☩「日々の暮らしの中に、隠れた神の働きを知る」教皇、13日正午の祈りで

Angelus 2021.06.06 Angelus 2021.06.06   (Vatican Media)

(2021.6.13  Vatican News staff writer )

   教皇フランシスコは13日、年間第11主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたマルコ福音書の箇所(4章26-32節)を取り上げ、「ここでイエスがお話しになっている二つの例え話は、神の神秘と人間の出来事がどのように展開するかについて語り、時には単調に、あるいは難しく思われるかも知れない私たちの日々の暮らしの中に、いつも『神が隠れておられる』ことを私たちに教えています」とされた。

 そして、「私たちには、すべてのことの中に隠れておられる神を探し求め、見つけるために、”注意深い目”が必要なのです」と説かれた。

*私たちの暮らしの中に働いておられる神

 たとえ話の二つ目「からし種の例え」で、イエスは、神の王国ーすべてのものの中心におられるご自分がおられる王国ーを、地に蒔くと大きな木に育つ小さなからし種に例えておられる。

 「この例えは、私たちの生活と世界の中で、神がどのように働いておられるか、を示しています。問題は、日々の忙しい生活が、時として、その現実を見るのを妨げること。でも、神は、小さな種ーひっそり、ゆっくりと芽を出し、全ての人に命と安らぎを与える青々とした大きな木に育つ種ーのように働かれます」と教皇は語られた。

 そして、このような神の”種”と比べれば、「私たちの善い働きの種は小さく見えるかも知れませんが、その働きの全ては、神にとって良いもの。善は、いつも謙虚で、隠れた、しばしば目に見えない形で成長するのです」とされた。

*コロナ禍から立ち直る力は「隠れた神」への確信に

さらに教皇は、「この例え話は、私たちに自信を与えてくれるはずです」と語られた。

 「私たちは人生で何度も、『善は弱く、悪が”最後の言葉”を持っている』と考え、落胆するかも知れない。懸命に働いても、期待したような結果や変化がもたらされないかも知れない。それでも、私たちは、様々な疑惑に打ち負かされてはなりません。福音は、謙虚な愛をいつも私たちの生活の”土”、歴史の”土”の中に働かせておられる神の存在を見ることのできる、大きく開いた目で、外見に惑わされることなく、自分自身と現実に注視するように、私たちに呼びかけているのです」と述べられた。

 そして、「この確信をもって、私たちは、日々、前進し、忍耐強く、実を結ぶであろう善の種を蒔く力を得る。そうした姿勢が、新型コロナウイルスの世界的大感染の打撃から立ち直るために必要です。社会を再建し、忍耐と不屈の努力をもって再度、歩み始めるための、『神の手の中にあるのだ』という確信です」と説かれた。

*教会の中にさえある”疑惑の雑草”に注意を

 また教皇は、「私たちが注意する必要があるのは、信仰の危機、うまくいかないように思われる様々な計画や活動とともに、カトリック教会の中にさえも存在する”疑惑の雑草”です」と警告する一方、「ここでの助けは、種まきの結果は、私たちではなく、神の働きに依る、だから、私たちに必要なのは、愛と献身と忍耐をもって、種をまくこと」とされた。

 さらに、「種の力は神から授かったもの。今日のミサで読まれた福音書のもう一つのたとえ話は、『畑に種を蒔いた農夫が、自分が知らぬ間に種が芽を出し、成長していったことに驚いている』というものですが、これは『どんなに不毛の土地であっても、常に希望がある』ということを教えているのです」と指摘。

 教皇は説教の終わりに、聖母マリアに、「ささいなことの中に働かれる神の偉大さを知るように、私たちに教えてください。主に信頼し、希望を持ち続けることができるように助けてください」と願われた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2021年6月13日