◎教皇連続講話「祈りについて」最終回・「十字架の上で、イエスは私たち1人ひとりのために祈られた」

Pope Francis blesses a priest at the weekly General AudiencePope Francis blesses a priest at the weekly General Audience  (Vatican Media)

(2021.6.16 Vatican News Christopher Wells)

 教皇フランシスコは16日の水曜一般謁見で、昨年5月から途中の7回を除いて続けて来られた「祈り」をテーマにした連続講話を締めくくられた。

 「祈り」の最終講話で、教皇は「覚えておくべき最も素晴らしいことは、『私たちが祈るだけでなく、私たちのために祈っていただいているーイエスと御父との対話において、聖霊との霊的交わりにおいて、私たちがすでに受け入れられている』という恩寵です」と強調された。

 そして、「祈りは、イエスの生涯における最も明白な特徴の一つ… なぜなら、御父との対話が、イエスの全存在の光り輝く核心だったからです」と語られた。

 

*信仰宣言の核心は

 そして、「イエスは地上での生涯を通して祈られましたが、その祈りは、生涯全体に光を当てる、信仰宣言の”核心”である受難と死に至るまでの日々の間に一層、激しいものとなりました… イエスは人間の苦しみや病気のケアをする博愛主義者ではなかった… 当時も今もこれからも、ずっとそうです」とされ、「死に対する生の決定的な勝利への希望を与える、完全な救い、救世主としての救いを、イエスは私たちにくださいます」と説かれた。

 さらに、「イエスは生涯最後の過ぎ越しの日々に、ひたすら祈られます。ゲッセマネでの苦悶の中で、主に対して親しさと信頼をこめて”アッバ―父よ”と神に語り掛けられ、十字架の上で、神が沈黙される中で、再び、父である神をお呼びになります」と付け加えられた。

*十字架は御父の贈り物を全うする

 また教皇は、「十字架は、私たちを救う代償として御子の無償の愛を提供される御父の賜物の完成です。世の罪をすべて負われたイエスは、神から離れた深淵に降りて行きますが、それでもなお、息を引き取られる前に、神を呼び求めますー『父よ、私の霊を御手に委ねます」と語られ、「イエスの祈りの神秘に浸るために、最後の晩餐でのイエスの祈りに注目しましょう… この祈りは、イエスの死と復活と同様に、創造と救済の摂理の全てを包含しているのです」と説かれた。

私たちは決して一人ではない

 そして、その時、イエスの祈りは「さらに熱を込めたものとなります。最後の晩餐にいた弟子たちのためだけでなく、私たち一人一人のために取り成してくださいます。私たち1人ひとりに『私は、最後の晩餐の席で、そして十字架の上で、あなたのために祈る』と話すことをお望みであったかのように、です」とされたうえで、最後に「私たちがもっとも辛い目に遭っているときでも、私たちは決して一人ではありません… 私たちはキリスト・イエスに賜物をいただきました。そしてイエスの受難、死と復活、すべてが私たちのために奉げられたのです」 と講話を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年6月16日

☩「コロナ禍で貧困対策、雇用対策は急務」ー教皇、「貧しい人のための世界祈願日」に向けて

カリタス・ローマ運営の複合支援施設を訪れた教皇フランシスコ 2019年11月カリタス・ローマ運営の複合支援施設を訪れた教皇フランシスコ 2019年11月  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは14日、カトリック教会の2021年度「貧しい人のための世界祈願日」(11月14日)に先立つメッセージを発表された。

 今年で第5回目を迎える同祈願日のテーマは「貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいる」(マルコ福音書14章7節)。

 メッセージで教皇は「貧しい人々は、あらゆる状況・場所において、私たちを福音化する。なぜなら、これらの人々は、御父の最も純粋な御顔を常に新しい方法で再発見させてくれるからです」とされ、「新しい福音宣教は、貧しい人々の救いの力としての存在を認め、それを教会の中心に据え、彼らの中にキリストを見出すように、と私たちに求めています」と訴えられた。

 さらに、「私たちの貧しい人々に対する寄り添いは、単なる行動や支援計画から成り立つのではなく、何よりもそれぞれの人を唯一の存在として認める『他者への関心』から出発する必要があります… この愛ある関心から、その人の善を願う真の配慮が生まれるのです」と説かれた。

 そして「イエスは貧しい人々の側にいるだけでなく、彼らと同じ境遇を分かち合いました… 『貧しい人々は、いつもあなたがたと共にいる』というイエスの言葉には、『貧しい人々はいつも私たちの間にいるのだから』と関心を払わないのではなく、これらの人々の中に積極的に入っていくように、との勧めが込められています」と強調。「貧しい人々は共同体の外にある存在ではなく、苦しみを分かち合い、その困難や疎外感を和らげるべき兄弟姉妹です。”慈善の行為”は、恩恵を与える人とそれを受ける人の関係を生むだけですが、”分かち合い”は兄弟愛を生みます」と指摘された。

 倫理的・社会的混乱が常に新たな貧困の形を生み、これに加えて、現在も続いている新型コロナウイルスの世界的大感染が貧しい人々をさらに増加させたことを憂慮され、特にいくつかの国々で、コロナ感染が与えた影響は深刻で、人々は最低限の生活もできなくなっています。世界全体でコロナ感染阻止に闘うだけでなく、「雇用問題への対応は急務」とされた。

 現在の世界の貧困問題について、教皇は、個人中心の生活スタイルが貧困の形成に関係していること、貧困の責任をすべて当人たちに帰す傾向があること、を指摘。「貧困は運命のなす業ではなく、人々のエゴイズムの結果です」と語られ、すべての人の能力を活かす発展プロセスの必要を指摘するとともに、「貧しい人々が、常に”受け取るだけの側”であってはならない」として、彼らが自らの能力を引き出せる環境を整えることの重要性を強調された。

