めることなく、常に、辛抱強く、愛するでしょうか?どのような神が、事前に遺産の分配を要求し、家を出て、散在してしまう、感謝のかけらも持たない息子を受け入れるでしょうか?」と教皇は問いかけた。

そのうえで、教皇は、イエスが私たちに「神の父としての親密さ、思いやり、そして優しさ」を教えるのは、イエスの生きざまと、私たちのために命を捧げようとするイエスの意思を通しである、と説かれ、「三位一体のおける父と子と聖霊の互いの愛を理解することは、私たちはできません。そしてイエスなしには、この神の愛が広がり、私たちの岸に及ぶことを、私たちが理解し始めることはなかったでしょう」と説かれた。

最後に教皇は、「カトリック教会のカテキズム」を引用して、「したがって、イエスのもつ神聖な慈悲の心は、私たちの父なる神に祈るように聖霊が教える道なのです」と語り、「それは、私たちの信仰の恵み。私たちはより高い召命を期待することはできなかったでしょうーイエスの慈悲の心は、三位一体の命そのものを私たちにくださるのです」と締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年3月3日