♰教皇の「受難の主日」ミサでの説教「イエスに 感動する恵みを願おう」

(2021.3.28 Vatican News staff writer)

 教皇フランシスコは28日、聖ペトロ大聖堂で「受難の主日(枝の主日)」のミサを司式され、この厳粛な祝い を特徴づけ、聖週間を通して私たちと共にある、内なる驚きの意義を強調された。 

 「受難の主日(枝の主日)」のミサは、新型コロナウイルスの大感染下で二年目、二回目となり、限られた大聖堂への参加者は限定され、インターネットやテレビ、ラジオを通して世界中の数多くの信徒が参加する形をとった。

 

*称賛から感動へ

 教皇は説教で、「今日の典礼と聖週間のすべてにおいて引き起こされた驚きの感覚」をテーマに取り上げられ、まず、その理由について、「イエスがエルサレムに入られる時の大歓迎の喜びが、一転して、イエスが死刑を宣告され、十字架につけられる悲しみに変わるからです。私たちは、群衆がイエスを『ホサナ』と大声で叫び、その数日後には『十字架につけろ』と声を上げるのを聞きます」と語られた。

 そして、この極端に対照的な人々の反応は「人々がイエスを称賛はしたが、感動することはなかった、ということを反映しています」と述べ、「称賛と感動の言葉遣いは根本的に異なります。『称賛』は、自体の好みや期待によるために、『現世的』になりえますが、『感動』は、他者についての驚きと、他者がもたらす新しさにたいして常にオープンで、結果として、私たちの態度と人生を変えることを可能にします。私たちは、イエスをただ称賛するのでなく、イエスに倣い、イエスから挑戦を受けるようにして、称賛から感動に変えねばならないのです」と説かれた。

 

屈辱をくぐって栄光へ

 また、主とその過ぎ越しは、「主が屈辱を通して栄光を成し遂げる時、私たちを驚かせます… 苦しみと死を受け入れることによる勝利は、賞賛と成功を追い求める私たちには避けたいものです… しかし、イエスは私たちのために、人間的な体験をされ、その存在と弱さの深みに歩みを進め、そうなさったのです。私たちに近づき、私たちを苦しみと死の中に打ち捨てず、私たちを救い出すために、です」と述べられ、「このようにして、主は、私たちの最も辛いあがきと葛藤を請け出し、変容なさいました… 神は勝利しますが、勝利のしゅろの葉は”十字架の森”をくぐるのです」と強調された。

*感動する恵みを願う

 そして、「私たちは、常に赦しと新たな始まりの可能性をもたらすイエスの愛によって『驚き、感動する』ことを覚えているべきなのに、『感動する心を失った信仰』は、そのことに鈍くなる可能性があります」とされたうえで、「感動する恵みを受けるために、神の限りない愛に心を動かされるために、そして、感動を経験するのを妨げるかもしれない後悔や失望を手放すために、十字架を仰ぎ見ましょう」と勧められた。

「主よ、あなたが私をどれだけ愛されていることか!」

 さらに、教皇は「私たちが再び生きることを始めされるように、イエスに感動させられましょう… 私たちが仰ぎ見る十字架の上のイエスに、愛されていることに気付きましょう」と呼びかけられ、「感動の恵みは、私たちの周りにいる、職を無くし、見捨てられた人、人生でひどい扱いを受けた人を進んで受け入れる、という行為の中で、『私たちがイエスを愛している』ことにも、気付かせてくれます」と説かれた。

*「まことに、この人は神の子だった​​!」

 また、イエスが息を引き取られたのを見て、ローマ軍の百人隊長は「まことに、この人は神の子だった​​!」と感嘆の声を上げたことについて、教皇は「イエスの無償の、前代未聞の愛を目撃した彼の驚きを強い証し」とされた。

 そして、「福音書には、イエスの奇跡と働きを称賛する多くの人々が登場しますが、キリストは彼らを黙らせました。なぜなら、そのような人々は、神の力、権力を崇め、力を崇拝し、恐れるという考えだけを抱く危険を冒したからです。そうした考えは、十字架のもとで導き出されるべきものです… 神は、武器を持たず、武器を持たせない、愛の力を持ってのみ、ご自身を現わされ、治められるーそれが、十字架につけられた主を見つめる時、感動で一杯になろう、を申し上げる理由なのです」と改めて強調。

 次の言葉で締めくくられた。「私たちもこう言いませんかーまことに、あなたは神の子です。あなたは私の神です、と」

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2021年3月28日