 また、教皇は、「貧しい人々は分かち合いの模範。私たちに連帯と分かち合いを教えてくれる存在」とされ、イエスの「貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいる」(マルコ1福音書14章7節)という言葉は、「善を行う機会を見逃してはならない」という呼びかけだ、と説かれた。

 最後に、教皇は、今回が5回目となる「貧しい人のための世界祈願日」を世界各地の教会に根付かせ、貧しい人々との出会いを通して福音宣教活動を広げるように、と願われ、世界の信徒たちに、「貧しい人たちが扉をたたくのを待たないで、私たちの方から出かけて行きましょう」と呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年6月16日

☩「日々の暮らしの中に、隠れた神の働きを知る」教皇、13日正午の祈りで

Angelus 2021.06.06 Angelus 2021.06.06   (Vatican Media)

(2021.6.13  Vatican News staff writer )

   教皇フランシスコは13日、年間第11主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたマルコ福音書の箇所(4章26-32節)を取り上げ、「ここでイエスがお話しになっている二つの例え話は、神の神秘と人間の出来事がどのように展開するかについて語り、時には単調に、あるいは難しく思われるかも知れない私たちの日々の暮らしの中に、いつも『神が隠れておられる』ことを私たちに教えています」とされた。

 そして、「私たちには、すべてのことの中に隠れておられる神を探し求め、見つけるために、”注意深い目”が必要なのです」と説かれた。

*私たちの暮らしの中に働いておられる神

 たとえ話の二つ目「からし種の例え」で、イエスは、神の王国ーすべてのものの中心におられるご自分がおられる王国ーを、地に蒔くと大きな木に育つ小さなからし種に例えておられる。

 「この例えは、私たちの生活と世界の中で、神がどのように働いておられるか、を示しています。問題は、日々の忙しい生活が、時として、その現実を見るのを妨げること。でも、神は、小さな種ーひっそり、ゆっくりと芽を出し、全ての人に命と安らぎを与える青々とした大きな木に育つ種ーのように働かれます」と教皇は語られた。

 そして、このような神の”種”と比べれば、「私たちの善い働きの種は小さく見えるかも知れませんが、その働きの全ては、神にとって良いもの。善は、いつも謙虚で、隠れた、しばしば目に見えない形で成長するのです」とされた。

*コロナ禍から立ち直る力は「隠れた神」への確信に

さらに教皇は、「この例え話は、私たちに自信を与えてくれるはずです」と語られた。

 「私たちは人生で何度も、『善は弱く、悪が”最後の言葉”を持っている』と考え、落胆するかも知れない。懸命に働いても、期待したような結果や変化がもたらされないかも知れない。それでも、私たちは、様々な疑惑に打ち負かされてはなりません。福音は、謙虚な愛をいつも私たちの生活の”土”、歴史の”土”の中に働かせておられる神の存在を見ることのできる、大きく開いた目で、外見に惑わされることなく、自分自身と現実に注視するように、私たちに呼びかけているのです」と述べられた。

 そして、「この確信をもって、私たちは、日々、前進し、忍耐強く、実を結ぶであろう善の種を蒔く力を得る。そうした姿勢が、新型コロナウイルスの世界的大感染の打撃から立ち直るために必要です。社会を再建し、忍耐と不屈の努力をもって再度、歩み始めるための、『神の手の中にあるのだ』という確信です」と説かれた。

*教会の中にさえある”疑惑の雑草”に注意を

 また教皇は、「私たちが注意する必要があるのは、信仰の危機、うまくいかないように思われる様々な計画や活動とともに、カトリック教会の中にさえも存在する”疑惑の雑草”です」と警告する一方、「ここでの助けは、種まきの結果は、私たちではなく、神の働きに依る、だから、私たちに必要なのは、愛と献身と忍耐をもって、種をまくこと」とされた。

 さらに、「種の力は神から授かったもの。今日のミサで読まれた福音書のもう一つのたとえ話は、『畑に種を蒔いた農夫が、自分が知らぬ間に種が芽を出し、成長していったことに驚いている』というものですが、これは『どんなに不毛の土地であっても、常に希望がある』ということを教えているのです」と指摘。

 教皇は説教の終わりに、聖母マリアに、「ささいなことの中に働かれる神の偉大さを知るように、私たちに教えてください。主に信頼し、希望を持ち続けることができるように助けてください」と願われた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年6月13日

◎教皇連続講話「祈りについて」㉚「私たちの祈り、生活、信仰が、キリストの命の炎を燃やし続ける」

(2021.6.9 Vatican News Christopher Wells)

 教皇フランシスコは9日の一般謁見で、「祈りについて」の講話をお続けになり、絶えることのない祈り、信仰、そして日々の生活の関係について語られた。

 昨年5月に始められた「祈りについて」の連続講話は来週が最終回となるが、そのひとつ前のこの日の講話で、教皇はまず、「祈りにおける根気強さ」、聖パウロがテサロニケの信徒への手紙(1・5章17‐19節)に書いた「絶えず祈りなさい」の意味について考察された。

 教皇は、聖パウロのこの勧めは、19 世紀の作者不明の著作「The Way of the Pilgrim」に登場するロシアの巡礼者の旅からインスピレーションを得たもので、その巡礼者がイエスの祈りを「少しづつ、呼吸のリズムに合わせて、一日を通してすること」を学んだことを想起された。

*祈りは、私たちの心の中に燃える聖なる火

 続いて教皇は、「カトリック教会のカテキズム」に書かれた霊性の歴史のいくつかの箇所に目を向けられ、「祈りは、古代の寺院で燃やし続けられていた聖なる火のように、消してはならないキリスト教徒の生活における熱意を保ちます。私たちの中にも聖なる火があるに違いなく、それは絶え間なく燃え続け、何事も消すことはできない」と指摘。

 そして、聖ヨハネ・クリソストム(コンスタンティノープルの偉大な伝道者で、司教である教父)の生涯を振り返り、「祈りは、私たちのすべての行動の一部になり得ることを示し、私たちの日々の生活の義務を行なうことを妨げたり、それと矛盾したりすることはなく、日々の生活に意味と平和を与えます」とされた。

*仕事と祈りの内なるバランス

 教皇はまた、「絶え間なく祈ることは、決して容易ではありません」としたうえで、「日々の生活の義務を果たすことに追われ、神のことを考えるのが難しいと感じたとき、私たちは、神が創造のあらゆる面を気にかけておられる中で、私たち一人一人についても覚えていてくださる、思い起こす必要があります。 ですから、私たちもいつも神をを覚えていなければなりません」と説かれた。

 さらに、修道僧の例を挙げ、仕事と祈りの間の「内面のバランス」が重要であることを強調され、「抽象的すぎる祈りは現実とのつながりを失ってしまいますが、仕事は私たちを地に足のついたままにしてしまいます。だが、修道僧の手は、肉体労働から抜け出ています」と語られた。

 一方で、祈りは仕事を補完するものであり、私たちが行うすべての「呼吸」であり、「仕事への生きた背景」。「仕事に没頭し、もはや祈りの時間が取れない、というのは、非人道的です」と述べられた。

*炎を生かし続ける

 最後に、教皇は、イエスの変容の出来事を想起され、「イエスは、恍惚、熟考の時を長くお続けになることをせず、弟子たちと共に日々の旅を再開されました。しかし、タボール山での経験は、『信仰の光と力』として弟子たちの心に残ったのです」と語られ、「信仰、生活、祈りのつながりの中で、人は、神が私たち一人一人に期待されるキリスト教徒の命の炎を灯し続けるのです」と説かれた。

 (翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年6月9日

☩「私たちの聖体祭儀が世界の変容につながるように」教皇、「キリストの聖体の主日」ミサで

(2021.6.6  Vatican News staff writer)

   教皇フランシスコは6日夕、聖ペトロ大聖堂で「キリストの聖体の主日」のミサを捧げられ、説教の中で、私たちが人生の旅を続けるために、主の臨在と愛、そして永遠の命の食べ物と飲み物を必要としていることを強調された。

 説教で教皇はまず、ミサの言葉の祭儀で読まれたマルコ福音書(14章12-16, 22-26節)  から三つの場面を取り上げられた。

*「神への渇望」を自覚する

 第一の場面は、弟子たちが、水がめを運んでいる男性に付いて、イエスと一緒に過ぎ越しの食事をする宿屋に行き、そこの主人に二階の部屋に案内してもらう場面だ。

 教皇は「この場面は、『私たちの神への渇望ー私たちが、神の必要を感じ、神が側にいて、愛してくださることを望み、一人では歩むことはできず、旅を続るために永遠の命の食べ物と飲み物を強く望んでいること』を自覚するにとの呼びかけ、とみることができます」と指摘。

 「残念なことに、今の世の中では、神への渇望は弱くなっていることから、教会は、人々と出会い、神への渇望、福音の熱望を知り、回復させる方法を学ぶように、呼びかけられているのです」と強調された。

*私たちと教会に必要な大きな心、”大きな部屋”

 二つ目の場面は、イエスと弟子たちが過ぎ越しの食事をする部屋。

 教皇は、その部屋は「小さなパンのための大きな部屋」で、「そのことが象徴しているのは、『神が、ご自身をパンの一切れのように小さくされること』であり、『私たちが、神を知り、崇敬し、受け入れるために大きな心を持つこと』 」とされ、「私たちは、自分の殻から抜け出し、神の謙虚で無限の愛の臨在を驚き讃える大きな広がり経験するために、二階の部屋の大きな空間に入っていくために、心の空間を解放する必要があります… それが、崇敬が、ご聖体の臨在に私たちが必要とする態度であることの理由なのです」と説かれた。

 さらに、教皇は、これは教会についても言えることであり、「教会は、”大きな部屋”でなければなりません。小さな、閉鎖的な空間ではなく、『大きく両腕を広げ、すべての人を歓迎する共同体である必要があります」とし、「聖体祭儀は、旅の途中で疲れ、空腹になった人たちに、滋養のある食べ物を提供するもの」とされる一方、「”純粋で完全”な教会は、誰のいる場もない部屋と同じです」と指摘された。

*キリストに倣い、私たちも”裂かれたパン”になる

 そして、最後の場面は、一同が食事をしているとき、イエスがパンを裂かれた場面だ。

 教皇は、「これは、聖体祭儀の頂点です。私たちの信仰の際立ったしるし… 私たちが新しい命に生まれ変わることができるように、ご自身を捧げられる主に出会う場所」とされた。

 そして、「イエスは私たちに命を与えるための贖いの小羊となられます。聖体祭儀において、私たちは愛の神を深く思い、賛美します… 主の無限の愛と贈り物に感謝し、聖体祭儀を行ない、経験することによって、私たちは、この愛を共有しますが、それにとどまらず、私たちの兄弟姉妹に心を開き、彼らの苦しみを共にし、彼らが必要とする助けを行なうように、私たちの心を開かねばなりません」と強調。「私たちが行う聖体祭儀は、自分自身を変容させ、他の人のために裂かれたパンになるようにすることで、世界を変容させるのです」と指摘された。

 最後の教皇は、キリストの聖体の主日の特徴である聖体行列に触れ、「聖体行列は、私たちが外に出て、他の人たちのところにイエスをお連れするように求められていることを、思い出させてくれます」と述べられ、「私たちが日々の生活で出会う人たちにキリストをもたらすように、また、主を信じる人たちの共同体としての教会が『誰もが入って、主に会うことのできる、大きくて、皆を温かく迎え入れる部屋」になるように、熱心に努力するよう強く勧められた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年6月7日

☩「ご聖体の脆さの中に強さがあることを知る」ー「キリストの聖体の主日」正午の祈りで

Pope Francis during AngelusPope Francis during Angelus  (Vatican Media)

(2021.6.6 Vatican News  Linda Bordoni)

 キリストの聖体の主日の6日、教皇フランシスコは正午の祈りの説教で、聖体の秘跡の賜物について考え、イエスがなさったように、自身の命を賜物とするように、信徒たちにお勧めになった。 説教で、教皇はまず、この日のミサで読まれたマルコ福音書の「最後の晩餐」の後半の箇所(14章22‐26節)について取り上げられた。

 そして、「主の言葉と仕草は私たちの心に響きます…. 主はパンを手に取り、祝福して裂き、弟子たちに与えて言われましたー『これは私の体である』と。イエスは、単純明快な言葉をもって、分かち合う謙虚な仕草で、私たちに最高の秘跡をくださるのです」と語られた。

 *最も素晴らしいことは奉仕すること

 イエスが地上での使命を成就されようとする時、「多くの人たちの飢えを満たすためにたくさんのパンを配るのではなく、過越の祭に弟子たちと食事をされた」ことに注目された教皇は、「これは、イエスが、人生の目的は自分自身を捧げること-最も素晴らしいことは奉仕することだ、と私たちに教えておられるのです」とされ、また、一切れのパンに神の偉大さを見出すことに触れられ、「愛と分かち合いに満ち溢れた脆さー最後の晩餐で、イエスは、裂かれて粉々になるパンのように脆くなられますが、まさにその中に、イエスの強さが在るのです」と強調された。

 

*命を捧げる愛の強さ

 さらに「ご聖体の脆さの中に、強さがあります。喜んで受け入れられるように、恐れられないように、小さくなる愛がもつ強さです。裂かれて、分かち合われ、栄養を与え、命を与える、愛の強さ、私たちをばらばらにし、一つにする、愛の強さです」と語られた。

 続けて教皇は、ご聖体の脆さの中で際立っているもう 1 つの強さー過ちを犯す人を愛する強さについて、こう語られた。「イエスが、私たちに命のパンをくださるのは、”裏切られた夜”のこと。心に奥深い闇を感じながら、私たちに最高の贈り物をくださるのです。イエスと共に食事をしている、同じ皿に一切れのパンを浸す弟子が、彼を裏切る時に」「弟子の裏切りによる心の苦しみにもかかわらず、イエスは、この悪に対して、より大きな善で応じられます。罪人を罰するのではなく、彼のために命を捧げられるのです」。

 そして、「私たちがご聖体をいただく時、イエスは私たちに同じことをなさいますーイエスは私たちを知っておられ、私たちが罪人であり、多くの過ちを犯すことを知っておられますが、ご自分の命を私たちの命と共にすることをあきらめないのです」と説かれた。

*聖体はイエスと私たちをつなぐ

 「聖体は、「『聖人への報酬』ではなく『罪人のパン』」とされる教皇は、「私たちが『命のパン』をいただくたびに、主は、私たちの脆さについて、新たな意味をお与えになるために来られます」と語られ、「自分たちの脆さを主と分かち合わないようにすることが、あってはなりません。主の慈しみが、私たちの悲惨さにひるむことはないのです… 主は、自分で直すことのできない脆さー自分を傷つける人々に憤りを感じること、他の人々と距離を置き、自分自身の中に閉じ籠ること、自分を可哀そうに思い、平安を見つけられずに嘆く弱さーをもった私たちを、愛で癒してくださいます」と信徒たちを励まされた。

 最後に教皇は、「主は、私たちに、自分の殻から外に出、他の人々の脆さに対して、愛をもって腰を低くして接する勇気をくださいます。神が私たちになさるようにーこれが聖体祭儀の論理です。 私たちは他の人々を愛し、その脆さを助けるために、自分たちを愛し、その脆さを癒してくださるイエスを受け入れるのです」と語られ、「ご聖体の賜物を受け入れ、私たちの人生の賜物とできるように」と聖母マリアに助けを祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年6月6日

☩「地球の生態系破壊を食い止める『統合的エコロジー』の推進を」教皇、5日からの「国連生態系回復の10年」へ訴え

「国連生態系回復の10年」(2021‐2030)始まる「国連生態系回復の10年」(2021‐2030)始まる 

(2021.6.5 カトリック・あい)

 「国連生態系回復の10年」が5日の「世界環境デー」から始まった。教皇は開始に当たって、この取り組みの中心となる国連環境計画(UNEP)と国連食糧農業機関(FAO)にメッセージをおくられ、「全世界で生態系の破壊を食い止め、生態系回復への関心を高めることが、人類の『共通の家』へのいたわりとなること」へ期待を表明された。

 メッセージで教皇は「環境をめぐる今日の状況は、被造物を責任をもって守り、長い間破壊し搾取した自然を取り戻すことを急務となっていることを示しています」とされ、「それができなければ、私たちが依存している基礎そのものが破壊され、水害や飢餓など、現在だけでなく、未来の世代に深刻な影響を与えることになります」と訴えられた。

 そして、私たちが取り組むべき課題として、長期の計画を通して、自然への配慮と、貧しい人々に対する正義、社会における取り組み、内的な平和といったものの不可分性を明らかにし、あらゆるレベルでのエコロジー的な調和を回復する「統合的エコロジーの推進」と強く求められた。

 さらに、緊急の課題として、特に「新型コロナウイルスによる世界的大感染の早期終息」と「地球温暖化防止」を挙げられ、11月に英グラスゴーで開かれる国連気候変動枠組条約第26回締約国会議(COP26)が、環境対策と意識向上を通して、生態系回復に貢献することを希望された。

 教皇は、「生態系の荒廃は、経済の機能不全の明白な結果」とされ、「経済の意味と、その目的についての新たな深い考察」が求められていると説かれ、「破壊された自然を取り戻すことは、第一に、私たち自身を取り戻すこと。私たちが『回復の世代』として正しい役割を果たせるように願われた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「国連生態系回復の10年」(2021-2030)」は、2019年3月の国連総会で実施が決定していた。2030年までに、気候危機との闘い、食料安全保障と水供給、そして生物多様性の保全の強化における効果ある対策として、劣化あるいは破壊された生態系の回復を促進することを目指している。

 UNEPの発表によると、陸上生態系や海洋生態系の劣化によって世界32億人の健康・生活水準が低下し、世界のGDPの10%に相当する生態系サービスが損なわれている。国連は2030年までに劣化した土地を3,500万ヘクタール回復させる「ボン・チャレンジ」を進めており、これにより9兆米ドル相当の生態系サービスを生み出し、13Gtから26Gtの二酸化炭素を大気から固定することが可能になる、という。だが、ボン・チャレンジの下で、現在、57ヶ国政府や国際機関、NGO等が合計1,700万ヘクタールの回復を表明しているが、3,500万ヘクタールには遠い。 5日から始まった「生態系回復の10年」で、世界各国、国際機関の協力を強化、促する。

 

 

2021年6月5日

◎教皇連続講話「祈りについて」㉙イエスは、弟子たちの祈りの模範

Pope Francis holds his weekly general audience at the Vatican on June 2, 2021.Pope Francis holds his weekly general audience at the Vatican on June 2, 2021.  (Vatican Media)

(2021.6.2 Vatican News Robin Gomes) 

 教皇フランシスコは2日、水曜恒例の一般謁見で「祈りについて」の講話をお続けになり、福音書からいくつかの例を挙げて「祈りは、イエスの弟子たちとの関係の基本」であることを説かれた。

*使徒を選ぶ前に父なる神に祈る
 ルカ福音書では、「イエスが12人の使徒をお選びになる前に、山に登られ、夜を徹して神に祈られた」(6章12節)と書かれている。
 教皇は、「父との対話であるこの祈りが、使徒を選ぶ基準ですが、最上のものとは思われません。とくに、裏切り者となるユダを選んだことについては」とされたうえで、「しかし、使徒たちの名前は、神の計画の中に書かれていたのです。使徒たちは時として、イエスの心配の原因になりますが、彼らが過ちを犯したときや、彼らが堕落したときでさえ、イエスは慈しみを持ち続けました」と指摘。

 その理由は、「父から彼らを受け取ったからです。だから、使徒たちのための祈りは、イエスの生涯に繰り返し再現されるのです」と説明された。

*イエスは辛抱強く、回心を待つ

 最後の晩餐でのペテロに対する接し方で明らかなように、イエスは弟子の回心を辛抱強く待っておられる(ルカ福音書22章31-34節参照)。イエスはペテロのために、「信仰がなくならないように」と祈り、「立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」と彼に言われた。

 教皇は 「イエスは、弟子の心が弱っている時にも愛され、その愛は止まることがなく、さらに激しいものとなる。私たちも、イエスの祈りの中心にいるのです」と語られた。

 

*転機での祈り

 ルカ福音書9章18-20節は、弟子たちの信仰を確かめるために、イエスが一人で祈っておられる場面から始まる。集まって来た弟子たちに、イエスが「あなたがたは、私を何者だと思うのか」とお尋ねになると、ペトロは「神のメシアです」と答える。

 教皇は「与えられた使命を果たす大き転機を前にして、イエスは毎回、熱心で長時間にわたる祈りを捧げられます」、そして、ペトロの答えを受ける形で、イエスはご自分の死と復活を予告されるが、「このような信仰の試練は、弟子たちにとって、新たな出発点となるもの。彼らと私たちの反発を本能的に呼び起こす、イエスのこのような予告の瞬間に、祈りこそが、光と力の唯一の源となるのです」と強調。「”歩む道が上り坂になる”たびに、私たちは、いっそう熱心に祈る必要があります」と付け加えられた。

*イエスの姿が変わる

 ご自身の死と復活について予告されて八日ほど経った時、イエスの「変容」が起きる。ルカ福音書9章28-31節はそのことを伝えているーイエスは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられる句碑に、イエスの顔の様子が変わり、衣は広く光り輝いた。モーセとエリアが、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後のことについて、イエスと話していた…

 「イエスの栄光のこの瞬間は、祈りの中で行われ、子は父との深い交わりの中で、愛と救いの計画を完全に受け入れました」と教皇は語られ、その祈りの中から、イエスの変容に立ち会った3人の弟子たちに対して、「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」(9章35節)という声がくだった、とされた。

 

*イエスは私たちの祈りを完成させる

 教皇は、「このように、イエスは、私たちに、ご自分が祈るように祈りることお望みになるだけでなく、私たちの祈りへの試みが完全に無駄で効果がなかったとしても、いつもイエスの祈りに頼れる、と保証してくださいます」と信徒たちを力づけた。

 そして最後に教皇は、「たとえ、私たちの祈りが舌足らずであっても、揺れ動く信仰によって影響を受けたとしても、決して神を信頼することを止めてはなりません」「イエスの祈りに支えられて、私たちの臆病な祈りは、鷲の翼に乗って天に舞い上がるのです」とと強調して、講話を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年6月2日

☩「三位一体の神の生けるしるしは、全ての人への愛」教皇、正午の祈りで

Pope Frandis during Angelus Prayer, Saint Peter's SquarePope Frandis during Angelus Prayer, Saint Peter’s Square  (ANSA)

   教皇フランシスコは30日、「三位一体の主日」の正午の祈りの説教で、「至聖なる三位一体は、神の愛の素晴らしい奥義と、私たちの地上での旅を導かれる方からくる光を深く考えさせる機会を提供してくださいます」と語られた。

 説教の初めに、教皇は、三位一体の奥義は「私たちの心に語りかける限りなく大きな神秘ー私たちの理解力を超えているが、私たちの心に語りける神秘ーです」とされ、その神秘は、「聖ヨハネが神の啓示のすべてを『神は愛』の一言で表したことの中に、それは込められています」とされたうえで、「神が愛であり、唯一無二の存在である限り、父と子と聖霊の間にも交わりがあるのです」と説かれた。

 

*団結の絆

 そして、「子をもたらすことで自分自身を与えるのは父。そして、自分自身を父に与えるのは子。その互いの愛が聖霊であり、一致の絆です」とされ、「この三位一体の奥義は、イエスご自身によって明らかにされました… 神の顔を、憐れみ深い父として示されました。真の人間であるご自身を、神の子であり、父の言葉であると表現されました」と説かれた。

 また、教皇は、「イエスは父と子から発する真実の霊、パラクレートスー私たちを慰め、弁護してくださる方、について話されました」と述べられた。

*愛と光の奥義

 教皇は続けて、「聖三位一体の祝日は、私たちの出発点であり、地上の旅の目的地である、この素晴らしい愛と光の奥義を深く考える機会となります」と語られ、福音宣教とあらゆる形のキリスト教徒の使命を考える際に、「イエスが示された『一致』を無視することはできません」とされ、「福音の素晴らしさは、互いに大きな違いを持つ私たちが、調和の中で生き、証しするように求めているのです」と強調された。

 そして、「この一致は、キリスト教徒にとって欠かすことができません。一致は、態度や言葉ではありません。一致は、唯一の生き方であり、愛、神の慈しみ、イエス・キリストの義認、そして私たちの心の中の聖霊の存在から生まれるがゆえに、欠かせないのです」と訴えられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年5月30日

◎教皇連続講話「祈りについて」㉘「あなたの祈りは聴かれている、諦めるな」

Pope Francis during his weekly General Audience (file photo)Pope Francis during his weekly General Audience (file photo)  (Vatican Media)

 さらに、「使徒パウロは、『祈りで何を願うのかいいかさえ知らない』ことを私たちに思い起こさせます」とされ、私たちが祈る時、知っていることは『私たちは謙虚になる必要がある。そうすることで、私たちの言葉は、祈りとなり、神が嫌われる無駄話でなくなるのです」と説かれた。

 そして、誠実な祈りをもって祈る時、神の国に伝える事を願う時、母が病気の子どものために祈る時、「どうして、神が聴いてくださらない、と思われることが時としてあるのでしょうか?」と信徒たちに問われ、「この問いに答えるために、私たちは福音書で静かに瞑想する必要があります。福音書で語られるイエスの生涯は祈りに満ちており、そのすべては、苦難に染められた祈りです。『私を憐れんでください』と切に願う、測り知れないほど大きな聖なる歌です」と語られた。

 

*イエスの答えは・・

 また、教皇は「イエスの答えは、時として、すぐに返ってきますが、遅れることも、ままあります。時と場合によって、問いかけへの答えがすぐにされないこともあるのです」とも指摘された。

 講話の最後に、教皇は、「イエスのゲッセマネでの(注:『できることなら、受難の杯を私から過ぎ去らせてください、』という)父への祈りも、聴いていただけないように見えるかも知れません。子は受難の杯を飲み干さねばならなかったからです」とされたうえで、次のように締めくくられた。

 「しかし、(注:イエスが十字架上で処刑され、墓に入れられた)聖土曜日が、イエスの生涯の最後の章ではありません。亡くなられて三日目に復活されるからです。悪は、二日目の支配者ですが、それが決して最後にはなりません。それは、『最後』が神のみのもの、すべてに人の救いの願いが満たされるであろう日だからです」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年5月26日

☩教皇「”共通の家”を守る戦い続ける」ー「ラウダー・ト・シ」行動計画実施

Children play near wind turbines 

  環境回勅「ラウダー・ト・シ」特別年は24日に終了したが、カトリック教会としての地球環境を守る取り組みは続くーバチカンの人間開発省が25日、「ラウダー・ト・シ」新行動計画をスタートさせ、これを受けて教皇フランシスコがビデオ・メッセージを出され、「特別年は終わっても、私たちの”共通の家”を守る戦いは続ける」と言明された。

(2021.5.25 バチカン放送)回勅「ラウダート・シ」の精神を歩むプロジェクト「ラウダート・シ・アクション・プラットフォーム」発足

 教皇フランシスコは、統合的エコロジーをテーマにした回勅「ラウダート・シ」が示す目標に向かって歩むための7年間のプロジェクト、「ラウダート・シ・アクション・プラットフォーム」の発足を、5月25日、ビデオメッセージを通し発表された。

 昨年2020年5月24日、教皇は、発表から5年を迎えた回勅「ラウダート・シ」についての考察を深める、「ラウダート・シ特別年」を始められ、24日に終了したのに続き、同回勅の精神に沿った歩みの継続を願い、教皇庁人間開発省が企画するこの新しいプロジェクトを認可された。

 教皇はビデオメッセージで、終了した「ラウダート・シ特別年」に協力・参加したすべての人々に感謝を表すと共に、この特別年をきっかけに生まれたプロジェクト「ラウダート・シ・アクション・プラットフォーム」を紹介。「このプロジェクトは、統合的エコロジーの精神のもとに、私たちが生活する共同体が完全に持続可能なものとなるよう、様々な形で取り組む、7年間の歩みとなります」と説明された。

 「より受容性・兄弟愛・平和・持続性のある世界のために」、このプロジェクトにおいて歩みを共にするよう、教皇はすべての人を招きつつ、特に「家族」「小教区と教区」「学校と大学」「病院」「農業」「組織や活動団体」「修道会」の、これら7つのカテゴリーに参加を呼びかけられた。

 そして、教皇は、この7年間を導くための、回勅「ラウダート・シ」から採った7つの目標として、「地球の叫びに対する答え」「貧しい人の叫びへの答え」「エコロジー的経済」「シンプルな生活様式の導入」「エコロジー教育」「エコロジー的霊性」「共同体的取り組み」を挙げられた。

 教皇は、「私たちの地球がその本来の美しさを取り戻し、被造物が神の御計画のもとに再び輝けるよう、皆がそれぞれの文化と経験、各自の率先した行動や能力を通し協力」することへの期待を表明された。

(編集「カトリック・あい」)

2021年5月25日

☩「聖霊の導きの中で、中国の信徒たちに祈りをもって寄り添おう」ー中国の「扶助者聖母の祝日」に

教皇フランシスコ 2021年5月23日(日)の正午の祈り教皇フランシスコ 2021年5月23日(日)の正午の祈り  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは23日、聖霊降臨の主日の正午の祈りをバチカンの広場の信者と共にささげられ、その中で、世界の全ての教会、信徒に、翌24日に「キリスト信者の助けなる聖母(扶助者聖母)」を祝う中国のカトリック信徒たちに熱心な祈りをもって寄り添うよう、次のように呼びかけられた。

**********

  5月24日に、中国のカトリック信者たちは、彼らの偉大な国の天の保護者「キリスト信者の助けなる聖母」の祝日を記念します。

 主の母、教会の母であるマリアは、とりわけ上海の佘山(シェシャン)の巡礼聖堂で崇敬を集め、キリスト教の信者の家族たちが日々の試練や望みの中で絶えず祈りをささげています。キリスト者の家族や共同体が愛と信仰においてますます一致することは、なんと良いことであり、また必要なことでしょう。こうして、両親と子どもたち、祖父母と孫たち、司牧者と信者たちは、あの聖霊降臨の日、聖霊を待ちながら、聖母と一緒に心を一つにして祈っていた最初の弟子たちの模範に従うことができるでしょう。

 このようなことから、私たちの親愛なる兄弟姉妹であり、私の心の奥深くを占めている中国のキリスト教徒たちに、熱心な祈りをもって寄り添ってくださるよう、皆さんにお願いしたいと思います。中国の信者たちが、福音を告げる者、善と慈愛の証し人、彼らの祖国における正義と平和の構築者となれるよう、この世における教会のミッションの主役である聖霊が、彼らを導き、助けてくださいますように。

・・・・・・・・・・・・・・・

(カトリック・あい)

 だが、このような教皇の思い、祈りが、中国のカトリック信徒たち、とくに中国政府・共産党への服従を拒み、その弾圧を受け続けている”地下教会”の信徒たちにどこまで届くのだろうか。

 少なくとも、あらゆるバチカン(そして、この「カトリック・あい」も含むカトリック系メディア)の情報から遮断されているに違いない彼らが、この教皇のメッセージを受け取ることは、考えられない。カトリック信徒に限らず、中国において、宗教弾圧に苦しむ、プロテスタント、仏教、イスラム教の信徒たちを守ってくださるよう、抑圧から解放されるよう、そして信教の自由が確保されるよう、主に祈る。

 

2021年5月24日

☩「”パラクレートス”である聖霊に心を開こう」ー教皇「聖霊降臨」ミサで

Pope Francis delivers his homily during Mass for the Solemnity of PentecostPope Francis delivers his homily during Mass for the Solemnity of Pentecost  (Vatican Media)

(2021.5.23  Vatican News staff writer)

 教皇フランシスコは23日、聖ペトロ大聖堂で聖霊降臨の祝日のミサを捧げられ、説教で、聖霊ー究極の贈り物、贈り物の中の贈り物、神の愛そのものである聖霊をあなたがたに送る、というイエスの弟子たちへの約束を考察された。

 説教で教皇はまず、イエスが弟子たちに聖霊について説明するために使われた「 Paraclete(パラクレートス)」という謎めいた、翻訳することが難しい言葉の意味について、「この言葉には、『慰める方』と『守り支えてくださる方』という二つの極めて重要な意味があります」と指摘された。

*「慰める方」としてのパラクレートス

 一つ目の意味、「慰める方」について教皇は、「困難な時、私たちは慰めを求めますが、多くの場合、求めているのは世俗的な救いであり、長続きしません。それは、一時の効果しかない”鎮痛剤”に過ぎず、痛みを抑えることは出来ても、私たちを癒やしてはくれない」。だが、「私たちが愛されていると感じさせる者」は私たちの心に、感じる形で平和を届けてくれる、「その方、聖霊ー神の愛ーが解答です。聖霊は、私たちの心の中に働き、私たちに寄り添い、そして、私たちの『慰めの源』なのです」と説かれた。

 そして、教皇は、人生における闇、痛み、孤独に立ち向かう方法として、「聖霊に心を開く」よう、すべての信徒に促された。また、「物事がうまくいっている時、世の人々は私たちを賞賛しますが、うまくいかない時は、非難します。しかし、使徒たちの経験は、私たちに希望を与えます」とされ、「使徒たちは恐れを抱き、弱く、失敗をしましたが、聖霊を受けて、まったく変わりました。弱さや抱えた問題は消えませんでしたが、自分たちに敵対する人々を恐れなくなりました… 神の慰め、そして支えを内面で感じ、それを分かち合い、自分たちが受けた愛を証しようとしました」と指摘。

 「今日、私たちもまた、現代の世界で、聖霊において証しし、パラクレートス、慰める者となるように、聖霊がもたらす慰めを体現するように、求められているのです。立派な言葉だけでなく、祈りと親密さを通し、他の人々に身を寄せることで、それが可能になります」と強調され、「私たちは、誤ったことについて声を上げるだけでなく、積極的に、進んで福音を宣べ伝え、神の愛を世界にもたらし、憐れみの心を証しせねばなりません」と訴えられた。 

*「守り支えてくださる方」としてのパラクレートス

  二つ目の意味、「守り支えてくださるか」について、教皇は、「聖霊は『真理の霊』として、思考や感情を鼓舞することで、私たちを悪の欺瞞から守ってくれださいます。ただし、聖霊は”提案”はされますが、“押し付け”はされません」とする一方、「欺瞞の霊ー邪悪な霊ーは、誘惑に屈するように私たちをそそのかします」とされたうえで、これに対処するための”解毒剤”として三つ挙げられた。

 その一つは、「今を生きる」ように、過去の失敗に縛られたり、未来への恐れで凍り付いたりしないように、と聖霊が私たちに忠告してくださること。「善を行ない、私たちの人生を”贈り物”とするために、今よりも良い時はありません」と教皇は語られた。

 聖霊はまた、私たちに「全体に目を向ける」こと、自分自身を超えて考えること、幅広いカリスマを備えた教会として考えること、そして「画一的でない一致」を追求すること、を求めておられる。

 「聖霊は働かれ、教会共同体に新しさをもたらされます。使徒たちは、皆、さまざまな考え、ビジョン、賜物を持った非常に異なる人々ですが、いったん、聖霊を受けると、神のご計画のすべてを優先するようになりました。私たちも、聖霊に耳を傾けるなら、自分たちの違いを超えて、『一致し、協調し、多様性の中で調和するように」との呼びかけを受け入れることができるのです」と教皇は説かれた。

 最後に教皇は、「聖霊は、私たちに、神に謙虚さをもって心を開くように、自分自身の前に神を置くように、求められておられます」とされ、「聖霊は、恵みが最重要であることを認めておられすので、私たちは、主の居場所を用意するために、心に空間を作らねばなりません。そうすることによってのみ、私たちが自分自身を見つけ、聖霊において豊かになるのです。そしてこれは、教会にも当てはまりますー私たちは自分自身の考えや計画に迷うべきではなく、いつも顔を上げること、教会は『人間の組織』ではなく『聖霊の神殿』であることを心に留めておいてください」と強調された。

 説教の締めくくりに教皇は、「私たちの『守り支えてくださる方』、魂の優しい『相談相手』である方が、私たちを、神の「今日」の証人、教会と人類の一致の預言者としてくださいますように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年5月23日

☩「聖霊降臨前夜、聖地の平和を共に祈願しよう」教皇が祈り呼びかけ

エルサレムの訪問教会エルサレムの訪問教会 

 教皇は同日、バチカン宮殿で、シンガポール、ジンバブエ、バングラディシュ、アルジェリア、スリランカ、バルバドス、スウェーデン、フィンランド、ネパールの9か国の新大使から信任状を受けられたが、この席では、武力衝突が続いていた聖地で停戦が合意されたことを神に感謝され、これを機に、イスラエル、パレスチナ両当事者が対話と平和の道を開くことを願われるとともに、新任の各国大使たちにも協力を期待された。

 また、この場で、23日の聖霊降臨の祝日の前夜、エルサレムの聖ステファノ教会で、聖地の司教が信者たちと共に、平和の賜物を祈願することを明らかにし、全世界の教会の司牧者と信徒もこの祈りに一致して欲しい、と希望され、「イスラエルとパレスチナの人々が、対話と互いを赦す道を見出し、共通の希望と兄弟間の共存に向かって、一歩一歩自らを開きながら、平和と正義の忍耐強い構築者となることができますように」と、聖霊に祈り求めるよう、すべての教会共同体に呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年5月22日

◎教皇連続講話「祈りについて」-「祈りが直面する三つの困難に打ち勝つ」

(2021.5.19 Vatican News Christopher Wells)

 

    教皇フランシスコは19日、水曜恒例の一般謁見で「祈りについて」の連続講話を続けられた。

 まず、「私たちは祈りの中で直面する困難に打ち勝つために、私たちは精励せねばなりません」とされ、しばしば経験する困難には、注意散漫、乾燥・不毛の感覚、そして無感動・無気力の三つがある、と語られた。

*注意散漫

 「注意散漫」について、「祈りの中だけでなく、すべての場面で私たちがよく経験すること」と述べられた教皇は、「人の心は、一つのことに集中し続けることが難しい。私たちは皆、心象と幻影が常に渦巻くのを経験していますー眠っている時にさえも、です」とされた。

 そして、「注意散漫そのものは罪深いものではないが、それでも、私たちはそれと戦わねばなりません。そのために、忍耐力という福音の徳を受け入れる必要がある。私たちはイエスがおいでになる日や時を知らないので、注意を怠らず、神経を集中し、目の前の課題に気を配る必要があります」と語られた。

 

*乾燥・不毛

 祈りにおける「不毛、あるいは乾燥」について、教皇は「祈りが役に立たないように見え、喜びや熱意が刺激されない状態ーは、『注意散漫』と異なり、いつも私たちの内から生じるとは限りません。神ご自身が、私たちにこの霊的な乾きを体験させてくださることがあります」とされ、「そのようなとき、私たちは『純粋な信仰』に頼らねばなりません」と指摘された。

*無感動・無気力

 「怠惰」とも言える「無感動・無気力」は、「祈りに対する真の誘惑であり、より広くは、キリスト教徒の生活における誘惑」と言われた教皇は、「カトリック教会のカテキズム」を引用して、これは「気の緩み、警戒心の減少、そして心の無頓着さなどからくる、一種の精神的落ち込みの状態」(2733項)と説明。七つの大罪の一つとして、それは「うぬぼれによって煽られ、魂の死につながる可能性があります」と警告された。

*祈りの不屈の努力

 以上を踏まえて、教皇は、 祈りのおける「熱烈と意気消沈の連続」に対して、「不屈の努力をもって、歩き続けるように」と信徒たちに呼びかけた。 また、「聖徒は皆、この『闇の谷』を通り抜けました。私たちは、彼らの祈りー無気力な、味気ない生活での祈りーとの苦闘を聞いて、嫌悪感を抱いてはなりません」と語られ、「私たちはそのようなときにも、変わることなく祈り続けることを学ばねばならない。神を信じる者は、祈ることを決して止めないのです!」と強調された。

 そして最後に教皇は「(旧約聖書に登場する)ヨブのように、たとえ私たちが神に不平を言い、抗議したとしても、この荒廃した時の終わりに、神は答えてくださることを、私たちは知っています。 神は、私たちの酷く不快な、苦々しい言葉さえも、父の愛をもって抱き集められ、それを信仰から出た行為、祈りとして受け止めてくださるのです」と講話を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2021年5月19日